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県南エリア

  • 島原藩 2014年03月28日
    島原藩
    関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康軍)に参加し、本領を安堵された有馬晴信(ありまはるのぶ)が、島原藩の初代藩主となりました。有馬晴信は熱心なキリシタン大名で、天正遣欧使節をローマに派遣するなど、島原藩にキリシタン全盛期をもたらせました。 しかし、2つの事件をきっかけに、幕府のキリシタンへの不信感が募ることとなります。ついには「島原の乱」が発生し、乱後の処理によって島原藩は大きく変わっていきます。 幕末にかけて、島原藩はどのような変化を遂げていったのでしょうか・・・。 ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件と岡本大八事件 1609年(慶長14)、有馬晴信の朱印船がマカオに寄港した際、晴信の家臣を含む日本人はポルトガル船の船員と口論になり、暴動を起こしてしまいます。当時マカオでポルトガル貿易の指揮をとっていた長官は、暴動解決にあたりますが、結果的に多数の日本人が殺害され、積荷を略奪されるという事件に発展しました。 家臣を殺害された有馬晴信は、翌年、長崎沖まで来たノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を、長崎奉行・長谷川左兵衛藤広らとともに30隻の船で包囲しました。幕府の報復処置の命令もあったことから捕獲しようとしましたが、ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号は火薬庫に火を放ち爆沈してしまいました。 この事件で、徳川家康の側近・本多正純の近臣であった岡本大八(おかもとだいはち)は有馬晴信の目付役として同行しており、晴信に対し有馬氏の旧領地であった肥前の一部を与えると偽の辞令書を無断で与えました。そして大八は、晴信から本多正純への口利きの謝礼として、多額の金品や資金を受け取りました。しかしなかなか旧領地の恩賞の通達がないため、晴信は直接本多正純に面会し催促したところ、収賄事件として発覚したのです。大八は火刑に処されることになりましたが、牢内で「晴信が長谷川左兵衛藤広の暗殺を企てている」と訴えました。嫌疑をかけられた晴信は身の潔白を証明することができず、斬首となってしまいます。 この事件で処刑された晴信と大八は二人ともキリシタンであったため、幕府はキリシタンへの不信感が高まりました。 有馬直純の天封、島原の乱 有馬晴信の子・有馬直純(なおずみ)が晴信の跡を継ぎます。直純は、キリシタンであった小西行長の姪と結婚していましたが、家康の曾孫である国姫と再婚しています。後見人の長崎奉行・長谷川とキリシタン嫌いだった国姫が結託して、キリシタンへの迫害は強化されましたが効をなさず、1614年(慶長19)、直純は宮崎県の日向に領地を移されました。その後1616年(元和2)に松倉重政(まつくらしげまさ)が入るまで、島原は幕府の直轄地とされました。 松倉氏は、一国一城令により日野江城(ひのえじょう)と原城を廃し、1618年(元和4)から島原城(森岳城)と城下町を新たに築きます。領民に重税と労役を課し、7年もの歳月をかけて立派な城を完成させました。領民にはキリシタンが多く、当初はキリスト教布教を黙認していた松倉氏でしたが、徳川家光から叱責され、一転して厳しい迫害を始めます。 雲仙地獄もキリシタンの拷問に利用されました。信仰を棄てさせるためにすぐには殺さず、煮えたぎる熱湯を使ってじわじわと長い苦痛を与えたといわれています。 松倉重政の死後、後を継いだ松倉勝家(まつだいらかついえ)はさらに重税を課し、連年の凶作にもかかわらず、領民から強引に年貢を取り立てました。口之津の庄屋の妊婦を拷問死させたことなどから、あまりのことに憤慨した領民らが島原半島南部の村々の代官を次々と襲いました。これが島原の乱のきっかけといわれています。 (「 島原の乱 」を詳しくみる ) 松倉勝家は、島原の乱の責任を問われ、領地を没収され斬首となりました。幕府は、島原の乱を機にキリスト教布教の禁止、密告制によるキリシタン摘発など、さらに取り締まりを強化し、イエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶、九州大名による長崎港の警備を強化することで、鎖国を完成させていくことになります。 原城跡(櫓台石垣跡上からの見晴らし) 日野江城跡 島原の復興 幕府は、遠江国浜松城主の譜代大名(関ヶ原の合戦以前からの徳川家家臣で、幕府の要職に就いた大名)・高力忠房(こうりきただふさ)を島原藩主としました。高力氏は島原の乱後の処理を中心に、長崎警固の責務を受け持つこととなりました。また九州は外様大名(譜代大名に対し、関ヶ原の合戦以降に徳川氏に帰属した大名)が多かったため、各藩の監視役を兼ねていたともいわれています。高力氏は近隣諸藩から農民を移住させ、特に荒廃が著しい島原半島南部の農村復興につとめました。しかし、1655年(明暦元)に忠房が京都で客死すると、子の高長(たかなが)が藩主となります。しかし、藩財政のために農民への課役を強いたため、高力氏は領地や知行を没収される結果となりました。 その後幕府は、1669年(寛文9)に丹波福地山城主である松平忠房(まつだいらただふさ)を島原藩主に任命しました。この時から豊前国宇佐郡と豊前国東郡から約2万石が加増され、島原藩の財政が強化されました。 松平忠房(まつだいらただふさ) 松平忠房は、検地を実施し、村役人を整備して農村の掌握をおこないました。また好学で、文武振興にもつとめたそうです。和漢・軍学・武術・和歌・俳諧と幅広く学んでおり、儒学者であった林羅山の子・林鵞峰(はやしがほう)や譜代大名・榊原忠次(さきばらただつぐ)などと交遊が深かったといわれています。 