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県南エリア

  • 長崎くんち 2014年03月28日
    長崎くんち
    〜フォトアルバム〜  10月7日(日)から9日(火)の3日間、長崎の秋を彩る諏訪神社の例大祭「長崎くんち」がおこなわれました。7日に諏訪神社の本宮から、諏訪・住吉・森崎の三体の御神輿が、お旅所(大波止)に設置された仮宮へ下る「お下り」。9日には諏訪神社の本宮へと戻る「お上り」。この3日間におこなわれる「奉納踊」は、国の重要無形民俗文化財に指定されています。  奉納踊の起源は、1634年(寛永11)に遊女の高尾と音羽の2人が、神前で舞を奉納したのがはじまりといわれています。ちょうど出島の築造が始まったのと同じ年のできごとでした。飾りや衣裳・山車などは時代を反映し、華麗で国際色豊かな長崎の祭りとなりました。  それぞれの踊町(おどりちょう)に出番が巡ってくるのは7年に1度。諏訪神社・お旅所・公会堂前広場・八坂神社などで踊りを披露しながら、各踊町は「庭先回り」として日頃お世話になっている会社などをまわり、玄関先で踊りを呈上します。町を歩くと、この庭先回りに遭遇し、町全体がおくんち一色の熱気にあふれています。だしものに魅せられて、お気に入りの庭先回りについて行く"追っかけ"も登場するほどの賑わいです。  今年の踊町とだしものは、それぞれ町のプラカードといえる"傘鉾"を先頭に、八幡町の弓矢八幡祝い船と剣舞、麹屋町の川船、西濱町の龍船と本踊、興善町の本踊、万才町の本踊、五嶋町の龍踊、銀屋町の鯱太鼓の7町です。今回は、長崎っ子が熱くなったくんちの模様をお伝えするフォトアルバムをお楽しみください。
  • 浦上そぼろを作ろう! 2014年03月28日
    浦上そぼろを作ろう!
    −キリシタン文化が生んだ郷土料理−  キリシタンの里「浦上村」で、ポルトガル人の宣教師は信徒たちに"肉を食べる"という習慣を伝えました。 それを知った村の人たちは、長崎人の味に合うように豚肉を油炒めにした料理「浦上そぼろ」をつくったようです。 「そぼろ」とは方言で千切りの油炒めのこと。 母から子へと代々受け継がれた家庭の味となって、長崎っ子に親しまれている郷土料理となりました。  そういえば、「浦上そぼろ」は、長崎の学校給食の献立にも登場します。 小学生のころ、「どうして"浦上そぼろ"って言うんだろう?」と、疑問に思いながら給食を食べていた記憶がよみがえりました。 「懐かしい!」という声も聞こえてきそうですね。  さて、浦上そぼろは豚肉を使いますが、日本ではいつ頃からお肉を食べる習慣があったのでしょう?  豚肉好きの人物として、江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜は有名です。 ニックネームは「豚一さま」。 すこぶる豚肉が大好きだったことから呼ばれたあだ名ですが、慶喜が豚肉を食べていたのは江戸末期。 一般的に広く庶民の口に入るようなったのは明治維新後の19世紀後半のことだそうです。  もともと豚肉は唐船によって日本に持ち込まれ、豚の飼育が始まったのは室町時代からです。 日本人は全くお肉を食べなかったのではなく、一般庶民にはなかなか口にするのは難しく、お肉を食べるという習慣が根付きませんでした。  しかし、南蛮船がやってきた16世紀頃から、異文化到来の影響で日本人の食の習慣も少しずつ変化していきます。 当時の手紙や日記に記されたお肉の記述を、ちょっとピックアップしてみましょう。  平戸では、1559年ポルトガル人の司祭バルタザール・ガーゴの手紙の中に、信者から豚肉(たぶん塩漬けの豚)を貰ったという1文があります。 また13年後の1612年、イギリス商館ジョン・セーリスの日記には、平戸で豚の飼育と食用肉の販売がおこなわれていた様子が書かれています。  長崎では、ポルトガル船が港に停泊していた1600年代の初め、教会が建ち並ぶ長崎の町にはパンを焼く人、牛肉をさばく人、中国から持ち込まれた野菜や鶏など、海外の食文化が集まり、活気に満ち溢れていました。 きっと南蛮料理の美味しそうなにおいが漂っていたことでしょう。 さらに時は江戸へと移り、長崎代官 高木氏の頃、津山藩(現在の岡山)の蘭学者の箕作阮甫(みつくり げんぽ 1799-1863)が嘉永6年(1853)に長崎を訪れました。 その時の日記に、「さすが長崎の豚肉は江戸の豚肉とは大いに異なり美味にて柔らかなり。 …中国・オランダ人のために豚を土地の人々が長年飼育につとめたからであろう。」と書かれています。 この時、阮甫は「ソボロ烹を食べたい」とも話したそうです。  地域の歴史を背景に持つ郷土料理。 さてお味の方はどうでしょうか!? さっそくチャレンジしてみましょう! 材料:2人前 豚肉 (薄切りのバラ肉) 20g 揚げかまぼこ 1/7枚 (10g) 糸こんにゃく 1/4袋 (40g) もやし 1/4袋 (50g) ニンジン 1/6本 (20g) ゴボウ 1/10本 (30g) 油 少々 (0.6g) 濃口しょうゆ 小さじ2/3 (4g) 砂糖 小さじ1 (2.8g) みりん 少々 (1g) 酒 少々 塩 少々 白ゴマ 少々 作り方 (1)料理の下ごしらえをしましょう。 ニンジンは長さ約3〜4僂寮蘋擇蝓F撻丱蘰・揚げかまぼこも千切りにします。 食べやすい長さに切った糸こんにゃく・ささがきにしたゴボウ・もやしは、熱湯にひとつまみの塩を加えて軽く茹で、ザルにあげて水気を切ります。 (2)材料を炒めましょう。  鍋に油を入れて熱します。 豚バラ肉を先に入れ、ゴボウ・ニンジン・糸こんにゃく・揚げかまぼこ・もやしと、煮えにくい順番に炒めます。 (3)味付けをしましょう。 濃口しょうゆ・砂糖・酒・みりんを加えてさっと煮ます。 お好みで味をととのえましょう。 (4)盛り付けて完成です! 器に盛り付けたら、白ゴマをパラパラと散らしてできあがり。 もやしとゴボウの香りがたまりません! さぁ、いただきます! ★調理のポイント★ もやしはシャキシャキっとした食感を残しましょう。 もやしは、中世のころ、中国から長崎へとやってきました。 もやしは長崎料理に欠かせない野菜です。たっぷり使いましょう。 下ごしらえ(1)で一度茹でると野菜のアクがとれて、炒めるときに余分な水分がでません。 また、調理の最後に火を止めてごま油を加えてもおいしいですよ。 おためしあれ! 浦上そぼろは、やっぱり西洋と東洋の文化がミックスされた長崎のオリジナル料理なんですね。 海外との貿易で砂糖が輸入されていた歴史の背景から、長崎の味はやや甘め。 惜しみなく砂糖を使ったふくよかな味わいが、長崎のもてなしの料理です。 浦上村では人びとが集まるときに、この浦上そぼろをつくっていたそうで、そのおいしさが話題にのぼったようです。  伝えられてきた郷土の味と手料理のもてなしの気持ちを大切にしたいなと思いながら、できあがった「浦上そぼろ」をみんなで美味しくいただきました。 ごちそうさま!! 参考文献 長崎県教育庁体育保健科「長崎の郷土料理(学校給食レシピ)HP 長崎県栄養士会 「長崎の西洋料理-洋食のあけぼの-」 著者/越中哲也 発行/第一法規出版 1982年 「長崎学・續々食の文化史-食文化をたずねて-」著者/越中哲也 発行/長崎純心大学博物館 2002年 「長崎市史 風俗編」 著者/古賀十二郎 「徳川慶喜家の食卓」 著者/徳川慶朝 発行/文藝春秋 2005年
  • 人形劇『本蓮寺の南蛮井戸』 2014年03月28日
    人形劇『本蓮寺の南蛮井戸』
    −消えた教会−  かつて、「サンジョアンの町」と呼ばれた長崎の筑後町。 今、日蓮宗聖林山本蓮寺が建っている場所には、そのむかし、サン・ジョアン・バウチスタ教会とミゼリコルディア(慈悲)の組が運営するサン・ラザロ病院がありました。  敷地の一角には生活に欠かせない大切な井戸がありました。 豊臣秀吉の伴天連追放令とともに下された教会の破壊命令と徳川幕府の禁教令によって、教会も病院も壊滅されてしまいますが、この南蛮井戸だけは、キリシタン時代の教会を偲ぶ遺構として現在でも大切に残されています。  このお話を「ながさき子ども劇場」の皆さんが、人形劇『本蓮寺の南蛮井戸−消えた教会−』として上演しました。 今回は、この人形劇をとおして16〜17世紀の長崎の歴史を紹介します。 上演台本は、「ながさき子ども劇場」の許可を得て、読みやすくリメイクしています。 <台本の構成> 第一場面 「栗拾い」 第二場面 「約400年前の長崎へとタイムスリップ!?」 第三場面 「まくらがえしの間」 第四場面 「もとの時代へ戻る」 登場人物   第一場面 「栗拾い」 【場面】 長崎駅を降りて、向かいに見える立山の裾野一帯を筑後町といいます。 この斜面の港を見下ろす高台に日蓮宗のお寺「本蓮寺」があります。 中庭には、お寺が建立される以前からあるという約400年前の「南蛮井戸」が今なお大切に保存されています。 今回は、その井戸にまつわる歴史の物語をお話ししましょう。 季節は、紅葉の美しい秋のある朝のこと。 本蓮寺の和尚さんは、落ち葉を竹ぼうきで掃きながら庭の掃除に精を出していました。 【舞台】 和尚 「皆さんおはようございます。わしゃ、見てのとおり、この寺の和尚でな。毎朝井戸のまわりを掃除して、お経をあげる事がわたしの仕事でな。 南無〜南無〜南無〜。」 男の子・女の子 「おはようございまーす。」 近所の男の子と女の子が寺の裏山に向かおうとしていたところを、和尚さんがふたりを呼びとめました。 和尚 「はい、おはよう。あっ 待て待て! どこへ行く?」 男の子 「山だよー。」 女の子 「裏山の栗の木に、栗がいっぱいなってるのー」 和尚 「だめじゃ、だめじゃ。勝手にいったらいかん。それに、あぶないでのー。」 男の子 「大丈夫、大丈夫! 和尚さんにも、あとで栗をあげるからねー!」 和尚さんは考えました。 和尚 「はて裏山に、栗の木なんぞあったかな?」 一瞬不審に思いましたが、そう気にはとめず、ふたたび井戸の方へと向かい、お経を唱え始めました。 和尚 「ホー、いい天気だ。栗拾いに行った二人の子どもたちは、大丈夫かのー。」 すると、裏山の方から和尚さんを呼ぶ子どもの声が聞こえてきました。栗拾いに行った二人が戻ってきたようです。 男の子・女の子 「おしょうさまぁー、おしょうさまぁー。」 女の子 「おしょうさまぁー、ほら栗よー♪」 二人は待ちきれず、崖の上から両手に持ったかごのなかの栗を和尚さんに見せます。 男の子 「ホラ、ホラ、栗がいっぱいだよー♪ あっ、あっ、あーっ!」 和尚 「ややっ、危ない!!」 