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県南エリア

  • 第15回 小説の舞台を歩く(2) 2007年11月07日
    第15回 小説の舞台を歩く(2)
    〜遠藤周作・外海編〜  劇的な歴史的背景を持つ長崎県は、文学、史学、音楽、芸能、宗教などなど、様々な分野に携わる人々を魅了し続けてきました。  作家・故 遠藤周作さんを、「長崎県人」だと思っている人は案外多いのではないでしょうか。小説を書こうとするときは、まず長崎が眼にうかぶとおっしゃるほどまでに長崎を愛し、幾度も取材で訪れ、心の故郷と言ってくださった方です。遠藤文学のファンは多く、いまも遠藤先生の足跡をたどる旅や小説の舞台をめぐる旅に出かける人たちもたくさんいるようです。  今回は、遠藤周作こと狐狸庵先生が訪れた場所に注目して、小説『沈黙』『女の一生』などの舞台になった外海をご紹介します。効率よくまわるコース順もあるけれど、せっかくなので場所と時間帯のロケーションとシチュエーションがかもしだす雰囲気を味わいながら外海を巡る、1日かけてのルートでご紹介します。 歴史のとびら  長崎市の北西に位置する外海地区は、固有の文化を育んだキリシタンの里です。深く続く山々と海に面して切り立った岩。山あいにひっそりと建つ教会は歴史の歩みを物語っています。そして角力灘(すもうなだ)に面する碧い海原に向かうと、晴れた日には水平線と五島が見え、夕陽が刻々と沈み黄金色に染まっていく幻想的な風景に出会えます。外海には、人々を魅了する要素がたくさんあります。長崎市街からは、サンセットオーシャン202( 国道202号線)を車で走り、約50分の距離。日帰りで楽しめるドライブコースとしても人気です。  外海は、1563年にキリスト教の洗礼を受けて日本初のキリシタン大名 となった大村純忠が治めた領地のひとつでした。1587年、純忠の死後すぐに発布された豊臣秀吉の伴天連追放令によって、キリシタン武将として活躍した籠手田氏や小西行長らの家臣の一部が平戸や肥後から外海の大野郷へ移り住んだといわれます。さらに1614年の徳川幕府の禁教令は、キリシタン迫害に厳しさを増します。純忠の息子 喜前(よしあき)は幕府の禁教政策をいち早く見極め、日蓮宗に改宗し、領内のキリシタン取り締まりを強化していました。1617年に宣教師4人が殉教し、その後大村領では弾圧が続きました。  特に1657年に起こった「郡崩れ」と呼ばれる迫害では400人以上ものキリシタンが斬首となり、この衝撃は大きく、以降、大村湾を囲む大村城下や内海(西彼杵半島の東側)では、キリシタンは姿を消したとされています。一方、角力灘(すもうなだ)に面し断崖絶壁の厳しい環境にあった外海(西彼杵半島の西側)の方は、交通が不便で監視の目も行き届かず、また、黒崎や出津などには佐賀鍋島藩の飛び地があって取り締まりは緩やかだったようです。キリシタンたちは潜伏して、信仰の灯火を絶やすことはありませんでした。  1797年、五島藩からの開拓移民の要請があったとき、外海のキリシタンたちは信仰の安寧の地を求めて、3,000人以上が海を渡って五島へと移住しました。しかし、良好な土地には住めず、山間部のへき地での貧しい暮らしに、《五島へ五島へと皆行きたがる。五島は極楽行ってみて地獄。》といった過酷な生活を物語る歌も残っています。  外海でも五島でも密かに身を隠しながら、キリスト教の教えと信仰は子から孫へと代々伝承され、約250年もの長い間、守り続けられたのです。そして、外海のキリシタンたちが待ち望んだ司祭が登場するのは明治の時代。1879年にパリ外国宣教会のフランス人ド・ロ神父が外海へと赴任してきました。貧困にあえぐ人々を救うために、福祉・医療・産業などの技術を伝授し、教会をつくり、外海の人たちの生活の自立を支援するとともに、その信仰を復活させたのでした。  作家・故 遠藤周作氏もこの町に魅せられたひとり。約3ヶ月に1度のペースで長崎各所を取材するなかで外海も度々訪れ、人々に直接インタビューをしたりしています。キリシタンの里「外海」を舞台に『沈黙』『女の一生』などの小説が誕生しました。遠藤周作こと狐狸庵先生が"心の故郷"として愛したこの地には、1987年(昭和62)に「沈黙の碑」が建立され、2000年(平成12)には「遠藤周作文学館」も完成し、多くの人々が訪れています。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約1日 1沈黙の碑(出津文化村にある外海歴史民俗資料館の前) ↓ 出津文化村の各施設は半径約250mの範囲内にあります 2出津文化村 ↓ 旧出津救助院より約10分 3ド・ロさまのお墓(野道キリシタン墓地) ↓ 車で約10分 + 徒歩で約5分 4バスチャン屋敷 ↓ 車で約20分 + 徒歩で約10分 5枯松神社 ↓ 徒歩で約5分 + 車で約5分 6黒崎教会 ↓ 車で約3分 7長崎市遠藤周作文学館 1沈黙の碑(出津文化村にある外海歴史民俗資料館の前) 遠藤文学の記念碑  遠藤文学の原点ともいえる作品を記念した石碑が、出津文化村にあります。碑には、小説『沈黙』から "人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです" という一節が刻まれています。この石碑の前に立ち、周りを見渡すと、遠藤周作文学館、碧く輝く角力灘、厳しい迫害を逃れ潜伏キリシタンたちが隠れた山々・・・、断崖絶壁と入り組んだ地形に守られた"トモギ村"の輪郭が浮かび上がります。  角力灘を眺めると、雲間に光を射すその天高くに、神の存在を信じたくなるような…。これほどまでに自然の崇高さを感じることはないと思えるような・・・。ただただ、目の前にある自然の状況を受け入れて見ているしかない感じは、不思議な感動を与えてくれます。沈黙の碑を前に、狐狸庵先生も見た海をいつまでも眺めていたくなりました。 2出津文化村 住民の自立支援を支えたド・ロ神父ゆかりの施設  西出津町にある出津文化村は、「旧出津救助院」「出津教会」「ド・ロ神父記念館」などド・ロ神父ゆかりの施設がある一帯をいいます。救助院前の道を歩いていると、「どこからお見えですか。」と、シスターがやさしく声をかけてくれました。ある雑誌のコラムで、狐狸庵先生がこの路上でシスターと会話していた写真があったのを思い出しました。今も変わらない光景があるのも、外海の魅力だなと思いました。  狐狸庵先生は、ド・ロ神父記念館から出津教会へと続く「歴史の道」を歩きました。この道は、さらに歴史をさかのぼれば、ド・ロ神父やキリシタンも歩いた道。  外海は、『女の一生』に登場する主人公サチ子の女友人の出身地として、この地の暮らしを語るシーンとして登場します。 3ド・ロさまのお墓(野道キリシタン墓地) 外海に一生を捧げたフランス人神父のお墓  出津文化村の旧出津救助院から坂道を下って左へ。出津小学校の方へ向かいましょう。右手にたくさんのお墓が並ぶ斜面が見えてきます。野道橋を渡り、赤煉瓦の門からおじゃまします。  中腹にド・ロ神父の眠る十字架のお墓があります。ド・ロ神父は、当時貧しい生活をしていた外海の人々を救うために、私財を投じて数多くの事業をおこなった人です。パンやマカロニ、製粉、搾油、ソーメンなどの製造を教え、さらにイワシ網工場、農業、土木の技術を指導し、医療活動もしました。あらゆる方面に知識と能力を持っていたド・ロ神父の才能には驚かされます。地元では、いまも神父への敬愛と感謝の気持ちを込めて、「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれています。  さらに奥へと進むと、山肌に沿って昔のキリシタン墓碑がたくさん並ぶ光景。代々受け継がれ守られてきた歴史の営みを感じます。 4バスチャン屋敷 日本人宣教師の隠れ家  ド・ロさまのお墓のある野道キリシタン墓地から車で約15分ほど走り、途中から歩いて目的地へ進みます。  宣教師の国外退去命令が下されたとき、外国人神父ジワンは、日本を離れる前に、バスチャンにキリシタン暦の日繰り帳を託しました。バスチャンは日本人の伝道師で、浦上村や外海地区の人々に日繰りや予言などを伝承していた人物です。洗礼名が訛ってバスチャンと呼ばれていたようです。幕府の禁教令によってキリシタンに対しての弾圧が厳しくなり、役人に見つからないように隠れていたといわれる屋敷の跡なので、人影のない暗い山奥にポツンとあります。苔むす林に石積みの家で、キリスト教の教えを説いたのでした。現在は、その跡地に建物が復元されています。  じっと佇むを、静かな林の中から、小説『沈黙』に登場するロドリゴの逃げる足音が聞こえてくるような気がします。 5枯松神社 外国人のサン・ジワン神父を祀った神社と祈りの岩  神社とは、日本固有の神道の神々を祀る建物です。では、なぜ神社にキリスト教の宣教師が祀られているの?と疑問を抱く方も多いはず。通称"キリシタン神社"と呼ばれるこの建物は、日本人伝道師バスチャンが、師と仰ぐジワン神父を祀った神社です。江戸時代の禁教令を取り締まる役人に見つからないように、神社の造りにしてカムフラージュしました。キリシタンだとわかれば苦しい拷問、信仰を棄てなければ殉教。過酷な時代を偲ばせる場所です。  毎年11月3日に開かれる「枯松神社祭」では、カトリックの慰霊ミサとかくれキリシタンのオラショ奉納が一緒におこなわれています。  祠のそばには"祈りの岩"と名付けられた大きな岩があります。潜伏時代に、黒崎地区の人たちが集まって、子どもたちにオラショ(祈り)を伝承したといわれる場所です。 6黒崎教会 外海の丘に建つ赤煉瓦の教会  階段をのぼると、その歴史を物語るようにそびえる立派なソテツが四方に葉を伸ばし、マリアさまの像が旅する人たちをやさしく迎えてくれます。この赤煉瓦の教会は、ド・ロ神父の設計図をもとに、ハルブ神父が赴任した大正時代に完成しました。敷地の造成から始まり、途中資金難により一時建設が中断したことも。子どもたちも煉瓦運びに奉仕するなどして、完成までに計画から20年以上もの歳月がかかったそうです。  