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県南エリア

  • 第30回 龍馬と弥太郎、ゆかりの地 2008年10月15日
    第30回 龍馬と弥太郎、ゆかりの地"長崎"にそびえ立つ
       威風堂々・・・、長崎港を間に挟んで秋空に向かいそびえ立つ像。長崎市の風頭(かざがしら)公園と高島港には幕末に活躍した土佐出身の2人の立像があります。みなさんご存知の坂本龍馬と、三菱財閥の礎を築いた岩崎弥太郎(いわさきやたろう)です。龍馬像の視線は眼下に広がる長崎港を見つめていますが、その長崎港の玄関口に位置する高島に建つのが弥太郎像です。龍馬と同じように、弥太郎もまた幕末に長崎を訪れ活躍したひとりなのです。同郷の2人は長崎の地で交流を深めてきます。そして龍馬の死後、明治の新時代を迎え、弥太郎は龍馬も夢みていたといわれる海運業を興していきました。今回は2人が長崎で関わった2つの事件を振り返りながら、長崎ゆかりの地を巡ることにしましょう。 歴史のとびら 「伊呂波丸(いろはまる)事件」と「英国人水夫殺害(イカルス号)事件」  1867年(慶応3)4月23日の夜。海援隊士を乗せた伊呂波丸が濃霧の中を航行中、突如現れた紀州藩の明光丸が横腹に衝突し、その衝撃で伊呂波丸は沈没してしまいました。龍馬ら乗組員は、相手方の船に乗り移り全員無事でした。龍馬率いる海援隊は、この事故に対して相手方に否があるとして紀州藩に抗議。土佐藩の後藤象二郎が全権となり紀州藩と交渉を行い、明光丸士官の詫び状一札と賠償金8万3千両余りを得たのです。この事件では土佐商会に着任したばかりの岩崎弥太郎も土佐藩側の一員として交渉に関わっています。  続いて1867年(慶応3)7月6日の夜、長崎の丸山で福岡(黒田)藩士の金子才吉が英国人水夫と喧嘩をして殺害するという事件が起こりました。直後に金子は自殺しますが表沙汰にならず、長崎奉行と英国公使パークスは海援隊の隊士が犯人だと思い込んでしまいました。坂本龍馬は事実無根と猛抗議し、弥太郎も長崎の藩責任者として英国側と折衝を行っています。しかし、英国人相手の交渉は難航したようです。結局、長崎奉行所の裁定では海援隊は無関係となりましたが、真犯人が金子才吉と判明したのは約1年後のことでした。この事件は弥太郎の日記に「丸山異人横死の件」とあるように、遊廓街のあった丸山の路上で起こったものです。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約95分(徒歩、車、高速船利用※利用する高速船の発着時刻で異なります) img/sub/map_point2.gif' alt='' />2亀山社中跡 ↓徒歩約20分 img/sub/map_point4.gif' alt='' />4後藤象二郎邸跡 ↓徒歩約15分 img/sub/map_point6.gif' alt='' />6高島 1風頭(かざがしら)公園  龍馬はかつてこの場所から長崎港を見下ろしたことがあったのでしょうか。風頭山には坂本龍馬の像が建つ風頭公園があります。展望台から長崎市街地や長崎港を一望することが出来ます。この公園では春になると江戸時代から続く長崎名物のハタ揚げ大会が開催されます。または桜や紫陽花(あじさい)の名所としても長崎市民に親しまれています。 2亀山社中(かめやましゃちゅう)跡  坂本龍馬は、1865年(慶応元)、長崎を拠点にして日本初の商社といわれる「亀山社中」を設立しました。当初は小松帯刀(こまつたてわき)が家老を勤めていた薩摩藩が資金面の後ろ楯となりましたが、運営のための資金繰りは厳しく火の車でした。そこで新たな後ろ楯となったのは後藤象二郎が参政を勤めていた土佐藩で、名称も1867年(慶応3)に「海援隊」と変わりました。 3土佐商会(とさしょうかい)跡  「長崎土佐商会」は幕末の長崎に設置された土佐藩「開成館」の出先機関です。正式名称は「土佐藩開成館貨殖局長崎出張所」。ここでは紙、樟脳(しょうのう)、鰹節(かつおぶし)など土佐藩の専売品を輸出し、外国から軍艦や鉄砲などの武器類を購入していました。岩崎弥太郎は、1867年(慶応3)、長崎土佐商会に赴任し間もなく主任となりました。現在、長崎市の西浜町電停そばに架かる鐵橋(てつばし)のたもとには「土佐商会」跡の石碑が建っています。その石碑には海援隊発祥の地とも刻まれています。 4後藤象二郎(ごとうしょうじろう)邸跡  開成館の総裁で土佐藩の参政だった後藤象二郎は、長崎土佐商会の経営に当たるため長崎に滞在していました。伊呂波丸事件では、紀州藩との交渉について、後藤邸で龍馬と弥太郎との密談が行われました。1867年(慶応3)6月2日の弥太郎の日記によると「弥太郎が賠償額について原案を作り、後藤宅に行き、龍馬を呼び出して3人で密談をした」というような内容が記されています。現在の金屋町(KTNテレビ長崎ビル横)には後藤邸跡の石碑が建てられていますが、後藤邸はのちに岩崎弥太郎が譲り受け、三菱の所有として使われていました。 5長崎奉行所立山役所(ながさきぶぎょうしょたてやまやくしょ)  英国人水夫殺害事件の海援隊士への尋問や弥太郎への事情聴取は、長崎奉行所立山役所(現在の立山町)で行われました。興味深いことに、 長崎奉行所で審問された弥太郎の様子を、龍馬は佐々木三四郎に宛てた手紙の中で戦争に例えて「敗走に及び候」と非難しています。 長崎奉行所立山役所跡は2002年(平成14)から発掘調査が進められていましたが、翌年、正門前の階段と踊り場の石畳が発見されました。その階段と石畳を生かして、 長崎奉行所立山役所の一部を忠実に復元したものが、現在の長崎歴史文化博物館で、長崎県の歴史・文化の発信拠点となっています。 6高島(たかしま)  長崎港から伊王島経由の高速船に乗って、約35分で高島に着きます。「高島」は高島、端島(軍艦島)、中の島、飛島の4つの島からなっており、かつては石炭発掘で繁栄しました。高島港すぐそばの公園にはお目当ての岩崎弥太郎像が建っています。  明治維新以後、岩崎弥太郎は大阪で九十九(つくも)商会を設立し、藩営事業の海運業を継承します。1873年(明治6)には名前を三菱商会と改称、汽船会社を経営しました。その後、弥太郎は長崎の高島炭鉱を買収し経営に関わります。高島炭鉱は幕末に佐賀(鍋島)藩と英国商人グラバーが共同経営し、1874年(明治7)にいったん官営になり後藤象二郎に払い下げられ、1881年(明治14)4月に三菱の経営に移りました。  弥太郎像の前方には「石炭資料館」があります。さらに高島港から25分ほど歩く(島内循環バス有り 本町バス停下車)と、その歴史の記憶をとどめるように「北渓井坑跡(ほっけいせいこうあと)」「後藤象二郎邸跡」「グラバー別邸跡」などがありました。  また、岩崎弥太郎の晩年にも長崎との関係は続きました。1884年(明治17)、長崎製鉄所を工部省より借り受け、長崎造船所と改称し経営を始めます。その3年後には払い下げを受け三菱の所有となりました。これが長崎港発高島行の高速船から右手に見える三菱重工(株)長崎造船所なのです。 〔文:小川内清孝〕 参考文献 『旅する長崎学7 近代化ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学8 近代化ものがたり2』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『岩崎弥太郎伝 上・下巻』(岩崎弥太郎・岩崎弥之助 伝記編纂会) 『岩崎弥太郎』(入交好脩著 吉川弘文館) スタート地点までのアクセス 風頭公園 所在長崎県長崎市伊良林3丁目510-6他 駐車場無し トイレ普通:有り、多目的:無し アクセス  車…長崎駅から約15分 バス・徒歩…「風頭山行」で約30分、終点下車で徒歩5分
