エリアで見る「たびなが」エリアで見る「たびなが」

ホームホーム   > エリアで見る「たびなが」 > 県南エリア

県南エリア

  • 川原慶賀 2014年03月28日
    川原慶賀
    〜西洋人が見た日本を描く〜  《日本の魚類のすべてを、既知と未知との、あるいは珍奇なると一般的なるとを問わず、すべて写生することを提案する。日本人画家、登与助の確かな手腕と、日本の鮮やかな絵具は、自然や実物の美しさに負けないであろう。》(『シーボルトと日本動物誌』より)  シーボルトが日本を離れる前、助手のビュルガーへ宛てた書面です。登与助とは、出島出入りの絵師・川原慶賀(かわはら けいが)のこと。シーボルトがここまで信頼した画家は、なにを描いたのでしょうか? 一介の町絵師、画壇に名無し  出島にいたオランダ人は出島絵師以外が描いた絵を持ち帰ることが許されていませんでした。カメラのない時代、日本の風景や風俗文化、動植物、出島の生活などは絵師によって記録されていました。その出島絵師のひとりが川原慶賀です。  慶賀(通称登与助、号慶賀、字種美)は、1786年(天明6)に長崎で生まれました。父の香山は町絵師で、蘭船、唐船が浮かぶ港を描いた作品「長崎港図」を残しています。慶賀は香山から絵の手ほどきをうけ、その後、長崎で活躍していた画家の石崎融思(いしざき ゆうし)から絵画を学んだといわれています。  江戸時代、長崎の画家を記した『崎陽画家略伝』、『長崎画人伝』、『続長崎画人伝』などに、慶賀の名はありません。厳しい身分制度の時代、慶賀が一介の町絵師だったからだといわれています。正統な画家の家系の出ではなかった慶賀でしたが、才能に恵まれ町絵師として身を立て、その後「出島出入絵師」となります。  1820年(文政3)から1829年(文政12)、秘書、会計係、倉庫の管理者として出島で働いたフィッセルや1817年(文化14)に商館長に就任したブロンホフらの求めに応じて絵を描いた慶賀ですが、シーボルトのパートナーとして膨大な作品を残したことで知られています。 シーボルトの眼となり日本を写す  シーボルトはある使命をもって日本へやってきました。当時、オランダ政府は衰退しつつある日本とオランダ貿易を建て直すために、日本を総合的に研究調査し、それに対応する策をたてる必要がありました。日本をあらゆる面で科学調査できる能力があり、医師であるため出島商館へ派遣しやすい条件がそろったシーボルトはまさに適任だったのです。  1823年(文政6)、長崎へ到着したシーボルトは長崎奉行の許可を得て、長崎郊外にある鳴滝の土地と建物を購入します。それは研究をさらに深めるために優秀な門弟を雇い入れ、住まわせ、また患者の治療や医学教育の場として使用するためでした。西洋の最新知識を日本人に伝え、シーボルトの日本調査研究の拠点となったのが鳴滝塾です。塾では病人を診察し、診断の仕方や治療の方法などを門弟らに教えました。また、シーボルトは門弟らにオランダ語でレポートを提出させています。内容は「日本古代史考・神話学」、「日本の時の唱え方について」「江戸名所案内記」など具体的なものでした。  慶賀もまた、シーボルトの注文に応じ、踏絵、端午の節句、精霊流し、ハタ(凧)揚げなど長崎の「年中行事」、また出生から墓参りまでの「人の一生」、「職人尽くし」、「動植物」など、日本や長崎の姿を詳細に描きました。  シーボルトは、これらの資料で日本をヨーロッパに紹介し、日本研究の第一人者となりました。  さて、大量の作品を残した慶賀ですが、本人の肖像画はなく、没年や墓所なども不明で、その生涯は謎に包まれています。資料が少ないなか、長崎奉行所の「犯科帳」には慶賀の名前を2カ所にみることができます。  ひとつは、シーボルトの積み荷から国外持ち出し禁止の徳川家家紋の入った服や日本地図が見つかり、シーボルトが国外追放となったいわゆる“シーボルト事件”。慶賀も連座し一ヶ月ほど入牢、「叱り」という処分をうけます。もうひとつが、十数年後、オランダ商館からの要望で描いた長崎港のなかに、国外不出とされていた藩(細川家と鍋島家)の家紋を警備船の幕に描き、「江戸並びに長崎払い」の刑となった事件です。 1842年(天保13)に「江戸並びに長崎払い」となった慶賀ですが、1844年(天保15)ごろには長崎へ戻り、町絵師として仕事を再開していたようです。1853年(嘉永6)に来航したロシア艦隊の長官プチャーチンの肖像画や開国後、出島の日常風景を描いた唐蘭館図などが残されています。また、1860年(安政7)の「永島キク刀自絵蔵」は落款に“七十五歳 種美写”とあって、慶賀が75歳まで生きていたことを証明しています。 いたずら好き? 慶賀の素顔 さて、シーボルトが持ちかえった資料のほとんどは現在オランダのライデン国立民族博物館に所蔵されています。慶賀が描いた「日本人の一生」もそのひとつです。「出産」から「墓参り」まで記録されているなかに、慶賀のいたずらが隠れていました。「葬列の迎え(1)」には、寺の門前にたつ6人の僧侶のわきに“不許輩酒肉入山門”と石碑の文字。また「墓参り」ではあろうことか墓石に“酔酒玄吐行”、“淫好助兵衛腎張”と刻まれ、慶賀の素顔を垣間みることができます。ライデン国立民族博物館に所蔵されている慶賀作品のいくつかは、長崎歴史文化博物館のウェブサイトにある『川原慶賀作品データベース』で見ることができます。  また、1853年に来航したロシア艦隊の長官プチャーチンの肖像画では、落款をロシア人名風に登与助を“Tojoskij(トヨスキー)”と書くなど茶目っ気たっぷりです。  現在、国内に残る慶賀の絵は50点ほどで、ライデン国立民族博物館には1000点近くが収められています。そのなかには、フィッセルやブロンホフのために描いたものや、シーボルトが帰国前、助手ビュルガーにあたえた指示どおり、ベニサシやコブダイなどの魚の絵も色鮮やかに所蔵されています。  慶賀の絵は、当時あまり知られていなかった日本の姿をヨーロッパに伝えるという大きな役割を果たしました。その一方、出島や唐人屋敷に暮らす異国人の生活や西洋の文物も描き記録しています。慶賀は、西洋と日本、両方に異なる国の文化を伝えることのできためずらしい画家だったといえるでしょう。 [文:高浪利子] 参考文献 『シーボルトと町絵師慶賀 日本画家が出会った西欧』兼重護(長崎新聞) 図録『鎖国の窓を開く:出島の絵師 川原慶賀展』(西武美術館) 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(長崎文献社) 長崎歴史文化博物館HP 川原慶賀の見た江戸時代の日本1( http://www.nmhc.jp/keiga01/ )
  • 賞金よりも石を選んだ明治の異人 西道人 2014年03月28日
    賞金よりも石を選んだ明治の異人 西道人
    賞金よりも石を選んだ明治の偉人 西道仙 西道仙(長崎歴史文化博物館蔵)  「僭越ではございますが、ご指名でございますので、万歳三唱の音頭を取らせていただきます。ご唱和をお願いいたします。皆様の末永いお幸せとご健勝とご発展を祈念いたしまして、万歳!万歳!万歳!」 家族や仲間とともに万歳三唱をとなえ新しい門出を祝う。この万歳三唱を全国に普及させたといわれている人物が、西道仙(にしどうせん)です。今回の歴史発見コラムは、眼鏡橋の名づけ親で、長崎新聞界の草分け的存在、さらには長崎医師会の創設者と、明治維新後の長崎で多彩な活躍をした西道仙を紹介します。 生まれは天草、先祖の地長崎へ  肥後天草、1836年、道仙は長崎の御用医師の家系に生まれました。17歳で豊後三賢の一人、帆足万里(ほあし ばんり)に学び、1863年、眼鏡橋近く長崎酒屋町(長崎大神宮のあたり)で医者を開業します。その傍ら私塾を開き、子どもたちに読み書きを教えて生計を支えていました。それから約10年後、桶屋町の光永寺に私学校「瓊林学館(けいりんがっかん)」を創設。漢学者の谷口中秋(たにぐち ちゅうしゅう)を館長に、イギリス人デントを英語教授に迎えます。漢学と英語の両方を学べる学校は評判となり、生徒は300人を数えたといいます。 また、同じころ、道仙は本木昌造(もとき しょうぞう)の「長崎新聞(※現在の長崎新聞の前身ではない)」創刊に参画。1875年には演説討論の笑談会を結成して、同業者の団結、道路の改良、公園の開設、汽船汽車の開通、国会の開設などを論じるようになります。 翌年、長崎新聞は、「西海新聞」と名をかえ、道仙は主筆となってペンを振るいました。