この教会の玄関口にある、聖母マリア像が黒崎海岸を見守っています。  狐狸庵先生は、黒崎教会の神父さまや、黒崎に住む人にかくれキリシタンや伝承についてインタビューしたそうです。 7長崎市遠藤周作文学館 遠藤文学の魅力に触れる  外海地区を「神様が僕のためにとっておいてくれた場所」と語ってくれた狐狸庵先生。没後4年目(2000年)にこの文学館がオープンしました。館内には、生前の愛用品や生原稿、足跡を紹介したパネルなどの展示があり、企画展なども開催されています。  今回の旅で、この場所を最後にしたのは、キレイな夕陽を見てほしいからです。日没の時間になったら、さぁ、テラスに出てみてください。赤く水平線に落ちていく太陽を受け入れる海の色は、コースの一番最初に"沈黙の碑"の場所で見た表情とは違っています。陽が沈むと同時に帰ってしまう人も多いと思いますが、それからしばらく微妙に移りゆく空の色の美しさがオススメです。自然のキャンパスに描かれる色彩の変化に心奪われることと思います。  外海の印象は、まさに"光と影"でした。さえぎるもののない太陽の光、ステンドグラスを透過する教会の光、角力灘の波間に反射する波の光、夕陽が染めるオレンジ色の光など、まるで太陽に向かっているように、そして宗教絵画にみるような光の筋。それとは対照的に、禁教で光の届かない山中に隠れなければならなかった歴史の影。訪れるたびに違う大自然の表情が印象的でした。  外海地区は、歴史の歩みの積み重ねによって醸し出されている独特の空気が、自然おりなす美しい景観を包み込むような町です。 旅人コメント 「歩いて約2分のところに、<道の駅 夕陽が丘そとめ>があります。バイキング形式で地元の料理を楽しめます。いろんな種類があって、ド・ロ神父の故郷であるフランスのヴォスロールの郷土料理もあるんですよ。ヘルシーな田舎料理ということで人気だそうです。」 参考文献: 『沈黙』 著/遠藤周作 発行/新潮社 1966年 『女の一生 二部』 著/遠藤周作 発行/新潮社 『旅する長崎学4 キリシタン文化4』 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 『旅する長崎学6 キリシタン文化 別冊 総集編』 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2007年 写真資料: 「出津文化村遠景(旧外海町)」 長崎県観光連盟 「長崎市遠藤周作文学館 書斎コーナー」 長崎県観光連盟 スタート地点までのアクセス 沈黙の碑 所在 長崎県長崎市出津(出津文化村内にある外海歴史民俗資料館の前) 開館時間 見学自由 アクセス 車… JR長崎駅周辺より国道202号線を北上し約50分。JR佐世保駅周辺より国道202号線を南下し約85分。 バス J長崎駅前・長崎新地バスターミナルより[板の浦(桜の里ターミナル経由)]行きに乗車して約1時間15分、<出津文化村>で下車、徒歩で約5分。 * 直行は朝と夕方のみ。<桜の里ターミナル>で[板の浦]行きに乗り換えることもできます。 * 事前に帰りのバスの時刻を確認しましょう。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約2時間)。鳥栖より約1時間。佐賀より約1時間25分。諫早より約20分。JR長崎駅からは路面電車・バスまたはタクシーをご利用下さい。 佐世保方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボスより約1時間20分。大村より約35分。長崎駅からは路面電車またはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。 ●各出発点へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第14回 小説の舞台を歩く(1) 2007年10月17日
    第14回 小説の舞台を歩く(1)
    〜遠藤周作・長崎編〜  劇的な歴史的背景を持つ長崎県は、文学、史学、音楽、芸能、宗教などなど、様々な分野に携わる人々を魅了し続けてきました。  作家・故 遠藤周作さんを、「長崎県人」だと思っている人は案外多いのではないでしょうか。小説を書こうとするときは、まず長崎が眼にうかぶとおっしゃるほどまでに長崎を愛し、幾度も取材で訪れ、心の故郷と言ってくださった方です。遠藤文学のファンは多く、いまも遠藤先生の足跡をたどる旅や小説の舞台をめぐる旅に出かける人たちもたくさんいるようです。  遠藤周作こと狐狸庵先生が長崎の街を初めて訪れたのは1964年のことでした。ふらりと立ち寄った南山手十六番館(現在閉館)、ふと足を止めた彼の目に映ったものは、黒い足指と磨耗したキリストの顔が置かれた一枚の"踏絵"。この踏絵との衝撃的な出会いが小説『沈黙』執筆の原点になったのです。狐狸庵先生は、3ヶ月に1度くらいのペースで、キリシタンゆかりの地を精力的に取材し、長崎を舞台にした作品を手掛けました。今回は、遠藤周作こと狐狸庵先生が訪れた場所に注目して、長崎市街のキリシタンの歴史をたどってみることにします。 歴史のとびら  作家・故 遠藤周作は、キリスト教をテーマに、心の奥深くに潜む日本人の本質に鋭く迫った作品を数多く残した作家です。  少年時代に戦争を経験。幼少の頃にキリスト教の洗礼を受けています。フランス留学の後、『白い人』『海と毒薬』などの小説を発表しました。  41歳のときに取材旅行で初めて訪れた長崎。16世紀後半にはキリシタンの町として南蛮文化が華開き、その後の禁教令と迫害、そのなかで密かに信仰を紡いできた歴史的な背景をもつ長崎の地で、西欧の文化・宗教を前にした日本人の葛藤とその根底にある深い歴史を吸収し、作品へと反映したのではないでしょうか。  長崎を舞台にした作品は、禁教時代の厳しい弾圧の長崎を舞台にキリスト教に転んだ(棄教)ポルトガル人宣教師の心の模様を描いた小説『沈黙』、禁教下でキリシタンとして捕らえられた浦上村の女性を描いた『女の一生』があります。また、自らを狐狸庵としてユーモラスなエッセイや長崎の旅の様子を紹介したコラムなども数多く執筆しています。  今回は、狐狸庵先生の取材した長崎市街のスポットを歩いてみましょう。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約4時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2晧臺寺(こうたいじ) ↓ らんらんバスで約10分 or 徒歩で約25分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4西勝寺 ↓ 徒歩で約20分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6南蛮船来航の波止場跡の碑(長崎県庁付近) 1風頭公園 禁教時代の風景を想い描く  長崎市のほぼ中心に位置する風頭公園。古い町並みを残す寺町界隈から一本脇道の"龍馬通り"へと入ります。坂本龍馬が一時住んでいたという場所へ行く通りは、階段が続くなんとも長崎らしい坂道です。さて、山手へと進んで、緑生い茂る風頭公園の展望台へと向かいましょう。  狐狸庵先生はこの公園を訪れ、眼下に広がる長崎の風景を眺めながら、16世紀の長崎の街とポルトガル船が入ってきた頃の港の様子に思いを馳せました。  現在の県庁が在るあたりを見てみましょう。江戸町から万才町付近です。1570年(元亀1)、キリシタン大名の大村純忠が長崎の開港を決め、翌年にはポルトガル船が初入港。"長い岬の台地"には新しい町6町、島原町・平戸町・大村町・横瀬浦町・外浦町・分知(文知)町がつくられ、他の領地から追放されたキリシタンたちが移り住みます。さながら"小ローマ"のようだと称され、1580年には茂木とともにイエズス会に寄進されました。この岬の突端が現在の県庁のところで、当時は教会・コレジヨ(キリシタン学校)・イエズス会の本部が設置され、日本におけるキリスト教布教の中心でした。  今回の歴史散歩では、山の裾野に広がる長崎市街の界隈をぐるっと歩いてまわります。この風頭山から、すり鉢の底のような長崎の地形をじっくり観察しておきましょう。歴史ガイドブック『旅する長崎学』を愛用してくださっている方は、『キリシタン文化Ⅰ』の35ページに掲載されている「寛永長崎港図(部分) 長崎歴史文化博物館蔵」と比較しながら眺めると、当時の様子がイメージできますよ! 2晧臺寺(こうたいじ) 『沈黙』に登場するフェレイラの墓探し  小説『沈黙』では、"フェレイラ"が住んでいたお寺という設定で、ここ晧臺寺が登場します。  フェレイラは、17世紀の日本に実在した人物です。彼は日本で布教活動をしていたイエズス会のポルトガル人宣教師で、徳川幕府の禁教令によって捕らえられ、厳しい拷問の末、殉教することなくキリスト教を棄てて改宗し、日本名を沢野忠庵と名乗り生き続けた人物です。  小説では、仏教に改宗したフェレイラと、日本へと潜入し幕府に捕らえられた主人公ロドリゴが面会するシーンが、この境内を舞台に繰りひろげられます。  実は狐狸庵先生、晧臺寺にあるものを探しにやってきました。それはフェレイラが眠るお墓でした。結局、先生は境内の裏山に並ぶ墓地から見つけることはできずに長崎の旅を終えたようです。気になるフェレイラのお墓の謎を探るべく、いざ晧臺寺へ!  このお寺では毎週土曜日に坐禅会が催されています。特別に撮影の許しをいただき坐禅体験にも参加させてもらいました。蝋燭の火が灯る僧堂に入り、呼吸を整えて自分の心と向き合い、静かに時が流れていきます。坐禅を終えて、さっそく方丈さまにフェレイラのお墓はどこにあるのか質問してみました。「昔はこの裏山にフェレイラのお墓があったそうですが、関係者の方の手によって東京へとお墓を移したと聞いていますよ。」と教えてくださいました。坐禅の様子は、歴史発見コラムの第26回(10/17更新)をご覧ください。 3レストラン「銀嶺」(長崎歴史文化博物館の敷地内) 狐狸庵先生、長崎の味に舌鼓!  