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県南エリア

  • 海岸線をなぞってみよう 2014年03月19日
    海岸線をなぞってみよう
    海岸線をなぞってみよう  長崎は大陸に近い日本の西にあって、海外貿易には便利な場所。でも、それなら他の県でもよかったんでは?なぜ長崎だったのでしょう?地理的な位置や周りを囲む海、自然の力、美しい風土・・・、いろんなことが素晴らしいから貿易港に選ばれたはず。長崎がどんなところなのかをデータから探ってみました。 長〜い長い「長崎県」の海岸線  長崎県の海岸線の長さは約4,196キロメートル(平成17年3月31日 国土交通省河川局「海岸統計」)、北海道に次いで全国で2番目です。これがどのくらい長いかというと、全国の海岸線の12%にもなります。面積はというと、全国37位で、これは全国の1%ぐらいですから、長崎県の海岸線がいかに複雑に入り組んでいるかがわかりますよね。しかも平地が少ない地形なので、昔は馬よりも船で移動するほうが早かったんです。 岬の教会  日本で初めてキリシタン大名となった大村純忠は、自分の領地内を船で往来していました。16世紀に開港した横瀬浦に別荘を構え、三城城から船で大村湾を横切り、横瀬浦の別荘から小船に乗り換え、教会のミサに通ったそうです。  横瀬浦、福田に続いて、純忠が開港したのは長崎でした。1570年、付近の様子はというと、長い岬の台地があるだけでした。ホントに細長い岬だったんです。そこに新しいまちづくりがスタートし、最初6つの町ができました。いまの県庁のあるところが岬の先端で、教会が建ち、鐘の音が響いていました。大きな貿易船も行き来できる波穏やかで静かな入り江、しかも長い船旅の疲れを癒すような美しい風景。そんな天然の良港が長崎県には多かったのです。  ここで、長崎の楽しみ方! この長〜い海岸線をドライブするのが最高なんです。晴れた日の空と海の青さ、夕暮れにはオレンジ色に映える海。様々な表情を見せてくれる長崎の海岸線は、何度ドライブしても感動です! また、海からアプローチするのも素敵です。港には豪華客船が寄航し、海外から訪れる人も少なくありません。クルーザーや遊覧船で、ゆったりした時間を優雅に楽しむのも、長崎の魅力を満喫する方法のひとつです。 日本一の「しま」の数、どれくらいだと思います?  長崎県の島の数は全国第1位。全国の島の数は6,852島で、そのうちの14.2%にあたる971島が長崎県にあります(昭和63年9月 海上保安庁「海上保安の現状 *島(海上)は、外周0.1km以上)。ちなみに、県では、陸地面積が1,000m2のものを「しま」ととらえています。こうしてみると、長崎県には596のしまがあり、そのうち、有人島が74島、無人島が522島となります。  長崎を愛した遠藤周作氏は、代表作『沈黙』のなかで、どこまでも蒼い海と森の緑という大自然のあまりの美しさに、人間の存在そのものを投げかける。たしかに長崎の歴史的背景のうちに見るその風景は、素朴ながらも何かを問いかけてくるような重みと強さがあります。  ここで、魅力がいっぱいの「しま」自慢をちょっとだけ! 世界遺産候補となった教会が点在する五島。シーカヤックで渡る九十九島は、プチ・アイランドリゾート。麦焼酎やウニが美味しい壱岐。韓国に一番近い国境の対馬・・・などなど。すみません。ちょっとだけでは語り尽くせない長崎県の「しま」でした。 季節風に吹かれてやってきた外国船  日本へとやってきた中国のジャンク船やポルトガルのナウ船。帆をあげた船は、夏は南からの季節風にのってきました。帰る時は冬の北からの季節風にのって長崎を出航。季節風がたよりだった航海は命がけだったようです。  そのむかし、南蛮船が来る以前から、大陸との航海ルートにおいて、長崎県の島々は重要な位置にありました。