民権思想を強めた道仙は『国会急進論』を新聞に7日間連載、このことが新聞条例にふれたとして、自宅に1ヶ月幽囚となります。禁固が解けた後、間違って一日超過していたことを聞かされた道仙は「禁固中は読書三昧に過ごせて大変ありがたかった。その上一日加えられたのだから、こちらが感謝しなければならない」と答え、謝罪にきた者を唖然とさせました。 1877年、道仙は九州初の日刊新聞「長崎自由新聞」を発刊し、社長に就任します。西郷隆盛贔屓の道仙、新聞の目玉は西南の役のニュースでした。西郷が自刃し、西南の役が終わると、「長崎自由新聞」はその役割を終えたかのように廃刊となります。1889年、当時長崎で唯一の日刊新聞だった保守系の「鎮西日報」に対抗して、「長崎新報」が創刊されます。これが現在の「長崎新聞」の前身で、道仙は株主として名をつらねています。 八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍  また、道仙は政治家としても活躍しました。1878年、初めての公選で長崎区戸長に当選した道仙は、自治制の基礎づくりという目的を果たしたと一日出勤して辞任。「一日戸長」と呼ばれました。その後、町会議員、長崎区連合町会議長、長崎区衛生幹事長、長崎区会議長などを歴任します。 明治の中頃、長崎ではコレラなどの伝染病が大流行。1885年には市内で600名余がコレラで死亡しています。漢方医だった道仙は、伝染病予防には西洋医学が必要と考え、漢方医師団と西洋医師団をまとめることを発案。道仙は副会長となり長崎医会を創立します。 1889年、衛生上の問題と老朽化した設備、また外国人居留地からの新しい施設の要望もあり、中島川上流本河内を水源とする水道施設を設置することになりました。 しかし、これまで井戸水などを利用していた市民から、水道料金や税金などを懸念して反対運動が起こり、大きな社会問題となります。市会議員に当選した道仙は『長崎水道論』を著し、水道の必要性を説きます。ある夜、反対派数百人が道仙の自宅を取り囲むという事件が起きました。声高に主張する人々の言葉をしずかに聞いていた道仙は、突然「水道がなぜ必要か理解できない者はこれを読め!」と『長崎水道論』数百冊を庭にまき散らしたといいます。結局、水道騒動は、当時の知事や市長、松田源五郎、道仙らによって解決し、現在、彼らは長崎水道の功労者として顕彰されています。 ちなみに、1886年、コレラなど防疫対策のひとつとして下水溝に石を張る改修工事がおこなわれました。工事後、地下に浸透する水が減り、井戸の水がでにくくなったといいます。それまでいかに不衛生な環境だったかがわかります。麹屋町公園付近のシシトキ川最上流部や、公会堂裏の地獄川など三角溝の底に張られた石は結晶片石です。長崎では「温石(おんじゃく)」と呼ばれ、冬の寒いときに石をあたためて布団の中にいれていたといいます。 道仙と石の関係  さて、「石」は道仙にも深い関わりがあります。初代長崎県知事澤宣嘉(さわ のぶよし)の懐刀として、活躍した道仙はその功労に賞金を与えられますが、辞退し、代わりに鳴滝の山中にある琴の形をした石を賜ります。その後、道仙は、賜琴石斎西道仙(しきんせきさいにしどうせん)と名乗るようになりました。 江戸時代の石橋がかかる中島川、なかでも眼鏡橋は最初にかけられた石橋で国指定重要文化財としても有名です。1881年以前まで、眼鏡橋は「めがね橋」、「酒屋町橋」などと呼ばれ、中島川にかかる他の橋にも一定した名前はありませんでした。当時、長崎区常置委員だった道仙が常置委員会の委嘱をうけて市内の多くの橋を命名。たとえば、「眼鏡橋」や「一覧橋」、「桃渓橋」などは道仙が名前を統一し、「高麗橋」や「袋橋」は町名などにちなみ命名しています。  晩年、道仙は多くの金石文をつくりました。そのひとつに玉園町の聖福寺向かい元料亭迎陽亭(こうようてい)の門柱があります。大きく“唐船維纜石(とうせんいらんせき) 西道仙書”の文字。維纜石は、かつて長崎に入港した唐船をけい留していた歴史的なものです。ほかにもシーボルト宅跡の碑など、道仙は歴史史跡の保全に尽力しています。また、「長崎文庫」を創設して、散逸する古文書を収集し発刊。のちに長崎文庫の蔵書は県立長崎図書館が創立する際に寄贈されました。 郷土史誌の刊行などにも貢献した道仙は、1913年、78歳で亡くなります。 さて、道仙が初めて万歳をとなえたのは1872年、長照寺での会合の場。その後、新聞を創刊するときにも社員に万歳の唱え方を教えて唱和させたといいます。長崎市の万才(まんざい)町は、明治天皇の長崎行幸を記念して、島原町が萬歳町に改称されたのがはじまりです。これも道仙の提案だったといわれています。 万歳と長崎の深い関係。この事実を付け加えた“長崎版”万歳三唱の音頭はいかがでしょうか? 「はなはだ僭越ではございますが、ご指名を頂戴しましたので、万歳三唱の音頭をとらせて頂きます。ここ長崎の地から万歳三唱は全国に普及しました。明治に長崎で活躍した西道仙先生がその創始者です。医者、教育者、新聞人、政治家、歴史家として長崎に貢献した先生を顕彰し、また、これからの皆様の末永いお幸せと、ご多幸とご繁栄をお祈りいたしまして、万歳三唱で締めさせていただきたいと存じます。ご唱和をお願いいたします、万歳!万歳!万歳!」 [文:高浪利子] 参考文献 『西道仙〜明治維新後の長崎を駆け抜けた快男子』長島俊一著(長崎文献社) 『長崎石物語』布袋厚著(長崎文献社) 『中島川遠眼鏡』宮田安著(長崎文献社)
  • 長崎で活躍した貿易商・グラバー 2014年03月28日
    長崎で活躍した貿易商・グラバー
    〜幻のハリウッド映画化計画〜 明治日本の近代化に残した確かな足跡  2009年(平成21)の今年は、トーマス・ブレーク・グラバーが長崎に来航して150年の節目の年になります。  スコットランド出身のグラバーは、1859年(安政6)、安政の長崎開港の年に21歳の若さで来日し、同郷のK・R・マッケンジー経営の貿易支社に勤務しました。1861年(文久元)にはグラバー商会を設立。坂本龍馬らに銃や戦艦などを大量に売り、茶、絹、銀などの日本の特産品を輸出し、幕末の政治情勢にも深く関わりました。同時に、伊藤博文らの英国留学の橋渡しをするなど、日本の有望な若者たちに多大な援助をしたといわれています。 明治政府が勲二等旭日重光章を授与  グラバーは幕末から明治初期の長崎で造船、採炭、製茶など幅広い事業を展開。「ソロバン・ドック」や鉄道、採炭用機器など、当時の最新技術を日本につたえました。  1870年(明治3)のグラバー商会の倒産後は三菱の顧問となり、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(のちの「キリン麦酒株式会社」)の設立にも関わりました。経済人として日本の近代科学技術導入に大きく貢献し、明治日本の近代化に確かな足跡を残したことでも知られています。  1897年(明治30)、グラバーは東京へ転居し、三菱の顧問として余生を送りました。1908年(明治41)には明治政府が勲二等旭日重光章を贈り、その功績をたたえています。 実現直前までいった映画化計画があった!  実は、1997年頃、そのグラバーを主人公にした、俳優ショーン・コネリー主演のハリウッド映画化の動きがありました。この計画は結局中止となりましたが、当時のアバディーン(スコットランド北東部の都市)の地元紙にも大きく記事が掲載されています。その幻に終わった映画化計画の詳しい経緯を、長崎市・アバディーン市のロータリークラブ トーマスグラバー奨学生(2007年〜2008年 第11回生)である峰貴之さん(長崎大学経済学部学生)にお聞きしました。  アレクザンダー・マッカイ氏は、かつて石油会社の日本支社に勤務していた時に日本人女性と結婚し、新婚旅行で長崎市のグラバー邸を訪れ、同郷の貿易商グラバーの活躍を知ったそうです。しかし当時のアバディーンではグラバーの知名度は無名に近い状態でした。そこでマッカイ氏は、地元の人々にグラバーのことをもっと知ってもらいたいと思い、独自にグラバーの研究を始めました。  その後、転勤でアバディーンに移ったマッカイ氏は、勤務の合間や休暇を利用してグラバーの研究を続け、1993年に『スコテッシュ サムライ』を出版、日本でも翻訳されました。