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県南エリア

  • 第4回 世界遺産候補を巡る旅 長崎市街&島原編 2007年05月16日
    第4回 世界遺産候補を巡る旅 長崎市街&島原編
    殉教、そしてキリスト教信仰の復活した時代を読み解く  「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産の候補となりました。長崎におけるキリスト教の歴史は、伝来、繁栄、禁教、弾圧のあと、長い潜伏を経て奇跡の復活を遂げ、その後各地に教会が建てられ、いまに続いています。この世界宗教史上まれにみる激動の歴史と、厳しい迫害の中で何代にもわたって受け継がれてきた篤い信仰の姿を、いまもなお現存する教会や史跡の数々が物語っています。現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」には、県内各地に残るキリシタンの歴史を物語る文化遺産のなかでも、代表的な史跡や教会が構成資産として、県内20箇所がピックアップされています。  このウェブサイト「旅する長崎学<<たびなが>>」では、この20箇所を「平戸&外海編」「長崎市街&島原編」「五島編」と、3編に分けてご紹介します。長崎のキリシタンの歴史を旅してそのすばらしさと価値を体感すると、これらの“長崎のたからもの”をずっと大切にして、世界中の人にも知ってほしいと思わずにはいられません。今回は、「長崎市街&島原編」です。このエリアに点在する貴重な教会と遺産を旅してきました。教会は祈りの場所ですから、マナーを守って見学させていただきましょう。 歴史のとびら  長崎におけるキリスト教の歴史は、1550年、平戸に来航したフランシスコ・ザビエルの布教にはじまります。海外からやってきた宣教師たちの熱心な宣教活動と、南蛮貿易の利を得たい領主たちの思惑もはたらいて、キリシタンの数は増え続けますが、一転して受難の時代を迎えることになります。禁教下での弾圧による迫害、そして殉教・・・。1644年には日本国内にはひとりの神父もいなくなってしまいますが、キリシタンたちは先祖から伝えられた伝承やマリア信仰を心のよりどころに、潜伏しながらその教えを守り続けるのです。こうして受け継がれた篤い信仰は、約250年もの長い潜伏の時を経て、1865年、大浦天主堂を舞台に起こった「信徒発見」とよばれる信仰表明の感動的な瞬間へとつながり、日本キリシタンの復活は世界中に感動と衝撃を与えました。こののち、信仰の証として信徒たちの手によって建てられた教会は、まさに復活のシンボル的な存在となったことでしょう。長崎の自然環境とみごとに調和した幻想的で厳かな空間はもちろん、西洋と日本の技術が折り込まれた美しく独創的な意匠は、訪れる人々を魅了します。これらの遺産は450年以上もの歴史が育んだ結晶なのです。  現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産としてピックアップされているのは20資産。そのうち教会が12件、キリスト教関連遺産は史跡など8件となっています。この長崎の“たから”を、次の世代へと大切に受け継ぎたい。2007年、長崎県は世界遺産の登録へ向けての大きな一歩を踏み出しました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1泊2日 1日本二十六聖人殉教地 ↓車で約5分 or 徒歩で約20分 2サント・ドミンゴ教会跡 ↓車で約15分or 徒歩で約40分 3大浦天主堂 ↓同じ敷地内で、隣の建物。 4旧羅典神学校 ↓車で約2時間 (長崎で宿泊。朝、車で出発!) 5原城跡 ↓車で約10分 6日野江城跡 ↓車で約7分 7吉利支丹墓碑 1日本二十六聖人殉教地 26人の十字架上での殉教、聖なる西坂の丘  長崎駅から歩いてすぐ、浦上街道のスタート地点に二十六聖人が殉教した丘があります。 豊臣秀吉の命によって、京都や大坂で捕らえられた24名の宣教師やキリシタンたちは、見せしめのために長崎までの道を裸足で歩かされました。道中2人が加わり、26人は処刑地の長崎へ。キリシタンの町として栄えていた長崎に住む人々への、秀吉からの警告だったのでしょう。  1597年2月5日、港と町が見える丘に26本の十字架が一列に並び、約4000人の群衆が見守るなか、聖歌や涙ぐむ声に囲まれて、26人は殉教の死を遂げました。十字架の穴の跡に、そっと花の苗が植えられ真っ赤な椿が咲いたそうです。  西坂の丘は「聖なる丘」「殉教者の丘」と呼ばれるようになり、1862年、この26人は聖人に列せられました。 ◎この「ながさき歴史散歩」では、後日「二十六聖人が歩いた浦上街道」を企画していますので、お楽しみに! 旅人コメント 「この記念碑の裏手には、殉教の歴史がわかる日本二十六聖人記念館があります。ちょっと隠れていて見えないけど寄ってみて!」(テツヲ) 「祈念碑の26人を順に見ていくと、小さな子どもがいるのに気づきました。ルドビコ茨木という12歳の少年でした。」(みき) 2サント・ドミンゴ教会跡 小ローマの面影を訪ねて−ホントに教会があったんだ!  国道34号沿い、桜町小学校の校門の前にある教会跡の碑を見つけてください。向かって右側へグルリと回り、小学校の横道を通って歩くとサント・ドミンゴ教会跡資料館の入口があります。  一歩入って驚きました。土の匂いがします! ここは17世紀のはじめにドミニコ会の教会があった場所。2002年の発掘調査で発見された教会遺跡が、発掘現場そのままに保存されています。大量に出土した花十字紋瓦も必見です。  桜町小学校から長崎県庁にかけての通り沿い(いまは国道で県庁・市役所や会社の事務所が並ぶオフィス街)をはじめ、この付近一帯にはその昔にはズラリと教会が建ち並び、さながら小ローマのようだったそうです。 3大浦天主堂 居留地に建つ、フランス寺と呼ばれた教会。  日本に現存する最古の教会で国宝に指定されており、長崎のイメージを代表するものとしてあまりに有名です。この大浦天主堂は、実は、今回最初に訪れた二十六聖人殉教地とゆかりがあります。江戸末期、安政の開国後に再布教のため訪れたパリ外国宣教会の神父によって、26人に捧げて建てられた「日本二十六聖殉教者天主堂」なのです。二十六聖人殉教地と大浦天主堂はほぼ南北軸線上にあって、昔はどちらの場所に立ってもお互いの建物がよく見えていたそうです。今ではビルが建ち並んで見えないのが残念。 そして、この大浦天主堂は、世界宗教史上の奇跡といわれる「信徒発見」の舞台。教会の中に入ったら右側の奥まで進んでみてください。浦上の潜伏キリシタンとプチジャン神父が奇跡的な出会いをし、「サンタ・マリアのご像はどこ?」と信仰表明のきっかけとなったマリア様が安置されています。 旅人コメント 「大浦天主堂と旧羅典神学校の間の、レンガ塀とゆるやかな石畳がとても好きなんです。ヨーロッパの路地裏みたいでしょ!」(椿) 4旧羅典神学校(長崎公教神学校) 「日本人の手で教会の自立を!」プチジャン神父の熱い教育  大浦天主堂で静かな時を過ごした後、天主堂の出入口をそのまま左へ。テラス付きの二階建ての建物が、司祭を目指す少年たちの学び舎「神学校」でした。 この学校から開国後はじめての日本人司祭を輩出しました。講義が全てラテン語でおこなわれたので、羅典神学校と呼ばれました。この建物は現在、 キリシタン資料室になっていています。 旅人コメント 「建物に入って資料を展示してある各部屋の入口には、「自習室」とか「図書室」という立て札がありました。なんか懐かしい!」(ヒロ) 5原城跡 天草四郎とともに散った一揆軍、「島原の乱」の舞台  島原の乱のとき、天草四郎率いる一揆軍が籠城したのがこの原城です。現地を訪れて、まずビックリしたのが城郭の広さ。実際にどのくらいだと思います? 周囲4キロメートルですよ! 一揆軍の数は約3万7000人ともいわれますから、確かにこれくらいの大きさは必要かなと納得しつつも、やはり驚きでした。  海に面した断崖にある、天然の要害「原城」。有明海を眺めながら、ゆっくりと本丸へ向かいました。目の前の天草灘の沖合いの風景に、しばし当時へと思いを馳せる。一揆軍の首謀者たちが蜂起の話し合いをしたという談合島(湯島)、幕府の援軍として参戦したオランダ船2隻の砲撃・・・。本丸には、りりしい天草四郎の像がありました。原城跡では、近年になって発掘調査がおこなわれており、検出した遺構や出土した遺物は「原城」の姿を明らかにするとともに、「島原の乱」を考察するうえでも貴重な手がかりとなっています。  車で5分ほど走ったところにある原城文化センターには、発掘で出土した十字架やメダイ、石垣のレプリカなどが展示してあるので、時間があったら寄ってみて! 旅人コメント 「海の向こうに見える天草の方角を向いた小さなお地蔵さまが並んでいました。」(マーチン) 6日野江城跡 有馬氏の居城と、キリシタン文化で栄華を極めた有馬の町  戦国時代の武将でキリシタン大名だった有馬氏の居城。階段を登っていくと、平に開けた場所にでました。眼下には畑が広がる有馬の町、その先には原城が一望でき、天草灘も見渡せます。有馬氏は、島原全体を領土に持つくらい勢力をもっていた領主。  城下には教会が建ち、セミナリヨなどのキリシタン学校もありました。当時の有馬は、西洋の音楽が流れるキリシタン文化が華開いたまちでした。小ローマといわれた時代の長崎と肩を並べるほどの繁栄ぶりだったそうです。 旅人コメント 「日野江城から、島原の乱の前に島原と天草の人たちが話し合いをした湯島が見えました!このことから別名「談合島」とよばれているんです。映像もクリックしてみてね。」