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県南エリア

  • 第23回 大村のキリシタン殉教の地を巡る 2008年03月05日
    第23回 大村のキリシタン殉教の地を巡る
    〜大村殉教の歴史をたどって〜 歴史のとびら  16世紀の大村は、日本で初めてキリシタン大名となった大村純忠(おおむらすみただ)が治めていました。純忠は1563年、横瀬浦(現在の長崎県西海市)でキリスト教の洗礼を受け、重臣たちもともにキリシタンとなりました。領主の改宗によって、領民たちもキリスト教を信仰するようになり、1582年頃にはその数6万人ともいわれ、西洋のキリシタン文化を積極的に受け入れていきます。  しかし、1587年に純忠が亡くなると、跡を継いだ息子の喜前(よしあき)はキリスト教を棄て日蓮宗に改宗。さらに徳川幕府の禁教令が発布(1614年)されて、仏教徒になる領民も多くいましたが、厳しいキリシタン弾圧のなかにあっても、信仰を支えにキリスト教を守り続けるキリシタンたちがいました。 大村で初めて殉教者をだした事件  禁教令の発布(1614年)から3年後の1617年(元和3)、大村領内で初めて殉教者が出ました。捕らえられたのは、禁教下にもかかわらず布教活動をおこなっていたイエズス会とフランシスコ会の外国人宣教師2人で、大村湾を見下ろす丘にある帯取(おびとり)で処刑されました。この殉教事件以降、大規模なキリシタン弾圧事件が次々と勃発しました。 鈴田牢から西坂の丘へ「元和の大殉教」  1617年(元和3)から1622年の約5年のあいだにキリシタンが次々と捕らえられ、外国人宣教師を含め日本の信者たち56人が長崎西坂の丘で処刑された「元和の大殉教」。大村の鈴田牢と長崎の桜町牢(通称:クルス牢)に捕らえられていたキリシタンたちで、25人は火あぶり、31人は斬首だったそうです。そのうち1名は、火刑の柱から離れたということで殉教とみなされず、55人が殉教者とされています。イタリア人のカルロス・スピノラ、女性やわずか4歳の幼子も犠牲となりました。 大規模なキリシタンの弾圧「郡崩れ」  1657年、大村領内で「郡崩れ(こおりくずれ)」という事件が起こりました。これは、長崎奉行の黒川与兵衛が、その20年前に起こった「島原の乱」のようなキリシタンを中心とした一揆が再び起こることを恐れ、大村藩に命じて領内のキリシタンを摘発し処刑した事件のことです。大村の郡村(こおりむら・現在の大村市)を中心にキリシタン608人が捕らえられ、棄教を誓った99人は釈放されましたが、厳しい取り調べ中に78人が死亡、20人が永牢(終身刑)、411人が斬首という厳しい処罰が下されました(人数については諸説あります)。  翌年には、斬首を言い渡された411名のうち131人が大村の放虎原(ほうこばる)斬罪所で処刑されました。見せしめとして旧長崎街道沿いの獄門所で、処刑されたキリシタン131人の首が約1ヶ月間さらされたといいます。その後、遺体が再びよみがえらないようにと、首と胴体を別々に、南北に約500メートル離れた位置に首塚・胴塚をつくって埋葬しました。  キリシタン弾圧が強化された大村では、遺品や墓石などが次々に破壊され、華やかだった時代のキリシタン文化は、あとかたもなく消えていきました。今回は、大村のキリシタン殉教地をめぐります。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約4時間 1鈴田牢の跡 ↓ 車で約15分 2妻子別れの石 ↓ 徒歩で約10分 3放虎原殉教地 ↓ 徒歩で約10分 4獄門所の跡 ↓ 徒歩で約10分 5胴塚の跡 ↓ 徒歩で約10分 6首塚の跡 ↓ 車で約10分 7今富のキリシタン墓碑 ↓ 徒歩で約7分 or車で約3分 8帯取殉教地 1鈴田牢の跡 キリシタンが捕らえられた牢屋  ドライブしながら県道37号線(大村貝津線)沿いの釜川内付近にさしかかると、小高い丘の上に白い十字架が見えてきました。丘の裏手へとまわって階段を登りましょう。  記念碑としてたつ白い十字架のむこうには大村の町の景色が広がっていました。  宣教師の記録によると、牢の大きさは約6畳ほど(奥行5.3メートル×間口3.5メートル)で、木枠に囲まれた鳥かごのようだったといいます。牢屋には二重の柵がめぐらされ、目の前に設けられた管理棟から監視されていたそうです。多いときには30人以上が牢屋に入れられ、横になることもできず、身動きすらできない状態で、入牢中に亡くなった人もいます。  この牢に捕らわれたキリシタンたちは、長崎の西坂の丘と大村の放虎原(ほうこばる)にわかれて処刑されました。外国人宣教師のフランコ神父たち8名は、大村の放虎原で処刑。また、1622年には、大村の鈴田牢と長崎の桜町牢(クルス牢)に捕らえられていたキリシタン56人が、西坂の丘(長崎市)で処刑されました。56人のうち、宣教師らを中心に25人は火あぶり、宣教師をかくまい宿主となったキリシタンら31人は斬首され、「元和(げんな)の大殉教」とよばれています。このなかにはイタリア人宣教師 カルロス・スピノラもいました。彼は大村の鈴田牢で3年9ヶ月を過ごし、厳しい牢獄生活のなかで当時の様子を記録して、ローマに手紙を送っていました。