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県南エリア

  • 第28回 「水中考古学の宝庫」鷹島を訪ねて 2008年08月20日
    第28回 「水中考古学の宝庫」鷹島を訪ねて
    松浦市立鷹島歴史民俗資料館館内  長崎県北松浦半島の北西部に位置する松浦市。松浦は魏志倭人伝に「末盧(松浦)」と記され、古代から大陸と日本を結ぶ重要なルートになっていました。その北部、伊万里湾に位置し玄界灘に浮かぶのが鷹島です。東西5km、南北13kmのこの小さな島は「元寇」最後の決戦の地として有名な場所です。  鷹島が一躍有名になったのは、1980年(昭和55)に当時の文部省の特定研究に選ばれ、1982年(昭和57)から海底の沈没船の遺物調査と引き揚げ作業が本格的に始まったとき。それ以前にも壺や碇石などが引き揚げられていたので、この海底周辺が史実や記録に残る元寇の舞台ではないかと推定されていました。調査の結果、引き揚げられた遺物には元寇当時の中国製の壺やカメが多くあり、また地元の人の手によって元軍が使用した青銅印(管軍総把印)も発見されました。そこで鷹島南岸海底は遺跡として登録され、発掘調査が行われるようになったのです。 松浦市立鷹島歴史民族資料館館外  鷹島周辺の海底には、今もなお、元軍の巨大船団と大軍の大半が沈んでいます。海底から引き揚げられた数多くの元寇遺物は保存され、現在、元寇時代のものと裏づける科学的調査がすすんでいます。今回の歴史散歩は、今や日本屈指の水中考古学の"宝庫"として注目を集める鷹島を訪ねてみることにしました。 歴史のとびら  元(蒙古)のフビライは、1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2度にわたり日本遠征を行いました。鷹島に元の大軍が襲来したのは「弘安の役」の時です。元と高麗が連合した東路軍と元と旧南宋が連合した江南軍が、2つのルートから約4400隻、総勢約14万人という大船団を組み押し寄せたといわれています。  しかし、元軍は鷹島で壊滅的な打撃を受けることになります。その原因は後年日本で「神風」と呼ばれた大暴風雨で、一説によれば付近を通過中の大型台風であったともいわれています。勢いに乗った鎌倉幕府軍は、鷹島で元軍の掃討戦を展開していますが、この時、『蒙古襲来絵詞』に描かれている肥後国の御家人 竹崎季長(たけざき すえなが)も鷹島に渡っていたのです。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:車で約48分 1松浦市立鷹島歴史民俗資料館と松浦市立鷹島埋蔵文化財センター ↓車で約15分 2牧ノ岳(まきのたけ)史跡公園 ↓車で約3分 3開田(ひらきだ)の七人塚 ↓車で約30分 4鷹島モンゴル村 1松浦市立鷹島歴史民俗資料館と松浦市立鷹島埋蔵文化財センター 長崎県松浦市教育委員会蔵  鷹島には「松浦市立鷹島歴史民俗資料館」と「松浦市立鷹島埋蔵文化財センター」という隣接する2つの施設があります。ここは海底に眠っていた元寇の遺物を保存・公開している施設です。  松浦市立鷹島歴史民俗資料館には、海底の中から発見された引き揚げ遺物のほか、収集された考古学や民俗学の資料などが展示されています。主なものに元寇遺物、青銅印、壺、陶磁器片、石製品、鉄製品、てつはう(陶製弾)、剣などがあります。 松浦市立鷹島埋蔵文化財センター館内  いっぽう隣の松浦市立鷹島埋蔵文化財センターでは、引き揚げられた遺物の調査・研究・保存処理が行われています。この研究には考古学・日本史学だけではなく、電子工学、海洋学など、学問の領域を越えて多くの研究者が参加しているそうです。センターでは元寇船の大型木製碇や木製船体片群などに脱塩酸処理を施し、保存処理の作業が行われています。引き揚げられた木片群は、その後の調査・研究で中国南部原産の楠が多いことが判明し、年代測定で元寇当時に使用された元船とほぼ特定されました。 長崎県松浦市教育委員会蔵  松浦市立鷹島歴史民俗資料館の担当者にお聞きしましたら、来年春の「鷹島肥前大橋(仮称)[佐賀県唐津市肥前町−長崎県松浦市鷹島石川]」開通にあわせて、大型木製碇を一般公開するよう準備を進めているそうです。さらに詳しい調査・研究が進めば、鷹島は今後ますます「水中考古学の宝庫」として、目が離せない存在になることでしょう。 2牧ノ岳(まきのたけ)史跡公園  牧ノ岳は標高117mで鷹島では一番の高い場所にあり、島全域と四方をとりまく海を一望することができます。