あらあら、男の子が持っていたかごをあやまって落としてしまいました。せっかく拾った栗が、なんと和尚さんの頭をめがけてコロコロ、コロコロ。和尚さんは、目をまわしながら、井戸のそばへと倒れてしまいました。 和尚 「あいたたたたたー。」 男の子・女の子 「おしょうさまー!」 あわてて和尚さんのそばにかけ寄ろうとした二人も、崖から転がり落ちて、一瞬気を失ってしまいました。 男の子・女の子 「あーん、痛かったー。」 イガイガのトゲがいっぱいの栗を頭からかぶった和尚さんも、井戸のそばで頭をさすりながら、 和尚 「あー、いたっー。」 男の子・女の子 「おしょうさま、だいじょうぶ? おしょうさまーっ。」 その瞬間、どこからともなく教会の鐘の音がカランコロンと聞こえてきました。 そして、髭を生やし胸には十字架のペンダントをした見知らぬ男性が、3人のもとへと駆け寄ってきました。 神父 「シーッ!静かに。おやッ? どなたかな? どうなされた? おや、おや。擦りむいているではないか? 誰か急いで薬をもって来なさい。」 着物の女の子 「はーい。」 神父 「大丈夫ですか?」 しばらく気を失っていた3人は、見覚えのない周りの風景と見知らぬ人の登場に戸惑いながらも、どうにか答えました。 和尚 「ありがとうございます。あれ ここはどこです? 寺は、本蓮寺はどうした?」 男の子 「えっー、ここは どこ?」 女の子 「ここ、どこなの?」 第二場面 「約400年前の長崎へとタイムスリップ!?」 【場面】 今から約400年前、長崎は、わが国で一番のキリシタンの町でした。 本蓮寺のあったところから長崎県庁あたりにかけては長い岬になっていました。 美しい海岸線に沿うように、教会がたくさん建ち並んでいました。 本蓮寺は、サン・ジョアン・バウチスタ教会とサン・ラザロ病院の跡に建てられたお寺です。 ここは、その教会。 和尚さんと男の子と女の子の3人は、栗がぶつかったり、崖からすべって転んだりした拍子に、井戸のそばでタイムスリップしてしまったのでした。 【舞台】 傷の手当てをしてもらった和尚さん。 神父 「これでよし! 大丈夫ですか?」 着物をまとった男の子や女の子が言います。 着物の男の子 「僕たちも、転んだ時はこの病院で薬をつけてもらうんだ。お腹痛いときもここに来るんだよ。」 着物の女の子 「おじいちゃんやおばあちゃんもここに来て治してもらうんだよ。」 男の子 「ふーん。」 女の子 「ここ病院みたいだね。」 神父 「ところで、この辺りでは見かけない方たちですが。まっ、いいです。一緒に朝のお祈りをいたしましょう。今日一日、みんなが元気で過ごせますように。アーメン。」 着物の男の子 「あー、お腹すいた。」 着物の女の子 「ご飯だ、ご飯だ!」 神父 「あなたたちもどうぞ。ほかの子どもたちもお腹をすかせて待っていることでしょう。」 女の子 「子どもたち?」 神父 「はい。この教会には、お父さんやお母さんと一緒に暮らせない子どもたちが、みんなで生活しているのですよ。」 着物を着た男の子・女の子 「神父様ぁー、はやくぅー。」 神父 「はい、はい。」 すっかり変わってしまった景色と周囲の見知らぬ人たち。この不思議な現象に納得のいかない和尚さんは、神父さんを呼びとめて尋ねました。 和尚 「あのぉー、この井戸は?」 神父 「この教会の井戸ですよ。子どもたちがたくさんおりますので、水もたくさん必要なのです。」 「かーごめ、かーごーめ…。」教会の鐘の音が町中に響き、子どもたちが遊ぶ元気な歌声が聞こえてきました。 着物の女の子 「今度は、かくれんぼして遊ぼうよ。」 木に両腕を伏せて数をかぞえはじめました。 着物の男の子 「もーいいよー。」と言いながら井戸の中へと隠れます。 空がオレンジ色に染まった夕暮れに、どこからともなく、ほら貝を吹く音が聞こえてきました。 着物の男の子 「アッ!南蛮船がやって来る合図よ。」 着物の女の子 「南蛮船が来たー。港へ行こうー!」 和尚さんと男の子と女の子は、着物を着た子どもたちの後を追って、様子をうかがってみることにしました。 しばらくすると、テレビの時代劇で見るような服装のお役人さんがやってきて、民衆の前で徳川家康から発布されたというおふれを読み上げました。 役人 「よっこらショッと。おっほん。みんなよぉーく聞けぇー。 『スペインやポルトガルから来た南蛮人は、わが国を奪って自分たちのものにしようとしている。 そのような者たちが教えるキリスト教を絶対に信じてはいけない。この命令にそむいた者には、すべてに罰をあたえる。 徳川家康。』 以上、よいか、わかったな! どっこいしょと。」 大きな声で偉そうにした役人は、その場に立て札を立てて行ってしまいました。 1614年、徳川家康は禁教令を発布して長崎に建っている教会の破壊を命じました。長崎の美しい教会が次々と焼き払われ、キリシタンたちは行き場を失っていきました。 着物の男の子 「こっち、こっち。」 着物の女の子 「待って。大事なものは、井戸の中へ!」 着物の男の子 「大事なものは、井戸の中へ!」 子どもたちはこう言いながら、手に持っていた袋を、教会にある井戸の中へと投げ入れました。 その様子を不審に思ったお役人さんは、井戸へと駆け寄ってきました。 役人 「なんだ、何をやっているんだ?」 井戸をのぞきこんで、怖い形相で追いかけてきました。 和尚さんも男の子も女の子も、お役人さんに捕まらないようにと、一目散に逃げました。 サン・ジョアン・バウチスタ教会とサン・ラザロ病院も、命令どおりに壊されてしまいました。 役人 「おっほん!みんなよぉーく聞けぇー! この度、このサン・ジョアン・バウチスタ教会のあった場所に、寺を建てることになった。 村の者たちは一生懸命に働くようと、おかみからのおいいつけじゃ。寺の名前は、本蓮寺とする。」 第三場面 「まくらがえしの間」 【場面】 こうして、教会の焼けた跡地に建てられた本蓮寺。 井戸の隣の部屋「まくらがえしの間」では、夜な夜な、ある摩訶不思議なことが起こるのでした。タイムスリップしてしまった3人にも、やっぱり・・・! 【舞台】 夜の読経を終えた和尚さん、遊びつかれた子どもたちは、「まくらがえしの間」へと向かい寝床に着きました。 和尚 「そろそろ寝るとしよう。」 男の子・女の子 「はーい。和尚さま、おやすみなさーい。」 しばらくすると、不気味な風の音とともに、どこからかうめき声みたいなものが聞こえてきました。 和尚さんも、一緒に寝ていた男の子も女の子も恐ろしくなって、「ぎゃー。」と叫んでしまいました。 男の子 「なんだ なんだ?」 女の子 「なんか、今動かなかったー?」 和尚 「うおー、寝ていた向きが反対になってるぞー!」 お互いをよく見ると3人とも逆向きです。 驚いた3人は「みんなだ!」と叫んで、一斉に布団にもぐり込んでしまいました。 不気味な風の音もうめき声もなかなか鳴り止みません。隣の部屋で寝ていた小僧さんも、震えながらやってきました。 小僧 「この部屋、やっぱり怖いよ〜。」 男の子 「エッ、なんでー?なにがー?」 女の子 「ねえ、井戸のほうから何か聞こえるよ。」 そして、起きあがった3人がおそるおそる井戸に近づいてみると、落雷のように凄まじい音とともに辺り一帯がピカッと光りました。 「きゃー!」 第四場面 「現代に戻る」 【舞台】 和尚さんと男の子と女の子の3人が、最初にいた本蓮寺の井戸のそばに倒れています。 井戸のまわりには、栗が散乱しています。現代へと戻ってきたのです。 崖から滑り落ちた男の子と女の子が先に気がついて、横を見ると、和尚さんが目を回して倒れていました。 女の子 「おしょうさま。しっかりしてー。」 和尚 「う〜ん。あいたたたたた。」 和尚さんも気がついて、竹ぼうきを拾い、起きあがりました。 男の子 「あー、びっくりした。石につまずいたみたい。」 女の子 「ねえ、今、井戸の中がピカッと光らなかった?」 男の子と女の子は顔を見合わせて、おそるおそる井戸の中をのぞき込みました。でも何ともありません。 和尚 「寺の栗など、取るから、ばちがあたったのじゃ。さぁさ、一緒にお参りじゃ。南無〜南無〜南無〜南無。」 男の子と女の子は、和尚さんのお経にあわせて、一緒にお参りしました。 男の子・女の子 「はーい。南無〜南無〜南無。」 ずっとむか〜し、長崎がキリシタンの町だったときも、キリスト教を信じてはいけないと禁教令が出たときも、むごくて悲しい殉教の町へと変わっていったときも、原爆でなにもかもが無くなったときも、本蓮寺の井戸はその長い歴史をずっと見てきました。 そしてこれからもこの南蛮井戸は、歴史を見守っていくことでしょう。 おしまい ◎協力(台本提供、ビデオ提供・人形の写真など):ながさき子ども劇場 ながさき子ども劇場 "子どもに夢を!たくましく豊かな創造性を!!" 「ながさき子ども劇場」は、子どもたちの健やかな成長のために結成された会です。 プロの舞台鑑賞をはじめ、キャンプやあそびの会・バザーなど、みんなで企画した様々なイベントを親子で楽しんでいます。 こうした活動をとおして、子育てで悩む親や思春期で悩む子どもたちが話せる関係をつくるきっかけになったり、お互いに話し合える場になったりしながら、地域での子育て支援やネットワークづくりにも役立っているそうです。 1967年に創設した「ながさき子ども劇場」も今年で40周年を向かえ、親から子、孫へと世代を越えたつながりを大切にしながら活動しています。 所在/長崎市大黒町4-26北村第一ビル302号 お問い合わせ/TEL/095-825-0533 FAX/095-825-6151 開局日/月・火・木・金の10:00〜17:00 メールアドレス/sukisuki@bird.ocn.ne.jp ホームページ/ http://www5.ocn.ne.jp/~n.kogeki/ 会費/入会金…200円。1ヶ月1,300円(4歳以上) 入会の手続き/「入会申込書」に必要事項をご記入のうえ、入会金と会費を添えて、お近くの会員か事務所までお持ちください。 アクセス/JR長崎駅より徒歩で約5分。 県営バスターミナルの脇道を通り、突き当たりを右折、ナガサキストアのある北村第一ビルの3階。
  • 長崎は、路面電車と走る町 2014年03月25日
    長崎は、路面電車と走る町