また、処刑されたなかには、わずか4歳のイグナシオ(洗礼名)と母イザベラのように幼子や女性もいて、犠牲となりました。 長崎の西坂の丘で、この「元和の大殉教」事件が起こったのは、日本二十六聖人の殉教事件(1597年)から25年後の1622年のことで、海外にもつたえられました。 2妻子別れの石 家族との別れを惜しんで流した涙  徳川幕府が発布した禁教令(1614)によって、1657年(永禄10)、大村藩がキリシタン603人を検挙した未曾有の事件「郡崩れ(こおりくずれ)」が起こりました。ここは、処刑される間際に、妻や子どもなど家族との別れを惜しんだという場所です。悲しみの涙を流しながら北へ約80メートル先にある放虎原(ほうこばる)の処刑場まで連行されました。  石碑の周りには丸く大きな石が残っています。とめどなく溢れる別れの涙で濡れた石として「涙石」と呼ばれ、不思議なことに苔が生えないといわれています。  すぐそばに、マリナ伊奈姫のお墓がありました。日本初のキリシタン大名 大村純忠の娘で、熱心なキリシタンでした。厳しいキリシタン弾圧の世に、宣教師たちをかくまうなど献身的に信仰に生きたお姫さまでした。  では、「郡崩れ」でキリシタン131名が処刑された放虎原斬罪所へ行ってみましょう。 3放虎原殉教地 「郡崩れ」でキリシタン131名が処刑された斬罪所の跡  「妻子別れの石」から、国道34号線の大通りを渡り、"ナフコ"の角を曲がって約5分ほど行くと、大きなレリーフが見えてきました。  徳川幕府の禁教令によって、キリシタンの取り締まりが強化され、弾圧が厳しさを増していくなかで、大村のキリシタンは潜伏しながら密かに信仰を守っていました。 放虎原の斬罪所では多くのキリシタンが処刑されました。1624年には、慶長遣欧使節をローマで案内したフランシスコ会のルイス・ソテロ神父ら5人が火刑に処せられました。 また、1658年には131人のキリシタンの命が奪われます。1657年、長崎奉行所は、キリシタンの捜索を大村藩に命じました。郡村(こおりむら)を中心にキリシタン608人もの逮捕者を出し、うち、大村では131人が斬首という厳しい処分が下されました。彼らは、翌年、この石碑の周辺にあった斬罪所で処刑されました。そして、長崎街道沿いにあった獄門所で1ヶ月間ほどさらし首となり、遺体は首と胴を別々に、約500メートル離れた場所に埋葬されました。これは、キリシタンが再びよみがえることを恐れたためといわれ、それぞれ首塚跡、胴塚跡となっていますので、あとで立ち寄ることにします。  再び、国道34号線を渡り、長崎街道を通って獄門所の跡へ行ってみましょう。 4獄門所の跡 「郡崩れ」 長崎街道で見せしめにされたキリシタン  むかし、大名行列など行き交う人々で賑わいをみせていた長崎街道沿いに、聖母マリアと子どもの像がありました。  ここは、1657年に起こった「郡崩れ」により、放虎原(ほうこばる)斬罪所で処刑されたキリシタン131人の首を塩漬けにして、見せしめのために20日ほどの間、さらし首にした場所といわれています。  キリシタン131人の遺体は、再びよみがえらないようにと、キリシタン封じのまじないをかけるようにして、首塚・胴塚と別々の場所へ葬られました。 5胴塚の跡 「郡崩れ」で処刑されたキリシタンの復活を恐れて埋葬(1)  「郡崩れ」で処刑されたキリシタン131名は、獄門所でさらし首にされた後、首と胴を別々の場所に葬られました。再びよみがえることのないよう、キリシタン復活を封じるため、首を北へ、胴体を南へと隔てて葬り、塚をたてて魂を鎮めたのです。  現在、胴塚の跡には、天空に向かって祈る姿の像がたっています。  次は、北へ約500メートル先にある首塚へと行ってみましょう。再び、国道34号線に戻ってまっすぐ進みます。 6首塚の跡 「郡崩れ」で処刑されたキリシタンの復活を恐れて埋葬(2)  国道34号線沿いの"かとりストア"の角を曲がると、塀で囲まれた首塚の跡がありました。白い十字架の門を開けて中に入ると、手をあわせた像の傍らに、ちょうど椿が咲いていました。 7今富のキリシタン墓碑 十字架が刻まれたお墓  帯取殉教地から歩いて約15分のところに今富キリシタン墓碑があります。江戸時代、厳しいキリシタン弾圧で大村領内のキリシタンに関する遺品や墓石は徹底的に破壊されましたが、この今富の墓碑は難をのがれて残ったお墓のひとつです。  墓碑は竹薮のなかに隠れるようにありました。正面からは四角いお墓で正面に戒名が刻まれていますので、一見キリシタン墓碑とはわかりません。では、上部か背面から見てみましょう。キリシタン墓碑の特徴ともいわれるカマボコ型(半円柱)で、上面には十字架が刻まれているのがわかります。これは禁教時代に墓碑を起こして立て、カムフラージュしたものと思われます。  さて、このお墓はいったい誰のお墓なのでしょうか? 最近まで、碑銘から1576年に没した大村純忠の家臣で一瀬栄正のお墓ではないかと思われていました。しかし、2007年7月に大村史談会の調査で、墓碑の上部に刻まれた「慶長19年」という年号と「庵■」(■は読み取れない文字)という名前らしき文字が刻まれていることが確認されたことから、一瀬栄正とは別人ではないかという説も浮上しているそうです。今後の調査に期待しましょう。 