さらに忠房は、多くの蔵書・写本を収集しており、今日残っているだけでも3,000部、1万冊に及んでいます。これらの蔵書は、今日「松平文庫」とよばれており、神道や仏教、儒教、歴史、地理、政治、経済、教育、風俗、医学、自然科学、産業、芸能、武道、和歌、漢詩など多種多彩に揃っています。 1793年(寛政5)に松平忠馮(ただより)が藩校「稽古館」を開設すると、学生たちもこの松平文庫を閲覧し勉強できたそうです。 島原大変 1749年(寛延2)、当時の藩主・松平忠刻(まつだいらただとき)は、参勤交代のために江戸に赴く途上で急死しました。子である忠祗(ただまさ)が12歳の若さで家督を継ぎますが、下野宇都宮藩の戸田忠盈(とだただみつ)と交代するかたちで宇都宮に移ります。忠祗の弟の忠恕(ただひろ)が家督を継承すると、1775年(安永4)に再度戸田氏と交代し、島原藩に戻ってきました。 島原城や観光復興記念館には島原大変の資料があります。 1792年(寛政4)、雲仙普賢岳が噴火し、その後眉山が崩壊し大量の土砂が島原の街を通って有明海へ向かって流れ落ちました。この災害は「島原大変」とよばれ、この時の死者は約5,000人といわれています。さらに有明海に流れ落ちた土砂の衝撃によって発生した高波が、島原の対岸の肥後国天草に襲いました。これを「肥後迷惑」とよんでいます。また肥後の海岸で反射した返し波が再び島原を襲いました。津波による死者は約1万人といわれています。 当時の藩主・忠恕は被災地の巡視をおこないましたが、心労が重なり逝去、後を継いだ忠馮(ただより)は領民の救済のため、江戸幕府から1万2,000両を借用しました。 櫨の果皮を粉にして蒸し、蝋船で圧縮し蝋液を絞り出していました。 この返済に役立ったのが、櫨(はぜ)の実でした。島原藩では以前から櫨の木を植林し製蝋(せいろう)を奨励していました。製蝋は島原藩の重要な産業のひとつだったのです。1804年〜1830年(文化・文政期頃)には櫨の値段が下落しましたが、1843年(天保14)には3,000両ほどの利益を得たといいます。また島原藩の蝋は、厳格な検査をおこなっていたので商人の信用もあり、他藩製の蝋よりも高額で販売されていたそうです。 島原藩校「稽古館」、「済衆館」 稽古館跡 松平忠房以降、松平氏は学問に積極的に取り組んでおり、忠恕は藩校創設の意図をもっていたといわれています。しかし島原大変により実現はできませんでした。忠恕の後を継いだ忠馮が、父・忠恕の遺志を引き継ぎ、1793年(寛政5)に藩校「稽古館(けいこかん)」の創立に踏み切りました。現在の島原市先魁(さきがけ)町の地にあたります。 1834年(天保5)、忠侯(ただこれ・ただよし)のときには拡充され、学生増加を奨励し、さらに医学校「済衆館(さいしゅうかん)」を創設しました。済衆館の医学はもともと稽古館の学科の中に含まれていたものですが、医学校兼病院済衆館として独立開校したものです。藩医・医学生に限らず、領内の開業医も随時入校し、研修を受けることができたといいます。 済衆館では、藩医・市川泰朴(いちかわたいぼく)が、1844年(弘化元)に同じ藩医・賀来佐之(かくすけゆき)の協力のもとに死体解剖をおこなっています。その際、絵師に描かせた人体解剖図が貴重な資料として島原城に保存・展示されています。 旧島原藩薬園跡 賀来佐之は、豊前国宇佐郡出身でシーボルトの鳴滝塾に学び、1843年(天保14)に島原藩医に招かれました。薬園開設の命を受け、済衆館の庭園に薬草類を栽培しました。しかし、栽培するには土の条件が悪く、土地も狭かったため、1846年(弘化3)に雲仙岳のふもとに薬草類を移しました。これが現在残っている旧島原藩薬園跡です。 旧島原藩薬園跡 小藩の薬草園とはいえ、全国的にも稀にみる遺構をとどめた史跡であることから、1929年(昭和4)に日本三大薬園跡として国の史跡指定を受けています。あとの2園は奈良県の森野旧薬園と鹿児島県の佐多旧薬園です。 現在の旧島原藩薬園跡では、薬草を身近なものとして親しんでもらえるよう、薬用植物を栽培し、薬園を再現しています。気軽に立ち寄って薬草の効果を学んだり、旬の薬草を使った薬草料理を作って味わう体験もできます。詳しくは島原市教育委員会へお問い合せください。(TEL:0957-68-5473) 参考資料 旅する長崎学3 キリシタン文化III『 26聖人殉教、島原の乱から鎖国へ 』 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 歴史散策「島原城下町」 ■武家屋敷・武家屋敷水路 島原城の築城とともに形成されました。中央を流れる清水は熊野神社を水源とし、飲料水として使われ、水奉行によって厳重に管理されていました。現在、保存されている武家屋敷は、山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒で一般に無料開放されています。 島原城 松倉重政藩主時代に7年の歳月をかけて築かれました。明治に入り、城壁だけを残して解体されてしまいましたが、1960年(昭和35)以降復元されました。 鯉が泳ぐまち アーケードすぐそばの水路には鯉が放流されており、住民の皆さんの管理の下「鯉の泳ぐまち」を形成し、道行く人々の目を楽しませてくれます。 白土湖 1792年(寛政4)の島原大変時、噴火の時に陥没してできたといわれています。清水がこんこんと湧き出て、水の都のシンボルともなっています。 周辺散策地図 武家屋敷通り 島原城 鯉が泳ぐまち 白土湖
  • 幕末の長崎1 2014年03月28日
    幕末の長崎1