    インタビュー 長崎電気軌道株式会社 川本 大さん  長崎の町のシンボル「チンチン電車」。公共交通機関として多くの市民や観光客に利用されています。長崎の町を走りはじめて、もうすぐ100年。「走る近代化遺産」の歴史と、近年、環境にやさしい乗りものとして注目される路面電車について、長崎電気軌道株式会社の川本大さんにお話を伺いました。 大正4年の開通から原爆、長崎大水害の苦難を乗りこえて Q、長崎の町を初めて路面電車が走った、その記念すべき日はどのような様子だったのでしょうか? A、長崎電気軌道株式会社は大正3年8月2日に創立しました。翌4年11月16日、大正天皇即位御大典の日に病院下(現在の長崎大学歯学部正門付近)〜築町間で開通。その日は1号車を先頭に8号車まで小豆色の電車が次々と発車したと社史に記録されています。ちなみに開業日の乗客数は約15,000人だったと東洋日之出新聞は報じています。 Q、現在、長崎の路面電車の運賃は、何区間乗っても100円ということで知られていますが、開業当時の運賃はいくらだったのでしょう? A、一区間一銭で、別に通行税が一銭。始発から終点まで9区間乗車すると10銭でした。豆腐一丁が一銭の時代です。 Q、開業からすでに90年以上たっていますが、初めて路面電車が走ったころの名残をとどめている場所はありますか? A、戦後の都市計画の変更や道路の拡幅などで軌道敷が当時の場所にのこっているのは、出島〜築町の直線区間だけです。 Q、現在のような路線になったのは、いつごろでしょうか? A、思案橋から正覚寺下まで延長路線をした昭和43年6月です。大正年間に市内の主要区間の運行をほぼ完成させ、昭和に入って下の川〜大橋間、馬町(諏訪神社前)〜蛍茶屋間、大橋〜住吉間、住吉〜赤迫間を延伸しています。 Q、昭和20年8月9日の原爆や昭和57年7月23日の長崎大水害は、路面電車にどのような被害をもたらしたのでしょうか? A、原爆の被害は甚大なものでした。従業員110余名が亡くなり、全線不通。使用可能な車両をほぼすべて失いました。電柱の倒壊折損は120本、電線、軌道の焼失は数ヵ所に及びました。電車の運行再開が"長崎市の復興の足がかり"になると復旧に力を注ぎ、わずか3ヵ月半後の11月25日に、蛍茶屋〜西浜町〜長崎駅前間の運転を再開、その後半年間でほぼ復旧することができました。これは従業員が全力をふりしぼったことと、被災後すぐに三菱電機から発電機を購入し、焼け残った変電所に設置することができたということも大きな要因です。長崎が造船の町であったからという背景もありました。  また、原爆につづく大きな災害が昭和57年7月23日の長崎大水害です。夕方、送電をたたれた電車が全線にわたって運休、30 両を越す電車が各所で立ち往生となりました。現在のように携帯電話もない時代、運転士らは状況がわからないまま乗客の保護と避難にあたりました。車両はおよそ15t、急流に流されないよう車体をロープで電柱や電停にくくりつけた者、乗客を抱きかかえ濁流を横切って避難させた者、運転士の多くは翌朝まで現場に留まり、車両を守り続けました。損害は大きく、68両中45両が使用できず、4ヵ所ある変電所のうち3ヵ所が冠水、車庫や営業所、停留場などが被害をうけました。  しかし、全社員、昼夜をとわず作業にあたり、水害3日後には1系統(築町〜赤迫間)と3号系統全線で運行を再開。車両メーカーや各路面電車事業者にご協力、ご支援をいただいたおかげでした。この災害でお客様、社員に一人の死傷者がなかったことが幸いでした。 路面電車の特徴と長崎の路面電車について Q、そもそも路面電車とはどんな電車のことですか?また、「チンチン電車」と親しまれていますが、そう呼ばれるようになった由来を教えてください。 A、おおまかに言えば道路上を走る電車のことを路面電車といいます。ただし、大学病院前〜岩屋橋間の道路を走らない区間(専用軌道)があったり、他都市では逆に道路上を走る鉄道があったりと種々の例外があります。また、チンチン電車は、運転士と車掌が乗ったツーマン電車のころ、車掌が頭上にあるひもを引いて"チンチン"とベルを鳴らし出発の合図を運転士に伝えたことからそう名づけられたという説ともうひとつはチンチンと響く警鈴の音からそう呼ばれるようになったという説があります。 Q、路面電車は電気をどのように受け取って走っているのですか? A、路面電車の架線には直流600Vの電気が流れています。電車の上についているパンタグラフ(アルファベットのZのような形)で電気を受け取って、モーターに繋げているのです。架線からはプラスの電気を受け、レールにはマイナスの電気を流しています。車輪とレールは鉄でできているので電気を流すことができます。 Q、路面電車のスピードは、最速どれくらいまで出るのでしょうか? A、最高で時速40km。法令で決まっています。長崎は電停の区間が短いので特に繁華街では最高時速より遅いスピードで走っています。 Q、昨今は物価上昇の時代ですが、何区間乗っても100円という運賃設定はなぜ可能なのでしょう? A、長崎の路面電車は中心市街地と観光名所の近くを通り、また坂の多い地形でマイカー保有台数が少なく、通学、通勤、観光客の方々が多くご利用くださっています。昭和59年から約24年間、値上げなしでやっていけるのはひとえにお客様のお陰です。 Q、近年は、深緑にベージュの定番電車のほかに、カラフルな広告電車をよく見かけますが? A、いまでは当たりまえのようになった広告電車ですが、全国に先がけてはじめたのが長崎です。昭和39年9月に初のカラー広告電車が長崎の町を走りました。広告収入の他に、早ければ2ヶ月程度でおこなう車体の塗り替え費用が節減されるなど増収に貢献しています。 Q、長崎の路面電車は他都市を走っていた電車が多く、電車博物館ともいわれていますね? A、旧東京都交通局や旧箱根登山鉄道、旧熊本市交通局、旧仙台市交通局、旧西日本鉄道と他都市からの電車が活躍しています。とくに旧西日本鉄道の電車は明治44年製造で現役最古級の木造電車となっています。  これらの電車は一回片道7,700円(過半数が小児の場合は半額)で一両を貸し切りすることができます。例えば、結婚式の二次会会場への移動や電車好きなお子さまの誕生日など記念の日に、様々にご利用いただければと思います。  なお多客期、天候状況、車両検査などでご希望に添えない場合がありますのでご利用の際は、なるべくお早めにお申し込みいただければ幸いです。(運転課 095-845-4113) Q、長崎ランタンフェスティバルなどのイベントに登場する電車は、どういった種類の電車ですか? A、花電車です。電車開通90周年記念、ランタンフェスティバルなどで利用されました。形式は87形で"ハナ"と命名されています。ちなみに旧仙台市交通局からの電車は1051号。"仙台(千番台)から昭和50年代にやってきた"ということで名づけられた電車もあります。 Q、現在の車両数を教えてください。 A、80両です。うち2両が花電車です。 Q、数年前より、3つに分かれている新しい電車を目にします。近未来的な形ですね。 A、超低床路面電車3000形です。純国産の超低床路面電車としては初めて台車部分を含む100%の低床化を実現しました。これによって電停と乗降口の段差は従来の30〜40cmから約7cmとなり車椅子利用やご高齢の方やベビーカーでの利用が楽になりました。平成16年に導入を開始し、現在は計3両を運行しております。3000形は、グッドデザイン賞やローレル賞なども受賞しています。また、名称をリトルダンサータイプUといい、"小さい段差"という意味も込められています。前出の87形や1051号などの数字や名称に注目してみるのも面白いですね。 Q、何区間乗っても100円運賃、全国にさきがけてはじめた広告電車など、お話をうかがってきましたが、他によそにはない長崎独自のものはありますか? A、日本でただひとつ、路面電車のトンネルが長崎にあります。浜口町の長崎西洋館一階部分です。桜町〜公会堂前間にも似た構造のものがありますが、 トンネルは西洋館のみです。 Q、大勢が利用する路面電車には、忘れものも多いのではないでしょうか? A、季節によって変わりますが、夏は帽子、寒くなると手袋。手袋は片方のみのお忘れものが多いですね。また、変わったものでは、学生カバンや入れ歯などがありました。一年通して多いのは、やはり傘です。車内のお忘れものは警察に届けますが、保管期間が終了した傘などは、急な雨にお困りのお客様に正覚寺下、浦上車庫前、蛍茶屋の各電停で無料提供しております。 Q、近年、路面電車は環境にやさしいと注目されていますね。 A、車社会は都市に交通渋滞や排気ガスなど様々な問題をもたらしました。路面電車は定時運行ができ、二酸化炭素排出などの環境負荷が小さい公共交通機関として見直されています。今後とも人と地球にやさしい路面電車を目指し車両・設備の近代化やバリアフリーを進め、輸送サービスの向上に努めていきます。 [インタビュー・文:高浪利子 / 取材協力・写真提供:長崎電気軌道株式会社]
  • 長崎の幕末3 2014年03月28日
    長崎の幕末3
    幕末の長崎は西洋の近代技術の窓口としてその役割を果たし、海軍伝習所をはじめ長崎溶鉄所(長崎製鉄所)、近代医学、洋式採炭技術、英語伝習所、活版印刷など当時の長崎には、新しい技術や科学が入り、根付いていました。その長崎を目指し、日本各地からそれらの技術を吸収したい若者たちが、この“長崎”を目指して訪れ、学びました。 さて、明治維新を迎える“長崎”では、どんなことが起こっていたのでしょうか。 戊辰戦争 1867年(慶応3)、徳川慶喜の大政奉還にともない、王政復古の令が発せられ、薩摩藩と長州藩を主体として明治政府が樹立されました。 この新政府の圧力に対抗するため、佐幕派であった陸奥国(奥州)、出羽国(出羽州)、越後国(越州)の諸藩は、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結びました。 1868年(慶応4)、鳥羽・伏見において薩摩藩と長州藩を主体とした新政府軍と、会津藩と桑名藩を主力とした旧幕府軍が戦闘状態となり、鳥羽・伏見の戦いが開始しました。いわゆる戊辰戦争が始まりました。   長崎会議所 長崎奉行として赴任したばかりだった河津祐邦(かわづすけくに)は、鳥羽・伏見の戦いで、旧幕府軍が不利であることを知ると、長崎港守備当番であった福岡藩聞役をよび、後の事をまかせてイギリス船に乗って江戸へと帰ってしまいました。 福岡藩聞役は、薩摩藩聞役・松方正義(まつかたまさよし)や土佐藩士・佐々木高行(ささきたかゆき)らを呼び、事後について協議しました。当時長崎にいた各藩の藩士や長崎の地役人達が協議し、政府から責任者が派遣されるまでは諸事を行なうための協議体を作りました。とくに長崎は開国後、居留外国人が増加していたため、外国人に危害が加えられた場合には、在留軍隊が動き出す危険もあるため、長崎地役人子弟から組織された遊撃隊が編成されていました。