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県南エリア

  • 古楽器リュートの魅力(1) 2014年03月27日
    古楽器リュートの魅力(1)
    〜永田さん&井上さんにインタビュー〜  1582年に長崎からヨーロッパに旅立った天正遣欧少年使節は、1591年(天正19)、長い旅から帰国しました。1587年に豊臣秀吉が伴天連追放令を発布していたため、彼らは「インド副王使節」の一員として日本に戻り、聚楽第で秀吉と謁見しました。そこで西洋楽器による演奏を披露したといいます。4少年が持ち帰ったその楽器は、アルバ(ハープ)、クラヴォ(鍵盤楽器)、ラウテ(リュート)、レベカ(ヴィオール)でした。やさしい音色に魅了された秀吉はアンコールを所望し、演奏を3回も楽しんだそうです。 今回は、リュート奏者として活躍する永田斉子さんと井上周子さんにインタビューしました。このコラムは2回にわけてご紹介します。 リュートという楽器   永田さん 「リュートは撥弦(はつげん)楽器のひとつで、弦をはじいて音を出します。アラビアや中近東が起源といわれ、11世紀の十字軍の遠征によって、ヨーロッパへ伝わりました。当時は中近東の方が文明が進んでいたため、リュートは珍重され、それゆえヨーロッパのルネサンス絵画では天使が奏でる楽器として数多く描かれています。ヨーロッパのイギリス・フランス・ドイツ・イタリアなどの、主に宮廷などの貴族階層で、中世からバロック時代の約700年という長い間にわたって親しまれました。今、私たちがピアノやギターなどの独奏楽器、あるいは歌や他の楽器とのアンサンブルを楽しんでいるのと同じように、リュートはその時代ポピュラーな楽器だったのです。」 リュートの衰退   井上さん 「リュートは、12〜18世紀にかけて、サロン文化が隆盛をみせた貴族の間で発展しました。18世紀を迎えると貴族が没落。同時に貴族が親しんだ音楽も廃れていってしまいました。また世間では、音量が大きな楽器のニーズが高まりをみせました。リュートは音量が小さな楽器ですので、18世紀になると残念ながら人気がなくなってしまったのです。 1600年代のバロック時代になると、貴族に代わって興行主が劇場を取り仕切るようになりました。音楽は、興行主による商業ベースに組み込まれていきます。フランス革命以降は、サロンで少人数を集めるより、効率よく多くの人たちを劇場に収容するようになりました。劇場でたくさんの観衆に聴こえるように、楽器が改良されて音量がだんだん大きくなっていくんですよ。例えばバロックバイオリンからモダンバイオリンへの変化もそうです。舞台上の歌い手も、小さなサロンから大きなオペラホールに合わせた発声方法へと変化しました。」 リュートの再評価   永田さん 「パワフルなものをよしとする価値観の時代を迎えて、リュートのようなか細い音の楽器は完全に絶滅してしまいました。ベートーベンやチャイコフスキーなどの時代には、もう誰もリュートを弾かなくなったのです。ところが、20世紀初頭になって、音楽学者が博物館に眠っていた古楽器を復元しはじめました。その研究によって、ルネサンス時代のリュートは、心を慰める楽器として、音楽療法のひとつとして用いられていたということもわかりました。イライラがなくなり、眠りがよくなり、メランコリックな心を癒す効果が期待できる楽器なんです。リュートを弾いたり聴いたりすることは、「薬にまさる効果がある」と文献にも書かれているのですよ。 最近では、リラクゼーション、健康ブーム、あるいはロハス的な生き方が注目されています。パワフルなものよりも、日常の疲れに心やすらぐものをという人気から、弾いてみたいと言う人も増えてきています。」   井上さん 「王様は 眠りに就くまでの間、傍らのリュート奏者に演奏させていたのです。」 リュートと出会ったきっかけは?   永田さん 「昨日、長崎歴史文化博物館に行って子供の頃の出来事を思い出したんです。「弾琴図(だんきんず)」という絵画で、当時の南蛮絵師が描いたもの。昔はこの絵画の葉書がありまして、それを子どもの頃に見たことがあるんですよ。最初にリュートという楽器の姿を目にしたのは、その絵画だったと思います。当時の私はクラシックギターを習っていましたから、12〜13歳ぐらいの時だったかな。はじめてこの楽器を見たとき「これは何だろう?」って思ったんですね。 リュートを見て何だか懐かしい感じがするのは、私の前世の記憶かもしれません。」   井上さん 「私は3〜4歳からピアノを始めました。学生だったある日、音楽室にあったブラウトの「オペラ史」という一冊の本がきっかけで、オベラの歴史そのものに惹かれてしまいました。オペラが誕生したのは1607年。ちょうどイタリアの作曲家クラウディオ・モンテヴェルディの「オルフィオ」が上演された年でした。詩人がハープなどの楽器を奏でながら歌いはじめたことがオペラの起源とする説に惹かれました。生まれたてのオペラは、きっと詩の韻にあわせて伴奏されていたはずなのです。その伴奏に使われた楽器がリュートでした。今度は伴奏のルーツを探っていくと、なんとルネッサンス(ギリシャ時代の文明復興)に起こったオペラの原点にたどり着いたんです。それで、ピアニストになるよりプロの伴奏家になろうと決めました。 昔懐かしいレーザーディスクに収録されていた作曲家モンテヴェルディの「ポッペーアの戴冠」を見てリュートに感動。さらに、高校3年の時にみたフランス映画「めぐりあう朝」の一場面に登場するリュートやビオラ・ダ・ガンバをみて、スパッと進路を決めました。しかし、古楽器をシステマティックに学べる大学が日本になく、リュートを教えてくれる先生もいませんでした。古楽器の歴史背景まで教えてくれるヨーロッパへと留学しました。リュートが存在してたのは18世紀半ばのバッハぐらいまで。楽器としての歴史でいえば、リュート→チェンバロ→ピアノとなります。」   永田さん 「私たちが奏でる楽器は古楽器ですので、その当時の社会や宗教、国同士の勢力争などの歴史の時代背景を解ったうえで、さらに曲を解釈しなくてはいけません。リュートには解明されていない謎の部分もたくさんあります。そこは歴史を学びながらあれこれ推測するしかありません。その当時の空気感というのは、ヨーロッパに行けば今でも感じることができるでしょう。しかし、音楽で行きづまったとき、日本でその空気感を知りたいと思ったら、船にのって平戸に行ってみたりします(笑)。長崎には、平戸のオランダ塀や石畳など当時の面影を残したものが今でもありますから。約400年前の空気感を取り戻して音楽と向き合うと、新しい発見をすることがあります。」 バロック・ルネッサンス時代の音楽の位置づけ   井上さん 当時の貴族や王様の子女たちは、教養のひとつとしてリュートを弾いていました。いわゆるお稽古事です。王様ももちろん習っていました。弾いたり、踊ったり、貴族としてのふるまいを身につけていました。もちろん昔はCDのように便利なものはありませんでしたから、音楽をかけて楽しむことがないわけです! 音楽は全て生音楽。舞踏会などにお客様が来れば、お抱えの楽団で音楽のおもてなしをしていたのです。 だからこそ、録音された音があふれている現代に、ひとつの空間で生の音楽を楽しむことは、お客さんにとっても私にとってもすごく贅沢な時間だと思いませんか。」 興味のある人物は、ガリレオ・ガリレイと天正遣欧少年使節!   永田さん 「ガリレオ・ガリレイ、実は代々続くリュート奏者の家系なんです。当時の人たちは世襲制で親の家業を継いでいました。ガリレオの父は有名なリュートの作曲家であり演奏者、さらに理論家として本まで出版しています。実験的な曲をたくさん書いていて、その血統と性格が息子ガリレオに引き継がれました。リュート奏者としてのガリレオは、父をしのぐほどの腕前だったと言われています。彼の作った曲は残っていませんが、糸の張力や重力などの実験にリュートの弦を使っていたといわれています。しかし、父のヴィンツェンツォ・ガリレイの家業を継いだのは一番下の息子ミケランジョロでした。その息子3人にも家業が受け継がれました。