エリアで見る「たびなが」エリアで見る「たびなが」

ホームホーム   > エリアで見る「たびなが」 > 県南エリア

県南エリア

  • 線路は続くよどこまでも・佐藤政養 2014年03月28日
    線路は続くよどこまでも・佐藤政養
    線路は続くよどこまでも・佐藤政養 佐藤政養) 1821年〜1877年 山形県出身 鉄道家  今回紹介すっとは佐藤政養。江戸時代に長崎で学び、維新後の政府にとって一大プロジェクトだった、日本鉄道創設の責任者として大きな業績ば残した人ばい。  佐藤政養の出身地は今の山形県飽海郡遊佐町(あくみぐん ゆざまち)。出羽富士とも呼ばれる綺麗な山、鳥海山(ちょうかいざん)のすぐ近くの村で生まれたと。家は農家で、あんまり裕福ではなかったばってん、政養は農作業の合間に隣の村まで、漢学や書道、彫刻の勉強に通ったとって。1853年(嘉永6)に、仲良うしとった友達が江戸に行ったことに刺激ば受けて、「オイもいかんば!」って思うてから、江戸へと向かった。はじめは山形で学んどった漢学や彫刻ば勉強するつもりやったらしか。でも、こん年は浦賀にペリーが来たりして、江戸の町はいろいろと騒がしかったけん、政養はそれば見て、「国のためには蘭学の方がよか」と思い立ち、勝海舟(かつ かいしゅう)の門下生になったげな。  勝海舟という師と出会った政養は、そこで蘭学、西洋砲術、測量術などば勉強したと。やがて勝と共に長崎に来て、長崎海軍伝習生として勉強ば始めたとよ。長崎海軍伝習所での政養はオランダ士官から軍艦操縦術、フルベッキからは洋学など、たくさんのことば学んで、外国の新しい知識と技術ば身につけていったとって。こん時に勉強したすべてのことが、後に日本の鉄道創設に役立つことになるとさね。政養はね、勉強のできただけじゃなかとよ。人柄が良かうえに才能もあるもんやけん、師である勝海舟から信頼されて塾頭まで務めたとってよ。  長崎で新しか知識と技術ばしっかりと身につけて、勝と一緒に江戸に戻った政養は、幕府からも注目される存在になったと。そして国防の第一線で大活躍すっとばい。政養の凄かところは、命じられたことだけばするとじゃなくて、幕府に対してきちんと忠告もしたこと。当時、幕府は欧米と通商条約ば結んどって、神奈川の開港を約束しとったとけど、江戸湾の測量ばしたことのある政養は、「神奈川より横浜の方が開港には絶対的に有利」ということがわかっとった。だけん、そのことば師匠の勝海舟から幕府に伝えてもろうて、ついに横浜開港を実現させたとよ。今も開港当時のハイカラさが残る横浜は、開港前は小さな小さな寒村やった。だけん、幕府の人たちは大きか神奈川を開港した方が得策と思とったらしかけど、政養が綿密に調査して作った資料ば見た勝は、幕府ば説得して横浜開港にこぎつけたと。  やがて江戸幕府が倒れ、時代は明治へと移るとけど、ここでも政養が長崎で学んだことが役立つとさね。  維新後の新政府にとって、国内の交通網の整備は重要な課題。なかでも鉄道の建設は悲願というてもよかほどの大事業!その当時、政養の身分は幕臣やったと。でも、政養の持っとる知識と技術は、世界と対等に付き合いたい日本の新政府にとって、何としても欲しかった。こうして政養は、請われて新政府の仕事ばすることになって、東海道や関西方面の調査などたくさんの事業を、責任者となってこなしていった。鉄道技術自体は当時の先進国やったイギリスから導入したとけど、技師とのやりとりや、どこに線路ば敷くかなどの決定は政養の仕事やったとよ。  また、政養は人材育成にも力ば入れたと。当時は鉄道の知識や技術を持った日本人は少なかったけん、どうしても外国人技師に頼るところの大きかったとね。当然、高給で雇わんばいかんごとなるし、政養は国費の損失と考えとったらしか。それで、自分で塾ば開いて技術者の育成と指導に励んだとって。  たくさんの努力のかいあって、日本で初めての鉄道がみごと開業。1872年(明治5)、東京の新橋から神奈川県横浜市までの29キロば蒸気機関車が走った!  ところで、日本で初めて鉄道ば開業したとは東京やけど、初めて蒸気機関車が走ったとは長崎やったって知っとった?新橋から横浜に向けて汽車が走った7年前の1865年(慶応元年)、外国人商人のグラバーさんが長崎で蒸気機関車ば走らせたとばい。大浦海岸通りに600メートルほどのレールば敷いて、今の市民病院前から松が枝まで、客車2両ばつないで人ば乗せて走ったとよ。汽車の名前はアイアンデューク号、カッコよか名前やね。この汽車は上海博覧会に出品されたイギリス製で、そればグラバーさんが買いなったと。グラバーさんは造船や炭坑やらの商売ばしよらしたけん、長崎で鉄道業ば始めるつもりじゃなかったとやろかと思うたら、そうでもなかったとばいね。でも、当時の人々に刺激ば与えたのは確かたいね。  さて、日本の鉄道史に名を残す貢献ばした政養は、55才という若さで亡くなってしまうとけど、江戸時代には将軍・徳川家茂から、明治時代には明治天皇から褒美ば贈られとるとよ。二つの時代にまたがって、「鉄道」という新しい輸送のかたちを切り開いた偉人ばいね。政養が残した、東海道や中山道の地図、調査文書など、資料の数々は交通博物館や鉄道博物館に保存されとって、それば見ても政養の持っとった知識や技術のレベルの高さがようわかるらしか。  みんなも汽車に乗る時には、長崎での遊学を経て鉄道線路を繋ぎ延ばした「佐藤政養」のことば思い出してみてニャー。  鉄道といえば、今は「長崎駅」が長崎本線の終点ばってん、昭和の時代には出島岸壁まで線路が延びて、「長崎港駅」という駅があったとばい。上海行きの日華連絡船に乗る人には便利やったとって。戦後は貨物列車しか走らんごとなって、とうとう昭和62年に廃線となってしもうたとけど。「懐かしかねー」と、覚えとる人もおるかもたいねー。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子]
  • 江戸時代のストイックヒーロー 2014年03月28日
    江戸時代のストイックヒーロー
    江戸時代のストイックヒーロー 了翁道覚(りょうおう どうかく) 1630年〜1707年 秋田県出身 僧侶・社会事業家  新しい年を迎えました。牛さんよりもモゥーッと目立つように、“じげにゃん”も頑張るけん、今年もどうぞよろしくニャン。  さて、今回紹介すっとは、了翁道覚(りょうおう どうかく)禅師。仏教の大切なお経の本を集めてお寺に寄付したり、捨て子・迷子の養育や大火事の被災者の救済を一生懸命におこなったりと、教育文化、社会福祉、公共事業などに尽くしたお坊さんばい。  了翁道覚は、今の秋田県湯沢市生まれ。小さい頃にお母さんば亡くし、お父さんもあまりの貧しさに育てきらんで、伯父さんの家に引き取られたとけど、その伯父さん夫婦も早う死んでしもうたとって。伯父さん夫婦が亡くなったとは流行り病が原因やったばってん、実の親と育ての親を次々に亡くした道覚は、「あの子は不幸を招く子どもだ」と言われ、引き取り手が無くなってしもうた。親のおらんだけでも大変かとにそがん噂までたてられて、本当に可哀想かよね。  こうして道覚は、望んだわけじゃなかけど、龍泉寺というお寺に預けられることになったと。こんとき道覚は12歳、ここから了翁道覚の仏教の道が始まるとばい。  ところで、みんなは「一切経」って知っとる? “じげにゃん”は初めて聞いたとけど、大蔵経とも言って、お経の百科全書みたいなものらしか。あらゆるお経ば集めたもんで、とても高価やったとって。ほら、あの『西遊記』に出て来る三蔵法師様は知っとるよね。あのお坊さんが旅に出たともこの一切経ば求めてやったげな。この「一切経」の存在が道覚の人生に大きく関わることになるとよ。  道覚は14才のときに平泉(岩手県)の中尊寺に行ったとね。そこには奥州藤原氏が奉納した一切経があったはずとやけど、どうしたもんかバラバラになってしまっとって、必死で探しても6巻しか見つけきらんやった。嫌々入った仏門けど、道覚はここで初めて、仏教における自分の使命みたいなもんば感じたとって。「大切な一切経、いわば仏教の大辞典がこんな状況になっとるとは、一般の人はもちろん、僧侶自身も仏教の意義ば理解しとらんけんたい!」と憤って、自分が生きとる間に一切経ば集めることば誓ったと。道覚は他の人ができない事をたくさん実現させたとけど、なかでも「一切経」の寄進は、偉業という言葉がぴったりのことじゃなかやろか。道覚は自分の宗派だけではなく、他の宗派のお寺さんにも同じように寄進したとよ。なかなかできんことばい。  さて、そろそろ、長崎との関わりの話ばせんばいかんね。  道覚と長崎を結びつけたとは、隠元禅師(いんげんぜんじ)。