(カメラマン) 7吉利支丹墓碑 花十字紋とローマ字が刻まれた、カマボコ型のキリシタンの墓  共同墓地の中で周囲のお墓より高い白い十字架を目指して歩いてください。見つけました! ガラス張りの小屋の中にありました。カマボコ型のお墓は、ポルトガルから伝来したローマ式。墓石の表面には「フィリ作右衛門ディオゴ」とポルトガル式のローマ字綴りで刻まれています。このローマ字は日本最古の碑文だそうです。作右衛門さんが没した年の1610年は、サント・ドミンゴ教会が建った翌年にあたります。断面が2重に縁取られていてホントにカマボコのようです。有馬でキリシタン文化が華開いた時代、年数が西暦で刻まれているのも不思議ではないのですね。 参考文献 『旅する長崎学1 キリシタン文化1』 特集2 宣教師たち長崎で動く! ザビエルの遺志を継いだ人々 特集4 「小ローマ長崎」と消えた教会 『旅する長崎学2 キリシタン文化2』 特集3 セミナリヨで咲いたキリシタン文化の華 『旅する長崎学3 キリシタン文化3』 巻頭特集 秀吉はなぜ26人のキリシタンを処刑したのか 特集3 幕府をゆるがせた123日-島原の乱 『旅する長崎学4 キリシタン文化4』 巻頭特集 「サンタ・マリアの御像はどこ?」 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 巻頭特集 開国日本 キリスト教再来 第一歩は長崎から 特集2 宣教師が尽くした日本の教育事業 特集3 キリシタンの夢 日本人のために天主堂が建つ 長崎県の文化財 長崎から世界遺産を「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」 スタート地点までのアクセス 日本二十六聖人殉教地 所在 長崎県長崎市西坂町7-8 お問い合わせ 日本二十六聖人記念館 TEL/095-822-6000 開館時間 9:00〜17:00 休館日 年末年始 アクセス 徒歩…JR長崎駅より徒歩5分。 路面電車…〔長崎駅前〕下車。徒歩5分。 バス…〔長崎駅前〕下車。徒歩5分。 ● JR長崎駅までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。 Webサイト http://www.26martyrs.com/
  • 第9回 龍馬が駆け抜けた長崎 その2 2010年02月10日
    第9回 龍馬が駆け抜けた長崎 その2
     今回も、前回に引き続き、坂本龍馬ゆかりの地の特集です! 好評放送中の『龍馬伝』でますます注目度アップの坂本龍馬。激動の幕末を生きた龍馬の夢は、長崎抜きには語れません。彼が残した足跡をたどりながら、幕末長崎の面影を訪ねる第2回目です。  ながさき龍馬くん、今回もよろしくね。  長崎駅付近の臨時駐車場に車を止めて、さあ出発。 ※ランタンフェスティバル※ 平成22年2月14日(日)〜2月28日(日) 「臨時駐車場から中央橋付近までの行き方と料金」 ●無料シャトルバス 土日祝日ランタンフェスティバル期間中運行 ●らんらんバス バス停「長崎駅前」で乗車し、「浜の町(S東美前)」で下車。徒歩約1分で中央橋。1回100円(小人50円) ●路面電車 電停「長崎駅前」で乗車し、「西浜町」で下車。徒歩約2分で中央橋。1回120円(小人60円) 散策コース&マップ ↓中央橋から歩いてすぐ 土佐商会跡 ↓歩いて約5分  長崎まちなか龍馬館 ↓歩いて約1分 清風亭(せいふうてい)跡 ↓歩いて約5分 大浦慶居宅(おおうらけいきょたく)跡 ↓歩いて約8分 史跡料亭 花月 ↓歩いて約20分 長崎奉行所西役所跡・海軍伝習所跡・医学伝習所跡 ↓歩いて約3分 唐通事会所跡(とうつうじかいしょあと)・活版伝習所跡(かっぱんでんしゅうじょあと) ↓歩いて約3分 小曽根邸跡 ↓歩いて約3分 新町活版印刷所跡 スポットの紹介 土佐商会跡   土佐藩は、1866年(慶応2)に藩の経済活動を盛んにするため、この地に土佐商会を設置しました。  土佐商会は、藩の産物を売り、西洋の武器を購入しました。岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が主任として駐在し、龍馬の海援隊もここを拠点として活動した時期がありました。明治に入ると、弥太郎は海援隊と藩の海運事業を引き継いで、経営者として一本立ちし、のちの三菱財閥を築きます。 長崎まちなか龍馬館  今回の龍馬ブームにのって、「長崎龍馬の道」と名付けられた道が誕生!“長崎くんち”で有名な「諏訪神社」から「グラバー園」までの約3キロに及ぶ道です。龍馬ゆかりの地などを中心に45の史跡がこの道の周辺に点在しています。この道のちょうど真ん中あたりに位置するのが、ここ「長崎まちなか龍馬館」です。  「長崎まちなか龍馬館」は、2010年(平成22)1月2日にオープンしたばかりの情報センターです。  まずは、「長崎龍馬の道」のコンセプトとイメージが、9メートルのワイドスクリーンで上映されます。道に沿って点在するスポットや名物のほか、龍馬を取り巻く人物や当時の風景(古写真)などについて、パネルやタペストリーを使ってわかりやすく紹介しています。亀山社中から望む風景を再現した空間、清風亭(せいふうてい)で使用されていた吸物膳や蒔絵五段重などの調達品の展示、岩崎弥太郎と長崎・三菱造船の歴史の紹介コーナーなども見どころです。 龍馬にまつわる長崎市のまち歩きを楽しむためのいろいろな情報が集まっていますので、この施設をスタートに歴史探訪に出かけるのもいいですね。龍馬に関するグッズやお土産も充実しています。 顔を出して記念撮影! ■入館料 一般 300円(15名以上の団体の場合 400円) 高校生 200円(15名以上の団体の場合 160円) 小中学生 150円(15名以上の団体の場合 120円) ■開館時間 10:00〜20:00(入館は閉館時間の30分前まで) 2010年1月2日(土)〜2011年2月28日(月)の期間限定 上記期間中は、年中無休 清風亭(せいふうてい)跡  1867年(慶応3)、龍馬と土佐藩の後藤象二郎との会談がおこなわれ、日本回天の舞台ともなった料亭の跡です。この会談をきっかけに船中八策提案がつくられることになり、大政奉還、そして明治維新へと時代は流れました。  これまで清風亭がどこにあったのかわかりませんでしたが、2009年(平成21)、現代龍馬学会会員の加藤貴行氏らの調査によりその場所が特定されました。現在は駐車場になっているので面影はなく、場所もわかりづらいのですが、「長崎まちなか龍馬館」の近くです。 大浦慶居宅(おおうらけいきょたく)跡  大浦慶は、油屋の老舗に生まれました。女性の起業家として注目すべき人物で、当時は誰もおこなっていなかった日本茶の輸出事業を興します。九州各地の茶の産地の生産拡大をはかり、1856年(安政3)、イギリス商人・オルトとの間で1万斤(6トン)の貿易に成功すると、以後日本茶を海外に輸出して莫大な利益を得ました。外国人商人からも、「信用できる日本人」という評判だったそうです。彼女は、海援隊など勤王志士のスポンサーであったともいわれています。  後に、元熊本藩士・遠山一也とオルト商会との間でおこなわれた煙草の取引の連帯保証人となったことで詐欺に遭い、没落しますが、晩年に製茶貿易の功績が認められ、明治政府から功労褒賞を贈られました。 史跡料亭 花月 歴史を感じる玄関 卓袱料理イメージです  卓袱(しっぽく)料理の「卓」はテーブル、「袱」はクロスを意味します。卓袱料理は、西洋や中国の影響を受けて完成した和華蘭(和・洋・中)料理で、いかにも長崎らしい食文化。さまざまな文化を受け入れてできた長崎の格別なおもてなし料理です。  尾鰭(おひれ)と呼ばれるお吸い物に始まり、大皿に盛られた料理をみんなで楽しく分け合っていただきます。  花月でのお食事の料金はおひとり10,080円からで予約が必要です。平日のみお昼に松華堂風卓袱料理が5,200円から味わえます。  坂本龍馬や岩崎弥太郎、後藤象二郎なども訪れたという丸山の花月で卓袱料理を味わいながら、風情ある雰囲気を楽しみ、長崎の食文化を堪能するのも一興ですね。
  • 第9回 龍馬が駆け抜けた長崎 その1 2010年02月03日
    第9回 龍馬が駆け抜けた長崎 その1
     このコーナーでは、長崎県内の歴史を探っていく旅のドライブルートを紹介しています。  今回は、坂本龍馬ゆかりの地の特集です!好評放送中の『龍馬伝』でますます注目度アップの坂本龍馬。 激動の幕末を生きた龍馬の夢は、長崎抜きには語れません。今回は、彼が残した足跡をたどりながら、幕末長崎の面影を訪ねます。 長崎市の紹介 交通アクセス 臨時駐車場のご案内 今回、一緒に旅をしてくれるのは、「ながさき龍馬くん」です! 長崎県のPRのため、全国各地を駆けめぐっている人気者です。 今回のドライブルート 長崎歴史文化博物館(ながさきれきしぶんかはくぶつかん)・長崎奉行所立山役所跡(ながさきぶぎょうしょたてやまやくしょあと) ↓歩いて約5分 迎陽亭(こうようてい) ↓歩いて約1分 聖福寺(しょうふくじ) ↓歩いて約3分 福済寺(ふくさいじ) →長崎駅まで歩いて約15分 風頭公園(かざがしらこうえん) ↓歩いて約5分 亀山焼窯跡(かめやまやきかまあと) ↓歩いて約3分 若宮稲荷神社(わかみやいなりじんじゃ) ↓歩いて約1分 亀山社中資料展示場(かめやましゃちゅうしりょうてんじじょう) ↓歩いて約1分 龍馬のぶーつ像 ↓歩いて約1分 長崎市亀山社中記念館(ながさきしかめやましゃちゅうきねんかん) ↓歩いて約8分 玉川亭跡 ↓歩いて約3分 上野撮影局跡 スポットの紹介 長崎歴史文化博物館(ながさきれきしぶんかはくぶつかん)・長崎奉行所立山役所跡(ながさきぶぎょうしょたてやまやくしょあと)  鎖国政策をとった徳川幕府の時代も唯一西洋に開かれた門戸として、海外文化の受け入れに重要な役割を果たしてきた貿易都市・長崎。 