8帯取殉教地 大村で初めて殉教者をだした事件  帯取殉教地の石碑がたつ場所は、大村湾に沈む夕日が輝く美しい眺望に恵まれた丘にありました。  徳川幕府の禁教令発布(1614年)発布後、大村には宣教師38人が潜伏していたといいます。殉教事件が起こったのは1617年(元和3)の春のこと。大村藩は外国人宣教師2人を摘発して郡村(こおりむら)の牢へと連行しました。捕らえられたのはフランシスコ会のペトロ神父とイエズス会のマシャード神父。2人は同年5月22日にこの帯取の地で処刑され、大村で初めて殉教者がでました。  現在、毎年5月には帯取殉教祭がおこなわれています。字架が刻まれているのがわかります。これは禁教時代に墓碑を起こして立て、カムフラージュしたものと思われます。 大村の殉教地をめぐった今回の旅では、日本初のキリシタン大名 大村純忠の存在によって、いち早くキリシタン文化を受け入れながらも、幕府のキリスト教の禁教政策を背景に、棄教、潜伏、殉教の道を選ばざるを得なかった時代の悲しさを感じました。数多くの殉教事件で消え去っていったキリシタン文化の歴史をしのびつつ、大村の地に生きた人々の足跡をたどる歴史散策となりました。  4月の大村は、桜の名所として有名な大村公園に多くの人びとが訪れ、名物の大村ずしやゆでピーナッツなどで楽しませてくれますよ。  大村の歴史散策として、<ながさき歴史散歩>第9回 「キリシタン時代の面影をたどる大村の旅 〜日本初のキリシタン大名大村純忠〜」もあわせてお楽しみください! 参考文献 「旅する長崎学1 キリシタン文化1」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集3-第1章 純忠、横瀬浦で受洗 日本初のキリシタン大名誕生 「旅する長崎学3 キリシタン文化3」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集2-第3章 元和の大殉教 再び血に染まった祈りの丘 「旅する長崎学4 キリシタン文化4」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集4-第1章 大村キリシタンの弾圧「郡崩れ」 「旅する長崎学6 キリシタン文化6」 第5章 領主棄教とキリシタン取り締まり 大村 (ガイド編)キリシタン時代の城下町と弾圧の歴史を巡る 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2007年 スタート地点までのアクセス 鈴田牢の跡 所在 長崎県大村市釜川内 県道37号線(大村貝津線)沿いで釜川内公民館の向かい 開館時間 常時開館可 料金 なし アクセス 車… JR大村駅より約10分。 バス… <大村バスターミナル>より県営バス[諫早駅前(医療センター・今村ニュータウン)]行きに乗り(所要時間は約14分)、<田久保>で下車し徒歩で約3分。[諫早駅前]に乗車し(所要時間は約12分)、<与崎>で下車し徒歩で約10分。 福岡から行く! 電車… JR博多駅より[かもめ]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約1時間55分)。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。 高速バス… 博多駅交通センターより九州急行バス〔九州号〕に乗り≪大村IC≫で下車、県営バスに乗り換え≪JR大村駅≫で下車。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。 車… 福岡市内より九州自動車道を利用し、長崎自動車道<大村IC>で降りて(約1時間20分)、さらに国道444号線から国道34号線に左折、与崎橋の三叉路を左折しコンビニの角を右折して県道37号線(大村貝津線)を走って約1分。釜川内公民館の向かい。 佐世保から行く! 車… JR佐世保駅より約1時間25分。 電車… JR佐世保駅より[快速シーサイドライナー]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約60分)。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。 長崎から行く! 電車… <JR長崎駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約55分)。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。 車… 長崎市内より出島道路経由の長崎自動車道を利用した場合「大村IC」で下り(所要時間は約25分)、さらに国道444号線から国道34号線に左折、与崎橋の三叉路を左折しコンビニの角を右折して県道37号線(大村海津線)を走って約1分。釜川内公民館の向かい。 長崎市内より国道34号線を諫早方面へ向かい、貝津町交差点を左折し県道37号線(大村貝津線)を北上、釜川内公民館の向かい。所要時間は約60分。 ●JR大村駅・大村ターミナル・長崎バスターミナル・佐世保バスターミナルまでは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 松原刃物 2014年03月24日