そして16世紀、平戸にやってきたポルトガル船とキリスト教を受け入れ、西洋との貿易を始めたのが平戸領主の松浦隆信(道可)だったのです。長崎と西洋がはじめて出会った場所「平戸」。その後、平戸の港にはイギリス船、オランダ船が次々と入港し、西洋文化の窓口となりました。その面影をたどる旅にでかけませんか。「 ながさき歴史散歩 第2回 【ザビエルも訪れた国際貿易港「平戸」の旅】 」をご覧ください。 参考資料 『旅する長崎学1 キリシタン文化機戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 『旅する長崎学2 キリシタン文化供戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 『ホームページ『長崎100の指標 較べてみれば(2006改訂版)』 『ホームページ『ながさきの「しま」』
  • 中浦ジュリアンの世界グルメ紀行 2014年03月19日
    中浦ジュリアンの世界グルメ紀行
    中浦ジュリアンの世界グルメ紀行  キリシタン大名 大村純忠、大友宗麟、有馬晴信の名代としてローマへ派遣されることとなった4人の少年たちが、1582年2月、長崎の港を旅立ちました。わずか13歳前後の4少年の名は、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ。若く希望に満ち溢れた彼らが訪れた外国の港町は、貿易で発展した最先端の街ばかり。インド、南アフリカ、ポルトガル、ローマ、スペインで、美味しい料理でもてなしを受けたことが書かれています。当時のヨーロッパは、ルネッサンスのファッション、建築、食の文化が華開いた時代。ジュリアンたちは世界きっての少年グルメだったにちがいありません!  約420年前の冬、天正遣欧少年使節は、長崎港(現在の長崎県庁下に「南蛮船来航の波止場跡」の碑がある)から、赤い十字架の帆がはためくポルトガルの貿易船に乗り込み、ローマへと出発しました。有馬のセミナリヨの第一期生として学んだ彼らは、その目に焼きついた絵画の中の西欧の風景に、きっと様々な夢と想像を膨らませて海を渡ったのでしょうね。最初に降り立ったマカオは、貿易港だけあって、ポルトガル料理にインド、アフリカがミックスされたマカオ料理。中国野菜とカニなどの海の幸に、香辛料のピリッと効いた料理が特徴。そうそう、揚げパンは福建料理のひとつだけど、長崎の中華料理が福建料理をルーツにもつのは同じ貿易港たる由縁かな。現在、世界遺産となっているマカオ歴史地区、今は壁だけが残るサン・パウロ教会を、4人も訪れたことでしょう。(イラストをクリックしてみよう!)  お次はマレーシアにある古都マラッカ。名物チキンライスは少年たちも食べたでしょうか。ゴアに向かう航海中のインド洋上で、タイ、マグロ、カツオを釣って遊んでいた少年たち。時には、その釣り糸で鳥も捕まえていたそうです。  モザンビークから喜望峰をグルリと回った大西洋にあるセント・ヘレナ島は、かの有名なナポレオンが幽閉された島。この島では初めて食べる果物を体験したとか。やっとのことでリスボンへと到着。リスボンのアルデアガレの司教ドン・テオトニに招かれたディナーでは、とれたてのエビをつまみにワインを堪能。  一行はポルトガルからスペインを横断し、さあ、いよいよイタリアへ。ピサの斜塔は、彼らが訪れた頃もすでに傾いていたらしい。ここで行われたトスカーナ大公妃主催の舞踏会でのエピソード。社交ダンスを踊ることになってしまったジュリアンが、緊張のあまり、声をかけたのは老婦人!!まわりはなごやかな笑いに包まれたとか。  ジュリアンを除く3人は、群衆のなかを、和服で正装し、灰色に金のリボンと白い羽が付いたイタリア風の帽子というファッションで堂々と行進し、ヴァチカン宮殿の「帝王の間」でローマ教皇グレゴリウス13世と感動の謁見。