ガリレイ家は代々リュート奏者の血筋だったのです。 その当時は天動説から地動説へという価値観の変化があったので、音楽の変化にも関係があるのではないかと考えています。   永田さん 「ガリレオ・ガリレイ、実は代々続くリュート奏者の家系なんです。当時の人たちは世襲制で親の家業を継いでいました。ガリレオの父は有名なリュートの作曲家であり演奏者、さらに理論家として本まで出版しています。実験的な曲をたくさん書いていて、その血統と性格が息子ガリレオに引き継がれました。リュート奏者としてのガリレオは、父をしのぐほどの腕前だったと言われています。彼の作った曲は残っていませんが、糸の張力や重力などの実験にリュートの弦を使っていたといわれています。しかし、父のヴィンツェンツォ・ガリレイの家業を継いだのは一番下の息子ミケランジョロでした。その息子3人にも家業が受け継がれました。ガリレイ家は代々リュート奏者の血筋だったのです。 その当時は天動説から地動説へという価値観の変化があったので、音楽の変化にも関係があるのではないかと考えています。 豊臣秀吉を魅了した西洋音楽   永田さん 「当時の日本人が最初に西洋の音楽を聴いたときに、何に驚いたか、何に新鮮だと感じたのかということをよく質問されます。ひとつの仮説としては、日本の音楽は基本的にひとつのメロディーをみんなで一緒に演奏したりする音楽といえるでしょう。例えば読経や祭りのお囃子や庶民の鼻歌だとか。演奏する人が何人いても、メロディーはひとつ。ところが当時のヨーロッパの音楽のスタイルは、いくつものメロディーが絡み合っている様式です。ですから秀吉が天正遣欧使節の4少年の演奏を聞いたときに何に驚いたかというと、複数のメロディーが織りなす"ハーモニー"です。その和音の響きの美しさに驚き、秀吉は大喜びしたのだと思います。」 古楽器のリュートから読み解く、ヨーロッパの歴史。そして、今から400年以上も前、日本にやってきたポルトガル人の宣教師やヨーロッパを旅した天正遣欧少年使節が、楽器を通じて交流を深めていたという歴史に思いを馳せることができました。次回も、永田さんと井上さんのおふたりに、リュートの魅力をお聞きします。 DATA 永田 斉子 Seiko Nagata  長崎県出身、東京在住。国際基督教大学卒業。フランスのストラスブール国立音楽院古学科をディプロマを取得して修了。ルネサンス、バロック時代のリュートのソリスト、アンサンブルのメンバーとして活動中。CD「ふらんすの恋歌」、映画「耳をすませば」、NHK「迷宮美術館」「ルーブル美術館」など録音多数。「コンサートプロデュース・ルミエールプロジェ」を主宰。 ・ オフィシャルサイト ・ ブログ 井上 周子 Chikako Inoue  奈良県出身、佐世保市在住。東京音楽大学器楽学科(ピアノ専攻)卒業。在学中よりリュートを水戸茂雄氏に師事。1999年リヨン国立高等音楽院古楽器科にてリュート・通奏低音をE フェレ氏に師事。2003年フランスでは日本人ではじめてリュートの高等課程修了と同時にディプロムを取得する。ヴィルウルバンヌ国立音楽学校にてチェンバロ・通奏低音をAデュバール氏に師事、2004年にチェンバロ・通奏低音のディプロム取得。在学中より・通奏低音としてフランス各地で演奏活動に参加し、ジュラやモンペリエなどの音楽祭にも参加、帰国後、リュートニストとして活動するかたわら、ルネサンス音楽、初期イタリアバロック音楽のセミナーを開催するなど普及に努めている。2007年11月にリュートソロCD『melanges』をリリース ・ オフィシャルサイト
  • 外海と五島をつなぐ「温石」 2014年03月25日
    外海と五島をつなぐ「温石」
    〜キリスト教の信仰を守る生活のツール〜  第9回で紹介した"長崎巡礼センター"のインタープリターとして活動している犬塚明子さんにインタビューしました。彼女は、長崎にある教会堂を調べていくなかで、「温石(おんじゃく)」と呼ばれる石と、新たな出会いをしたそうです。 温石」とは、結晶片岩に分類される天然石です。暮らしに役立つ道具として、日本の生活のなかで古くから様々な用途に使われていました。カイロ(懐炉)のない時代、寒さをしのぐために、火や熱湯で暖めた温石を布などでくるみ、懐に入れて体を暖めていました。さらに、患部を温めて血行を促進しながら治療する温熱療法にも使われました。また、禅宗の僧が、胃の部分に温石を当てて空腹をしのいだことから、茶の湯では、茶会で客人をもてなす「懐石料理」の由来にもなっています。  犬塚さんが外海(そとめ)と五島で出会った、同じ「温石」。海を越えて点在する石を結ぶ先には、いったいどのような物語が隠されていたのでしょうか。さっそく、聞いてみましょう! 外海の神話『天地始之事』-テンチハジマリノコト-  「1614年、徳川幕府が発布したキリスト教の禁教令のもと、外海地方などのキリシタンに語り継がれた『天地始之事』という物語があります。これは、聖書が元になっているようですが、日本の土着的な要素が加わった物語へと変化した内容でまとめられています。外海地方のキリシタンたちによっていくつか書きとめられています。現在残されている資料の一部を少し読みました。  その中に、禁断の実を食べるという罪を犯したアダムとエバの子孫が地上に降りるとき、神様に『合石(温石の方言)のある土地を目指して行きなさい。』と言われる場面があるのです。温石というのは、外海地方の地盤を形成する結晶片岩(けっしょうへんがん)という石のことを指しているそうです。  キリシタンたちが潜伏していた外海は、急斜面で自然条件が厳しく、生活が大変な土地柄で、ある意味、陸の弧島といったところ。そのような場所で、自分たちが必死に信仰を守って生きていけたのは、『神様がそこ(温石のあるところ)に行きなさいと言ったから、ここ(温石のある外海地方)に住んでいる。だから、今は大変だけど、いつかきっといいことがある』と信じることができたからではないか、そういう願いが『天地始之事』にはこめられているのではないかと思いました。」 海を渡った温石(おんじゃく)  「温石は、外海地方など西彼杵半島で多く産出される石です。外海地方では、かまどや家の周りの石垣などに用いられてきた生活道具のひとつ。出津(しつ)に暮らす農家の方に温石について尋ねると、畑を掘ったらゴロゴロと出てくるということでした。ノミを入れると簡単に割れることから加工がしやすい石だそうです。 外海地方の出津出身の故・田中千代吉神父さまの話を書きとめたものを見ていて、この温石がなんと、海を渡って五島へと運ばれていったということを知りました。 寛政年間に五島藩の要請で、大村藩の人たちが五島へと移住したのです。その多くは秘かにキリスト教を信仰していた農民だったようです。その時、外海の人たちは、五島へ向かう舟に、この温石を乗せて運んだそうなんです。五島列島では温石(結晶片岩)は産出されません。もし五島で温石を見かけたら、それは外海から運ばれてきた石だというのです。  ある日、偶然にも水ノ浦教会堂(長崎県五島市岐宿町)の上にある、昔の水方の(潜伏キリシタンの間でのリーダー的な存在)屋敷に行きました。ここは"五島崩れ"という最後のキリシタン迫害がおきたときに、牢屋となった場所だったんですが、そこで温石を見ることができました。ここに住んでおられる方から、『外海から運ばれた石』として語り継がれていると伺うことができました。1865年(慶応1)、長崎の大浦天主堂において、浦上の信徒がローマからやってきた神父と歴史的な再会を果たすと、五島の人たちも自分たちも信徒だということを伝えたくて大浦天主堂へと向かいます。その時に、水ノ浦のキリシタンも、舟底の重りとして、この温石を再び積んで大浦へと漕いで行ったそうなんです。  でも、なぜ重たい石を小舟に乗せてわざわざ運んだのかが不思議でした。最近知ったのですが、かつて外海地方の漁師さんは、舟の上で煮炊きをする携帯かまどを『温石』でつくり、舟底や延縄の重り、錨などとして『温石』を利用していたのだそうです。それなら、移住するときに舟で石が運ばれても不思議ではなかったと思いました。  