元和6年(1620年)、中国の僧・真円(しんえん)によって開かれた長崎市寺町の興福寺に、日本黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖となる隠元禅師が承応3年(1654年)にやってきたと。当時、隠元禅師は高僧の誉れ高く、日本中の注目ば集めたとって。  幕府の鎖国政策のもと、海外貿易の窓口になっとった長崎には、外国の様々な文化が入ってきて、そんなかに中国・明時代の黄檗文化もあったとね。隠元禅師が日本に伝えた黄檗文化は幅広く、仏教美術や建築はもちろん、インゲン豆、精進料理、お煎茶など数えきれんほどあっとよ。隠元禅師の噂はあっというまに日本中に広まって、仏教関係者だけでなく、各藩のお殿様からのお使いや学者などが、隠元禅師に会うために長崎に集まったと。今風に言えば「カリスマ坊さん」たいね。道覚も隠元禅師来日のことを友人から聞き、長崎に向かったとばい。  今と違って、電車や飛行機で移動できる時代じゃなかけん、道覚は岡山や広島のお寺で修行をしながら待ち、ついに来日直後の隠元禅師に会うことができたと。そんでそのまま、長崎で修行を積んで黄檗宗の僧になったとよ。やがて隠元禅師は長崎から京都に移りなさったとけど、道覚も同行して、隠元禅師が京都に萬福寺を建立したときには、それはそれは尽力したとって。  萬福寺の建立も無事に終わり、江戸へと移った道覚。「一切経」収集の悲願はあっても財力はなかし、後援者もおらんやった。ただただ仏に祈願するだけやったげな。あるとき、厳しい修行の後遺症に苦しんどった彼の夢枕に、黙子如定(もくすにょじょう)が現れたとって。長崎のジゲモンにはお馴染みの黙子如定は、中島川の「眼鏡橋」ばつくったことで知られとるお坊さんばい。それが夢で言うことには「後遺症ば治す薬の作り方を教えるけん」と。道覚が素直に処方に従って調合したら、あ〜ら不思議。本当に良く効く薬のできたとって!この薬に「錦袋円(きんたいえん)」と名前ばつけて、万能薬として売り出したとさね。そしたらこれが大当たり!そのお金で悲願だった一切経収集の夢ば実らせ、なおかつ天和2年(1882年)の江戸大火の被災民への義援金やら、捨て子や迷子の世話、亡くなった人の埋葬などに使ったとって。錦袋円は困っとる人たちには無料で配られ、江戸の人々は道覚のことを「如来様」と呼んで慕ったげな。  道覚は一切経を集めただけでなく、上野に図書館をつくって一般の人も一切経ば見ることができるようにしたとよ。錦袋円で得たお金は、自分のためには一切使わんで、自分自身は本当に質素な暮らしぶりやったらしか。  道覚は、こげんふうに慈愛と奉仕の人やったけん、終生周囲の人たちに慕われたことは言うまでもなかね。  弟子のひとりが彼の最期ば書き残しとるとよ。亡くなる前の道覚のところに、出家したいという人が故郷・秋田湯沢市から来たとって。道覚の体調ば心配した周囲の人たちは止めたらしかとけど、「自分がする最後の出家の儀式」と言って微笑んで式に臨んだとって。そして自分で書いた法名ば渡して、「もう自分は長いことはなか」と死期が近づいたことを周りに告げて、2日後、静かに息ば引き取りなさったとって。錦袋円が爆発的に売れて、図書館までつくった道覚やったけど、自分の物はほとんど人々に分け与えとったけん、後に残ったとは竹製の法具と略式の袈裟だけやった…。  今回登場した黄檗宗のお坊さんの了翁道覚さんと隠元さんは、他にもみんなの身近なものにかかわっとっとばい。たとえば、カレーライスについてくる福神漬け。あれは道覚さんが考案したもんじゃなかろうかって言われとっとばい(諸説有り)。また、パソコンの文字でお馴染みの明朝体や400文字詰めの原稿用紙は、隠元さんが日本に広めたとって。何百年も昔の人たちやけど、なんだか親しみがわくニャー。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂) 『長崎遊学者辞典』平松勘治著(発行/渓水社) 『了翁禅師没後300年記念誌』了翁禅師没後300年記念誌編さん委員会編集(発行/了翁禅師没後300年記念誌事業実行委員会)
  • 静かなる熱血漢・二宮敬作 2014年03月28日
    静かなる熱血漢・二宮敬作
    静かなる熱血漢・二宮敬作 二宮敬作 1804年〜1862年 愛媛県出身 医者  今回紹介すっとは、シーボルトやその娘・おイネさんの物語に必ず登場する二宮敬作(にのみや けいさく)ばい。彼は農業のかたわらお酒ば売る、半農半商の家で生まれなったと。おとなしいけど賢い子どもで、早くから医者を目指しとったらしかよ。  長崎に来たとは文政2年(1819)、16才の時。武士の家系でもなく医師の家系でもない敬作が、蘭学を目的に長崎遊学できたとやけん、もう時代もずいぶん新しくなっとったとね。  長崎にやって来た敬作は、オランダ通詞の吉雄権之助(よしお ごんのすけ)、その弟・忠次郎(ちゅうじろう)から蘭学を学び、美馬順三(みま じゅんぞう)からは蘭方ば教えてもろうた。やがて文政6年にシーボルトが来日すると、美馬順三とともに門下に入り、一生懸命勉強したとって。遊学時代の敬作の暮らしといえば、貧しくていわゆる苦学生やったらしか。シーボルトから頼まれる調査や翻訳ばして、学費の支給を受けながら勉強に励んだとばい。  ところで、シーボルトって、みんな知っとるやろか?  出島にあるオランダ商館の医者として着任した人たい。ドイツ医学界の名門の家系に生まれたとけど、東洋の動植物や民族学にえらい興味のあったらしか。出島ではオランダ通詞やお医者さんたちに、医学や植物学の講義ばして評判やったけど、そいだけじゃなかとよ。当時、外国人は出島から出られんし、一般の日本人は出島への出入りはできんやったけん、シーボルトは長崎奉行から特別に許可ばもろうて、市中で診察や治療もしたとって。病気ば治してくれるシーボルトのうわさはあっというまに全国に広がって、日本中からたくさんの若か人が、教えば乞うために長崎に集まってきたとばい。やがてシーボルトは「鳴滝塾」を開き、そこで敬作も勉強したとさね。  さて、どちらかというと、歴史の中では控えめな印象のある敬作やけど、日本初の記録ば持っとるらしかよ。  なんばしたと思う?・・・・・富士山の計測ばい。シーボルトが江戸参府したとき、同行した敬作に富士山の高さば計るごと言いなったと。そいで敬作は日本で初めて、日本一の山・富士山の高さば洋式測量術で計ったとって。これがきっかけになって洋式の測量術が日本でも広まっっていったらしか。すごかね。  シーボルトに懸命に学んだ敬作は外科医としても成長し、シーボルトからもすごく信頼され可愛がられてたとって。こげんして鳴滝塾で良き師や先輩、同僚に恵まれ、長崎での学生生活を満喫していた敬作やけど、あるとき大事件に巻き込まれてしまうとばい。  文政11年(1828)、西日本一帯をふとか台風が襲ったと。その台風のせいで、シーボルトが乗るはずやった船が座礁して積み荷が流出。それを調べていた長崎奉行所が国外持ち出し禁止の物ばたくさん見つけたとって。そいでシーボルトだけでなく、弟子たちもたくさん捕まってしまったとよ。その中には敬作もいて、一時、牢屋に入れられた。この事件は「シーボルト事件」といって、たくさんの人を巻き込んだ大きな出来事やったとよ。  文政12年、この事件で国外追放の判決が下ったシーボルトは6年あまり暮らした長崎を離れることになったと。その後、敬作は釈放されて故郷の愛媛県宇和町に戻り、お嫁さんばもろうて開業したとけど、どんな境遇の患者さんでも懇切丁寧な診察ばしなったし、貧しくて診療費の払えん患者さんには無料で診察ばしなって、話題になったとって。  敬作の人柄のわかる出来事がほかにもあっとばい。天保10年(1839)、「蛮社の獄」っていうて、幕府による蘭学者たちに対する弾圧事件があったとさ。そん時に終身刑ば言い渡された高野長英(たかの ちょうえい)という蘭学者がおっとけど、牢獄ば脱走するとさね。敬作は、脱獄犯の長英ば自宅にかくまったとよ。長英は、敬作と同じく鳴滝塾の門下生。いわば学友たいね。終身刑の人ばかくまうってことは、それ相当の覚悟がいることやっけんね。敬作は友情ば大切にしとっとね。  敬作は安政2年(1855)には宇和島藩の藩医になるとばってん、再来日が決まったシーボルトば迎えるため、その翌年には再び長崎へ来て開業しなったと。そいけど、安政4年に脳溢血で倒れてしまい、幸い命は助かったとけど、右半身は動かんごとなって、左手だけで上手に手術ばしよったとって。若か頃、シーボルトについてひたすら医学の勉強ばした敬作は、外科医師としても大成しとった。  いよいよ安政6年、30年ぶりに再来日した恩師シーボルトに再会すっと。江戸へ行くシーボルトに同行するつもりやったばってん、脳溢血の二度目の発作を起こし、結局、同行を諦めた敬作はその3年後に長崎で亡くなってしまうと。  敬作のお墓は、長崎市寺町の晧台寺(こうたいじ)のシーボルトの妻・おタキさんや娘のおイネさんのお墓の近くにあるとよ。もし機会があったら、真面目に勉学に励み、師であるシーボルトの恩を忘れることのなかった二宮敬作のお墓にお参りしてほしいにゃー。  シーボルトから娘・イネの養育を頼まれた二宮敬作は、後年、イネが医学の道ば目指したとき、オランダ語や西洋医学ば教え、その道に進めるよう心ば砕きなったとって。まだ女医のおらん時代やったけん、もし敬作が「女が医者になるなんてとんでもないっ!」という考えの持ち主やったら、イネは医者にはなれんやったかもしれんたいね。敬作は“日本初の女医さん誕生”の一番の功労者かもしれないにゃー。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『幻の宰相 小松帯刀伝』瀬野冨吉著(発行/宮帯出版社) 『長崎遊学者事典』平松勘治著(発行/渓水社) 『鹿児島大百科事典』(発行/南日本新聞社) 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂)