各藩兵や遊撃隊が当面は長崎の治安維持に当たることになりました。遊撃隊は1868年(慶応4)に振遠隊(しんえんたい)と改組されました。 こうして政府から責任者が派遣されるまで諸事を行なう協議体を、長崎会議所と呼びました。 河津祐邦の長崎脱出によって、長崎奉行所はその役目を終え、江戸幕府の長崎支配は終了しましたが、このことで長崎の地で旧幕府軍と新政府軍との武力衝突を回避することができたともいわれています。 一方で、海援隊で坂本龍馬を支え行動していた沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)が警備中に誤って薩摩藩士を射殺してしまうという事件も起こりました。沢村惣之丞は薩摩藩との軋轢を恐れ、海援隊本部で自刃しました。なお沢村惣之丞の墓は、長崎の本蓮寺にあります。   九州鎮撫総督 西洋の近代技術の窓口としての役割を持っていた長崎を重視した明治政府は、長崎に九州鎮撫総督を置くことにしました。総督には、三条実美(さねとみ)らとともに尊王攘夷派公卿として長州藩にのがれた沢宣嘉(のぶよし)を任命しました。 沢宣嘉は、長崎取締に大村藩藩主大村純熈(すみひろ)、総督参謀には井上馨(いのうえかおる)、町田民部、佐々木高行などを判事に任命しました。 この政庁は当初長崎裁判所と呼ばれましたが、その後長崎府となり、沢宣嘉が初代知事となっています。沢宣嘉は外国事務総督も兼ねており、維新直後めまぐるしく揺れ動くなか、複雑な外国交渉にあたり、後に明治政府の外務卿に転じています   長崎という地 長崎は、鎖国時代から出島をとおして西洋の医学、科学、技術をいち早く取り入れてきました。 開国を目前にした幕末期には、オランダからの軍事技術の周到、造船技術、炭鉱など重工業の根幹となる産業技術を取り入れる施設が造られ、日本の近代化のさきがけとしての役割を果たしてきました。価値の高い近代化遺産が、長崎に多数現存するのはこうした歴史的背景があります。 長崎県を旅する時には、長崎の歴史、文化に触れ、長崎県内に残された歴史遺産たちに目を向けてみてください。幕末の長崎を含め、さまざまな時代の長崎の歴史を感じることができます。 参考資料 『長崎県の歴史』(瀬野精一郎・新川登亀男・佐伯弘次・五野井隆史・小宮木代良 著/株式会社 山川出版社)
  • 幕末の長崎2 2014年03月28日
    幕末の長崎2
    幕末の長崎は西洋の近代技術の窓口としてその役割を果たしたことは、前回お話しました。海軍伝習所をはじめ長崎溶鉄所(長崎製鉄所)、近代医学、洋式採炭技術、英語伝習所、活版印刷など当時の長崎には、新しい技術や科学が入り、根付いていました。その長崎を目指し、日本各地からそれらの技術を吸収したい若者たちが、この“長崎”を目指し、学びました。 さて、幕末の長崎にどんな人々が訪れ、どんな技術を学んでいたのでしょうか。 西洋医学〜シーボルト、ポンペに学んだものたち〜 長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)のシーボルト記念碑(一番右) 1823年(文政6)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは長崎に上陸しました。シーボルトは日本を訪れた西洋人医師の中でもよく知られた人物です。長崎では名医としてシーボルトの名が広まり、治療を受けたいという人々が増え、当時の商館長ブロンホフは奉行高橋越前守に願い出て、外科部屋でシーボルトが診療などを行えるようになったといいます。   また町年寄であった高島四郎兵衛の協力もあり、長崎町内での診療もできるようにな り、その後オランダ通詞吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)や楢林鎮山(ならばやしちんざん)が開いた私塾へも出張し、診療や医学指導をする許可を受けたといいます。 楢林鎮山宅跡 ますますシーボルトの名声は高まり、1824年(文政7)には長崎郊外に診療所も兼ねた鳴滝塾(なるたきじゅく)を設立しました。庭には日本各地でシーボルトが採取した薬草類が栽培されたといわれています。鳴滝塾では、高野長英(たかのちょうえい)や二宮敬作(にのみやけいさく)、伊東玄朴(いとうげんぼく)、戸塚静海(とつかせいかい)、海援隊の二代目隊長を勤めた長岡謙吉(ながおかけんきち)などが学びました。 しかし1828年(文政11)、オランダへ帰国する準備をしていたシーボルトの荷物の中から国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかるという事件(シーボルト事件)が起こりました。その地図を贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保(たかはしかげやす)ほか十数名が処分され、翌年シーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。 1853年(嘉永6)、ペリー提督が黒船艦隊を率いてやってくると、日本は攘夷論と開国論とで揺れ動きます。イギリス・フランスなどの列強国の侵略を防ぐため、江戸幕府はオランダの助力を得て、1855年(安政2)に長崎海軍伝習所を設立しました。1857年(安政4)には、幕府がオランダに注文していた「咸臨丸(かんりんまる)」が第二次教官団とともに入港しました。この第二次教官団の中に、医師ポンペ・ファン・メーデルフォールトがいました。 シーボルトが日本を離れてからも商館医が来日し、有志の者はこれらの商館医に就いて学び、医学教育の成果はあがっていましたが、この状況をみた幕府は、オランダ政府に優れた医師の派遣を要請し、長崎に医学伝習所を設立し、広く伝習することとなりました。 この医学伝習所では、物理学・科学をはじめ、包帯学、解剖学、組織学、生理学、病理学、治療学、調剤学、内科学、外科学、眼科学、法医学、産科学と幅広く講義していたといいます。伝習生でもあり、ポンペの良き相談相手でもあった幕医・松本良順は、諸藩の藩医にも伝習させようと呼びかけ、続々と伝習生が集まりました。越前福井藩の半井仲庵(なからいちゅうあん)や仙台藩の大槻俊斎(おおつきしゅんさい)、福岡藩の前田玄造(まえだげんぞう)、大村藩の長与専斎(ながよせんさい)、佐倉藩の佐藤尚中(さとうたかなか(しょうちゅう))、大坂の緒方洪庵の子・緒方惟準(これよし)などがポンペに就いて学んでいます。また上野彦馬もポンペに化学を学び、これをきっかけに写真術を発展させていきました。 しかし講義が始まった当初は、ポンペは日本語がまったくわからず、オランダ通詞が通訳するのに時間がかかったり、通詞たちが医学用語を理解できなかったこともあり、誤訳も少なくなかったといいます。そのためポンペも日本語を学び、通詞の誤訳もわかるようになり、また伝習生たちも独自にオランダ語を学び、講義の理解を深めていきました。 現在の長崎県庁がある場所は、長崎奉行西役所跡です。ここで講義が行われていました。 当時の長崎奉行西役所の様子です(県庁正門前のレリーフ図より) 1858年(安政5)に長崎で発生したコレラはたちまち九州・中国地方、そして江戸へと飛火しましたが、この時ポンペはその予防と治療に全力を尽くしています。また幕府に要請し、1861年(文久元)長崎に小島養生所を設立させ、本格的な医学教育と近代的な医療活動を開始したほか、梅毒検査と公娼制度廃止を唱えるなど医学教育とともに衛生行政上においても功績を残しています。 1858年(安政5)、日蘭修好通商条約が締結されると、翌年には再渡航禁止の処分を受けたシーボルトが再び長崎を訪れました。シーボルトは、お滝と娘・イネとも再会し、昔の門人たちと交流しながらも研究を続け、1861年(文久元)には幕府に招かれ外交顧問に就いて江戸でヨーロッパの学問などを講義したといわれています。 長崎英語伝習所〜フルベッキと済美館〜 1808年(文化5)のフェートン号事件や、安政の開国以降、諸外国人との間の通訳のため、通詞の活動する場はますます増えました。しかし、開国によってこれまでのオランダ通詞は、単にオランダ語の通訳だけでなく、英語やフランス語、ロシア語などの習得が必要となりました。 そこで1858年(安政5)に長崎奉行は、オランダ商館員デ・フォーゲル及び海軍伝習所の第二次教官団のウィヘルスに、そしてイギリス人フレッチャーが長崎に来たのを機に、この3名に英語の教育を依頼し、英語伝習所を設置しました。この3名の教師のほか、オランダ通詞の楢林栄左衛門(ならばやしえいざえもん)と西吉十郎(にしきちじゅうろう)の両人を学頭とし、通詞や地役人の子弟に英語を教えました。 英語伝習所は1862年(文久2)には現在の片淵町に移されましたが、翌年には長崎奉行所(現立山町)に移り、語学所と改称しました。さらに江戸町の元五ヶ所宿老会所に移り、洋学所と改められ、英語とオランダ語を教えていました。また外国人教授としてフルベッキを迎えました。 フルベッキは、オランダで生まれ育ち、アメリカに移住したのちにアメリカ改革派教会の宣教師となり、1859年(安政6)に長崎を訪れました。宣教師ではありましたが、英語教師として長崎に迎えられました。 洋学所はその後、1865年(慶応元)に新町(現興善町)に校舎を新築移転し、済美館(さいびかん)と改称されました。そして英語・オランダ語のほかにフランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語の諸語学と洋算、歴史、地理、物理、経済などの学問も教えました。教師は19名、生徒は100余名に達し、発展しました。しかし明治に入ると長崎府の管轄となり、広運館(こううんかん)と改称されます。 フルベッキは、1865年(慶応元)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造して作った佐賀藩校英学塾「致遠館(ちえんかん)」の校長に就任しています。教頭として、大隈重信(おおくましげのぶ)・副島種臣(そえじまたねおみ)が指導に当たったそうです。彼らは、フルベッキから英語を習っており、フルベッキの書簡からは、岩倉具視(いわくら ともみ)の子や横井小楠(よこいしょうなん)の甥なども、この致遠館に在籍していたことがわかりました。 のちにフルベッキは東京へ出て、政府顧問となり、日本の近代化につくしました。また、オランダで工学を学んでいたこともあり、本木昌造の活字印刷術にも貢献しているといわれています。   