    松原刃物
    松原刃物の歴史  大村市の松原は、長崎と小倉を結んだ長崎街道が通っていた場所で、人・物・異国文化が往来していました。この地の名産品に松原刃物と呼ばれる鎌や包丁がありますが、500年もの歴史を持つことをご存知でしょうか?  鍛冶屋は刀剣を作る「薄物」と、鍬などの農具を作る「荒物」の2つに分かれます。薄物鍛冶は繊細な焼き入れの技術が必要で、松原の技術は刀鍛冶の流れをくんでいます。  松原刃物の歴史を追ってみると、1185年(文治元年)の壇ノ浦の合戦にまで遡ります。平氏一門の刀工・並衝行泰(なみのひらゆきやす)が源氏の追討から逃れるため、日向の国(宮崎県)に身を隠します。そして刀剣の需要が高まった戦国時代の1474年(文明6年)に、その子孫が松原に移住。八幡神社の境内で刀を鍛え、また農民の要望に応えて月型の鎌を作ったのが松原鎌の始まりとされています。これらの技術を、八幡神社の別当であった伊東家が受け継いで、多くの職人が技を習得して広まりました。  刀の需要が減少すると、それまで余業だった鍬・小刀・鎌・包丁などに重きを移し、本業は鎌の製造へ変わっていきました。現在では包丁が主流となっています。 松原刃物の特徴  県の伝統的工芸品に指定されている松原刃物の特長は、両刀の黒打ちや磨きをかけない地のままの色、切れ味の良さと粘り強さ。また包丁の種類にもよりますが、峰の部分を見ると、他の地域のものよりも薄めであることに気付きます。  これらを実現するのが厳選された良質な材料と高度な技術。硬い鋼を軟らかな鉄で挟み、炉の温度や外気温、火花の色などを確認しながら、焼いては打つを繰り返す昔ながらの手作業の鍛造技法が、刃こぼれしにくい粘り強さを生み出します。 世界に一つ、マイ包丁作り体験  昭和初期には20軒ほどあった鍛冶屋ですが、現在は3軒を残すのみ。松原鎌総本家・伊東鍛冶屋が操業を終える際に、技術を買われて伝統を受け継いだのが田中鎌工業です。  田中鎌工業では、より多くの人に松原刃物の存在を広く知ってもらいたいという思いから、民泊の受け入れや、包丁作り体験を行っています。数ある工程の中の一部分ではなく、6時間ほどかかる本格的なもの。約1,100℃に燃えさかる炉や、ガンガンと激しい音を立てるベルとハンマーなどを駆使し、田中さんのガイドを受けながらも自分自身の手で鉄から刃物へと仕上げていきます。高度な鍛冶技術を身に沁みて感じるとともに、刃物作りの難しさや自分の銘を刻む嬉しさを味わうことができるのが魅力です。  「松原包丁を、使い捨てと同じにされたくない。体験では『研ぎ』も一緒に教えられるので、ずっと使えることを理解して大切にしてほしい」と4代目の田中勝人さんは語ります。  出来上がった「マイ松原包丁」で料理を楽しみ、家族の団らんを演出してみてはいかがでしょうか。 田中鎌工場 有限会社 住所:〒856−0009 大村市松原本町371  電話:0957−55−8551    包丁作り体験料(土・日のみ):14,000円/1人(2名以上) (所要時間:約6時間) ※要予約です。   民泊:1泊朝食付5500円/1人(原則3名以上)    夕食希望はプラス1500円
  • 新たなご当地グルメ「大村あま辛黒カレー」 2014年03月24日
    新たなご当地グルメ「大村あま辛黒カレー」
    カレーが町おこしの主人公になったわけ  国民食の一つにも挙げられるほど、日本の食文化に定着してしまっている外来料理「カレー」。大村市ではカレーを起爆剤とした町おこし活動が拡がりを見せています。なぜカレーなの?と思う方もいるでしょうが、それにはしっかりとした理由があったんです。  大村といえば、日本で初めてキリシタン大名となった領主・大村純忠らが、1582年(天正10年)にローマへ4名の少年を中心とした「天正遣欧使節」を派遣したことで有名です。また長崎の大村〜小倉へと続く長崎街道を通り、砂糖をはじめ様々な物や文化がこの地を通って全国へ広がりました。 大村市の発展を思い描く地元の有志は、その使節団が帰国の途中に立ち寄ったインドで、カレーに使われるスパイスを持ち帰った事に着目して、新たな名物となるカレーを創作し、広く県内外にアピールすることにしました。 新たなご当地グルメ「大村あま辛黒カレー」とは  大村市の新名物「大村あま辛黒カレー」の特徴は、大村市の食材と歴史がたくさん盛り込まれ、大村の地(黒土)で育つ野菜やフルーツをふんだんに使っています。 口に運んだ時にはやわらかな甘さが広がるのですが、その後から辛さが追いかけて来ます。口の中で「フルーティーな甘さ」と「スパイシーな辛さ」が交互にやってくる、不思議な味わいのカレーです。 地元愛が生み出すバリエーション  この「大村あま辛黒カレー」は、ボランティア団体「大村あま辛カレーうまか隊!」によって、B-1グランプリなど多くのイベントで提供され、ぐんぐんと知名度を上げていきました。  また県内では、地域振興に賛同する大村市内の飲食店10店舗で食べられます。  「地元で育った野菜やフルーツを使用」「フルーティーな甘さとスパイシーな辛さが繰り返される味わい」「大村市北部特有の黒土をイメージさせる黒いカレールゥである」などの認定条件を踏まえた上で、各店ともオリジナリティー溢れる一品に仕上げています。  ひとつとして同じものがない「大村あま辛黒カレー」。オフィシャルサイトでは探検MAPも提供されていて、2013年1月にはハングル訳版も登場。食べ歩きして制覇するのも楽しいですよ。 関連URL http://umakatai.o-size.net/