狐狸庵先生は、長崎での取材のときには、お気に入りのお店にも足を運ばれたようです。そのなかのひとつ「銀嶺」をご紹介しましょう。朝食をとったり、取材の合間に珈琲を飲んで休憩したり、仲間の皆さんと一緒にお酒を飲んだりと、馴染みのお店だったそうです。  銀嶺は、先ほどご紹介した晧臺寺(こうたいじ)にほど近く、鍛治屋町通りと崇福寺通りの交差する一角に西洋料理の老舗として店を構えていました。現在は、立山にある長崎歴史文化博物館の敷地内へと移転。店内に一歩入ると、当時の面影を残す骨董品が各所に飾られています。狐狸庵先生も飲んだという珈琲を一杯いただいて、ちょっと一休み。  このお店の橋本京子様に、狐狸庵先生との思い出をインタビューしてきました。歴史発見コラムの第27回(10/24更新)もご覧ください。 4西勝寺 フェレイラのサインを発見!  浄土真宗西本願寺の西勝寺には、「キリシタンころび証文」(上写真)が歴史的な資料として大切に保管されています。これは、厳しい弾圧に堪えかねて改宗を誓った九介夫婦の証文です。奉行所に提出するはずのものですが、誤って書き損じた証文がこのお寺に残ったそうです。残念ながら、この証文は非公開です。  キリスト教を棄て、宣教師の身分をすてたポルトガル人フェレイラは、「キリシタン目明し」という全く逆の立場になってしまいます。潜伏するキリシタンを見つけては長崎の奉行所へ通報し、ころび証文にサインをする。そんなフェレイラの姿が目に浮かびます。  狐狸庵先生は、このころび証文を手にとり、沢野忠庵となったフェレイラのサインを見て「その文字、まことにあわれだった。(「切支丹時代の智識人」『展望』昭和41年1月号より引用)」とコメントを残しています。 5長崎奉行所西役所の跡 フェレイラが拷問を受けた場所  今回のコースのスタート地点・風頭山からイメージして眺めた"長く突き出た岬"を覚えていますか。その岬の突端が現在の長崎県庁です。ここには、1571年(元亀2)、新しい長崎の町づくりとともに、岬の教会と呼ばれた「サン・パウロ教会」が建ちました。幾度かの建て替えや破壊を経て、1593年頃には日本のイエズス会本部が置かれ、1601年には当時の日本で最も大きく美しいといわれた「被昇天のサンタ・マリア教会」が完成しました。しかし、1614年には徳川幕府の禁教令で破壊され、跡地には長崎奉行所西役所ができました。この場所は、フェレイラが"穴吊り"という拷問を受けたところです。  狐狸庵先生は、夜の県庁通りを歩くとき、酒に酔いながらもふとフェレイラの痛ましい呻き声が聞こえるような気がしたそうです。 6南蛮船来航の波止場跡の碑(長崎県庁付近) キリシタンの歴史を刻む長崎港  狐狸庵先生は、県庁坂を海の方へおりて、潮の香りがする大波止にでました。  長崎県庁前の坂の途中に「南蛮船来航の波止場跡」の碑があります。レトロに佇む県庁第三別館(1923年創建)の玄関入口の左脇です。  この碑を目印に路地へ入るとすぐ「江戸町公園」があって、県庁の裏手の石垣を見ることができます。この石垣の下の方は、長崎奉行所時代のものと思われ、昔はここが岬の突端で、周辺は海だったことを物語っています。16世紀後半の長崎港には、赤い十字のマストを張ったポルトガル船が停泊し、ここから天正遣欧少年使節がローマへと旅立ちました。17世紀になって、禁教令で捕らえられた外国人宣教師たちが船に乗せられて追放されたのもこの港でした。  狐狸庵先生の小説の舞台となった長崎を歩く歴史の旅。今回は、狐狸庵先生が取材したキリシタンゆかりの場所に注目して長崎市街を巡りました。狐狸庵先生は3ヶ月に一度のペースで、長崎市街だけでなく県内各地を入念に取材しています。隠れキリシタンの里として知られる外海、島原の乱の舞台となった島原半島、キリシタンの里の浦上、教会が点在する五島など。次回は外海をご紹介しますのでお楽しみに! 参考文献: 『沈黙』 著/遠藤周作 発行/新潮社 1966年 『旅する長崎学1 キリシタン文化1』 企画/長崎県 制作/長崎文献社 『旅する長崎学4 キリシタン文化4』 企画/長崎県 制作/長崎文献社 『批評』「沈黙フェレイラについてのノート」昭和42年4月号 『沈黙の声』プレジデント社 平成4年7月 『芸術生活』「踏絵」 昭和39年6月 『夕刊フジ』「コクのある長崎の街を歩く」 昭和52年9月13日 『毎日新聞』走馬燈6長崎<フェレイラのこと> 昭和51年3月7日 『夕刊フジ』「怪しい者ではありません」昭和52年9月13日 写真資料: 「長崎市遠藤周作文学館 書斎コーナー」 長崎県観光連盟 「風頭公園より長崎市街夜景」 長崎県観光連盟 「きりしたんころび証文」 西勝寺蔵 「長崎奉行所(西役所)」 長崎県観光連盟 スタート地点までのアクセス 風頭公園 所在 長崎市伊良林3-516-6 お問い合わせ先 長崎市役所 みどりの課(長崎市桜町2-22 TEL/095-829-1171) 駐車場 なし 長崎市の公園 http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kouen/ アクセス バス JR長崎駅方面より長崎バス[風頭山]行きに乗車し終点<風頭山>で下車し、徒歩で約10分。 路面電車… [3番・蛍茶屋-赤迫][4番・蛍茶屋-正覚寺][5番・蛍茶屋-石橋]に乗車し<公会堂前>もしくは<新大工町>で下車し、龍馬通りの坂を上り約25分。 車… JR長崎駅より長崎市公会堂(魚の町)付近で車を駐車。龍馬通りの坂を上り約25分。 長崎自動車道をご利用の場合、川平ICより長崎バイパス(西山トンネル)を通り西山方面でおりる。県道235号線を走って約10分、長崎市公会堂(長崎市魚の町)付近で駐車。徒歩で約10分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約2時間)。鳥栖より約1時間。佐賀より約1時間25分。諫早より約20分。JR長崎駅からは路面電車・バスまたはタクシーをご利用下さい。 佐世保方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボスより約1時間20分。大村より約35分。長崎駅からは路面電車またはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。 ●各出発点へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第13回 学び舎の丘 南山手&出島を歩く 2007年10月03日
    第13回 学び舎の丘 南山手&出島を歩く
    〜宣教師からはじまった日本の教育革命〜  ペリーが浦賀(神奈川)に来航したことをきっかけに、日本はアメリカをはじめ世界5ヶ国と修好通商条約を結びました。鎖国から開国と近代への幕開け。徳川幕府が禁教令を出してから254年という時を経た1859年、キリスト教の宣教師たちが日本の土を踏み、プロテスタント教会ははじめての宣教を、カトリック教会は再宣教をスタートさせました。外国人宣教師たちは、布教活動とともに学校や教会を設立し、教育や福祉などにも力を注ぎました。やがて長崎市の南山手・東山手には学校が建ち並び、"学び舎の丘"となりました。今回は、南山手と出島を散策します。 歴史のとびら  1853年(嘉永6)にペリー提督の黒船が浦賀へと入港したことを機に、1858年(安政5)、江戸幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヶ国と修好通商条約の調印をおこないました。翌年6月30日には長崎・横浜・函館が開港。鎖国から開国へ、近代日本の幕開けです。それは、徳川幕府が禁教令を発布してから約245年後、鎖国の完成から約220年後のことでした。  1863年(文久2)、パリ外国宣教会(カトリック系)のフューレ神父が、長崎の居留地・南山手へとやってきました。そして、教会堂の建設に着手し、翌年には彼の後を引継いだプチジャン神父によって完成。この教会堂は「日本二十六殉教者教会」と名付けられ、当時の日本人はこの美しくめずらしい教会を「フランス寺」と呼びました。現在の国宝"大浦天主堂"です。1865年(慶応1)3月17日、まだ徳川幕府の禁教令は解かれていませんでしたが、浦上村で密かに信仰を守り続けていたキリシタンたちが、こっそり「フランス寺」にやってきました。彼らは厳しい迫害や弾圧に耐え、潜伏しながらマリア信仰をよりどころに、先祖から伝えられた「パードレ(神父)の再来」という伝承を信じ抜いていました。プチジャン神父と浦上村の信徒との出会いは、約250年もの時を越えた信仰表明の瞬間!厳しい禁教下にあった日本にキリシタンが存在していた奇跡「信徒発見」は、プチジャン神父の感動の報告によって海外でも知られるところとなりました。このできごとをきっかけに、各地で信仰を表明する信徒たちが相次ぎ、キリスト教の教理を学ぶために大浦天主堂にやってきました。日本全国から訪れる信徒のために、司祭館の天井裏を改造してつくった秘密の仮聖堂から、密かにはじまった礼拝と学習。やがて司祭を育てる〔長崎公教神学校〕が誕生しました。  また、プチジャン神父の要請によって来日したショファイュの幼きイエズス修道会のマリー・ジュスティヌらが、居留地・大浦にカトリック系の修道院を開設し、〔伝道婦養成学校〕〔センタンファス(児童福祉施設) 〕〔聖心女学校(のち清心女学校)〕を開きました。  長崎の居留地には外国人の宣教師たちによって多くの学校が誕生し、将来を夢見る多くの学生が勉学に励んだのでした。宣教師たちの情熱は、邦人司祭の養成によって日本カトリック教会の自立をめざすことはもちろん、布教だけでなく、「教育」や「福祉」の面にも注がれ、日本近代化の第一歩に貢献したのです。