鉛印刷の祖・本木昌造 長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)の本木昌造翁像 本木昌造(しょうぞう)は、代々のオランダ通詞であった本木昌左衛門の養子となります。1853年(嘉永7)にロシア使節プチャーチンが来航したときや1854 年(安政元)にペリーが来航した際、日米和親条約締結の際にも通詞として活躍したといわれています。 1855年(安政2)に設立された長崎海軍伝習所では、通詞として関わりながらもいろいろな技術を学びます。1860年(万延元)には飽浦(あくのうら)製鉄所へも赴き御用掛、主任を経て頭取を勤め、技術者養成、海運、鉄橋架設などに貢献しました。 オランダ人インデマウルから活字印刷の技術を習得すると、1869年(明治2)に長崎製鉄所付属の活版伝習所を設立しました。またフルベッキの紹介で、小形活字鋳造が堪能なガンブルに活字鋳造の伝習をうけ、鉛活字の製法に成功しました。1870年(明治3)には、新しく新町活版所を設け、経営・指導にあたりました。また廃藩置県によって、職を失った武士への授産施設としての役割を果たしていたといいます。その後大阪・東京へと印刷業を発展させていきます。門人には、日本初の日刊新聞である横浜毎日新聞社を創刊した一人である陽其二(ようそのじ)や、築地活版・石川島造船所の創設者でもある平野富二(ひらのとみじ)などがいます。 活版伝習所跡 新町活版所跡 洋式砲術・高島秋帆(しゅうはん) 高島秋帆の家は江戸初期以来、長崎の町年寄をつとめており、父の四郎兵衛は、荻野流砲術に詳しかったといいます。またシーボルトの診療許可に協力した人物でもあります。四郎兵衛が亡くなると、秋帆は長崎会所調役頭取となり仕事のかたわら、砲術を研究し、長崎奉行の許可を得て、自費で大砲や銃を購入したり、出島のオランダ人からオランダ語や砲術を学び、オランダの兵書をとりよせて研究し、高島流砲術を完成させたといいます。 1840年(天保11)には、清国とイギリスとの間で起こったアヘン戦争やフェートン号事件を例に出し、ヨーロッパ式砲術の採用を求める「天保上書」を幕府に提出しました。翌年には門下生100余名と大砲をひきいて、江戸での洋式砲術演習を公開しています。 この演習により、秋帆は幕府から砲術の専門家として重用され、江川英龍(えがわひでたつ)や下曽根信敦(しもそねのぶあつ)、山本晴海(はるみ)、大木藤十郎(おおきとうじゅうろう)、山本物次郎(ものじろう)らに砲術を伝習しています。しかし、幕臣のひとり鳥居耀蔵(ようぞう)から謀反の罪をなすりつけられ、武州岡部に投獄され、高島家の財産まで没収されてしまいます。 1853年(嘉永6)以降、ペリーやプチャーチンが来航すると、赦免されて出獄。その後幕府の砲術訓練の指導に尽力しました。 秋帆から高島流砲術を学んだ江川英龍は、さらに改良した西洋砲術を全国の藩士に教育しました。佐久間象山(さくましょうざん)や大鳥圭介(おおとりけいすけ)・橋本左内(はしもと さない)・桂小五郎(かつらこごろう)なども江川英龍に砲術を学んだといわれています。 日本で最初のプロカメラマン・上野彦馬 長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)の上野彦馬之像 上野彦馬は、俊之丞(しゅんのじょう)の子として長崎で生まれました。彦馬は、写真技術の習得と普及に多大な功績をあげた人物です。日本で最初のプロカメラマンとしても広く知られています。彦馬が開業した上野撮影局には、龍馬や高杉晋作(たかすぎしんさく)、桂小五郎など幕末に活躍した多くの志士たちが訪れました。 彦馬は、オランダ人医師のポンペに舎密学(せいみがく・化学)を学び、それをきっかけに写真に興味をもつようになりました。堀江鍬次郎(ほりえくわじろう)とともに写真術を研究し、1858年(安政5)、二人の共同による手製写真機で撮影に成功しました。このときのモデルは幕府医官の松本良順で、白粉をあつくぬり、5分ほど直立不動の姿勢をとったといいます。 上野彦馬宅跡 当時、写真術に使う薬液も自分で作らなければならず、もともと化学者であった彦馬にして可能なことだったといえます。今に残る写真は、当時の人々や町の様子などを伝えてくれます。彦馬の墓は、風頭公園(かざがしらこうえん)の坂本龍馬像のすぐ側にあります。 日本茶輸出貿易の先駆者・大浦慶 大浦慶居宅跡 大浦慶は、油屋の老舗に生まれました。女性の起業家として注目すべき人物で、当時は誰もおこなっていなかった日本茶の輸出事業を興します。九州各地の茶の産地の生産拡大をはかり、1856年(安政3)、イギリス商人・オルトとの間で1万斤(6トン)の貿易に成功すると、以後日本茶を海外に輸出して莫大な利益を得ました。外国人商人からも、「信用できる日本人」という評判だったといわれています。また大浦慶は、海援隊など勤王志士のスポンサーであったともいわれています。 後に、元熊本藩士・遠山一也とオルト商会との間でおこなわれた煙草の取引の連帯保証人となりますが、詐欺に遭い没落します。 しかし、晩年に日本茶輸出貿易の先駆者として、明治政府から茶業振興功労褒賞を贈られました。   日本の近代化に貢献したトーマス・グラバー トーマス・ブレーク・グラバー 幕末の混乱期を舞台に活躍した人々の中で、忘れてはならない人物の一人にトーマス・ブレーク・グラバーがいます。スコットランド出身のグラバーは、22歳の時に上海から長崎にきて、グラバー商会を設立しました。大浦などの外国人居留地で、生糸や絹織物、木綿織物、蝋、金属製品・陶器・漆器などを取り扱っていましたが、2010年大河ドラマ「龍馬伝」でもおわかりのように、実際には大量の武器や蒸気船などを薩長などに売って巨大な利益を得ていたといわれています。坂本龍馬ら亀山社中が薩摩藩名義で購入した艦船や武器などの多くはグラバー商会から購入しています。また勤王志士らのスポンサーとして、長州藩の伊藤博文(いとうひろふみ)や井上聞多(いのうえもんた)、薩摩藩の五代友厚(ごだいともあつ)らをひそかにヨーロッパに留学させるなど支援していたといいます。 1865年(慶応元)には大浦海岸通りに汽車を走らせるなどして長崎の人々を驚かせ、1868年(明治元)には五代友厚と小松帯刀(たてわき)らと共同で小菅(こすげ)にソロバン・ドックを建設しました。これは日本最古の洋式ドックとして現存するものです。 明治以降は高島炭鉱の経営に当たり、炭鉱開発など日本の近代化に大きな役割を果たしました。 商人トーマス・グラバーの邸宅も現存し、観光地のひとつとなっています。また、グラバーと並んで有名なやり手商人のオルトの邸宅もグラバー園に残っています。オルトは、先に紹介した大浦慶と組んで製茶貿易で巨大な冨を得ました。岩崎弥太郎との関係も深かったといいます。 亀山社中(海援隊)、土佐商会 長崎亀山社中記念館 坂本龍馬をはじめ、亀山社中(海援隊)、そして土佐商会の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)も、幕末の長崎において忘れてはならない人々です。 1865年(慶応元)、幕府機関である神戸海軍操練所が解散すると、龍馬が中心となって薩摩藩の資金援助を受け、この地に社中を結成しました。これが日本初の商社といわれ、拠点とした地名“亀山”と、仲間・結社を意味する“社中”をあわせて、「亀山社中」と呼ばれました。 亀山社中には、神戸海軍操練所の出身者が多く、航海技術を生かして武器などを含む物資の運搬や貿易の仲介をおこないました。1866年(慶応2)には、対幕府軍との下関海戦に参加し、長州藩の勝利に貢献しました。当時、反幕府の立場にあった長州藩に対し、薩摩藩名義で武器や艦船の購入を斡旋するなど、薩長同盟へとつながる大きな役割を果たしたといわれています。この亀山社中には、土佐藩出身で龍馬をサポートしてきた沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)やシーボルトの医学を習い維新後は三河県知事にもなった長岡謙吉(ながおかけんきち)、後に条約改正・日清戦争講和・三国干渉などで手腕を発揮し「カミソリ大臣」と呼ばれた陸奥宗光(むつむねみつ)などがいました。また、亀山社中の活動を支援してきた商人・小曽根英四郎(こぞねえいしろう)も亀山社中が活動するうえで、とても重要な人物です。 現在の「長崎市亀山社中記念館」は、亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を所有されている方のご厚意により、長崎市が当時の姿により近いかたちで復元・整備を行い、2009年(平成21)8月1日に開館したものです。隠れ部屋などもあり、館内には龍馬にまつわる資料などが展示されています。 土佐商会跡 また土佐藩は、1866年(慶応2)に藩の経済活動を盛んにするため、長崎に土佐商会を設置しました。土佐商会は、藩の産物を売り、西洋の武器を購入していたといわれています。岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が主任として駐在し、龍馬の海援隊もここを拠点として活動した時期があったといいます。明治に入ると、弥太郎は海援隊と藩の海運事業を引き継いで、経営者として一本立ちし、のちの三菱財閥を築いています。   参考資料 旅する長崎学1 キリシタン文化I『 長崎で「ザビエル」を探す 』 旅する長崎学8 近代化ものがたり『 長崎は野外産業博物館 』 「郷土史事典」(石田 保著 昌平社出版) 「長崎県の教育史」(外山 幹夫著 思文閣出版) 歴史散策「人工島・出島」 1636年(寛永13)幕府は、南蛮貿易拠点を長崎に移す際に、ポルトガル人などの西洋人を住まわせるために扇形の人工島・出島を作りました。 ●出島 1641年(寛永18)には平戸のオランダ商館が出島へ移り、安政の開国までの218年間は、日本で唯一西洋に向けて開かれた窓口となり、西洋から新しい技術や文化が日本に伝えられました。幕末になって鎖国政策がとかれたあとは、居留地に編入され、一般の外国人も居住することができるようになりました。現在は、国指定史跡「出島和蘭商館跡」に指定されており、オランダ商館員の住まいや倉庫などが忠実に復元されています。 この歴史の上でも重要な出島の周辺をご紹介します。 出島橋 中島川の変流工事の際、1890年(明治23)に中島川河口に新川口橋として架けられました。老朽化のため1910年(明治43)に現在の場所に移設工事され出島橋と名付けられました。現在も併用している道路橋としては日本最古のものです。 長崎電話交換局之碑 1899年(明治32)、九州で最初に電話交換業務が開始されました。当初、昼間は女性、夜間は男性が従事していたといわれています。4年後には女性交換手だけとなりました 。 新地中華街 1698年(元禄11)の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成した。この地域が新地と呼ばれたといいます。 楢林鎮山宅跡 オランダ通詞として1669年(寛文9)小通詞に、1685年(貞享2)に大通詞に進みました。オランダ商館医ホフマン等について医学を修め、楢林流外科を創始しました。 南蛮船来航の波止場 ここは、1570年(元亀元)に長崎港が開港されたときの長い岬の先端部分で、波止場があった場所です。天正少年遣欧使節がローマに向けて出航したのも長崎の港からでした。大村純忠がこの岬に6つの町をつくったことでも知られています。   周辺散策地図 新地中華街 長崎電話交換局之碑 出島橋 楢林鎮山宅跡 南蛮船来航の波止場