長崎歴史文化博物館は、約400年にわたる長崎貿易に関する貴重な資料を収蔵し、オランダ・中国・朝鮮などとの海外交流を知ることができる博物館です。  館内には、歴史文化展示ゾーン、長崎奉行所ゾーン、企画展示室のほか、長崎歴史情報コーナー、伝統工芸体験工房、資料閲覧室、ミュージアムショップ、レストランがあります。  この地は、かつて長崎奉行所立山役所があった場所。発掘調査で発見された当時の遺構の一部も活かして奉行所が復元され、博物館に併設されています。 タイムリーな見どころは、大河ドラマ『龍馬伝』の放送に合わせて、この長崎奉行所復元部分にオープンした「長崎奉行所・龍馬伝館」です。 龍馬の人物像やドラマを紹介する展示館は、ドラマの展開に沿って途中展示替えもおこない、2011年1月10日までの期間限定。開館当初から龍馬ファン、 大河ドラマファン、福山雅治さんのファンなど多くの方々が訪れています。 " class="btn basic_btn">動画を見る 若宮稲荷神社(わかみやいなりじんじゃ)  南北朝時代に天皇に仕えた楠木正成(くすのきまさしげ)公の守護神「若宮稲荷五社大明神」が祀ってあります。亀山社中の隊士もよく参拝していたといわれており、 地元では「勤王神社」や「勤王稲荷」とも呼ばれていたそうです。  2009年(平成21)7月には、亀山社中跡にあった高さ1メートルの龍馬の銅像が若松神社の境内へ移設されています。この神社では、オリジナル龍馬御守や祈願絵馬、 開運絵馬などが販売されています。  毎年10月14日、15日に行われる例大祭で奉納される「竹ん芸(たけんげい)」は見ごたえがあります。しなる竹の上で、子狐、男狐、女狐に扮した人が芸を披露する、 伝統的なお祭りです。  若宮稲荷神社参道を下りたところで、右に振り向くと藤屋跡があります。私有地のため無断で敷地内に入ることはできませんが、 龍馬が土佐藩士・佐々木高行(ささきたかゆき)とたびたび訪れていたという西洋料理店「藤屋」があったところです。  「藤屋」は、1830年(天保元)に日本料理店として創業しましたが、1865年(慶応元)から西洋料理を手掛けたといわれています。 「福屋」や「自由亭」と並んで幕末の西洋料理店として知られています。 亀山社中資料展示場(かめやましゃちゅうしりょうてんじじょう)  「亀山社中ば活かす会」が、平成元年から亀山社中跡(現長崎市亀山社中記念館)にて、坂本龍馬をはじめ幕末の志士や長崎の風景の古写真など一般公開していたものを、 平成18年4月以降は亀山社中跡から徒歩2分ほどのところに「亀山社中資料展示場」を開館し、展示しています。  展示場の建物はもともと民家であるため、アットホームな空間です。龍馬に関してのいろんな話を聞けたり、室内の撮影もできますので、 全国の歴史ファンや坂本龍馬ファンにもたいへん好評となっています。 入館料 無料   電話番号  095-828-1454 開館時間 毎週土日、祝日の午前10:00〜12:00、13:00〜15:00 ※平成22年1月4日〜平成22年12月28日は無休(10:00〜17:00) 龍馬のぶーつ像  亀山社中創設から130年を記念し、1995年(平成7)、歴史ファンや長崎の街を愛する市民の会「亀山社中ば活かす会」が建立しました。  航輪(だりん)と大きなブーツがあります。  実際に足を入れ、舵輪を握って龍馬の気持ちになって記念写真を撮ろう!ここから見渡せる長崎の街並みを一望しながら、 龍馬の気持ちにひたってみてはいかがでしょうか。 長崎市亀山社中記念館(ながさきしかめやましゃちゅうきねんかん)  1865年(慶応元)、幕府機関である神戸海軍操練所が解散すると、龍馬が中心となって薩摩藩の資金援助を受け、 この地に社中を結成しました。これが日本初の商社といわれ、拠点とした地名“亀山”と、仲間・結社を意味する“社中”をあわせて、「亀山社中」と呼ばれたといわれています。  亀山社中には、神戸海軍操練所の出身者が多く、航海技術を生かして武器などを含む物資の運搬や貿易の仲介をおこないました。1866年(慶応2)には、 対幕府軍との下関海戦に参加し、長州藩の勝利に貢献しました。当時、反幕府の立場にあった長州藩に対し、薩摩藩名義で武器や艦船の購入を斡旋するなど、 薩長同盟へとつながる大きな役割を果たしたのです。  「長崎市亀山社中記念館」は、亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を所有されている方のご厚意により、長崎市が当時の姿により近いかたちで復元・整備し、 2009年(平成21)8月1日に開館しました。隠れ部屋などもあり、館内には龍馬にまつわる資料などが展示されています。 当時流行していた中国伝来の楽器“月琴(げっきん)”も必見です。ぜひ音色を聴いてみたいという方は、受付へ申し出ると演奏してもらえます。 その場で弾き方を教えてもらい、月琴演奏を体験することもできますよ。 入館料   一般 個人300円 団体240円   高校生 個人200円 団体160円   小・中学校  個人150円 団体120円   電話番号 : 095-823-3400   開館時間 : 9:00〜17:00   休館日 : なし   ※専用駐車場はありません 玉川亭跡  目の前に中島川が流れる料亭「玉川亭」は川魚料理で有名だったそうです。1867年(慶応3)、龍馬の斡旋によって佐々木高行と長州藩士・桂小五郎、 伊藤俊輔が面会した場所として知られています。 上野撮影局跡  中島川を渡ってそのまま川沿いに歩いて行き、長崎聖堂跡を通り過ぎたところに、日本初の商業写真館・上野撮影局の跡があります。 彦馬の父である俊之丞は、この地に別荘を構え、薬品や中島更紗などをつくっていたそうです。  彦馬は、オランダ人医師のポンペに舎密学(せいみがく・化学)を学び、それをきっかけに写真に興味をもつようになりました。 堀江鍬次郎(ほりえくわじろう)とともに写真術を研究し、1858年(安政5)、二人の共同による手製写真機で撮影に成功しました。 このときのモデルは幕府医官の松本良順で、白粉をあつくぬり、5分ほど直立不動の姿勢をとったといいます。当時、写真術に使う薬液も自分で作らなければならず、 もともと化学者であった彦馬にして可能なことだったといえます。  1862年(文久2)、彦馬はこの地に上野撮影局を開設しました。また彦馬は、西南戦争を写真報道したことでも知られています。 参考資料 『長崎旅本 慶応幕末「旅する長崎学講座」公式テキスト』(長崎県 文化振興課) 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著昌平社出版) 取材協力 長崎歴史文化博物館 長崎市亀山社中記念館 亀山社中資料展示場
  • 第3回 世界遺産候補を巡る旅 平戸&外海編 2007年05月02日
    第3回 世界遺産候補を巡る旅 平戸&外海編
    キリシタンゆかりの里を訪ねて  「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産の候補となりました。長崎におけるキリスト教の歴史は、伝来、繁栄、禁教、弾圧のあと、長い潜伏を経て奇跡の復活を遂げ、その後各地に教会が建てられ、いまに続いています。この世界宗教史上まれにみる激動の歴史と、厳しい迫害の中で何代にもわたって受け継がれてきた篤い信仰の姿を、いまもなお現存する教会や史跡の数々が物語っています。現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」には、県内各地に残るキリシタンの歴史を物語る文化遺産のなかでも、代表的な史跡や教会が構成資産として、県内20箇所がピックアップされています。  このウェブサイト「旅する長崎学<<たびなが>>」では、この20箇所を「平戸&外海編」「長崎市街&島原編」「五島編」と、3編に分けてご紹介します。長崎のキリシタンの歴史を旅してそのすばらしさと価値を体感すると、これらの“長崎のたからもの”をずっと大切にして、世界中の人にも知ってほしいと思わずにはいられません。今回は、「平戸&外海編」です。このエリアに点在する貴重な教会と遺産を旅してきました。教会は祈りの場所ですから、マナーを守って見学させていただきましょう。 歴史のとびら  長崎におけるキリスト教の歴史は、1550年、平戸に来航したフランシスコ・ザビエルの布教にはじまります。海外からやってきた宣教師たちの熱心な宣教活動と、南蛮貿易の利を得たい領主たちの思惑もはたらいて、キリシタンの数は増え続けますが、一転して受難の時代を迎えることになります。禁教下での弾圧による迫害、そして殉教・・・。1644年には日本国内にはひとりの神父もいなくなってしまいますが、キリシタンたちは先祖から伝えられた伝承やマリア信仰を心のよりどころに、潜伏しながらその教えを守り続けるのです。こうして受け継がれた篤い信仰は、約250年もの長い潜伏の時を経て、1865年、大浦天主堂を舞台に起こった「信徒発見」とよばれる信仰表明の感動的な瞬間へとつながり、日本キリシタンの復活は世界中に感動と衝撃を与えました。こののち、信仰の証として信徒たちの手によって建てられた教会は、まさに復活のシンボル的な存在となったことでしょう。長崎の自然環境とみごとに調和した幻想的で厳かな空間はもちろん、西洋と日本の技術が折り込まれた美しく独創的な意匠は、訪れる人々を魅了します。これらの遺産は450年以上もの歴史が育んだ結晶なのです。 現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産としてピックアップされているのは20資産。