  • 第27回 近代化のカギは「言語」習得 2008年07月16日
    第27回 近代化のカギは「言語」習得
    〜語学教育の源流を探して〜  「Excuseme…」と突然声をかけられたら、どうしますか? 聞こえないふりをしてその場を立ち去るか、愛想笑いを浮かべて尻込みしながら逃げていくという人も結構多いのでは…。  鎖国時代、海外との窓口だった長崎には、外国語に動じず、対応できる言語の達人たちがいました。ちょんまげに外国語。相容れない風景ですが、幕末の日本、特に長崎ではよく見られる光景だったと思われます。あるときは自然科学を探求する「科学者」、あるときは医学の知識を授ける「医学部教授」、そしてあるときは諸外国との交渉に携わる「外交官」。長崎では外国語を巧みに操るオランダ通詞や唐通事といった通訳たちが活躍していました。  外国から伝わってくる先進的な文化や文明の受け入れは、言葉を理解できなければ不可能です。一部の人たちの知識や情報を誰でも手軽に入手できるよう、外国語の「辞書」が生まれました。主に辞書の編纂にかかわったのもこの通訳たちでした。  今回は、外国語教育や辞書の歴史を探りながら、長崎の街を歩いてみましょう! 歴史のとびら  蘭学や洋学が注目された江戸後期は、語学辞書の編纂の時代でした。江戸では1796年(寛政8)、約6万語を収録した日本で最初のオランダ語辞書「波留麻和解(江戸ハルマ)」が稲村三伯によって製作されました。  1803年(享和3)に出島のオランダ商館長に就任したヘンドリック・ドゥーフは、日本人たちとうまく意思の疎通が図れないストレスを抱えていました。6年後、思い立ったのが日蘭辞書の編纂です。優秀なオランダ通詞11人を選んでスタートしました。これが「ドゥーフ・ハルマ」といわれ、日蘭合同の辞書編纂プロジェクトの始まりです。実はこの作業、オランダ語を直接日本語に訳したわけではありませんでした。オランダ人フランソア・ハルマが編纂した「蘭仏辞典」を訳したもので、約5万語を収録し、さらに2万の例文までも掲載。約24年の歳月を経て、豊富な例文が特徴の日蘭辞書が出来上がったのです。 この辞書は「波留麻和解」を「江戸ハルマ」と呼ぶのに対して、「長崎ハルマ」と言われました。  オランダ語だけではなく、ほかの外国語を習得しなければいけない出来事がありました。対外危機です。江戸時代、幕府はオランダと中国だけの貿易を長崎の地だけに許し、オランダ通詞や唐通事がその通訳を務めていました。幕末、日本に開国を求めて外国船がつぎつぎと押し寄せ、通商(貿易)を迫ってくるようになると、諸外国の言葉の理解が急務でした。言葉の壁は日本の姿勢を決める大きな障害になったのです。長崎港に来航する船はロシア船、イギリス船とさまざまでした。  1808年(文化5)のフェートン号事件をきっかけに、英語習得の必要性が高まり、さらに1853年(嘉永6)にロシアのプチャーチンの来航ではロシア語が必要とされました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2長崎歴史文化博物館 ↓徒歩15分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4致遠館跡 ↓徒歩15分
  • 第26回 オランダ商館医 シーボルト 2008年06月11日
    第26回 オランダ商館医 シーボルト
    〜長崎に名医あらわる!〜 歴史のとびら  シーボルトが日本へやってきたのは1823年(文政6)、 28歳のとき。オランダ商館の医師兼自然調査官という2つの使命を受けて長崎の出島に到着しました。出島のなかでオランダ通詞や日本人医師に対し、医学や植物学の指導をした彼の講義はとても評判になりました。当時の日本は禁教政策をとっており、オランダ人が出島から外出することは禁じられていましたが、シーボルトは長崎奉行所から特別な許可を得て、長崎の蘭方医が開く私塾で講義や診察をおこなっていました。こうして、彼の活動は出島だけにとどまらず、長崎のまちに出て、日本人の患者の治療、天然痘のワクチン接種、白内障の手術などをおこない、シーボルトの名声は日本じゅうに知れ渡るところとなりました。  さらにシーボルトは、長崎奉行の許可を得て、通詞たちの斡旋で長崎のまちから少し離れた鳴滝に屋敷を構え、「鳴滝塾」を開きました。西洋の最新医学を学ぶことができる研究所、さらには最新医療の施術ができる診療所として、全国から医学を志す多くの若者たちが鳴滝塾の門をたたいたのです。また、ここは、シーボルトが塾生たちの協力を得ながら、日本を調査研究する拠点ともなりました。  今回は、シーボルトの足跡をたどる歴史散歩です。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2シーボルト宅跡  ↓徒歩で約30秒
  • 第25回 蘭学者 吉雄耕牛 2008年05月21日
    第25回 蘭学者 吉雄耕牛
    〜日本の学問をリードした蘭学〜 歴史のとびら  鎖国時代、唯一西洋との交易が許された長崎は、世界の情報を知ることができる「知の都」でした。日本では、出島をとおしてもたらされた西洋の最新科学や文化を研究する学問「蘭学」が生まれました。長崎で学ぶために、全国から多くの若者が訪れ、蘭学者として名高いオランダ通詞(通訳)が開く私塾の門をたたきました。遊学者のなかから優秀な人材が輩出され、日本近代化の礎となりました。 長崎遊学のススメ  「蘭学」とは、オランダ語の書物から西洋の学問を研究することです。鎖国時代、西洋との交易が許された長崎出島のオランダ商館をとおしてオランダ語の書物が日本にもたらされました。オランダ語を習得した通訳は、出島で貿易などの業務に重要な役割を果たし、長崎奉行所の組織のひとつに「通詞」という役職で組み込まれ、世襲制で代々受け継がれました。長崎では、オランダ語の通詞を生業とする吉雄家・楢林家・本木家などが活躍していました。  1720年(享保5)、幕府が西洋の書物の輸入を解禁すると、最先端の知識を吸収するためにオランダ人から洋書を輸入しはじめました。しかし、いくら洋書を購入しても、オランダ語がわからなければ内容を理解することができません。こうして全国から蘭学を学ぼうと多くの人々が長崎をめざしました。遊学者たちは、通詞として名高い蘭学者の私塾に通いながらオランダ語を学び、医学・天文学・本草学・地理学などのあらゆる西洋の学問を習得して、故郷の藩の発展のため、そして日本近代化のために尽くしたのです。  今回は、オランダ大通詞として活躍し、吉雄流紅毛外科を創設した蘭学者 吉雄耕牛をご紹介します。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2吉雄耕牛宅跡の碑 ↓徒歩で約10分
  • 第24回 伊王島 ぐるり!しま一周 2008年03月19日
    第24回 伊王島 ぐるり!しま一周