用意してきた手紙を読み、狩野派が描いた織田信長の安土城の屏風を渡し、旅一番の大仕事をこなしました。その時のファッションをイラストにしてみました。  ヴェネツィア、ミラノ各地でも熱狂的な歓迎を受けた少年たちは、再びポルトガルへ。コインブラでの司教の招きによる晩餐会は、かなりゴージャスなディナーだったらしいです。魚釣りや野原でのウサギ狩りに雷鳥狩り、もちろん食材としてテーブルに並んだのでしょう。長崎名物「カステラ」の原型と言われるパン・デ・ローも食べたかもしれないし!当時ヨーロッパでは、彼らの登場で日本ブームが湧き起こったというから、はるばる東洋からやってきた日本人の珍しさに、その待遇はVIPの域だったにちがいありませんね。長崎を出発してから8年5ヶ月の歳月が流れ、1590年に4人は日本へと帰港しました。 参考資料 ローマを見た 天正少年使節』結城了悟著 日本二十六聖人記念館刊 1982年発行
  • 長崎の街を幻想的に彩る冬の風物詩 〜長崎ランタンフェスティバル〜 2013年01月20日
    長崎の街を幻想的に彩る冬の風物詩 〜長崎ランタンフェスティバル〜
    当時に思いを馳せ、媽祖(まそ)行列のルートを歩く 鎖国時代、長崎港には多くの唐船が入り、多くの唐人たちがやってきました。当時は、まだまだ航海が困難な時代。長崎に入港する唐船は必ず航海安全の神とされる媽祖像を積んでいました。長崎港に船が着くと媽祖像を出身地別に建立された唐寺に安置し、出港時には船に戻す。その儀式を再現したのが、長崎ランタンフェスティバルで人気の「媽祖行列」です。媽祖行列のルート上にあるスポットを訪れてみましょう。 媽祖像を唐寺に預けに行く「菩薩揚げ(ぼさあげ)」のスタートは孔子廟。ここは清国政府の援助を受けて、明治26年(1893)に長崎の華僑たちが大浦外国人居留地に創建したもので、国内唯一の華僑の手による孔子廟です。明治38年(1905)には華僑の子どもたちのために孔子廟内に「長崎華僑時中小学校」が誕生。約80年余続いたこの学校では、孔子の教えや中国文化を次世代へ伝えてきました。孔子廟内にはこの学校の児童の落書きが残り、当時の面影があります。 館内町の唐人屋敷は、出島築造から約50年後の元禄2年(1689)に造成されました。出島とならぶ鎖国の窓とされ、長崎と中国との交流の歴史を物語る貴重な遺産です。 唐人屋敷には土神堂、天后堂、観音堂、福建会館と当時の面影が残る4つのお堂や、唐人屋敷の歴史や唐貿易などを紹介する「さるく展示室(福建会館に隣接)」などがあり、唐人屋敷内を散策するのも楽しいです。 ランタンフェスティバルのメイン会場「湊公園」は、中国産の御影石でできた石畳舞台のほか、中国蘇州地方の伝統的建築様式による石造り表門などがある広場。ランタン期間中は祭壇が作られ、毎年新調される巨大な干支のランタンや中国色豊かな出店が人々を迎えてくれます。 湊公園からは、長崎新地中華街の中華門(南門)がみえます。昭和61年(1986)、新地中華街のシンボルとして4つの中華門が建てられました。この4つの門は中国の想像上の動物四神があしらわれ、風水学に基づいて配置されています。鬼門とよばれる北東の方向には福州地方出身の華僑の菩提寺である崇福寺があり、邪気を封じこめているといわれます。 眼鏡橋は興福寺の2代目住職・黙子如定(もくすにょじょう)が寛永11年(1634)に架けたと伝えられる、わが国最古とされるアーチ型石橋です。 この一帯には、それまでと違った黄色いランタンが灯されています。川面にはツルや蓮などをかたどったオブジェが浮かび、中島川が幻想的な川辺へと一変します。 媽祖行列の往路(菩薩揚げ)では興福寺がゴール地点。日本最初の黄檗寺院であり長崎で最も古い唐寺でもあります。 