そのうち教会が12件、キリスト教関連遺産は史跡など8件となっています。この長崎の“たから”を、次の世代へと大切に受け継ぎたい。2007年、長崎県は世界遺産の登録へ向けての大きな一歩を踏み出しました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1泊2日 1宝亀教会 ↓車で約30分 2田平天主堂 ↓車で相浦港まで約30分+フェリーで約50分+徒歩約20分(佐世保で1泊、相浦10:00発に乗船) 3黒島天主堂 ↓相浦フェリー乗り場より車で約1時間30分 4大野教会 ↓車で約10分 or 徒歩約1時間 5ド・ロ神父遺跡 ↓徒歩約10秒 6旧出津救助院 ↓徒歩約5分 7出津教会 1宝亀教会 赤レンガと白でふちどりが印象的、マタラ神父と信者が協力して建てた教会  宝亀教会は、平戸の教会のなかでもっとも古く、側面にテラスをもつ珍しい設計。マタラ神父の指導のもと、木材や瓦を運び、白い漆喰の壁は、貝殻を拾い集めて焼いて丁寧に塗って完成させた教会。建設当初から変わらない輝きを放っているステンドグラスの美しさは格別です。信徒ひとりひとりの手で築き、大切にしてきた教会だと思うと、旅の興奮を抑えて静かに見学させてもらいました。 2田平天主堂 なにもないところからスタートした、荘厳なレンガ造りの教会  パリ外国宣教会のラゲ神父(黒島教会)とド・ロ神父(出津教会)の2人が自費で購入した田平の地に、黒島や外海の信徒たちを移住させたのが最初だったそうです。 信徒たちはなにもない土地を開墾しながら生活の基盤を整え、仮聖堂もつくりました。入植してから約30年後に、信徒総出の労働奉仕によって建てられたのが、このレンガ造りの教会です。設計は、教会建築の第一人者である鉄川与助で、彼の名作と評される教会のひとつ。  レンガの目詰めには信者たちが「ミナ」の貝殻を焼いてつくった石灰を使い、外壁部分の黒っぽいレンガは信者の家庭の鍋や釜のすすを油に混ぜて塗って色を出したと伝えられています。 信者の皆さんの手づくりのあとに、その苦労と思いを感じながら、静かに見学しましょう。 旅人コメント  「教会の前には、貝殻のミナを焼いたというレンガの囲いが残っていましたよ。忘れずに見てください」(かえで)  「先日、田平教会を訪れた時、雲の隙間からさす夕陽がとても神秘的だったので、思わずカメラを手に取り写真を撮りました。 しばらくその風景に見とれていました…。」(ケンケン) 3黒島天主堂 黒い瓦と赤レンガの教会、有田焼のタイルが聖なる祭壇を演出  佐世保の相浦からフェリーに乗って黒島へ。人口約900人が住んでいる小さなしま“黒島”に建つ教会をめざします。この教会はフランス人のペルー神父が建てた木造レンガ造りの教会です。フランスから取り寄せた鐘やステンドグラスが当時のまま残っています。祭壇には有田焼のタイルが貼られていました。タイルに映る神秘的なステンドグラスの光に、おもわず吸い込まれそうでした。 4大野教会 ヨーロッパの片田舎を思わせる、石積みの素朴であたたかな教会  大野のバス停から山手に向かってくねくねと小路を登った山間にひっそりと建っています。キリシタン禁制の高札が撤去されたとはいっても、まだキリスト教への偏見があった明治のはじめ、フランスから日本へとやってきたド・ロ神父が、私財を投じて信徒たちのために建てた教会です。ド・ロ神父独特の工法(石灰・赤土・砂を調合しモルタルとして使用)によって、信徒たちが大野岳の自然石を積み上げてつくったそうです。ローカルな建築様式だけに、絶対にほかでは見ることのできないものだから必見です。白い漆喰が塗られているところが入り口。教会の正面には、あたたかく見守ってくれるマリア像が建ち、眼下に広がる角力灘の蒼さが心を洗ってくれる・・・。そんな素晴らしい風景にも感激しました。 5ド・ロ神父遺跡(出津文化村) 外海の信徒に捧げた、ド・ロ神父の深い慈愛   外海には「出津文化村」とよばれる一角があります。ここでは、崇高なキリスト精神と不屈のフロンティア精神で社会福祉事業に貢献したド・ロ神父の功績にふれることができます。  現在はド・ロ神父記念館となっている鰯網工場跡のほか、ド・ロ神父が設計した出津教会、授産施設の旧出津救助院などを巡りましょう。貧しい村人の生活を高めるため、機械・網すき・染物・搾油・パン・マカロニ・ソーメン製法を教えたド・ロ神父の愛を感じることができます。印刷・出版事業、教会建築、開墾、道路工事、防波堤建築などの土木工事、社会福祉施設事業、医療・救護活動などなど、驚くほどに何事にも万能だったド・ロ神父は外海にとって救世主のような存在だったにちがいありません。 写真の白い建物がド・ロ神父記念館です。館内には、ド・ロ神父が使用した100年以上前のオルガンやメダイなど、ゆかりの品々が展示されています。 6旧出津救助院(出津文化村) ド・ロ神父が考えた、女性たちが自活するために働く授産施設   ド・ロ壁に沿って門を入りましょう。普通の民家に見えますが、ここは女性たちの自立支援をおこなった授産施設です。居留地に住む外国人たちに売る商品をたくさん作る工場のような感じ。1階は作業場、北側には窯のあるパン焼室、2階は裁縫のための部屋。パンやマカロニ、そうめん、機織、日本人にはまだ馴染みのない洋服を作って製品化していました。商品の商標は「至風舎」。ド・ロ神父は、こうした時代を先取りした技術のほかに、読み書きや算術も女性たちに教えたそうです。 旅人コメント 「遠藤周作記念館にあるレストランで、外海名物の「ド・ロさまそうめん」を食べました。フランス産の小麦粉と落花生油でつくられた、コシのある食感がたまらない! おいしかったです。」(ウミウシ) 7出津教会(出津文化村) まぶしく輝く白壁と低い天井、独特のフォルムがド・ロ神父の独創性  どこからか鐘の音が聞こえてきました。旧出津救助院から鐘の音の鳴るほうへと、山手に向かってみると、今回の旅の終着点、出津教会に辿り着きました。外海全体に鳴り響くこの鐘は、ド・ロ神父がフランスから取り寄せた当時のもの。教会全体のカタチを見て下さい。今回の旅で訪れたほかの教会とはちょっと違うと思いませんか? 角力灘から吹き寄せる海風に耐えるために、天井が低く造られているそうです。 旅人コメント 「出津教会は、さだまさし原作の映画『解夏』の舞台になったんですよね。大沢たかおと石田ゆり子の2人が、角力灘の向こうに見える五島を見るために訪れた場所だったと思うけど。外海の海岸線をドライブしてました!」(ヤムヤム) 参考文献 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 特集2 宣教師が尽くした日本の教育事業 特集3 キリシタンの夢 日本人のための天主堂が建つ 特集4 教会がある風景は長崎の歴史を語る文化遺産 長崎県の文化財 佐世保市教育委員会社会教育課資料 スタート地点までのアクセス 宝亀教会 所在 長崎県平戸市宝亀町1170 お問い合わせ 宝亀教会 TEL/0950-28-0324 開門 6:00〜17:00 ミサ 土曜日19:00(4〜9月は19:30) 日曜日9:30 アクセス 車の場合は、佐世保方面から国道204号線を北上し平戸大橋(有料)を渡る。左折して平戸大橋バイパスを通り国道383号線を南下し約15分。宝亀小学校を過ぎたら右折して約3分。 バスの場合は、佐世保駅より西肥バス〔平戸〕行きに乗車し<<平戸桟橋>>で下車(乗車時間は約90分)。〔宮之浦〕行きに乗り換え、〔宝亀〕で下車(乗車時間は約20分)。徒歩10分。 松浦鉄道の場合は、「たびら平戸口」下車、<<平戸口駅前亀>>より西肥バス〔平戸桟橋〕行きに乗車、終点<<平戸桟橋>>で下車(乗車時間は約15分)。〔宮之浦〕行きに乗り換え、<<宝亀>>で下車(乗車時間は約20分)。 ● JR佐世保駅・松浦鉄道「たびら平戸口」までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第3回 “軍艦島”と呼ばれた炭坑の島・端島 2009年08月12日
    第3回 “軍艦島”と呼ばれた炭坑の島・端島
     歴史発見ドライブルート(平成21年8月5日更新)で旅した高島。権現山(ごんげんやま)公園・展望台に向かう途中から見えた端島(はしま)は、まるで海に浮かぶ軍艦のような島でした。いったいどんな島なのだろうか? ぜひ行ってみたいっ!!  今回の散策コースは、『軍艦島』とよばれた端島(はしま)にクローズアップします。テーマは、「“軍艦島”と呼ばれた炭坑の島・端島(はしま)」です。  1974年(昭和49)に閉山し、無人の廃墟となった今も人々のイマジネーションをかき立てる『軍艦島』。さあ、いま話題の軍艦島に近づいてみよう! 端島(軍艦島)の紹介  1810年(文化7)に石炭が発見され、その後鍋島藩が小規模な採炭をおこなっていました。1890年(明治23)三菱社が、旧深堀鍋島家当主鍋島孫六郎から10万円で譲り受け、1974年(昭和49)1月15日の閉山までの85年間操業を続けました。  長崎港から南西に19kmの沖合いに位置し、南北に約480m、東西に約160m、周囲約1,200m、面積約63,000平方メートルという小さな島です。護岸堤防が島全体を囲い、高層鉄筋住宅が建ち並ぶその外観は世界的にも珍しく、また軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」とよばれるようになりました。1916年(大正5)、4月7日の大阪朝日新聞で「二本煙筒の巨大な軍艦に似ている」と報道されて以来、「軍艦島」という愛称は全国的に知れ渡ることになります。  閉山後、長い眠りについていましたが、2009年(平成21)1月に世界遺産暫定リストに掲載された「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産のひとつとして、また新しい歴史を刻もうとしています。 軍艦島クルーズに参加するには 軍艦島クルーズとは  軍艦島クルーズには、「軍艦島クルーズ上陸コース」と「軍艦島クルーズ周遊コース」と2つのコースがあり、1日2便ずつ運航されています。全便予約制で、前日までに予約が必要です。大人気のクルーズですので、早めに予約されることをオススメします。 軍艦島クルーズ上陸コース  長崎港を出港して帰港するまで170分のコースです。ドルフィン桟橋に上陸し、安全に整備された見学コースをガイドの案内について歩きます。料金は、大人4,300円(船運賃 4,000円・施設使用料 300円)、中高生3,500円(船運賃 3,200円・施設使用料 300円)、小人2,150円(船運賃 2,000円・施設使用料 150円)です。上陸コースに参加するために必要なことはこちらをご覧ください。