    〜キリシタン文化と近代化〜 歴史のとびら  長崎港の沖合に、並んで浮かぶ伊王島と沖之島。2つのしまは橋で繋がり、美しい海に囲まれたロケーションからリゾートアイランドとして人気のスポットとなっていますが、キリシタン文化や近代化遺産の歴史散歩も楽しめます。青い空と海に映える教会の風景、外国船を長崎港へと導いた灯台など、今回は伊王島を歴史散歩します。 キリシタン文化  伊王島におけるキリシタンの歴史は、徳川幕府の禁教政策(1614)によって、先祖からの伝承と信仰を守りながら厳しいキリシタン弾圧という時代を生き抜いたキリシタンたちが、天草などの各地から海を渡ってこの島にたどりついたのがはじまりといわれています。禁教時代には、役人の取り締まりの危険が迫ると一時的に船で避難しながら事態がおさまるまで耐えていたといわれています。  幕末、ペリーの浦賀来航をきっかけに日本は世界5ヵ国と修好通商条約を締結(1858)しました。翌年には横浜・長崎・新潟・函館・神戸を開国。長崎では外国人専用の居留地が整備され、住宅、学校などの洋館と教会堂が建ち並びはじめました。245年もの時を経て、日本の地に再びキリスト教の宣教師が訪れるようになり、大浦天主堂で浦上村の信者が信徒であることを告白しました(信徒発見・1865年)。その後も浦上四番崩れなどの弾圧がおこなわれますが、1873年にようやくキリシタン禁制の高札が撤廃され、キリスト教は黙認されることになりました。各地に潜んでいた信徒たちは貧しいながらも喜びのうちに、信仰の証として自らの手で教会堂を建てていきます。伊王島にも大明寺教会、そして沖之島には馬込天主堂が完成しました。 近代化  1866年(慶応2)、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスの4カ国と結ばれた改税条約(江戸条約)により、日本各地に設置された8つの灯台のうちのひとつが伊王島灯台です。伊王島灯台が完成したのは江戸から明治へと変わった年の1868年(慶応4)のことです。明治新政府からの要請を受けて日本へやってきたイギリス人の灯台技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが設計監督し、三菱長崎造船所の前身となる長崎製鉄所が工事に携わった日本初の鉄造六角形の洋式灯台です。隣には伊王島灯台を管理する吏員のために1877(明治10)に建てられた退職所があり、日本初の無筋コンクリート造りの洋館として県の有形文化財に指定されています。伊王島は昭和のはじめに炭鉱のまちとして栄えたしまでもあります。  今回は、馬込教会、大明寺教会、伊王島灯台と記念館をめぐる伊王島の歴史散歩です。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約1日 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2大明寺教会 ↓徒歩で約25分 or車で約3分 + 徒歩で約3分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4長崎市伊王島灯台記念館 1馬込教会(沖之島教会) キリシタン念願の祈りの天主堂  長崎港ターミナルから高速船に乗って出発です!  約20分の快適な船旅で到着した伊王島は、リゾートアイランドとして人気のスポットです。  長崎港の沖合に浮かぶ伊王島は、むかしもいまも長崎港を目指す船の目印。行き交う船の姿を眺めながら、南蛮船やオランダ船、唐船などが行き来した時代に思いを馳せました。  さあ、桟橋から歩いて馬込教会へと向かいます。教会下行きのコミュニティバスもありますので、タイミングがよければご利用ください。  馬込教会は、海に向かって建ち、丘の上にそびえるゴシック様式の教会堂です。  信徒の坂田シズヱさんにお会いして、お話を伺いました。  「教会堂を建設した頃の様子を、私の母からよく聞かされました。1家族から1人が工事の手伝いに行かされたそうです。教会堂の円柱は、海岸の砂を運んでつくったコンクリートの柱です。砂の粒子が粗くて、水をかけながらたわしで表面がツルツルになるまで磨いたのだそうです。ちょうど、入口の柱は磨く前の円柱です。砂粒が粗くでこぼこしていますでしょ。そして、内部の円柱は磨いた後です。みんなで力をあわせて教会堂を完成させたんです。」  「それから、祭壇の上のステンドグラスとエントランスの上にあるバラ窓の3つをご覧ください。馬込教会堂は昭和20年に長崎市松山町上空で炸裂した原子爆弾の影響を受けました。海を越えて伊王島にまで迫った爆風で、ほとんどの窓が破壊されてしまいました。これらのステンドグラスは奇跡的に残った貴重な窓なのですよ。」  坂田さん、貴重なお話をありがとうございました。  次は大明寺教会に向かいましょう。 2大明寺教会 モダンな教会の背景にキリシタン文化の歴史あり  <大明寺教会下>バス停から階段を登っていきます。大明寺の集落のほぼ中心に位置する坂の途中に、十字架の塔があるモダンな教会堂がみえてきました。  実は、伊王島で初めて建てられた木造の旧大明寺教会があったのですが、現在、「博物館 明治村(愛知県犬山市)」に移築され、大切に保存されています。外観はどこにでもありそうな普通の日本家屋ですが、一歩なかに入るとその印象は一変します。白い漆喰と木造リヴ・ヴォールトの均整がとれた美しいプロポーションは、凛とした祈りの空間をつくりだし、見る人の心をひきつけます。教会建築の初期の作品として国の登録文化財になっています。 ☆博物館明治村に移築された大明寺聖パウロ教会堂  今度は、伊王島の近代化遺産をみていきましょう。 3伊王島灯台 岬から長崎航路を行き交う船の安全を守る  大明寺教会から国道118号線を歩いて行きました。だんだんと傾斜がきつくなる坂をのぼり、灯台公園までの道のりを進みます。途中、伊王島海水浴場のコスタ・デル・ソルの浜辺が見えます。きれいに湾曲した砂浜と透き通る海の青さのコントラストがとても美しく、思わず写真におさめました。  夏は海水浴客で賑わうビーチです。もちろん、夏の伊王島もオススメですよ。  木の杭に書かれた<灯台入口>のバス停を目印に、さらに奥へと道を歩きました。  やっと見えてきました! 白く輝く灯台と広がる海。  この伊王島灯台は、慶応2年に幕府がアメリカなどの4ヶ国と結んだ改税条約(江戸条約)によって全国に設置された8つの灯台のうちのひとつです。日本の灯台の父と呼ばれるイギリスの技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが設計監修し、三菱長崎造船所の前身となる長崎製鉄所が工事に携わって完成させた日本初の鉄造六角形の洋式灯台です。  原子爆弾の爆風を受け改築されましたが、ドームの部分は当時のままの姿を残しています。 4長崎市伊王島灯台記念館(旧伊王島灯台旧吏員退息所) 日本ではじめて造られたコンクリートの洋館  記念館となっている建物は、明治10年、灯台を管理する吏員のためにつくられた退息所(官舎)です。コンクリート一部木造の洋館建てで、日本初の無筋コンクリート造りとして、県の有形文化財に指定されています。  記念館には、灯台に使われたレンズや灯台の模型などが展示されていて、灯台の歴史を知ることができますから、ぜひ見学しましょう。  こちらの建物は便所棟となっていますが、水廻りをまとめた棟です。