この出版がきっかけとなり、アバディーンでは無名に近かったグラバーの日本での活躍ぶりと長崎との深い結びつきが市民の知るところとなり、さらには長崎とアバディーン両市の民間交流が生まれ、ロータリークラブの“トーマスグラバー奨学生の交換留学制度”が始まったのです。  その数年後、マッカイ氏が中心となり『スコテッシュ サムライ』を原作としてグラバーを主人公にした映画化が計画されました。この計画の目標はグラバーの知名度を日本でのそれと同じレベルにすることでした。マッカイ氏は、映画用の脚本をアバディーン大学教授で詩人・脚本家・小説家のアラン・スペンス氏に依頼。ハリウッドに映画化を持ちかけ、計画は撮影が始まる直前まで進んでいたそうです。グラバー役にはベテラン俳優のショーン・コネリーとユアン・マクレガー(青年時代)の起用がほぼ決まっていたといいます。しかし同時期に俳優トム・クルーズ主演の『ラスト サムライ』の映画化が進行中で、内容が重なる部分が大きいという理由から、残念ながらこの計画は中止となりました。こうしてグラバーが主人公のハリウッド映画化は断念され幻に終わったのです。  その時の脚本をアラン・スペンス氏が小説(史実を題材にしたフィクション)に書き替え出版したのが『The Pure Land』というわけです。この小説は年内にも日本語訳で単行本化の予定だといいます。 グラバー主人公のドラマ化の市民活動始まる 2007年(平成19)にトーマスグラバー奨学生に選ばれた峰さんは、約1ヵ月間アバディーンに留学しました。9月に帰国し長崎市長に活動報告をして、10月にオーストラリアに半年間留学し、2008年(平成20)3月に長崎へ戻ってきました。  峰さんは「アバディーンにある歴史博物館にはグラバー関係の展示コーナーがあります。アバディーンで開かれた“日本展”のパンフレットの最初のページにはグラバーの顔写真が大きく掲載されていました。しかし日本に比べるとまだまだグラバーの知名度は低いようです」と留学時の感想を話してくれました。  ところで、幻となったハリウッド映画化計画とは別に、長崎市内でも昨年からグラバーの功績を顕彰する目的で、市民塾の活動の一環として、グラバーを大河ドラマの主人公にという動きがあります。しかしドラマ化を推進するには元になる原作が必要だろうという話になり、グラバーと同じスコットランド人の視点で描かれたものがないかと、市民塾の有志が情報を集めたそうです。そこで峰さんの留学情報から『The Pure Land』の存在を知り、アラン・スペンス氏に手紙を送り許可を得て(日本語訳の単行本化とは別に)、有志5人が約3ヵ月かけて『The Pure Land』を翻訳しました。翻訳作業には峰さんも参加しました。  この『The Pure Land』の翻訳作業中に、2010年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』が決まり、グラバーも重要人物として登場するという、活動の弾みとなるニュースが飛び込んできました。  峰さんの話によると、市民塾では現在もグラバーを主人公にしたドラマ化の実現に向けて、プロジェクトを推進しています。今回翻訳したものを何らかのかたちで活用して、日本でのドラマ化や映画化実現のきっかけになればと、その活動の輪を広げているそうです。 [文:小川内清孝/取材協力・資料提供:峰貴之さん] 参考文献 『明治建国の洋商 トーマス・B・グラバー始末』(内藤初穂著 アテネ書房) 『旅する長崎学8 近代ものがたりII』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学9 近代ものがたりIII』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • 転身し続けた異彩の人・福地桜痴(福地源一郎) 2014年03月28日
    転身し続けた異彩の人・福地桜痴(福地源一郎)
      福地桜痴(『還魂紙料』より) 福沢諭吉(著述家) 福地源一郎(新聞記者) 伊藤博文(政治家) 鳩山和夫(法律家) 渋沢栄一(商法家) 中村正直(学術家) 佐藤進(医師) 北畠道竜(教法家) 守住貴魚(画家) 榎本武揚(軍師) 1124票 1089票 927票 618票 596票 592票 565票 486票 459票 425票  1885年(明治18)、『今日新聞』(現『東京新聞』、元『都新聞』の前身)が、その時代、各界を代表する人物の指名投票をおこないました。結果「日本十傑」として、上記の人々が選出されます。もっとも票を獲得したのが福沢諭吉。ついで福地源一郎(ふくちげんいちろう/福地桜痴・ふくちおうちとも呼ぶ)、諭吉と並んで「天下の双福」と称された人物です。  幕末から明治、日本が大きく姿をかえた時代に異彩を放ち、新聞人、経済人、事業家、戯作者、小説家、政治家と多方面で活躍した福地桜痴は、長崎に生まれました。 新聞との出合い  桜痴は1841年(天保12)、長崎の新石灰町(しんしっくいまち)[長崎市油屋町]で医師の父 苟庵(こうあん)、母 松子の間に初めての男子として誕生。幼名を八十吉といい、小さいころから優秀で神童と呼ばれていました。15歳のときにオランダ通詞・名村八右衛門(なむらはちえもん)のもとで蘭学を学びます。名村は出島オランダ商館長が、幕府へ世界情勢を報告する「風説書(ふうせつがき)」の口授翻訳をする際に、桜痴を筆記者にしていました。桜痴は、いつも出島にいるカピタンがどうして海外情報を知っているのか疑問に思い、名村にたずねると、「西洋には新聞という印刷物があって毎日刊行されている。それは国内外の時事を知らせるものでカピタンはそれを読んで重要な事柄を奉行所に伝えるのだ」と、古いオランダの新聞を手渡しました。桜痴が初めて手にした新聞はアムステルダムで発行されたものでした。  1858年(安政5)、18歳の桜痴は長崎を出て江戸へ。父 苟庵の旧知で英学者の森山栄之助(もりやまえいのすけ)からイギリス学を学びます。当時、江戸で英書を読むことができたのは、森山と中浜万次郎(ジョン万次郎)の二人だけだったといわれています。その森山の世話で桜痴は幕府につかえることになりました。 ヨーロッパで思想と文化にふれる  1861年(文久元)、桜痴にヨーロッパへ使節派遣のチャンスが訪れます。出航する船には、福沢諭吉の姿もありました。  ロンドンで桜痴は新聞社を訪ね、記者が政府や議会に対して意見を述べているのを目の当たりにし、いずれ自分も新聞記者になって時事を痛快に論じたいと思うようになります。また、フランスでは歌劇や演劇の見物に出かけていますが、台詞や話の筋がまったくわからない桜痴ら使節の一行は居眠りに終始し、会場の嘲笑をかいます。あらかじめ話の筋を理解していれば退屈しないだろうと考えた桜痴は、英語とオランダ語のできる接待係に筋を聞き、それを使節にも伝え観劇。次第に演劇に興味を覚え、シェイクスピアなどの戯曲を学びはじめます。これが後の演劇人 福地桜痴としての下地をつくっていくことになるのです。 さまざま人との出会い  江戸城引き渡しがあった1868年(明治元)4月、桜痴は『江湖新聞(こうこしんぶん)』を発行。「政権はただ幕府から薩長(薩摩藩と長州藩)に移動したにすぎない。これで維新の目的は果たされたといえるのか」と述べ、新政府側の怒りを買います。新聞は発禁処分となり、桜痴は逮捕。幸い木戸孝允(きどたかよし)がとり成したため、無罪放免となりましたが、これは明治時代初めての言論弾圧といわれています。この年、桜痴は幕府を辞して翻訳や執筆などで生計をたてるようになり、翌年には日新舍という英語、フランス語を主とした洋学校を開校。当時、福沢諭吉の慶応義塾、中村敬宇の同人社とならんで東京の三大学塾と称されました。日新舍の学生には、のちに東洋のルソーと呼ばれ自由民権思想と運動に大きな影響を与えた中江兆民もいました。桜痴は中江を教頭にして日新舍を任せ、吉原通いに耽るようになり、そのうち中江も遊興し、日新舍はめちゃくちゃになっていきます。桜痴という号は、吉原でひいきにしていた妓女の櫻路(さくらじ)にちなんでつけたというほど。桜痴の吉原好きは有名で、さと夫人との結婚当夜も吉原に出かけ帰らなかったというエピソードもあります。  また、吉原では、渋沢栄一(しぶさわえいいち)との出会いもありました。1870年(明治3)、渋沢の紹介で、伊藤博文と会った桜痴は意気投合。大蔵省御雇となり、伊藤にしたがって渡米、銀行や会社、国家会計、金融などの調査をしました。ちなみに、society=社会、bank=銀行の翻訳語をはじめて使用したのは桜痴といわれています。  