  • 幕末のハイテクエンジニア・大野弁吉 2014年03月28日
    幕末のハイテクエンジニア・大野弁吉
    幕末のハイテクエンジニア・大野弁吉 大野弁吉(中村屋弁吉) 1801年〜1870年 京都府出身 発明家・彫刻家  みんなは“からくり人形”って見たことあるぅ?  歯車や機械ば使ったしかけで動く人形ば見とったら、もちろん日本の伝統や歴史も感じるばってん、すごか技術やねーと驚かずにはおられんばい。からくり人形の原型は平安時代からあったらしかけど、江戸時代頃からゼンマイやネジば使って、遊びごころ満載なうえにグンと精巧になったらしかっさね。今回は、持って生まれた器用さや長崎に遊学した知識なんかば活かして、後世に数々のからくり作品を残した人、大野弁吉ば紹介すっけんね。 ※からくり人形 内部にゼンマイや金属、木製の歯車などが組み合わされており、それによって様々な動作をしたり表情を変える人形のこと。 江戸時代に西洋時計の機械技術が入って以降、盛んに作られた。わずか5センチほどのものから、飛騨の高山祭の山車に見られる大掛かりなものまで、その種類は様々。  日本のダヴンチとも言われた大野弁吉は、京都の羽細工師の息子として生まれたと。長崎に最初に遊学したとは20才の頃で、数年間おったって。そのあいだに医学、理化学、天文学、数学を学んだと。また、当時の朝鮮半島の言葉ば勉強して、対馬から朝鮮半島へも渡ったらしかよ。長崎を出たあとは紀伊国(今の和歌山県)で馬術や柔術を勉強し、その後、中村屋八右衛門の娘・うたと結婚。婿養子になって、うたの実家がある加賀国大野村(今の石川県金沢市大野町)に移り、終生暮らしたとって。  金沢市にはその昔、銭屋五兵衛という豪商がおったとね。銭屋五兵衛という名前は、代々の当主が襲名する名前で、弁吉と関わるとは最後の当主・7代目たい。7代目銭屋五兵衛は、代々の当主の中でも特にやり手やったとって。そいで弁吉の才能ば見抜いとって、何かと頼りにするようになったげな。その一方で全く商売っけの無か弁吉を何かと助けたげな。そんな中で弁吉は、からくり人形や絵画、彫刻などを次々と制作したとよ。才能豊かなうえに研究熱心で、一つアイデアが浮かぶと完成するまで、2日でも3日でも仕事場にこもって、出来上がるまでご飯もろくに食べんやったって。だけん奥さんのうたは、その度に心配ばかりしなったって。でもそんだけの熱心さのおかげで、弁吉はネジば巻いてお客さんの所にお茶ば運ぶ「茶運び人形」、ぜんまいじかけでネズミが穴から出入りする「ねずみからくり」、ゼンマイと歯車と車輪の組み合わせでピョンピョン飛び跳ねる「飛び蛙」など、次々とおもしろかもんば作り出したとやろね。 その後、弁吉は42才の時に再び長崎に遊学して、今度は写真ば勉強したとって。二回目の長崎遊学から戻った弁吉は、自分なりの研究ば重ねたごたっね。それは湿版写真で、何枚か肖像写真が残っとるらしかけど、日本に銀板写真(ダゲレオタイプ)が来る前のことやけん、やっぱりすごか人やったとね。  こがんふうに大野村で制作やら研究やら続けとった弁吉の評判は、やがて加賀藩に認められたとよ。加賀藩には当時、科学者ば集めたサロンのようなものがあって、弁吉もそこに行っとったらしか。加賀藩では弁吉の才能ばたこう(高く)評価して、藩の士分として召し抱えるという話も出たとけど、弁吉は断ってしもうたげな。なんせ名誉とか出世とかには全く興味のわかんかったごたるけんね。だけん、生涯お金持ちになることはなかったばってん、長崎での2度の遊学をとことん活かして、人を楽しませ、役に立つものば作り続け、そして研究し続けた人生は、本人にとっては満足やったろうと思うとばい。弁吉はからくり人形ばっかしじゃなか、彫刻家でもあったし、発明家ともよばれとった。エレキテルやピストル、工事用の測量機とかも作っとったらしか。そいと若か人たちに、自分の持っとる知識や技術ば伝承しとったけん、明治時代には弁吉から教えを受けた人がたくさん活躍しとるとって。  藩からの誘いも断って大野村に住み、清貧の中で生涯ば終えた弁吉。本名の中村屋弁吉と呼ばれるより、終生暮らした大野の名前で呼ばれたことからして、弁吉がいかに地元の人々から慕われとったかがようわかるよね。こいまではあんまり目立たんかった弁吉やけど、最近はからくり人形師として、また科学者として再評価されとるとよ。よかったにゃー。  “からくり”と言えば「からくり儀右衛門」とよばれた田中久重(1799年〜1881年)も有名かよね。大企業・東芝の創業者としてもよう知られとる人ばい。大野弁吉と田中久重、同じ時代を生きた“からくり”つながりのエンジニア。それぞれ人生は違うけど、日本の技術の進歩に貢献した人たちばいね。ありがとにゃーん。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『大野弁吉』かつおきんや著(発行/アリス館牧新社) 『芸術新潮 ニッポン「モノづくり」奮闘記』山川みどり編(発行/新潮社) 『長崎遊学者辞典』平松勘治著(発行/渓水社)
  • 臨機応変なチャレンジャー・福沢諭吉 2014年03月28日
    臨機応変なチャレンジャー・福沢諭吉
    臨機応変なチャレンジャー・福沢諭吉 福沢諭吉(ふくざわ ゆきち) 1834年〜1901年 大阪府出身 思想家・教育家  10月を迎えて、秋本番だニャン。芸術の秋、読書の秋、スポーツの秋・・・、みんなは何ばすっとかな?じげにゃんは食欲の秋だミャー♪。  さて今回紹介すっとは、福沢諭吉さん。一万円札の諭吉さん、知らない人はいないかもニャ。慶応義塾大学の創始者で、「天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」て言うたことでも有名ばい。  福沢諭吉はお父さんが豊前中津奥平藩(大分県)の大阪の蔵屋敷に勤めていた関係で、大坂で生まれたと。蔵屋敷というのは、藩でとれた米を米商人に売るための倉庫兼取引所みたいな所ばい。そこに勤めとった諭吉のお父さんは学問好きで、書物ば読むとが一番の楽しみやったらしか。実は「諭吉」の名は、中国清時代の「上諭条例」という法律書にちなんだ名前げな。ずっと探しよったこの本が手に入った直後に、諭吉が生まれたとって。お父さんは、息子の誕生と「上諭条例」ば入手できたことがよっぽど嬉しかったとやろね。  諭吉が3歳のとき、このお父さんが亡くなってしまい、お母さんは諭吉ら子ども5人を連れて、故郷の中津に戻ったと。でも、諭吉は両親の故郷・中津にはなかなか馴染めんかった。当時の日本はまだまだ身分差がはっきりしとったし、特に武家社会は厳しかけんが、子どもの諭吉でさえも、おもしろくない思いをすることが多かったらしか。だけん諭吉は物心つく頃から「なんとかして中津を出たい」とず〜っと考えとったごたるね。やがて日本が少しずつ開国へと向かっていって、外国との交流ば重視する動きの出てきた頃、中津藩では長崎に遊学したか人ば募集したとって。諭吉は「チャ〜ンス!」と思ったとやろね、すぐ応募したとさ。そして蘭学と砲学の勉強をしに長崎に来ることになったと。  長崎には中津藩の家老の息子・奥平壱岐(おくだいら いき)が先に来ていて、桶屋町の光永寺に寄宿しとったけんが、諭吉も光永寺の世話になることになったと。しばらくして、奥平が砲術家・高島秋帆(たかしま しゅうはん)の門人の山本物次郎に諭吉ば紹介して、そのあとは山本の家に世話になったげな。  山本家での諭吉はね、よう働いたとってよ。まず、眼の悪か山本先生の読み書きの手伝い。そいから山本家の1人息子に勉強を教えたり、下男が忙しい時には手伝ったり、奥さんが飼ってる犬の狆(ちん)や猫の世話をしたり・・・などなど。