ここは牧ノ岳史跡公園として整備され、元寇の由来を記した石碑と五輪塔が建っています。 3開田(ひらきだ)の七人塚  文永の役の元寇で元軍が鷹島に侵入した際、鷹島の開田の山中に人目につきにくい1軒屋がありました。そこには8人家族が住んでいましたが、その家で飼っていたニワトリが鳴いたため、元軍の兵士に見つかり7人が殺され、灰だめに隠れていた老婆がひとりだけ助かったという伝説が残っています。それ以来開田では「ニワトリを飼わなくなった」とも伝えられています。現在開田には犠牲になった7人をまつった塚が建てられています。 4鷹島モンゴル村  鷹島は「鷹島モンゴル村」がある風光明媚な島としても有名です。弘安の役では鷹島は蒙古軍と鎌倉幕府軍の決戦の舞台となりましたが、平成の現在では、鷹島とモンゴルの交流が深まり、カラコルム地方のホジルト市と姉妹都市の関係にあります。鷹島モンゴル村には、モンゴルから取り寄せた30棟のゲルの宿泊施設や温泉センターなどがあり、特産品でもある鷹島のとらふぐを味わうことができるレストランもあります。 〔文:小川内清孝 / 取材協力:松浦市立鷹島歴史民俗資料館〕 スタート地点までのアクセス 松浦市立鷹島歴史民俗資料館 所在長崎県松浦市鷹島町神崎免151 お問い合わせ  TEL0955-48-2744 開館時間9時~17時 休館日毎週月曜 年末・年始 料金一般 300円(10名以上の団体230円)  小・中・高生 140円(10名以上の団体110円 松浦市今福港 ↓(フェリー所要時間約40分) 鷹島殿ノ浦港 ↓(車で約5分) 佐賀県星賀港 ↓(フェリー所要時間約10分) 鷹島日比港 ↓(車で約7、8分) 松浦市立鷹島歴史民俗資料館 2009年3月から佐賀県唐津市肥前町と長崎県松浦市鷹島町石川(いしごう)間に鷹島肥前大橋(仮称)が開通予定です。 松浦市立鷹島埋蔵文化財センター 所在長崎県松浦市鷹島町神崎免151 お問い合わせ  TEL0955-48-2098 アクセス松浦市立鷹島歴史民俗資料館と隣接。
  • 第19回 深堀の城下町と善長谷教会 2008年01月09日
    第19回 深堀の城下町と善長谷教会
    〜禁教令に従う佐賀藩とキリシタンの里「善長谷」〜 歴史のとびら  長崎市の南西部に位置する深堀地区は、城下町の佇まいを残す風情ある港町です。海に恵まれた地の利を活かし、その昔から、往来する貿易商人との交流がおこなわれていました。  深堀の歴史は古く、縄文時代から生活が営まれていたことが、貝塚など遺跡の発掘調査によって確認されています。  "深堀"という地名の誕生は鎌倉時代にさかのぼります。上総国の (現・千葉)の三浦仲光は、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府方として活躍した褒美に、この肥前国彼杵庄戸町浦(現・深堀)を拝領しました。地頭職として赴任し、姓・町名ともに深堀と改名。その後、有馬氏から西郷氏、鍋島氏の支配下へと移行したものの、初代仲光から32代にわたります。  江戸時代、深堀は佐賀藩に取り込まれ、鍋島の姓に改名。6千石の家老職として勤める佐賀藩鍋島氏となり、居城を中心に武家屋敷などを整備した新しい城下町としての深堀を形成していきました。  佐賀藩鍋島は、諫早、神代(国見)、深堀を領地とし、外海の出津・黒崎・三重にも飛び地が存在していました。徳川幕府の禁教令によって、キリシタン弾圧がさらに厳しさを増していくなか、大村藩が支配する「内海」と呼ばれる大村湾周辺の厳しい監視から逃れるために、1823年、外海の三重東樫山に暮らしていたキリシタン6家族が新天地を求めて海を渡り脱出しました。彼らは、マリア観音やメダイを隠し持ち、旅芸人を装って善長谷へ移住したそうです。菩提寺の檀家となりながらも、ひそかにキリスト教の信仰を守り続けました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約4時間 1深堀武家屋敷の跡 ↓ 徒歩で約10分 2深堀義士の墓 ↓ 徒歩で約30秒 3深堀鍋島家の墓地 ↓ 徒歩で約3分 4五官の墓 ↓ 徒歩で約60分 or 車で約10分 5善長谷教会 1深堀武家屋敷の跡 江戸時代の風情が残る城下の街並み  今回の散策は、深堀武家屋敷の跡からスタートです。  1592年(文禄元)、深堀純賢氏は朝鮮への出陣後、佐賀藩に組み込まれ、鍋島の姓に改名し、6万石の家老職となりました。佐賀藩鍋島の深堀領を中心として城下町を築きました。