  • 第3回 近代洋式炭鉱が始まった地、高島 2009年08月05日
    第3回 近代洋式炭鉱が始まった地、高島
     このコーナーでは、長崎県内の歴史を探っていく旅のドライブルートを紹介しています。  今月の注目エリアは長崎市の『高島』。市町村合併前は、日本で最も面積の小さい町だったそうです。今回の旅は、そんな小さな島「高島」のすごい歴史に迫ります。テーマは、「近代洋式炭鉱が始まった高島」です。さあ、高島へ向かって夏の海をGO! おや、高島ってどこにあるのかって? じゃあまずは、高島のことをチェックしておこう!今回の必携アイテムは、『旅する長崎学8』です 高島って 高島をめぐる  今回、一緒に旅をしてくれるのは、この「旅する長崎学サイト」オリジナルのキャラクターたちです。  まずは、高島じまんの美味しいキャラクターが登場するよ!  長崎港と高島港ターミナルで待ち合わせしてるんだ。楽しみだね!  あっ、お迎えがきた。 はじめまして!糖度が高くてビタミン豊富な高島特産のトマトです。よろしくね。 今回の航路 今回のサイクリングルート 長崎港 稲佐山 ↓長崎港を出航〜高速船で約5分 三菱重工業(株)長崎造船所立神工場【船窓より】 ↓高速船で5分 女神大橋(めがみおおはし)【船窓より】 ↓高速船で約3分 高鉾島(たかほこじま)【船窓より】 神ノ島教会(かみのしまきょうかい)【船窓より】 ↓高速船で約6分 伊王島【船窓より】 ↓高速船で約15分 高島港ターミナル ↓自転車で約1分 高島石炭資料館 ↓自転車で約1分 百間崎(ひゃくまざき) ↓自転車で約1分 コンニャク煉瓦の擁壁(ようへき) ↓自転車で約2分 高島海水浴場・ふれあいキャンプ場 ↓自転車で約1分 飛島磯釣り公園(とびしまいそづりこうえん) ↓自転車で約3分 グラバー別邸跡 ↓自転車で約1分 後藤象二郎邸跡 ↓自転車で約1分 北渓井坑跡(ほっけいせいこうあと) ↓自転車で15〜20分程度(上り坂のためゆっくり) 権現山(ごんげんやま)公園・展望台 ↓自転車で10分程度 高島風力発電所・浜節歌碑 ↓自転車で約5分。高島港ターミナルへ戻ります。 スポットの紹介 長崎港  1571年(元亀2)のポルトガル船の来航以来、開港され、鎖国政策をとった徳川幕府時代も唯一西洋に開かれた門戸として、海外文化の受け入れに重要な役割を果たしてきました。  港内に堆積して海上交通の支障となっていた土砂を掘削することを目的として、明治維新後から昭和初期にかけて3度の改修工事が行われました。しかしその工事によって、1636年(寛永13)に造られた人工島の出島周辺は埋め立てられ、残念ながら当時の風景はほとんど見られません。  そして1923年(大正12)、長崎-上海間に日本郵船(株)の長崎丸が就航し、上海航路の時代が幕開け・・・。長崎は外国人観光客や関西方面のからの旅行客で大いに賑わいました。  現在、長崎港からは、高島のほか下五島・上五島・伊王島への航路があります。また、港めぐり・軍艦島遊覧など遊覧コースも人気があり、多くの人々に利用されています。 高島へ渡る船「コバルトクィーン号」 稲佐山  標高333mと、東京タワーと同じ高さ。山頂から見える景色は良好で、日本3大夜景といわれています。ロープウェイもあり、長崎の代表的な観光スポットとして多くの観光客の皆さんが訪れています。また、野外でのコンサートやイベントなども開催され、市民にも親しまれている憩いの場のひとつです。 約35分の船の旅で、ちょっとしたクルーズ気分。長崎港内の景色を楽しみながら、さあ高島へ出発!! 三菱重工業(株)長崎造船所立神工場(みつびしじゅうこうぎょうながさきぞうせんしょたてがみこうじょう)【船窓より】  1853年(嘉永6)のペリーの来航以来、列強国からの侵略を防ぐべく、江戸幕府はオランダの助力を得て1855年(安政2)に長崎海軍伝習所を設立しました。それにともなう艦船の修理施設として、1857年(安政4)に飽の浦(あくのうら)で長崎製鉄所(当初は長崎鎔鉄所)の建設が始まりました。これが日本の近代重工業の原点となります。明治維新後に官営を経て三菱に経営が移転し、長崎造船所と改称。明治後期には東洋一の造船所となりました。  船の窓から、近代化産業遺産を見ることができます。約100年が経過した今でも現役で稼動している、英国製の150トンのハンマーヘッドクレーンは、1909年(明治42)に設置されたものです。1942年(昭和17)竣工の戦艦「武蔵」を秘密裏に造った船台として知られています。また、ワシントン海軍軍縮条約により廃艦となった戦艦「土佐」を、1920年(大正9)に起工しています。 女神大橋(めがみおおはし)【船窓より】  愛称は、ヴィーナスウイング。2005年(平成17)12月11日、10時30分に女神大橋は開通式を迎え、15時から供用が開始されました。全長1,289m。海面からの高さが65mあり、日本一です。高い塔から斜めに張ったケーブルで吊下げた斜張橋です。ケーブルで吊られているために吊橋のように見えますが、力学的には桁橋に属します。長崎市大浜町と長崎市新戸町を繋いでいます。 高鉾島(たかほこじま)【船窓より】  右手に三角の形をした、高鉾島が見えます。オランダ人たちはこの高鉾島を、“パーペンベルグ(キリシタンの島)”と呼んだそうです。  1614年(元和)に徳川幕府が禁教令発布した3年後のこと。高鉾島で、宣教師をかくまっていた宿主のガスパル上田彦次郎とアンドレア吉田の2人が役人に捕らえられ、1617年(元和3)10月2日に斬首されるという事件が起こりました。この事件は一般の領民であるキリシタンが処刑された最初の出来事でした。殉教した2人は1867年(慶応3)に"福者"となりました。 神ノ島教会(かみのしまきょうかい)【船窓より】  高鉾島を通り過ぎる頃に振り返ると、切り立つ断崖の中腹に白亜の教会・神ノ島教会が見えます。  神ノ島は、周囲わずか1kmほどの小さな島でした。17世紀頃のキリシタン禁教令から逃れるためにキリシタンが住み着き、約260年以上もの長いあいだ、潜伏してキリスト教の信仰を守った場所でした。1873年(明治6)2月に、幕府の禁教令の高札が撤廃され、1876年(明治9)に、念願だった仮聖堂が建立。1881年(明治14)にラゲ神父によって木造の教会が建てられました。現在の教会堂の原型となるのは、1897年(明治30)に6代目として赴任してきたデュラン神父が、自ら私財を投じ、信徒と力を合わせて完成させた煉瓦造りで、約110年もの歴史ある教会堂です。  敷地内には、信仰復活に勇敢に行動した西忠吉・政吉の兄弟の墓碑と記念碑があります。 ※神ノ島教会と高鉾島の詳しい紹介はこちらをご覧ください。 伊王島【船窓より】  右手に、南北に連なる沖之島と伊王島が見えます。2つの島のあいだは、1911年(明治44)に架設された36メートルの橋で結ばれています。  船上からはオレンジ色の屋根のリゾート施設や、1890年(明治23)に建てられた白亜のゴシック様式の天主堂・沖之島教会が見えます。夜はライトアップされ、ひときわ美しく荘厳な雰囲気を漂わせています。 ※長崎港〜高島港の航路は、神ノ島や伊王島を経由します。(神ノ島を経由しない便もあります) ※詳しくは、長崎汽船株式会社公式サイトをご覧ください。 高島港ターミナル   高島石炭資料館  明治・大正・昭和にわたって長年創業してきた高島炭鉱の歴史を後世に伝えるために1988年(昭和63)にオープン、そして2004年(平成16)にリニューアルされました。  1階では、高島炭鉱の石炭採掘の歴史や関わりの深い人物、三菱の社船「夕顔丸」の紹介をはじめ、当時の炭鉱作業に関する写真パネル、本・映像など詳細の資料が揃っています。2階には炭鉱組合記念品や化石資料、民具などが展示されています。 ■開館日 :毎週火曜日〜日曜日 9:00〜17:00 ■休館日 :毎週月曜日・年末年始 ■問合せ先:高島教育センター TEL:095-896-3110 百間崎(ひゃくまざき)  炭坑開発のため、防波堤を築き、海を埋め立てて炭坑施設用地を造りました。その防波堤が非常に長く、百間(ひゃっけん・約180m)ほどもあることから、この先の地名は「百間崎(ひゃくまざき)」と名づけられました。 コンニャク煉瓦の擁壁(ようへき)  1887年(明治20)頃、百間崎坑開発のために道路を建設し、その擁壁として利用されたものです。薄い煉瓦は、その形や大きさがコンニャクに似ていたことから、「コンニャク煉瓦」と呼ばれました。このコンニャク煉瓦は高島石炭資料館にも展示されています。 コンニャク煉瓦の擁壁(ようへき) コンニャク煉瓦(高島石炭資料館) 高島海水浴場・ふれあいキャンプ場  1997年(平成9)にオープンした人工海水浴場で「日本の水浴場88選」に選ばれています。  砂浜、タイル、ウッドデッキ、芝生が整備されていますので、小さなお子様連れでも安心して遊べます。入場料・桟敷料・シャワー料金など無料で利用できます。  また海水浴場と隣接してふれあいキャンプ場があります。炊飯棟も完備され、キャンプに必要な道具一式が揃っていますので、手ぶらでも安心して利用できます。ただし事前に予約が必要です。 #17" class="btn basic_btn">伝説を読んでみる 高島風力発電所・浜節歌碑  出力600kWの風力発電機(風車)は、年間約170万kWhの発電量をまかなっています。一般家庭の約450世帯分です。そして年間約400トンの二酸化炭素を削減しているといいます。この地は公園化されており、風車の脇には、お座敷唄として唄い継がれてきた『浜節』の歌碑が建てられています。  この場所からの景観は素晴らしく、端島や中ノ島がよく見えます。また高島炭鉱時代にボタによって埋め立てられた上二子島・下二子島があったところには、現在ふれあい多目的運動公園が整備され、地元の人々に活用されています。 参考文献 『旅する長崎学8』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『高島町 閉町記念誌』 取材協力 高島教育センター(高島石炭資料館)