後年、自分でも「調法な男だ」と言うとるごと、本当によう働いたとばい。あまりの働きぶりに山本物次郎から「養子にならないか」とまで言われたとって。  当時、砲術家の山本物次郎の所には、写本を貸してほしいとか、大砲をつくるから図を見せてほしいとか、また出島のオランダ屋敷を見学する世話をしてほしいとか、いろんな人たちが来よったとって。山本先生は眼が悪かけん、そういう頼まれ事は実際は諭吉が全部かわってやっとったとね。そうするうちに、中津藩の家老の息子である奥平壱岐と下級武士の子である諭吉の、長崎での立場が逆転したような状況になったらしかっさ。おもしろくないのは奥平壱岐。「中津におんなる諭吉のお母さんが病気」とウソをついて、諭吉ば長崎から出してしまうとさね。ただ、諭吉は奥平壱岐の幼稚な悪巧みはちゃんとお見通しやったごたるね。でも、「家老の息子に楯突いてもねぇ」という心境だったようで、山本家や世話になった長崎の人たちにお礼を言うて素直に長崎から出たとさね。  そいけど、どうにも中津に戻る気にはなれんかったようで、最終的には、諭吉の兄・三之助の尽力で大坂の緒方洪庵の適塾に入ることになったげな。塾に入ってからも、兄・三之助の死去や自分自身もコレラにかかったりと、大変なことも多かったとけど、優れた蘭学者であり塾長であった緒方のもと、諭吉はともかく蘭学を一生懸命勉強したとさ。そのかいあって諭吉の学力はメキメキとあがったと。そんな諭吉にある時、なんと中津藩の江戸屋敷から「蘭学の教師として藩で教えるように」と言ってきたげな。その時の江戸家老は、諭吉ば長崎から追い出した、あの奥平壱岐。諭吉の心にはほんの少しわだかまりがあったみたいやけど、日本が諸外国と対等に向き合えるかどうかの時やけん水に流して、中津藩の江戸屋敷で教えるようになったとさ。江戸では安政の大獄の頃で、本当に日本が大きく変わる時やったけんね。中津藩から藩の中屋敷ば提供された諭吉は、そこで蘭学塾ば開くとね。これが今の慶応義塾大学のスタートばい。  小さいながらも塾の責任者となり、江戸の蘭学者仲間もできて充実した生活が始まった諭吉はある日、横浜へ遊びに行ったとって。そこで諭吉が驚いたとは、眼に入った横文字のほとんどが英語やったこと。それまではオランダこそが日本にとっての西洋やったとけど、18世紀に起こった産業革命でイギリスが大国になっていたとさ。世界、特にヨーロッパの文明の分布図が、鎖国の間に大きく変わってしまったとね。諭吉は、あれだけ一生懸命学んだオランダ語やったとけど、「今は英語ば早急に会得せんば」と思い知らされたと。でも、こん出来事は諭吉にとって大きな転機になったとね。横浜から戻るとすぐ英語の勉強ば始めて、猛勉強の日々ば送るごとなったと。塾で教えるともオランダ語から英語へと切りかえたとよ。  このかいあって、諭吉はアメリカへ渡る事になったとさ。こんとき、諭吉は多くのことば考えさせられたらしか。アメリカの機械文明などより、アメリカ社会の仕組みに一番驚いたごたっね。たとえば、諭吉が、アメリカの初代大統領のジョージ・ワシントンの子孫について訪ねたら、わりと冷淡な調子で「よう、わからん」という返事。ワシントンて言えば、諭吉の頭の中では源頼朝や徳川家康という感覚やったろうけんね。武家社会の門閥制度に対して若か頃から憤りを感じていた諭吉も、この辺は日本人やね、本当に驚いたとって。そいで、これこそ文明社会て思うたとって。諭吉はその後、日本人の思想に影響を与える人間になっていくわけやけど、この時の体験が諭吉ば指導者として導いたということかもしれんね。  日本に戻って再び猛勉強をして、さらに実力ばつけた諭吉に来たとが、幕府の通訳としてイギリスやパリなどのヨーロッパへ行く話やった。こん時の話は諭吉自身も言うとるけど、おかしかことが結構あったらしかよ。 日本人) ペラペラペラ 【訳:あ〜、君、君。タバコを買ってきてくれたまえ。】 ボーイ) ペラペラペ〜ラ 【訳:はい。承知致しました。】 やがて、お使いを頼まれたボーイが戻ってきます。 ボーイ) ペラペラペ〜ラ 【訳:お客様。大変お待たせいたしました。】 といって差し出したものは「砂糖」?!。つまり、「シガー」と「シュガー」を聞き間違えたというわけ。「タバコを買うてきて。」と頼んだ人は思わずぽつり。 日本人) タバコば頼んで砂糖と間違われるようじゃ、オイの英語もまだまだ甘かなぁ・・・。  異国の文化・文明をその眼で直に確かめた諭吉はその後、大きな転換期を迎えた日本で、教育者として活躍したことは、みんな知っとるとよね。諭吉は28歳の時、中津藩士の娘、錦(きん)と結婚。9人の子どもにも恵まれて平和で幸せな晩年やったって。1901年、諭吉は亡くなるとやけど、その後100年もせず、1985年に一万円札に登場して、おなじみの顔になったとばい。
  • 成功の源はポジティブシンキングゥ〜!文人画家、田能村竹田 2014年03月28日
    成功の源はポジティブシンキングゥ〜!文人画家、田能村竹田
    成功の源はポジティブシンキングゥ〜!文人画家、田能村竹田 田能村竹田(たのむら ちくでん) 1777年〜1835年 大分県出身 画家・詩文家  少しは涼しくなってきたニャン。ちょっと早かばってん、芸術の秋を迎えるにふさわしく今回は絵描きさんば紹介すっけんね。  長崎に遊学に来たとはお医者さんや科学者ばっかりじゃなか、画家や陶芸家もきなったとよ。今回紹介するとは画家・田能村竹田(たのむら ちくでん)。こん人の名前はテレビの鑑定番組なんかで聞いた人もおるとじゃなかやろか?  田能村竹田(たのむら ちくでん)は1777年に豊後国岡藩、つまり今の大分県竹田市(おおいたけん たけたし)で生まれなったと。竹田の実家は代々藩に使えるお医者さんやったとけど、皮肉なもんで竹田も兄弟も身体のえろう弱かったごた。竹田のお兄さんは「長男は身体の弱かけん、跡継ぎにせんでもよかですか?」というお父さんの願いが藩に受け入れられたという話やっけん、どんだけ弱かったかわかるよね。  身体の弱か家族ばかばうようにして仲良う暮らしよった田能村家やったとけど、1783年の年末に火事で家が全焼。翌年には病弱やったお兄さんもわこうして亡くなり、その49日の直後にお母さんまで亡くなってしもうたとって。おまけにそん頃から竹田は耳がよう聞こえんごとなったり、目もよう見えんごとなったりしたと。踏んだり蹴ったりってこのことばい。竹田の伝記ば読みながら“じげにゃん”はえらい同情してしもうた。  先に亡くなったお兄さんと同じように身体が弱かった竹田は、22才の時に藩主から「お前は身体の弱かばってん、学問のようできると聞いた。医者のあとば継ぐとは無理せんちゃよかけん、学問の道ばいかんね」って言うてもろうたと。これがきっかけになって竹田は、幕府の依頼で岡藩が始めた「豊後国志」の編纂に関わることになったと。その編纂の中心的な人物が江戸から来た医師・唐橋君山(からはし くんざん)やった。君山という方は本当に人格者やったらしく、若かった竹田に大きな影響ば与えなったとよ。後年、竹田が才能を発揮することになる画や詩文も、君山先生のコレクションば見せて貰ったとがきっかけやったって。でも君山は編纂事業に着手した3年目に逝去。後を頼まれた竹田が苦労の末に完成させたとがその5年後。つまり8年かかって、やっと完成したと。編纂するとに苦労はしなったけど、おかげで竹田は多くの知識人たちと知り合うことができたと。師匠の君山は社交的な人で、当時の第一級の知識人たちと懇意にしとったげな。君山の側におったからこそ、勉強できたことが山ほどあったとじゃなかやろか。  最終的には画の道に自分の人生ば切り開いた竹田は、50才過ぎてから長崎に遊学したとよ。ちょっと遅めの遊学やったばいね。そん頃の竹田は画の才能によって世間では認められた存在になっとったけん、作品ば欲しがる人はいっぱいおったとって。実は竹田が長崎ば訪れたのは、この遊学の時が3回目やった。ばってん、前の2回はほんの数日立ち寄っただけで、ゆっくりと時間をかけて長崎の町に触れたとは初めてのことやったらしかよ。 当時の長崎がいかに活気にあふれていたかがわかるよね。  ところで長崎遊学の時に竹田が一時身を寄せたとが、市内にあるお寺、「春徳寺」。当時の住職さんは鉄扇禅師(てつおう ぜんじ)やったげな。高名な竹田が来るとば心待ちにしよった禅師さんは・・・ 鉄)おお、おお、元気やったとね。あん時に別れて以来、おうとらんかったけど、無事やったとね! 初対面の竹田はえろうびっくりして目を白黒させたげな。 竹)鉄扇禅師様、私はお会いするのは初めてですよ。 言われた禅師さん、涼しい顔ばして 鉄)いやいや、オイ(私)とワイ(あなた)は前世では知り合いやったけんね。ず〜っと心配しとったとよ。 竹)え〜っ!