五右衛門風呂のある風呂場、そして灯台長専用とスタッフ用にわかれたトイレがありました。灯台長専用のトイレは個室で、便器はなんと陶器!! オドロキました!   右の写真はテラスからの眺めです。晴れた日は五島列島が見えるとか。この日は五島は見えなかったものの、小春日和の心地よい風が吹いていました。  「旅する長崎学」を片手に歩く<ながさき歴史散歩>、"キリシタン文化"シリーズは今回で終了です。  次回からは、日本近代化のさきがけとなった長崎県の姿を描く"近代化ものがたり"をテーマに、オススメの散策コースをご紹介してきます。お楽しみに! 参考文献 「旅する長崎学5 キリシタン文化5」特集3-第1章 外国人宣教師が教会建築の先生企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 「長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社 2005年 「カトリック馬込教会 パンフレット」 制作/馬込教会 スタート地点までのアクセス 馬込教会(沖之島教会) 所在 長崎県長崎市伊王島2-617 お問い合わせ 095-898-2054 休み 平日の月~金曜 ミサ 要問合せ 駐車場 なし アクセス 船… 長崎港ターミナルより長崎汽船の高速船[コバルトクイーン]に乗船し(所要時間は約20分)、伊王島港ターミナルで下船。国道118号線を左に曲がり栄橋を渡り徒歩で約13分。 車… 伊王島港ターミナルより約2分。 バス… <伊王島港ターミナル前>より長崎市コミュニティバス伊王島線[沖之島教会]行きに乗り(所要時間は約5分)、<沖之島教会下>で下車し徒歩で約3分。
  • 第22回 平和を祈る長崎 2008年02月20日
    第22回 平和を祈る長崎
    〜永遠につなぐメッセージ〜 歴史のとびら  1945年(昭和20)8月9日午前11時2分、長崎市松山の上空約500メートルで爆発した原子爆弾は、プルトニウムによる核分裂エネルギーを放出しながら中性子が飛び出し元素の分裂が増幅するという巨大なパワーで、大量の放射線を撒き散らし熱線と爆風で都市を破壊。犠牲者は死者7万3,884人、負傷者7万4,909人(1950年長崎市原爆資料保存委員会調査)にのぼりました。一瞬にして廃墟となった焼け野原では、懸命に医療活動をしながら原爆病に関する報告書をまとめた永井隆博士たち医師の姿や、廃墟から復興しようとチカラを合わせる人々の姿がありました。みんなが願ったのは永久の平和でした。その想像を遥かに超える惨状を撮り続けたカメラマンや医師たちの膨大な記録から、現在の私たちは学ぶことができます。  今回は、松山町や浦上に残る原爆の遺構や資料館をめぐります。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約1時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2長崎原爆資料館 ↓ 徒歩で約18分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4浦上教会 ↓ 徒歩で約10分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6平和公園 1原爆落下中心地公園 グランド・ゼロ  1945年8月9日、アメリカ軍のB29ボックスカーは、原子爆弾を投下する第1目標とした小倉上空まで来たものの、焼夷弾による煙が障害となって投下を中止。第2目標の長崎上空へと旋回しました。  午前11時2分。長崎市松山町の上空約500メートルで原子爆弾が爆発しました。  長崎に投下された原子爆弾は、まちを破壊しました。爆風で一瞬のうちに廃墟となり、犠牲者の数は死者7万3,884人、負傷者7万4,909人(1950年長崎市原爆資料保存委員会調査)にのぼりました。  現在、原爆が落下された中心地は公園となっています。中心地の標柱がその位置を示し、横には原爆で破壊された浦上教会堂の赤レンガの一部が移設されています。  看板を目印に、下の川が流れる川面の方へと階段をおりると被災当時の地層を観察することができます。左の写真をクリックしてみてください。写真の地層をよくみてみると、原爆が投下された時の地層だけが熱線で黒く焦げています。そして、散乱している陶器の破片やガラス瓶、瓦などから積み重なっている様子から、一瞬に瓦礫となってしまったことがうかがえます。  松山町だけでも約300世帯が住んでいたそうです。原爆で人々が暮らしていた家、学校、そして家族までも奪ってしまったのです。 2長崎原爆資料館 原爆投下の惨状を知って、戦争の歴史を学ぶ  入口にあるスパイラル状のスロープは、まるでタイムスリップするかのように資料館へと誘導してくれます。ガラスドームから見える青空を見上げながら、原爆が投下された8月9日の雲ひとつない真夏の暑い日だったそうです。ミンミンと鳴く蝉たちも一瞬に音を無くした、そんな様子を頭にめぐらせながら資料館の入口へとスロープを降りていきました。  原爆が爆発した11時2分をさす柱時計、折れ曲がった中学校の給水タンク、浦上天主堂で信徒が持っていたロザリオ、溶けたビンなど、館内に展示されている原爆の遺構が当時の惨状を語っています。  この資料館では、核開発の歴史と人類が犠牲となった原子爆弾の投下までの歴史を学ぶことができます。  訪れた時に「アンネのバラ」が綺麗に咲いていました。このバラは、平成18年に”ふりそでの少女像を作る会”がこのバラの接木を寄贈したそうです。「アンネのバラ」とは、ベルギーに住む園芸家が開発した新種で、ナチスに捕らわれ強制収容所で命を落としたアンネの父に贈ったことから、平和の象徴として名付けられたそうです。接木したアンネのバラが資料館の花壇で毎年みごとな花を咲かせています。  実は花が咲いているのを初めて見たんです。この花壇の前を通る時、いつもつぼみだったので「どんな色の花が咲くんだろう?」と気になっていたのですが、オレンジとピンクが混じりあったステキなバラでした。展望台の花壇に咲いてましたよ。 3国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和を祈って、原爆犠牲者を追悼する空間  水盤の真下には、光が差し込む吹き抜けの追悼空間があります。ここには長崎に落とされた原子爆弾によって犠牲となった方々の名簿と遺影が永久に保存されています。訪れた人びとの誰もが平和の祈りをささげることができる空間です。  館内では、被爆者や関係者の人たちの体験をつづった手記や資料を閲覧することができます。  オススメしたいのが平和情報コーナーです。この一室に置かれたモニターでは、原爆被災地の長崎を体験した方々のインタビューをもとに関係資料をまじえながら詳しく学べるデータがまとめられています。原爆投下直後の長崎のまちを記録として残すために東京から派遣されたカメラマン、映画監督、画家、捕虜として長崎で働かされた時に被爆したイギリス人などの体験を学ぶことができます。さらに被爆医療の貴重な資料なども閲覧することができます。  白いカードやパソコンに平和の想いを言葉にして残しませんか? このメッセージはホームページで世界に発信されています。あなたの書いたメッセージが来館した人たちの目にとまって言葉でつながっていくかもしれませんね。 