    “長崎って何藩ですか?”という質問が少なくありません。長崎は、どの藩に属していたのでしょうか?・・・実は、長崎はいずれの藩にも属していませんでした。不思議ですよね。 いったい、“長崎”ってどんな地域なのでしょう。 少し歴史をさかのぼって、 “長崎”を紹介しましょう。   南蛮貿易とキリスト教のはじまり 長崎県北部の平戸では、古い時代から倭寇や松浦党水軍の根拠地のひとつであり、長崎県北部の政治・文化の先進地でした。中世末期には、南蛮貿易の中心地として歴史に登場します。 1543年(天文12)、種子島にポルトガル船が漂着し、日本に鉄砲が伝わります。次いで1549年(天文18)にはイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、布教を開始しました。しかし、当時の薩摩領主であった島津貴久(しまづたかひさ)はキリスト教に関心を示さなかったため、ザビエルは翌年に鹿児島を去ります。しかし1541年にザビエルと一緒にインドへ渡航したという船長ミランダが平戸に来航していることを知り、ザビエルは平戸を訪れます。 ポルトガル船入港の地 (平戸市) ポルトガル船入港碑 (平戸市) フランシスコ・ザビエル記念碑 (平戸市)   平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)は、ポルトガル人船員たちが敬愛しているザビエルを歓迎し、貿易にも熱心だったこともあり、ザビエルに布教活動を認めました。これが、長崎における南蛮貿易とキリスト教布教のはじまりとされています。 しかし、1561年(永禄4)の宮の前事件などの紛争により、ポルトガル船の寄港地は平戸から西彼杵半島(にしのそのぎはんとう)の北端にある大村領の横瀬浦(現西海市西海町)へと移ります。翌年大村領主・大村純忠(おおむらすみただ)への反乱が起こり、武雄の後藤貴明(ごとうたかあきら)らの攻撃によって横瀬浦の港は焼き討ちに遭います。 横瀬浦公園と横江浦港の眺め(西海市) 一時的にポルトガル船の寄港地は平戸に戻りますが、1570年(元亀元)に長崎へと寄港地を移します。当時の長崎は、大村純忠の家臣・長崎甚左衛門(ながさきじんざえもん)の領地で小さな漁村だったのですが、天然の良港でした。年々ポルトガル船の来航によって、港町として発展をとげていきました。岬の先端にまちづくりが始まり、みるみる人口も増えました。南蛮貿易によって莫大な利益をもたらすことから、周辺諸国の領主は誰でもがポルトガル船の入港を望んでいたため、大村純忠には様々な圧力がかかっていました。そこで大村純忠は、1580年(天正8)に長崎と茂木(現長崎市南東部)を、そして口之津で南蛮貿易を行っていた有馬領主・有馬晴信(ありまはるのぶ)も領地の浦上をイエズス会教会領として寄進したのです。   直轄領・長崎とキリスト教 ポルトガルとの貿易は、莫大な利益をもたらしましたが、貿易とキリスト教布教は切り離せない関係にありました。 その頃日本では、1582年(天正10)にキリスト教を保護していた織田信長が本能寺の変で倒れると、豊臣秀吉が全国統一を果たします。1587年(天正15)に大村純忠は没し、秀吉は九州を制圧すると、「伴天連(ばてれん)追放令」を発令し、イエズス会から長崎・茂木・浦上を没収し、直轄領(天領)としました。翌年には佐賀の鍋島直茂(なべしまなおしげ)を長崎の代官として任命しました。この地を統括する長崎代官には、大きな権限が与えられました。鍋島直茂に次いで任命された寺沢広高(てらさわひろたか)の時に長崎奉行の役職名が与えられました。徳川幕府も秀吉と同様に、長崎を直轄領としました。 なぜ幕府の直轄領にしたがるのでしょう?それには大きく2つの理由がありました。 ひとつは、長崎で行われる貿易の利益を独占するため、そしてもうひとつは、キリシタンを監視するためでした。 禁教令発令にもかかわらず、キリシタンの町として半ば黙認され、栄えていた長崎でしたが、1596年(慶長元)に起こったサン・フェリペ号事件では、長崎西坂の丘で26人を処刑させるという殉教事件にまで発展しました。それから長崎や大村、島原など各地でキリシタンの弾圧が始まりました。1637年(寛永14)には妊婦を拷問死させたことに憤慨した信者らが起こした島原の乱により、キリシタン取り締まりはますます強化されました。 1639年(寛永16)、幕府はイエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶し、出島に住まわせていたポルトガル人を追放しました。平戸から出島にオランダ商館を移し、長崎での貿易はオランダと中国に限られました。長崎港の警備は九州大名によって行われ、江戸幕府の『鎖国』が完成しました。 今も残るオランダ塀 荷の積み上げを行っていたオランダ埠頭     国際貿易都市へ 秀吉の政策を継承して長崎を天領とした江戸幕府は、1603(慶長8)年に小笠原一庵(おがさわらいちあん)を長崎奉行に任命しました。いったい長崎奉行はどんな仕事を行っていたのでしょうか。 長崎奉行は、長崎の統治、外交交渉、貿易事務、長崎の警備、密貿易やキリシタンの取り締まりを行っていました。 しかし内町の行政は、町年寄をトップとする自治組織に委任され、外町と長崎村、浦上村の行政は、有力な豪商による代官によって行われました。 もともと長崎は、各地から逃げてきたキリシタンや、富をもとめて集まった商人、ポルトガル人や中国人などが多く住んでいました。鎖国の時代下においても、オランダ・中国との貿易は長崎でのみ行われていましたので、国際貿易都市としてますます発展していきます。 長崎では、封建的な家柄などよりも個人の才能が重視され、指導者としての資質や商才にたけたものが町を治め、尊敬されました。 幕府の直轄地でありながら、長崎の町人たちは奉行のもとで自治組織を形成して行政の実施を行うなど、他の都市にはない独特な都市“長崎”を創り上げました。   海外文化の窓口・長崎 近世の長崎は、海外文化を受け入れる窓口として発展し、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダ・中国などの文化が伝わり、長崎ならではの美術工芸を生み出していきました。 長崎の港が最初に開かれたのはポルトガル船との貿易によってでした。次いで唐船に乗った中国人が長崎の町に住み、スペイン人が出島に住み、次いでオランダ人が定着しました。当時の日本では知ることができなかったヨーロッパや中国大陸のさまざまな文化が次々と持ち込まれたのです。