水ノ浦にあったのは、徳川幕府の厳しい禁教令のなか、"キリシタンの楽園"を夢見て五島を目指した潜伏キリシタンが、200年以上も昔に外海から一度海を渡ってきて、そしてその約70年後に、潜伏から信仰の復活を願って、再び海を渡って長崎へ行き、そしてもどってきた『温石』だったのでした。単に実用品としてそこにあるとは思えません。『信仰の出発点』であり、『神様が約束してくれたふるさと』から運んできた石として、『この場所にある』のだと思えました。 今、『海を渡った温石』のことを外海でも五島でもご存知の方は少ないようです。記憶のかなたに消えかけている石・・・。しかし、きっと、寛政年間に多くの人が"神様が約束してくれたふるさと"の石を運んだのではないかと思うのです。私は、今、キリシタンたちが命をかけて伝えてきた信仰と温石との関わりを追いかけてみたいという思いに駆られています。」  まったく思いがけないお話でした。石までが長崎のキリシタンの歴史を物語っているとは、新たな発見でした。便利な電化製品や機械などがたくさんある社会になって、自然に対する生活の知恵は忘れ去られていく世の中、私たちの生活に石とのかかわりはあまりないような気がします。今回、海を渡った温石のお話を通して、キリシタンの方々の当時の暮らしや思いを垣間見たような気がしました。 DATA 犬塚明子 Akiko Inuzuka  1956年生まれ。長崎県諫早市出身。長崎市在住。市内の某百貨店の広報担当として勤務。『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社)を担当。 2006年5月『旅する長崎学2 キリシタン文化2』(長崎文献社)、同年11月『旅する長崎学5 キリシタン文化編5』の構成・文を担当。2007年5月から長崎巡礼センターのインタープリターとして活動中 参考文献 『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 監修/カトリック長崎大司教区 発行/長崎文献社 『日本思想大系25 キリシタン書 排耶書』 発行/岩波書店 写真提供 「聖ヨハネ五島像の台座にはめ込まれた温石(水ノ浦教会)」犬塚明子 「民家の井戸の上に置かれた温石(五島市岐宿町)」犬塚明子 水ノ浦教会(五島) 長崎県観光連盟
  • 女神と男神 2014年03月25日
    女神と男神
    〜長崎港の歴史物語〜  2005年(平成17)12月11日に「ヴィーナスウイング 長崎女神大橋」が開通しました。長崎市の南部と西部を結ぶ長崎南環状線の重要なポイントとして誕生したこの橋は、休日にはドライブコースとして車が行き交い、無料の歩道を利用して対岸へと渡る散歩コースとして楽しまれているスポットとなりました。夜はライトアップされ、長崎港に彩りを添えます。  ところで、この女神大橋の"女神"が地名であることは周知の通りですが、対岸に"男神"があったことをご存知でしょうか? この女神大橋のたもとには女神と男神という岩が祀られ、その起源は古く、『日本書紀』にまでさかのぼる歴史物語があります。さらに17世紀、徳川幕府の鎖国時代にやってきたポルトガル船の出航を阻止した場所であり、その前代未聞の警備体制のうらには不思議な伝説も残っていました。さっそく女神大橋を渡って、歴史をひも解いてみましょう。 ポルトガル使節船事件<徳川時代>  17世紀、徳川幕府は、キリスト教の布教活動を防止するために、長崎の有力商人によって人工の隔離島「出島」を築造しました。ポルトガル人は、1636年(寛永13)に完成した出島に収容され、1639年(寛永16)には出島からも追放され、日本への来航が禁止されました。 それから8年後、長崎の港を舞台に大事件が起こります。1647年(正保4) 6月、ポルトガルの大きな軍船2隻がやってきたのです。この船には修好使節が乗船しており、「自国ポルトガルは、イスパニア(スペイン)から独立した。」ということを報告するためにはるばる日本へやってきたとされますが、実のところ本当の目的は通商の再開だったとか。再び貿易を行い、キリスト教を布教する許しを幕府からもらおうとしたようです。 長崎奉行は、幕府の指示を待つあいだ、ポルトガル使節が船から降りたり、勝手に出航したりしないよう、ただちに厳重な警備にあたりました。そのものすごく厳重な警備の様子が詳細に描かれた一枚の絵図「正保4年葡萄牙船入港ニ付長崎警備図(長崎歴史文化博物館蔵)」をご覧ください。左が出島のある長崎港で2隻のポルトガル船が見えます。それを阻止するように男神(下)から女神(上)の小島まで大網が張られ、船を浮かべ板を敷いた舟筏橋で港を封鎖して、ポルトガル船を港の外へ逃がさないようにしている状況が描かれています。この「長崎警備図」によると「舟橋長三丁四十三間」=長さ約400m。さらに大小数百隻の船を3列にズラリと整列させて、周囲の海岸にも配置。その全ての船は威嚇するようにポルトガル船の方を向いています。 約2ヶ月間、この非常事態の警備にあたったのは伊予松山城城主松平隠岐守・伊予今治城城主(現:愛媛県)、細川藩(現:熊本県)をはじめ、福岡藩、佐賀藩、大村藩、小倉藩、柳川藩など西日本各地の諸大名。『徳川実紀』によると軍勢は約48,300人、船は約898艘がこの警備に参加したと記されています。 結果的に徳川幕府は、"独立の報告につき処罰なし"とし、ポルトガル船は幕府の出航命令に従って長崎港を8月に去っていきました。ともかくも、ポルトガルの軍事的脅威に対する公儀権力の対面を守ることには成功しました。幕府がこれほどに大がかりな警備体制をしいた理由のひとつには、1640年(寛永17)にポルトガル使節を処刑したことへの報復を恐れたのではないかといわれています。この事件以降、近隣の各藩は藩士を長崎に常駐させて護衛にあたり、緊急時の幕府の指示に備えました。  その後、ほかの外国船もやってきました。1673年にイギリス船リターン号が通商復活の要請のため、1685年にはポルトガル船サン=パウロ号が漂流民を送還するため、来崎しましたが、大きな衝突もなく帰っていきます。幕府は当初のような厳重な海防策をやわらげ、常時、福岡と佐賀の両藩の交代制、さらに大村や島原などの周辺の藩で補うというかたちで、恒常的・制度的な警備体制を維持しました。また、平戸藩によって、神崎(男神の付近)・女神・太田尾の3ヶ所、長崎港の外には白崎・高鉾島・長刀岩・蔭尾(現:香焼)の4ヶ所、あわせて7ヶ所に石火矢台場が築かれました。  こうしてオランダ船と唐船以外の船が訪れることはなくなり、1647年のポルトガル使節船事件から安政の5か国条約締結(1858年)によって日本が開国へと向かうまで、200年以上もの月日を待つことになります。 男神と女神の誕生は『日本書紀』!?<弥生時代>  男神と女神には、神功皇后にまつわるエピソードを起源とする歴史物語があります。神功皇后は仲哀天皇(第14代天皇)の妻。約2世紀の初期、神功皇后が三韓征伐へと向かう途中で長崎に立ち寄ったことが『日本書紀』に記されています。この時ちょうど神功皇后は皇子さま(応神天皇)を身ごもっていました。夢で見た神様のお告げにより、浦上村からもってきた2個の霊石を「鎮懐石」として上帯に挟み出陣したといわれています。長崎を出航する時に船から眺めた美しい景色・・・。その地形に陰陽の2つの神がいるようだと感動して、陰神と陽神とよばせ、対岸2ヶ所に神様を祀ったのだそうです。これがはじまりといわれ、三韓から持ち帰った倭奴国王印も鎮懐石とともに祀ったそうです。後に男神・女神とよばれるようになりました。 長崎の東部には神功皇后にまつわる地名があります。皇后が鉾を立てた「高鉾島」、榊に鈴を付けて祈った地「神ノ島」、ほか「皇后島」も関係があるという言い伝えが残っています。 女神と男神を結ぶ"白狐"の伝説<神崎神社>  対岸にあって向かい合う男神と女神。神が宿る2つの岩には、先に紹介した「ポルトガル使節船事件」にまつわる伝説があります。長崎港に突然姿を現した2隻のポルトガル船に対して、九州各藩が警備にあたった時のお話です。 