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約2時間30分 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2東山学院校舎〔旧スチイル記念館(グラバー園内)) ↓ 徒歩で約15分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4旧出島神学校(史跡「出島和蘭商館跡」の敷地内) 1旧羅典神学校〔キリシタン資料館(大浦天主堂の敷地内) 〕 司祭を目指す少年たちの学び舎  国宝大浦天主堂と赤煉瓦の旧司祭館の間にある建物が旧羅典神学校です(赤い矢印のところ)。現在は、キリシタン資料館として一般に公開されています。  旧羅典神学校は、司祭を志す少年たちの学び舎で、正式な名称は「長崎公教神学校」。講義が全てラテン語でおこなわれたので羅典神学校とよばれたそうです。  開国後の居留地に建てられた大浦天主堂で、パリ外国宣教会のプチジャン神父と浦上村の潜伏キリシタンが奇跡的な出会い(信徒発見)をしてから、キリスト教への信仰を表明する信徒たちが各地からこの教会にやってきました。まだ世間の監視の目が厳しい禁教令下。美しくめずらしい教会を見物に来る信徒以外の人々もたくさんいましたから、危険を侵してもなお訪れる信徒のために、天井裏を改造して「無原罪の御やどりの間」という秘密の仮聖堂をつくり、礼拝と学習がおこなわれました。これが始まりとなった長崎公教神学校では、司祭を目指す少年たちをかくまい、教育をおこないました。この学校から、開国後初の日本人司祭が誕生し、日本カトリック教会の自立の第一歩となりました。  現在の建物は、1875年(明治8)、ド・ロ神父の設計・監督で新設された校舎。屋根は日本風の瓦で、窓やベランダといった開口部が西欧の意匠とうまく溶け込んだ開放的な印象の学び舎です。この校舎で学生たちは、予科と本科あわせて12年間を学んだそうです。 2東山学院校舎〔旧スチイル記念館(グラバー園内)〕 スチール・アカデミー(東山学院)として利用された学び舎<プロテスタント系>  前回のながさき歴史散歩「第12回 学び舎の丘 東山手を歩く」でご紹介した東山学院(とうざんがくいん)の校舎は、現在、グラバー園内へと移築されて旧スチイル記念館として一般に公開されています。ヘンリー・スタウトさんが東山手に構えた自宅の書斎を開放して始めた英語塾は、閉鎖・再開を経て、聖書や神学を教える長崎神学校になりました。その後、この長崎神学校は、アメリカ改革派教会外国伝道局長のスチールさんの寄付で開校した「スチール・アカデミー」と合併し、官立学校に並ぶ資格を持つ学校となったのです。アカデミー自体は1932年(昭和7)に明治学院(東京)と合併し、約50年続いた長崎での歴史に幕を閉じました。旧英国領事館の跡(東山手9番)に建っていた学び舎は、長崎公教神学校、東陵中学校(現:長崎南山学園)、海星学園の校舎として利用されました。広い教室にモダンな暖炉を兼ね備えた校舎は、明るく開放的だったことでしょう。1972年(昭和47)、グラバー園内に移築されました。  グラバー園内でちょっと休憩♪♪♪「自由亭」で長崎スイーツをいただきました。珈琲と「ハートストーンプレート(735円)」を注文。チョコ味のカステラにバニラアイスとビターなチョコソースがピッタリなお味です。生クリームと一緒に添えられたお菓子は、園内に敷き詰められた石だたみの中から運良く見つけることができると恋がかなうという、ハート型のラッキーストーンをイメージしています。あなたもラッキーストーンも探してみて! 長崎港の風景を眺めながらのティータイムはとってもおしゃれな時間でした。 3マリア園 "フランス学校"と呼ばれた聖心女学校<カトリック系>  今も居留地時代の面影を残す洋館が建ち並ぶ南山手の風景のなかを心地よく歩きます。グラバー園の出口から浪平小学校へと続く石だたみの「グラバー通り」を少し行くと、杠葉病院(ゆずりはびょういん)の斜め向かいに見えてくるのが、南山手の風景を代表する煉瓦づくりのマリア園です。  この木々に囲まれた赤い煉瓦造りの3階建ての建物は、1898年(明治31)に新築移転された聖心女学校の聖堂で、東山手の海星学校と同じマリア会のセネンツの設計によって建てられました。この移転を機に「清心女学校」と改めました。  1891年(明治24)に開校した「聖心女学校」は、大浦天主堂で浦上村の潜伏キリシタンと出会ったパリ外国宣教会のプチジャン神父の要請で、フランスに本部をもつ「ショファイュの幼きイエズス修道会」から派遣されたマリー・ジュスティヌら4人のシスターが開設した修道院がはじまりです。明治期唯一のカトリック系女学校で、宗教・国籍を問わず日本人と外国人がともに寄宿し、フランス学校と呼ばれていました。  非公開なので写真撮影の許可をいただくために入口まで来たとき、何か視線を感じて上を見上げると・・・。目が合ったのは、羽を広げた大天使ミカエルの像。かわいらしいピンクの窓辺から矢をはなとうとする姿に、しばらく見とれていました。屋根の窓もステキです。本館の横が礼拝堂になっています。  現在は、清心修道会(女子修道会)の本館として使用され、児童福祉施設マリア園を運営しています。 4旧出島神学校(史跡「出島和蘭商館跡」の敷地内) 聖アンデレ神学校から出島英和学校としてスタート<プロテスタント系>  昔は扇の形をしていた出島。復元整備が進む史跡「出島和蘭商館跡」を訪ねました。  十字架を仰ぐ薄いブルーの建物は、出島英和学校、聖アンデレ神学校の校舎として使われた旧出島神学校です。イギリス教会宣教会のバーンサイドの女学校設立への思いを引き継いだ後任のモンドレルは、1879年(明治12)に、混血児や日本人児童のための出島英和学校をつくりました。しかし生徒数の減少で閉鎖し、ここへ1877年(明治10)から自宅で開いていたと思われる「聖アンデレ神学校」を移して校舎としましたが、モンドレルの意に反して、長崎の神学生は大阪聖三一神学校へと編入させられることになり、1886年(明治19)に閉校。廃校となったこの学び舎は民間病院として一時利用されましたが、半解体修理工事によって復元され、現在、史跡「出島和蘭商館跡」の敷地内で、1階は料金所、お土産品店、企画展示室、2階では17世紀の出島の様子が描かれた絵図をもとに再現したビリヤード台やカルタなど、オランダ商館員たちの文化や遊びを体験できる展示室として一般公開されています。 今回、ご紹介した学校は、東京・大阪・福岡の学校へと合併され、長崎での歴史には幕を閉じてしまいましたが、外国からやってきた多くの宣教師たちが蒔いた教育の種は、情熱のうちに長崎で育まれ、その活動が全国へと遷り各地で開花しました。今では昔の建物が当時の面影を残し、その歴史を語りかけてくれます。 参考文献: 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 スタート地点までのアクセス 大浦天主堂 所在 長崎県長崎市南山手町5-3 お問い合わせ先 095-823-2628 大浦天主堂HP http://www9.ocn.ne.jp/~oura/ 開館時間 8:00〜18:00(入館17:45迄) 休館日 なし 料金 大人300円 中・高校生250円 小学生200円*キリシタン資料館の旧羅典神学校の見学料を含む。 アクセス 車… JR長崎駅より国道499号線を南へ走り約7分「松が枝駐車場」に車をとめて、徒歩で約10分。 長崎自動車道をご利用の場合は〔ながさき出島道路〕出口を左折して国道499号線を約500m進み「松が枝駐車場」で車をとめて、徒歩で約10分。 路面電車… <長崎駅前>電停のAホームより〔1番・正覚寺-赤迫〕行きに乗車、<築町>で乗換券をもらって下車。反対側のホームに移動して〔5番・石橋-蛍茶屋〕行きに乗車し<大浦天主堂下>で下車、徒歩で約10分。 バス 長崎バスの[小ヶ倉][ダイヤランド][香焼][深堀]行きに乗車し≪グラバー園入口≫で下車し、徒歩で約8分。もしくは長崎バス[田上・太平橋]行きに乗車して≪大浦天主堂≫で下車し、徒歩で約5分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約2時間)。鳥栖より約1時間。佐賀より約1時間25分。諫早より約20分。JR長崎駅からは路面電車・バスまたはタクシーをご利用下さい。 佐世保方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボスより約1時間20分。大村より約35分。長崎駅からは路面電車またはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。 ●各出発点へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第12回 学び舎の丘 東山手を歩く 2007年09月19日
    第12回 学び舎の丘 東山手を歩く
