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県南エリア

  • オランダ正月 2014年03月28日
    オランダ正月
    〜吉雄耕牛から江戸へと広まった太陽暦で祝う新年会〜  オランダ正月とは、17・18世紀の鎖国時代に、長崎の出島で暮らすオランダ商館員たちが太陽暦の1月1日に新年を祝って開いたパーティーのことをいいます。この催しには、長崎奉行所の役人、オランダ通詞とよばれる日本人通訳、出島の管理をおこなう出島乙名(おとな)など、日ごろ出島に従事する人たちが招待されました。大広間に案内された日本人たちは、オランダ人たちと同じテーブルを囲んで席に着き、オランダ流のもてなしを受けました。ギヤマングラスに注がれたワイン、豚や牛の料理、パンやカステラなど珍しいオランダ料理を味わい、西洋の文化を体験したのです。異国の文化に関心をもっていた長崎の人たちは、その様子を版画や絵画に描き残しています。  今回は、オランダ正月をご紹介します。 「オランダ正月」と呼ばれた理由  出島の役人や通詞たち日本人がオランダ商館主催のパーティーに招待されるのは旧暦11月11日(冬至から11日目)。当時の日本は、月の満ち欠けの周期をもとにつくられた太陰太陽歴を使って生活をしていました。これは、種まきや収穫期の目安となる生活に欠かせないものとして古くから使われてきた暦です。しかし、長崎の出島に滞在するオランダ人たちが使っていたのは「太陽歴(グレゴリオ暦)」でしたから、その1月1日に新年を祝うパーティーを開催していました。このような暦の違いから、日本の人たちが旧暦で祝う正月に対して、オランダ人が太陽暦で祝うパーティーを「オランダ正月」と呼ぶようになったのでしょう。その後、日本が太陽暦を導入したのは1872年(明治5)、明治政府になってからのことでした。 「オランダ正月」流行の発信源のひとつは 蘭学者 吉雄耕牛にあり  オランダ正月という西洋スタイルのもてなしを世に広めた人物のひとりに、長崎奉行所の大通詞(通訳)で吉雄流紅毛外科医の祖 吉雄耕牛がいました。  吉雄耕牛は、あの有名な『解体新書』〔杉田玄白や前野良沢らが西洋医学の解剖書『タアヘルアナトミア』を翻訳したもの〕の序文を書いています。耕牛は、「是非に序文を書いてほしい。」と頼まれるほどの蘭学者でしたが、残念なことに一般には意外と知られていない人物かもしれません。彼は、オランダ通詞として出島で働き、直接オランダ人から学問を教わり、自分の屋敷に吉雄流紅毛外科の私塾を開設するなど、西洋医学に精通する蘭学の大家として活躍しました。  "蘭学"とは、オランダ人を通じて日本に入ってきた西洋の学術や文化を研究する学問のこと。当時、幕府の禁教政策で、西洋の学問を学ぶことはご法度でした。しかしながら、鎖国時代に唯一西洋との交易を許された長崎「出島」では、海外からもたらされた最新の知識が、オランダ人との接触を許されていたオランダ通詞たちへと伝授されていきました。「蘭学のため、長崎へ向かいし候…。」全国から多くの人々が長崎をめざしたのです。遊学者たちは、長崎の通詞たちが開く私塾に通いながら、医学・天文学・本草学・地理学・科学などを学び、故郷の藩の発展のために尽くしました。その私塾のひとつが「吉雄塾」で、発明家の平賀源内や洋画家の司馬江漢たちの姿もありました。  吉雄耕牛は、自分の屋敷の2階に西洋のインテリアで飾られた「オランダ屋敷」と呼ばれる西洋風の客間をつくりました。ここは、誰もが一度は訪れたいと羨む人気のスポット! オランダ料理が振る舞われ、西洋の風習や文化を伝える発信源として、蘭学者が集い学問を語るサロンとなっていたようです。 江戸の蘭学者たちが集った「オランダ正月」  1785年(天明5)に長崎遊学した大槻玄沢は、天文学に精通する蘭学者 本木良永の屋敷に下宿しながら、吉雄耕牛の私塾で西洋医学の勉強に勤しみました。耕牛宅の西洋の客間「オランダ屋敷」にはとても感動したといわれています。玄沢は、出島を見物したり、異国の文化に触れたりして、遊学の思い出を胸に帰郷したのでした。  玄沢は、長崎遊学で体験した感動を伝えたいと考え、仙台藩医を勤めた後に江戸で開いた蘭学塾「芝蘭堂(しらんどう)」で、1794年(寛政6)太陽暦1月1日、新年を祝う新元会"オランダ正月"を催しました。この会には江戸じゅうの蘭学者が集まり、西洋医学の祖ヒポクラテスの肖像を床間に飾り、ギヤマングラスで乾杯し、オランダ料理のフルコースを楽しんだそうです。こうして、オランダ正月は蘭学者のあいだで恒例の行事となりました。  鎖国政策のなかで、日本の学者たちが研究した蘭学は、近代化へと向かう日本の発展に大きく貢献しました。 参考文献 「旅する長崎学7 近代化ものがたり機 巻頭特集-第1章 「長崎蘭学」が日本の学問をリードした 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2007年 「新編 おらんだ正月」 著/森銑三 編/小出昌洋 発行/岩波書店 2003年 長崎古版画「長崎名所かわら版」 版元/長崎南蛮屋 「長崎開港物語〜みろくや食文化」 著/越中哲也 みろくやHP
  • 銀嶺の橋本京子さんにインタビュー(2) 2014年03月28日
    銀嶺の橋本京子さんにインタビュー(2)
    〜銀嶺を愛した人びと〜  「レストラン銀嶺」は、1930(昭和5年)に鍛治屋町に創業し、その隣で1953年(昭和28)にバー"ボン・ソワール"をオープンしました。この店には、日本を代表する作家や俳優、芸術家たちが訪れました。ある時は恋人とお忍びで、またある時は、仲間を連れて料理やお酒を楽しみながら長崎の旅を楽しまれたようです。また、長崎の財界人からも親しまれ、長崎の夜にムードを添えていました。今回は、当時の古き良き時代を知る「レストラン銀嶺」の橋本京子さんにインタビューしました。 流儀を知る、粋な長崎の紳士たち  「私は、宝塚歌劇団を退団後、博多へ移りRKBなどでディスクジョッキーとして仕事をし、長崎に嫁いでから、バー"ボン・ソワール"にでておりました。バー勤めの経験がなかったので「バーはちょっと。」と思ったんですけど、でもボン・ソワールのおかげで、いろんな方々に出会わせていただいて、ほんとにいい時代を過ごさせてもらったと感謝しています。なにより私が一番感謝していますのは、お客さまです。「お客は一流、お店は二流、ママは三流」といつもいわれていました (笑)。それにはこんなエピソードがあるんですよ。  「あそこに宮様がいらっしゃるからといって覗いたり、絶対しないでくださいね。」と私の方からお願いしていないのに、気付かないふりをしてくださったり、お客様のレベルがそれだけ高かったんでしょうね。だから芸能人もお忍びで来られる方々がいらしてくださったのでしょう。みなさん、ゆっくり過ごされていかれました。  私ね、本当に感謝してることがあるんです。某老舗のカステラ屋さんがお仲間を連れてお店にみえるでしょう。そしたら満席のところに入っていらした東京からのお客さんに「さあ、どうぞ。」と席を譲ってくださったのです。お客さんも「いや、今座られたばかりでしょうからいいですよ。」と。「いや、私たちは明日でもまた来ますから座ってください。」と席を譲ってくださったのです。帰る前に「ママがお金とれんから、みんな、一口だけでも飲みましょう。ママ、うちに請求書を送ってくださいね。」って言われてね。涙が出るくらい嬉しくて、これが日常だったの。当時のボン・ソワールのお客さまは皆「当たり前。」と言われるけど、お客様は最高に素敵な人たちでした。品格が違います。そして格式がないとバーはだめ。その当時のいわゆる長崎を代表する企業の方々によくしていただきました。そういう時代も長崎にあったんですよ。最高でした。楽しかったです。