男神と女神の間に船を並べ板を渡すという作業は、波が高くうねり、強風にあおられ、困難を極めました。さらにポルトガル船を長崎港のなかに閉じ込めての作業ですから、いつポルトガル船から攻撃を受けてもおかしくない危険な状態だったのではないでしょうか。村人たちは男神に向かって一心に祈りを捧げました。途端に神崎鼻にある男神から、突然2匹の白い狐が現れ、素早い動きで船橋を駆け抜けて、対岸にある女神へと消えてしまいました。すると、悪天候による荒波や強風がたちまち鎮まり、難攻していた作業がみるみる完成していったそうです。 この不思議な出来事は神の思し召しとして社殿が建立され、その後、古祠を合祠して神崎神社となりました。海を渡って参拝するこの神社には、航海の神様として、唐船やオランダ船からの寄付も多かったといわれます。また、男神神社はいつしか商売繁盛の神様とされ、金貸稲荷社(かねかしいなり)をお参りする商人が多く訪れたそうです。その近くに設置された警備のための台場は明治維新の前に廃止となり、周辺の海岸には石油備蓄槽が設置され行き来するには不便な場所でした。現在、女神大橋の開通にともなって整備され、山頂にある神崎神社へは木鉢方面から歩いてお参りすることができるようになりました。  さすが、長崎!! 新しい観光スポット「女神大橋」に秘められた長〜い歴史物語に驚きました。歴史をひも解きながら現地を訪れる楽しみを体感できた一日でした。それにしても、長崎港に侵入してきたポルトガル船警備のために九州各藩が必死でつくった舟筏橋の真上に、いま、女神大橋が架かっているなんて、歴史の流れって本当に不思議なものですね。 参考文献 『旅する長崎学3 キリシタン文化3』 企画/長崎県 製作/長崎文献社 2006年 『長崎県の歴史』 著/五野井隆史ほか 発行/山川出版社 1998年 『崎陽群談』 長崎県立長崎図書館/写 1966年 『長崎事典 歴史編』 発行/長崎文献社 1982年 『長崎市史』 企画/長崎市役所 発行/清文堂出版 1967年 『日本書紀』巻8 長さ 一間=1.81818182メートル  一町=109.090909=60間として計算しました。 写真&資料 「正保4年ポルトガル船入港ニ付長崎警備図(部分)」長崎歴史文化博物館収蔵
  • 長崎十六聖人殉教者 2014年03月25日
    長崎十六聖人殉教者
    ー聖トマス西と15殉教者ー  1597年に西坂の丘で26人が殉教した事件を皮切りに、56人が西坂で処刑された1622年の元和の大殉教、1627年頃に始まった雲仙地獄での拷問など、残酷さを極める迫害によって次々とキリシタンたちの多くの命が奪われました。 領民は宣教師をかくまうだけでも重罪とみなされて処罰が下されたというキリシタン禁教の時代がありました。  今回訪れた長崎市の中町教会は、長崎十六聖人に捧げられています。 この聖トマス西と十五殉教者16人は、徳川幕府が支配した江戸時代、厳しい禁教令のなかで、1633年から1637年にかけて、長崎の西坂の丘で穴吊りや火あぶり、水責めの刑に耐えながら信仰を守り通して殉教した人たちです。  16人のほとんどがドミニコ会で、司祭が9人、修道士2人、大村のマリナと長崎のマグダレナという女性が2人、信徒が3人でした。 出生地でいうと、日本人が9人、外国人が7人。 その7人は、スペイン人司祭アントニオ・ゴンザレスら4人、フランス人司祭のギョーム・クルテ、イタリア人司祭のヨルダノ・アンサロネ、そしてフィリピン人で最初の聖人となった信徒ロレンソ・ルイスです。  16人のひとり「聖トマス西」は、生月出身で、日本人で初めてドミニコ会の司祭になった人物です。 彼は、少年時代を有馬のセミナリヨで過ごし、伝道士として教会で働いていましたが、1614年マカオに追放されます。 しかし2年後に帰国した長崎でドミニコ会の神父と交流をもちながら活動を続け、1624年にドミニコ会に入会し、1626年フィリピンのマニラで司祭となりました。 台湾や琉球で布教活動をおこない、1629年には長崎に潜入し、苦労の生活を強いられながらも密かにミサを捧げたりして信徒を導いていました。 ともに宣教していた神父を看病していたところを捕らえられ、過酷な拷問にさらされますが信仰を棄てず、1634年、西坂の丘で穴吊りの刑によって44歳で殉教しました。 聖トマス西が殉教した1634年というと、幕府の命令によって長崎の商人が出島の築造に着手し、また諏訪神社の例祭・長崎くんちがはじまった年でもありました。 「長崎十六聖人(聖トマス西と15殉教者)」は、1987年(昭和62)、時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人に列せられました。 日本との関係でいえば、1597年に西坂で殉教した「日本二十六聖人殉教者」が1862年に列聖されて以来、125年ぶりのことでした。 現在、白い尖塔が長崎の町並みと青い空に映える中町教会には、この16人の殉教者を顕彰する記念碑が建立され、毎年9月の第4日曜日には記念ミサが行われています。  この2007年6月、188人の日本人殉教者(ペトロ岐部と187殉教者)が福者として列せられることが、教皇ベネディクト16世によって承認されましたが、この中には、聖人「聖トマス西」の父であるガスパル西玄可と、その妻ウルスラと息子のジョアン又市が含まれています。 フランシスコ・ザビエルが布教した平戸の松浦藩に属する生月島は、キリシタンの籠手田一族が中心でしたが、実際には平戸に住んでいたので、家臣の西家が代々生月の代官を務めていました。 生月にも迫害が迫り、籠手田氏が信仰を守るために1599年長崎に退去したとき、ガスパル西は職を解かれましたが島を離れず、引退して妻とともに生月の伝道士となり、信仰面でリーダー的な存在であり続けました。 玄可は1609年に生月で殉教し、同じ頃、少し離れたところでその妻ウルスラと息子又市も殉教しています。 先に聖人に列せられた息子「聖トマス西」のゆるぎない信仰は、父ガスパル西玄可が家族全員を導き育てたゆえに生まれたものだったのではないでしょうか。 信仰を貫く強いスピリットが親子のあいだに受け継がれ、離れた地にあっても時を移しても同じ生き方をした・・・。 かけがえのない家族の姿がとても感動的な生月の西家の物語です。 中町教会 明治22年(1889)に建立された教会。 創立者の島田要助神父は、キリシタン大名 大村純忠ゆかりの地として大村藩が治めていた領地内の蔵屋敷の跡地に、日本人のための教会を設立に着手しました。 設計者はフランス人のパピノー神父で、着手してから8年後に完成しました。 創建当初はレンガ造りの赤い建物でしたが、原爆の被害を受け、焼け残った外壁と尖塔を活かして白亜の教会堂へと生まれ変わりました。 昭和62年(1987)に教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人に列せられた長崎十六聖人に、翌年捧げられました。 教会の敷地の一角には、長崎十六聖人殉教の碑が建立され、16人をイメージしたモニュメントが置かれています。 所在/長崎県長崎市中町1-13 お問い合わせ/095-823-24841 開館時間/6:00〜18:00 ミサの日/土曜日19:00〜、日曜日6:30〜/9:00〜 イベント/9月の第4日曜日…聖トマス西と15殉教者記念ミサ リンク/ http://nakamachi.sakura.ne.jp/index.html アクセス/ 徒歩…JR長崎駅より約6分。 路面電車…[3番・蛍茶屋-赤迫]に乗車し<桜町>で下車し、徒歩約4分。 バス…長崎バスもしくは県営バスに乗車に<桜町>で下車し、徒歩約4分。 参考文献 「旅する長崎学3 キリシタン文化3」企画/長崎県 制作/長崎文献社 特集2-第4章 受難の時代に生きたキリシタン 長崎十六聖人と金鍔次兵衛 聖トマス西と15殉教者/カトリック中央協議会 長崎における44人の殉教者/長崎大司教区 殉教者列福推進委員会編
  • 長崎巡礼センターを活用しよう! 2014年03月27日
    長崎巡礼センターを活用しよう!