長崎の人々は、それらの文化に接し、長崎奉行の援助を受けて異国の美術工芸を習い伝えるようになったのです。 この長崎の人々に伝えられた新しい異国の美術工芸は、やがて江戸に、そして大坂、京都へと伝わり、日本の近代化に大きな影響を与えていったのです。   異国の技術を受け入れ、引き継いでいった長崎の人 幕末までの長崎はどんなふうに発展していったのでしょうか、少し具体的に見ていきましょう。 1570年(元亀元)に長崎が開港して以来、来航していたポルトガル船には、キリスト教の布教を目的としたイエズス会の神父たちも多く乗っていました。当時、長崎の町人は熱心なキリシタンでしたので、町人の協力によって大きな教会が建てられました。セミナリヨ(小神学校)、コレジョ(大学)という学校施設や画学舎(ががくしゃ)という油絵の画法を教える施設も建てられたといいます。ここでは信者に配布するためにマリア様やキリスト、聖者などの絵像・銅版画が制作されました。また京都や大坂で教会が多く建てられた頃には、教会内部を装飾するヨーロッパ風の壁画や彫刻を制作するために、長崎の芸術家たちが多く招かれたといいますので、当時の長崎にはヨーロッパ風の芸術工芸を制作できる人たちがすでにいました。 強い陰影をつけて表現される油彩は、多くの日本人を驚かせました。「南蛮画」「蛮画」ともよばれました。 南蛮貿易時には、美しいラシャの布やタバコ、ポルトガルの葡萄酒・チンダ酒、ビイドロ(ガラス)などが輸入されました。 特にガラスは、ポルトガル人が長崎でその製法を教えました。そして長崎から大坂・江戸へと製法は伝えられました。このビイドロ細工のひとつに眼鏡細工がありました。 長崎の浜田弥兵衛(はまだやへえ)がポルトガル文化圏にて、その製法を習い伝えたといいます。また1603年(慶長8)には、長崎には時計細工師もいました。江戸時代になると長崎の時計師は幕府の御用時計師に任命されています。 出島 そして1641年(寛永18)よりオランダ船が長崎に入港するようになります。 オランダからは西洋の医学が伝えられました。オランダ商館にはオランダ語の医学書や医者も送られ、長崎の人たちはヨーロッパの新しい文化や学問を吸収していきました。 当時、出島に出入りできていたのは、オランダ通詞や役人、使用人、丸山遊女など限られていましたが、出島の使用人の中には御用絵師や御用細工人なども多くいましたので、これらの人々によって伝えられました。 また、杉田玄白(すぎたげんぱく)と前野良沢(まえのりょうたく)らによって翻訳された『解体新書』によって、医学と同時に蘭学も全国に広まっていきます。 オランダ船や唐船によってタイマイ亀(和名:タイマイ)の甲羅を材料とする鼈甲(べっこう)細工も長崎に伝わりました。中国人に鼈甲細工の技術を習い、細工人たちは女性の装飾品や置物などを製作しています。やがて長崎の鼈甲職人たちは、江戸時代後期には江戸や大坂へ進出していきました。 また唐船からは、美しい貝細工の漆工芸品や黄檗派(おうばくは)の絵画も伝えられています。1644年(寛永20)に中国より来航した画僧逸然性融(いつねんしょうゆう)は長崎の画人たちに大いに影響を与えました。渡辺秀石(わたなべしゅうせき)は逸然の画風から中国の新しい画法を学びとり、漢画の画風を確立しました。19世紀には南画が伝えられ、僧鉄翁(てつおう)や木下逸雲(きのしたいつうん)、三浦梧門(みうらごもん)と長崎南画の三画人が高い評価を受けています。 このようにして、長崎の人々は海外の文化を受け入れ、近代化の礎を築いていったのです。   ここから近代化の技術は広がった・・・長崎海軍伝習所 1853年(嘉永6)のペリー来航以来、イギリス・フランス・ロシアなどが琉球(沖縄県)や浦賀(神奈川県)、長崎に来航し、通商を求める事件がつぎつぎと起こります。 日本では、これまで通りに外国人を入れてはならないと主張する攘夷論と、時代に合わせて開国しようとする開国論とに国論が二つに分かれ、騒然とした幕末の真っただ中に突き進んでいきました。 イギリス・フランスなどの列強国の侵略を防ぐため、江戸幕府はオランダの助力を得て、1855年(安政2)に長崎海軍伝習所を設立しました。 オランダ国王から軍艦「スームビング号(のちに観光丸)」が献上され、長崎在勤の目付永井岩之丞(尚志)を取り締まりとし、勝麟太郎をはじめ、各藩から選りすぐりの青年約120名が、オランダ人教官のもと、長崎奉行所西役所(現長崎県庁)敷地内の海軍伝習所で必要な学科を学びました。 ここでは主に地理・物理・天文・測量・機関・航海術・造船術・砲術などの高度な技術を学んだといいます。まさに近代教育らしい内容ですね。 1857年(安政4)には、幕府がオランダに注文していた「咸臨丸(かんりんまる)」が第二次教官団とともに入港しました。咸臨丸は、勝麟太郎が1860年(万延元)に艦長として太平洋を横断し、遣米使節の役目を果たしたことでも知られています。この第二次教官団の中には、艦長カッティンディケ中尉(のちのオランダ海軍大臣)、医師ポンペ、ハルデスなどがいました。 近代化の技術がこの長崎海軍伝習所から広がっていくこととなるのです。 幕末であっても、長崎は西洋の近代技術の窓口としてその役割を果たします。この海軍伝習所から長崎溶鉄所(長崎製鉄所)、近代医学、洋式採炭技術、唐通事・オランダ通詞、英語伝習所、活版印刷・・・国内各地から、新しい科学や技術を吸収したい若者たちが、この“長崎”を目指していたのです。 次回は幕末の長崎で活躍した人々を取り上げながら長崎を紹介していきます。 参考資料 旅する長崎学1 キリシタン文化I『 長崎で「ザビエル」を探す 』 旅する長崎学3 キリシタン文化III『 26聖人殉教、島原の乱から鎖国へ 』 旅する長崎学8 近代化ものがたりII『 長崎は野外産業博物館 』 改定郷土史事典42 長崎県(石田 保著/昌平社発行)  歴史散策「長崎奉行所立山役所 長崎公園」 現在「龍馬伝館」が開催されている長崎歴史文化博物館は、かつて長崎奉行所立山役所があった場所です。