  • 第37回 身近な友人 中国との交流を探る 2009年05月27日
    第37回 身近な友人 中国との交流を探る
    ~唐通事の足跡と四福寺~  長崎独特の空気感や文化は「和華蘭(わからん)」といわれます。日本と中国、オランダの文化が混ざり合って同居しているところから「よく分からない」という意味の掛詞で、文化のるつぼ「長崎」のことをよく表しています。  「漢字」「陶磁器」など、日本は古くから中国の文化や習慣の影響を受けてきました。特に長崎は、江戸時代、中国と貿易を続けていたため、長崎に住む中国人たちも多くいました。また、交易の中で外交官のような役割を果たす唐通事[とうつうじ]が大活躍しています。  オランダ通詞を「通詞」と表記するのに対して、「唐通事」は「通事」とされます。「唐通事」は、貿易に関することはもちろんですが、唐人屋敷の住民や乗組員の生活など広い範囲にわたって世話をしたからだといわれます。当時の海外との交易は対中国が3分の2ほどを占めていたそうです。  今回の歴史散歩では、唐通事の墓や中国寺を訪ねながら、歴史的にとても交流の深い、身近な国「中国」とのかかわりを見つめてみましょう。 歴史のとびら  戦国時代の末期から、九州各地に中国人たちが住み始めました。長崎に住み着いた中国人は、長崎港における対中国貿易を支えます。1603年(慶長8)、長崎奉行の命令で、憑六(ひょうろく)が最初の唐通事になりました。憑六は中国の山西省の東南部の出身という説があり、後に唐通事を代々受け継ぐ平野氏のルーツとなります。こうして日本人の母方の姓を名乗ることを長崎奉行所に許され、二世、三世と代々唐通事の役目を担いました。時代とともに唐通事を世襲する家は増えていき、70近くあったようです。唐通事の役職や年齢などを記録した『訳司統譜』によると、1867年(慶応3)に解散されるまで、延べ1,600人を超える唐通事がおり、頴川家(えがわけ)や林家(はやしけ)、彭城家(さかきけ)などは名門といわれました。  しかし、中国との貿易も次第に廃れていきます。貿易が衰退する一方で、唐通事たちは階級を増やし、人数を増やしていきました。受用銀12貫目を給与としていた大通事でしたが、四分の一の3貫目という困窮した時代も・・・。しかも親が現役の唐通事の場合は子供は無給という一家族に一給与しか与えないなどの厳しい対策がとられたこともあったそうです。  幕末になると、没落していく家がある一方で、一部の唐通事たちは英語やフランス語の通訳へと転換しつつ、西欧諸国との交渉などに借り出されていきました。  現在、長崎には中国寺が多く残っています。16世紀末、長崎に在留する中国人たちは稲佐地区の悟真寺を菩提寺とし、墓地をつくりました。その後、1637年(寛永14)に起こった島原の乱以降、キリスト教の取り締まりが強化される中で、「三福寺」とよばれる「興福寺」「福済寺」「祟福寺」が次々と建立されていきます。命がけの航海の安全を祈願したり、異郷の地で命を落とした仲間の弔いをしたりというのはいうまでもありませんが、出身地方によって寺は分かれていて、今でいう「県人会」のような役割も果たしていたのではないでしょうか。その中心はやはり唐通事たちだったようです。三福寺の創建から約半世紀遅れて、「聖福寺」が建立され、こうして長崎の「四福寺」の歴史が始まりました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 1福済寺と頴川家の墓 ↓徒歩約5分 2聖福寺 ↓電停「桜町」から「新中川」まで 路面電車で約10分 徒歩約10分 3東海さんの墓 ↓徒歩約15分 4長崎聖堂跡 ↓徒歩約15分 5興福寺と長崎聖堂の門 ↓徒歩約15分 6祟福寺 1福済寺と頴川家の墓  福済寺の裏には頴川家と寺の歴代住職の墓があります。馬蹄形に組まれた石垣で取り囲む特有のスタイルが印象的です。頴川家は代々唐通事の家柄で、福建省から渡ってきた陳冲一(ちんちゅういち)を開祖とし、その長男である藤左衛門(とうざえもん)が頴川家の初代となりました。藤左衛門は1628年(寛永5)に建立した福済寺の檀家の筆頭で、寺の整備に尽力しました。唐通事界のトップに君臨し、経済的にも社会的にも恵まれていたからだといわれます。  残念なことに当時の福済寺は1945年(昭和20)の原爆で焼失。現在の寺は戦後に新しく建てられました。昔の面影は頴川家と歴代の住職の墓にしかみることができません。  現在の福済寺の大きな如来像の中には、世界一の大きさを誇る「フーコーの振り子」があります。絶え間なくゆっくりと動く振り子が一時間おきに棒を倒す様子から、地球の自転を目で見て実感できます。 2聖福寺  福済寺裏の墓地を通って歩いていくと、長崎の四福寺のひとつ聖福寺にたどり着きます。聖福寺は1677年(延宝5)に建立されました。「桃」「こうもり」「牡丹」「龍」。境内には、中国らしい植物や動物がたくさん“住んで”います。これらの意匠はひっそりとした寺の雰囲気にぴったりで、緑と静寂に包まれた空間は日常の喧騒を離れ、心を落ち着かせてくれます。 3東海さんの墓  長崎市桜馬場町の春徳寺の裏に広がる墓地の中に、ひと際大きな墓が目をひきます。これが「東海さんの墓」です。墓にまつわるエピソードが残っています。  唐通事だった東海徳左衛門(とうかいとくざえもん)は約50年もの間、その役職に就いていました。東海家の開祖で両親だった徐敬雲(じょけいうん)夫妻のために、1670年(寛文10)ごろから墓をつくり始めましたが、細かい指示を出していたため、いっこうに工事が進まず、1677年(延宝5)ごろにようやく完成しました。しかし、墓をつくった本人は消息不明となり、結局、墓に入っていないそうです。長崎では、仕事などが長くかかってはかどらないことを「東海さんの墓普請(はかぶしん)」といいます。 4長崎聖堂跡  1647年(正保4)、儒学者の向井元升(むかいげんしょう)は後興善町に孔子廟と私塾をつくりました。その後、東上町に移転し、「立山書院」と名づけ、多くの儒学者を育てています。1711年(正徳元)には中島川沿い(現在の伊勢町あたり)に移転し、「長崎聖堂」または「中島聖堂」と呼ばれました。このときの孔子を祭る儀式の内容はその後、聖堂の大切な儀式として受け継がれていきました。聖堂設立は中国文化への敬意でもあったようです。東京の湯島聖堂、佐賀の多久聖堂とともに、日本三大聖堂の一つといわれるようになりました。  しかし、明治になって聖堂は閉鎖。1959年(昭和34)、門扉が興福寺境内に移築されました。 5興福寺と長崎聖堂の門  日本最古の黄檗宗の寺である興福寺は1620年(元和6)に創建されました。創建当時の檀家には、唐通事の祖となる面々が名を連ねました。  寺の見どころはたくさんあります。国指定の重要文化財である大雄宝殿(本堂)はもちろん、媽祖堂、鐘鼓楼などは独特の趣があります。4で紹介した長崎聖堂の移築された門も境内にありますので、お見逃しなく。 6祟福寺  「第一峰門」と「大雄宝殿」の2つの国宝、鐘鼓楼など3つの国指定重要文化財を有しています。2つの国宝は中国で組まれて、船に載せられたといわれ、屋根の部分の細かな装飾は、何ともいえない美しさを放っています。 〔文:大浦由美子〕 参考文献 『長崎唐人の研究』李献璋(新和文庫) 『唐通事家系論攷』宮田安(長崎文献社) 『中国文化と長崎県』長崎県教育委員会 『長崎唐人屋敷』山本紀綱(謙光社) 『長崎県の文化財』長崎県教育委員会 スタート地点までのアクセス 福済寺と頴川家の墓 所在長崎県長崎市筑後町2-56 駐車場あり 料金大人 200円、小中学生 100円 営業時間7:00〜17:00 休業日無休 お問い合わせ  TEL095-823-2663 アクセス  JR…JR長崎駅から徒歩8分
  • 第34回 長崎の国際墓地を訪ねて 2009年02月18日
    第34回 長崎の国際墓地を訪ねて