禅師様と私は前世では知り合いだったとですか 鉄)そうさ、やっと会えたとやけんお祝い(オイワイ)せんば! って言うやりとりがあったかどうかはわからんばってんが、本当に親切に持てなしたらしか。禅師さんの親切なもてなしによって、長か旅の疲れもとれた竹田は、本来の長崎遊学の目的ば果たすため、精力的に動き出したと。一番の目的は中国の画の勉強。当時の長崎には中国から画家の先生たちも来なさったけん。「さぁ、中国の画ば山ほど見らんば!」って張り切った竹田。でも、中国から長崎に入ってきた画の質の高さに、ショックば受けてしもうた。もう書くのを止めたいって思うほどの衝撃だったらしか。それでも、「これではいかん」と猛勉強ば始めたと。幸い、長崎にいた画人の教えを受けることができたし、多くの文化人や知識人と交流を持つことができたと。その結果、遊学中に画についての考え方自体にも大きな影響を受けることになって、後年、大きな業績を残すまでになったとさ。  竹田の描く絵は南画といって、中国から来た画法さね。南画の基本的な考え方は「たくさんの本を読み、自然を身体で感じ取って山や川を描きなさい」。そのためには古くからの画法を会得することも大事ということ。でも、それは中国の作品をそのまま真似るということではなかけんね。そこで竹田は、中国の画法で日本の自然を描くことで南画の精神を表現したらしか。でも、この考え方に到達するまで、本当に悩み苦しんだみたい。本場中国からきた南画の、あまりのレベルの高さに一時は筆を折ったような状態になった竹田。それでも自分はまぎれも無く日本人である、ということを再確認したとが長崎遊学中のことだったと。  若か頃から本当に苦労続きばってんが、あんだけ大変な思いばしたとに、お友達に出した手紙にこがんことば書いとるとよ。  「目の悪かことも耳の悪かったことも、自分にとってはむしろ良かったと思うとっと。耳が悪ければ余計な事は耳に入らん。目が悪ければつまらないものを見なくてもよか。身体が弱かったことで藩からは、武術の訓練はせんちゃよか、学問を一生懸命やらんね、と言ってもらえた。本当に助かったとよ」。  すごかよね。体の不自由さも、プラス思考で、良い方に良い方に考えていったとやもん。亡くなったとは59才。今の寿命から言えば早か気もするけど、息子に手をとられ旅立ったとは、幸せなことだと思う。自分の人生を前向きに生きた竹田さんに学ぶことはいっぱいあるニャン。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『田能村竹田』宗像健一著(発行/新潮社) 『大分県先哲叢書 田能村竹田』佐々木均太郎著(発行/大分県教育委員会) 『週刊 アーティストジャパン』新集社編集(発行/同朋舎出版) 『長崎遊学者辞典』平松勘治著(発行/渓水社)
  • ベンチャー起業のパイオニアばい、高峰譲吉 2014年03月28日
    ベンチャー起業のパイオニアばい、高峰譲吉
    ベンチャー起業のパイオニアばい、高峰譲吉  毎日暑かね〜。冷たかもんばっかり食べて胃腸の具合の悪か人もおるとじゃなか?気をつけんばね。  今回の主人公は、消化剤「タカジアスターゼ」や「アドレナリン」の薬用を実現化した高峰譲吉さんばい。長崎での遊学体験ば活かして、国際的に大活躍した科学者の生涯ば紹介すっけん、読んでみんね。  高峰譲吉さんは、1854年に加賀藩の御典医の長男として富山県高岡市で生まれなったと。長崎遊学しなさったとは12歳の時やったって。今で言えば、まだ小学生たい。そいけど譲吉さんは、どうしても長崎に行きたかて言うて、大人に交じって自分から立候補したげな。  長崎に着いた加賀藩からの遊学生たちは、長崎に住む外人さんの家に一人ずつ預けられたらしか。今でいうホームスティたいね。譲吉さんをお世話してくれたとは、ポルトガル領事のロレーロさん。ロレーロさんは、まだ小さか譲吉ばよう可愛がってくれたとって。そのおかげで譲吉さんは、外国語だけじゃなか、外国人の暮らし方やマナーとかも自然に身につけることのできたごたるね。  ある時のこと、加賀藩から長崎に使者のきたとって。ロレーロさんはえろう喜んで、譲吉と一緒に遊学に来とる人たちや加賀藩からの使者ば家に招いて、みんなで食事会ばしたとって。ところが・・・。 使)譲吉!譲吉! 声をひそめて使者の一人が呼びなった。呼ばれた譲吉が側にいくと、 使)ロレーロ先生は日本語がペラペラだと聞いていたけれど、おっしゃっていることがまったくわからないぞ。 とのこと。見ればロレーロ先生の方も使者の人たちが何ばゆうても首ば傾げたまま、通じていない様子。そこで譲吉は、 譲)私が通訳いたします。 て言うてから、使者とロレーロ先生の間に座ったとって。 使者は紋付袴で難しい顔ばして、 使)ペラペラペラ、ナントカカントカ、ペラペラペラ。 もちろんロレーロ先生にはチンプンカンプンさ。そこで譲吉の出番。 譲)ペラペ〜ラ。ペラペラ〜ペラ、ペラペラペラ。 とロレーロ先生に伝えたっとて。そしたら今度はロレーロ先生が大きか身振り手振りば交えながら、 ロ)ペラペ〜ラ。ペラペラ〜ペラ、ペラペラペラ。 って言いなったげな。それば聞いた譲吉は、また、 譲)ペラペ〜ラ。ペラペラ〜ペラ、ペラペラペラ。  そがんことば何回か繰り返しておるうちに皆、心の打ち解けて楽しく食事会ば終わらすことのできたとって。  その様子ば見とった大人たちは皆、譲吉のことば口々に誉めたとって。 大人1)さすが高峰さんとこのご子息ばい。見事な通訳ぶりやったばい。 大人2)まだこんまかとに、本当に大した子ばい。 大人3)本当に神童ばい。ところで譲吉君、二人はどがん話ばしよったとね?  そう聞かれた譲吉は半分笑いながらこうゆうたと。 譲)おいが話よったとは両方とも日本語ばい。ロレーロ先生は日本語は達者やけど長崎弁しか知らんばい。加賀藩の使者は長崎弁はいっちょんわからんさ、金沢弁しか知らんけんね。だけん、おいはロレーロ先生の長崎弁ば金沢弁になおして使者に伝え、使者の金沢弁ば長崎弁になおして先生に伝えたとさ。最初の使者は「この度は、うちの藩の子弟ば預かって親切丁寧にいろいろと教えてくれよることに、おいたちの殿様に代わって礼ば言わんばと思うて、長崎まで来たと。本当に心から感謝しとっとよ」ていうたとばい。おいはそれを長崎弁になおして先生に伝えただけさ。そしたら先生が「何ば言いなっとですか。そがん堅苦しい挨拶はやめて、みんなでゴイゴイ飲まんですか!」って答えなさったけん、そいば金沢弁になおして使者さんに伝えただけばい。つまり日本語ば日本語に訳しよったってことさ。そがん神童、神童言われたら、聞いとるほうがシンドウなる・・・。  双葉出る前から芳ばし童かな。「栴檀は・・・」の例えを出す必要もない、見事な神童ぶりの譲吉やったげな。  譲吉は長崎に3年ほどおったとけど、ロレーロ先生の家だけじゃなくて、イギリスの実業家・オルトさんのとこにもホームスティしたらしか。オルトさんも譲吉のことば可愛がって、旅行する時も譲吉ばつれて出かけるほどやったとって。譲吉は外人さんの家で暮らしながら、英語ば専門的に教えよるフルベッキという人のところでも一生懸命勉強したげな。こうして3年間みっちり英語ば学んだと。  長崎に遊学したあとは京都に移ってそこでも英語ば勉強したとって。そして1869年(明治2年)、大阪に日本で初めての医学校ができて、譲吉はそこに入学。同時に大阪舎密学校にも入学したごたっね。舎密(せいみ)てあまり聞いたことのなか言葉やけど、オランダ語で化学のことばい。Chemie(セミー)という単語にそのまま日本の文字を充てとっとばい。おもしろかね〜。その大阪舎密学校は2年でなくなってしもうたとけど、今の東京大学工学部の前身になる学校が東京にできたけん、譲吉はそこでまた舎密学ば勉強できることになったげな。その学校の先生はほとんど外国人で、他の生徒さんは言葉のようわからんけん大変やったらしかけど、譲吉は長崎でうんと英語ば勉強しとったけん、何不自由なく理解できたらしかよ。  こがんして大学で一生懸命勉強した譲吉はイギリスに留学、帰国後は当時の農商務省に入省して肥料の研究ば始めたと。当時は作物の肥料は人糞やったとけど、あまり衛生的じゃなかけんが、譲吉は「何とかしたかー」ってずっと思いよったらしか。人工肥料は研究も開発も大変やったごたっけど、完成したら農家の人たちは本当に助かったとって。  肥料づくりの見学にアメリカへ渡った譲吉は、そこで未来の奥さん・キャロラインと巡り会うたとよ。国際結婚も今ならあんまり珍しかことじゃなかばってん、明治の初めごろやけんね。譲吉のお母さんがひどく反対して大変やったらしか。でも、それば乗り越えて、日本に呼び寄せたキャロラインと結婚。落ち着いて研究に熱ばいれよったとき、アメリカから譲吉に「アメリカに来んね?」って話のあったとって。  