    教会の魅力を語る人びと その3  長崎の持つ歴史的な遺産である教会群をどのようにPRしていけばいいのか…。様々な意見がとびかい3年。着々と準備が進み、「長崎巡礼センター」開設という一本の明るい光が差し込みました。2007年5月に長崎カトリックセンターの1階にオープンした「長崎巡礼センター」が担う長崎流の新しい情報発信の役割とは何なのでしょうか。インタープリター(=翻訳者)として、特異な長崎の歴史を伝えたいと話す入口仁志さんにインタビューしました。 「長崎巡礼センター」の開設 <教会群を巡礼するための総合窓口 + ユースホステル>  「長崎巡礼センター」の構想は、実は3年前からプランとしてありました。2年前の7月、「長崎カトリックセンターの宿泊施設部門をユースホステルと併設して、一般向けに開放できる仕組みにしませんか。」という提案をカトリック長崎大司教区にしました。ユースホステルという機能は、世界中に向けた情報発信が可能なので、より内容の濃い発信ができるのです。また、カトリックセンターは、どなたでも宿泊利用できることをもっと強く発信したかったのです。 長崎の歴史を語ろうとした場合、どうしてもカトリックの話に触れないと歴史は喋れません。そこでユースホステルでは、訪れてくれる若者たちに、当然、長崎の歴史とともにカトリックの歴史を伝えています。長崎カトリックセンターでは6階をユースホステルのフロアにして、夜8時から9時まで、宿泊者を対象としたミーティングをして情報を発信してきたのです。ですから長崎カトリックセンターでは、すでに2年前にはユースホステルをカトリックの発信基地とする機能をスタートさせてきたという経緯がベースとしてあるのです。 昨年の夏に、長崎教区の大司教さまと県の観光推進本部のトップとの間で、お互いにトラブルが発生しないように、観光客が長崎を気持ちよく訪れるためにはどうしたらいいかという会議がもたれました。その後、関係者が集まり、月1回のペースで交渉が続けられました。その中で、<ながさき巡礼>という言葉で取り組むこととなりました。今年の3月には、カトリック側では県内の教会をはじめとする巡礼スポットを示すこと、どう捉えるのか具体的に言葉で表現すること、巡礼の主だったコースを示すこと、また、カトリックのなかにも巡礼センターを立ち上げましょうということが決まりました。ですから、国内外のカトリック全体の巡礼センターとしても同時に発信していきたいので、表記は<長崎巡礼センター>とし、その対応を始めました。」 世の中が求めているもの  「数年前、まだ世界遺産候補の話がまだ表に出ていない頃、もうすでに世界の社会全体がカトリック開放にベクトルが向きはじめていたのです。例えば、若い人はクルス(十字架)のネックレスをするのはザラでしょ? でもその若者たちは別に信徒でもないですよね。で、今の若い人たちが何に頼るかといった問題もそうです。みんな社会的不安系といった将来的な不安を抱えているじゃないですか。逆の言い方をすると、ものすごくいいタイミングで教会に目が向きはじめているのではないかと思ったのです。」 ガイドではなくインタープリターとして仕事をする  「長崎の歴史は、キリスト教なしには語れない…。実は別の仕事としてやっていたのが、長崎教区が主催する巡礼のお手伝いです。そのなかで僕自身、3年間、あらゆる教会堂や巡礼地を巡り、現地を訪れました。例えば、みなさんは五島にいくと有名な教会堂に行きますね。有名な教会堂だろうが小さな教会堂だろうが、そこの信徒さんにとっては大切な御堂であり、大切な歴史的背景を持っています。だからそれは、そこに行かないとわからない。それも自分自身が感じないと人々に説明できない。説明するには、自分が感じることって必要なんですよね。僕は<ガイド>という言葉を使うのはあまり好きではなくて、<インタープリター=翻訳者>という言葉を使います。何を翻訳するかというと、カトリックの人たちの生き様がどういうものなのかということ、長崎を訪れる人たちに、私の感じたことを伝える仕事をずっとやってきたんですよ。信徒ではないけど(笑)。」 観光の落とし穴  「教会堂を訪れる観光客が増えるなかで、実はトラブルも多く発生しました。聖水盤をタバコの灰皿にするという、あってはならない行為。タバコを吸いながら教会堂のなかに入ること自体が無茶苦茶なことですよ。また、観光セクションがよくやる間違いなんですが、トイレ休憩を教会堂にあててしまうのです。「おい待てよ!」って言いたくなります。なぜなら、教会堂のトイレは信徒のためのもので、通常1〜2人位しか使えないようになっている。このことを知らない人が旅行プランを企画しているんです。そして、お祈りしている信徒さんがひとりでもいたら、教会堂の中には普通入れませんよね。それどころか内陣といわれる祭壇に入って荒らす人、中には教会堂の備品を盗む人など。観光のニーズが高まるにつれて、これらのトラブルも発生しています。この現状を今すぐ改善しなければいけません。せっかく教会に目が向いてるのに教会側がそれに対応しないというのは、ある意味もったいない。みんなの目が教会に向いているのであれば、その人たちと対話をすることは必要だということなのでしょう。」 巡礼とは?  「巡礼とは、場所をまわってみること。それは、人間ひとりひとりの内的な作業なので形式的なスタイルはありません。ですから、100人いれば100通りの巡礼があります。僕は信徒ではないけれど、巡礼地をまわると、いろんな事を感じます。そのことをできるだけ素直に伝えることを心がけてご案内しています。巡礼に参加しているみなさんも、いろいろな事を感じるはずです。その思いを大切にして欲しいと思います。 巡礼者をご案内していると、僕にとってむずかしい質問がたくさん出てきます。 「ミサとは?」 「何をお祈りしているのですか?」 「五島に住んでいる私たちとバチカンの信徒さんとは、神様との距離って違うの?」 などなど。 「帰ってから近くの教会を訪ねて神父様とお話ししてみてください」 とすすめることにしています。」 「長崎巡礼センター」としての仕事  「長崎巡礼センター」は、今、立ち上がったばかり。まだ、実務は伴っていなくて、まずはパンフレットの取り寄せから。少なくとも観光パンフレットは、このセンターに来れば全部揃っているように環境を整えています。 また、巡礼 地をめぐるコースを作りましょうということで、マップが載った旅のガイドブックを企画し、今その作業が進行しているところです。 僕の思う巡礼センターの仕事とは、神父さまは指導していただく人なのであって、自分はあくまでインタープリターの仕事だと思っているんですよ。こういう生き様があるんだよっていうことが伝わればいいのだと。そう、<伝える>という仕事。五島巡礼では、どこに行かなければいけないとか、贅沢なものを食べてはいけないとか、そういうことじゃありません。五島でしか味わえない旬の新鮮な海の幸がいっぱいありますからね。現地を体感してもらえれば。僕は体験上、巡礼の一回ぐらいはバーベキューをするプログラムは楽しいなと思います。旅に参加した人たちのその楽しさが、僕たちにとって巡礼のごちそうなのかなと思います。巡礼にカタチはない。あくまでも巡礼に参加した人たち同士、行った先々でのコミュニケーションが大切です。信仰を持っている人の良し悪しや強弱ではなく、その中で信仰を持っている人たちの強さや生き様、すごさが伝わればいいなと思います。たとえば、浦上天主堂に連れて行くと原爆のイメージが強いですが、信仰の礎が建っています。浦上天主堂が建つ以前に何があったのだろうか?という疑問から始まり、秘密教会の跡は約140年前の弾圧、ベアトス様の墓は約400年前の弾圧、大橋の川を渡ったらサンタ・クララ教会の跡がある。浦上天主堂周辺だけで約2時間の案内ができます。ユースホステルの1時間のミーティングに参加された方は、みなさんホントにビックリされますよ。 長崎の街は宝の山なんです。スゴイですよ。飽きないくらい上質の旅、巡礼のスポットがある!」 DATA 入口仁志 Hitoshi Iriguchi 1946年生まれ。長崎県長崎市の出身。カトリックセンターのマネージャーとして、「長崎巡礼」の業務を担当。
  • 教会巡礼のマナー 2014年03月27日
    教会巡礼のマナー