    〜宣教師からはじまった日本の教育革命〜  ペリーが浦賀(神奈川)に来航したことをきっかけに、日本はアメリカをはじめ世界5カ国と修好通商条約を結びました。 鎖国から開国と近代への幕開け。 徳川幕府が禁教令を出してから245年という時を経た1859年、キリスト教の宣教師たちが日本の土を踏み、プロテスタント教会は初めての宣教を、カトリック教会は再宣教をスタートさせました。 外国人宣教師たちは、布教活動とともに学校や教会を設立し、教育や福祉などにも力を注ぎました。  やがて長崎市の東山手に建ち並んだ学校は、日本各地に点在するミッション・スクールの基盤となりました。 今回は、"学び舎の丘"となった東山手をご紹介します。 歴史のとびら  1853年(嘉永6)にペリー提督の黒船が浦賀へと入港したことを機に、1858年(安政5)、江戸幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヶ国と修好通商条約の調印をおこないました。 翌年6月30日には長崎・横浜・函館が開港。鎖国から開国へ、近代日本の幕開けです。 それは、徳川幕府が禁教令を発布してから約245年後、鎖国の完成から約220年後のことでした。  一番乗りはプロテスタント教会の宣教師リギンズで、長崎・横浜・函館が開港される約2ヶ月前の1859年5月3日に長崎へやってきました。 まだキリスト教の信仰が認められていない日本でしたが、中国や日本での宣教の機会をうかがっていたプロテスタント教会は、「将来的にはアメリカ人による宣教活動が有利で、そのスタート地点は長崎が最適」と判断して、アメリカ監督教会の宣教師リギンズを英語教師として長崎に派遣したのです。 その後、日本聖公会初代主教となるC.M.ウィリアムズや、近代日本建設の父といわれるフルベッキなど、プロテスタント教会の宣教師たちが次々と来崎しました。  開港直後から、大浦湾の埋め立てがおこなわれ、東山手と南山手には外国人が住む居留地がつくられました。 1862年11月、東山手に日本で初めてプロテスタント教会が建ちました。 東山手に住んだ外国人宣教師たちは自宅の一角に塾を開くなどして、そこから学校をスタートさせていきます。 東山手には、ラッセル&ギールの活水学院(プロテスタント系)、ロングのカブリー・セミナリー〔英和学校 のちの鎮西学院〕(プロテスタント系)、スタウト夫妻のスチール・アカデミー〔東山学院〕とスタージェス・セミナリー〔梅香崎女学校〕(いずれもプロテスタント系)、グッドオールの長崎女学校(プロテスタント系)、バルツの海星学校(カトリック系)、ジュスティヌの聖心女学校(いずれもカトリック系)などが誕生し、まさに学び舎の丘となったのです。 宣教師が貢献した学校の設立・運営は、日本の近代化における新しい教育革命となったのです。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約1時間30分 img/sub/map_point2.gif' alt='' />2活水学園 ↓ 徒歩で約30秒 img/sub/map_point4.gif' alt='' />4英国聖公会会堂跡の碑 ↓ 徒歩で約5分 img/sub/map_point6.gif' alt='' />6海星学園 1オランダ坂 今も昔も学生さんたちの通学路!  明治時代、東山手一帯は外国人の居留地で、洋風の建物が建ち並んでいました。 教会に向かって舗装された石だたみの坂道を、日曜日の礼拝のために外国人が往来する風景が印象的だったことからオランダ坂と呼ばれるようになったそうです。 そんな石だたみのオランダ坂は、いまや長崎を代表する観光地として有名になっていますが、今も学生さんたちが賑やかに行き交う通学路として、生活のある風景が見られます。 オランダ坂をのぼった東山手の丘には活水女子大学と海星学園があるのです。 歴史的な情緒ある環境のなかにある学校に通う学生の皆さん、羨ましいですね。  オランダ坂の石碑の奥にある洋館は東山手十三番館。 フランス代理領事を務めたアンドレ・ブリキさんが住んでいた洋館です(非公開)。 観光で訪れた人たちも足を止めて記念のスナップを撮っています。  さあ、このオランダ坂をのぼって東山手を散策しましょう。 2活水学院 生命の水湧きいづる教育をめざす<プロテスタント系>  女子教育のための宣教師の要請を受けて、長崎へと派遣されてきたのはアメリカ人のラッセル女史(43歳)とギール。 2人が日本にやってきたのは、今から約130年ほど前の1879年のこと。 活水学院の本館のある場所に住んだ2人をたずねてきた女の子が第1号の生徒となって、3人でスタートした女学校です。 ラッセル女史は、アメリカへ帰国する83歳までこの学校で教鞭をとっていたそうです。  建築家ヴォーリズが設計した洋風建築は異国情緒を漂わせ、赤い屋根は長崎港からも一目でわかる東山手のシンボル的な存在です。 さだまさし原作の映画『解夏』にも登場しました。  ふつうは一般には非公開ですが、活水女子大学は地域と密着したイベントとしての音楽会や、長崎の歴史を学ぶ講座を開講するなどしていますので、長崎を訪れる際はチェックしてみてくださいね。  モダンな学び舎で育った卒業生には、学習院(東京)の校医となった一期生・井上トモさんや、日本の女性ではじめて大臣となった中山マサさんたちがいます。 梅香崎女学校  この活水学院の敷地内には、むかしエリザベス・スタウトさんが設立した梅香崎女学校がありました。 現在ある活水学院本館西側から1号館の間にあったそうです。 この女学校は、スタウトさんが自宅で英語や洋裁などを女性たちに教えたのがはじまりです。 のちにアメリカ改革派教会婦人外国伝道局長スタージェス夫人の支援によって、東山手十四番に「スタージェス・セミナリー(梅香崎女学校と改称)」ができ、静粛優美な婦人の養成がおこなわれました。 しかし、1914年、下関の梅光女学校(梅光学院)に合併して、長崎での歴史を閉じました。  ちなみに夫のヘンリー・スタウトさんがはじめた英語塾は、のちに聖書や神学を教える私塾として再開され、長崎神学校となりました。 この長崎神学校と、東山手九番にアメリカ改革派教会外国伝道局長スチールの寄付によってできた「スチール・アカデミー(東山学院)」とが合併し、官立学校に並ぶ資格を持つ学校となりました。 校舎は、同じ東山手、現在の海星中学シャミナード寮と誠孝院のあいだに建っていました。 1932年に東京の明治学院と合併。 長崎での歴史は閉じましたが、校舎はグラバー園内に移築され、スチイル記念館として残っています。 次回の第13回のながさき歴史散歩でご紹介します! 3東山手十二番館 開国後、日本で最初の領事館  活水女子大学の隣にある十二番館は、ロシア領事館(1860)、アメリカ領事館、住宅として使用された洋館です。 領事館の設置はこの建物が日本で最も古く、さらに東山手で一番古い洋館として国指定の重要文化財となっています。 現在は、東山手の歴史や当時の生活の様子が学べる資料館として活用されています。 4英国聖公会会堂(イギリス教会宣教会)跡の碑 日本で最初のプロテスタント教会  東山手十六番館の赤レンガに沿って坂をのぼり道路を渡ると、さらに階段が! 息を切らしながらのぼると、右手に記念碑がありました。 1862年、ここ東山手十一番に、アメリカ監督教会のC.M.ウィリアムズによって教会が建てられました。 この教会は、開国後の長崎に最初に建てられ教会だったので、建物の十字架を見た浦上の潜伏キリシタンたちが訪れたそうです。 しかし、対応した宣教師が妻帯者だったために、自分たちが待ち望んでいるローマ教皇から遣わされた独身の神父でないとして、帰っていったというエピソードがあります。 そう、この教会は、日本で最初のプロテスタント教会でした。 ウィリアムズが日本を去ると、アメリカ監督教会の活動は途絶え、この教会はイギリス人の教会(英国聖公会)となり、通称イギリス教会と呼ばれていたそうです。  この階段をのぼっていくと海星学園があります。今回は、左折して次の目的地をめざしましょう。 鎮西学院跡の碑の横にC.M.ウィリアムさんが住んでいたという石碑があります。 5鎮西学院跡の碑 幸福なるか名平和ならしむる者<プロテスタント系>  活水女子大学の坂の上に石碑が建立されています。  アメリカのメソジスト教会から男子教育のための派遣要請を受けて、1880年、長崎にやってきたのはロング先生。 自宅の書斎(東山手十六番)で塾をスタート。 翌年、東山手六番に建てた木造2階建ての校舎に、12名の塾生を迎え、授業をおこないました。 このとき、トーマス・グラバーの息子さん倉場富三郎も机を並べていました。 授業は全て英語の原書でおこなわれたそうで、かなりの英語の学力が身についたそうですよ。  当初の学校名はカブリー・セミナリー(英和学校)。 ロング先生がアメリカを出発する時、2ドルの銀貨を献金してくれたカブリー婦人の名をとって命名されました。 1906年に鎮西学院と改称されています。  のちに浦上に移転した校舎は原爆で倒壊。 それでも小学校や教会で臨時開校したり、仮校舎で授業を続けたりして復興をめざし、現在は鎮西学院高等学校、長崎ウエスレヤン大学として諫早市にあります。 ちなみに長崎ウエスレヤン大学の学園祭は"2ドル祭"というのですが、これはロング先生を勇気づけ、学校設立のもとになったカブリー婦人の献金に感謝を込めてのことなのですね。 6海星学園 海の星なる無原罪の聖母よ<カトリック系>  丘を見上げると、屋上に純白のマリア様の像が見える校舎が印象的に目にとびこんできます。 海星学園です。  聖母マリアを保護者とするフランスのマリア会の活動を日本に広げるため、派遣されたバルツ先生は、最初、大浦天主堂の近くに「海星学校」をつくりました。 1895年に現在の場所に移転しました。 学校では日本語禁止だったので、外国語を習得するには良い環境だったそうです。  この2枚の写真を見比べてください。 左は明治32年の写真で、校舎は白く輝いています。 右は昭和22年の写真ですが、校舎の壁が墨のようなもので黒く塗られています。 太平洋戦争のときに、目立たないように迷彩を施された様子がよくわかる写真です。 学制改革で、1948年に海星高等学校、海星中学校として発足。のちに新校舎が完成し、旧校舎も建て直されました。  それでも海星学園の敷地には、昔の面影がそのまま残っているところもあります。 グランド横の赤煉瓦は明治の頃のものだとか。 右の写真のゆるやかな階段の先は、旧英国領事館があった場所です。 こうして歩いてみると、東山手はまさに"学びの丘"だった・・・。 いまは、活水と海星がその姿を物語ってくれますが、そのほかの学校も移転や合併などして、それぞれの地で歴史を紡いでいます。 参考文献: 「旅する長崎学5 キリシタン文化5」特集2 宣教師が尽くした日本の教育事業 「長崎県 文化百選6 海外交流編」 企画/長崎県 制作/長崎新聞社 2000年 活水学院HP 海星学園HP 鎮西学院HP スタート地点までのアクセス オランダ坂 所在 長崎県長崎市東山手町(活水女子大学の校門下) アクセス 徒歩… 長崎新地ターミナルより約15分。 車… JR長崎駅より約10分。 高速道路をご利用の場合、[ながさき出島道路]出口から国道499号線を左折、ホテルニュータンダの角を左折して約150メートル。 路面電車… 長崎新地ターミナルより、もよりの<築町>より[5番・石橋-蛍茶屋]に乗車し<市民病院前>で下車して徒歩で約10分。 JR長崎駅よりB乗り場へ、[1番・正覚寺-赤迫]に乗車し<築町>で車掌さんから「乗換券」をもらって下車します。反対側の乗り場に移動して[5番・石橋-蛍茶屋]に乗車し<市民病院前>で下車。徒歩で約10分。 電車… 博多方面から[特急かもめ]に乗る!<JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約2時間)。鳥栖より約1時間40分。佐賀より約1時間25分。諫早より約20分。長崎駅からは路面電車またはタクシーをご利用下さい。 佐世保方面から[快速シーサイドライナー]に乗る!<JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボスより約1時間20分。大村より約35分。長崎駅からは路面電車またはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 ●各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。