  • コーヒー伝来の地長崎から 2014年03月25日
    コーヒー伝来の地長崎から
    長崎スコーコーヒーパークとは  大村市にある長崎コーヒーパークには、日本初の観光コーヒー園として、約300坪の大温室に200本余りのコーヒーの木が育成されています。ここで栽培、収穫されたコーヒー豆は、上質な海外産の豆とブレンドされ「寿古珈琲」としてお土産に、ギフトにと人気があります。そして敷地内にあるレストラン「スコーズ」では、コーヒーをはじめ、温室で栽培されるコーヒーやバナナなどを活用して作られた料理を味わうこともできるのです。  いったいどんな料理を味わうことができるのでしょうか? “見る・楽しむ”日本初の観光コーヒー園  長崎スコーコーヒーパークでは、観光コーヒー園としてどんなことを経験できるのか?コーヒーの観光といってもピンとこない方もいると思います。  コーヒーの木に囲まれたスペースに設置されたステージの上で、社長自らが浪曲など唄をまじえながら、コーヒーと人との関わりの歴史や日本に伝わったコーヒーの歴史などを芝居形式でわかりやすく教えてくれます。現在では当たり前のように飲んでいるコーヒーですが、飲用のための豆として完成される以前には果実を食べていた歴史もあります。話を聞きながら、栽培からすべてが手作業で仕上げられたという世界で初めてのコーヒー果実のジャムを味わうことができます。このジャムは果実を残したままの状態で、日頃飲んでいるコーヒーからは想像できないほど甘いジャムに仕上がっています。飲むことに慣れている私たちにとっては、食べるコーヒーに対しては初めての味で、驚きがあり新鮮に感じます。  また楽しい話を聞いている間には、コーヒーが入ったオリジナルカステラやこだわって作られたコーヒーのキャンディなどここでしか味わえない商品を試食することができます。下手に資料やパネルでコーヒーの歴史や成分を知るよりも、楽しみながらコーヒーを実際に味わい知るという観光コーヒー園の内容は、多くの観光客に喜ばれています。  このお芝居は、通常15名以上の予約で行われています。お気軽にお問い合わせください。 日本においてのコーヒー  長崎に港を開いた大村純忠は、南蛮貿易を積極的に行いました。その後オランダ商館が平戸から長崎に移され、西洋との窓口は長崎に限定されました。  そして1641年(寛永18)、コーヒーはオランダから日本に伝えられたといわれています。当時長崎出島に持ち込まれ、大坂、江戸へと伝わりました。  西洋との貿易に熱心だった大村純忠の領地であった大村市に、これだけのコーヒーが育てられ、そして商品化されているというのは面白いことです。国内においても長崎スコーコーヒーパークは、国内コーヒーのパイオニア的存在ともいわれています。  現在は、コーヒーの果実ジャムやパパイヤジャム、コーヒーカステラなどコーヒーの栽培だけにとどまらずオリジナル商品も開発・販売され、多くのファンを作り続けています。大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、当時のコーヒー豆の調査を行い、幕末期に飲まれていたコーヒーを再現した龍馬伝珈琲も飲むことができます。  温室の中のコーヒーの木は、4月から9月にかけては、ジャスミンに似た芳香を持つ純白の可憐な花を咲かせます。またブーゲンビレアも育てられており、11月から5月くらいの間、温室を鮮やかな色に染め、多くの人が見物に集まります。  “見せる・楽しむ”観光コーヒー園よりも“魅せる・楽しむ”観光コーヒー園といえそうですね。 食べるコーヒー・飲むコーヒー  敷地内にあるレストラン「スコーズ」では、オリジナルコーヒーをはじめ、食べるコーヒーのメニューがあり、好評を得ています。リピーターも多いというコーヒーピラフをいただきました。最初は“いつも飲むコーヒーの味や香り”がイメージとしてありますが、いざ運ばれていくると、まったくその印象がありません。深い味わいがあって、説明されないとコーヒーが入っていることすら忘れてしまいます。上にのっている肉は口の中でとけるように柔らかくなっているのですが、これもコーヒーを入れてじっくり煮込まれたものなんです。リピーターが多い理由もうなずけます。このレストランでは、コーヒーだけでなく、温室で育てられたバナナやパパイヤも料理に使用されています。  食後に長崎スコーコーヒーパーク産オリジナルのコーヒーをいただきました。シーボルトが日本に持ち込んだといわれるコーヒーカップに形状を似せて作られたものだそうで、コーヒーが日本に伝わった当時を想像できる絵が描かれています。  飲み物であるコーヒーには、カフェインが含まれていますが、それ以外の多くの成分についてはほとんど解明が進んでいないのが現状です。しかし、近年の研究によって制がん作用をもち、老化防止や糖尿病抑制などと効果があることが伝えられています。  古くは、疲労回復のためとしても果実を食べていたという歴史もあるといわれています。長崎スコーコーヒーパークの飲物だけでなく食べ物にも活用する独自の取り組みはとても興味深いですね。またコーヒーや一部の商品については空港の売店などでも購入できるものもありますが、長崎スコーコーヒーパークに訪れないと味わえないものばかりです。 (有)中島珈琲本社