    教会の魅力を語る人びと その2  「長崎巡礼センター」は、長崎大司教区と長崎県が協議しながら立ちあげた長崎大司教区公認の窓口。今般の状況では、公式の窓口を置かないと対応できないと判断してセンターの設置を決定。一般の方に活用してもらいたいし、133ある教会堂の各々の関係者にも、このセンターを認知してもらわなければいけないので、課題は多いと語る。そのなかで、まず、教会を巡礼するときのマナーを、そして、教会を訪れることの意義を聞きました。 「巡礼とは体感すること pilgrimage is sensory  「「まず理解して欲しいのは、教会堂は祈りの場であって、観光施設ではないということ。<観光から巡礼へ>を合言葉にしたい。教会を訪れる時に、その文化や歴史、キリスト教を知ろうと思って来てほしいですね。今、実際に生きている信仰を、生きている祈りを、生きている教会堂を巡って体験・体感すること。それが巡礼なのです。アナタが教会堂に来たとしたら、観光ではなく「祈る」ということをして欲しいですね。キリスト教の信徒でない人も、祈りと祈りの場を体験するわけなんですよ。その場にいるということだけで何か感じることがあるわけですから。それが信仰の体験、巡礼なんですよ。そこで教会堂で守って欲しい8つのことをお話しします。」 教会巡礼のマナー 1.教会堂は祈りの場。聖なる場所では私語をつつしんで!  「教会堂には、観光施設にある「携帯の使用禁止」というような張り紙はありません。でも注意書きがないからといって、教会堂で大声をあげたり、携帯の着メロを鳴らして堂内で話したり、好き勝手に動いて携帯の写メで「カシャッ」と音をたてて撮ったりしないでください。また、教会堂の中で祈っている人がいたら、邪魔しないように静かに拝観してください。もちろん教会堂では結婚式や葬儀も行われます。その時は、拝観はご遠慮ください。」 2.聖水盤について!  「教会堂には、観光施設にある「携帯の使用禁止」というような張り紙はありません。でも注意書きがないからといって、教会堂で大声をあげたり、携帯の着メロを鳴らして堂内で話したり、好き勝手に動いて携帯の写メで「カシャッ」と音をたてて撮ったりしないでください。また、教会堂の中で祈っている人がいたら、邪魔しないように静かに拝観してください。もちろん教会堂では結婚式や葬儀も行われます。その時は、拝観はご遠慮ください。」 3.鐘を鳴らさないでください!  「残念なことに、年に何回かは起こってしまう出来事のひとつです。教会の鐘の音は宗教上たいせつな合図。仏教のお寺の鐘も同じことではないでしょうか。目の前にヒモがあるからといって、引っ張ってはいけませんよ!」 4.内陣に勝手に入らないで!  「祭壇及び朗読台などが配置されている場所は、祭儀を執りおこなう中心となるところで“内陣”と言っています。普通の教会堂では一段高くなっています。そこには聖櫃があってキリストの聖体を安置しています。神聖な場所ですので、絶対に入らないでください。また、外陣は参列する人たちのための祈りのスペースです。まずは座って、ゆっくり祈ってみてください。」 5.教会堂内に置いてあるものに触らないで!  「聖書・聖歌集・祈祷書(お祈りの本)などが置いてあります。堂内には教会のものもあるし、個人のものもあります。おわかりの通り巡礼者のものでないことは確かですね。教会によっては信徒の皆さんのMY座布団も置いてありますし、あとMY席も! 毎日ミサに来る人もいますから、みんなの黙認のもと自分の専用の席があるんですよ。もしかしたらMYメガネを置いているかもしれないですね。勝手に触らない、使わない、当たり前の心得ですね。」 6.飲み食いは当然ダメ!  「教会はできるだけオープンにしています。だからといって勝手に入って飲み食いをしてはいけません。いや、ウソだとお思いでしょうが、たまにあるのです。疲れたからといってペットボトルを取り出して飲んではいけませんよ、教会堂の中は休憩所ではないのですから。飲む・食う・吸うは別の所で。」 7.楽廊(歌隊席)にも勝手に入ってはいけませんよ  「楽廊は、一般的に堂内の2階席か中2階にある聖歌隊の席。オルガンなどの楽器も置いています。楽廊に入らないでください。写真を撮るのに良い場所だからといって、楽廊に勝手に入って撮影してはいけません。」 8.門はいつでもオープンなのです  「原則として教会堂の門はいつでも開いています。普通は正面・両サイドと合わせて3つの扉がありますが、教会によって開いている扉は違います。入る時は帽子をとりましょう。服装は、普通の服装で大丈夫なのですが、極端に短いスカートやノースリーブなどは教会には似合いません。祈りの場にふさわしいものを着用して下さい。夏に訪れる際は、バッグのなかに薄手のシャツを一枚入れておくと、いいかもしれませんね。」 教会で何を体感するのか? 中村神父の巡礼のススメ  「誰も気付かないことですが、たとえば黒島天主堂では、柱に手垢が残っています。年に1・2回大掃除していましたが、私はわざと「磨くな!」と言っていました。乾いた雑巾で軽く拭かせていたのです。汚れを落とさせなかった。なぜなら、歴史を理解している人はわかってくれると思いますが、その手垢が遺産なんです。どれだけ多くの人がこの柱に触れたから、こういう色になったかという証拠です。訪れる人も、それを見ないとね。ヨーロッパを訪れると良くわかるんですよ。磨り減った大理石の階段、触られて磨り減った聖人像の腕と足。そこを訪れた人の人数が何万人・何十万人・何百万人という単位では計れないほどだということの証し。それは現場に行ってみないと体験できません。  黒島に着任したころ、じーっと天井を見ていると「あれ? おかしいな。」と不思議に思ったことがあったんです。黒島天主堂は、スゴイことをしていたんですよ。「何を?」とお思いでしょう。お金がなかったから良い材木を揃えることができず、普通の安価な板を買ってきて、その板に木目を描いているんです。刷毛目という工法なんですが、ニスを塗ってその上から木目を付けた。おどろくなかれ、天井板はすべて手描きなのです。ドアの一部もそう。お金がないというところからのアイデアなんですが、今になってみるとスゴイことをしているんですよ。 現場に行って教会堂を見るだけでなく、それを設計した人、造った人、現在まで維持してきた人たちに思いをはせる。そして感謝・感動するんです。教会堂の多くは信徒の皆さんの奉仕活動で建てたもの。資材を担いでどれだけの距離を歩いたかは、現場に行って歩いてみないとわからない。そういった意味で現地を体感するのが巡礼なんです。今生きている信仰者たちの現場を体感することが巡礼ではないでしょうか。そうでないと巡礼は面白くないんですよ。たまに私も巡礼ツアーを企画して外国に行く時は、そういうことを伝えています。私もそういう見方をしているわけ。ガイドが説明してくれる建築年数なんかを聞いても面白くないから、ほかのところを見て周ります。そうすると、現代の信仰の姿だけでなく、400年、500年前の信仰の姿も見えてきます。昨年、スペインのザビエル城を訪れましたが、その窓から見える風景と地形は、どんなに写真にうまく撮っても伝わらない。ザビエルが見たものは、現場に行かなきゃ、わからないですよ。」   DATA 中村満神父 Nakamura Mitsuru 長崎県五島市久賀町の出身。久賀島の牢屋の窄殉教地で、中村家の3姉妹が殉教、その子孫。現在、長崎教区本部事務局次長。長崎巡礼センターの責任者。 参考図書 『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 監修/カトリック長崎大司教区 発行/長崎文献社
  • 教会巡りからはじまった歴史の旅 2014年03月27日
    教会巡りからはじまった歴史の旅