帰国後、大蔵省一等書記官となり、今度は岩倉具視にしたがってアメリカとヨーロッパへ渡ります。 記者としての面目躍如 福地桜痴(国立国会図書館蔵)  そのころ国内では、征韓論で政府が分裂、その後、渋沢栄一が大蔵省を去り、桜痴も政治家としての道をあきらめ大蔵省一等書記官を辞職、主筆として『東京日日新聞』にはいります。桜痴が34歳のときでした。  当時、日本の新聞記者の社会的立場は低く、大蔵省の役人から新聞記者への転職に、周りは反対。桜痴は「おれが新聞記者になったからには、それだけのことはしてみせる」と啖呵をきったといいます。  そのころ政府には官報がなく、桜痴は『東京日日新聞』を政府の機関紙にと願っていたようで、大蔵省時代の人脈で、伊藤博文や大隈重信に直接意見を聞き記事にし、その一方、自らの筆で社説を書き、それを新聞の目玉にしていました。社説を設けるという事は新聞がひとつの主張をもって世に訴えるという、新聞近代化の第一歩でもありました。『東京日日新聞』は好評で発行部数は上昇。1876年(明治9)、桜痴は『東京日日新聞』の社長に就任します。他方、演劇への興味が強くなり研究をはじめた時期でもありました。  1877年(明治10)、西南の役がはじまり、桜痴は戦地で取材し新聞に掲載します。連日の現地報道に『東京日日新聞』の売り上げはさらに急上昇。桜痴は京都御所で明治天皇に戦況を言上することになります。2時間にもおよぶ報告を行い、金五十円と縮緬二反を下賜し、慰労の酒肴を頂戴しました。酒の飲めない桜痴でしたが、このときばかりは、酒を飲み、のちに「酒を口にしたのは、後にも先にもそのときだけだった」とよく語ったといいます。 桜痴、動く!働く!書く!  十郎が死去したのを機に歌舞伎座の作者をやめ、こんどは活動の場を政治にもとめます。日露戦争が開戦した1904年(明治37)、桜痴は64歳で衆議院議員に当選。しかし、まもなく病の床につき、1906年(明治39)1月4日、66歳で亡くなりました。  明治時代、官と民の間をいったりきたりしながら、西洋の文化を巧みに取り込み、政治、経済、文化、メディアなど多方面で近代化に影響を与えたのが福地桜痴でした。  さて、エジソンの発明から間もない蓄音機に、はじめて肉声を吹き込んだ日本人が『東京日日新聞』社長時代の桜痴です。第一声は「こんな時代になると、新聞は困るぞ」。 いま、桜痴が生きていたらネット情報社会にある新聞をどのように表現するのでしょうか? [文:高浪利子] 参考文献 『明治の異才 福地桜痴〜忘れられた大記者』小山文雄(中公新書) 『ヴィネット00 櫻痴、メディア勃興の記録者』片塩二朗(朗文社) 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(長崎文献社)
  • 出島のテーブルと通詞たちのコーヒーブレイク 2014年03月28日
    出島のテーブルと通詞たちのコーヒーブレイク
    出島のテーブルと通詞たちのコーヒーブレイク 《おなかがすいていますので、パンを一切れ下さるようお願いします。 いとも尊敬せる ブロムホフ様   貴下の下僕 吉雄権之助》 (片桐一男『平成蘭学事始 江戸・長崎の日蘭交流史話』より) 「銅掛改請取の図・部分」 (『旅する長崎学7』より) 「銅掛改請取の図・部分」 (『旅する長崎学7』より) このように立派なオランダ語の書き付けで、パンを出島のカピタン(商館長)に無心したのはオランダ通詞の吉雄権之助(よしおごんのすけ)です。そのほかコーヒーに入れる砂糖やワインをねだる通詞もいました。オランダ通詞は、出島でオランダ語の通訳、貿易、外交、交渉の実務にあたり、長崎奉行の組織に属する地役人のことをいいます。 それにしても江戸時代にパンやコーヒー、ワインでひと休み? 出島の食卓には、いったいどんな料理が並んでいたのでしょう?また、それを見て、食した日本人の反応はどのようなものだったのでしょうか? 食材は海をわたって運ばれてきた 「蘭館図 漢洋長崎居留図巻・部分」 (長崎歴史文化博物館蔵)  江戸時代、唯一西洋人が住んだ場所が長崎の出島です。幕府が政情の安定をはかるため鎖国政策を強化し、長崎市中のポルトガル人を収容するため、1636年に作った人工島です。島原の乱後、ポルトガル人は国外退去となり、出島は空き家となります。幕府の命によって、平戸からオランダ商館が移ってきたのが1641年、その後1859年の開国まで約220年間、オランダ人たちは出島で暮らすことになります。その間、660隻ほどのオランダ船が入港したといわれています。船は貿易品のほか、出島の住人たちの食糧も積んでいました。 バター、チーズ、砂糖、胡椒などさまざまな香辛料、ジャム、ピクルス、ワインビネガー、塩漬けの肉、ハム、ジン、ブランデー、ぶどう酒などが一年分運ばれてきたといいます。また、出島内には菜園があり、セロリ、パセリ、玉ねぎ、じゃがいも、トマト、サラダ菜、ほうれん草などの西洋野菜が栽培されていました。牛や山羊からミルクを搾り、豚からはハムやベーコンが作られていたそうです。これらの食材から、江戸時代でもオランダ人の口にあった料理が作られていたことがわかります。 お世話になっている日本人のために豪華なフルコース 「宴会図 川原慶賀筆蘭館絵巻」 (長崎歴史文化博物館蔵)  日本人を交えて、出島での食卓が賑わったのは太陽暦の1月1日、オランダ正月です。出入りの地役人や商人、使用人らが礼服に身をつつみ年頭のあいさつに訪れ、正午にはカピタン主催のパーティに奉行所役人、オランダ通詞、出島乙名らが招かれて西洋料理が振る舞われました。 『長崎名勝図絵』にはオランダ正月の献立が詳しく記されています。テーブルには、各々白いナプキンとナイフ、フォーク、スプーンがセットされていました。並んだ料理はつぎの通り。 大蓋物 味噌汁 鶏肉かまぼこ 玉子、椎茸 大鉢 潮煮 鯛魚(たい) あら 比目魚(ひらめ) 鉢 牛股(もも)油揚 鉢 牛脇腹(わきばら)油揚 鉢 豚油揚 鉢 焼豚 鉢 野猪股(ししのもも)油揚 蓋物 味噌汁 牛 蓋物 味噌汁 鼈(すっぽん)木耳(きくらげ) 青ねぎ 鉢 野鴨全焼(かものまるやき) 鉢 豚の肝を研りて帯腸に詰める 鉢 牛豚すり合わせ帯腸に詰める 鉢 ボートル煮 阿蘭陀菜 鉢 ボートル煮 にんじん 鉢 ボートル煮 蕪根(かぶら) 鉢 豚臘干(らかん) 鉢 鮭臘干(らかん) 菓子 紙焼カステイラ タルタ カネールクウク 丸焼カステイラ  新年を祝う豪華なフルコース。ボートルはバター、豚臘干はハム、鮭臘干はスモークサーモン、カーネルクウクはシナモンクッキーのことをいいます。味噌汁はスープのことを日本風に記したのでしょう。 西洋のご馳走を前にした日本人、出席した誰もがスープは飲むのですが、他の料理は少し口をつけただけ。にもかかわらず、お皿は空です。出された料理は、ひとつの皿にまとめたり紙に包んだりして、家族らへお土産に持ち帰っていたのです。オランダ人たちも、その辺りは心得ていて、その後、日本料理も用意されたといいます。丸山の遊女たちもよばれ、宴は明け方まで続きました。 江戸でもオランダ正月を祝う  出島でのオランダ正月をまねて自宅で催した通詞が吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)です。西洋の調度品でととのえられた2階座敷はオランダ座敷とよばれ、全国から訪れる遊学者のあこがれの部屋でもありました。大槻玄沢(おおつきげんたく)も耕牛宅でオランダ正月を体験、江戸で開いた蘭学塾『芝蘭堂』で、蘭学者を招いてオランダ正月の宴を再現しました。これが江戸における西洋料理のさきがけといわれています。 洋画家・司馬江漢(しばこうかん)も耕牛宅を訪ね、山羊の肉などを食べたと記しています。また、そこで出会った小さな男の子のことも書きとめていました。「吉雄耕牛をおぢ様という4歳くらいの子どもがいて、オランダ語をよく覚えている。牛肉をクウベイスといい、馬をバールドという。さつまいもをやればレッケルレッケルといって食べている。レッケルとはおいしいという意味。」実は、この子がのちの吉雄権之助。冒頭で紹介した、カピタンにパンをねだったあのオランダ通詞です。通詞の名門である吉雄家に生まれ、シーボルトに学問ある通詞とよばれました。オランダ語、フランス語、中国語などをあやつり、西洋文化や医学に優れた人物で、オランダ語をよく理解できない日本の若い医者とシーボルトの間で通訳をし、教師となって導きました。 