江戸時代初めに、隠元禅師は中国から長崎に渡来し、黄檗宗とともに「最新の中国文化」を長崎から全国へ伝え、衝撃的な影響を与えました。それらは、正月の風習や建築、彫刻、書画、茶道、料理など現代社会で暮らす我々の習慣や風俗に今でも影響を与え続けています。隠元禅師は長崎に来て最初の1年ほど興福寺に滞留したので、山門背面には「初登宝地」という隠元筆の扁額が掲げられています。 隠元禅師はインゲン豆、もやしなどの食材のみならず、明朝体や原稿用紙など様々なものを日本に伝えました。中国風の精進料理「普茶(ふちゃ)料理」もそのひとつ。長崎では今でも、興福寺や聖福寺で食べることができます(ただし予約制)。 興福寺のご住職によると、「円卓を囲み、皆で一つのものを分け合って互いの親睦をはかる」のが普茶料理だそうで、他地域の普茶料理に比べて、長崎はやや甘い味付けなのだとか。 仏前の供え物を捨てるところなく調理して大皿に盛り、裏方さんの手間を省くために2枚の取り皿だけで食します。 油を多用しつつも食材の良さが活かされていて、色や食感など五感をしっかり楽しませてくれます。豆腐や野菜など精進物の素材を使い、うなぎなど、あたかも動物性の食材を使用したかのように見せる「もどき」料理があるのも特徴のひとつです。 参考資料 歴史ガイドブック「旅する長崎学16、17」   平成25年2月10日(日)から2月24日(日)まで開催される「2013長崎ランタンフェスティバル」では20周年を記念したイベント「中華大婚礼」も行われる予定で、今年もランタンで冬の長崎が幻想的に彩られます。 【長崎孔子廟・中国歴代博物館】 住所/〒850-0918 長崎県長崎市大浦町10-36 電話/095-824-4022 開館時間/8:30~17:30(最終入館17:00) 休館日/年中無休 料金/一般600円、高校生400円、小中学生300円 駐車場/無料(普通車18台、バス6台) 【興福寺】 住所/〒850-0872 長崎県長崎市寺町4番32号 電話/095-822-1076 拝観時間/8:00~17:00 料金/大人300円、中・高校生200円、小学生100円 大きな地図で見る
  • 龍馬と長崎奉行所 143年ぶり龍馬奉行所に現れる 2010年02月17日
    龍馬と長崎奉行所 143年ぶり龍馬奉行所に現れる
    関連リンク
  • 世界遺産候補・軍艦島〜「九州・山口の近代化産業遺産群」 2009年08月19日
    世界遺産候補・軍艦島〜「九州・山口の近代化産業遺産群」
    軍艦島上陸 長崎市が安全に見学できるように整備を進めてきた、海底炭鉱の島・端島(軍艦島)は、2009年(平成21)4月22日から一般上陸ができるようになりました。なんと35年ぶりの解禁! 軍艦島クルーズが開始されました。詳しくは、「“軍艦島”と呼ばれた炭鉱の島・端島(2009年8月12日更新)」をご覧ください。
  • 第10回 鐘の音が鳴り響く教会ストリート 2007年08月10日
    第10回 鐘の音が鳴り響く教会ストリート
    〜消えた教会群〜  元亀元年(1570)、日本初のキリシタン大名 大村純忠は、ポルトガルとの貿易の拠点として長崎の開港を決め、翌年、ポルトガル船が初めて入港しました。 現在、長崎県庁から市役所にかけての通りは、サラリーマンが行き交うオフィス街ですが、今から400年以上前の16世紀後半には病院の施設を兼ね備えた教会が次々と建ち並び、宣教師たちが闊歩した教会ストリートでした。 今回は、キリシタン時代の面影と痕跡をたどりながら、消えた教会をめぐる旅へといざないます。 歴史のとびら  「長崎は日本のローマなり」。 この言葉は反キリスト教の書物『伴天連記』に書かれた一文です。 筆者は、長崎のどのような光景を見て"ローマ"と表現したのでしょうか? それは、キリスト教の十字架が掲げられた教会堂、福祉施設や病院、教理を学ぶ学校などが長崎の町に集中して建ち並ぶ風景…。 