4浦上教会 長崎大司教区のカテドラル  浦上は、戦国時代からキリシタンの里でした。長く厳しい弾圧下でひそかに信仰を守りとおした人々は、居留地に建設された大浦天主堂で、1865年にプチジャン神父との出会いを果たします(信徒発見)。彼らは秘密教会をつくり信仰を続けますが、当時はまだ禁教下。浦上のキリシタンたちは捕らえられ、西日本を中心に全国へ総流罪となってしまいます(浦上四番崩れ)。1873年、キリシタン禁制の高札が撤去されて釈放となり、浦上に戻った人々の悲願は、教会堂を建てることでした。禁教時代に絵踏みや弾圧がおこなわれた庄屋の跡を買い、そこに仮聖堂を建てました。1895年になって本格的に教会堂建設がスタートし、着工から約30年の歳月を経て、当時東洋一と賞賛された美しい浦上教会を完成させます。  しかし、それからわずか20年度、第2次世界大戦の戦況が激化したある夏の日、浦上教会は、アメリカが長崎に投下した原子爆弾によって破壊されてしまうことになるのです。教会堂の周囲を散策すると、破壊した教会堂の壁や被爆したマリア像などの一部が原爆の遺構として保存されています。  原爆の爆風で、双塔の鐘楼が教会の横を流れる小川まで飛ばされました。爆心地から教会までの距離は約500メートル。地面に突き刺さるように残るその姿が爆風の威力を物語っています。この双塔は、教会建築の父と呼ばれる鉄川与助が造ったものです。  終戦を迎え、浦上の信徒たちは再び教会の復興を願って力を合わせました。左写真は手前が原爆投下で破壊された教会堂の一部で、奥が現在の浦上教会です。廃墟のなかから見つけだしたフランス製のアンジェラスの鐘は、今でも鳴り響いています。  永井博士は、アンジェラスの鐘を題材として平和を訴えた「長崎の鐘」を書きました。 では、長崎市永井隆記念館へと行ってみましょう。 5長崎市永井隆記念館 作家として父として、戦争のない平和な世界を発信した医学博士  永井博士は、長崎医科大学で放射技師として働いていました。戦争中、フィルム不足で直接肉眼で透視しせざるおえなかった医療の現場で大量の放射線を受け、白血病に冒されてしまいました。余命3ヶ月と宣告された、そのわずか2ヵ月後に被爆。重症を負いながらも、被爆した人たちの救護活動をおこないました。  永井隆博士は、浦上教会に再び鐘を鳴らそうと提案しました。神父や信徒たちは、爆風で飛ばされたフランス製のアンジェラスの鐘を廃墟から掘り起こし、3本足で組んだ丸太に吊り下げました。そして、原爆が落とされて初めて迎えるクリスマス・イブの夜のこと。浦上のまちに、被災者達の気持ちを奮い立たせるかのように鐘の音が響きわたったのです。翌年、永井博士はアンジェラスの鐘を題材として平和を訴えた「長崎の鐘」を書き、ベストセラーとなりました。  記念館には、永井博士の原稿や遺品が展示されています。2階の図書室には平和に関する本が自由に閲覧できますよ。  記念館の隣には、浦上の人たちが永井博士に贈った家が保存されています。わずか2畳一間の小さな家は、博士の座右の銘「己の如く人を愛せよ」から「如己堂」と名付けられました。病が進行して床に伏した永井博士は、如己堂を病室兼書斎とし、「花咲く丘」「この子を残して」などを書き残し、平和を訴えました。 6平和公園 平和を長崎から全世界に呼びかける  現在、平和公園となっている場所は、長崎刑務所浦上刑務支所があったところです。原爆が落下した中心地から道を挟んですぐ近くにあり、原子爆弾のさく裂で高さ4メートルの鉄筋コンクリートの壁は根元から倒壊し、その刑務所の壁の一部が原爆の遺構として残されています。  毎年8月9日、平和記念式典がおこなわれます。原爆で亡くなられた犠牲者の冥福を祈るとともに、長崎市長の平和宣言で、核兵器廃絶と平和のメッセージを長崎から世界へと発信しています。  今回の歴史散策で、平和のメッセージを発信し続ける遺構や手記・本などにふれ、“LOVE&PEACE 愛と平和”の灯りが世界中にともることを願わずにはいられませんでした。多くの人々が長崎を訪れ、そのメッセージがそれぞれの心に届きますように・・・。そして、次の世代へと永遠につなぐことができますように・・・。 参考文献 「旅する長崎学5 キリシタン文化編5」 特集5 巡礼地長崎で平和を考える企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 「旅する長崎学4 キリシタン文化編4」 特集2 浦上キリシタンはなぜ250念も信仰を守り通せたのか企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 「ながさき原爆の記録」 発行/長崎市 1996年 「浦上天主堂写真集」 発行/カトリック浦上教会 1999年 「長崎市永井隆記念館 展示物紹介パンフレット」 企画/長崎市 「長崎游学マップ1 原爆被災地跡に平和を学ぶ」 長崎文献社 2004年 スタート地点までのアクセス 原爆落下中心地公園 所在 長崎県長崎市松山町171 開館時間 常時可 駐車場 なし アクセス 路面電車… JR長崎駅より、[1番赤迫][3番赤迫]行きに乗車し<松山町>電停を下車し徒歩で約2分。国道206号線をわたった目の前にあります。 バス… 長崎バス…JR長崎駅よりご利用の場合。<長崎駅前>より[滑石][光風台・豊洋台][上横尾][虹が丘][西山台団地][恵の丘][女の都][桜の里ターミナル][上床][満永][時津][琴海][大串]行きに乗車し(所要時間は約8分)、<松山町>で下車し徒歩で約1分。国道206号線をわたった目の前にあります。 県営バス…JR長崎駅よりご利用の場合。<長崎駅前>より[女の都団地][西崎団地][サニータウン][6循環(三原団地・西山台団地)][西山台団地]に乗車し(所要時間は約8分)、<松山町>で下車し、徒歩で約1分。国道206号線をわたった目の前にあります。 車… JR長崎駅より約7分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約2時間)。  鳥栖駅より約1時間。佐賀駅より約1時間25分。諫早駅より約20分。 *JR長崎駅からは路面電車、バスまたはタクシーをご利用下さい。 長崎方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボス駅より約1時間20分。大村駅より約35分。 *JR長崎駅からは路面電車、バスまたはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。 ●JR長崎駅・空港へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第21回 「浦上村」の跡を訪ねて 2008年02月04日
    第21回 「浦上村」の跡を訪ねて