    〜長崎の地に眠る異国の人々〜 20カ国1500人を超える人々が眠る長崎国際墓地  長崎市には、稲佐悟真寺(いなさごしんじ)国際墓地、大浦国際墓地、坂本国際墓地という3カ所の大きな国際墓地があります。そこには中国人、オランダ人、ロシア人、イギリス人、アメリカ人など、20カ国1500人を超える人々が永遠の眠りについています。それらの墓碑には、長崎に暮らした有名無名の外国人の名前が刻まれているのです。 歴史のとびら  長崎市にある3つの国際墓地には、長崎を人生終えんの地とした異国の人々のお墓があります。このなかには、のちの日本で有名になった事件やできごとに関わった外国人たちも眠っています。たとえば、坂本龍馬の海援隊に犯人の嫌疑がかかった「英国人水夫殺害(イカルス号)事件」の被害者の墓(大浦国際墓地)、西洋人最古の墓で司馬江漢(しばこうかん)が墓碑を紹介した出島オランダ商館長の墓(稲佐悟真寺)、などです。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 1大浦国際墓地  開放時間8〜18時(管理:長崎市) ↓路面電車“赤迫行”で「長崎駅前」まで行き、「長崎駅南口」から長崎バスの“稲佐行”に乗り、「悟真寺前」バス停下車徒歩2分 2稲佐悟真寺国際墓地  入る場合は許可が必要(管理:悟真寺) ↓「悟真寺前」バス停から長崎駅方面へ向かうバスに乗車。「宝町」で下車し、対面に移動して“立山行”バス(マイクロ)に乗車し、「あじさい荘」バス停で下車。バス停のすぐ側が墓地の入口 ※「宝町」から路面電車の場合は、“赤迫行”に乗り、「茂里町」電停で下車徒歩10分 3坂本国際墓地  開放時間8〜18時(管理:長崎市) 1「英国人水夫殺害(イカルス号)事件」の乗組員が眠る墓地 ロバート・フォードとジョン・ハッチングス  1867年(慶応3)7月6日深夜(7日の説あり)、長崎の丸山の路上で酩酊(めいてい)し寝込んでいた外国人2人を、通りかかった武士が切り殺してしまうという事件が起こりました。被害にあったのは、長崎港に停泊中のイギリス船イカルス号の乗組員2人、ロバート・フォードとジョン・ハッチングスでした。彼らの墓が大浦国際墓地にあります。  当時の英国公使パークスは坂本龍馬率いる海援隊の仕業とみて、長崎奉行所に関係者の逮捕を要求しましたが、海援隊は激しく反論。奉行所は吟味の結果証拠不十分と判断しました。この事件は国際問題にまで発展し、その後、真犯人は福岡藩の武士であることが明らかになっています。 2現存する最古の中国人墓碑・西洋人墓碑  稲佐悟真寺の中国人(唐人)墓地は、江戸初期に有力唐人が、悟真寺を菩提寺にして墓地の敷地を定めたことにはじまります。現在約230基の墓があり、福建省出身の墓が6割を超えています。現存する最も古いものとして、1627年(寛永4)の墓が2基確認されています。  また、稲佐悟真寺のオランダ人墓地には、日本に現存する最古の西洋人の墓があります。ひときわ大きなヘンドリック・ダークープの墓です。ダークープは、出島オランダ商館の副商館長や商館長を務めていたオランダ人。1778年(安永7)7月、出島のオランダ商館長として帰任するため、オランダ船に乗っていましたが、航海中に急病のため死去しました。遺体は長崎に到着後すぐに悟真寺に埋葬され、オランダ人の手で盛大な葬儀がおこなわれたそうです。彼の墓碑には羽の付いた時計や十字架と子羊の模様が刻まれており、寛政年間(1789-1801)に著わされた司馬江漢の『西洋旅譚(さいゆうりょたん)』の中に、挿し絵付きで紹介されています。 3オペラ『蝶々夫人』誕生につながった宣教師デビソン  1873年(明治6)、プロテスタントのメソジスト監督教会から派遣されたアメリカ人宣教師ジョン・デビソンは、新妻エリザベスとともに日本へやってきました。彼は翌年、出島メソジスト教会を建設し宣教活動を続けました。キリスト教の日本布教には教育が重要であると考えたデビソンは、伝道局に学校開設のための人材派遣を要請します。その働きかけにより1879年(明治12)にはエリザベス・ラッセルとジニー・ギールが来日し、活水(かっすい)女学校を開校しました。また翌年にはC・S・ロングが来日し、加伯利(カブリ)英和学校(のちの鎮西学館)が開校されることになり、デビソン夫妻は一時帰国するまでそこで教鞭をとっています。  1891年(明治24)、デビソンが開設に尽力した鎮西学館の校長に就任したのがアメリカ人のアービン・コレルで、妻のジェニー・コレルとともに東山手12番館に住みました。実は、このコレル夫人の実弟が小説『蝶々夫人』を著したジョン・ルーサー・ロングなのです。ロングはアメリカに帰国したコレル夫人の見聞談をもとにして小説を書き上げたといわれています。かの有名なオペラ「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」は、この小説がデビット・ベラスコによって劇化され、さらにジャコモ・プッチーニの手によってオペラ化されたものです。デビソンによる学校開設の働きかけがコレル夫人の長崎居留地居住につながり、ひいては世界的なオペラ作品の誕生のきっかけになったといってもいいかもしれませんね。  デビソン夫妻は再来日を果たしますが、1915年(大正4)、妻エリザベスは中国に住む娘を訪問した帰途の睡眠中に急死し、彼女の遺体は坂本国際墓地に埋葬されました。その後、デビソンはカリフォルニアで84歳の生涯を終え、彼自身の遺言により夫妻の新しい墓が坂本国際墓地に建てられました。今も2人仲良く長崎の地に眠っているのです。  さて、国際墓地に眠る人々のそれぞれのドラマ、いかがでしたか?時は流れて現在ひっそりとたたずむ墓碑群ですが、そこを訪れる私たちに、16世紀半ばから海外交流で繁栄してきた長崎の歴史の確かな一面を、静かに語りかけてくるようです。 〔文:小川内清孝〕 参考文献 『旅する長崎学9 近代化ものがたりIII』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『時の流れを超えて −長崎国際墓地に眠る人々−』レイン・アーンズ+ブライアン・バークガフニ著(長崎文献社) 『長崎居留地の西洋人』レイン・アーンズ著(長崎文献社) 『長崎県文化百選7 海外交流編』(企画/長崎県 制作/長崎新聞社) スタート地点までのアクセス 大浦国際墓地(管理:長崎市) 所在長長崎県長崎市川上町 開場時間午前8:00~午後6:00 入場料無料 アクセス  路面電車…長崎駅から路面電車の“正覚寺行”に乗り、「築町電停」で乗り換え、「石橋電停」下車 徒歩10分
  • 第32回 新旧の「高麗橋」を結ぶ歴史散歩 2008年12月17日
    第32回 新旧の「高麗橋」を結ぶ歴史散歩
    〜歴史今昔ウォーキング〜  長崎の総氏神である諏訪神社の鳥居横から入り、長崎大学経済学部キャンパス前を通って、西山バイパス入口に向かう大きな通りがあります。この西山通りは車道を挟む両側の歩道の道幅が広く、一年を通して街路樹や季節の花々に囲まれていますので、市民の間では気持ちよく歩けるウォーキングコースとして親しまれています。  そこで今回は、新・高麗橋(こうらいばし)を出発し、西山通りに面する近代化遺産にふれながら、西山ダム河川公園に移築された旧・高麗橋をたずねる歴史散策に出かけてみることにしました。 歴史のとびら 移築復元された旧・高麗橋  眼鏡橋に代表される長崎市の中島川に架かるアーチ型の石橋群は有名です。この石橋群のひとつに「高麗橋」(市指定有形文化財)がありました。高麗橋は承応元年(1652)に長崎在住の中国人の手により中島川上部の伊勢町(いせまち)と八幡町(やはたまち)の間に架橋されたと伝えられています。1866年(慶応2)には拡幅改架がなされています。しかし1982年(昭和57)に発生した長崎大水害の河川改修のために、5年後に新しい高麗橋が架設され、由緒ある旧高麗橋は解体、1993年(平成5)に西山ダム河川公園に移築復元されたのです。移築の際には旧石を使用しましたが幅が足りず、両端の石材を新しく補い、失われていた高欄を復元して完成したといいます。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:徒歩約40分 1新・高麗橋<伊勢宮前> ↓徒歩5分 2諏訪神社 ↓徒歩約5分 3料亭 富貴楼 ↓徒歩約5分 4西山御薬園跡 ↓徒歩約10分 5長崎大学経済学部 ↓徒歩約15分 6旧・高麗橋<西山高部水源地(西山ダム、西山高部浄水場)> 1新・高麗橋  諏訪神社や松森神社(まつのもりじんじゃ)と並び長崎三社のひとつに数えられるのが伊勢町に建つ伊勢宮(いせのみや)です。この伊勢宮では1901年(明治34)に長崎で初めての神前結婚式が行われたといわれています。その伊勢宮の鳥居の前に架かる橋が、今回の歴史散歩のスタート地点「新・高麗橋」です。この橋は1987年(昭和62)に新しく架設されました。写真は移築前の旧・高麗橋が写った「長崎伊勢の宮神社」というタイトルの絵葉書です。 *当サイトの「ふるさと写真館」に、高麗橋が写った絵葉書や、それと同じアングルで撮影した現在の写真を掲載しています。今と昔をくらべて見ることができますよ。ぜひご覧ください。 2諏訪神社(すわじんじゃ)  諏訪神社は1625年(寛永2)に諏訪・森崎・住吉の三社を再興し祀った神社です。秋の例大祭「長崎くんち」で全国的に有名な長崎の氏神でもあります。市民には「おすわさん」の愛称で親しまれています。 3料亭 富貴楼(ふうきろう)  西山通りの諏訪神社前バス停の先左手にひときわ高い石垣が見えてきます。その上には創業120年余りの老舗「料亭 富貴楼」が建っています。富貴楼の建物自体は江戸時代初期に建てられ、その後拡充されたといいます。富貴楼は2007年(平成19)に国の登録有形文化財に指定されました。この料亭「富貴楼」という屋号ですが、伊藤博文(いとうひろぶみ)が明治22年来亭の際に、経営者内田トミに「何かいい屋号はありませんか?」と依頼されて伊藤自身が命名し、当時の屋号「富士亭」から変更したものだということです。 4西山御薬園跡(にしやまおやくえんあと) (長崎歴史文化博物館蔵)  下西山通りの西山郵便局そばに「西山御薬園跡」の石碑が建っています。