当時、日本で譲吉が研究しとった項目の中に日本酒づくりがあったとさ。日本酒は季節とか温度に左右されやすくて、ちょっとした気温の変化で、樽ごと腐ってしまうことがようあったらしか。そこで譲吉が研究しよったとが、こうじ菌さ。「高峰式こうじ改良法」というとば確立しなったと。この譲吉の発明で、日本酒づくりがずいぶん楽になったげなもんね。  日本酒はでんぷん(米)ば糖化するとき麹を使うし、ウイスキーはモルトというて、麦芽ば使うとって。当時は麦芽を作るとに時間も手間もかかったけん、「麦芽より扱いやすい麹ば使うてみたらどげんやろか」て思いなったアメリカのウイスキートラストからの話やっとさ。譲吉は「また新しか研究のできる!」って張り切って、家族ば連れて渡米したと。  そいけど、渡米した譲吉ば待っとったとは、楽しかことばかりじゃなかったと。研究そのものは大成功したとやけど、譲吉が研究に成功したら自分たちの仕事がなくなるって勘違いしたモルト製造の関係者が、いろいろと妨害ばしたとって。それはもう大変やったらしか。だけん、譲吉は研究は成功しながら、そいば事業に発展させることはできんかったげな。残念やったろうね。でも、それでめげんとが譲吉のすごかところばいね。  日本酒とウイスキーの糖化から思いついて、譲吉が次に研究したとは「ジアスターゼ」。日本酒では麹、ウイスキーではモルトで醸造するとやけど、その両方に共通するとがジアスターゼという「発酵素」げな。このジアスターゼは人間の身体の中にもあって、でんぷん質を消化するとって。そこで譲吉が研究したとは、でんぷん質の消化ば助ける薬。それまで研究しよった麹から、酒ではなくてジアスターゼば作ったとよ。ジアスターゼば発見したとはフランスの学者さんらしかけど、どがん研究しても効き目が弱いままやったとって。それを研究して消化薬としての実用化に漕ぎ着けたのが譲吉やったと。その酵素には「タカジアスターゼ」という名前が付けられて、アメリカの製薬メーカーから世界的に発売されることになったとって。そのとき譲吉はその製薬メーカーに条件ば出したと。「日本だけは日本の製薬会社に売らせたい」ってね。  その後研究したとがアドレナリンたい。アドレナリンは外科手術のときの止血に使われたり、強心剤、喘息を押さえる薬、産科や耳鼻咽喉科、皮膚科とか、ほとんどの科で使われとる薬。だけん、本当に大発見さね。このアドレナリンの発見でヨーロッパの医学界からも注目されるようになって、譲吉の研究活動は世界的なものになっていったとって。  タカジアスターゼとアドレナリンの薬用の実現でお金持ちになった譲吉は、だんだん日本の学者たちへの支援を考えるようになったとって。1913年(大正2年)、日本に帰国したとき、当時の日本の偉か人たちば説き伏せて、1917年(大正6年)に理化学研究所を設立。それだけではなく、アメリカでも譲吉は日本人のために努力したとよ。日本からアメリカに来た人たちのお世話ばしたりしてね。  そがんして人のために一所懸命しよった譲吉が亡くなったとは1922年(大正11年)のこと。68歳やった。若か時に肝臓ば悪くして、そこに心臓病も併発したのが原因やったと。譲吉が亡くなったとき、アメリカの大新聞は、「日本は偉大な国民を、アメリカは大事な友人を、世界は優れた科学者を失った」って記事ば掲載して、譲吉の死を惜しんだとって。 譲吉のすごかところは科学の発見に終わらんで、それを事業に活かしたところと思わん?譲吉が後世に残る大事業ば成し得たのは、もちろん粘り強い性格の持ち主で勉強家であったということもあるけど、長崎で外国人と親しく付き合い、語学ばきちんと学んだことが大きく影響しとっとじゃなかかって、じげにゃんは思うとばい。長崎に遊学した体験ばうまく活かしてくれたとが高峰譲吉さんと思う。うれしか話たいね。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『高峰譲吉とその妻』飯沼信子著(発行/新人物往来社) 『堂々たる夢』真鍋繁樹著(発行/講談社) 『児童伝記シリーズ48 高峰譲吉』久保喬著(発行/偕成社) 『高峰譲吉の生涯』飯沼和正・菅野富夫著(発行/朝日新聞社) 『長崎遊学者辞典』平松勘治著(発行/渓水社)
  • 名プロデューサーの平賀源内さん、ちょっと早過ぎたばい。 2014年03月28日
    名プロデューサーの平賀源内さん、ちょっと早過ぎたばい。
    名プロデューサーの平賀源内さん、ちょっと早過ぎたばい。  7月に入って、「暑かぁ〜、なんも食べとうなかぁ」て思う頃にやってくっとが「土用の丑の日」。串ば通されて、備長炭の上でジワ〜っと焼かれた鰻。火の通ったところにタレば何重にも塗られて、ふくっ〜とした身の表面には独特の照りのある。思い浮かべるだけで、よだれのずっごたんね。  確かにさ、食が細る夏こそ食べとうなる鰻。栄養価も高かかとやろうけど、値段もちょっとばっかし高うなって。もっとも年に何回もなかけんね、「土用の丑の日」は。なんとはなしに財布のヒモも緩るうなっとやもんねー。  そいけど、なんで夏の暑か盛りに鰻の蒲焼きんごと、コッテリしたもんば食ぶっとやろか? なんでこがん習慣のできたかというと、ここで平賀源内さんが登場すっとさね。  ある日のこと、源内さんの家ば鰻屋の旦那が訪ねてきたとって。 源) 誰かと思うたら鰻屋じゃなかね。入らんね!  そがんいわれて、そっと中に入ったげな。 源) どがんしたと? えらい元気のなかね。  突然サメザメと泣き出す鰻屋・・・、鰻屋がサメザメもおかしかとけど、そう泣いたらしかよ。そんでね、源内にこう言うたとって。 鰻) もう駄目んごたっ!。私の店もおしまいんごとある。 源) いったい、どがんしたと? 鰻) 毎年毎年、夏になると客足のグンと減ってしもうて。そいでも何とか必死で今日まで持ち堪えたとさ。でも、でも、もう駄目ばい。今日なんて、夕方近くになっても誰も来ならん。暖簾を覗く人もおんならん。近所の野良犬でさえ素通りすっとよ。犬にまで見捨てられてしもうた。もう駄目ばい。 と、またここで大泣き。こまか子どもや色っぽか女の人ならまだしも、大の男に目の前で泣きつかれてもやぜかだけたい。困った源内さんは、ここで妙案ば思いついたとって。 源) 何事も宣伝が肝心に決まっとっ。よ〜し、良か事ば考えた!  と言うやいなや、筆ば取り出して、サラサラと紙に何か書き付けた。 源) どがん?  見ればそこには「土用の丑の日には鰻を」とあったげな。 鰻) これってどがん意味ね? 源) まぁよかけん!これば店の前に張り出して、蒲焼きば焼く匂いを盛大にまき散らさんですか。  どうにもこうにも困っとった鰻屋さんは、源内さんの言うごとすっしかなかたいね。そしたら、さぁ大変!! 夏の暑か盛り、土用の丑に店は押すな押すなの大繁盛。しばらくして鰻屋と会った源内さんが「おう、その後どがんね?」と尋ねたら、鰻屋のいうことには、 鰻) おかげ様で大繁盛ばい。そいばってん、あんまり忙しかけん、鰻より私の方が身の細うなるごたっ…。  うらめしや、源内さんのおもいつき。鰻の身になればたまったもんじゃなかけど、窮地の鰻屋さんを救った源内さんのアイデアはたいしたもんやねー。  さて、この名プロデューサー・平賀源内さんは、1728年、今の香川県で高松藩士の子として生まれたとって。実家は農業ばしながら藩の御蔵番をしよったとやけど身分の低くうして、源内さんは随分と苦労しなったらしかよ。しかし、そこは日本のダヴィンチ・平賀源内さん。14歳にして本草学を学び、藩の薬園の手伝いばしよった。そがん源内さんの賢か噂ば聞いた高松藩主・松平頼恭(まつだいら よりたか)様は、源内さんを長崎遊学させなった。そんとき24歳(1752年)やったげな。長崎では西洋文化に触れ、医学、動植物、鉱物、物理、科学、地理など山んごと勉強したとってよ。こんときの遊学はわずか1年ほどやったけど、1770年にもまた長崎ば訪れたらしか。源内さんにとって当時の長崎は、知識欲を刺激するよか町やったばいねー。  さて、もともと頭の良かった源内さんやけど、長崎で最先端の勉強ばしよるときに、突然、藩から呼び戻されて故郷・高松に戻ったとって。しばらくはおとなしゅうしとったけど、何を思ったか妹に婿ばとって家ば譲り、一人でとっとと江戸へ出なったげな。  江戸に出た源内さんは本草学の大家の下へ入門して、数年もたたんうちに師匠ば追い越すほどの本草学者となったとって。やっぱすごかねー。  そうそう。エレキテルの復原、オランダ焼きの製陶や西洋画の制作、戯作、鉱山の採掘など、あらゆるジャンルに才能ば発揮した源内さんばってん、一からコツコツと勉強すっとは苦手だったらしかばい。長崎に遊学したときも外国語は苦手で、たいていは通詞(通訳)さんばアテにしとったらしかよ。なんかホッとするエピソードやね。