なんて素敵な殿方たちだろうと思っていました。どなたも、みなさん大物揃いですよ。本当にいいお客様ばっかりでしたね。」 銀嶺を訪れた有名人  「みなさん銀嶺で食事して、隣のバー"ボン・ソワール"でお酒を飲みにいらっしゃいました。お店には、いろんな方々が見えました。私の義母である先代のママが「岸恵子さんとイブ・シャンピさんが長崎にいらっしゃることがあったら、絶対うちの店にお見えになるわよ。」と言っていました。日仏合作映画『忘れえぬ慕情』の撮影で長崎にいらしたんです。あの時、毎晩のようにお二人でいらしてました。人目があるというので、小さなレコード室をご案内したそうです。今のようにBGMがなかった時代ですから、その当時は女の子がレコードに針を落としていたレコード室があったんです。撮影が終わって帰られたあとは、その部屋を「イブ・シャンピの間」とみんなが呼んだりして、みんながそこに座りたがって、とうとうレコード室を客席にしたのですよ。  他には、芸術家の岡本太郎さんとか小説家の松本清張さんもいらっしゃいました。「書くものない?」と言ってサインをしてくださいました。長崎をテーマにたくさんの絵画を描いた野口弥太郎さんは、私をモデルに絵を描いてくださいました。  そうそう、美輪明宏さんは、主人と学校が一緒で長い付き合いでした。それでもう私はビックリ。私は美輪さんのファンで、宝塚歌劇団の東京公演が終わったら、お化粧を落とす間もなくサングラスをして、劇場から「銀巴里」まで走っていって一番前で観ていたんですもの。"こうして名曲は生まれた"〜ヨイトマケの唄〜というNHKの番組は、銀嶺のお店から放送されました。  私はいい時代にあのバーをさせてもらったと思っています。遠藤周作先生をはじめ俳優で演出家の芥川比呂志さん(芥川龍之介のご長男)、作家の故・吉村昭さんなど、いろんな作家の方たちとも、30〜40年のお付き合いをさせていただきました。本当にいい時代でした。」  古き良き昭和の時代に佇む、当時のレストラン"銀嶺"とバー"ボン・ソワール"は、作家や俳優・画家そして長崎を代表する企業家の人たちなど、戦後復興を担った世代が集うサロン的な役割をもつ社交場だったのではないでしょうか。華々しい文壇や芸能界に立つ人びとと、長崎の財界人、銀嶺の橋本さんたちとの暖かい交流が、ある一面で、長崎の印象を良いものにしてくれていたのかもしれません。 橋本 京子 kyoko Hashimoto 1936年生まれ。福岡県柳川市京町生まれの博多育ち。宝塚歌劇団(男役)を退団後、テレビ番組のキャストや福岡RKBのラジオ番組で九州初のディスクジョッキーとして3年間活躍。銀嶺に嫁いで主にバー"ボン・ソワール"で働く。現在、「レストラン銀嶺」の代表社員。
  • 銀嶺の橋本京子さんにインタビュー(1) 2014年03月28日
    銀嶺の橋本京子さんにインタビュー(1)
    〜遠藤周作先生が通った西洋料理の店「銀嶺」〜  作家・故 遠藤周作氏は、キリスト教をテーマに、心の奥深くに潜む日本人の本質に鋭く迫った作品を数多く描きました。長崎を舞台にした小説『沈黙』『女の一生』などを手掛け、県内各地を訪れました。取材の合間に立ち寄り、時を過ごしたお気に入りのお店もいくつかあったようです。そのひとつが「レストラン銀嶺」。この店は、鍛治屋町に1930(昭和5年)に創業し、その隣でバー"ボン・ソワール"を1953年(昭和28)にオープンしました。狐狸庵先生にとっては、仲間の皆さんと一緒にお酒を飲んだり、昼食をとったり、取材の合間に珈琲を飲んで休憩したりと、馴染みのお店だったようです。先生ご自身が長崎旅行のエッセイやコラムでご紹介したお店です。  今回は、当時の狐狸庵先生を知る「レストラン銀嶺」の橋本京子さんにインタビューしました。 狐狸庵先生と出会った日  「遠藤先生とは、初代社長夫婦からお付き合いさせていただいておりました。  私が遠藤先生と最初にお会いしたのは、たぶん昭和40年頃だったと思います。小説『沈黙』が劇団雲によって「黄金の国」として舞台化され、公演で長崎にいらした時だったと思います。俳優の山崎努さんたちとご一緒にいらっしゃいました。若い人はご存知ないでしょうけど、銀嶺は昔こういうお店で、民家を改築した趣のある洋風な造りで、隣では小さなバー"ボン・ソワール"を営んでいたのです。先生はどちらかというとバーの方にお仲間を連れてよくいらしてましたよ。遠藤先生は優しくて本当に素敵な方でした。そうそう、ご子息の龍之介さんも、うちのお店にいらっしゃったそうですよ。」 狐狸庵先生のオーダー  「全国に会員をもつ"周作クラブ"というファンクラブがあります。その会合が銀嶺で行われました。その方々が"遠藤先生が召し上がっていたメニュー"として当時4,200円のフルコース(現在3,000円)を注文されていましたよ。遠藤先生が昼間に訪れた時の注文は、やっぱりほとんどランチだったと思います。バー"ボン・ソワール"にいらした時は、水割りとかカクテルだったかな。ゆっくりされていましたね。」 闘病生活  「先生が亡くなられた後、先生の闘病生活について書かれた奥様の記事を読んでびっくりしました。私は先生が病気でいらしたことを知りませんでした。もちろん、元気な時だったからこそお店に顔を出してくださったのでしょうし。びっくりしました。闘病生活中でも、作品に注ぐ遠藤先生の努力はすごいと思います。奥様の描かれたエッセイに「自分にはさらけ出してもよかったのに。」と書いてある箇所があるんですが、きっと、奥様にも気を使って、楽しく、いやな顔などもお見せにならなかったのかなと思いながら拝読しておりました。  奥様も素晴らしい方ですよ。あんな風に年を重ねられたらいいなと思うほど。常連のお客さんも全国からいらっしゃる遠藤周作のファンのみなさんも「理想とする女性」とおっしゃっていました。  銀嶺が新しいビルになった時のことでした。活水女子大学の学園祭「螢雪会」での講演が終わって、遠藤先生がお見えになったことがあるんですよ。もちろんボン・ソワールは夜からの営業ですので「今は誰もおりません。」と店のスタッフが言いますと、遠藤先生は「鍵を開けて見せてくれ。」とおっしゃったそうで、3階にあるバーや庭を見られて「安心したって僕が言っていたと、必ずママに伝えて。」と言ってそのまま帰られたと、後日聞いたんです。「安心したよ」というその言葉が最後だったんですよ。一市民の私たちにお声をかけてくださる優しい方です。私は、最後にお会いできなかったのが非常に心残りなんです。」 遠藤周作が描く長崎  「遠藤周作と狐狸庵先生としての文筆ではまったく違う面白さがありますよね。当時、長崎新聞に『女の一生』を連載されていました。この作品には、長崎での取材に約10年を費やしたと聞いたことがあるんです。普通だと、たとえば博多を題材にした小説を、博多育ちの私が読んでも博多弁がおかしいという場面があったりするものなんですけれど。でも、遠藤先生の描かれた『女の一生』の方言は、まったくおかしいところがなかったですよ。本当にびっくりしました。だから長崎に来られた時に方言の指導した人がいらっしゃるのかなと思うほど。昨年亡くなられた作家 故・吉村昭先生なんかも長崎に百回以上いらして、私も長い付き合いですけど、そのことを聞かれていましたものね。そのくらい遠藤先生の小説は、見事な長崎の言葉でしたよ。すごいなぁと思ったんですよ。完璧でした。」 狐狸庵先生との会話やエピソード  「そりゃもういろんなことをいっぱいお話ししましたけど、内容まではお話できませんよ(笑) 。料亭のおかみさんがお座敷の話しを他言しないのと私たちも同じです。ただ私が嬉しかった出来事があります。劇団樹座(きざ)を遠藤先生が主宰していらしたのをご存知ですか?キャッチフレーズが「やる人天国、観る人地獄」といわれるほどユニークで、例えば「風とともに去りぬ」でいったらレットバトラーが10人くらい登場するという変わった設定で、一言セリフを言ったら次の人が言うっていうシーンなど、面白い舞台をやっていらした劇団です。