  • 幕末の長崎1 2014年03月28日
    幕末の長崎1
    “長崎って何藩ですか?”という質問が少なくありません。長崎は、どの藩に属していたのでしょうか?・・・実は、長崎はいずれの藩にも属していませんでした。不思議ですよね。 いったい、“長崎”ってどんな地域なのでしょう。 少し歴史をさかのぼって、 “長崎”を紹介しましょう。   南蛮貿易とキリスト教のはじまり 長崎県北部の平戸では、古い時代から倭寇や松浦党水軍の根拠地のひとつであり、長崎県北部の政治・文化の先進地でした。中世末期には、南蛮貿易の中心地として歴史に登場します。 1543年(天文12)、種子島にポルトガル船が漂着し、日本に鉄砲が伝わります。次いで1549年(天文18)にはイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、布教を開始しました。しかし、当時の薩摩領主であった島津貴久(しまづたかひさ)はキリスト教に関心を示さなかったため、ザビエルは翌年に鹿児島を去ります。しかし1541年にザビエルと一緒にインドへ渡航したという船長ミランダが平戸に来航していることを知り、ザビエルは平戸を訪れます。 ポルトガル船入港の地 (平戸市) ポルトガル船入港碑 (平戸市) フランシスコ・ザビエル記念碑 (平戸市)   平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)は、ポルトガル人船員たちが敬愛しているザビエルを歓迎し、貿易にも熱心だったこともあり、ザビエルに布教活動を認めました。これが、長崎における南蛮貿易とキリスト教布教のはじまりとされています。 しかし、1561年(永禄4)の宮の前事件などの紛争により、ポルトガル船の寄港地は平戸から西彼杵半島(にしのそのぎはんとう)の北端にある大村領の横瀬浦(現西海市西海町)へと移ります。翌年大村領主・大村純忠(おおむらすみただ)への反乱が起こり、武雄の後藤貴明(ごとうたかあきら)らの攻撃によって横瀬浦の港は焼き討ちに遭います。 横瀬浦公園と横江浦港の眺め(西海市) 一時的にポルトガル船の寄港地は平戸に戻りますが、1570年(元亀元)に長崎へと寄港地を移します。当時の長崎は、大村純忠の家臣・長崎甚左衛門(ながさきじんざえもん)の領地で小さな漁村だったのですが、天然の良港でした。年々ポルトガル船の来航によって、港町として発展をとげていきました。岬の先端にまちづくりが始まり、みるみる人口も増えました。南蛮貿易によって莫大な利益をもたらすことから、周辺諸国の領主は誰でもがポルトガル船の入港を望んでいたため、大村純忠には様々な圧力がかかっていました。そこで大村純忠は、1580年(天正8)に長崎と茂木(現長崎市南東部)を、そして口之津で南蛮貿易を行っていた有馬領主・有馬晴信(ありまはるのぶ)も領地の浦上をイエズス会教会領として寄進したのです。   直轄領・長崎とキリスト教 ポルトガルとの貿易は、莫大な利益をもたらしましたが、貿易とキリスト教布教は切り離せない関係にありました。 その頃日本では、1582年(天正10)にキリスト教を保護していた織田信長が本能寺の変で倒れると、豊臣秀吉が全国統一を果たします。1587年(天正15)に大村純忠は没し、秀吉は九州を制圧すると、「伴天連(ばてれん)追放令」を発令し、イエズス会から長崎・茂木・浦上を没収し、直轄領(天領)としました。翌年には佐賀の鍋島直茂(なべしまなおしげ)を長崎の代官として任命しました。この地を統括する長崎代官には、大きな権限が与えられました。鍋島直茂に次いで任命された寺沢広高(てらさわひろたか)の時に長崎奉行の役職名が与えられました。徳川幕府も秀吉と同様に、長崎を直轄領としました。 なぜ幕府の直轄領にしたがるのでしょう?それには大きく2つの理由がありました。 ひとつは、長崎で行われる貿易の利益を独占するため、そしてもうひとつは、キリシタンを監視するためでした。 禁教令発令にもかかわらず、キリシタンの町として半ば黙認され、栄えていた長崎でしたが、1596年(慶長元)に起こったサン・フェリペ号事件では、長崎西坂の丘で26人を処刑させるという殉教事件にまで発展しました。それから長崎や大村、島原など各地でキリシタンの弾圧が始まりました。1637年(寛永14)には妊婦を拷問死させたことに憤慨した信者らが起こした島原の乱により、キリシタン取り締まりはますます強化されました。 1639年(寛永16)、幕府はイエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶し、出島に住まわせていたポルトガル人を追放しました。平戸から出島にオランダ商館を移し、長崎での貿易はオランダと中国に限られました。長崎港の警備は九州大名によって行われ、江戸幕府の『鎖国』が完成しました。 今も残るオランダ塀 荷の積み上げを行っていたオランダ埠頭     国際貿易都市へ 秀吉の政策を継承して長崎を天領とした江戸幕府は、1603(慶長8)年に小笠原一庵(おがさわらいちあん)を長崎奉行に任命しました。いったい長崎奉行はどんな仕事を行っていたのでしょうか。 長崎奉行は、長崎の統治、外交交渉、貿易事務、長崎の警備、密貿易やキリシタンの取り締まりを行っていました。 しかし内町の行政は、町年寄をトップとする自治組織に委任され、外町と長崎村、浦上村の行政は、有力な豪商による代官によって行われました。 もともと長崎は、各地から逃げてきたキリシタンや、富をもとめて集まった商人、ポルトガル人や中国人などが多く住んでいました。鎖国の時代下においても、オランダ・中国との貿易は長崎でのみ行われていましたので、国際貿易都市としてますます発展していきます。 長崎では、封建的な家柄などよりも個人の才能が重視され、指導者としての資質や商才にたけたものが町を治め、尊敬されました。 幕府の直轄地でありながら、長崎の町人たちは奉行のもとで自治組織を形成して行政の実施を行うなど、他の都市にはない独特な都市“長崎”を創り上げました。   海外文化の窓口・長崎 近世の長崎は、海外文化を受け入れる窓口として発展し、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダ・中国などの文化が伝わり、長崎ならではの美術工芸を生み出していきました。 長崎の港が最初に開かれたのはポルトガル船との貿易によってでした。次いで唐船に乗った中国人が長崎の町に住み、スペイン人が出島に住み、次いでオランダ人が定着しました。当時の日本では知ることができなかったヨーロッパや中国大陸のさまざまな文化が次々と持ち込まれたのです。長崎の人々は、それらの文化に接し、長崎奉行の援助を受けて異国の美術工芸を習い伝えるようになったのです。 この長崎の人々に伝えられた新しい異国の美術工芸は、やがて江戸に、そして大坂、京都へと伝わり、日本の近代化に大きな影響を与えていったのです。   異国の技術を受け入れ、引き継いでいった長崎の人 幕末までの長崎はどんなふうに発展していったのでしょうか、少し具体的に見ていきましょう。 1570年(元亀元)に長崎が開港して以来、来航していたポルトガル船には、キリスト教の布教を目的としたイエズス会の神父たちも多く乗っていました。当時、長崎の町人は熱心なキリシタンでしたので、町人の協力によって大きな教会が建てられました。セミナリヨ(小神学校)、コレジョ(大学)という学校施設や画学舎(ががくしゃ)という油絵の画法を教える施設も建てられたといいます。ここでは信者に配布するためにマリア様やキリスト、聖者などの絵像・銅版画が制作されました。また京都や大坂で教会が多く建てられた頃には、教会内部を装飾するヨーロッパ風の壁画や彫刻を制作するために、長崎の芸術家たちが多く招かれたといいますので、当時の長崎にはヨーロッパ風の芸術工芸を制作できる人たちがすでにいました。 強い陰影をつけて表現される油彩は、多くの日本人を驚かせました。「南蛮画」「蛮画」ともよばれました。 南蛮貿易時には、美しいラシャの布やタバコ、ポルトガルの葡萄酒・チンダ酒、ビイドロ(ガラス)などが輸入されました。 特にガラスは、ポルトガル人が長崎でその製法を教えました。そして長崎から大坂・江戸へと製法は伝えられました。このビイドロ細工のひとつに眼鏡細工がありました。 長崎の浜田弥兵衛(はまだやへえ)がポルトガル文化圏にて、その製法を習い伝えたといいます。また1603年(慶長8)には、長崎には時計細工師もいました。江戸時代になると長崎の時計師は幕府の御用時計師に任命されています。 出島 そして1641年(寛永18)よりオランダ船が長崎に入港するようになります。 オランダからは西洋の医学が伝えられました。オランダ商館にはオランダ語の医学書や医者も送られ、長崎の人たちはヨーロッパの新しい文化や学問を吸収していきました。 当時、出島に出入りできていたのは、オランダ通詞や役人、使用人、丸山遊女など限られていましたが、出島の使用人の中には御用絵師や御用細工人なども多くいましたので、これらの人々によって伝えられました。 また、杉田玄白(すぎたげんぱく)と前野良沢(まえのりょうたく)らによって翻訳された『解体新書』によって、医学と同時に蘭学も全国に広まっていきます。 オランダ船や唐船によってタイマイ亀(和名:タイマイ)の甲羅を材料とする鼈甲(べっこう)細工も長崎に伝わりました。中国人に鼈甲細工の技術を習い、細工人たちは女性の装飾品や置物などを製作しています。やがて長崎の鼈甲職人たちは、江戸時代後期には江戸や大坂へ進出していきました。 