そいとね、ちょっとおもしろか話ばひとつ。外国語が苦手て言うても、遊学時代に多少は横文字ば勉強しなった源内さん。いろんな物に西洋風の名前ばつけて呼んどったとか。鰻の蒲焼きは「サイテヤーク」て。ん〜? なんやろね? 水道のことば「ヒネルトジャー」て言うたり、饅頭ば「オストアンデル」って言うたようなもんかね。シャレはあんまり上手じゃなかったごたるね。  ところで、残念なんやけど、源内さんの晩年はあまり良かことのなかったらしか。良か事も悪か事も、人には同じだけ来るとか言うけど、源内さんには人生の終了間際に一度に悪かことの来たとかもしれんね。誰かと共同でやっとった鉄山が閉山になったりとか、いろいろと良くなかことが続いたある日、源内さんは殺傷事件ば起こしてしもうたとって。そんで牢に入れられて、しばらくしてから破傷風にかかって、そのまま獄死しなったとげな。ただ、源内さんの晩年にはいろんな話のあって、誰かの手引きで牢から出て、江戸の片隅で天寿ばまっとうしなさったという説もあっとさね。結末のようわからん、不思議なとこも源内さんらしかよね。  いずれにしても源内さんがこの21世紀におったら、きっとすごか名プロデューサーになっとったと思うとさねー。生まれてくっとが少し早かったばいね。 今回の「平賀源内」さんのお話はどがんやった? 今から200年前の長崎には、こがん勉強好きの人がたくさん出入りしとったよ。 これからもおもしろか人ば見つけて紹介していくけん、楽しみに待っとってニャン。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『旅する長崎学7 近代化ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『平賀源内を歩く ー江戸の科学を訪ねてー』奥村正二著(発行/岩波書店) 『歴史の群像11 先駆』尾崎秀樹著(発行/集英社) 『長崎遊学者事典』平松勘治(発行/渓水社) 『おなら考』佐藤清彦著(発行/青弓社) 『江戸時代人名控1000』山本博文監修(発行/小学館)
  • なぜ、坂本龍馬は愛されているのか 2014年03月28日
    なぜ、坂本龍馬は愛されているのか
    ■ 国民的人気を誇る坂本龍馬 風頭公園の坂本龍馬像 大河ドラマ「龍馬伝」の放送が始まり、長崎の龍馬ゆかりの地にも、さらに多くの観光客が訪れるようになりました。 龍馬の人気は、いろいろなアンケート結果からも見てとれます。たとえば、2009年(平成21)12月、“仕事や家庭の悩みを相談したい歴史上の人物”の第1位に選ばれたのが、坂本龍馬です(企業の広報活動を支援するNPO「後方駆け込み寺」が全国20歳以上の男女を対象に実施したもの)。このほかにも、“会ってみたい人”や“理想の上司”、“恋愛相談をしたい人”などの歴史上の人物として、坂本龍馬はいずれも上位に入るほどの人気を誇っています。 龍馬については、「個性的で豪快な人物」「破天荒な人物」という印象が強く、「薩長同盟」や「大政奉還」に尽力し、困難な状況においても信念を持って解決策を見出してくれる人物という評価も少なくありません。 坂本龍馬は、なぜこんなに人気があるのでしょうか?   ■ 長崎さるく英雄(ヒーロー)編 風頭公園でのガイドの様子 かつて西洋に開かれた唯一の窓口として、科学や医学など先進技術が伝わった長崎では、まちあるき観光のスタイルとして「 長崎さるく 」が展開されています。これは、長崎の街なかをテーマに沿ってぶらぶら歩きながら、長崎の魅力を体感してもらうもの。地元ボランティア「長崎さるくガイド」の方々が、より深く歴史・文化を理解できるようにわかりやすくガイドしてくれるコースもあります。 幕末の長崎をテーマとした「長崎さるく英雄(ヒーロー)編」が好評で、県内外から多くの皆さんが参加しており、なかでも龍馬ゆかりの地である「長崎市亀山社中記念館」や「亀山社中資料展示場」、「風頭公園」の一帯は大人気だそうです。 長崎市亀山社中記念館内で解説をされている長崎さるくガイドの方にお話をきくことができました。   ■ 龍馬の人気のヒミツ 龍馬ファンの方々は、いったい坂本龍馬のどんなところに惹かれ、あこがれているのでしょうか?・・・ 「やはり、龍馬の性格ですね。小さいことにこだわらず、型破りな考え方と行動力にあこがれる人が多いと思います。」 風頭公園の坂本龍馬像の左足 身分にとらわれず、武士でありながら、商人の魂も持っていた。そのうえ名誉や地位を望まず、大政奉還後も新しい政府へ入ることすらしませんでした。そんなところに魅力を感じ、龍馬を慕って長崎を訪れる龍馬ファンは多いといいます。 風頭公園の坂本龍馬像は、左足が銅像の土台からはみ出していますが、これは自由で型破りな龍馬の性格を表現しているそうで、記念撮影の人気スポットになっています。     「しかし、龍馬の魅力はそれだけではありません。倒幕運動を開始してわずか7年ほどの短い期間に、通常では築くことができない相当な人物たちとの人間関係を築きあげたことも魅力のひとつです。」 龍馬は、勝海舟の話に感銘を受けて師と仰ぎ、そして幕臣の大久保一翁(おおくぼいちおう)、福井藩主で幕末の四賢侯といわれる松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、さらに春嶽の政治顧問・横井小楠(よこいしょうなん)など、一藩士では出会えない大人物と接します。また、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)や高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀(たてわき)、仇敵であった土佐藩・後藤象二郎や三菱の創始者となる岩崎弥太郎など、近代化に向かう日本を動かしていく多くの人物たちとの人脈をわずか7年間で築き上げているのです。 1865年(慶応元)、幕府機関である神戸海軍操練所が解散したあと、龍馬は薩摩藩などの資金援助を受け、長崎で日本初の商社といわれる「 亀山社中 」を結成しました。この社中は、のちに土佐藩の「海援隊」となり、龍馬が隊長をつとめます。 龍馬は、長崎でも同様に多彩な人間関係を築いています。熱心に龍馬を支援した豪商・小曽根(こぞね)家や女性起業家の茶商・大浦慶(おおうらけい)、武器や艦船を扱った商人・トーマス・グラバーなど、亀山社中、海援隊が活動するために必要な人脈をしっかり持っています。 これらの人脈については、龍馬に一流の人物を見抜く力があったからこそ、築くことができたといわれています。 確かに龍馬に関するいろいろな資料や本を読むと、彼が出会った人々の考えを真剣に聞き、受け止め、意見を交わし、「運命的な出会い」にしていってしまうような不思議な力を持っていたことが伺えます。龍馬は、これらの人々との出会いをとおして、大きく成長を遂げていきました。 幕末の人でありながら、現代にも通用する考え方と行動力を持っていたことも、龍馬の大きな魅力ではないでしょうか。意見がぶつかっても、前向きに捉え、日本を変える力へと導くことができたリーダーシップのある龍馬。小さな視野におさまらず、広く世界へと羽ばたく夢を抱いていた龍馬。好奇心旺盛で新しいものを取り入れるミーハーな龍馬。争いを避け、日本を列強国から守り強くするために奔走したカッコイイ龍馬。筆まめで、茶目っ気のあるカワイイ龍馬。さて、みなさんの龍馬像はどんな感じですか? 現在、長崎歴史文化博物館において、「長崎奉行所・龍馬伝館」が開催されています。龍馬を支えた人々の紹介もパネルで展示されています。龍馬がどんな人々と出会い、どういう成長を遂げていったのか、人間・龍馬の魅力にもぜひ注目してみてください。   長崎歴史文化博物館 「長崎奉行所・龍馬伝館」は平成22年1月9日(土)〜平成23年1月10日(月)開催。ドラマの進行にあわせて、5月と9月に一部の展示内容が変わります。詳しくは こちら をご覧ください。   「風頭公園」から見る長崎港の展望は観光客にも大人気です。徒歩で5分程度下ったところにある「長崎市亀山社中記念館」は年中無休。「亀山社中資料展示場」は平成22年12月28日まで無休です。詳しくは こちら をご覧ください。 取材協力 ・ 長崎市亀山社中記念館 参考資料 ・『長崎旅本 慶応幕末「旅する長崎学講座」公式テキスト』(長崎県 文化振興課) ・「文藝春秋くりま『坂本龍馬がゆく』1月号」  
  • インタビュー・高島・軍艦島の証言 2014年03月28日
    インタビュー・高島・軍艦島の証言