劇団樹座の旗揚げから幕を閉じるまでの20年間脚本を書かれていた山崎陽子さんが、実は、私の宝塚歌劇団の2年先輩だったんです。退団後ずっと会ってなかったんです。(当時)某食品会社の社長婦人・山崎陽子さんと、遠藤先生は劇団樹座のつながりで親しい間柄。で、たまたま宝塚の話をしていて、遠藤先生が「陽ちゃんのこと、じゃ、ママ知ってるんじゃない?」って言われて、「2年先輩だから知っています。」と言ったら、うち(の店)からパーっと直接電話をかけて陽子さんと私をお話させてくださったの。それから、陽子さんとは今でも親しくさせて頂いております。山崎陽子さん(宝塚時代は男役で旗雲朱美)は、一人芝居をされて、朗読ミュージカル『山崎陽子の世界検戮任亙神13年に文化庁芸術祭大賞を受賞するなど多方面で活躍されている方です。だから私は、山崎陽子さんとのご縁を復活させてもらったことが一番遠藤先生に感謝しています。宝塚劇団で一緒でも退団すれば上級生とは縁がなくてなかなか会えない。その縁を復活させて頂いたのが遠藤先生です。 遠藤先生と芥川比呂志さん(芥川龍之介氏のご長男) がサインをされた色紙はボン・ソワールの入口にずっと飾っておりました。」  鍛治屋町の通りに明かりが灯る当時のレストラン"銀嶺"とバー"ボン・ソワール"。その店内では、日本を代表する作家や俳優たちなどが集い交流を深めた場所でした。橋本さんが「本当に優しい方、」と連呼していたのが印象的でした。小説では常に真剣勝負な半面、気配りを忘れずフランクな優しさを合わせ持つ遠藤周作先生の人柄が偲ばれます。 橋本 京子 kyoko Hashimoto 1936年生まれ。福岡県柳川市京町生まれの博多育ち。宝塚歌劇団(男役)を退団後、テレビ番組のキャストや、福岡RKBのラジオ番組で九州初のディスクジョッキーとして3年間活躍。銀嶺に嫁いで主にバー"ボン・ソワール"で働く。現在、「レストラン銀嶺」の代表社員。
  • 海星学園中央館を設計した吉阪隆正 2014年03月28日
    海星学園中央館を設計した吉阪隆正
    建築家 吉阪隆正  海星学園の歴史は古く、明治25年(1892)に南山手の大浦天主堂の近くに、マリア会員のジャック・バルツによって創立されました。 3年後にこの東山手の地に移転して以来、約115年以上の歴史を誇るカトリック系のミッション・スクールです。  吉阪隆正氏が設計したのは海星高校の中央館。彼は早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、近代建築の四大巨匠のひとりル・コルビュジェのアトリエで学んで約6年後にこの校舎を設計しました。 その後すぐ早稲田大学の教授となり、建築学会の会長を務め、日本のモダニズムを代表する建築家となりました。  余談ですが、前回のコラム「浦上そぼろを作ろう!」に登場した蘭学者・箕作阮甫(みつくり げんぽ)さんを覚えていますか? そう、対露交渉団として長崎にやってきて「浦上そぼろが食べたい!」と語った人物です。 実は、吉阪隆正氏は、箕作阮甫(みつくり げんぽ)さんの玄孫(やしゃご)にあたる人でした。  校舎の壁にはカラフルなモザイクがデザインされています。 校舎のいたるところに、ル・コルビュジェの造形にも似たデザインと遊び心がちりばめられています。 早速、建物の中におじゃまして、見学させてもらいました。 中央館のエントランス  中央館へとおじゃまします。 エントランスにあるマリア様のモザイク画にちょっとビックリしながら、奥へと進みます。  写真を撮っていると、建築を学んでいるといいう大学生に廊下ですれ違いました。 名建築を巡る旅をしているそうです。 階段に隠れた機能を発見!?  屋上にマリア様が乗る台座となっている塔の部分は螺旋階段です。 壁には長方形や正方形の小窓が付いていて、差し込む日差しを、丸みを帯びた白壁に反射し、空間を柔らかく包んでくれます。 小窓からは長崎の港が見え、さらに180°上り下りすると修道院の建物が見えます。 絵画の額縁にように切り取られた風景が楽しい螺旋階段は、心にくい演出です。  階段の真ん中の円筒形の部分を見てください。 芯のようなこの部分には、ある機能が隠されています。 何だと思いますか? 正解はダスト・シュート。 各階ごとに小さい扉が付いていて、ゴミを捨てると1階にゴミが集まる仕組み。 最近は、老朽化のため使用していないそうです。 教室と廊下のディテール  これは西側を向いた廊下。 突き当たりにある窓は、ル・コルビュジェの代表作ロンシャンの教会の窓にも似たディテール。 西に向いていますので夕陽が差し込むとオレンジ色のステンドグラスのように変化して、陰影がキレイでしょうね。 教室手前の廊下へ斜めに突き出た壁、これは防音対策だったんです。 案内してくれた光岡先生は「不思議と隣の教室の声が聞こえないんですよ。」とおっしゃっていました。 そして、熱い夏には教室の窓の下部と上部の窓を開け放つと、南から北へと心地よく涼しい風が通り抜けるという機能と、遊び心を備えたディテールです。 こんな教室、カッコよすぎで、学園生活がちょっとうらやましいです。 東山手の風景  グラウンドのある南側から見た校舎です。 環境に配慮したデザインはまだまだあります。 各教室の窓の上に付いた庇は、大雨の時でも教室に雨が入り込むことはありません。 ただ、ベランダがないので窓を拭くのは大変だそうです。  中央館の奥に見える赤い屋根は、大正15年(1926) にW.M.ヴォーリズが設計した活水女子大学本館です。 明治に建てられた洋館とモダニズムの建築家が設計した建物が並ぶ東山手は、"学び舎の丘"という歴史を持つ長崎の東山手ならではの風景かもしれませんね。 参考資料 (株)一粒社ヴォーリズ建築事務所HP
  • ド・ロ神父オススメの野菜「クレソン」 2014年03月25日
    ド・ロ神父オススメの野菜「クレソン」
        12月の街は、クリスマスのディスプレイやイルミネーションでキラキラしています。家族や友達とパーティーを企画している人も多いのではないでしょうか?さて今回は、そんな食卓に並ぶお皿の上に注目しましょう。メインディッシュのお肉ではなく、脇を彩る緑の野菜「クレソン」のお話です。付け合わせとして食べられずに残され、なかなか主役になれない野菜ですが、その栄養価は群を抜いています。 このクレソンを近代の日本に広めた宣教師がいました。明治12年、外海に赴任したフランス人のマルコ・マリ・ド・ロ神父です。ド・ロ神父の功績とともに、クレソンにまつわる話を探ってみました。 クレソンはフランス語  クレソンが日本に渡ってきたのは明治の初めごろと言われています。水場を好み、繁殖力に優れた野菜ですから、すぐに日本に根付き、野生化しました。 「クレソン(cresson)」はフランス語。英語の「ウォータークレス」ではなく、フランス語で親しまれている珍しい野菜です。和名は「オランダカラシ」。鎖国時代からオランダとはゆかりの深い日本でしたので、そう呼ばれていても何ら不思議ではありません。幕末・明治にかけて、日本は欧米の列強に並ぶ国力を付けるために、兵力の増強や医学など、さまざまな分野でも、オランダに学びました。開国後、長崎製鉄所(三菱重工業(株)長崎造船所の前身)にいたオランダ人が飽の浦川(あくのうらがわ)にクレソンの種を蒔いたという話もあります。 クレソンのほかに、キャベツを「オランダ菜」、セロリを「オランダミツバ」、パセリを「オランダゼリ」、イチゴを「オランダイチゴ」と呼び、野菜の名称一つを取っても「オランダ」との縁の深さが伝わってきます。クレソンは水場を好む植物なので、「ミズカラシ」「西洋ゼリ」とも。