発掘調査で発見された当時の遺構の一部を活かし、奉行所が復元され、博物館に併設されています。 奉行所の入口の石垣を見てみると、当時の石垣と復元された石垣では明らかに色が異なり、当時の様子が偲ばれます。1867年(慶応3)に起こった「イカルス号事件」の取り調べでは、坂本龍馬もこの石段を上がったことでしょう。当時の奉行所の姿を体感してみてください。 また博物館裏手にある長崎公園には長崎に貢献した人々や長崎にゆかりのある人物の記念碑が自然に溶け込むように存在し、長崎の歴史の厚みを感じさせる空間となっています。 一部をご紹介します。 スウェーデン人の医学者・学者であったテュンベリー記念碑、シーボルト記念碑 日本初のプロカメラマンとなった上野彦馬之像 日本初の鉛版印刷に成功した本木昌造翁像 今回の長崎港の歴史に登場した長崎甚左衛門之像 1878年(明治11)頃に建造された日本初の噴水公園といわれています。復元されて今日に至ります。 噴水のある日本庭園からは諏訪神社へ。10月に行われる長崎くんちは有名です。 この公園は自然豊かで、1932年(昭和7)に上海から長崎へ運ばれたというオーストラリア原産のトックリノキなどが植えられ、歩いて眺めているだけでも癒されます。スロープも整備され、ベビーカーで散策する親子も少なくありません。 博物館を堪能した後に、ぜひとも立ちよってほしいスポットです。   周辺散策地図  
  • 雲仙&小浜&島原の旅のススメ 極上の温泉を楽しむ 2014年03月27日
    雲仙&小浜&島原の旅のススメ 極上の温泉を楽しむ
       長崎市内から車で約90分、島原半島は、ポルトガル人から伝わった馬鈴薯(じゃがいも)のカタチにも似た愛らしい形をしています。もちろん、じゃがいもの産地としても有名です。北に有明海、東に島原湾、西に橘湾と海に囲まれ、島原半島の屋根と呼ばれる雲仙岳は四季折々の表情を見せてくれます。海の新鮮な魚と高原で採れる野菜など豊かな自然に恵まれたロケーション。1年を通じて訪れる旅人たちを楽しませてくれます。  南蛮貿易で栄えキリシタン文化が華開いた有馬の地、幕府をゆるがせた島原の乱…、激動の時代を駆け抜けた歴史の舞台巡りとセットでおすすめしたいのが、「雲仙」「小浜」「島原」の極上の温泉めぐり。それぞれに違う泉質を紹介します。 雲仙  小浜から仁田峠へと向かう途中にある温泉郷「雲仙」。その歴史は古く、僧行基が開基した701年。山号を温泉山としたことから“おんせんやま”が訛って“雲仙”と呼ばれるようになったといわれています。雲仙岳で一番高い山は平成新山の標高1486メートル。小浜の海岸線から標高1000メートルまで山道を一気に登るので、杉林の間からみえる景色は最高です。車で雲仙までの山道を走るのはとても楽しいですが、霧がかかって視界が全く遮られることもしばしばありますので天気には十分ご注意を。風景を楽しみながらドライブしていると、硫黄の香りとともに白い湯煙が立ち昇る温泉街「雲仙」が現れてくるのです。  泉質は酸性硫黄泉。湯には乳白色と透明の2種類があって各旅館で違います。やわらかく肌になじむ温泉は美肌効果大!ついつい1日に何度も入ってしまいそう。旅館の部屋でゴロゴロと、贅沢に過ごせる雲仙はリピーターも多い人気の温泉地です。  そうそう、県外から遊びにきた友達を雲仙地獄に連れて行ったときに必ずすすめるのが「温泉タマゴ」! でも大抵はビックリされちゃいます。「あれ、ゆで卵じゃん。」 なんでも温泉タマゴといえば黄身は半熟!?がフツウなんだそうで、雲仙の温泉タマゴのように蒸気で固ゆでされてちょっと黒っぽくなった黄身は意外なんだとか! 長崎生まれの私にとっての温泉タマゴ常識をくつがえす友の言葉でした。しかし、「ゆで卵」と言った友達も、一口食べてそれとは違う独特の美味しさに感動の様子。2、3個ペロリとたいらげました。 リュートの再評価  雲仙では、摂氏100度以上の温泉を薄めないように、旅館へと配管で送る課程で適温にしています。雲仙地獄の散策コースで、その様子を観察することができますよ。  温泉街は、老舗の旅館やホテルが建ち並ぶ風情あるレトロな街並みです。明治には外国人の夏の避暑地として賑わったそうで、当時ではハイカラなテニスやゴルフと一緒に温泉を楽しんでいたそうです。高原野菜や新鮮なキノコを使ったフレンチや創作料理が楽しめるのも雲仙ならでは。 泉質 :酸性硫黄泉 色 :乳白色と透明の2種類 香り :ほのかな硫黄 効能 :湿疹・しもやけ・切り傷・糖尿病・疲労回復・健康増進・美肌効果など 小浜  島原半島の西に位置し、橘湾を臨む国道57号線の海岸線に沿って旅館が建ち並ぶ温泉街「小浜」。この通りを歩くと、排水溝の隙間からごうごうと白くて熱い湯気が吹き出している箇所がいくつもあります。その温度は摂氏100度以上。豊かな湯量を誇る温泉街です。さっそく温泉に浸かってみましょう。ちょっと湯を舐めてみると「しょっぱい!」と感じます。この塩分が皮膚に効きます。そして湯冷めしにくいというのが小浜の温泉の特徴で、体の芯から温まります。  小浜温泉のプラスワンのオススメは、夕暮れ時に露天風呂に入ること! 夕方の時間をねらって温泉に浸かれば、目の前に見えるのは海に沈む美しい夕陽。橘湾も、温泉も、空も、目に映る全てがオレンジ色に染まります。この光景を眺めながら、しみじみと島原半島の大自然に感謝・・・。夜の入浴もオススメ! 暗い海に転々と浮かびあがる漁り火も風情がありますよ。島原の乱の若き総大将として有明な天草四郎もこの小浜の温泉に浸かったといわれています。四郎も見たであろうこの海のすばらしい景色が、今も昔も変わらずに残っているのが嬉しいですね。  小浜の温泉街の裏通りにある、小浜歴史資料館やキリシタン殉教の秘話が残る上の川湧水、炭酸泉なども散策してみましょう。 泉質 :ナトリウム含有泉(食塩泉) 色 :透明 香り :ほのかな硫黄 効能 :胃腸・呼吸器系疾患・リュウマチ・術後の療養・婦人病・筋肉痛・冷え性・腰痛など 島原  鯉が泳ぐ水の都「島原」は、「名水百選」や「水の郷全国10」にも選ばれた城下町です。