  • 第11回 二十六聖人が歩いた浦上街道 2007年09月05日
    第11回 二十六聖人が歩いた浦上街道
    −殉教地「長崎」へと向かう26人の道−  日本に漂着した一隻の外国船サン・フェリペ号。 航海士の「スペインはキリスト教信者を増やして、やがてその国を制服する。」という発言に衝撃を受けた豊臣秀吉は、日本で布教活動をおこなう宣教師や信徒の捕縛と処刑を命じました。 京都・堺から長崎まで約1,000キロの道のりをおよそ1ヶ月かけて裸足で歩かされ、西坂の地で殉教した日本人20人と外国人6人の物語。 今回は、処刑地「長崎の西坂」を目前にした最後の2日間、キリシタン26人が歩いた浦上街道をたどります。 歴史のとびら  1596年、土佐の国にある浦戸海岸(現在の高知市)に一隻のスペイン船が漂着しました。 フィリピンからメキシコを目指して太平洋を航海中、台風に遭って破損したサン・フェリペ号でした。 豊臣秀吉から調査に派遣された増田長盛は、「スペインはまずキリスト教の宣教師を派遣して信徒を増やし、やがてその国を制服するのだ。」という航海士の不穏にささやく言葉を耳にし、秀吉に伝えました。 その報告を受けた秀吉の衝撃は激怒に変わり、すぐさま、宣教師たちを捕らえるよう命令したといいます。 サン・フェリペ号に修道士が乗船していたことから、1587年に発していた伴天連追放令を根拠に、国内で布教活動をおこなっていた宣教師たちが捕らえられました。 サン・フェリペ号事件が、日本で最初の大殉教事件の引き金となったのです。  京都ではフランシスコ会の宣教師ペドロ・バプチスタら6名、大坂ではイエズス会の修道士パウロ三木ら3名、ほか合わせて計24名が捕らえられます。 1597年1月3日、24人のキリシタンたちは、京都の上京一条の辻で左耳をそぎ落とされ、見物人が見守るなか、町中を引きまわされました。 そして、処刑地の長崎へと送られるのです。1月9日に堺を出発。 山陽道を西へと裸足で歩かされ、下関に着く途中でペドロ助四郎と大工のフランシスコが加わり26人となりました。 2月4日、長崎の彼杵宿に到着。大村湾を小舟で時津港へ渡り、翌日の早朝、処刑地の西坂に向かって浦上街道を歩きました。  1597年2月5日の午前10時頃に西坂の丘へと到着、長崎の港に向かって一列に並べられた十字架に縛りつけられました。 正午、信仰を貫いた26人は、役人に槍でつかれて昇天・・・。  長崎港の開港によってポルトガル船が行き来し賑わう長崎は、キリシタンの町として栄えていました。 "キリスト教は禁止するもポルトガル船の来航は奨励する"という秀吉の伴天連追放令は、貿易と布教が一体となったポルトガルにとっては矛盾したものでしたが、この「長崎」をキリシタンの処刑地として選ぶことによって、秀吉は自分のキリスト教への考え方を世に示したのです。 宣教師への見せしめと長崎の町に対する警告だったのでしょう。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1日 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2日本二十六聖人上陸の地の碑 ↓車で約20分 or バスで約30分 or 徒歩で約2時間 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4ベアトス様の墓 ↓徒歩で約7分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6サン・ラザロ病院の跡(山王神社)と浦上街道の碑 ↓徒歩で約5分 img/sub/map_point8.gif' alt='8' />8日本二十六聖人殉教地 記念碑と記念館 ↓徒歩で約15秒9
  • 「あなたへ」2羽の雀が飛び立つ灯台 2014年03月24日
    「あなたへ」2羽の雀が飛び立つ灯台
     2012年(平成24年)8月25日に封切られた映画「あなたへ」は、高倉健さんが6年ぶりに出演(主役)し、夫婦の愛と人々のさまざまな人生を丁寧につづった感動の映画です。また、いぶし銀の演技が魅力的だった大滝秀治さんの遺作となった作品でもありました。  内容は亡くなった妻の遺骨を故郷の海へ散骨するため、富山から長崎までの1200キロを自家製のキャンピングカーで旅する一期一会のロードムービー。長崎でのロケは殆どが平戸ですが、作品の中で大きな役割を果たす「白い灯台」は、伊王島にあります。  この騒動のなか、1864年(元治元)には勝海舟とともに坂本龍馬らが島原湊に上陸しました。英仏米蘭4カ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するために、海舟は外国勢との調停役としての幕命を受けていました。このとき龍馬は30歳で、海舟の信頼を受け、神戸海軍操練所の塾頭を務めてた頃です。 島原湊上陸後、島原街道、長崎街道を通り長崎に到着しています。 龍馬が初めて長崎に上陸した島原湊の石段には、現在「龍馬長崎上陸の地」の看板がたっています。  歴史ある白い灯台を前に、じっくりと映画「あなたへ」の世界に浸りましょう・・・。散骨を済ませた後、倉島英二(高倉健さん)はこの場所で、妻が残した2枚の絵手紙を手放します。真っ青な海と空のあいだに2羽の雀が解き放たれた、あの場所です。  ここはぐるりと海を見渡せ、よく晴れた日は遠く五島列島を望めることもあるという絶景スポット。散骨を手伝った船頭・大浦吾郎(大滝秀治さん)のセリフを思い出します。〜「久しぶりに、綺麗な海ば見た」〜 長崎市伊王島灯台記念館 長崎市伊王島町1丁目3240番1 TEL 095-898-2011 【開館時間】 9:00〜17:00 【休館日】 月曜日       見学無料
  • 7月24日通りのクリスマス 2014年03月27日
    7月24日通りのクリスマス
     長崎出身の作家・吉田修一さんの小説「7月24日通り」を原作とした映画「7月24日通りのクリスマス」が2006年(平成18)に公開されました。  この映画は、大沢たかおさんと中谷美紀さんのW主演で話題となり、ポルトガルのリスボンと長崎市を中心にロケが行われました。  中谷美紀さん演じる長崎市に住むOLが、幼い頃から読んでいる少女漫画の影響を受け、頭の中で長崎の街をポルトガルのリスボンの街に置きかえて毎日を過ごしています。が、街の風景を、近年の長崎を題材にした映画にはない見せ方で撮影しているのが特徴で、面白いところです。  16世紀には、平戸で南蛮貿易が始まり、宮の前事件をきっかけとして貿易港は、横瀬浦(現西海市)に移ります。そして横瀬浦の焼き討ち事件後、港は一度は平戸に戻りますが、その後福田へと移ります。しかし松浦氏のポルトガル船襲撃などもあり、当時の領主・大村純忠(すみただ)は、1570年(永禄13)に長崎を新たな貿易港として開港します。  長崎の開港とともに、新しい町が整備され、教会をはじめ学校や福祉施設、病院などが建てられ、キリシタンや商人も多く移住し、賑わう長崎はさながら「小ローマ」のような街になりました。    映画の中で、主人公が浜町を歩いていたかと思うと、リスボンの街の中に変わっていたり、リスボンで路面電車に乗っているシーンから、長崎を走っている路面電車のシーンに変わっていたりというように、背景が主人公の心象に合わせて面白いように変わります。このような撮影・見せ方をされると、「長崎の街」と「リスボンの街」はすごく似ていると感じずにはいられません。  長崎とリスボン・・・。港町で、坂道が多く、必ず海が見え、路面電車が当たり前のように道路を走っていて、周りの風景になじんでいる感じ。初めてこの映画で観たリスボンの街なのに、すでに知っているような感覚に出くわします。    長崎を開港して町をつくり始めた頃、教会など施設を建てる際にきっとポルトガル人宣教師の指導もあったでしょうし、南蛮貿易にやってきたポルトガルやスペインの船員たちもしばらくの間は長崎の町に滞在していたでしょう。異国の空気感が漂う町だったに違いありません。  南蛮文化研究の第一人者・故松田毅一氏は、天正少年遣欧使節の足跡を追ってマカオ、マラッカ、ゴア、ヨーロッパへと旅をし、ポルトガル人が開いた港には共通点があるといっていました。母国リスボンの港と同じように、狭い湾の奥の突き出た丘があるところに港をつくっているという点で似ているのかもしれません。長崎の港もそういうロケーションでした。  歴史的に見ても、2つの街の風景が似ているというのは、とても興味深いですね。    この映画の中には、オランダ坂や眼鏡橋、グラバー園などがさりげなく風景に映りこんでいます。南蛮貿易の歴史に思いを馳せながら、一時は共に栄えたポルトガルのリスボンとイメージを重ね、絵的に長崎を楽しむというのも面白いかもしれません。  ちなみに、このタイトルの「7月24日通り」は、リスボンに実在する通りです。しかし「長崎西通り」という電停はこの映画で設定されたものです。長崎市を訪問した際には、ぜひ「長崎西通り」電停が実際はどこなのかを探してみませんか?