 長崎スコーコーヒーパーク 長崎県大村市寿古町813-1 TEL:0957-55-4850 FAX:0957-55-3811 【営業時間】 ●スコーコーヒーパーク:10:00〜17:00(年中無休) ●カフェ&レストランスコーズ:10:30〜22:00 (定休日:毎週木曜日) ※木曜日が祝日の場合は他の曜日に振替   長崎スコーコーヒーパークの商品は、公式サイトからもお求めいただけます。   関連URL: http://suko.ocnk.net/
  • 大村寿司(おおむらずし) 2014年03月27日
    大村寿司(おおむらずし)
     長崎県内の名物料理をご紹介します。今回は、長崎県の中央部に位置する大村市の郷土料理「大村寿司」ですよ。 大村寿司の歴史  今から500年ほど前の戦国時代の頃のお話。 1474年(文明6)、大村領主・大村純伊(すみこれ)は、島原の有馬貴純(ありまたかずみ)に攻められ、中岳城の合戦において敗れました。唐津の沖合いにある加々良島(佐賀県)へ逃れ、それから長いあいだ領地奪還を狙っていた純伊は、渋江氏らの援軍を得て、ようやく大村に帰還することができました。 大村の領民たちは喜んで純伊を迎えいれましたが、急だったために、ご馳走を作ってもてなすことができません。そこで、即席で“もろぶた(木製の長方形の箱)”に炊きたてのご飯を広げ、その上に魚の切り身や野菜のみじん切りなどを載せて軽くおさえたものを、純伊や将兵たちへ差し出しました。将兵たちは脇差を抜いてこれを適当に角切りにして食べたといいます。 これが大村寿司の起源ともいわれ、500年以上もの長いあいだ地元の人々に愛され、歴史的な郷土料理として今に受け継がれています。大村純伊にちなみ、「殿さま寿司」という名でも親しまれています。  大村寿司づくりの長い歴史を持つ「大村角ずし やまと」の4代目・永田喜美男さんにお話を伺いました。 大村寿司の作り方  見た目も華やかな大村寿司、どういう手順で作られているのでしょうか?  実際に大村寿司を作っているところを見せていただきました。 1.もろぶたに合わせ酢を均等に塗ります。  *この合わせ酢は味付けにも重要で、「大村角ずし やまと」オリジナルのものを使っているそうです。 2.酢飯を均等に広げていきます。 3.その上に奈良漬、さきがけごぼうを載せていきます。その上にまた酢飯を広げます。 4.干しシイタケやかんぴょう、緑やピンク色のはんぺんなど味付けされた具材を均等に広げていきます。これらの具材をバランス良く広げるのが意外と難しいそうです。 5.錦糸卵を載せます。表面を覆うように広げていくと、彩りもあざやか。上から軽く合わせ酢をかけます。 6.最後に上から型を押し、均等に切ります。もろぶたをはずして、完成です。   ※寿司の具材の準備は説明から省いています。 近年の大村寿司  大村寿司は領民たちの手で受け継がれました。西洋からキリシタン文化が入ってきた時も、江戸時代に大村藩となってからも大村寿司は継承され、藩内各地で食べられてきました。旧大村藩領であった西海市では「西海寿司」という名で親しまれています。昭和初期頃までは、この大村寿司を作るための“もろぶた”は嫁入り道具のひとつだったと聞きました。また地域によって具材が多少異なり、魚の身や野菜を入れたりすることもあるそうです。  「その日の早いうちに食べるのであれば、魚を入れても大丈夫です。昔は魚を入れていたけど日持ちしないため、テイクアウトには適しないですね。シイタケやかんぴょうなど保存できる乾物で、時間をかけて火を通せる具材が昔から選ばれています。そもそも家にある具材を使って作られており、各家庭によってそれぞれの味があったようです。強いて言えば錦糸卵は必須ですが、この具材が大村寿司であるという決まりごとはありません。たとえば子どもたちがもっと好んで食べてくれるように、お子様向けの具材を入れたりするのもいいのではないかと思います。」   さて、気になるお味は?  初めて大村寿司を食べた人は、“甘い”と言うそうです。“寿司”という名がついていることもあり、先入観で醤油をつけて食べる方もいらっしゃるようですが、しっかり味がついているので、醤油はいりません。  「大村寿司が甘いのは、砂糖が使われているからです。農作業など家族や親戚が共に労働をした後に、みんなでご馳走として食べることが多かったので、体の疲れをとるために砂糖を入れ、甘くしたのではないかともいわれています。」  長崎港が開港しておこなわれた南蛮貿易により、早くから砂糖が手に入っていた大村ならではかもしれませんね。 人と人を繋いできた大村寿司  とってもいい香りに誘われて、735円の角ずし弁当を買っていただきました。甘い酢飯が口に広がり、すごく優しい味でした。小さい頃によく食べた懐かしさと同時に、お祝いなどの時に近所のみんなが集まって大村寿司を食べたことを思い出しました。(筆者の実家は旧大村藩領です)  今回の取材で、「大村寿司は、昔から人と人とを繋ぐような役割を持っていたと思います。」という言葉が印象に残りました。  