ド・ロ神父が滞在していた外海では「ド・ロさまゼリ」と呼ばれて親しまれていました。 外海(そとめ)の産業振興に献身したド・ロ神父  1868年(慶応4)、ド・ロ神父はフランスを出発して、長崎にやってきました。大浦天主堂で宗教教育の普及のための石版や木版の印刷業に取り組んでいましたが、明治12年に外海に赴任すると、地域振興に力を注ぎました。山の斜面に広がる集落には産業がなかったので、地区の経済的な自立を目指して、さまざまな西洋の技術を伝えました。今も外海には、その時代の遺産が数多く残っています。 土地を開墾して小麦を生産。パンやマカロニの製法も伝授しました。水車で製粉し、パスタのような麺をつくる作業もド・ロ神父が指導し、小麦粉と落花生の油を混ぜ合わせてつくった麺は「ド・ロさまそうめん」といわれ、外海の特産品になっています。 またド・ロ神父は、とりわけ女性の就労を促しました。染物、織物を奨励し、それを売ることで収入を得て村を豊かにしました。また、明治21年に建てられたイワシ網工場は、農民たちに副業を生み出しました。そのほかにもド・ロ神父は医療や福祉の分野でも貢献、明治16年には救助院をつくって子どもの福祉にも光を当てています。 クレソンの栄養価に注目  もしかしたらド・ロ神父は外海の人たちの健康を考えて、クレソンを食卓に取り入れるようにすすめたのかもしれません。クレソンはヨーロッパでは古くから薬草として利用されていました。カルシウムや鉄分、ビタミンAやビタミンCが豊富で、貧血や強壮に適しています。19世紀のイギリスでは、ビタミンCの不足によって起こる壊血病の治療薬に使われていたという記録もあるほどです。 また、クレソンには血液を酸化させない効果があり、肉食が中心となっている現代の日本人にとっても注目の食材です。栄養の面だけでなく、ピリッとした辛味は肉料理にぴったり調和するので、ぜひ一緒に食べていただきたいものです。フランス人は夕食にスープを取ることはまれだといわれますが、クレソンのポタージュは食す習慣があるそうです。食味や風味が強く、個性的な野菜ですが、茎の固い部分を除いてサラダにしたり、さっとゆでて和え物にしたり、天ぷらでもおいしくいただけるのも特徴です。 クレソンのたくましい生命力とパワーを外海の人たちに与えて、地域を元気づけたド・ロ神父。わずか1本の草にも歴史があるのです。 [文:大浦由美子] 参考文献 『旅する長崎学5』(長崎文献社) 『長崎県の歴史散歩』(山川出版社) 『花図鑑 野菜』(草土出版) 『長崎県の文化財』(長崎県教育委員会) 『味覚旬月』辰巳芳子(ちくま文庫)
  • 博物館のオススメ(2) 2014年03月24日
    博物館のオススメ(2)
    〜長崎歴史文化博物館 南蛮屏風(右隻)〜    今回ご紹介する博物館オススメの逸品は、長崎歴史文化博物館の南蛮屏風「南蛮人来朝之図屏風」の右隻で、16世紀後半〜17世紀初頭ごろの狩野派の作品だといわれています。この屏風は、右隻に南蛮人の行列と教会堂、左隻に長崎港に停泊するポルトガル・スペイン船が描かれた6曲1双で構成されています。日本絵画の手法を用いながら異国の人々を描いている南蛮屏風からは、エキゾティックな趣があふれ出ています。 屏風は、部屋を間仕切るための調度品。祝いの席など行事の目的にあわせて屏風を選び、広間に置いて特別な空間を演出します。絵師たちが腕をふるって描いた絢爛豪華な屏風は、美術品として招かれた客人たちの目を楽しませたことでしょう。また、海を渡って日本から輸出された屏風は、Biombo<ビオンボ>とよばれ、ポルトガル語として定着しました。   16世紀の長崎 日本初のキリシタン大名 大村純忠は、1570年に長崎港の開港を認め、翌年にはじめてポルトガル船が入港しました。開港とともに岬には新しく6つの町(大村町・島原町・平戸町・横瀬浦町・外浦町・分知(文知)町)がつくられ、岬の先端(現在は長崎県庁)には教会が建ちました。1580年、純忠は周辺の敵からの攻撃をかわすため、長崎6町と茂木を日本イエズス会に寄進し、続いて1584年にはやはりキリシタン大名であった有馬晴信も浦上を寄進しています。こうしてイエズス会領となっていた長崎・茂木・浦上は、その3年後の1587年、豊臣秀吉の伴天連追放令によって取りあげられ直轄地となります。しかし秀吉は、南蛮貿易は奨励したのでキリスト教の禁教は不徹底であり、長崎の町は徳川幕府の禁教令が発布される1614年頃まで、キリシタンの町として栄えました。長崎には日本イエズス会本部が置かれ、外国人宣教師の指導で建てられた教会、病院、学校、福祉施設がたち並び、その様子は『伴天連記』という反キリスト教の書物に「長崎は日本のローマなり」と書かれるほどに、貿易港として、さらにキリシタンの町として大きく急成長を遂げたのです。 当時の長崎港はどんな様子だったのでしょうか? ではさっそく、南蛮屏風(右隻)をみてみましょう。 町を行き交う南蛮人たち(右隻) 屏風には、町を歩く南蛮人の行列がメインに描かれています。なかでも中央で傘をさしかけられ、腰にはサーベルを携え、赤いマントを風になびかせながら歩く男性がひときわ目を引きます。おそらく南蛮船の船長さんで、彼の後ろにお供の人たちが続き、列をなしています。 でも、この南蛮人たち一行は、どこを目指して歩いているのでしょうか? 行列の先頭を歩いて、話をしている人物に注目してみましょう。どうやら黒いマントを着たイエズス会宣教師の案内で南蛮人一行は進んでいるようですね。 上部の右端をみると、同じように黒いマントを身につけて、行く手を指し示すような動作をしている人がいます。さて、その先には何があるのでしょうか?  回廊をたどっていくと、屏風の中央に描かれている建物に行き着きます。瓦屋根をよく見ると、十字架が掲げられていることから、南蛮寺、つまりキリスト教の教会堂であることがわかります。建物のなかには座ってくつろぐ姿があります。 南蛮屏風に描かれたストーリー 南蛮屏風の右隻と左隻の絵全体に描かれたテーマは、ポルトガル船が港に停泊して、まず乗組員たちが最初に向かった場所は教会だった、という物語なのではないでしょうか。 開港して異国の人々が行き交う町となった長崎。はるか西洋からやってきた異国の船、外国人の行列や西洋のファッション、海を渡って運ばれてきた珍しい品々・・・、日本人の目にはどれも新鮮に映ったにちがいありません。 もっとよく見ると・・・ 南蛮屏風の右隻と左隻の絵全体に描かれたテーマは、ポルトガル船が港に停泊して、まず乗組員たちが最初に向かった場所は教会だった、という物語なのではないでしょうか。 開港して異国の人々が行き交う町となった長崎。はるか西洋からやってきた異国の船、外国人の行列や西洋のファッション、海を渡って運ばれてきた珍しい品々・・・、日本人の目にはどれも新鮮に映ったにちがいありません。  もっともっとよく見てみましょう。通りには商いをするお店が軒を連ね、暖簾をだした軒先にはいろいろな商品が並んでいます。そのなかの一軒をよーく見てみると、格子の木枠に掛けて並べられているのは、十字架がついたロザリオではないでしょうか。そうです、この店はロザリオなどキリスト教がもつ聖品を販売しているお店です。右から一番目の第1扇には首にロザリオをかけた2人の武士が描かれています。  南蛮屏風の絵のなかには、当時の南蛮人の風俗などがまだまだいっぱい描かれていますよ。この南蛮屏風は長崎歴史文化博物館の常設展のなかにある、歴史文化展示ゾーン"大航海時代"に展示されています。モニター画面で詳しい解説をみることができますので、じっくり南蛮屏風の世界を楽しんでみてはいかがでしょうか。  さて、「屏風」の歴史や美術に興味がわいた方は、ただいま長崎歴史文化博物館で開催中の"日蘭修好150周年記念特別展「屏風 -将軍からの贈り物-」"におでかけになってはいかがでしょうか。