権之助が食べたパンは、日本人が焼いたものでした。パンを製造していた場所は樺島町。パンと葡萄酒はキリスト教布教に関係するものとして、幕府は日本人がパンを食べることを禁止していたため、納入先は出島に限られていました。それでも、年に二百両の売上があったというから驚きです。パン屋は世襲制で一軒だけが製造を認められていました。オランダ船が出港する秋は、船中での保存食のパンを焼くため、とくに忙しかったといいます。パン種は甘酒を利用してつくられていたようです。 よみがえる出島 カピタン部屋  さて、現在の出島(国指定史跡「出島和蘭商館跡」)は、つぎつぎと建物が復元されています。西洋からの輸入品が最初に荷揚げされた象徴的な建物の水門や輸入品が収められていた蔵、オランダ船の船長や商館員の住居だった一番船船頭部屋など、19世紀初頭の出島の雰囲気を味わうことができます。 料理部屋  また、平成18年に復元されたカピタン部屋は事務所や住居として使用されていた建物で、接待の場としても使われていました。その一室にはオランダ冬至とよんで祝ったクリスマスの豪華なテーブルが再現されています。オランダ正月にも登場した豚臘干(らかん)などの肉料理、ボートル煮、焼き菓子などを見ることができます。また、カピタン部屋のすぐ裏手に日本人を含む料理人が腕をふるった料理部屋も復元されています。出島の住人たちのため1日2回の食事を作っていた場所です。 「調理室 川原慶賀筆蘭館絵巻」 (長崎歴史文化博物館蔵)  島外にでることを禁止されていたオランダ人にとって食事の時間は何よりも楽しみだったことでしょう。また、空腹を覚えた通詞たちも異国の味でちょっとひと息。江戸時代、出島は、肉を焼く匂いや、スープの湯気が立ち上り、コーヒーの香りただよう島でもありました。 [文:高浪利子] 参考文献 『長崎出島の食文化』(財団法人 親和銀行ふるさと振興基金) 越中哲也『長崎の西洋料理 ー洋食のあけぼのー』(第一法規) 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 片桐一男『平成蘭学事始 江戸・長崎の日蘭交流史話』(智書房) 杉本つとむ『江戸長崎紅毛遊学』(ひつじ書房)
  • 「坂本龍馬」と「近藤勇」のSP盤レコードを聴く 2014年03月28日
    「坂本龍馬」と「近藤勇」のSP盤レコードを聴く
    「坂本龍馬」と「近藤勇」のSP盤レコードを聴く  幕末の志士で明治維新の礎(いしずえ)を築いたといわれる坂本龍馬。今でも国民的人気を誇る龍馬は、長崎を何度か訪れたことがあります。土佐、江戸、京と並んで長崎も龍馬が足跡を残した重要な地だったのです。そこで、長崎県内で何か龍馬に関する"モノ"がないかと探していましたら、南島原市有家町山川の酒蔵「吉田屋」さんに、龍馬を題材にした珍しいSP盤レコードが残っていると聞いて、さっそく取材をさせていただくことにしました。  南島原市は長崎県南部、島原半島の南東部に位置し、雄大な山々と美しい海をもった地域で、日本のキリシタン史的にも重要なエリアです。1580年(天正8)にキリシタン大名・有馬晴信のもと、ヨーロッパの中等教育機関「セミナリヨ」が設置されたところ〔北有馬町〕や、1637年(寛永14)の「島原の乱」の舞台となった原城跡(国指定史跡)〔南有馬町〕などがあり、その光と影の歴史を今に伝えています。 どこか懐かしい町並みと撥ね木搾りの老舗酒蔵・吉田屋  今回訪れた有家町には古い家屋や町並みが今もなお残っていました。酒造会社や醤油店、素麺(そうめん)店などの製造業が多いのが有家町の特徴です。現在これらの店鋪を活用した「蔵めぐり」や「酒蔵コンサート」などのまちおこし事業が盛んに行われているそうです。  吉田屋は1917年(大正6)創業の老舗で、撥ね木搾り(はねぎしぼり)という技術をもちいた伝統の酒造りを行っている酒蔵です。吉田屋によると撥ね木搾りという技法は「テコの原理を応用した圧搾による酒搾りの方法で、巨大な一本の木(約8メートル)を天井からつるし、その重みとテコの原理によって微妙な圧力をかけて丁寧に搾り上げる」というもの。その製法は「まず酒袋にもろみ(発酵したお酒のもと)をつめて、槽(ふね)と呼ばれる大きな枠の中に敷き並べる。その上から蓋(ふた)をし、巨木(撥ね木)を使って圧力を掛けて搾り出す」ということでした。 筑前琵琶 坂本龍馬」と「近藤勇」のSPレコード盤の内容とは?  吉田屋の店鋪は木造で、昔ながらの懐かしい雰囲気が漂っていました。希望者には酒蔵見学も実施してくれるそうです。その吉田屋の喫茶室(座敷)に古い蓄音機とSP盤レコードが保存されていました。龍馬にまつわるレコードは、ニッポノホンの「筑前琵琶 坂本龍馬(五絃)高野旭嵐(たかのきょくらん)」とニットーレコードの「近藤勇 石橋恒男 オーケストラ伴奏」の2枚です。さっそく吉田屋所有の蓄音機でレコードを回してもらい聴かせていただくことにしました。  まずは「筑前琵琶 坂本龍馬」。その内容は、坂本龍馬の宿(近江屋)に土佐陸援隊隊長・中岡慎太郎が訪ねたところを、新撰組局長・近藤勇らが急襲し、暗殺するという龍馬最後の場面でした。龍馬暗殺の実行犯には新撰組や京都見廻組など諸説ありますが、このレコードでは、新撰組が龍馬暗殺の真犯人として描かれていました。  筑前琵琶は明治時代に博多生れの橘旭翁(たちばなきょくおう)が創始し、絃を四絃から五絃に改良し、歌を分かりやすい七五調にして全国的なブームを起こし、日本の代表的な音曲として戦前まで親しまれていたそうです。筑前琵琶奏者の高野旭嵐は、筑前琵琶をレコードに録音し、全国に普及させた人物と言われています。  もう1枚は「近藤勇」という音楽入り講談風のレコード。その内容は、左文字という刀屋が近藤勇に頼まれて「虎徹(こてつ)」という名刀を探していました。しかし2ヵ月経っても見つけることができません。左文字は気がとがめつつも虎徹ではなく無名の刀を近藤に差し出してしまいます。ほぼ同じ時刻、新撰組は清水二年坂で坂本龍馬と同士らを襲っていました。近藤は「虎徹の切れ味を試そう」と二年坂に向かって駆け出します。近藤が二年坂に到着した時には、残念ながら龍馬は逃れた後でしたが、残っていた土佐藩士を相手に近藤ひとりで切り合いをします。次々に相手を倒す近藤は「虎徹はよく切れるのう」と刀が気に入った様子。心配のあまり現場に駆けつけた左文字。近藤さんは「刀で切らず腕で切る」ので、虎徹でも無名の刀であっても関係がないのだと安堵するのでした。そして近藤は「勇はこの無名の刀気が気に入ったぞ」と最後に一言つぶやく、という物語でした。 2枚のレコードを聴き比べ。興味深い点を発見!?  1932年(昭和7)頃から戦前にかけて発売されたこれらのレコード。内容は史実と異なり講談調のフィクションなのですが、この時代の一般人が抱いていた坂本龍馬や近藤勇の人物像が垣間見えてくるようです。2枚のレコードを聴き比べていくうちにいくつか興味深い点も発見しました。  例えば2枚のレコードとも近藤勇の読みが <こんどういさみ> ではなく <こんどういさむ> となっているところ。坂本龍馬は <さかもとりゅうま> <さかもとりょうま> の2つの読みにそれぞれ分かれていました。時代とともに名前の読み方が変わっていくということでしょうか。もっとも最近では <こんどういさみ> と <さかもとりょうま> に統一して読まれているようです。  もうひとつの興味深い点は、「近藤勇」のレコードの中では坂本龍馬と近藤勇が敵対関係にありながらも、その度量や剣術の技量を互いに認め合い、一目置く存在という内容になっていることです。当時は維新回天のドラマというよりも、カリスマ性のあるライバル剣豪のチャンバラドラマに比重を置いて描かれていたようですね。  さて、2010年のNHK大河ドラマが『龍馬伝』に決まり、すでに長崎でも盛り上がりが見られます。幕末の長崎を舞台にどういう歴史上の人物たちが登場し、どういった活躍を見せてくれるのか、今から楽しみです。 [文:小川内清孝 / 取材協力:吉田屋] 参考資料 ニッポノホン「筑前琵琶 坂本龍馬(五絃)高野旭嵐」 ニットーレコード「近藤勇 石橋恒男 オーケストラ伴奏」 参考文献 『旅する長崎学7 近代ものがたりI』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『現代視点 戦国・幕末の群像 坂本龍馬』(旺文社)
  • わが国も西洋式の砲術を! 2014年03月28日
    わが国も西洋式の砲術を!