大村寿司は、家族や親戚、近所の人たちなど大人数で集まって食べるご馳走として特別なものでした。そういうことから大切な方へのお土産としても喜ばれており、また郷土の味が懐かしくて食べにくる大村出身の方も多いそうです。 やはり大村寿司には、人と人とを繋ぐ力があるのだと思います。500年以上も続く郷土料理ゆえのパワーなのでしょう。    みなさんも、ぜひ長崎県自慢の味、「大村寿司」を食べに来ませんか! 時間がない方は、長崎空港でも販売されていますので、長崎旅行の締めとして機内で召し上がるのもいいかも。 大村角ずし やまと 長崎県大村市本町474-5 TEL:0957-52-3546    「大村角ずし やまと」の前を流れる内田川は古くからたくさんの船が停泊し、荷物の積み下ろしをしていたといいます。そこで働く人たち向けに、大村寿司を作って最初に販売を始めたのが「大村角ずし やまと」でした。   関連URL: http://www.kakuzushi.jp/
  • 大村市立史料館 2014年03月27日
    大村市立史料館
     長崎県の中央部に位置する大村市、今回は市立史料館にやってきました! JR大村駅から徒歩3分ぐらいのところだよ。  1973年(昭和48)に開館。建物は1階が図書館、2階が史料館となっていて、大村に関する歴史資料を収集、保存、公開してるんだって。  収蔵資料の中には、古くから大村地方を領有していた大村家に関するものが多くあるそうです。日本初のキリシタン大名として有名な大村純忠(すみただ)の時代の南蛮貿易やキリシタン関係、天正遣欧少年使節の派遣といった中世の資料と、大村藩政に関わる近世の資料が充実しているということで、見どころを聞いてきましたよ。  「おいでよ!大村市立史料館へ!!」 大村純忠とキリシタン  近年では、大村純忠とキリシタンの時代が、大村の歴史の中でも特徴的な時代であることから、調査・収集・展示が進んでいるといいます。  展示室には、「南蛮屏風(複製)」が展示されており、当時の南蛮貿易の様子がより具体的にわかります。屏風の中を隅々まで見てみると、当時どんな動物が日本にやってきたのかなどもわかり、歴史の面白い一面を見ることができます。来館した際は、ぜひ見てみてください。  県指定有形文化財にも指定されている大村出土のメダリオン「無原罪の聖母」、「大村市原口郷出土のキリシタン墓碑」など南蛮美術・文化に関わる資料が、展示されています。大村とキリスト教の深い関係を、ぜひ感じてみてください。 充実した大村家資料  収蔵庫にある「大村家史料」には、藩主大村家に残る古文書・書画などが保管されています。この中には、藩政一般から対幕府などの対外関係資料や大村家・大村藩の由緒、事績に関わるものなど多岐にわたって良好な資料として保存されているのが特徴です。  藩政日記「九葉実録」、藩政史料編纂物「見聞集」、藩士家系図「新撰士系録」は、長崎歴史文化博物館に収蔵されている大村藩総合調査書「郷村記」と併せて、藩政の詳細や藩主・藩士の履歴までも体系的に調べることができる貴重な資料です。  また中世末期の大村純忠から第3代藩主大村純信まで仕えた家老・大村彦右衛門がまとめた「彦右衛門文書」では、潜伏キリシタン発覚事件を契機とした宗教統制、長崎貿易・異国警固に関する文書があり、大村藩政確立期の史料として極めて貴重です。  これらの資料を目当てに来館し、大村の歴史を調べる方が少なくありません。 松田穀一南蛮文庫  館内には、故松田穀一先生の蔵書を譲り受け、松田穀一南蛮文庫が開設されています。故松田穀一先生は、戦国期の対外交渉史や南蛮文化研究の第一人者で、先生の著作をはじめ、南蛮、キリシタンなどの書籍約3500冊とその時代の研究資料、調査記録写真などが保存されています。  特に「フロイス日本史」は、先生自ら世界各地に分散する写本をマイクロフィルムに収め、世界で初めて一つの書籍にまとめたもので、世界的にも貴重な資料といえます。この資料を基に日本語翻訳されたものが、戦国時代の研究に欠かせない資料となり、松田先生の最も代表的な業績のひとつになっています。また現在では入手が困難な貴重な資料135冊が、この松田穀一南蛮文庫にあるといいます。いまなお多くの研究者が、この松田穀一南蛮文庫を訪れるそうです。  史料館に隣接し、天正夢広場があります。人々の憩いの場となっている広場中のモニュメントには、時間ちょうどになると、オリジナルの音楽が鳴り、時計の上の石の扉が開いて天正遣欧少年使節の4少年が登場するというからくりが設定されています。これは日本に戻って豊臣秀吉に謁見した際に、少年たちが秀吉の前で演奏した時の様子を表したものだといわれています。どんなからくりで動くのか、石の扉から出てくる姿を、ぜひあなたの目で確かめてみてください。 大村市立史料館 ■入館料:無料 ■開館時間:10:00〜18:00 ■休館日:毎週月曜日、祝日、毎月25日、年末年始、春季整理期間(3月の2週間程度)その他管理のための臨時閉館あり。 ※毎月25日の休館日が月曜日にあたる場合は、翌火曜日も休館日となります ※祝日が月曜日の場合は、前日の日曜日も休館日となります ■住所 長崎県大村市東本町481 ■お問い合わせ:0957-53-1979
  • 大村ずしを作ろう! 2014年03月28日
    大村ずしを作ろう!