  • カステラ 2014年03月27日
    カステラ
     長崎のお土産といえば、まず「カステラ」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。  卵を泡立てて小麦粉、砂糖(水飴)を混ぜ合わせた生地をオーブンで焼いたものです。水飴を使うと、焼き上がった時のしっとり感が出るといわれています。近年では、抹茶やチョコレート、黒糖、チーズなどを加えて味付けされたカステラも製造・販売されており、バラエティな味を楽しめるようになりました。  もともとのルーツは、パン・デ・ローとよばれるポルトガルのお菓子で、まるい形をしたスポンジケーキです。南蛮貿易をとおして日本に伝わりました。実は、原型とされるお菓子は、カステラとは製法が異なっています。カステラは日本に伝わってから、日本で独自に発展してきた洋菓子なのです。  ちなみに「カステラ」の語源は、スペインのカスティーリャ王国に由来するといわれています。 カステラの歴史  カステラは、どういう経緯で現在に至っているのでしょうか?  もとを辿っていくと、1543年(天文12)にポルトガル人が種子島に漂着したことに始まると考えてみると面白いかもしれません。  種子島に漂着したポルトガル人を案内したのは、中国の貿易商・王直だといわれています。王直は、当時東シナ海に勢力をふるっており、五島の福江島に活動拠点を持っていました。1549年(天文18)に五島から平戸に移り、松浦隆信から邸を与えられ、平戸にポルトガル船を手引きし、日本における南蛮貿易の橋渡しをしたといいます。  東シナ海の海上交通・交易の要所となった平戸には、1550年(天文19)以降、ポルトガルやスペインとの貿易により、南蛮文化が伝わりました。その際に、パン・デ・ローとよばれるポルトガルのお菓子も宣教師から伝わったといわれています。  平戸には、カステラを卵黄にひたして高温の蜜であげ、グラニュー糖をまぶした「カスドース」というお菓子があります。卵の風味と上品な甘さを堪能できます。「ドース」はポルトガル語で「甘い」という意味。つまり、「castela doce」で“甘いカステラ”となります。カスドースは、平戸市のお土産屋さんで購入できます。  南蛮貿易は、その後平戸から横瀬浦(現西海市)、長崎へと移りました。そして1624年(寛永元)頃に福砂屋(ふくさや)でカステラが作られ始めたといわれています。その後、日本人向けに改良を重ね、現在に至っているそうです。こんな風に歴史的背景やルーツを見ていくと、ひと味違う感じがするから不思議ですね。  カステラは、“かすていら”“カステーラ”“カスティーラ”“カステイラ”などとも表記され、長崎県内のお土産屋さんには必ず並んでいる定番のお菓子です。  また近年では、大河ドラマ『龍馬伝』ブームの中、亀山社中が製造販売を計画したというカステラのレシピに基づいて忠実に再現されたカステラも登場しました。幕末のカステラと現在のカステラを食べ比べてみるのも楽しいですね。 長崎県内のお土産屋さんでは必ずといっていいほど購入できます。
  • 長崎べっ甲細工とは 2014年03月28日
    長崎べっ甲細工とは
     べっ甲細工とはどんなものかご存知ですか?  赤道付近に生息するウミガメの一種、タイマイの背甲と爪(甲羅の縁)、腹甲を巧みに加工、細工したものです。中国では6世紀末頃から製作されており、8世紀の唐の時代にさかんに製作されていたといいます。日本には奈良時代に伝わり、正倉院御物の中に数点保存されているそうです。  17世紀以降、唐船やオランダ船によってべっ甲細工の材料が長崎に陸揚げされるようになり、中国人から習得した技術で、べっ甲細工が製作されるようになりました。 元禄時代には、丸山近辺に多くのべっ甲職人がいたといわれています。当時は、櫛が主に作られていましたが、やがてかんざしや化粧箱、タバコケースなども製作されるようになりました。べっ甲細工職人の中には、大坂や江戸へと移り住み、べっ甲細工を国内に広めた人もいました。 しかし、材料のタイマイが輸入品で、数に限度があり高価だったため、高級品として庶民には高嶺の花でした。幕末から明治時代初期に、ロシア人など外国人に注目され、購入されるようになります。1891年(明治24)には長崎を訪問したロシアの皇太子ニコライ2世がお土産にべっ甲を購入したといいます。その後、長崎のべっ甲職人たちは、西洋の生活様式に合うようなデザインを工夫します。研究を重ねていくことによって長崎べっ甲製品に対する評価が国内のみならず国外でも高まり、長崎を代表する名産品のひとつとして知られるようになりました。 どうやってべっ甲細工は出来るの?  長崎歴史文化博物館内・長崎奉行所の門から入ってすぐ左にある川政べっ甲店製作所では、長崎べっ甲の製作過程を自由に見学できます。今回、べっ甲細工が出来上がるまでを見学させていただきました。  べっ甲細工を作るには、まずデザイン図を描きます。大きさや厚みなど制約がありますので、どんなものを作るのかを明確にします。そして素材選びに入ります。  製品に合う甲羅(背甲・爪・腹甲)を選びます。作っていくデザインに合わせ、厚みや色合いに注意します。  そして型を描き、型に合わせて糸鋸(いとのこ)で切り抜きます。厚みや、甲羅の重ね方で貼り合わせた時の柄の入り方や色合いを予想しながら調整します。厚みを調整し、熱によるプレスへと続きます。この時に指先の脂が甲羅に付着していると熱でくっつけることができません。石鹸で一度きれいに手を洗ってから繊細な作業を行わなければなりません。  熱(熱湯)でプレスした後は、直射日光を受けないよう注意して乾燥させ、その後彫刻などの加工へと進みます。  彫刻の後にみがきをかけると、べっ甲独特の光沢が出ます。そして全体の調和を図りながら組み立てを行い調整します。 実はこんなに手間暇を掛けて、べっ甲細工は作られているのです。 伝統工芸“長崎べっ甲細工”製作体験  高度な技術によって、かんざしや化粧箱よりも複雑な船や龍などの装飾品・置物などよくカタログなどで目にし、高級なイメージがありますが、現在ではペンダントやブローチ、イヤリング、カウスボタンなど身近な製品も多く製作されています。  坂本龍馬も、妻・お龍にべっ甲のかんざしをプレゼントしたともいわれています。またお龍が好んで弾いていた月琴のバチもべっ甲細工だったそうです。現在では、ギターのピックなども製作されています。風情ある音色が聴けそうですね。  この川政べっ甲店製作所では、長崎べっ甲の製作過程や職人技を自由に見学することもできますが、商品を購入したり、ペンダントや携帯電話のストラップ向けのべっ甲細工を製作する体験も行われています。べっ甲細工がどのように製作されていくのか体験するのも実に楽しいですよ。また展示されている商品を見ながら、どんな工程で、タイマイのどんな甲羅の部分を用いているのか教えてもらいながら見学するのも発見があって面白いですよ。   【べっ甲細工体験】 所要時間:30分から40分程度 体験内容:1,300円コース(型が決まっているべっ甲細工作成)と2,000円コース(少しデザインが複雑になった動物型)があります。べっ甲細工職人が手伝ってくれますので作品は必ず出来上がりますよ。 ※要予約です。(水曜日はお休みです)1回6名様から受け付けています。 伝統工芸に触れて  製作過程を具体的に教えてもらうと、生地であるタイマイの甲羅部分によって柄、色合い、厚みがそれぞれ違うことも初めて知りました。製作するデザインに合わせて甲羅を数枚も重ね、熱でプレスしたものでも出来上がった時には、重ねた跡すらわからないというところを見ると、伝統工芸とよばれる理由がわかります。  また、大切に持っていたべっ甲細工が割れてしまったという場合でも、そのまま持ってくると、再度加工し、新しいデザインとして蘇らせることが可能なのです。『伝統工芸』とよばれるものは、高級品というイメージが先行しがちで敷居が高く感じられますが、今回の見学で、今までよりも身近な工芸品だと感じることができました。  現在ではワシントン条約により、原料であるタイマイの輸入が規制され、手に入りにくくなりました。べっ甲細工がすべての原因というわけではありませんが、タイマイの保護が必要となっています。そのためべっ甲細工の製作者の方々は困難に直面しているのも事実です。そんな現状を知ったうえで、約400年ものあいだ長崎に伝わり、引き継がれてきたべっ甲の伝統工芸にぜひとも触れてほしいと思います。 川政べっ甲店製作所(長崎歴史文化博物館内) 伝統工芸体験工房 長崎市立山1-1-1 TEL:095-818-8366 FAX:095-818-8407 ※長崎奉行所の門から入ってすぐ左側です   【べっ甲細工体験 ※要予約】 所要時間:30分から40分程度 体験コース:1,300円コース・2,000円コース ※要予約です。(水曜日はお休みです) 1回6名様から受け付けています。