    〜日本近代砲術の祖・高島秋帆〜 高島秋帆(長崎歴史文化博物館蔵)  JR新宿駅から山手線で巣鴨駅まで約13分、都営三田線に乗り換え19分で高島平駅に到着。ここは東京都板橋区高島平、団地が建ち並ぶベッドタウンです。いまから約160年前は砲術場で徳丸原とよばれていました。この場所で大規模な西洋式砲術演習を行い、天下にその名をとどろかせたのが高島秋帆(たかしま しゅうはん)です。現在の長崎市万才町で生まれ育った生粋の長崎人。高島平は高島秋帆にちなんで名づけられました。  長崎から東京まで約1,300キロ、遠く離れたこの地に名を残した高島秋帆とはいったいどのような人物だったのでしょう? 西洋砲術との出会い  高島家は代々町年寄を世襲する名家で秋帆はその11代目にあたります。今からちょうど200年前の1808年、フェートン号事件が起こり長崎港防衛強化の気運が高まっていくなか、出島の台場を任されたのが10代目町年寄の高島四郎兵衛(しろうべえ)、秋帆の父でした。1809年、四郎兵衛は幕府から派遣された坂本孫之進に荻野流砲術を学び師範となります。秋帆は父から皆伝を受け荻野流師範となり、1814年からは町年寄見習となって出島台場を受け持つようになります。  荻野流をはじめとした和流砲術は軽砲に限られていました。フェートン号のような武装艦に対してはまったく役にたたず、高島親子は威力のある西洋砲術に注目するようになります。出島台場の担当にあった秋帆は、実戦経験のあるオランダ人から直接話を聞くことができる環境にありました。1823年に来日した出島商館長スチュルレルなどは陸軍大佐でナポレオン戦争にも従軍した人物です。  町年寄には個人的に好みの品物を注文できる「脇荷貿易」という特権がありました。秋帆は父や実兄で町年寄の久松家へ養子に入っていた碩次郎らの協力を得て、それぞれの名義で砲術関係はもちろんのこと、馬術や自然科学、医学書にいたるまであらゆるジャンルの蘭書を蒐集していました。その数は当時、個人としては国内最大のものだったといわれています。また、秋帆は文献だけでなく、大砲、弾丸、銃など武器そのものも大量に輸入していました。貪欲に西洋砲術を学んだ秋帆は高島流砲術を確立していきます。 天保上書と徳丸原演習 わが国も西洋式砲術を! 徳丸原演習(長崎歴史文化博物館蔵  1840年アヘン戦争が勃発。その内容は翌年の風説書で幕府に報告されました。イギリスの軍艦、砲術に圧倒され敗北した清と日本を重ね合わせ危機感を募らせた秋帆は、「わが国の砲術は、西洋では数百年前に廃棄したものであり、今後予想される外国からの侵略を防ぐには、こちらも外国砲術を把握していなければならない」とする『天保上書』を書き上げ、長崎奉行の田口加賀守(たぐち かがのかみ)を通じて幕府に提出します。上書は老中水野忠邦(みずの ただくに)の目にとまり、1841年5月9日、徳丸原で演習がおこなわれることになりました。幕舎が張られ、老中水野や諸大名らがこの演習を見学。遠く囲いの外からは一般の群衆の見物も許され、この中には若き日の勝海舟も姿もありました。演習参加の総員は秋帆ら100人。モルチール砲、ホウィッスル砲とつぎつぎに西洋の大砲が発射されました。演習は一発の不発弾もなく成功に終わります。幕府は秋帆の所有する大砲を買い上げ、また演習の労を賞して銀500枚を与えました。その後、高島流砲術は全国にひろまっていきます。高島親子のはじめた取り組みが日本の兵制に改革をもたらすことになったのです。  しかし、一方で高島流に批判的な者もいました。妖怪と恐れられた鳥居耀蔵(とりい ようぞう)をはじめとする反蘭学派です。  鳥居は儒学で有名な林家の出身で蘭学を「夷狄の邪説」(いてきのじゃせつ)と嫌っていました。また遠山の金さんとして知られる北町奉行の遠山景元と南町奉行の鳥居はライバル関係にあったことでも知られています。 徳丸原からわずか一年あまりで秋帆逮捕  1842年、長崎奉行伊沢美作守(いざわ みまさかのかみ)は秋帆ら多くの関係者を逮捕します。罪状は「謀反の疑いあり」。これは鳥居が秋帆を陥れるために偽装した罪で、その黒幕は老中水野忠邦であったともいわれています。翌1843年、秋帆は江戸伝馬町へ護送され投獄されます。  1845年、水野が失脚し阿部正弘(あべ まさひろ)が老中の実権を握ると、秋帆事件の再調査がおこなわれました。鳥居は不正が発覚し、奉行を解任となり丸亀藩(現香川県)お預けとなります。秋帆は、謀反の罪からは解放されたものの、他のいくつかの軽罪に問われ中追放となり岡部藩(現埼玉県)に預けられることになりました。  じつは秋帆に言い渡された中追放は遠島から減刑されたものでした。入牢中に起こった三度の火災で逃亡せず、そのたびに牢屋敷へもどってきたことが減刑の理由でした。 嘉永上書の中身は開国すべし!  開国をせまる外国船がたびたびわが国の近海に出没するようになると、幕府は海岸防衛のための砲台建設を迫られます。ここにきて秋帆の砲術の知識を役立てようと考えた老中阿部は、江川太郎左衛門が引き取るという形で秋帆を釈放。長崎で逮捕されてからじつに10年10カ月もの年月が過ぎていました。  1853年、自由の身になった秋帆は人生の復活を喜び、喜平(きへい)と名を改めます。  アメリカのペリー来航を翌年にひかえ、幕府は諸藩に意見をもとめます。そのほとんどが開国反対の攘夷論。この状況下、秋帆は「平和開国通商を」と『嘉永上書』を幕府に提出しました。幕府が出した答えは開国。この判断に『嘉永上書』の効力があったのかどうかの歴史的資料はありません。しかし多くの歴史家はなんらかの影響を及ぼしたであろうと推測しています。  幕府は開国を決定後、本格的な西洋式の軍隊をつくることになります。秋帆は講武所砲術師範役、武具奉行格につき幕府のために働きます。  妻子を江戸に呼びよせた秋帆の暮らしは長屋住まいという質素なもので、かつて10万石の大名にも匹敵するといわれた町年寄の身分にもどることはありませんでした。  晩年、秋帆は孫の茂巽、妻の香、息子の浅五郎に相次いで先立たれ、1866年の正月69才で亡くなりました。 雨の日のせせらぎの音から名づけられた「雨声楼」 高島秋帆宅跡  秋帆の別宅跡が長崎市東小島町にあります。万才町にあった本宅が1838年に大火焼失後、秋帆の本拠となった場所です。徳丸原での砲術演習から逮捕されるまで急激に変化したときを秋帆はこの地で過ごしました。 雨声楼(長崎歴史文化博物館蔵)  別宅は庭園にたつ松の老木から齢松軒(れいしょうけん)とよばれていたといいます。客室の桜の間には一面に桜花を描き金粉が施され、二階の客間からは清水寺や愛宕山を望むことができました。雨の日には小島川のせせらぎがきこえたことから別名、雨声楼(うせいろう)ともよばれています。 砲痕石  1945年、雨声楼は原爆で大破し姿を消しましたが、跡地には大砲の標的として利用され着弾の跡がみられる砲痕石が残っています。 [文:高浪利子] 参考文献 石山滋夫『評伝高島秋帆』(葦書房) 板橋区立郷土資料館『高島秋帆 西洋砲術家の生涯と徳丸原』 長崎文献社『長崎游学3 長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う』
  • 拝啓、彦馬先生。ピンホールカメラ撮影に挑戦します! 2014年03月28日
    拝啓、彦馬先生。ピンホールカメラ撮影に挑戦します!