また唐船からは、美しい貝細工の漆工芸品や黄檗派(おうばくは)の絵画も伝えられています。1644年(寛永20)に中国より来航した画僧逸然性融(いつねんしょうゆう)は長崎の画人たちに大いに影響を与えました。渡辺秀石(わたなべしゅうせき)は逸然の画風から中国の新しい画法を学びとり、漢画の画風を確立しました。19世紀には南画が伝えられ、僧鉄翁(てつおう)や木下逸雲(きのしたいつうん)、三浦梧門(みうらごもん)と長崎南画の三画人が高い評価を受けています。 このようにして、長崎の人々は海外の文化を受け入れ、近代化の礎を築いていったのです。   ここから近代化の技術は広がった・・・長崎海軍伝習所 1853年(嘉永6)のペリー来航以来、イギリス・フランス・ロシアなどが琉球(沖縄県)や浦賀(神奈川県)、長崎に来航し、通商を求める事件がつぎつぎと起こります。 日本では、これまで通りに外国人を入れてはならないと主張する攘夷論と、時代に合わせて開国しようとする開国論とに国論が二つに分かれ、騒然とした幕末の真っただ中に突き進んでいきました。 イギリス・フランスなどの列強国の侵略を防ぐため、江戸幕府はオランダの助力を得て、1855年(安政2)に長崎海軍伝習所を設立しました。 オランダ国王から軍艦「スームビング号(のちに観光丸)」が献上され、長崎在勤の目付永井岩之丞(尚志)を取り締まりとし、勝麟太郎をはじめ、各藩から選りすぐりの青年約120名が、オランダ人教官のもと、長崎奉行所西役所(現長崎県庁)敷地内の海軍伝習所で必要な学科を学びました。 ここでは主に地理・物理・天文・測量・機関・航海術・造船術・砲術などの高度な技術を学んだといいます。まさに近代教育らしい内容ですね。 1857年(安政4)には、幕府がオランダに注文していた「咸臨丸(かんりんまる)」が第二次教官団とともに入港しました。咸臨丸は、勝麟太郎が1860年(万延元)に艦長として太平洋を横断し、遣米使節の役目を果たしたことでも知られています。この第二次教官団の中には、艦長カッティンディケ中尉(のちのオランダ海軍大臣)、医師ポンペ、ハルデスなどがいました。 近代化の技術がこの長崎海軍伝習所から広がっていくこととなるのです。 幕末であっても、長崎は西洋の近代技術の窓口としてその役割を果たします。この海軍伝習所から長崎溶鉄所(長崎製鉄所)、近代医学、洋式採炭技術、唐通事・オランダ通詞、英語伝習所、活版印刷・・・国内各地から、新しい科学や技術を吸収したい若者たちが、この“長崎”を目指していたのです。 次回は幕末の長崎で活躍した人々を取り上げながら長崎を紹介していきます。 参考資料 旅する長崎学1 キリシタン文化I『 長崎で「ザビエル」を探す 』 旅する長崎学3 キリシタン文化III『 26聖人殉教、島原の乱から鎖国へ 』 旅する長崎学8 近代化ものがたりII『 長崎は野外産業博物館 』 改定郷土史事典42 長崎県(石田 保著/昌平社発行)  歴史散策「長崎奉行所立山役所 長崎公園」 現在「龍馬伝館」が開催されている長崎歴史文化博物館は、かつて長崎奉行所立山役所があった場所です。発掘調査で発見された当時の遺構の一部を活かし、奉行所が復元され、博物館に併設されています。 奉行所の入口の石垣を見てみると、当時の石垣と復元された石垣では明らかに色が異なり、当時の様子が偲ばれます。1867年(慶応3)に起こった「イカルス号事件」の取り調べでは、坂本龍馬もこの石段を上がったことでしょう。当時の奉行所の姿を体感してみてください。 また博物館裏手にある長崎公園には長崎に貢献した人々や長崎にゆかりのある人物の記念碑が自然に溶け込むように存在し、長崎の歴史の厚みを感じさせる空間となっています。 一部をご紹介します。 スウェーデン人の医学者・学者であったテュンベリー記念碑、シーボルト記念碑 日本初のプロカメラマンとなった上野彦馬之像 日本初の鉛版印刷に成功した本木昌造翁像 今回の長崎港の歴史に登場した長崎甚左衛門之像 1878年(明治11)頃に建造された日本初の噴水公園といわれています。復元されて今日に至ります。 噴水のある日本庭園からは諏訪神社へ。10月に行われる長崎くんちは有名です。 この公園は自然豊かで、1932年(昭和7)に上海から長崎へ運ばれたというオーストラリア原産のトックリノキなどが植えられ、歩いて眺めているだけでも癒されます。スロープも整備され、ベビーカーで散策する親子も少なくありません。 博物館を堪能した後に、ぜひとも立ちよってほしいスポットです。   周辺散策地図  
  • ドラマティック・ファミリー 2014年03月28日
    ドラマティック・ファミリー
    ドラマティック・ファミリー 有島 武(ありしま たけし) 1842年〜1916年 鹿児島県出身 官僚・実業家  今回紹介する有島武は、明治時代、大蔵省書記官、日本鉄道専務など、様々なジャンルで活躍した人ばい。なんと、この人は、日本文学界に大きな足跡ば残した有島武郎(ありしま たけお)、里見(さとみ とん)、そして画家の有島生馬(ありしま いくま)のお父さんで、さらに昭和前半の映画界で活躍した俳優・森雅之(もり まさゆき)のお祖父さんにあたる。有島家ってすごかね。こがんたくさんの有名人が出とっとも珍しかっちゃなか?  有島武は薩摩藩士・有島宇兵衛の長男として、現在の鹿児島県の薩摩川内市に生まれた。父親は島津家の分家の重臣やったとけど、お家騒動に巻き込まれて、琉球(沖縄)の小さか島に流されてしもうた。そいで武は、14、5歳頃までお祖父ちゃんの手で育てられたとって。ひとりっ子で兄弟もおらんやったけん、寂しい子ども時代ば過ごしたらしかよ。  長崎に来たとは1860年(万延1)、19歳の時。残念ながら長崎遊学時代の資料はあんまし残っとらんとけど、一説によると、同じ頃に長崎で遊学しよった小松帯刀(こまつ たてわき)に同行して来たんじゃなかかという説もあるとよ。いずれにしても小さい時から努力家やった武は、長崎で習うた砲学の勉強ば江戸へ移っても続けとった。  武は、子どもんときの寂しか生い立ちに加えて、何回も人に騙されたとって。裏切りば何回も受けたせいか、人をあんまり信用できんようになったらしか。でも、三度目の結婚で初めて生涯の伴侶となる幸(南部藩士の娘)と結ばれたと。幸もまたいろいろと苦労した人やったけん、苦労人同士が結ばれて、二人の人生は良かごとなっていったとやろか。結婚ば機に、武は仕事に邁進していったとよ。維新後の新政府では大蔵省に勤務。結婚直後には関税局書記官に昇進しなって、アメリカやイギリス、ドイツに出張したりもした。幸は武を助け、良か妻として暮らしたげな。  さて、武と幸には女の子2人と男の子5人が生まれ、合計7人の子福者になった。そのうち、長男が作家・有島武郎、次男が画家・生馬、四男が作家・里見というわけ!それぞれが日本の文学史や画壇に、大きな足跡ば残しなった人たちやけん、すごか家族やね。  武は武家の出やったし、当時の時代背景もあってか、長男の武郎に対してそれはそれは厳しいスパルタ教育ばしたとって。有島家の長男として恥ずかしくなかごと育てんばという親心やったと思うばってん、西洋風の食事のマナーから礼儀作法、武術、馬術、外国語教育などなど。他の兄弟たちはけっこう伸び伸びと育ったらしかけど、武郎だけは違うとった。武郎は相当辛か毎日ば送っとったらしかよ。作家で成功するくらいの感受性ば持っとった武郎のことやっけんが、もちろん父親である武への尊敬の念もある反面、自分と他の兄弟に課せられていることの違いや厳しさへの反発っていうか、大きな葛藤もあったとじゃなかろうか。武郎が抱いたこの葛藤に、武が気づいとったかどうかはようわからん。でも、優秀やった武郎が大正天皇のご学友として、同席するようとのお達しがあった時には、えらい喜んだらしかよ。  武は1893年(明治26年)に官僚から退いて、実業家としてスタートした。そして日本郵船監査役、日本鉄道専務、十五銀行取締役などを歴任し、その後は東京の市会議員にもなったげな。苦労続きやった子ども時代を経て、文化・文明の聖地であった長崎に遊学。その知識を元にして勉強を続け、いわゆる立志伝の人となった有島武と、後世に名を残した子どもたち。まるでドラマのごたっ家族ばい。武は1916年(大正5)、75歳で亡くなった。皮肉なことばってん、「長男 有島武郎の文学者としての活躍は、この父の死を契機として始まった」という評論が多かごたるね。  官吏から実業家という極めて現実的な世界で成功した武から、子孫に流れた血脈は、不思議なほど芸樹的要素が強かよね。武の中にも実はそんなDNAがあったとかにゃー?。それとも奥さんの血筋かにゃー? いずれにしても、一家に有名人がいっぱいおってびっくりしたにゃ〜。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『有島武郎 虚構と実像』内田満著(発行/有精堂) 『悲劇の知識人 有島武郎』安川定男著(発行/新典社) 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂) 『作家の生成』山田俊治著(発行/小沢書店) 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂) 『鹿児島大百科事典』(発行/南日本新聞社)
  • 幕末を駆け抜けた男・小松帯刀 2014年03月28日
    幕末を駆け抜けた男・小松帯刀