  • よみがえる「出島和蘭商館跡」・出島 2014年03月27日
    よみがえる「出島和蘭商館跡」・出島
     鎖国時代、西洋に開かれた唯一の窓口として日本の近代化に大きな役割を果たした人工島「出島」。いま目の前にあるのは、復元された当時の水門です。現在は西側のメインゲートとなっていますが、当時はオランダ船の荷役作業の時にのみ開かれた門だそうです。2つの通り口があり、南側(右側)は輸入用、北側(左側)は輸出用と分けられていたそうです。    ここで当時の貿易に関する品々が運ばれていたと思うと、ドキドキしてきますね。早速出島の中に入ってみましょう! 出島の歴史  1636年(寛永13)、江戸幕府は、長崎に居住していたポルトガル人を収容して貿易を厳重に監視することやキリスト教の布教を禁止するために、長崎の有力な町人に命じて約1万5千平方メートルの人工の島「出島」を築きました。  1639年(寛永16)に幕府は、ポルトガルとの国交を断絶し、出島のポルトガル人を出島から国外へ追放しました。出島は一時的に無人の島となりますが、1641年(寛永18)に平戸のオランダ商館が出島に移転、これ以降1859年(安政6)までの218年もの間、出島は西洋に開かれた日本唯一の貿易の拠点として大きな役割を果たしました。    鎖国時代、日本がさまざまな海外文化や技術を採り入れた窓口でしたが、オランダ人にとっても同じでした。出島を通して、日本の文物や情報が西洋に伝えられました。出島は、西洋との国際交流の場としての役割も担っていた特別な場所だったのです。 復元ゾーン  出島西側には、復元施設10棟が建造されており、そのエリアを「復元ゾーン」とよんでいます。これら復元施設では、“日蘭貿易”と“出島での生活”をメインテーマとして、日蘭貿易の歴史や代表的な輸出入品を紹介する展示コーナーが充実しています。また商館員の暮らしぶりも再現されており、当時の出島をより詳しく知ることができます。  オランダ商館長の事務所や住居として使用されていたカピタン部屋は、出島の中で最も大きな建物でした。  1階は出島の歴史や生活に関する資料が展示されています。出島が誕生するまでの歴史からオランダ商館が廃止されるまでの日蘭貿易に関する資料が展示されていますので、まずはここから見ていきましょう。  2階は商館長の生活の様子が再現されています。奥には大広間があり、クリスマスを祝ったとされる「阿蘭陀冬至」の祝宴風景が再現されており、訪れた人々を魅了しています。また日本の役人や大名などが出島を訪れた際には、接待の場としてもカピタン部屋が使用されていたそうです。    ほかにオランダ商館の商館長次席(ヘトル)の住居や商館員たちの食事を作っていた料理部屋、オランダ船(一番船)船長や商館員の居宅であった一番船船頭部屋、主な輸入品のひとつだった砂糖を収めていた一番蔵、染料のための蘇木(そぼく)が収められていた二番蔵、三番蔵などが復元されています。また帳簿などの筆記を行うオランダ人の書記の長が住んでいたといわれる「拝礼筆者蘭人(はいれいひっしゃらんじん)部屋」では、出島から広がっていった蘭学が紹介されています。    これらの復元施設と資料をみていくと、長崎奉行をはじめ町年寄、出島乙名、オランダ通詞などの地役人(じやくにん)などこんなに多くの人々が出島に関わっていたということ、出島あるいは長崎が日本の歴史のなかで特別な場所であったことを再確認することができます。また、当時のオランダ商館の生活ぶりや出島に関わる日本人の仕事、日本人とオランダ人の風習の違いなど面白い歴史も知ることができ、ますます出島が面白く感じられます。 交流ゾーン  安政の開国後に建てられた石造倉庫である「旧石倉(考古館)」や、1903年(明治36)に長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として建てられた「旧長崎内外クラブ」から東側を「交流ゾーン」とよんでいます。  旧長崎内外クラブの1階では、当時商館員らが遊んでいたビリヤードやカルタ、羽ペンで文字を書く事が体験できる体験展示室があります。修学旅行生にも人気で、グループで当時のビリヤードで遊ぶ姿がよく見られます。  また2階の展示コーナーでは、現在『出島シュガーロード展』が開催されており、砂糖食文化や貿易の歴史、砂糖の種類や解説などが展示されています。かつてこの出島で荷揚げされていた砂糖がどんな歴史を持ち、そして長崎からどんな道順で砂糖が国内に伝わっていったのかがよくわかります。この出島シュガーロード展は、2011年3月末日まで行われていますので、ぜひお越しくださいね。    東側ゲートの料金所も設置されている旧出島神学校は、1878年(明治11)に建てられたキリスト教(プロテスタント)の神学校で、現存する国内最古のものです。1階は企画展示室となっており、現在『龍馬と海と出島』展が開催されています。(2011年1月10日まで行われています) まだある出島の見どころ  復元施設によって、出島の歴史や当時の貿易の内容など深く知ることができますが、見どころはそれだけではありません。  一番蔵や二番蔵などの復元に関する技術にもご注目ください。建物の復元工事は、原則として伝統的な木造建築の技法によって行われました。木や竹・土などを使い、大工や左官の技術で本物の土蔵を復元できたのです。さらに調査・設計の段階からシンポジウムなどでその過程を報告し、工事現場も市民が見ることができるよう工夫され、現場をオープンにし、土壁に塗り込む蚊帳を市民が提供するなど復元作業に協力することで、市民参加も実現しました。復元までの過程や伝統的な技法の解説も必見です!    また出島では、発掘調査も行われています。この調査によって、本来の扇形の範囲や輪郭となる護岸の石垣と外側から垂直に打ち込まれた木杭なども発見されています。これらから、出島を補強する工法も紹介されています。そして海外へ輸出するために作られた国産陶磁器もたくさん出土しており、これらから輸出向け陶磁器の様式の変遷がわかり、当時西洋が求めていた陶磁器の様式も知ることができます。    このように整備が進む国史跡「出島和蘭商館跡」は、ただ当時の出島を復元しただけでなく、日本の伝統技術の解説や発掘調査の内容も詳しく知ることができますので、歴史好きな人なら2時間は楽しんでいくことができる施設です。 出島の復元整備事業  出島は、明治以降、周辺の埋め立て工事が進み、1904年(明治37)に完成した第2期港湾工事によって、海に浮かぶ扇形の出島の原形はなくなり、市街地の中に埋もれてしまいました。  しかし、出島の歴史的価値を未来に残そうと、出島復元整備事業が展開されています。1996年(平成8)に、具体的な短中期計画と将来的な長期計画からなる復元整備計画が策定され、本格的な復元整備事業がスタートしました。2000年(平成12)から2006年(平成18)春までに10棟が復元・公開されていますが、短中期復元整備計画では、最終的に19世紀初頭の建造物25棟の復元や扇形をした出島の輪郭をあらわす周辺の石垣などの修復、史跡内にある明治期等の建物の整備活用に取り組むそうです。長期復元整備計画では、四方に水面を確保し、19世紀初頭の扇形の完全復元を目指します。国道の線形変更をはじめ市街地改造など大規模な作業となります。    相当な期間がかかることが想定されますが、実現するのが非常に楽しみですね。今後の出島の復元状況にもぜひ、ご注目ください。 出島 【開場時間】  8:00〜18:00(年中無休)  ・最終入場は閉場の20分前までです  ・期間によって時間延長があります。 【入場料】 ・大人:500円(15人以上で400円) ・高校生:200円(15人以上で120円) ・小・中学生:100円(15人以上で60円) ※障害者手帳(身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳)所持者及び介護者1名と健康手帳所持者(60歳以上)は半額で入場できます。 【お問い合わせ】 出島総合案内所 〒850-0862 長崎市出島町6番1号 TEL・FAX:095-821-7200   URL: http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/dejima2/