    ■ インタビュー・高島・軍艦島の証言 (2009.08.26.更新)   2009年(平成21)4月22日、35年ぶりに端島(軍艦島)への一般の上陸が解禁となり、軍艦島クルーズが大変な人気を集めています。また、端島炭坑や北渓井坑跡(高島)は、“世界遺産暫定一覧表”記載の「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補となっていることもあり、その歴史や価値についてもますます関心が高まっているようです。 当時の島の生活はどういうものだったのか・・・。今回は、三菱の坑務課安全灯係に勤務し、高島炭坑に長年携わってきた山崎 徳(やまさき めぐみ)さんに当時の様子を伺うことができました。   当時、日本国内においての高島・端島は、どんな特徴を持った炭坑の島だったのでしょうか? 操業中の北渓井坑(明治初期) まず、高島炭坑は、日本最初の機械化された炭坑です。ここで言う機械化とは、蒸気動力、風車換気、給水ポンプ、排水などのことです。全国のどの炭坑も、手掘りや人力による石炭の搬出をおこなっていた頃、ここ高島炭坑では、高い技術をもって採掘されていたのです。 この技術導入の背景には、有名な外国人商人トーマス・グラバーの活躍があります。 グラバーは、優秀な技術者を招き、高島炭坑を機械化することに成功しました。中でも、北渓井坑は、掘削わずか40mで石炭を採掘できたことから、グラバーが連れてきた技術者が、地質学、鉱物学などの知識も高く、相当に優秀であったことを物語っていると考えられます。 やがて、高島炭坑が三菱の経営になると、その技術が端島へも導入され、高島・端島炭坑は、日本の工業化、近代化へ貢献することとなるわけです。     高島炭坑に関する写真パネルと職員クラブ模型(高島石炭資料館内) 高島・端島炭坑は非常に良質の石炭である強粘結炭を出炭しておりました。強粘結炭は、熱量が高く不純物の少ない良質のコークスとなることから、製鉄に利用されました。通常の石炭が3,000~4,000kcal の熱量でストーブ、機関車などに使用されたのに対し、高島の石炭は、7,000~8,000kcalと非常に高エネルギーを持ちます。 大村の発電所が、高島の石炭を使ったところ、発電の炉が溶けたとのエピソードも聞いております。     当時、炭坑で働く人々やその家族の生活ぶり、文化はどうだったのでしょうか? 採炭現場模型 (高島石炭資料館内) 鉱員の給与は、当時の日本の労働者の1.5倍から2倍はあったと思います。 また、無料の社宅に住み、光熱水費も長崎までの乗船料も無料でした。配給米も国産白米と非常に恵まれた生活でした。(一般はガイ米など) そういう状況ですので、鉱員は各地(主に西日本)から集まりました。募集にたくさんの人が応募するため、会社は技術力の高い労働者を採用し、職員も東京大学などの卒業者の方などが集まり、技術や技能の集まる場所となりました。 鉱員たちは、スポーツを好んでいました。野球、柔剣道、バレーボールなどは、全国炭坑の大会で優勝するほどで、端島は地域的な制約から室内競技が多かったように記憶しておりますが、これも高島と交互に優勝するなど非常に盛んでした。 また、映画が大好きで、荒天で海が荒れ、船が端島へ接岸できないときでも、ロープでフィルムを渡すなどして、映画を楽しんでおりました。 文化面においても、演劇コンクールに参加するなど活発におこなっていました。大正琴や舞踊などは、現在も高島町の婦人会の方々が楽しんでおられます。 食費、日用品費以外は、お金を使う必要もありませんでしたが、鉱員たちは、お酒を飲むことがしばしばありました。時折、酒の島などと揶揄(やゆ)されたこともありますが、それは炭坑を知らない方々の意見で悲しく思います。 当時、炭坑は24時間3交代制でフル稼働し常に危険と隣り合わせでした。坑道内は、多くの鉱員、職員で作業を進めており、万一のことがあれば大惨事になる可能性がありました。鉱員たちは、結束を深め協力体制を整える必要があったのです。各地から集まった鉱員たちは、お酒を飲み、会話することでお互いの理解を深めていきました。 そのような中、鉱員の奥様方は非常に教育熱心になっていきました。危険の伴う鉱員よりも更によい生活を我が子にさせたかったのだと思います。当時は珍しかった高校、大学への進学もさせていきました。そのような動きは、高島高校の創立に繋がることになったのです。 子どもたちは、どんな遊びをしていたのでしょうか? 子どもたちの楽しみといえば、海でした。子どもたちは「こちらがサザエ、こっちはアワビ、あっちは伊勢海老。」などと生息場所の情報を逸早くキャッチし、海に潜っては、サザエを採るなどして遊んでいました。 端島では、屋上が大事な遊び場でした。屋上菜園がおこなわれた時でも、子どもたちの遊び場はきちんと確保されていました。端島の子どもたちも海は楽しみでした。 しかし、し尿処理の充分でなかった頃は、海へ下水を排水したため、海での遊泳が禁止となりました。 その後は、子どもたちは大人たちを見習い、スポーツを好むようになりました。 忘れられない出来事や思い出はありますか? 1982(昭和57)年 火事で焼けた蛎瀬事業所 個人的な意見で言えば、やはり炭坑事故が記憶にあります。 事故により坑内で亡くなると、棺に呼びかけながら外へ出していました。 「今、坑道のどこを通っているよ、もうすぐ上がるよ。」などと呼びかけました。 みんな、大切な仲間の魂を、暗い坑内から出してあげたかったのだと思います。   その他、炭坑事務所が火災にあったこともあります。1982(昭和57)年に火災にあった時などは、既に閉山していた夕張から、様々な道具を調達しました。   閉山することが決まったときはどんなお気持ちでしたか? 閉山以前、炭坑が下り坂になってきた頃から、社内誌でも「力を合わせて乗り切ろう」などと毎年スローガンを掲げて、何とかやっておりました。 そういった意味では、閉山することへの現実感は少なかったと思います。 むしろ、閉山を決定的にしたのは、炭坑事故です。 高島からみた中ノ島(手前左)と端島(奥右) 端島は、1963(昭和38)年に自然発火により事故が発生しました。消化のため散水しましたが、一度水浸しになると戻せないのです。その後、1974(昭和49)年に安全に採掘しうる炭量が枯渇し、閉山いたしました。 高島でも、1985(昭和60)年に爆発事故が起こりました。1960(昭和35)年頃からのエネルギー革命により転換期を迎えた後のことですので、技術の低下もあったかと思います。今となれば、その時、正しくガス検知などをおこなっていたのかも分かりません。ただ、「もう、閉山するかもしれない。」という不安感がありました。 翌年、その不安は現実となり、閉山することとなりました。   会社は、鉱員たちに再就職先を斡旋し、退職金に加え閉山交付金を出しました。また、通称“黒い手帳”と呼ばれる就労証明書を発行しました。“黒い手帳”とは3年間の失業手当が受け取れるものでした。 再就職した人たちの多くは、島を離れることになり、再就職できなかった人たちは、退職金と失業手当で暮らし、その後、年金生活となりました。   現在、世界遺産暫定一覧表に記載されている「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補として、高島の北渓井坑跡や端島炭坑がリストアップされています。 2009年(平成21)4月22日から始まった“軍艦島上陸クルーズ”には、乗船予約が 殺到しているそうです。参加者の年代は幅広く、高校生や大学生など若い世代も少なくありません。いま、「軍艦島」に高い関心をお持ちの方々に、メッセージをお願いします。 炭坑夫の像「曙」 端島の炭坑の成り立ちからすると、端島は高島とのつながりが非常に大きいところです。更に言えば、端島は高島あっての端島であり、高島を知ることによって、もっと端島を理解できます。 現在、長崎市が北渓井坑の発掘調査をおこなっておりますが、北渓井坑が全国の炭坑に与えた影響が、本来の遺産であると思っています。 高島、端島を大きな観点で眺めることによって、貴重な歴史、遺産価値を理解できるでしょうし、また、そこに暮らした人々の思いを張り巡らすことによって、日本の近代化を支えた高島、端島の炭坑を評価できるものと考えています。   山崎 徳(やまさき めぐみ)氏のプロフィール 大正14年5月4日生まれ。 長崎市高島町在住。郷土史家。 高島炭鉱時代には、三菱の坑務課安全灯係に勤務、高島炭鉱に長年携わる。     山崎 徳さんは、炭坑をはじめとして、地名や方言、民俗、文化、高島の歴史に関する資料をまとめておられます。これらの資料は現在、高島石炭資料館内に所蔵されています。 高島石炭資料館の情報は、歴史発見ドライブルートの「 近代洋式炭坑が始まった地、高島 」(平成21年8月5日更新)で紹介しています。ぜひご覧ください。 協力 ・山崎 徳 氏 ・ 長崎市高島行政センター ・ 高島石炭資料館