    幕末を駆け抜けた男・小松帯刀 小松帯刀(こまつ たてわき) 1835年〜1870年 鹿児島県出身 薩摩藩士・官僚  今回紹介すっとは小松帯刀。ちょっと前までは名前の読み方も知らん人が多かったとじゃなかやろか?2008年放映のNHK大河ドラマ「篤姫」ですっかり有名になった帯刀ばってん、これまでは西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬ら、幕末の大スターの陰に隠れてちょっとジミな感じで、あんまりスポットば当てられんやった。大政奉還、王政復古に大活躍した人ばい。  小松帯刀は、薩摩藩の喜入領主・肝付主殿兼善(きもつき とのも かねよし)の三男として誕生。小さか頃から学問好きで、10歳から儒学ば勉強したって。夜中に目が覚めると、そんまま朝まで起きとって読書ばしたりするほど勉強が好いとったっていうけんね。本当に賢か子やったらしか。そいだけじゃなかとよ。薩摩藩には昔から伝わっとる示現流という剣術があるとけど、小さか時からそれば習って、一生懸命鍛錬したとって。文武両道たいね。こがんふうに努力家やったとけど、体は弱くてすぐ風邪ひいたりしよったけんが、心配しなったお母さんは、毎年温泉に保養にやったりしたとって。だけん帯刀も温泉が好きで、あちこちの温泉に行っとったらしかよ。温泉でただぬっかお湯に浸かってるだけじゃなかとばい。温泉に入る時はみんな裸になって、どこの誰かわからんもん同士が一緒に入るわけたいね。みんな、ゆったり気持ちようなって、思わずいろんな話ばすっとって。坊ちゃん育ちの帯刀にとっては、よか勉強の場所やったらしか。「湯船の中では、ためになる話や世間話が聞けて教えらるっことの多か。生きた学問ができるばい」って言よったって。  真面目で勉強家やった帯刀の人格形成に、大きな影響ば与えたとが薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)。今でも名君として知られとったいね。島津斉彬は人材育成にも心ば砕いとったけん、見込んだ若者たちば集めては、世界情勢や日本が置かれている現状ば話して聞かせ、わっかもんの目を、世界へと向けるようにしなさった。そん中に、後に帯刀が養子に入る小松家の嫡男・小松相馬清猷(こまつ そうま きよもと)もおったと。  その小松相馬清猷が、赴任先の琉球(現・沖縄県)で急死。清猷の将来に大きな期待をよせて琉球へやった斉彬は、大変なショックば受けた。斉彬は単に家臣というばっかりじゃなくて、“将来の日本を背負ってたつ男”と見込んどったけんね。そいけん、ショックば受けただけじゃなく、大事な長男ば亡くした小松家に対しても申し訳なか気持ちの強うあったとって。そいで抜擢されたとが帯刀。清猷には妹がおって、そこへ婿にいってくれないか、と斉彬はもちかけた。最初は驚いた帯刀けど、決心して小松家の千賀さんと結婚。小松家ば継いだとさ。小松家は肝付家よりは数段大きか家やったけん、三男の帯刀にとっても悪か話ではなかったとね。そいに、お千賀さんにとっても・・・。帯刀の写真は今でも残っとるけど、イケメンばい。お千賀さんは一目で、帯刀ば好きになったらしかよ。結婚してますます役目に邁進した帯刀。持ち前の知力と人望の高さで、どんどん出世していった。  武は武家の出やったし、当時の時代背景もあってか、長男の武郎に対してそれはそれは厳しいスパルタ教育ばしたとって。有島家の長男として恥ずかしくなかごと育てんばという親心やったと思うばってん、西洋風の食事のマナーから礼儀作法、武術、馬術、外国語教育などなど。他の兄弟たちはけっこう伸び伸びと育ったらしかけど、武郎だけは違うとった。武郎は相当辛か毎日ば送っとったらしかよ。作家で成功するくらいの感受性ば持っとった武郎のことやっけんが、もちろん父親である武への尊敬の念もある反面、自分と他の兄弟に課せられていることの違いや厳しさへの反発っていうか、大きな葛藤もあったとじゃなかろうか。武郎が抱いたこの葛藤に、武が気づいとったかどうかはようわからん。でも、優秀やった武郎が大正天皇のご学友として、同席するようとのお達しがあった時には、えらい喜んだらしかよ。  病気療養中に、大政奉還の功労者として明治天皇から招待ば受けたとけど、こん時には病気が重うなっとったけん、とても行ける状態ではなかった。帯刀の病気ば心配した天皇からお見舞いが届いたとって。帯刀は嬉しかったやろね。やがて治療のかいも無く、帯刀は亡くなった。まだ36歳の若さやった。若い帯刀の死は可哀想な気もすっけど、悲願やった大政奉還の実現ば見届けることのできたけんが、安心したとじゃなかかな。長くない一生やったけど、日本の歴史の中で、大きな働きをしたことは事実。今の時代に続く歴史の立役者やったとばい。  小松帯刀は坂本龍馬と深い親交があった。豪放磊落なイメージのある龍馬、繊細で人格者だった帯刀。イメージはずいぶん違う感じのするけど、お互いに共感するもんがあったとやろうね。龍馬の亀山社中結成後も、帯刀は何かと援助しとったらしかよ。日本の大きな変革の時代を共に駆け抜け、同じ三十代でこの世ば去った二人。でも後の時代につないだもんは大きかったにゃー。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『幻の宰相 小松帯刀伝』瀬野冨吉著(発行/宮帯出版社) 『長崎遊学者事典』平松勘治著(発行/渓水社) 『鹿児島大百科事典』(発行/南日本新聞社) 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂)
  • 長崎・激動の時代の目撃者 2014年03月28日
    長崎・激動の時代の目撃者
    長崎・激動の時代の目撃者 長井長義(ながい ながよし) 1845年〜1929年 徳島県出身 薬学者  「長崎で見るもの聴くもの、新しくないものなど一つもなく、別世界にきたよう」。長崎に遊学した長井長義は、こがん手紙ば書いとっとばい。近代薬学の世界に大きな業績ば残した人ばってん、知っとる人は案外少なかかもねー。薬の開発や、大量生産を可能にしたとって。長義の開発した薬は、今でも風邪や花粉症の薬に使われとっとよ。  長井長義は阿波藩の御殿医(ごてんい)の家に生まれた。お父さんはお殿様に仕えるお医者さんやったとよ。でも、長義のお母さんは若こうして亡くなってしまったけん、「おいは医者とに、妻ば助けられんやった…」って、自分ば責めたとやろか。お父さんは、長義にも医者になってほしかと思うて、たくさんの事ば教えなったって。塾に通わせて漢学や蘭学を学ばせ、道を歩く時にもボーっと歩くことはせんで、薬草を見つけては幼い長義に、効能ば教えなったとって。長義も優秀やったばいね、そのかいあってか、15歳の時には、お父さんの代診ばできることなっとったって。!すごかねー!  こがんして一生懸命勉強しよった長義は、22歳の時に阿波藩のお殿様から、長崎遊学ば命じられたと。このことが後の長義を、世界的な薬学者にするとけど、当然まだ誰も、長義自身も知らんこと。当時は最先端の新しかことば勉強しようとするなら、長崎にいかんば始まらけん。たぶん、お殿様もお父さんも、長義は立派な医者になるもんと思うて長崎に出したとやろね。最初は精得館(元長崎養生所)で、オランダ人医師のボードウィンやマンスフェルトから西洋医学ば習うた。そいけど、いろいろ勉強するうちに、医学より化学に興味ばもったごたるね。そして化学者にしてカメラマンの上野彦馬の弟子になったと。そこから長義は、舎密学(せいみがく)つまり化学のおもしろさに目覚めてしもうたとさ。彦馬のもとで更に一生懸命勉強して、写真撮影にも同行したりしたとって。  そんの頃の彦馬邸には、坂本龍馬や大久保利通、伊藤博文などが出入りしよった。後の日本ば大きく変えることになる彼らの持つエネルギーは、計り知れないものがあったとやろうね。長義も影響ば受けたと思う。長義が長崎に来たとは1866年(慶応2)、22歳の時やった。そいで遊学を終えて長崎を去るのは1868年(明治元)。慶応から明治に変わる、ちょうどその激動の時を、長義は長崎で過ごしたわけたいね。 坂本龍馬や大久保利通たちが、“政治”の世界で時代を変革へと導いたというならば、長義は漢方から近代薬学へと日本に薬学の変革を起したというてもよかよね。そんな長義の、長崎遊学で受けた刺激の強さがよう伝わってくるとが、後に知人に宛てた手紙ばい。  曰く、「初めて出会う異国の人々の印象、初めて見る石炭の煙、そしてその燃える臭い、彦馬に同行して黒船と呼ばれた軍艦の中に入り目にした、異国の人々の食事風景。日曜日のミサに集う人々、初めて口にした西洋料理・・・」。  「長崎で見るもの聴くもの、新しくないものなど一つもなく、別世界にきたよう。私の思想も新しくなりはじめた」。「衝撃」という言葉ば使うてもオーバーじゃなかごと、長崎の様子には相当の刺激を受けたことが、ようわかるやろ。  長崎ば出た後、長義は1870年(明治3)に、後の東京大学医学部に入学する。化学の勉強ばしたかったとけど、当時の日本には、まだ化学を教える機関がなかったけんね。  江戸時代から明治時代へと大きく変わった日本やけど、政府はたくさんの問題ば抱えとった。新しくなった日本が諸外国と対等に向き合うためには、まだまだ足りんもんがいっぱいあったと。その一つが医療やったげな。  「医療環境の整備を早うせんば!」と思うた明治政府は、1871年(明治4)に初めての国費留学生をアメリカとヨーロッパへ送り出した。その中に長義もおったとさ。この時の留学で長義はドイツのベルリン大学へいったと。  でもね、医学生として留学したとけど、ホフマン先生から化学や薬学を学ぶうち、「やっぱりこっちがおもしろか」って思うたみたいやね。医者であるお父さんの跡を継ぐつもりやったし、医学生という立場でドイツに留学したわけやけん、散々悩んだとけど、結局は許しば貰うて化学(薬学)へと、研究の方向転換ばすることになったと。  その後、ベルリン大学で助手として頑張っとった長義。なんと約13年間、ドイツで勉強ば続けたとさ。日本人学生は長義ひとりやったらしかし、長義自身も真面目に勉強して教授たち達の教えに応えたとやろね。だけん、ベルリン大学では本当に大事にされたらしか。  1884年(明治17)、日本政府からの願いでやっと帰国。東京大学で薬化学、化学を教えたり、内務省衛生局東京試験所長も兼務して、薬の成分分析などもしなったとって。そして、日本で初めての半官半民の製薬会社の技師長として、技術の指導にあたったと。翌年明治18年には漢方薬「麻黄」からエフェドリンば発見! その3年後、日本で初めての理学博士になったとよ。その後は日本薬学会ば創って初代会頭になり、その後もずっと薬の研究に没頭したと。  そのまた一方で、長義は、女性に対しての化学教育の必要性を唱えて、日本女子大学の創立にも尽力したとよ。創立後は化学の講義ばするって言うて、自らが教壇に立ったとよ。長義の奥さんは留学先で巡り会ったドイツ人女性のテレーゼさん。長義はテレーゼと協力し、日本女性への化学教育を定着させようと、がんばったとね。女性への新しい教育に熱心だった長義の胸には、長崎遊学時代に感じた「新しい時代の息吹」が消えずに残っとったって思う。  長義の教えを受けた多くの後輩たちが、後の日本の薬学会で活躍したとって。自分が学んだことを後世へと繋ぐことにも一生懸命だった長義は、日本の薬学の道ば切り開いたというてもよか人たいね。やっぱりすごかよね。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『旅する長崎学7 近代化ものがたり1』(発行/長崎文献社) 『長井長義傳典』金尾清三著(発行/社団法人 日本薬学会) 『長崎遊学者事典」平松勘治著(発行/渓水社) 『コンサイス日本人名事典』(発行/三省堂編集所)