オランダ国王ウィルへルム3世より献上されたスームビング号の返礼として贈られた屏風(ライデン国立民俗学博物館所蔵)の長崎で初めての里帰り展示です。幕末から近代への過渡期における日蘭友好の架け橋となった長崎をみつめ直すことができますよ。 2008年3月31日(月)まで開催されています。 じっくりと隅々まで観察してみると、当時の様子がこまやかに描かれた南蛮屏風から、町のざわめきや人々の息づかいまで聞こえてくるような気さえしてきました。 長崎港に停泊して貿易品を岸壁へと小船で運ぶ様子が描かれた左隻を紹介した"歴史発見コラム"の第45回「博物館のオススメ(1) 〜長崎歴史文化博物館 南蛮屏風(左隻)〜」、また、16世紀の長崎の教会を紹介した"ながさき歴史散歩"の第10回「 鐘の音が鳴り響く教会ストリート〜消えた教会群〜 」もあわせてご覧ください。 ☆鑑賞のコツ☆ 屏風とは?  "風を屏(ふせ)ぐ"という意味から名づけられた屏風は、部屋を間仕切るための調度品で、装飾にも用いられるインテリアのひとつです。祝いや行事など目的にあわせて屏風を選び、広間にひろげて特別な空間を演出します。 長方形に描かれた画面を扇(せん)といい、右から第一扇、第二扇…と呼びます。2〜8枚の扇を繋ぎ、山折谷折と広げて立てます。使わない時は、折りたたんで収納することができます。 屏風は一隻、二隻…と数えます。右と左がセットの作品は一双(そう)、単独の屏風は一隻(せき)といいます。今回ご紹介した南蛮屏風の場合は、一隻(半双)が6枚の画面で構成され、右と左がセットになっているので"六曲一双(ろっきょくいっそう)"となります。 屏風には絵や書が描かれ、当時の絵師たちが腕を振るった美術品としてもてはやされました。 [文:大浦由美子] 作品 「南蛮屏風(右隻)」長崎歴史文化博物館蔵 参考文献 「旅する長崎学1 キリシタン文化1」特集4 「小ローマ長崎」と消えた教会 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 「原色日本の美術 第25巻 南蛮美術と洋風画」 小学館 1970年 「長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」 監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社2005年 「ビジュアルNIPPON 江戸時代」 発行/小学館 2006年 「すぐわかる日本の美術」 発行/東京美術 1999年
  • 博物館のオススメ (1) 2014年03月24日
    博物館のオススメ (1)
    〜 長崎歴史文化博物館 南蛮屏風(左隻)〜    今回ご紹介する博物館オススメの逸品は、長崎歴史文化博物館の南蛮屏風「南蛮人来朝之図屏風」の左隻です。これは、16世紀後半〜17世紀初頭ごろの狩野派の作品だといわれています。この屏風は、右隻に南蛮人の行列と教会堂、左隻に長崎港へ停泊するポルトガル・スペイン船が描かれた六曲一双で構成されています。日本絵画の手法を用いながら異国の人々を描いている南蛮屏風からは、エキゾティックな趣があふれ出ています。 屏風は、部屋を間仕切るための調度品。祝いの席など行事の目的にあわせて屏風を選び、広間に置いて特別な空間を演出します。絵師たちが腕をふるって描いた絢爛豪華な屏風は、美術品として招かれた客人たちの目を楽しませたことでしょう。また、海を渡って日本から輸出された屏風は、Biombo<ビオンボ>とよばれ、ポルトガル語として定着しました。   16世紀の長崎 日本初のキリシタン大名 大村純忠は、1570年に長崎港の開港を認め、翌年にはじめてポルトガル船が入港しました。開港とともに岬には新しく6つの町(大村町・島原町・平戸町・横瀬浦町・外浦町・分知(文知)町)がつくられ、岬の先端(現在は長崎県庁)には教会が建ちました。1580年、純忠は周辺の敵からの攻撃をかわすため、長崎6町と茂木を日本イエズス会に寄進し、続いて1584年にはやはりキリシタン大名であった有馬晴信も浦上を寄進しています。こうしてイエズス会領となっていた長崎・茂木・浦上は、その3年後の1587年、豊臣秀吉の伴天連追放令によって取りあげられ直轄地となります。しかし秀吉は、南蛮貿易は奨励したのでキリスト教の禁教は不徹底であり、長崎の町は徳川幕府の禁教令が発布される1614年頃まで、キリシタンの町として栄えました。長崎には日本イエズス会本部が置かれ、外国人宣教師の指導で建てられた教会、病院、学校、福祉施設がたち並び、その様子は『伴天連記』という反キリスト教の書物に「長崎は日本のローマなり」と書かれるほどに、貿易港として、さらにキリシタンの町として大きく急成長を遂げたのです。 当時の長崎港はどんな様子だったのでしょうか? ではさっそく、南蛮屏風(左隻)をみてみましょう。 長崎港に停泊する南蛮船(ポルトガル船)  この南蛮屏風(左隻)には、ポルトガル・スペインを出発し、南アフリカ、インド、東南アジアを経由して長崎港に到着した南蛮船(ポルトガル・スペインの船)が描かれています。 大きな帆を降ろして停泊した船の上では、乗組員たちが貿易品の荷物を小船に積むなど、忙しく働いているようです。  波穏やかな長崎が貿易港に適しているのではないかと目をつけたのは、イエズス会の日本布教長のコスメ・デ・トーレスでした。彼の命令で、宣教師のメルシオール・デ・フィゲイレドがポルトガル人の航海士とともに水深調査や測量をおこない、南蛮船の入港に適していることを確認しました。そして、キリシタン大名 大村純忠に長崎の港を開港するように要請したのです。1570年に純忠が開港を認め、翌年には初めてポルトガル船がやってきました。それから、屏風に描かれているような南蛮船が毎年のように入ってくるようになりました。 南蛮船上陸の地  左隻の右から2・3枚目(第三・四扇)に、南蛮船と岸壁を行き来する荷物を載せた小船が描かれています。 貿易品としてもってきた積荷を載せた小船が砂浜に到着し、それを降ろしている南蛮人の様子がわかります。さて、この積荷の中身は一体何だったのでしょうか? 小船に積まれている赤・青・緑の包みには、西洋の時計や楽器、望遠鏡、金襴緞子、ブドウ酒、西洋絵画や書籍など、日本人の好奇心をかき立てる貿易品がたくさん入っていたのかもしれませんね。  現在、長崎県庁の坂を大波止の方にくだる途中に、「南蛮船来航の波止場跡」の石碑が建っています。現在は埋め立てられて、昔の港のかたちとは随分と変わってしまいましたが、当時このあたりで、屏風に描かれているような作業がおこなわれていたことを想像すると、なんだか楽しくなりました。  南蛮屏風の絵のなかには、当時の南蛮人の風俗などがまだまだいっぱい描かれていますよ。この南蛮屏風は長崎歴史文化博物館の常設展のなかにある、歴史文化展示ゾーン"大航海時代"で展示されています。モニター画面で詳しい解説をみながら南蛮屏風を楽しんでみてはいかがでしょうか。  さて、「屏風」の歴史や美術に興味がわいた方は、ただいま長崎歴史文化博物館で開催中の"日蘭修好150周年記念特別展「屏風 -将軍からの贈り物-」"におでかけになってはいかがでしょうか。オランダ国王ウィルへルム3世より献上されたスームビング号の返礼として贈られた屏風(ライデン国立民俗学博物館所蔵)の長崎で初めての里帰り展示です。幕末から近代への過渡期における日蘭友好の架け橋となった長崎をみつめ直すことができますよ。 2008年3月31日(月)まで開催されています。  16世紀の長崎の教会を紹介した<ながさき歴史散歩>第10回「 鐘の音が鳴り響く教会ストリート〜消えた教会群〜 」もあわせてお楽しみください。 次回は、この屏風と対になった右隻をご紹介します。貿易船に乗って長崎に上陸した南蛮人が行列をつくって、南蛮寺(教会堂)へと向かう様子が描かれていますよ。お楽しみに。 ☆鑑賞のコツ☆ 屏風とは?  "風を屏(ふせ)ぐ"という意味から名づけられた屏風は、部屋を間仕切るための調度品で、装飾にも用いられるインテリアのひとつです。祝いや行事など目的にあわせて屏風を選び、広間にひろげて特別な空間を演出します。 長方形に描かれた画面を扇(せん)といい、右から第一扇、第二扇…と呼びます。2〜8枚の扇を繋ぎ、山折谷折と広げて立てます。使わない時は、折りたたんで収納することができます。 屏風は一隻、二隻…と数えます。右と左がセットの作品は一双(そう)、単独の屏風は一隻(せき)といいます。今回ご紹介した南蛮屏風の場合は、一隻(半双)が6枚の画面で構成され、右と左がセットになっているので"六曲一双(ろっきょくいっそう)"となります。 屏風には絵や書が描かれ、当時の絵師たちが腕を振るった美術品としてもてはやされました。 作品 「南蛮屏風(左隻)」長崎歴史文化博物館蔵 参考文献 「旅する長崎学1 キリシタン文化1 特集2 宣教師たち長崎で動く! ザビエルの意志を継いだ人々 特集4 「小ローマ長崎」と消えた教会 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 「原色日本の美術 第25巻 南蛮美術と洋風画」 小学館 1970年 「長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」 監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社2005年 「ビジュアルNIPPON 江戸時代」 発行/小学館 2006年 「すぐわかる日本の美術」 発行/東京美術 1999年
  • 銅版画家 渡辺千尋さんインタビュー 2014年03月25日
    銅版画家 渡辺千尋さんインタビュー
        1597年2月5日は長崎港を望む西坂の丘で26聖人が十字架にかけられて処刑された日です。この世界を震撼させた事件と同年に、有家にあったセミナリヨ(神学校)の日本人学生が銅版「セビリアの聖母」を制作していたのです。 現在、銅版画家そして作家として活躍する渡辺千尋さんは、1995年に長崎県南島原市有家町からの依頼で「セビリアの聖母」の復刻をおこないました。この復元に端を発し、二十六聖人殉教の道を堺から長崎までの行程を実際に体験し、版画に秘められた謎を推理する『殉教(マルチル)の刻印』(小学館)を執筆されています。今回は、渡辺千尋さんにインタビューしてきました。 日本二十六聖人殉教者が歩いた道を追体験した理由  左僕は西坂(長崎市)で育ちました。西坂公園は幼い頃の遊び場。昔は石塔が一本あるだけで、教会もまだない単なる公園でした。子どもの頃の僕は、西坂公園が26聖人の処刑された丘だということを知らなかったし、学校でも教えてはくれませんでした。  その事実を知ったのは、大人になって旅したメキシコでの体験がきっかけでした。メキシコ・シティの郊外に16世紀に建てられたフランシスコ会の古い教会を訪れました。この教会では修復工事中に白壁から二十六聖人の殉教の様子が描かれた壁画が出現していたんです。高さ8メートル、長さは60メートル以上にわたって描かれた巨大な壁画でした。「どうしてメキシコに日本の二十六聖人が描かれているんですか?」とガイドに聞いたら、「フィリッポというメキシコ人が日本で処刑されたというニュースが国中に広がって壁画の制作がおこなわれたんです。」という答えが返ってきました。次第に僕の頭のなかで、遊び場だった西坂公園で26人が処刑され、そのひとりでメキシコ人のフィリッポのために建てられた教会が僕の実家の目の前にある聖フィリッポ教会、さらに二十六聖人に捧げられた教会が大浦天主堂だという関連が、一本の線に繋がってやっと理解できたんです。それまで全く長崎の歴史に興味がなかったので、それを知って僕はちょっとショックを受けたんです。そういうお勉強が嫌いで絵描きになったんだからね(笑)。  それから、長崎県の有家町(現南島原市)の企画で、銅版画「セビリアの聖母」の復刻の依頼がきました。それは、有家のセミナリヨ(神学校)で日本人学生によって作られたというキリシタン銅版画です。制作に取りかかる前に、長崎カトリックセンターにオリジナルを見せてほしいと何度もお願いしました。しかし断られたんです。しようがなくて、二十六聖人殉教の道をたどりました。 同じ行程を歩くという理由にもうひとつ、フィリッポという人物像にも興味があったからなんです。彼は普通の青年なんですよ。メキシコ人で若くて日本にたまたま流れ着いて、訳の分からないうちに京都で捕まって長崎まで歩かされて殺されてしまった。彼の視線で歩いてみたら面白いかなと思って、後先考えずに行動してしまったんです。今まで、誰もそれをやったことがなかった26人の殉教者が歩いた道をその日程どおりに歩きました。 日本二十六聖人殉教の道を実際に歩いて  1596年、豊臣秀吉の命令でキリシタン日本人18名と外国人6名が捕らえられました。京都で耳を削がれて馬に乗せられて市中を引きずられ見せしめにされ、命令が下されるまで大坂の堺に滞在。1月8日に処刑の行程が決まって9日から27日間に及ぶ殉教の道。僕は1月9日に堺から出発しました。歩きはじめて10日間は苦しくて苦しくしようがなかったですよ。なにせ40キロなんか歩いたことがないからね。違いが分かったのは、彼らにはキリスト教という神様がいたということ。僕は無宗教だから神様がいない。この差は大きい。彼ら26人は、捕まったのは"受難"だと受け止めていたのですから。彼らは自分たちの信念のために逝くのですから、肉体的な苦痛など無かったのではないでしょうか。僕にはその信念が理解できません。日本人のなかには12歳ほどの幼い少年が3人いました。なにも抵抗しないで、ありがたく死を受け入れる姿を見て、大人や外国人宣教師たちは、逆にその少年たちに励まされたと思います。1597年2月5日正午、殉教の当日、神々しい顔で処刑されていくシーンが記録にたくさん残されています。この26人ものキリスト教徒が大量に殺された大事件は、典型的な"殉教"劇へと昇華したのです。実際に殉教の光景を見た群衆はますますキリシタンとして結束が芽生えたのではないでしょうか。秀吉の意図とは逆の作用が起こってしまったのです。過去にこのような殉教の例はなく、このニュースが海を越えて駆け巡り、世界中を震撼させたのです。 僕は二十六聖人と同じ道を歩いたことで、歴史の本を読むだけではわからない、そのことをハッキリと感じることができたと思います。 「セビリアの聖母」の復刻  有家町(現南島原市)から銅版画の復刻の依頼がきていました。でも当初は、復刻には興味がなかったんです。ただ、26聖人が処刑された同じ年に、「セビリアの聖母」の版画が制作されたということに胸騒ぎがしたんです。同じ年になぜ聖母が作られたのかという疑問と、その裏側に関連するドラマを一瞬パッと感じたわけです。それでお引き受けしたんです。しかし、僕たち創作側の人間にとって復刻という作業は、人の作品を真似するわけですからイヤなものなのです。僕じゃなくても他の人が復刻してもいいのですから。 仕事に取りかかる前に、原画を見なくては復刻できません。オリジナルを所有している長崎カトリックセンターに何度お願いしても、いくら待っても全然見せてくれなかった。原因はよくわからなかったのですが「60年間誰にも見せてない。」ということでした。しかし、その後、二十六聖人殉教の道をたどった行動と、取材したテレビ局の記者、日本二十六聖人記念館元館長の結城神父たちの働きかけによって、あっけなく封印が解かれ、オリジナルを見ることができたのです。  聖画とはイコンのことです。「セビリアの聖母」が描かれた16世紀には、芸術という意識はなく、自己表現という言葉も認識もない時代です。