江戸幕府は1810年(文化7)に小島郷十善寺から西山郷(現下西山町)へ御薬園を移転しました。敷地にオランダ船や唐人船が運んでくる舶来の薬草木を多数植えて幕府の薬草園としたのです。約1,200坪の園内には和漢洋の数百種の薬種を栽培し、効能を明らかにして幕府の需要にこたえたといいます。薬草木は園内で増産され(幕府の収入源として)高価な商品となっていきました。 5長崎大学経済学部  西山御薬園跡そばの横断歩道をわたり、右側の歩道をしばらく歩くと、長崎大学経済学部の門が見えてきます。このキャンパス内には旧長崎高等商業学校時代の3つの国指定登録有形文化財があります。一つめは1903年(明治36)に架橋された「拱橋(こまねきばし)」。橋の長さは17mで幅が約9mの石橋です。車道沿いに望む橋全体の景観は周囲の緑と調和して美しく映えています。  二つめは拱橋を渡りまっすぐ行った突き当たりにある「長崎大学瓊林会館(けいりんかいかん)」。旧長崎高等商業学校の教官の研究館だった建物です。1919年(大正8)に建てられたもので、外観はレンガ造りで左右対称が特徴です。  三つめは「長崎大学経済学部倉庫」。1907年(明治40)に旧長崎高等商業学校の倉庫として建てられたものです。赤レンガ造りで瓦ぶき屋根が特徴の建物です。ちなみに「料亭 富貴楼」「長崎大学瓊林会館」「長崎大学経済学部倉庫」の3件は、2007年(平成19)6月、同時に国の有形文化財に登録されました。 (注:拱橋より先の長崎大学経済学部敷地内へ入るには許可が必要です) 6旧・高麗橋<西山高部水源地(西山ダム、西山高部浄水場)>  長崎大学経済学部から長崎バイパス入口方面へ進み、片淵丸尾バス停を過ぎると左側に西山高部(にしやまこうぶ)水源地が見えてきます。西山高部水源地(西山ダム、西山高部浄水場)は1904年(明治37)に完成しました。昭和時代から桜の名所としても市民に親しまれている場所です。2001年(平成13)には長崎大水害後の治水対策として新・西山ダムが完成。新しく西山ダム河川公園として整備されました。この河川公園に中島川の旧・高麗橋が移築復元されているのです。 (国立国会図書館蔵)  さて、新・西山ダム下の河川公園入口には、長崎市栄町生まれの伊東巳代治(いとうみよじ)を顕彰するモニュメントと石門があります。巳代治は長崎町年寄書物役の家に生まれ、早くから蘭学、漢学、英仏語を修得し、伊藤博文の欧州憲法調査に随行した官僚であり政治家でした。彼は1900年(明治33)からおこなわれた長崎市水道の第1回拡張工事の際に国庫補助金獲得に奔走した人物です。モニュメントと石門には「寒奨濟我人(かんしょうさいがじん)」という巳代治自筆の文字が刻まれています。寒奨濟我人とは「どんなに寒いときでも、市民のために水を汲んであげましょう」という意味で、1904年(明治37)に完成した旧・西山ダムの堤体の銘板に刻まれた文字でした。生まれ故郷である長崎の市民のために水源地を造りたいという巳代治の熱い思いが伝ってくるようですね。 〔文:小川内清孝〕 参考文献・資料 『旅する長崎学8 近代ものがたりII』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 長崎大学薬学部のホームページ「長崎薬学史の研究」 国立国会図書館資料 スタート地点までのアクセス 新・高麗橋<伊勢宮前> 所在長崎県長崎市伊勢町 アクセス  路面電車…「長崎駅前」電停から蛍茶屋行「諏訪神社前」電停下車 バス…「長崎駅前」バス停から県営バスの循環(立山・浜平行、サンフランシスコ病院行、西山木場行も可)に乗り「諏訪神社前」バス停下車
  • 第31回 大正・昭和の長崎へ 2008年11月19日
    第31回 大正・昭和の長崎へ
    〜当時の市街地図をたずさえて〜 (長崎歴史文化博物館蔵)  鶴が羽を広げた形に似ていたことから、「鶴の港」と称された長崎港。多くの国際観光客船が寄港する風景は今も昔も変わりません。  明治時代から始まった港の改修工事によって大型客船の接岸が可能になり、また埋め立てによって長崎の街は土地を広げてきました。残念なことに、江戸時代に西洋との窓口だった出島は埋められ、特徴的な扇の形は失われてしまいました。  今回の旅のナビゲーターは大正、昭和初期に発行された「長崎市街地図」。大正13年、大正15年、昭和6年の地図を見くらべながら、長崎観光と長崎港の埋め立ての変遷を追ってみましょう。 歴史のとびら (長崎歴史文化博物館蔵)  幕末、長崎港には土砂が堆積しやすく、大型船の寄港や海上交通などに支障をきたしていました。明治維新後の1886年(明治19)から昭和初期にかけて、近代的な港を目指し、長崎港の改修工事が3回に分けて始まりました。かつてポルトガル人を収容するためにつくられ、後にオランダ人たちが住んでいた人工の島「出島」も明治中期から徐々に埋め立てられ、その姿を変えていきました。現在のJR長崎駅周辺を中心に大幅に埋め立てられて、第2次、第3次と埋め立て工事は進んでいきます。  1924年(大正13)、大型船を接岸できる出島岸壁が完成しました。それまで大きな蒸気船や帆船などは長崎港に浮かび、ハシケやサンパンと呼ばれる手漕ぎの小型船で上陸していました。出島岸壁完成の前年の1923年(大正12)、長崎と上海をつなぐ日本郵船の定期便「長崎丸」が就航。出島岸壁がのちに発着場となって、港は賑わいを見せました。  長崎駅と出島岸壁の間には臨港鉄道が敷設され、1930年(昭和5)、出島岸壁に長崎港駅がオープン。こうして日華連絡船が鉄道と連結され、上海―東京間を大幅短縮し、当時としては快適な海外旅行を実現しました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約2時間 1元船遊歩道 ↓徒歩約10分 2長崎港駅までのレール ↓徒歩約3分 3出島 ↓徒歩約10分 4新地中華街 ↓徒歩約15分 5大徳寺 ↓徒歩約15分 6祟福寺 ↓電車「正覚寺下」から約10分「大浦天主堂下」下車 7長崎市香港上海銀行長崎支店記念館 1元船遊歩道  現在のJR長崎駅から大波止まで遊歩道があります。実はこの遊歩道の場所を、以前は長崎駅と長崎港駅を結ぶ臨港鉄道が走っていました。大正15年の地図には線路はまだ描かれていませんが、昭和6年にははっきりと描かれています。  木々が植えられた遊歩道には、甘い金木犀の香りが漂っていました。 2長崎港駅までのレール  中島川の入り口付近には、臨港鉄道の車輪とレールが残り、当時の面影を残しています。現在の出島ワーフから長崎税関の間には日華連絡船の発着所だった長崎港駅の駅舎がありました。大正後期から昭和初期にかけて、長崎と上海を結ぶ日本郵船の姉妹船「上海丸」と「長崎丸」が岸壁に接岸していました。日華連絡船が開通していた時代を知る人たちは、古きよき時代と口をそろえていいます。週2回の運行で、26時間で上海に行くことができたため、「下駄履きで上海へ」といわれるほど身近な土地でした。新天地へ希望を膨らませて旅立った人、見送る人たちの歓声が聞こえてきそうです。 3出島  建物の再現などが進んでいる復元された出島(国史跡 出島和蘭商館跡)。水門(入場口)側に行くと、国道にかつての出島の形跡が描かれていることに気付くでしょう。現在の長崎が埋め立てられて形成されていることを実感できます。さらに出島の南側に整備されたガラス張りの歩道を歩くと、扇形の石垣をのぞくことができます。下の方は発掘された当時のものだそうです。 4新地中華街  中華街の門に着くと「ハイチーズ!」。ここでは観光客が記念写真を撮っている光景をよく目にします。江戸時代、長崎に来ていた中国人を唐人屋敷に集めて住まわせていました。1698年、長崎の大火によって、五島町や大黒町にあった荷蔵が焼失。新しく唐人屋敷前を埋め立て、荷蔵の土地を造成しました。これが新地の始まりです。明治になって、唐人屋敷は廃止され、長崎に在住の中国人たちは新地に移り住むようになりました。こうして新地の中華街ができたのです。 5大徳寺  「寺はないのに大徳寺」。神仏分離の際に神社信仰を選んだために廃寺となり、現在は梅宮天満宮となっています。小高い丘に広がる大徳寺はかつて、長崎の景勝地でした。名物の焼餅は今も食べることができます。3軒あった焼餅の店も今は1軒だけになってしまいました。明治創業の「菊水」は注文を受けてから焼き始めます。あんこは薪を使ってじっくりと炊き上げた手づくり。外皮がパリッ、中はもっちり、あんこの後味はあっさり。とりこになる人も多いそうですよ。楠の大木も有名で、樹齢は800年を超えるといわれています。 6祟福寺 『華の長崎』ブライアン・バーフガフニ著(長崎文献社)より  崇福寺は明治、大正、昭和初期、外国人たちの定番の観光地として人気がありました。このお寺には、1681年の大飢饉のときにつくられ、粥を炊いて多くの命を救ったといわれる大釜が残っています。1日1000人以上の米を炊いたそうです。当時の絵葉書に大釜の写真が載っていました。「コンナオオキナオカマ、ミタコトナイネ!」と外国人の驚いた顔が目に浮かぶようです。 7長崎市香港上海銀行長崎支店記念館  少しコースから離れて大浦地区へ。ギリシャの建物を思わせるような、大きな石造りの近代建築物に出会うはずです。長崎市香港上海銀行長崎支店記念館。1904年(明治37)、香港上海銀行長崎支店の社屋としてオープンしました。明治期の長崎の港の様子を伝える貴重な建物です。設計を手掛けたのは鉄骨鉄筋コンクリート構造の工法を日本に紹介した下田菊太郎でした。3階には上海航路の歴史を伝える展示があります。 〔文:大浦由美子〕 スタート地点までのアクセス 元船遊歩道 所在長崎県長崎市元船町 徒歩…長崎駅から約5分