小浜は夕陽でしたが、島原は朝風呂から眺める朝日が絶景です。飲むとほんのわずかですが炭酸というか重曹のような味がします。源泉の温度は30〜42度位。無色透明で中性なので、肌への負担がからず入浴を楽しめます。市内には6ヶ所の飲泉所が設けられていて、観光客でも気軽に楽しむことができます。水を汲みに訪れる人も多いとか。コーヒーや抹茶に使う 泉質 :ナトリウム・カルシウム炭酸水素塩泉 色 :透明 香り :無臭 効能 :入浴…火傷・切り傷・慢性皮膚病・慢性消化器病など  飲泉…糖尿病・肝臓病・痛風・慢性消化器病など  「ながさき歴史散歩」の第7回「殉教の足跡を探して〜島原半島&天草の旅〜」で紹介した歴史の旅と一緒に、それぞれの泉質の違いを楽しむ極上の温泉めぐりはいかがですか。 DATA 参考 雲仙観光協会  http://www.unzen.org/japanese/ 小浜温泉観光協会  http://obama.or.jp/ 島原温泉観光協会  http://www.shimabaraonsen.com/index.cgi 写真:長崎県観光連盟 上から「雲仙 妙見山頂より」「雲仙地獄」「小浜 小浜温泉街(小浜町)」「島原 鯉の泳ぐまち」
  • 豊かな自然に恵まれ、城下町の歴史が残る島原 2012年12月20日
    豊かな自然に恵まれ、城下町の歴史が残る島原
    幼いころ訪れた島原の思い出を再確認したいと言う思いから国道251号線を愛車と共に島原へ向かいました。 まずはじめに訪問した場所は、以前島原を散策した時に見かけた湧水です。柴田長庚堂病院の裏手にあり、ライオンの口からとめどなく流れる水を見て、子供のころに行った銭湯の湯だし口を思い出し、『えーっと脱衣所はどこかな?』なんて冗談を呟いた後、顔を洗いました。少し汗ばんでいた私にはひんやりと気持よく長距離ドライブの疲れをいやしてくれる不思議な感覚へと導いてくれました。ライオンの湧水を堪能した後は看板に従って「鯉の泳ぐまち」に向かいました。水路や鯉を撮影しながら城下町を楽しんでいると、かわいい女の子を連れたおばあちゃんと出会いました。女の子は水路に架かる短い石橋の影に隠れている多数の鯉に「こっちおいで」と手招きしていました。するとどうでしょう、女の子の声が届いたのか、灰色や朱色、朱色に黒が混ざったまだら模様の鯉が悠然と出てくるではありませんか。これはチャンスと、夢中でシャッターを切りました。 その後、しまばら湧水館や湧水庭園「四明荘」を見学している時に笑顔で「こんにちは」と挨拶してくれる地元の若い女性に、話しかけてみました。その女性は地元の島鉄観光の方で観光客に無料のシャトルバスの案内をされてるとの事でした。こういう心遣いを感じられる事が出来るのも旅の醍醐味の一つかも知れません。彼女と別れ次の目的地の島原城へ向かいました。美しい島原城を撮影していると、賑やかな声が聞こえてきました。ジャージ姿の彼らは地元の高校生でしょうか。とすれ違う時に元気な声で挨拶してくれ清々しい気分で足取りも軽く楽しみにしていた武家屋敷へ歩を進めていましたが、武家屋敷迄の道順があやふやだった為、集団行動していたジャージの若者たちに尋ねてみました。「武家屋敷は学校のすぐ隣です。途中まで一緒に行きましょう」と言ってくれて、学校前で別れる時も丁寧に教えてくれました。訪れた先々で、地元の方々の優しさや、地元愛に触れ少し高揚した気分で武家屋敷に到着しました。当時の様子が垣間見え、古き良き日本の生活風景を感じられ当時の人々の息吹が感じられました。鯉の泳ぐまち~島原城~武家屋敷で地元の人たちと触れ合い気軽に歴史を満喫した後、雲仙岳災害記念館「がまだすドーム」と道の駅「みずなし本陣ふかえ」を訪れました。 島原半島は平成21年(2009)、「世界ジオパーク」に認定され、自然の脅威と災害の教訓を風化させることなく、後世に伝える展示施設を体感しました。同じタイミングで見学してた修学旅行の高校生たちが 被害の甚大さに目を見張り息をのんでたように見えました。雲仙島原地区の名産のジャガイモを取り上げようということで愛野のジャガイモ 畑を撮影してきました。 普段あまり気付かなかったのですが、ジャガイモ畑がものすごく広いということです。愛野の展望台でじゃがちゃんが名物なのも改めてうなずけました。 今回の取材では歴史だけでなく、人の優しさに触れ、豊かな自然の恩恵を肌で感じました。 ぜひ皆さん島原へ、長崎へ足を運んで頂き、自分だけのオリジナルな思い出を作ってみてはどうでしょうか。 鯉の泳ぐ城下町巡り「島原再発見」 今回、訪れたルート付近を解説付きで体験できるのがこちら! 武家屋敷街水路をはじめ、街のあちこちに点在する水源、湧水など水路を中心と した街づくりとその歴史を学びます。 キレイな水路を泳ぐ鮮やかな鯉にびっくり。 受入時期:通年 受入人数:1、1~5人 2、6人~ 体験時間:1時間半 体験料金:3、1回 3,000円 2、おひとり 500円 予約:要 (5日前までにメールかFAX、またはお電話でご予約ください。) NPO法人 がまだすネット 〒855-0879 島原市平成町1-1 雲仙岳災害記念館内 TEL:0957-62-0655 fax:0957-62-0680 http://www.gamadas.jp E-mail:taiken@gamadas.jp 大きな地図で見る
  • 島原半島の情景〜らしい風景、ならではの風景〜 2009年11月18日
    島原半島の情景〜らしい風景、ならではの風景〜
    イルカウォッチング動画 長崎県南島原市加津佐町の早崎海峡には、約300頭のイルカが定住しています。イルカの数は年間を通して変わりません。自然のままのイルカをみることができます。 イルカウォッチングの動画を見る 撮影協力:かづさイルカウォッチング 参考資料 『book/modern/10.php">旅する長崎学10  近代化ものがたりIV 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 取材協力 島原半島ジオパーク推進連絡協議会事務局 島原城天守閣事務所 かづさイルカウォッチング 島原城薪能振興会