    〜祈りのまちを歩く〜 歴史のとびら 戦国時代から続くキリシタンの里  浦上地区は長崎市の市街地から北へ約3キロ。戦国時代には大村領として治められていましたが、1474年には島原半島を治める有馬氏の支配下となりました。そして1584年には、キリシタン大名の有馬晴信によって、浦上はイエズス会に寄進されます。それより前の1580年(天正8)、日本初のキリシタン大名 大村純忠も、長崎と茂木をイエズス会に寄進していました。 賑わう16世紀の浦上村−教会のある風景  1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布。翌年、イエズス会に寄進されていた大村領長崎と有馬領浦上を直轄地としました。しかし、秀吉はポルトガル船の来航を奨励したので、長崎には多くの教会が次々と建ち並び、異国の文化で賑わいをみせていました。浦上村にも、サンタ・クララ教会が建ち、外国人商人も訪れるキリシタンの里として栄えていきました。 密かに信仰を守る潜伏時代に突入  江戸時代になって、1605年のこと。長崎市街地の統治を円滑にするため、幕府は大村領長崎村をさらに幕府領に編入し、代わりに大村氏には幕府領となっていた浦上の木場村、北村、西村、家野村を代替地として与えました。こうして浦上は大村領と幕府領とに二分されてしまいました。  ついに幕府は、1614年に禁教令を発布。長崎に建ち並んだ多くの教会は破壊され、外国人宣教師たちは国外追放になるなど、キリシタンに対する厳しい弾圧がいよいよ始まりました。浦上村山里の、馬込を除く本原郷・中野郷・里郷・家野郷の4つの郷に暮らす人々のほとんどはキリスト教を信仰するキリシタンでした。信仰を守り伝えるため、ひそかに組織をつくり、約250年もの長く苦しい潜伏時代を過ごしました。 祈りの復活  幕末になって長崎港が開港されると、長崎には多くの外国人が住むようになりました。まだ日本人には信仰の自由は認められていませんでしたが、居留地には外国人のための教会堂や学校などが建ちはじめました。約250年間もの長いあいだ、信仰を守りとおしてきた浦上の人々は、1865年3月17日、意を決して大浦天主堂を訪れ、プチジャン神父と出会い、自分たちがキリスト教の信徒であることを告白したのです(信徒発見)。  浦上村では、再び信仰の自由を願う熱気が高まっていきました。村につくった4つの秘密礼拝堂「聖マリア堂」「聖ヨゼフ堂」「聖フランシスコ・ザベリオ堂」「サンタ・クララ教会」では、大浦天主堂から神父を迎えてミサや洗礼をおこない、信徒たちの心のよりどころとなりました。しかし、しだいに、寺請制度に従わず僧侶の立ち合いなしで自葬するなど、しだいに公然と信仰を表明するようになります。とうとう、長崎奉行所の知るところとなり、キリシタン取り締まりの手が秘密礼拝堂にのびて68人が捕らえられ、江戸幕府の政策を引き継いだ明治政府によって、さらに3千人を超える浦上キリシタンの総流配という厳しい信仰弾圧へとつながっていきました。キリシタンたちの潜伏組織をゆるがす一連の事件は「崩れ」といわれ、浦上でも度々起こりましたが、信徒発見以後に起こったこの大きな事件は「浦上四番崩れ」とよばれます。  今回は、どんな状況のもとでも信仰を貫き通したキリシタンたちの里「浦上村」を散策します。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2一本木山(聖マリアの山) ↓ 徒歩で約18分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4聖マリア堂(秘密教会)の跡 ↓ 徒歩で約5分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6聖フランシスコ・ザベリオ堂(秘密教会)の跡 ↓ 徒歩で約3分 img/sub/map_point8.gif' alt='8' />8ベアトス様の墓 ↓ 徒歩で約5分 img/sub/map_point1.gif' alt='1' />10赤城キリシタン墓地 ↓ 徒歩で約10分
  • 第20回 聖人コルベ神父の面影を訪ねて 2008年01月23日
    第20回 聖人コルベ神父の面影を訪ねて
    〜愛を伝えた20世紀の殉教者〜 歴史のとびら  コルベ神父の本名はライモンド・コルベといい、ポーランドの出身です。修道名に聖母マリアの名を合わせてマキシミリアノ・マリア・コルベと名のり、学業を順調に修めていきました。  1917年(大正6)、ローマの大神学院聖堂にある聖母マリアの祭壇の前に、司祭と若き神学生6人が結集しました。それは、混沌としたこの時代に、けがれなき聖母の心で、武器を持たず愛を持って戦う"聖母の騎士信心会"が創立した瞬間でした。そのメンバーのなかに、後に20世紀の聖人となる若き日のコルベ青年の姿がありました。彼は、わずか24歳で司祭となりました。  アジアでの布教活動の重要性を唱えたコルベ神父は、1930年(昭和5)、上海航路の船に乗り長崎に降り立ちました。コルベ神父は大浦の大神学校(旧羅典神学校)で哲学の教鞭をとりながら、南山手の洋館を借りて日本支部を設置し、一角に印刷所を構えました。そして、日本語の活字で印刷したキリスト教を優しく読み解く雑誌「聖母の騎士」の記念すべき第1号を発行したのです。翌年、本河内に拠点を移して無原罪の園修道院(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)を開設。持病の肺結核との闘病生活に、清貧の生活を送りながら、学校教育と出版作業に尽力する日々が続きました。日本語で書かれたわかりやすさに加えて、世界の情勢が載っている雑誌は次第に人気となって、日本全国からの購読者が増え、発行部数は初版1万部だったものが毎月6万2千部にまでに伸びていきました。  しかし、約6年間の滞在にピリオドが打たれる日がやってきます。コルベ神父は、母国ポーランドへと帰郷、第2次世界大戦の戦禍に巻き込まれナチス・ドイツ軍に捕らえられてしまいました。そして、1941年(昭和16)コルベ神父47歳のとき、アウシュビッツで、死刑を宣告されてふるえる若い父親の身代わりとなって殉教しました。帰天してわずか41年後の1982年(昭和57)に当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人となりました。  今回は、長崎を拠点にアジアの布教を展望した20世紀の聖人・コルベ神父をご紹介します。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約2時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2旧羅典神学校 ↓ 徒歩で約2分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4聖マキシミリアノ・コルベ記念館(本河内教会) ↓ 徒歩で約2分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6本河内ルルド(本河内教会) 1大浦天主堂 最初に訪れた教会  聖母の騎士修道会のコルベ神父は、アジアでの布教活動が重要だと考え、ゼノ修道士と、ほか3人と一緒に母国ポーランドを出発しました。1930年(昭和5)の春、聖母の騎士たちは上海航路を通って長崎に降り立ち、港に着いて最初に向かったのは、南山手に建つ大浦天主堂でした。石畳を歩いた先で、彼らを出迎えたのは純白のマリア像。知らない国で、自分たちが信じる聖母マリアの像に出会った瞬間は、彼らにとって安堵に満ちたときではなかったでしょうか。大浦天主堂で、コルベ神父は、日本人で初めて教区長となった早坂司教に会い、長崎支部の設置と雑誌『聖母の騎士』の出版の許可を受けると、すぐに執筆にとりかかり、ラテン語とイタリア語の翻訳の手配をするなど出版の準備にはいりました。  