    〜上野彦馬の偉業に思いを馳せる〜  時は明治、大正、昭和と流れて平成の世の中になりました。今や写真技術は飛躍的な進歩を遂げ、街にはレンズ付フィルム(通称使い捨てカメラ)からフィルム不要の高画質デジタルカメラ、カメラ付き携帯電話まで溢れ、誰でも手軽にプロ顔まけの写真撮影が楽しめる時代です。  そこで、今回は上野彦馬や先達たちに敬意を表し、少しでも当時の苦労を味わおうと、カメラの原型ともいえるピンホールカメラの撮影の挑戦してみることにしました。 ピンホールカメラって何?  ピンホールカメラとは、レンズの代わりにピンホール(針穴)を開けた板を取り付ける単純な構造の原始的なカメラで、淡く優しい写真が撮れるのが特徴です。暗箱と針の穴ほどのピンホールとフィルム(または印画紙などの感光材料)だけの簡単な装置で撮影します。今回の撮影に使用したのは、市販されている厚紙製のピンホールカメラ組み立てキット(千円前後で入手できます)。組み立てには丁寧に丸一日かけて取り組みました。とくにピンホールに指紋や傷をつけてはいけないので、慎重に設置しました。  撮影時の注意点は、露光(撮影)のためにシャッターを上下する際にカメラ本体がぶれないようにすることで、何かに固定して撮らなくてはなりません。これは現代のカメラに比べてもずいぶんと不便です。カメラ撮影でこんなに緊張したのは、子どもの頃初めて親のカメラを使った時と、仕事として初めて撮影に臨んだ時以来のことでした。しかし、このわくわくドキドキ感がピンホールカメラの魅力のひとつともいえます。 いよいよ撮影開始!  まず撮影に選んだ場所は、長崎市の出島和蘭商館跡に建つ長崎内外倶楽部の建物。撮影日の6月17日は梅雨入り後のどんよりとした曇り空。カメラを鉄製の台上に固定して3枚撮影してみました。次に徒歩で眼鏡橋へ移動。中島川に架かる魚市橋中央の石の欄干にカメラを固定して5枚撮影しました。正直、フィルムの現像が仕上がるまでは、こんな簡単な原理でカラー写真が映るものかと半信半疑でしたが、全部で8枚撮影したうち長崎内外倶楽部の建物が2枚、眼鏡橋も2枚なんとか撮影できており、成功確率は50%という結果でした。不馴れなピンホールカメラのためピントはゆるめですが、全体が柔らかく絵画的な雰囲気に撮れていました。残り4枚の失敗の原因は、やはりピントが合っていなかったか、固定が甘くて全体がぶれているかでした。  撮影2日目は曇り時々晴れの天候でした。最初に1日目と同じく中島川に向かい、川沿いに建つ上野彦馬生誕地碑の上野彦馬と坂本龍馬の像を撮影してみました。続いて長崎歴史文化博物館に隣接する長崎県立長崎図書館の入口近くに建つ上野彦馬の胸像を撮影しました。ただ、2カ所とも近くに固定できる台がなく、三脚の上にカメラを乗せた状態で撮ったのですが、やはりぶれてしまって撮影した9枚全部のピントがかなり甘くなってしまいました。この日は、ピンホールカメラで撮影したのと同じ場所をデジタルカメラでも撮ってきましたので、実際にその違いを比べていただければと思います。  以上、わずか2日間のピンホールカメラ撮影は失敗の連続でしたが、彦馬先生の苦労がほんの少しだけでも理解できたような気がします。それにしても、後世に残る彦馬撮影の写真は、ピントがきちんと合い、しかも鮮明で構図もよく考えられていますよね。今回の体験をとおして、本当にこれは尊敬に値すると思いました。みなさんも長崎を訪れる際には、上野彦馬の偉業に思いを馳せて、風景や名所旧跡をピンホールカメラで切り取ってみてはいかがでしょうか。私ももう少し腕を磨いて、長崎県内の魅力的な風景写真にどんどん挑戦してみたいと思います。 日本写真界の開祖・上野彦馬の足跡  1838年(天保9)に長崎で生まれた上野彦馬は、1862年(文久2)、長崎で「上野撮影局」という写真館を開業し、横浜の下岡蓮杖と並び日本写真界の開祖のひとりといわれています。彦馬と写真の出会いは、長崎の医学伝習所でオランダ海軍軍医ポンペから舎密学(せいみがく=化学)を学ぶうちに写真術に興味を抱いたことがきっかけでした。以後、彦馬は写真術の研究や写真機の製作に没頭しますが、幕末の日本国内には感光材に使用する薬品などがなく、薬品の精製には人一倍苦労したといわれています。また、当時写真を撮られると「魂を抜かれる」という迷信も根強くあり、世間の無理解と誹謗中傷にさらされることも少なくありませんでした。  彦馬が主に取り組んだ撮影技術は、一枚しかプリントできない銀板写真ではなく、複数枚プリントが可能な湿板写真でした。銀板写真は銀メッキをした銅板などを感光材料として使用するダゲレオタイプとよばれる写真技法。湿板写真とはガラス板にコロジオンという液を塗り、湿った状態で撮影・現像をする方法です。湿板写真では、ダゲレオタイプカメラの数分程度と比較して露光時間が秒単位と短くなり、当時としては画期的な撮影方法でした。ただ、その場で現像しなければならず、スタジオ以外の撮影には不便な点もあったようです。  幾多の苦難を乗り越えて中島川畔に写真館を開いた彦馬は、坂本龍馬、後藤象二郎、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、ニコライ二世、トマース・B・グラバーといった明治維新前後に活躍した歴史上の人物を次々に写真におさめています。1874年(明治7)には長崎の大平山(現在の星取山)で行われたアメリカ隊の金星観測に助手として参加し、1877年(明治10)には西南戦争の戦跡の撮影を行うなど、カメラマンとしての実績を積んでいきました。  彦馬が撮影した数々の写真は、幕末・明治の日本を今に伝え、当時の自然、風景、風俗、歴史上の人物を知るうえで貴重な資料となっています。また、写真術に用いた薬品精製の知識は、のちに『舎密局必携(せいみきょくひっけい)』(全編三巻)という化学の本として結実し、明治中頃まで化学の教科書として使用されました。彦馬は1890年(明治23)にはウラジオストック、上海、香港に海外支店を開設し、その活動を広げていったのです。 [文:小川内清孝] 参考文献 『旅する長崎学7 近代ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学9 近代ものがたり3』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『評伝上野彦馬 ー日本最初のプロカメラマンー』(八幡政男著 武蔵野書房) 『写真の開祖 上野彦馬ー写真に見る幕末・明治ー』(産業能率短期大学出版部) 『よみがえる幕末・明治 時代の風物詩』(JCIIフォトサロン)
  • カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力(後編) 2014年03月28日
    カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力(後編)