  • 第7回 殉教の足跡を探して 2007年07月04日
    第7回 殉教の足跡を探して
     17世紀、徳川幕府を震撼させた日本最大の一揆「島原の乱」。飢饉と凶作のなかでの重税、築城のための過重な負担、幕府の禁教令によるキリシタンへの拷問などなど、耐えるだけ耐えた島原・天草の領民たちの苦しみは怒りへと変わりました。 キリスト教の棄教を迫る厳しい拷問のはじまり、島原の乱の原因となった背景、天草四郎率いる一揆軍が原城へと篭城するまでの歴史を追いかけます。  雲仙岳の麓にある小浜からスタートして雲仙・島原・天草を巡り、島原の乱が勃発したきっかけを掴む今回の旅。訪れる先は、いまは風光明媚な温泉の名所ばかり。車とフェリーを乗り継いで、湯ったりのんびり歴史と温泉の旅を満喫しましょう! 歴史のとびら  豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康へと政治の主導権が移りました。家康は慶長8年(1603)に江戸幕府を開き強力な幕藩体制を確立していきます。当初、キリスト教の布教に寛大だった幕府は、布教を条件とするポルトガルとの貿易に対して不信感を持ち、増え続ける日本のキリシタンたちに脅威を抱くようになりました。特に、西日本を中心に増えるキリシタンが豊臣方の残党勢力が結束するのを恐れ、ついに幕府は禁教令を発布。1612年には天領に、そして1614年には全国に広げ、キリシタン摘発がおこなわれます。  1637年、このような厳しい拷問が続くなか、これに追いうちをかけるように天災、飢饉・凶作・重税などが島原半島と天草の領民を苦しめていました。同年、妊婦を拷問死させた事件や、代官が聖画像を踏みにじる事件が相次いで起こり、領民たちは激昂。おさまらない怒りに次々と島原半島南部の代官を襲いました。そして、島原半島と天草の間に浮かぶ湯島で、一揆軍の首謀者が密かに集まってキリシタンであることを表明し合い、天草四郎を総大将に蜂起することを誓った「湯島の談合」とよばれる密談がおこなわれました。一揆軍は数日後には島原城下を焼き払い、森岳城(島原城)を攻撃するも落城できず。天草では、本渡瀬で一揆軍と幕府の唐津軍が合戦、そして富岡城の総攻撃、最後の砦の本丸を陥落できず。城を落とせなかった島原と天草の領民ら約3万7千人(約2万7千人ともいわれる)は、廃城となっていた“原城”へと向かい籠城。一揆軍は若干16、17歳の天草四郎を総大将にポルトガルからの援軍を待ちながら、幕府の攻撃に耐えていました。悲愴なまでの覚悟を胸に、幕府という強大な権力に立ち向かった一揆軍の魂を感じる歴史の旅がはじまります。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1泊2日(車) 1小浜町歴史資料館(湯太夫跡) ↓車で30分 2雲仙教会(雲仙市小浜町雲仙) ↓車で3分 3雲仙地獄(雲仙市小浜町雲仙) ↓車で40分 4島原城(島原市) ↓ 車で30分→フェリー(須川港−湯島)で約30分 5湯島(熊本県上天草市) ↓→フェリー(湯島-三角)で約70分→車で60分 6天草切支丹館(熊本県天草市) ↓車で40分 7殉教公園(熊本県天草市) ↓車で約40分 8富岡城跡(熊本県天草郡) 1小浜町歴史資料館(湯太夫跡) 森岳城(島原城)の門が残る湯の町・小浜  今回の旅は、雲仙への登山口でもある温泉郷・小浜からスタート。雲仙地獄での厳しい拷問をおこなった島原藩主 松倉重政は、長崎からの帰り道にこの小浜の温泉の入浴を楽しんでいる最中に、長崎奉行の刺客に暗殺されたといわれています。また、小浜地域の民話では、島原の乱勃発直前に天草四郎一行がこの辺りの温泉に立ち寄ったとも伝えられています。史郎は、戦を前にして、小浜の温泉で何を思っていたのでしょうか。島原の乱には、小浜の領民の多くが参加したそうです。(写真は小浜温泉街(長崎県観光連盟)  当時の様子を詳しく知るために、築160年を誇る温泉の番人 本多家の屋敷を利用した小浜町歴史資料館を訪れました。館内には小浜温泉を発展させた本多家の業績のほかに、島原の乱が起こったときの小浜の様子などが展示されています。資料館の入口には、明治維新の際に森岳城(島原城)解体で買い取ったという門が残っていました。この門を挟んで一揆軍と幕府軍が攻防を繰り返したのかもしれません。中庭には、昔から親しまれていた足湯や、武士や藩士が宿泊して湯地できる施設さむらい小屋などがあって、今では家族風呂として楽しめるそうですよ。 旅人コメント 「公民館の向かいにある「上の川湧水」に行ってみて!ここはキリシタン殉教の秘話に登場する湧水だそうです。」(茜) 「小浜の小さい路地を散策していたら発見しました『炭酸泉』。ボコボコと音をたてながら湧いています。熱いのかなと思って手を入れたら冷たかったのでビックリ! 肌によさそうね!」(芳乃) 2雲仙教会 殉教者に捧げられた教会  小浜から車で山道をうねうねと登ると、閑静な山あいに雲仙教会があります。日光に反射する赤レンガが特徴です。この教会は、雲仙地獄で長期間の拷問に耐えた後、長崎にある西坂の丘で火あぶりの刑に処せられた殉教者・アントニオ石田神父らに捧げるため、1981年に建てられました。毎年5月には殉教祭がおこなわれ、多くの巡礼者や観光客が訪れて、静かに祈りを捧げています。 3雲仙地獄 多くのキリシタンが殉教した文字通りの地獄  雲仙教会からさらに山手へ車を進めると、雲仙地獄に到着。立ち上る湯気と硫黄の独特なにおい、無骨な岩がゴロゴロしている光景はまさに「地獄」の様相です! 1627年、なんとこの熱湯煮えたぎる地獄にキリシタンを浸けては引き上げるという非道な拷問が始まります。幕府の禁教令に従ってキリスト教を棄教させるためとは言え、悲しい出来事です…。2007年6月1日、正式に列福が決まった「ペトロ岐部と187殉教者」のなかには、キリシタン大名の有馬晴信に仕え身分の高い武士だった内堀作右衛門をはじめとする雲仙で殉教した29名も含まれています。  