彼らはキリスト教徒の信者たちに配るためのイコン制作者でしかありません。そして二十六聖人が処刑された時代に作られて、有家版の幼子キリストの手に持つハトの絵が消されてしまっているというスゴさがあります。ハトは、ヨーロッパでは平和の象徴です。あくまで推測ですが、その当時の日本人にはそんな概念はなかったのではないでしょうか。マリアの右手に持つ花。西洋ではバラが描かれていますが、日本では見たことがなかったでしょうから、「バラとは椿みたいな花ですよ。」と教えられたかもしれない。ハトは日本にもいたでしょうから描けないことはないのですが、イコン制作者はわざと絵の中から消してしまっています。では、聖画のなかの重要なシンボルを消すとは、いったいどのような心理状態だったのでしょうか。 復刻作業のなかで出会ったキリシタン文化  キリシタン文化とは西洋の文化です。印刷画、銅版画、油絵などが、日本の、しかも長崎で芽生えようとしていたのに、キリシタン弾圧でそれが全て根こそぎ無くなってしまったのです。それから日本の文化というのは300年ぐらい遅れてしまいます。時の権力者たちが、印刷はスゴイものだと理解していたならば、銅版画や本などの新しい文化を生み出すことができたはずです。宗教とは関係なく技術だけでも吸収すればよかったのに、全部根こそぎ無くしてしまった。技術が途絶えてしまったのです。それがものすごく惜しいと感じますね。それから時代を経て江戸末期にならないと銅版画も復活しません。16世紀の長崎の芸術レベルは高かった。しかし芸術がキリシタンと結びついていたから切り離せなかったのでしょうね。その当時、セミナリヨやコレジヨでは、日本の古典と同時に西洋の文学も教えていたのですから、西洋と日本の比較文化ができていたのです。それが現在まで続いていれば、おそらく文化の意識や理解度も違っていたのではないでしょうか。  渡辺千尋さんは、『旅する長崎学3 キリシタン文化3』の"たびなが羅針盤(15頁に掲載)"に、「二十六聖人が歩いた道をたどって〜二十六聖人と同じ日程を歩いた体験記〜」を寄稿されています。あわせてお楽しみください! DATA 渡辺 千尋 Chihiro Watanabe 1944年生まれ。長崎市出身。1964年桑沢デザイン研究所卒業。1978年、日本版画協会奨励賞受賞。銅版画家として活躍し、画集『叛吐』『掌画集』、チェコ国立版画美術館に『象の風景』シリーズが収蔵されている。1995年長崎県有家町の銅版画「セビリアの聖母」を復刻。主な著書に『ざくろの空-頓珍漢人形伝』(河出書房新社・1995年)で第一回蓮如賞を受賞。『殉教(マルチル)の刻印』(小学館・2001年)で第8回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。現在、銅版画家、作家として活躍中。 協力 「セビリアの聖母」…南島原市教育委員会有家町事務所
  • 2月5日〜日本26聖人殉教の記念碑と聖フィリッポ教会を訪ねて〜 2014年03月25日
    2月5日〜日本26聖人殉教の記念碑と聖フィリッポ教会を訪ねて〜
    〜日本26聖人殉教の記念碑と聖フィリッポ教会を訪ねて〜  1597年2月5日、長崎の西坂の丘で十字架にかけられて殉教した日本人20人と外国人6人のキリシタン。彼らは豊臣秀吉の命によって京都と大坂・堺で捕らえられ、処刑地となる長崎までのおよそ千キロの道のりを約一ヶ月かけて裸足で歩かされました。なかには、フィリピン総督の使節として来日し京都で教会を建てるなど熱心な布教活動をおこなったペドロ・バプチスタや、12歳のルドビコ茨城、14歳のトマス小崎といった日本の幼い少年たちもいました。  この大殉教事件は、ポルトガルやスペイン、メキシコやヨーロッパなどにも伝えられ、大きな反響を呼びました。そして、日本ではまだキリシタン迫害が続く1862年、彼らは教皇ピオ9世によってローマで聖人に列せられたのです。さらに列聖から100年後の1962年、殉教地の西坂の丘に記念碑と記念館が完成しました。 今回は、二十六聖人が殉教した日に思いを寄せて、西坂公園にある二十六聖人のレリーフ、聖フィリッポ教会堂を訪ねてきました。2月3日(日)に、長崎市で行われた「日本26聖人殉教記念ミサ」の様子もご紹介します。 日本二十六聖人殉教記念ミサの模様  通常、この記念ミサは西坂公園の広場でおこなわれますが、今年はあいにくの雨に見舞われ、歩いて5分ほどのところにあるカトリック中町教会(長崎市)へと会場を移しておこなわれました。 当日は、教会堂に入ることができないほどの参列者であふれ、入口の扉を開放したまま、鐘の合図でミサがはじまりました。二十六聖人への賛歌が教会堂に響き、祈りが捧げられました。  では、殉教事件の歴史の舞台となった西坂の丘をご紹介しましょう。 西坂の丘にある二十六聖人の記念碑  西坂公園にある二十六聖人の記念碑は、日本を代表する彫刻家・舟越保武(1912-2002)が制作に約4年の歳月を費やして完成させたものです。 長崎港に向かって手を合わせて1列に並んでいます。ところが、よく見てください。聖ペドロ・バプチスタと聖パウロ三木の像はポーズが違います。2人だけ両手を広げています。舟越さんは「この2体だけは下の方に視線を向けさせ、観る人と視線が合うことによって、その人の心を上へと引き上げてくれるようにした。26体を人間の身体にたとえるならば、このふたりはその眼に相当するものである。」と解説しています。では、二十六聖人記念碑の写真をクリックしてみましょう。左が聖ペドロ・バプチスタで右が聖パウロ三木です。舟越さんは2002年、偶然にも二十六聖人が殉教を遂げた日と同じ"2月5日"に他界しました。 復レリーフ「長崎への道」  記念碑には裏面があります。これは「長崎への道」と題して、今井兼次さんが制作しました。レリーフ全体は、二十六聖人が歩いた京都から大坂・堺、長崎までの長く苦しい道のりを現しています。  よく見ると十字を刻んだ丸い石がいくつも寄せ集まっています。一体これにはどんな意味があるのでしょうか?  これは、十字架にかけられた26人の尊い命を、聖書から引用した葡萄の実にたとえています。26個の葡萄の実をつけたひとつの房は"京都"の位置に埋め込まれ、"長崎"の位置にくると金の十字架だけが一枚の石板に刻まれています。葡萄の丸いカタチの実態が消えて、十字架だけが残った…。26人が信仰を守って殉教したというストーリが読み取れます。 聖フィリッポ教会  西坂公園の向かいにある教会は、二十六聖人のひとりでメキシコ人の聖フィリッポ・デ・ヘススに捧げて建てられたものです。この教会を見て、「なんだかスペインの建築家ガウディが設計したものを連想させるなぁ。」と感じた人も多いのでははでしょうか。それもそのはず、聖フィリッポ教会と記念館を設計した建築家の今井兼次さん(1895-1987)は、いち早く建築家ガウディの存在を日本に紹介した人なのです。教会堂の双塔には、京都・長崎・メキシコ・スペインの各地の窯元で焼かれたタイルが貼られています。写真をクリックしてみましょう。塔の拡大写真を見ることができますよ。  記念ミサの当日は冷たい雨が降っていました。鞭打つような冬の寒さと肉体にかかる苦痛をかみしめながら長く苦しい道のりを歩いた26人の姿はどのような思いだったのでしょうか。そして彼らの道行きや殉教を見た人々は、それをどのように受け止めたのでしょうか。そんな400年以上も前のできごとに思いを馳せながら、西坂の丘から長崎港に入ってくる船を眺めて時を過ごした2月5日でした  当サイトのながさき歴史散歩 第11回「 二十六聖人が歩いた浦上街道 」もご覧ください。 参考文献 「旅する長崎学3 キリシタン文化3」 26聖人順境、島原の乱から鎖国へ 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年