    〜『長崎海軍伝習所の日々』より〜(後編)  リッダー・ハイセン・フォン・カッテンディーケは、江戸幕府が創設した長崎海軍伝習所の第2次オランダ教師団の司令官として、1857年(安政4)に軍艦ヤーパン号(のちの咸臨丸)で来日し、伝習生に実践航海術の指導訓練をした人物です。第1次伝習生だった勝海舟や榎本武揚は、この第2次伝習で助手的役割を務めています。そのカッテンディーケが著わした回顧録『長崎海軍伝習所の日々』には、外国人の視点から幕末の長崎の風景が詳細に描かれ、興味深い記述が多く見られます。 オランダ人エル某の墓碑に供えられた花  リッダー・ハイセン・フォン・カッテンディーケが著わした回顧録『長崎海軍伝習所の日々』には、長崎の自然や風景のほかに、特徴的な風俗や行事についても紹介されています。  ある日、カッテンディーケは稲佐悟真寺にある国際墓地に出かけ、数年前に出島で亡くなったオランダ人エル某の墓碑に供えられている新鮮な花を発見しました。関係者に尋ねると、故人は遊女を身受けし家政婦として同居していたとのこと。しかし、幸福な時間は長く続かず、彼は重病にかかり、彼女の献身的な看護も実らず亡くなってしまったそうで、その彼女が年2回の彼岸の日に墓参りをして、花を供えているというのです。  稲佐悟真寺は1598年(慶長3)創建の長崎最古の寺院で、16世紀末に来航した中国人が檀家となり中国人墓地を開設しました。その後江戸幕府の鎖国政策により、悟真寺の墓地の一画に出島に住むオランダ人のための墓地が割り当てられました。さらに1858年(安政5)、ロシア戦艦の乗組員埋葬のためにロシア人墓地が建設され、開国により欧米人のための国際墓地が開設されました。国際墓地の管理は現在、稲佐悟真寺が行っています。  話を元に戻しましょう。エル某が亡くなったあとの彼女は、再び遊廓に戻りましたが、のちに僧侶の妻となります。今や仏教関係者となった彼女が、欠かさず異教徒の国際墓地に墓参りをするという事実も、長崎の特異な海外交流史のなせる宗教的寛容さかもしれません。カッテンディーケ自身も、部下の水兵を病で亡くし国際墓地に埋葬した際に、近所の寺(稲佐悟真寺と思われる)の僧侶からの「仏式の経を唱え線香をあげたい」という申し出を快く受けています。  ところで、カッテンディーケのいうエル某とは誰でしょうか? 頭文字が「L」のオランダ人男性のことですが、興味をそそられるまま個人的に少し調べてみれば、ヒントは『時の流れを超えて-長崎国際墓地に眠る人々-』(レイン・アーンズ+ブライアン・バークガフニ著)という長崎国際墓地の調査研究書にありました。同書掲載の国際墓地に埋葬された人物一覧から該当する人物をさがしていきますと、私個人の考えですが埋葬の時期、氏名、年齢から推測して、1852年(嘉永5)10月に亡くなり稲佐悟真寺のオランダ人墓地に埋葬された、F・C・ルーカスではないかと思われました。彼はロッテルダム出身で出島の「オランダ東インド会社」に勤務していましたが、24歳という若さで亡くなっています。  今から156年前のオランダ人男性と日本人遊女の儚(はかな)いロマンスとはどのようなものだったのでしょう。墓碑に供えられた美しい新鮮な花を見つけた日、カッテンディーケはいったいどのような想いに包まれたのか、想像をたくましくしてしまいます。  さて、カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力の数々、いかがでしたか? みなさんも当時の面影が残る長崎の景観や魅力をぜひ確かめにいらしてくださいね。心よりお待ちしています。 [文:小川内清孝] 参考文献 『長崎海軍伝習所の日々』カッテンディーケ著/ 水田信利訳(東洋文庫 発行/平凡社) 『時の流れを超えて-長崎国際墓地に眠る人々-』 レイン・アーンズ+ブライアン・バークガフニ著(発行/長崎文献社) 『長崎街道 肥前長崎路と浜道・多良海道』(発行/図書出版のぶ工房) 『旅する長崎学7 近代ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学9 近代ものがたり3』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力(前編) 2014年03月28日
    カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力(前編)
    〜『長崎海軍伝習所の日々』より〜(前編)  リッダー・ハイセン・フォン・カッテンディーケは、江戸幕府が創設した長崎海軍伝習所の第2次オランダ教師団の司令官として、1857年(安政4)に軍艦ヤーパン号(のちの咸臨丸)で来日し、伝習生に実践航海術の指導訓練をした人物です。第1次伝習生だった勝海舟や榎本武揚は、この第2次伝習で助手的役割を務めています。そのカッテンディーケが著わした回顧録『長崎海軍伝習所の日々』には、外国人の視点から幕末の長崎の風景が詳細に描かれ、興味深い記述が多く見られます。その中から長崎の印象についていくつか紹介してみましょう。 こんな美しい国で一生を終わりたい  カッテンディーケは、初めて長崎港に入港した印象について「絵を見るような光景が展開した」と記し、「伊王島あたりから、奥へ大きく盥(たらい)形をなし」と形容しながら、「周囲は急峻(きゅうしゅん)な山々に囲まれ、麓(ふもと)から頂上まで人家や寺院や砲台が並び、樹林や段々畑に囲まれていた」と表現しています。また、「実際長崎港に入港する際、眼前に展開する景色ほど美しいものは、またとこの世界にあるまいと断言しても、あながち過褒(かほう)ではあるまい」とも続けています。船上の長旅から開放された感慨もあると思いますが、長崎港の地形と美しい当時の景観が、脳裏に浮かび上がってくるような描写です。  現在の伊王島から望む長崎港も昔と変わらぬ美しい姿をしています。長崎港行のフェリーに乗船し女神大橋をくぐると、眼前にすり鉢状に広がる長崎の地形が展開されますが、刻々と変化する光景はまるで動く絵画を鑑賞しているような、そんな気分になってしまいます。  カッテンディーケが来日した当時、すでに出島在住のオランダ人は自由に市中を散策できる許可を得ていました。来日当初、彼らは諏訪(すわ)神社や桜馬場(さくらばば)あたりまで散策に出かけていましたが、だんだん遠出をするようになっていきます。時には出島の対岸の稲佐(いなさ)にも散策に出て、狩猟を楽しみました。「こんな美しい国で一生を終わりたいと何遍思ったことか」とカッテンディーケは長崎の風景を賛美しています。やがて馬で遠出できるようになると、浦上(うらかみ)、金比羅(こんぴら)山などの郊外に足を伸ばしていますが、「これらの地に住む人々こそ、地球上最大の幸福者であるとさえ思われた」と長崎周辺の魅力を最上級の賛辞で結んでいるのです。 オランダ人とアメリカ人の一大ピクニック  アメリカの軍艦ミネソタ号が長崎港に停泊中のある日のこと。オランダ側の主催でアメリカ人士官慰労のためのピクニックが盛大に催されたとカッテンディーケは記しています。長崎を出発し長崎街道を通り、網場(あば)まで徒歩か駕籠(かご)で行くことになりましたが、その日は天気がよかったので、日見(ひみ)峠までの険しい道のりをほとんどのアメリカ人が徒歩を選んだということです。  実際に峠の街道跡を歩いてみますと、道幅は狭く、山道を切り開いて造られただけあって曲がりくねった険しい坂道が続きました。しかし、山林に囲まれたのどかで静かな自然や峠道に時おり広がる眺望には心癒されました。途中にあった茶屋、神社、関番所なども異国人の目にはもの珍しく映ったのではないでしょうか。  長崎街道は歴代のオランダ商館長の使節一行が江戸参府のために通った道で、出島オランダ商館医のシーボルトも随員として日記に記録した道です。ピクニック途中の峠道の下り坂では、一行はシーボルトと同じように美しい橘(たちばな)湾や島原半島の雲仙普賢(うんぜんふげん)岳の眺望を楽しみました。午後には小船で茂木(もぎ)に渡り、にわかづくりのテーブルを囲んで愉快なひとときを過ごしたと記されています。ちなみに茂木は天然の良港で、1580年(天正8)に領主大村純忠が長崎とともにイエズス会に寄進した土地でもありました。風雲急を告げる幕末の1日、長崎の郊外を楽しそうにのんびりと歩くオランダ人と約40人のアメリカ人一行の姿を想像するだけでも、何だか不思議な気持ちになってしまいますね。こんな心弾む出来事が起こるのも国際交流の町・長崎ならではのことではないでしょうか。 [文:小川内清孝] 参考文献 『長崎海軍伝習所の日々』カッテンディーケ著/水田信利訳 (東洋文庫 発行/平凡社) 『長崎街道 肥前長崎路と浜道・多良海道』(発行/図書出版のぶ工房) 『旅する長崎学7 近代ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)