    教会の魅力を伝える人たち その1  『旅する長崎学 キリシタン文化』の2・5巻や『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』の構成と執筆を担当した犬塚明子さん。彼女は今、カトリック長崎大司教区と長崎県が協議を重ねて新しく発足させた「長崎巡礼センター」(長崎カトリックセンターの1階)で、インタープリターとして活動を開始しています。長崎の上質な旅へと誘う発信源として、巡礼コースなどを一般の方に紹介しています。これまで、数多くの教会に関する本を執筆し、ライフワークとして教会堂を追いかけ続ける犬塚さん。カトリック信者ではない彼女が、なぜ教会の魅力を紹介する仕事に一生懸命なのでしょうか?犬塚さん独自の目線から見た教会堂の魅力に迫ります。 教会堂を巡るきっかけは?  「父方はカトリックですが、私自身は、教会には縁のない環境に育ったんです。  でも、20代後半を迎えたある日、教会建築を撮影するカメラマン 雑賀雄二さんのエッセイを読んだのです。ページを一枚一枚めくるたびに、自分の心がいつしか、実際に教会を訪れずにはいられなくなっていました。それで、もう上五島に足が向いて、江袋教会など、いろんな教会堂を訪れました。  そのとき、頭ヶ島天主堂を訪れた見ず知らずの私に「私のおじいさんたちが(といったと思います)、島の山から石を切り出して、ひとつずつ積み上げてこの頭ヶ島天主堂が完成したんですよ。」と、語りかけてくれたのです。その話を聞いてふと感じたのが、きっと代々親から子へと、この教会が建てられた当時の様子が伝承されてきたという、島の人たちが積み重ねた長い時間。そして、地元の方々との会話を肌で実感できたこと。それは、本当に涙がでそうなくらい「生(なま) 」の歴史に触れるという魅力を感じてしまったのです。この出会いがきっかけで、教会堂の魅力というか歴史の魅力にどんどん引き込まれていきました。  五島の小さな集落に、どんなに小さくても実際に生活のなかに生きている教会堂。ひとつひとつに感動して、歴史にも感動してしまいました。それで「(自分は)長崎人だ!」って再認識したこの五島の旅が、教会堂に目覚めるきっかけとなったのです。 」 ライフワーク 1.教会堂は祈りの場。聖なる場所では私語をつつしんで!   「その後、長崎市内にある某百貨店に勤めました。広報担当という仕事のおかげで、改めて長崎を見つめ直すことができたのです。階段脇のスペースを活かしての作品展示は、来店してくださったお客さまに見てもらえるステップギャラリーとして開放していました。展示の企画も、お預かりした作品の展示のほかに、自分たちの手で長崎の情報発信をしていこうという、まさに長崎の歴史テーマとしたものもおこなっていました。その中のひとつに「長崎の教会」というテーマがあって、そこで思い切って長崎の教会を見てまわったんです。この展示を通して「長崎は面白い!」って思い始めました。それで、長崎の面白さを伝える仕事に携わりたいと思った矢先に、長崎の教会ガイド『長崎游学2』(長崎文献社)という本をつくる仕事に出会ったんです。この、ガイドブックをつくりながら、教会のことをかなり勉強させてもらったんですよ。」 犬塚流「長崎の旅の楽しみ方」  「バイクで行くんです。平戸の生月も行きましたよ。しかも50CCで(笑)!  「私のお気に入りは、生月大橋の手前にある山野教会です。いわゆるキリシタンの迫害を逃れて集落をつくった隠れ里のひとつですね。すっごくいいですよ。私の大好きな場所!今は外観が補修されていますが、中に入るとこんな感じ。本通りから人家のない山道を登って歩いたら30〜40分かかるような、山の奥にあるんです。ふと集落が現れて教会が見えるんですよ。教会の後ろにまわると畑が広がっていて、まさに集落の中にある教会。まさかこんなところに?というような場所なんです。善長谷教会や大山教会なんかもそう。香焼の方から善長谷教会を探すと、城山の中腹にチョンって見えるんです。「あれだ!」っていうオドロキ。教会堂って、何気ない風景のなかから、忽然と現れるんですよね。」 (写真は犬塚明子さんの撮影) ひとつの発見…。“西”という姓からルーツを探る  「個人的なことですが、私の祖母が生月の人で姓は“西”。生月の最初の殉教者が“ガスパル西”という人。その息子の“トマス西”は長崎十六聖人のひとりなんですよ。生月には確かに西姓の人がたくさんいらっしゃると思いますが、祖母と殉教者の苗字が同じだということを聞いて、どこか繋がりを感じてしまったんです。仏教用語でいう因縁というか縁というか、自分にも何か引っ張られるものがあるんだなぁということをすごく感じてしまいました。長い歴史の中に自分がいるということ。それを知ってから、自分は殉教者の子孫だと自称しています。自分が信者になれるかということは置いても、歴史の中に「私」がいるという事実が、ある意味、魅力であるような気がしたんですよね。このことは私の人生観を変える出来事でした。」 とある結婚式…、教会堂での失敗談  「いとこが教会で結婚式を挙げるというので、私にカメラ係になって欲しいと頼まれたことがあったんです。「どこでも撮っていいから。」と言われたのですが、教会のことを何も知らなくて、内陣の中に入っちゃったんですよ。その時、みんなから冷やかな視線を向けられていたこともわからず、ただ私は、新郎新婦のシャッターチャンスを逃すまいと神父様の背後にまわって内陣に入ってしまったんです。それがいけないことだと後で知ったのです。私を含めてよく知らないのが実情だと思います。そういった教会堂でのマナーも紹介していくのもこれからの仕事ですね。」 長崎巡礼センターの使命  「本を執筆しながら、長崎カトリックセンターとのご縁で、長崎巡礼センターのインタープリターとして仕事をしています。例えば、長崎の教会は、そこにただ建っているのではなくて、そこに信仰を守りつづけている人がいるから教会があるということ。たとえ小さな教会堂でも存在する意味がある。そのことを私自身が知りましたし、そのことを伝えたいと思いますね。「祈り」があるということも長い歴史を物語ります。例えば、外海から、ふるさとの石を乗せて船を漕いで五島へと渡ったと聞きます。たどり着いた場所ですごく苦労をして、200年という長く苦しい時間の先に教会が存在していること。そういう話を私が伝えることで、みなさんに感動してほしいですね。  大切なことは、そこにある教会を語ることで、長崎の歴史も語っていけるということ。まだまだ勉強の途中ですが、少しでも長崎の魅力が伝えられるようにがんばります。  みなさん、巡礼センターへ来て下さい!」 DATA 犬塚明子 Akiko Inuzuka  1956年生まれ。長崎県諫早市出身。諫早市在住。日本女子大学生物農芸専攻。1990年から2003年まで市内の某百貨店の広報担当として勤務。2005年9月『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社)を担当。 2006年5月『旅する長崎学2 キリシタン文化2』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)、同年11月『旅する長崎学5 キリシタン文化編5』の構成・文を担当。2007年5月から長崎巡礼センターのインタープリターとして活動中。2007年9月には構成・文を担当する『ながさき巡礼』(監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社)を出版予定。
  • 象が行く! 2014年03月24日
    象が行く!
    長崎街道から江戸までの珍道中  長崎の港には、世界に生息する珍しい動物がたくさんやってきました。ラクダ・ダチョウ・サル・ホロホロ鳥・虎…。はじめて見る動物に、お役人さんも長崎の人たちも大騒ぎ!そのなかでも江戸時代に日本中をアッと驚かせた「象」にクローズアップ! 日本に象がやってきた!  江戸時代までに、異国の象が日本へとやって来たのは計7回。室町時代の1408年、若狭の国(現在の福井県)に、インド象を乗せた南蛮船が到着したのが最初です。その後、大友宗麟・豊臣秀吉・徳川家康へと各国から象のプレゼントが送られました。さて、日本中に大ブームを巻き起こしたのは、5回目の来日で長崎へと到着した2頭の象でした。徳川吉宗に献上される象は、長崎街道から江戸へと長い旅をしました。巨体を揺らす象の珍道中、どんな様子だったのでしょうか。 長崎から江戸への珍道中  8代将軍 徳川吉宗が直々に注文した象は、発注から2年後の享保13年(1728) 6月13日、唐船に乗って長崎にやってきました。ベトナム生まれのオスとメスの2頭の象は、船上から波止場へと厳重に誘導されて、十善寺村へと移動。唐人屋敷の中で飼育されていましたが、残念ながらメスの象はまもなく死んでしまいました。翌年3月、生き残ったオスの象は、いよいよ吉宗のいる江戸へと出発します。  象の飼育係とともに、体重が3トンもある巨体と長い鼻を揺らしながらゆっくりと長崎街道を行進しました。将軍さまに献上される象に不備があってはタイヘンと、街道沿いの宿場は大騒ぎ! 道の石・ゴミ拾いや象の飲み水・大量な食料の準備はもちろん、橋を補強したり、川にはイカダを組んだりといった作業が、全国の街道沿いで一斉におこなわれたといいます。長崎街道の木屋瀬宿(北九州市)にある宿帳には白象が泊まったという記録もあるとか。