  • 古楽器リュートの魅力(2) 2014年03月25日
    古楽器リュートの魅力(2)
    〜永田さん&井上さんにインタビュー〜  1582年に長崎からヨーロッパに旅立った天正遣欧少年使節は、1591年(天正19)、長い旅から帰国しました。1587年に豊臣秀吉が伴天連追放令を発布していたため、彼らは「インド副王使節」の一員として日本に戻り、聚楽第で秀吉と謁見しました。そこで西洋楽器による演奏を披露したといいます。4少年が持ち帰ったその楽器は、アルバ(ハープ)、クラヴォ(鍵盤楽器)、ラウテ(リュート)、レベカ(ヴィオール)でした。やさしい音色に魅了された秀吉はアンコールを所望し、演奏を3回も楽しんだそうです。 前回に続き、リュート奏者として活躍する永田斉子さんと井上周子さんへのインタビューをご紹介します。 リュートの魅力   井上さん 「ライブに来てくださった方々のアンケートを見ると、心が安らぐ、癒されたという感想をいただいています。どんな風に楽しんでいただいてもいいのですが、一人の音楽家として思うのが、1つの音楽を私が聴いて感じたことが、リュートの弦を爪弾き空気を振動させていること。音楽を私という媒体を通して、お客さんと通じあう楽しさを会場で味わってほしいです。バスの中でひとりでiPotを聞いているのと違ってライブは楽しいですよ。 私の夫がレストランを経営しています。私が古い昔の音楽をやっていることもあって、夫も昔のレシピを調べて再現したりします。昔のレシピをみると非常に簡単でシンプルなんですよね。映画でローランド・ジョフィ監督の「宮廷料理人のヴァテール」の一場面にでてくるように、盛り付けてあるテーブルの横に花火や噴水などの演出に驚きます。食べることがスペクタクルで、このような宴を貴族が好み、そこに必ず音楽家がいました。王様が眠りに就くまで音楽が奏でられていたことから、今も昔も変わらないのは音楽と生活が結びついているということ。私は朝起きたらプチッと音楽を鳴らすほうなんですけど。ライブは、演奏は自分の表現ですね。」   永田さん 「確かに音楽と生活が結びついているのは素敵なことですよね。リュートの魅力は たった一人で自分のために弾くのもまた楽しいという点。理想としては私の演奏会にたまたまきてくださった方々が、自分も弾いてみたいと思って、弾く楽しみをもっていただけるといいなと思います。楽器の入手方法や習う場所などを考えてしまうと、そう簡単にはいかないのですが。自分が弾けたら日常の暮らしが心豊かになる、悲しいことがあってもそれを弾けば落ち着いていられる。また、たった一人の大切な人のために、そばで弾いてあげるとか、そういうことが音楽の究極のカタチだと思います。華やかなおもてなしのなかでの演奏もあり、また一方で、自分が落ち込んで悲しいときに、リュートを弾いてエネルギーを得ては次の日からまた頑張る、それもリュートの魅力です。」 人間が音楽を奏でる理由   永田さん 「モンゴルの人とお会いした時、伺った話があるんです。モンゴルでは見渡す限りの高原地帯で、人々は移住しながら生活をしています。年頃の人たちは男女の出会いのチャンスが非常に少ない。そこで偶然、年頃の男女が出会った時にどうするかというと、歌が得意な人は歌を歌い、踊りが得意な人は踊りを踊るんです。伴侶を得るために必死で披露するわけですよ。そのときのために備えて日々練習しているんです。その技が上手であれば相手の心を獲得し結婚して子孫繁栄となるのですが、演奏がイマイチで伴侶をえられなければ、結婚できず、次のチャンスまでまた長いこと待たなければならないのです。この話しを聞いて私は、なぜ人は音楽を奏でるのか、それは子孫繁栄のためなんだなと思いました。一対一なんですよ、基本的に。そして一期一会。演奏会の時もそう思いますね。客様が20〜30人と増えても、私は基本的に一対一で向かい合っていると思って演奏しています。」   井上さん 「ルネッサンスの場合はシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』もテラスで、音楽を爪弾きながら愛を語って、シラノ・ド・ベルジュラックの中のシーンでは2階の部屋に気づかせるために石を投げて、「なにかしら?」とテラスへ出てきたロクサーヌが下を見ると楽師たちが音楽を奏でて横で詩人が愛を語っています。」 長崎のお気に入りの場所は?   井上さん 「生月です! 休日なんかはよく生月に行くんですよ。佐世保に住んでいますので。車で運転すると、生月の島に架かる大橋のトラスが視界いっぱいにひらけて、そこに空があってスゴイですよね。私は出身が奈良県で大阪から電車で20分ぐらいのベッドタウンなので、今まで見たことのない自然がいっぱいな生月が大好きなんです。ひとけのないところにポツンとカフェがあったりして。波佐見もいいですね。焼物があって若い人たちがアートをやっているからよく遊びにいきます。軍艦島にも行きたいですね! 出島も好きで「和蘭(オランダ)商館の屋敷に住みたい!」と思ってしまいました。」 長崎で演奏してみたい場所   永田さん 「カステラを食べながらポルトガルの音楽を演奏するというコンサート、これは10年前に実現しました。今の夢は、大浦天主堂で演奏させていただくことです。天主堂で本当の宗教音楽を、17世紀の聖母マリアのための音楽をリュート2本、歌手2人、それにオルガンか、バロック・チェロを交えて演奏したいです。東京のほうではすでに披露していますので、ぜひ長崎の皆さんにも聴いて頂きたいですね。教会の多くは「教会堂は礼拝の場であって、コンサートホールではありません。」と言われることもありますが、それは大きな誤解で、宗教音楽は本来、教会堂で演奏されるために作曲されたものなのです。カトリックの信徒のためにかかれた音楽を、ふさわしい場所で演奏してみたいのです。心を込めて演奏したいと思います。」  長崎で奏でられていた西洋音楽は、当時のキリシタンの人々の心を癒し感動を与えていたのではないでしょうか。また、音楽を通して長崎の歴史を体感できるのは貴重な体験です。そのような機会が長崎に増えることを願って、永田さんと井上さんのご活躍に期待しましょう。  永田さんと井上さんは、2008年1月26日(土)、江戸東京博物館にて開催される県主催のイベント「旅する長崎学講座トーク&コンサート -長崎発、歴史を未来へつなぐメッセージ。-」に出演されます。お近くの方は、ぜひお出かけください! お申し込み方法はコチラまで。 DATA 永田 斉子 Seiko Nagata  長崎県出身、東京在住。国際基督教大学卒業。フランスのストラスブール国立音楽院古学科をディプロマを取得して修了。ルネサンス、バロック時代のリュートのソリスト、アンサンブルのメンバーとして活動中。CD「ふらんすの恋歌」、映画「耳をすませば」、NHK「迷宮美術館」「ルーブル美術館」など録音多数。「コンサートプロデュース・ルミエールプロジェ」を主宰。 ・ オフィシャルサイト ・ ブログ 井上 周子 Chikako Inoue  奈良県出身、佐世保市在住。東京音楽大学器楽学科(ピアノ専攻)卒業。在学中よりリュートを水戸茂雄氏に師事。1999年リヨン国立高等音楽院古楽器科にてリュート・通奏低音をE フェレ氏に師事。2003年フランスでは日本人ではじめてリュートの高等課程修了と同時にディプロムを取得する。ヴィルウルバンヌ国立音楽学校にてチェンバロ・通奏低音をAデュバール氏に師事、2004年にチェンバロ・通奏低音のディプロム取得。在学中より・通奏低音としてフランス各地で演奏活動に参加し、ジュラやモンペリエなどの音楽祭にも参加、帰国後、リュートニストとして活動するかたわら、ルネサンス音楽、初期イタリアバロック音楽のセミナーを開催するなど普及に努めている。2007年11月にリュートソロCD『melanges』をリリース ・ オフィシャルサイト