深堀武家屋敷の跡がある周辺が城下町の入口だった場所です。曲がりくねった鍵型の通りに、屋敷の重厚な練壁が当時の様子を残しています。  ここから約400メートルほど歩くと深堀純心幼稚園が見えてきます。この一帯に、佐賀藩鍋島氏の居城である陣屋を構えていました。  ちょっと寄り道して、深堀神社の前を通りました。長崎市役所深堀支所の先です。大きな石の鳥居には、深堀創設の由来が刻まれていました。そして、城下町のいたるところにカラフルな海の安全を祈る恵比寿さまを見つけることができますよ。 さぁ、次は菩提寺をめざして歩きましょう。 2深堀義士の墓 長崎版忠臣蔵として全国で話題になった「深堀騒動」  深堀小学校のグラウンドのある道沿いから、目印のお地蔵さまのところを左折してまっすぐ進みましょう。菩提寺が管理する敷地内に、深堀義士のお墓がありました。  ズラリと並んだ義士たちのお墓。彼らは「深堀騒動」とよばれる事件で、自害したり流罪になったりした義士たちです。  ある日のこと、事件は大音寺坂(現・長崎市万才町)で起こりました。佐賀藩鍋島の深堀領に使える武士2人と、宴会の帰りで酔っていた筆頭町年寄高木氏の使用人とが、すれ違いざまに喧嘩をはじめてしまいます。原因は、深堀三右衛門がつまづいた拍子に、高木家の使用人に泥がかかってしまったという些細なことでした。しかし、気持ちのおさまらない高木家の使用人は、その日の夕方、仲間を引き連れて五島町(長崎市)にある深堀の屋敷を襲撃したのです。  翌日、今度は深堀の武士21人が無念をはらすために高木家に討ち入り、主人である高木彦右衛門を斬ってしまいました。  この事件は長崎版忠臣蔵として当時江戸の町まで広く伝わり、大きな話題になったそうです。  昔から貿易商人との交流があった深堀、長崎で貿易商人たちを取り仕切る元締役の高木家、双方ともかなりの力を持っていたのではないでしょうか。  この深堀騒動が起こった大音寺坂のそばには、時代を遡ってキリシタン時代、病院や教会堂をもつミゼリコルディアの本部が1583年頃から1620年頃まであったんですよ。 3深堀鍋島家の墓地 歴代のお墓がズラリ!  深堀義士のお墓の横から、階段をのぼって石造のアーチをくぐります。すると、ビックリするくらい巨大で立派なお墓がいくつも並んでいました。  この墓地には、江戸時代に佐賀藩の家老職を勤め、姓を改名して鍋島家となった18代目深堀純賢(すみまさ)から、歴代の領主と夫人たちが眠っています。 4五官の墓 朱印船貿易でアジア各国と交流した中国人  明の貿易商人として活躍した林氏五官呉のお墓です。彼は1606年〜1616年にかけて、ベトナムやカンボジア、長崎のアジア各国を往来しながら貿易で財を成しましたが、1637年(寛永14)に亡くなっています。  菩提寺の記録によると、深堀は長崎に渡来する唐人を歓迎し、貿易商人たちから受け取った寄進を、お寺のいくつかの御堂の造営にあてたとあるそうです。五官は、明の皇帝から貰った大切なお宝をお寺に喜捨してお墓の土地を購入したそうです。五官の人脈の広さとスケールの大きさが伺えます。お墓に刻まれた文字は風化して読めませんが、中国華南系の様式で造られています。  このお墓の周辺が唐人街と呼ばれていたことから、海外との交流が盛んだった深堀の様子がうかがえます。  さあ、次は善長谷教会へGO!! ところが、実は道に迷ってしまいました。でも、おいしそうな干物が太陽をいっぱい浴びている、のどかな漁村の風景に出会えましたよ。それと、迷って地元の人に道を聞くのも、土地の雰囲気が伝わってきたりして、旅の醍醐味かもしれませんね! 5善長谷教会 山にある教会から、海に沈む夕日を眺める  深堀から歩いたのには、ワケがあります。深堀から善長谷教会までの距離。歩くと遠くに感じますが、歴史的な背景を考えると、この1時間が短く感じるのです。それはたぶん、徳川幕府が発布した禁教令のなか、ひそかにキリシタンが信仰を守った善長谷の集落と、キリスト教を厳しく取り締まった佐賀藩の深堀の城下町が微妙な距離にあるからではないかと思います。もちろん善長谷は佐賀藩の深堀領。えもいわれぬ緊張感におそわれます。ひたすら山道をのぼりました。  途中、散歩をする人や教会の見学で訪れる多くの人々に会いました。  山道の脇の畑では、ド・ロ神父が伝えたのではないかという説のある"ゆうこう"という柑橘系の果物が旬を迎え、黄色く実っていました。  やっとたどりついた善長谷教会の前に立つと、なんとも素晴らしい絶景!  目の前に広がるのは、外海のキリシタンたちが新天地を求めて渡った海。