そして、雑誌『聖母の騎士』の記念すべき第1号は、『カトリック教報』の付録として、5月24日に出版されました。ちょうど長崎上陸の1ヶ月後のことでした。  『聖母の騎士』は、現在でも聖母の騎士社から出版され続けています。約80年もの歴史を持つ雑誌なんですね。 2旧羅典神学校 ラテン語で授業がおこなわれた大神学校  大浦天主堂の敷地内には、日本人の司祭を育成するための小神学校(セミナリヨ)がありました。コルベ神父は、早坂司教の依頼を受け、この学校で哲学を教えました。授業は全てラテン語でおこなわれていたので、羅典神学校と呼ばれていました。  天主堂の階段を下りて、もと来た坂道を戻ります。石畳をくだる途中の脇道を左折して、聖コルベ記念室へと行ってみましょう。 3聖コルベ記念室 コルベ神父たちを見守った赤レンガ造りの暖炉が残る  「聖コルベ館」という看板のある建物に入りましょう。お土産が陳列してある場所から奥に「聖コルベ記念室」があります。コルベ神父の生涯をまとめたパネルで、その足跡をたどることができます。  この一角は、コルベ神父たちが日本に上陸して1ヵ月後の1930年(昭和5)5月26日、田中雨森病院跡の木造洋館を借り、聖母の騎士信心会の日本支部を設置した場所です。仮の修道院と印刷所を備えて約1年間、ここで出版作業が続けられました。当時建っていた洋館は残念ながら火事にあって焼失してしまいましたが、跡地にはこの大きな赤レンガの暖炉が残ったのです。  長崎を舞台にキリスト教文学の作品を多く残した作家 故・遠藤周作氏は、焼失して荒れ果てたこの場所を訪れ、「このコルベ神父ゆかりの赤レンガの暖炉を残し、見学コースのひとつにしてほしい」と訴えたそうです。そして、その後、何度も長崎を取材して、原爆が投下される戦時下の悲しい恋を描いた小説『女の一生 第ニ部』(1982年)に、コルベ神父を登場させています。 4聖マキシミリアノ・コルベ記念館 本河内に移転し"無原罪の園修道院"を開設  コルベ神父は、彦山の急斜面の約7千坪の土地を1坪1円で購入し、南山手から移転。ルルドをつくり、神学校も兼ね備えた"無原罪の園修道院"を開設しました。  聖マキシミリアノ・コルベ記念館は、国道34号線沿いにある<番所>のバス停を降りて徒歩で約5分、敷地内の急な坂道の途中にある赤レンガの建物です。  館内には、日記、原稿、遺品、当時の印刷機と製本の機械など、コルベ神父にまつわるたくさんの資料が展示されています。また、アウシュビッツで殉教するまでの生涯をまとめたビデオを視聴することもできます。  中央には、当時使っていた机や椅子、本棚を再現した「コルベ神父の部屋」があります。中に入って近くでよく見てください。カンナがかかっていない質素な机で執筆をしていたことがわかります。肺結核に苦しみながらの闘病生活と、清貧を守って印刷の作業に明け暮れる日々が続いたのでしょう。  展示品の中に十字架があります。これは、整地するとき、お地蔵さんの建っていた場所を掘っていたら発見されたそうです。およそ300〜400年前に埋葬されたキリシタンの遺品ではないかといわれています。その昔、長崎は徳川幕府の禁教令によってキリシタンへの厳しい弾圧がおこなわれていた時代でした。  館長の小崎登明修道士は、作家 故・遠藤周作氏が長崎を取材したときに各地を案内したという方でした。コルベ神父の生涯を綴った『ながさきのコルベ神父』(1988年聖母の騎士社)などの著書もあります。 5聖者コルベ小聖堂 教皇ヨハネ・パウロ2世が祈った場所  次に、聖マキシミリアノ・コルベ記念館から本河内教会へと向かいましょう。  静かな見学を心がけながら、教会堂の内部におじゃましました。左側にあるのが「聖者コルベ小聖堂」。ここには、1981年(昭和56)、教皇として日本を初めて訪問したヨハネ・パウロ2世が、同じポーランド出身の福者コルベ神父のために祈りを捧げたときの台と椅子が置かれています。翌年、コルベ神父は、教皇ヨハネ・パウロ2世によって、聖人に列せられました。  教会堂を見学する際は、「教会見学のQ&A」「教会見学のマナー」を参考にしてください。  教会堂の裏手には、「聖母の騎士」を発行している聖母の騎士社がありました。今も変わらず続けられている雑誌づくり。聖人コルベ神父の遺志を継いだ歴史のある出版社なんですね。この出版社のある前庭が、"無原罪の園修道院"が建っていた最初の場所だそうです。 6聖母の騎士のルルド コルベ神父が開いた、聖母マリアの泉  看板を目印に、本河内教会堂から階段をのぼって約5分。彦山の中腹にルルドがありました。  ルルドとは、フランスの地名で、少女ベルナデッタの前に現れたマリアのお告げどおりに、足元の土を掘ると泉が湧き出し、病を治す奇跡の水となったことから、信仰を集める泉のことをいいます。  コルベ神父は、日本へ向かう途中に、フランスのルルドに訪れました。アジアでもこのようなルルドをつくろうと構想し、眺めもよく自然の豊かな彦山につくりました。  この日は、岩の間から湧き出る水を汲む人々が訪れて、祈りを捧げていました。  コルベ神父を診察した旧制長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)教授の永井隆博士も、原爆で受けた傷を癒すために、ルルドの泉の水を患部につけたそうです。  今回の旅では、コルベ神父の生涯をとおして、人間の過ちを露呈した戦争と日々の幸福について考えさせられました。神父は、世界の平和を願うなかで、愛と祈りこそがそれを実現できると考えたのではないでしょうか。アウシュビッツで、コルベ神父によって命を助けられた男性は、93歳まで長生きし、生命を後世につなぎ残しました。  また、コルベ神父とともに日本にやってきたゼノ修道士は、日本を選んだ理由を「第一次世界大戦でポーランドの孤児を救ったのは日本の赤十字。」と語ったそうです。第二次世界大戦で原爆が投下された長崎で、貧困にあえぐ子どもたちを救うために奔走したゼノ修道士たち、その献身的な姿があったということも印象に残った、今回の歴史散歩でした。 参考文献 「旅する長崎学5 キリシタン文化5」企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集5-第2章 かぎりない愛と救済に注いだコルベとゼノ 「ながさきのコルベ神父」 著/小崎登明 発行/聖母の騎士社 1988年 「長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」 監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社 2005年 スタート地点までのアクセス 大浦天主堂 所在 長崎県長崎市南山手町5-3 お問い合わせ 095-823-2628 開館時間 8:00〜18:00(入館17:45迄) 休館日 なし 料金 大人300円 中・高校生250円 小学生200円 *旧羅典神学校(キリシタン資料館)の見学料を含む。 アクセス 車… JR長崎駅より車で約7分。長崎自動車道をご利用の場合[ながさき出島道路]出口より左折し約3分。 電車… 蛍茶屋・公会堂方面から乗車の場合は、[5番 石橋行(蛍茶屋発)]に乗車し、<大浦天主堂下>電停を下車し徒歩で約3分。 