ロザリオを手にミサへと急ぐ人々、キリシタンたちを中心とする福祉活動、そして日本人と西洋人が行き交って活気にあふれる賑やかな町の様子…。 そんな新しい長崎の町に出会った驚きを書き留めたのでしょうか。  では、キリシタンの町「長崎」は、どのように形成されていったのでしょう。  天文19年(1550)、ポルトガル船が入港し、フランシスコ・ザビエルが訪れた平戸は貿易で賑わっていましたが、ポルトガル船員と日本人商人の間にいさかいが起こって殺傷事件にまで発展したため、松浦氏の平戸からその拠点を移します。 南蛮貿易港は、大村領内の横瀬浦、福田へと移り、その後、天然の良港<長崎>に白羽の矢が当たりました。  開港以前の長崎は、大村領の小さな村で、家臣でキリシタンの長崎甚左衛門の館のあった夫婦川の一帯が中心地でした。 永禄12年(1569)、トードス・オス・サントス教会という長崎で最初の教会が建ち、キリシタンも増えていました。 そんななか、元亀元年(1570)に大村純忠は、イエズス会と長崎の開港協定を結び、翌年には初めてポルトガル船が入港しました。  甚左衛門の館から2キロも離れた何もない岬の台地では、新しいまちづくりが始まります。 現在の県庁が岬の先端で、市役所の方に向かって、横瀬浦町・外浦町・分知町・平戸町・島原町・大村町の6町が誕生。 岬の先端にはサン・パウロ教会が建ちます。 さらに天正8年(1580)、純忠は周辺の敵からの攻撃をかわすために長崎と茂木をイエズス会に寄進、また天正9年(1582)には長崎港から天正遣欧使節の4少年がローマへ向けて出発するなど、長崎はキリシタンのまちとして繁栄していきます。  そのわずか後の天正15年(1587)、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布して長崎・茂木を直轄地とし、教会は破壊されてしまいました。 しかし、南蛮貿易は推奨していたので、禁教は不徹底な状況で、慶長5年(1600)頃から教会の建築ラッシュ!! 教会や福祉施設、病院が建ち並び、瞬く間にさながら小ローマのような町並みが出現したのです。  ところが事態は急変します。 秀吉から徳川家康へと政権が移り、当初はキリスト教を黙認していた江戸幕府が、1614年、ついに禁教令を発布しました。 厳しいキリシタン取り締まりが行われ、教会はすぐさま壊され、かろうじて福祉施設という役割から破壊を免れていたミゼリコルディアの組が運営している病院なども元和6年(1620)には壊されます。 教会の跡地には、奉行所や代官屋敷、仏教寺院などが建ち、長崎の町からキリシタンの色は消えていきました。 華やかだったキリシタン文化の繁栄は、こうして厳しい受難の時代へと突入したのです。  キリスト教が日本に伝わって半世紀の間のできごとでした。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:5時間 img/sub/map_point2.gif' alt='' />2山のサンタ・マリア教会の跡(長崎歴史文化博物館) ↓徒歩で約3分 img/sub/map_point4.gif' alt='' />4サン・フランシスコ教会の跡(長崎市役所別館) ↓徒歩で約3分 img/sub/map_point6.gif' alt='' />6サン・ジョアン・バウチスタ教会とサン・ラザロ病院の跡(本蓮寺) ↓徒歩で約15分 img/sub/map_point8.gif' alt='' />8ミゼリコルディア本部と教会の跡(長崎地方法務局の付近) ↓徒歩で約10分 img/sub/map_point10.gif' alt='' />10サン・アウグスティン教会の跡(常盤橋から観光通りの出入口付近まで) ↓徒歩で約12分