時代は変わって明治になると、雲仙は外国人の避暑地として賑わいました。ゴルフやテニスといった当時ハイカラなスポーツが楽しめる温泉街。四季折々に楽しめる懐深い雲仙の自然は、日本で初めて国立公園の指定を受けました。 旅人コメント 「この看板を見て!私も大好きなんです。硫黄の燻製みたいな感じでおいしいんですよ。雲仙でしか味わえないタマゴです。」(温泉博士) 4島原城(森岳城) 一揆軍の攻撃を跳ね返した難攻不落の城  この島原城(森岳城)は、藩主・松倉重政が1624年の完成までに7年の歳月を費やしました。石高4万石に対して立派すぎる城郭建築のための重税と労役が、ゆくゆくは島原の乱を招くことになりました。湯島の談合の2日後、い1637年旧暦の10月26日に、一揆軍は総攻撃を仕掛けましたが、ついに落城できませんでした。  激戦の跡を、館内に展示された資料が物語っています。現在の城郭は、戦後に復元されたもの。湧水の豊かな島原! お城近くの店では、島原名物の“具雑煮”や夏限定の和のスイーツ“かんざらし”をいただくことができますよ。 旅人コメント 「城内に天草四郎の像を発見! 島原の一揆軍が籠城して最期を迎えたのが島原城だと勘違いしている人も多いとか・・。」(千秋) 5湯島  雲仙から県道132号線を通って南島原市西有家町の須川港から湯島商船のフェリーに乗って、天草の湯島へと渡りましょう。  目の前にぽっかりと浮かぶ「湯島」が見えてきますよ。この島は島原の乱 一揆軍の密やかな作戦会議の場となったことから「談合島」ともよばれます。1637年旧暦の10月、島原と天草の首謀者たちがこの湯島に集まり、一揆の計画を企てました。この密談で、若き天草四郎が一揆軍の総大将として決定しました。談合の翌日、一揆軍は、島原藩の代官 林兵左衛門を殺害し、2日後には森岳城(島原城)を攻めました。島原藩、幕府という強大な敵に立ち向かう時、彼らの心中にはどんな思いが交錯したのでしょうか。ちなみに湯島へは熊本の三角港から湯島商船の船で渡ることができます。夏には鯛釣り大会で賑わっています。  静かに浮かぶ湯島を見つめながら、今度は天草の一揆をたどってみましょう。 三角から天草パールラインを通る途中にある天草四郎公園(上天草市の大矢野島) で、1637年旧暦の10月28日に一揆軍がノロシを挙げました。ここからも湯島が見えますよ。一揆軍は徐々に上島から南下して、11月14日に本渡瀬戸の合戦、11月19日に富岡城まで攻め込みます。この距離を車で走るだけでも、その凄まじい勢いが伝わってきます 7殉教公園 一揆軍の武勇を伝える資料館と史跡のある殉教公園 ○天草切支丹資料館  島原の乱における天草最大の激戦地、本渡の町へ来ました。乱で使用されたキリシタンの品々を展示している天草切支丹館。現在は本渡歴史民俗資料館に移転され、仮館として開設しています(*)。館内のスタッフさんが話してくれる見事な島原の乱の物語を聞きながら、天草四郎陣中旗など貴重な資料を拝見。天草での一揆軍の勢いが、リアルに感じられるスポットです。 *現在、天草切支丹館は改装工事のため、天草市今釜新町にある本渡歴史民俗資料館の1階に移転しています。完成の予定は平成21年頃です。 ○殉教戦千人塚とキリシタン墓地(殉教公園)  本渡の町が一望できる高台にある殉教公園は、天草氏の本渡城があった場所です。ここは、16世紀に宣教師を招いて天草氏やその家臣たちが洗礼を受けたといわれている城の跡なのです。公園内に建つ殉教戦千人塚は、1637年旧暦11月、天草四郎率いる7千人のキリシタンと、幕府の唐津軍約2万5千人が本渡で激突した時に、命を落とした人たちを手厚く祀った地蔵堂を各所から集めてひとつにしたものです。  もう少し上の方へ歩いていくと、芝生の上に無数の白い十字架が並んだキリシタン墓地があります。ここで、日本で初めて西洋医学を伝えた宣教師ルイス・デ・アルメイダの記念碑を発見しました。長崎での布教にも活躍したアルメイダは、1583年、58歳のときにこの天草の地で亡くなったのですね。 旅人コメント 「天草四郎の像をここでも発見しました!九州には何体の像があるんでしょうね?」(バンブー) 8富岡城跡 一揆軍が攻めあぐねた山城  この旅の最後に訪れたのは富岡城跡です。一揆軍は、この城に総攻撃をかけ攻めたてたものの、ついに落とせず、これが戦局のターニングポイントになったという城です。城下には島原の乱の戦闘で命を落としたキリシタンを祀ったという首塚(千人塚)があり、戦いの凄惨さがひしひしと感じられます。  城郭は現在改修中。天守閣付近からは、青く美しい天草灘をぐるりと見渡せて、抜群の眺望が楽しめます。特に夕暮れ時は最高! 珍しい天草の海中生物などを展示している富岡ビジターセンターもありますよ。 参考文献 『旅する長崎学1 キリシタン文化1』 特集2-第2章 アルメイダとヴィレラの足跡 長崎における布教と教会建設 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 特集2-第5章 雲仙地獄の拷問 そして絵踏みは始まった… 特集2 幕府をゆるがせた123日-島原の乱 『旅する長崎学6 キリシタン文化 別冊総集編』 第4章 キリシタン受難そして島原の乱 島原半島 スタート地点までのアクセス 小浜町歴史資料館(湯太夫) 所在 長崎県雲仙市小浜町北本町923-1 お問い合わせ TEL/0957-75-0858 開館時間 9:00〜18:00 休館日 月曜日 年末年始(12月29日〜1月3日) 料金 100円(小学生以下無料) 駐車場 11台 アクセス 車…国道57線より伊勢屋旅館先を左折、つきあたりを右へ約50m(諫早ICより50分) バス…島鉄バス[島原・雲仙・愛野駅・諫早線]《西登山口》より徒歩3分、長崎空港から約70分、諫早駅より約40分 ● 長崎空港、島鉄バスのバス停[小浜]までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。