長崎駅方面より乗車の場合は、<長崎駅前>より、[1番 正覚寺行(赤迫発)]に乗車し約5分、<築町>で降りる際に乗換券を貰って、向かいのホームへ移動し[5番 石橋行(蛍茶屋発)]に乗り換え(所要時間は約6分、<大浦天主堂下>電停で下車し徒歩で約3分。 バス… <長崎駅前>より[ダイヤランド][深堀(団地)][香焼・恵里][毛井首団地]に乗車し<グラバー園入口>で下車し(所要時間は約12分)、徒歩で約3分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約2時間)。  鳥栖駅より約1時間。佐賀駅より約1時間25分。諫早駅より約20分。 *JR長崎駅からは路面電車、バスまたはタクシーをご利用下さい。 長崎方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボス駅より約1時間20分。大村駅より約35分。 *JR長崎駅からは路面電車、バスまたはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。 ●●JR長崎駅・長崎新地バスターミナル・JR佐世保駅・空港へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第19回 深堀の城下町と善長谷教会 2008年01月09日
    第19回 深堀の城下町と善長谷教会
    〜禁教令に従う佐賀藩とキリシタンの里「善長谷」〜 歴史のとびら  長崎市の南西部に位置する深堀地区は、城下町の佇まいを残す風情ある港町です。海に恵まれた地の利を活かし、その昔から、往来する貿易商人との交流がおこなわれていました。  深堀の歴史は古く、縄文時代から生活が営まれていたことが、貝塚など遺跡の発掘調査によって確認されています。  "深堀"という地名の誕生は鎌倉時代にさかのぼります。上総国の (現・千葉)の三浦仲光は、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府方として活躍した褒美に、この肥前国彼杵庄戸町浦(現・深堀)を拝領しました。地頭職として赴任し、姓・町名ともに深堀と改名。その後、有馬氏から西郷氏、鍋島氏の支配下へと移行したものの、初代仲光から32代にわたります。  江戸時代、深堀は佐賀藩に取り込まれ、鍋島の姓に改名。6千石の家老職として勤める佐賀藩鍋島氏となり、居城を中心に武家屋敷などを整備した新しい城下町としての深堀を形成していきました。  佐賀藩鍋島は、諫早、神代(国見)、深堀を領地とし、外海の出津・黒崎・三重にも飛び地が存在していました。徳川幕府の禁教令によって、キリシタン弾圧がさらに厳しさを増していくなか、大村藩が支配する「内海」と呼ばれる大村湾周辺の厳しい監視から逃れるために、1823年、外海の三重東樫山に暮らしていたキリシタン6家族が新天地を求めて海を渡り脱出しました。彼らは、マリア観音やメダイを隠し持ち、旅芸人を装って善長谷へ移住したそうです。菩提寺の檀家となりながらも、ひそかにキリスト教の信仰を守り続けました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約4時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2深堀義士の墓 ↓ 徒歩で約30秒 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4五官の墓 ↓ 徒歩で約60分 or 車で約10分
  • 第16回 神ノ島 巡礼の旅 2007年11月21日
    第16回 神ノ島 巡礼の旅
    〜殉教の歴史と聖母マリアをめぐる〜  「歴史発見コラム」の第24回で訪れた"女神"をはじめ、"立神""石神"など「神」が付く地名が多い長崎。なかでも、長崎港に入る船の中から見える白いマリア像がたつ"神の島"は、いったいどんなところなのでしょうか? 神の島は、白亜の教会が輝く港町。神ノ島教会の存在には、殉教の歴史と信仰の復活に願いを込めて活躍したキリシタンたちの物語がありました。長崎のキリスト教がたどった歴史にクローズアップして、今回は、「神ノ島 巡礼の旅」にでかけました。 歴史のとびら  神ノ島は、長崎港の玄関口にある小さな港町です。もとは、船でしか往き来できない約1キロほどの小さな島でした。17世紀に徳川幕府が発布した厳しいキリシタン禁教令のもとでは、その不便な地がゆえにキリシタンたちが潜伏しました。そして、250年以上もの長い間、子から孫へと何代も信仰を守り続けたのです。  禁教令が発布された3年後の1617年(元和3)。神ノ島の沖合いに浮かぶ高鉾島で、殉教事件が起こりました。宣教師をかくまった宿主2人が首を斬られたのでした。この事件は、長崎で一般の領民であるキリシタンが処刑された最初の事件となったのです。オランダ人は高鉾島をパーペンベルグ(キリシタンの島)と呼んでいたといいます。  1853年のペリー来航をきっかけに、日本は鎖国に終わりを告げて開国の道を選択しました。世界五カ国と修好通商条約を結び、近代化に向かって歩み始めた19世紀中頃のこと。パリ外国宣教会(カトリック系)から派遣されたフランス人のプチジャン神父は、長崎の南山手にできた外国人居留地に、日本二十六聖人のための大浦天主堂を建てました。日本で宣教活動を再スタートしたくても、まだ禁教令は解かれていませんでした。長崎のキリシタンたちは、厳しい弾圧に耐え、潜伏しながらマリア信仰を心のよりどころに、先祖から伝えられた「パードレ(神父)の再来」を信じていました。この伝承を代々にわたって250年以上もの長いあいだ信じてきた浦上村の信徒が、大浦天主堂をこっそりと訪れました。そして、プチジャン神父と出会い、信仰を告白したのです。この出来事は、日本にキリシタンが存在していた奇跡「信徒発見」として海外にも知られることとなりました。これをきっかけに、これまで各地に潜伏していたキリシタンたちが信徒であることを打ち明けていきました。  神ノ島には、昔からキリシタンが多く潜伏していました。帳方で兄の西忠吉と水方で弟の政吉の兄弟は、信仰の復活を願いながら命をかけて舟を漕ぎ、対岸の大浦天主堂の門をたたき信徒であることを告白しました。その後、プチジャン神父を連れてキリシタンが住む里を案内しながら布教活動を手伝いました。やがて西兄弟の献身的で勇気ある行動は役人に見つかってしまいます。まだ禁教が解かれていない緊迫した時代だったため、とうとう1871年(明治4)、役人に検挙されてしまいました。  1873年(明治6)、キリシタン禁制の高札が撤廃されて、キリスト教の信仰が黙認されるにいたりました。ブレル神父が神ノ島に赴任して1876年(明治9)に仮の教会を建立。5年後には2代目ラゲ神父によって木造教会を建立。1897年(明治30)に6代目として着任したデュラン神父が自らの私財を投じて、教会堂を煉瓦造りに建て替え、現在の姿の原型となりました。  神ノ島は、戦後に埋め立てられて陸続きとなり、現在では気軽に車で行き来できるようになりました。船から長崎に入ると、港の玄関口の左手に航海の安全を見守る純白のマリア像が出迎えてくれます。今回は、小さな港町「神ノ島」を歩いてみましょう。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2高鉾島 ↓ 神ノ島教会より徒歩で約8分