小倉の常磐橋を通過し、4月に京都へ到着。「広南従四位白象」という位を授かった象は天皇と謁見しました。  さて、まだまだ道のりは続きます。江戸へと向かい浜御殿に到着し、吉宗と見物したのが5月。この象の旅は約1200km以上、およそ80日にわたる旅でした。その後は浜御殿(現在の浜離宮)で飼われた白象さま。はじめて見る巨大な象の飼育も大変。一日に食べる量は、米を八升、あんなしの饅頭を50個、ダイダイを50個…とペロリとたいらげる大食漢。10年以上も浜御殿で飼われていましたが、ある日、飼育係が象に殺されるという事件が起こってしまいました。払い下げになった象は、百姓の源助さんが中野に建てた象舎で世話をしましたが、江戸の見世物にされ、ちょっと悲しい余生…、1年後には死んでしまったそうです。一説によると死亡した原因は栄養失調ともいわれています。 象さまブームにみんな夢中!?  長崎、道中、そして江戸で、異国のめずらしい象は大人気! 民衆のあいだで象さまブームが巻き起こりました。象の絵が描かれたかわら版は瞬く間に売り切れ。双六などのおもちゃや、象のキャラクターグッズ、『象志』『訓象俗談』といった象に関する雑誌も出版されました。歌舞伎の演目の一つに、ライバル同士が象を引っ張り合って力比べをする物語『象引(ぞうひき)』がありますが、これもこの頃につくられたのではないかといわれています。  さて、現代へ・・・。毎年10月に行われる諏訪神社(長崎市)の大祭「長崎くんち」で“白象”にお目にかかることができます。踊町は7年に1度の登場となるため、毎年というわけにはいきませんが、昨年登場した桶屋町が誇る傘鉾(町の特徴を表す印として各踊町の行列を先導します)の飾り物は、白象!安永元年(1772) の製作という傘鉾は、長崎市の有形文化財に指定されるほどのお墨付きです。この白象のモチーフは、オランダ船から桶屋町の豪商へとプレゼントされた「象の時計」。象の背に乗った紅毛人が鐘を鳴らし、白象の鼻が巻き上がるという見事な時計仕掛けのカラクリになっています。このほか、小倉で夏に開催される「紫川サマーフェスティバル」では白象のモニュメントが登場したり、常磐橋の名物として白象くん饅頭が売られているそうです。街道沿いを散策すると、象にまつわるエピソードを発見することができますよ。 参考資料 『舶来鳥獣図誌』 礒野直秀・内田康夫 発行/八坂書房 『明治前動物渡来年表』 礒野直秀 『象志 享保14年』 著者/梅英軒 長崎歴史文化博物館収蔵 『文化百選 事始め編』 企画/長崎県 制作/長崎新聞社 写真資料:『象志 享保14年』 著者/梅英軒 長崎歴史文化博物館収蔵
  • 異国情緒あふれる長崎の石畳 2014年03月19日
    異国情緒あふれる長崎の石畳
    長崎散策は足もとにもご注目!  異国情緒あふれる長崎の町並み。散策スポットや眺めの良いところを気ままに歩きながら、ふと感触の違いに気付いて、足もとに眼をやると、それは「石畳」。街には、ヨーロッパのいろいろな様式で組まれた石畳が、パッチワークのように敷き詰められていました。道から道へ、坂からまた坂へ、そして過去から現代へと歴史をつないでいる長崎の石畳に迫ります!  長崎の街を歩いていると、坂道、また坂道…と続く風景が印象的。そんな坂道を演出してくれるのが異国の雰囲気を漂わせる「石畳」です。雨のなか、傘をさした人々が行き交う姿もステキな石畳ですが、降った雨は石の間からスーッと地中へしみ込み、雨が上がれば太陽の光でサッと乾いてしまうスグレモノ。さらに、坂の石畳の脇にあるV字型に組んだ三角溝は、雨が降ったときに雨水が滝のごとく坂道を流れるのを防ぐのに活躍しているのでしょうか。雨が似合うというイメージの長崎の石畳には、雨を快適に過ごす異国の工夫が取り入れられていたのですね。というわけで、石畳をチェック!! 観光スポットとして有名な東山手(長崎市)の「オランダ坂」は、横方向に板石を敷きつめ、ゆるやかな坂を演出しています。南山手(長崎市)の「国宝の大浦天主堂と旧羅典神学校の間にある石畳」は、道に沿って縦ラインを強調。ヨーロッパの通りに迷い込んだような雰囲気で、港の風景を借景に切り取られた絵画のような景色は、急な坂を登る辛さも吹き飛んでしまうような絶景です。  石畳の歴史の古さからみると、“ながさき歴史散歩”の第4回「世界遺産候補を巡る旅 長崎市街&島原編」で訪れた長崎市勝山町にあるサント・ドミンゴ教会跡資料館。お見逃しなく! サント・ドミンゴ教会は、当時の代官 村山等安が土地をドミニコ会に寄進して1609年に建てられた教会でした。禁教令でわずか5年後には壊されてしまいましたが、現在一般に公開されているサント・ドミンゴ教会跡資料館ではこの教会の面影に触れ、当時の様子を想像したりして、歴史に思いを馳せることができます。なんと残っているんです、約400年以上前の石畳が! 教会時代の石畳など遺跡の発掘現場がそのまま展示されているという、とても貴重な資料館です。遺跡の一角でかすかにスポットライトが当たった石畳は、地下室へとつながるアプローチ。小さな石から大きな石へと、まるで遠近法を用いたような感じで敷き詰められています。また、サント・ドミンゴ教会付近の通りにも石畳があったことを物語る記述として『イエズス会年報』に、1601年、山のサンタ・マリア教会(長崎歴史文化博物館付近)から、現在の長崎市役所のある桜町方面へと向かうまっすぐ行く道に、長崎で石畳がはじめて敷かれたと記録されています。  観光スポットとして有名な東山手(長崎市)の「オランダ坂」は、横方向に板石を敷きつめ、ゆるやかな坂を演出しています。南山手(長崎市)の「国宝の大浦天主堂と旧羅典神学校の間にある石畳」は、道に沿って縦ラインを強調。ヨーロッパの通りに迷い込んだような雰囲気で、港の風景を借景に切り取られた絵画のような景色は、急な坂を登る辛さも吹き飛んでしまうような絶景です。    長崎の街は、歴史とともに17世紀〜19世紀〜現代へとパッチワークのように石畳でつながっていたのです。長崎の街を歩いたら、あなたの足元にある石畳にも、ぜひ注目してみてください。 参考資料 『旅する長崎学1 キリシタン文化機抛箪賢検 崗ローマ長崎」と消えた教会 『新長崎年表(上・下)』著者/満井・土井編 出版/長崎文献社 1974年
  • オランダのジンボトル 2014年03月19日
    オランダのジンボトル
    海外交流の落し物「洋酒ビン」からリサイクル  緑の深い鉄色のアンティーク・ボトル。これはジンのボトルで、出島にオランダ商館が建った頃のもの。ジンといえば、マティーニやジントニックなど、バーで飲む小粋なカクテルを連想しますが、今回クローズアップするのが、この空っぽのジンボトル。長崎の海外交流の歴史を偲ばせる、約300年前の一品なんです。  オランダ生まれのジンは、ワインなどの洋酒とともに異国の地「長崎」へと海を超えてやってきました。カクテルとして愛飲されている蒸留酒「ジン」は、もともと薬用として17世紀のオランダで開発されたもの。命をかけた大航海時代の船乗りには欠かせない飲み物だったのでしょう。  鎖国時代の出島で働いていた長崎っ子は、オランダ人が飲み捨てたジンやワインの空き瓶や割れた破片を拾って持ち帰りました。空き瓶はキレイに洗って、観賞用の置物として、また、薬などを保存する容器として重宝したそうです。割れて粉々になったビンは、溶かしてガラス製品を作ったのはもちろんのこと。細かく砕いたガラスから、ビードロヨマと呼ばれるガラス片をまぶした糸をつくりました。これは相手の凧糸を切りあう喧嘩バタ(凧)の糸のこと。長崎っ子の血が騒ぐ春の伝統行事「ハタ揚げ(凧揚げ)」を楽しむためのアイデアには、洋酒のビンのこんなエピソードがあったのです。リサイクルから生まれた長崎っ子の知恵ですね。  江戸時代にジンを作った日本人がいたことをご存知ですか?それは長崎奉行所の茂伝之進というお役人さん。1653年、オランダ商館が届けた徳川家綱の注文書に、蒸留セットを納品したという記録が残っていますが、茂伝之進さんがジンを完成させたのは、その約160年後の19世紀に入ってからのことでした。。 * 写真のジンボトルは、オランダ製で江戸時代後期のもの。ボトルに刻印された文字は、「I.T.BEUKERS SCHIEDAM」でオランダの会社名。 参考資料 ジンボトル(写真):長崎市歴史民俗資料館収蔵 長崎古版画「紅毛人康楽之図」 長崎文献社 『南蛮酒伝来史』 著/間庭辰蔵 発行/柴田書店 1976年 『文化百選 祭り・行事編』 3長崎のハタ揚げ