伊王島、高島、そして五島までもが見渡せます。  1823年(文政6)、外海の東樫山に住んでいた6家族のキリシタンが旅芸人を装って、海を渡ってきました。見つからないように隠し持ってきたマリア観音とメダイ。そして、「黒船に乗ってくる人と心ひとつになれ」という言い伝えを信じ、ひそかに信仰を守り続けました。  その後、開国した日本には、再布教のため、外国から宣教師たちがやってきますが、まだ日本人の信仰の自由は認められていませんでした。1864年、パリ外国宣教会によって、長崎の居留地に大浦天主堂が完成しました。1865年、献堂式を終えて間もないこの天主堂を訪れた浦上村の人々が、プチジャン神父に信徒であることを告白します(信徒発見)。やがて善長谷の人々も言い伝えを確認するために大浦天主堂を訪れ、信仰の復活を果たしました。  明治になってからもキリスト教徒の弾圧は続きますが、諸外国からの抗議もあり、1873年、新政府によって幕府の禁教令の高札は撤廃され、キリスト教は黙認されることとなりました。  樹木に掛けられたアンゼラスの鐘、キリシタンたちが住む島々の海の向こうにローマがある。しばらく、その風景を眺めながら、夕日を待つことにしました。  実際に歩いたことで、歴史物語をリアルに体感できた今回の旅。人里離れた辺境にしか暮らせず、ひそかに信仰を守り続けなければならなかったキリシタンたち。しかし、彼らの心をなぐさめたのは、他では味わえない最高の眺望だったのではないでしょうか。それこそ人間業ではない神の存在を信じさせてくれたのかもしれません。海に沈んでいく美しい夕日を見ながら、善長谷のキリシタンたちも、この美しい風景にゆるぎない信仰と固い結束を誓ったのではないかと思いました。  絶景を望むところに教会あり。長崎には、まだまだ知られていない魅力がたくさん隠されています。 参考文献 「旅する長崎学1 キリシタン文化1」企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集4-第4章 慈善・福祉事業の発祥 ミゼリコルディアの組 「旅する長崎学4 キリシタン文化4」企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集4-第2章 外海キリシタン物語 「旅する長崎学5 キリシタン文化5」企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集4-第1章 山にある天主堂 「長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」 監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社 2005年 「文化財めぐり 深堀散策」発行/長崎市教育委員会生涯学習部文化財 2004年 「長崎さるくマップブック」 編集発行/長崎さるく博'06推進委員会 2006年 「長崎市の文化財」 スタート地点までのアクセス 深堀武家屋敷の跡 所在 長崎県長崎市深堀町5-191長崎市深堀体育館と深堀公園の裏 開館時間 見学は武家屋敷通りのみ アクセス 車… JR長崎駅より約20分 バス… <長崎新地ターミナル>より長崎バス[恵里][深堀]行きに乗車(所要時間は約30分)、<深堀>で下車、徒歩で約10分。または、<茂里町〜長崎駅前>より長崎バス[香焼恵里]に乗車(所要時間約40分)、<深堀>で下車、徒歩で約10分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約2時間)。  鳥栖駅より約1時間。佐賀駅より約1時間25分。諫早駅より約20分。 *JR長崎駅からは路面電車、バスまたはタクシーをご利用下さい。 長崎方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボス駅より約1時間20分。大村駅より約35分。 *JR長崎駅からは路面電車、バスまたはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。 ●●JR長崎駅・長崎新地バスターミナル・JR佐世保駅・空港へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 旧石器時代から弥生時代まで 2010年06月23日
    旧石器時代から弥生時代まで
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