    〜長崎の郷土料理(5)  大村編〜  大村ずしは、戦国時代に大村の土地を守った領主大村純伊と、勝利を喜んだ領民たちが生んだといういわれのある郷土料理です。  1474年(文明6)、大村家16代当主 大村純伊は、島原半島を治める有馬と激しい合戦を繰りひろげていました。有馬勢の攻防に押された大村純伊は、命からがら唐津の孤島へ落ちのびました。なんとか巻き返しを図ろうと必死の攻防を続ける純伊は、ついに大村領を有馬の手から奪還することができ、再び故郷の地を踏み凱旋帰国したのです。領民たちは、その無事な姿に大喜びしました。しかし、あまりに突然の帰郷だったので、祝い用の食器をすぐに用意することができませんでした。そこで大人数分を短時間で、しかも手軽に食べられる料理として「もろぶた」と呼ばれる長方形の木箱を使った押し寿司を考案しました。ご飯に刺身や野菜を散して上からギュッとサンドした彩り豊かな押し寿司を振舞いました。将兵たちは、脇差しの刀で寿司を切り分けながら食べたといわれています。  時を経て、祝いのもてなし料理となった大村ずしは、南蛮貿易で手に入るようになった砂糖がふんだんに使われるようになりました。  今回は、約500年の歴史をもつ郷土の味、大村ずしをご紹介します。 材料 ○米を炊く ・米 5合  ・酒 大さじ2  ・だし昆布 10cm角 ○寿司飯の合わせ酢 ・酢 100cc  ・砂糖 50g  ・塩 小さじ1 ○白身魚のそぼろ ・白身魚 150g  ・砂糖 大さじ1.5  ・酒 大さじ1  ・塩 小さじ1/6 ○そぎ牛蒡の炒めもの ・そぎ牛蒡100 g  ・油 少々  ・だし汁 少々  ・砂糖 大さじ1/2  ・薄口しょうゆ 大さじ1/2 ○干し椎茸とかんぴょう ・干し椎茸 20g  ・かんぴょう 15g  ・砂糖 大さじ1  ・酒 大さじ1  ・濃口しょうゆ 大さじ1  ・みりん 大さじ1/2  ・干し椎茸のもどし汁 適量 ○はんぺん ・はんぺん 50g  ・砂糖 大さじ1/2  ・酢 大さじ1/2 ○錦糸卵 ・卵 5個  ・塩 小さじ1/5  ・酒 大さじ1  ・グラニュー糖 大さじ1 ○用意するもの 押し寿司用のすし型を準備しましょう。 作り方 (1)寿司飯用のご飯を炊きましょう。  米を研いで、30分くらい水切りをします。次に炊飯器に米を入れ、昆布と酒を入れて、かために炊きましょう。(米の研ぎ汁は、牛蒡のアク抜きに使いますので捨てずに取っておきましょう。) (2)寿司飯をつくりましょう。  ご飯が炊きあがったら、昆布を取り除いて蒸らしましょう。小さな鍋で合わせ酢をひと煮立ちさせて冷まします。  ご飯が蒸しあがったら、飯台にご飯を移します。合わせ酢を少し残してご飯にまんべんなくかけ、しゃもじで切るように混ぜましょう。 *飯台としゃもじは、あらかじめ水に浸し、酢を含ませた布で拭いて準備しておきましょう。 (3)白身魚のそぼろをつくりましょう。  白身魚をゆでましょう。火が通ったら、皮や骨、血合いを取り除いて流水で洗い、身を細かくほぐします。  ほぐした白身を鍋で炒り、砂糖、酒、塩で味つけをします。 *今回は、白身魚に真鯛を使いました。 (4)そぎ牛蒡をつくりましょう。  そぎ切りにした牛蒡は(1)の米の研ぎ汁であく抜きをしましょう。水洗いをして水気を取って油で炒め、砂糖と薄口しょうゆで味付けします。 (5)干し椎茸とかんぴょうをつくりましょう。  干し椎茸は水に戻して細かく切ります。かんぴょうは茹でてから刻みます。鍋に干し椎茸とかんぴょうを入れ、干し椎茸のもどし汁、砂糖、酒、濃口しょうゆ、みりんで煮ましょう。 *かんぴょうの準備! 水で軽く流し塩でもみ洗います。約10〜15分ゆで、水で洗って絞ります。 (6)はんぺんに味付けしましょう。  小さな角型に切って、砂糖と酢をふりかけておきましょう。 (7)錦糸卵をつくりましょう。  フライパンで薄焼き卵をつくりましょう。冷めてから細く切ります。ここで南蛮貿易がもたらした大村独特の砂糖の使い方! グラニュー糖をまぶします!! (8)材料を重ねていきます。1段目!  すし型を準備しましょう。あらかじめ、すし型を手水(酢と水を同量であわせたもの)でぬらしておきましょう。さぁ、材料を順番に重ねていきますよ。  まず1段目に半分の寿司飯を薄くひろげます。そぎ牛蒡(4)と干し椎茸・かんぴょう(5)を1/3ほどの分量を全体に散します。 (9)材料を重ねていきます。2段目!  2段目は、再び残りの寿司飯を広げ、そぎ牛蒡、干し椎茸、かんぴょう、はんぺん、白身魚のそぼろ、最後に錦糸卵、の順番で、具材の色の濃いものから先に重ねていきます。残りの合わせ酢をかけて、手のひらで軽く押しましょう。 (10)完成です!  すしの蓋でキュッと押しましょう。そのまま30分ほど置いたら、5センチ角に切り分けて完成です。  さぁ、いただきましょう! ★調理のポイント★ 各家庭には、こだわりの具材があるようですよ。刻んだ奈良漬けやタケノコ、かまぼこ、刺身、木の芽など、お好みのトッピングで楽しんでください。 関東で"はんぺん"と言えば、白くて丸いもの。でも、長崎ではんぺんと言えば、赤と緑の鮮やかな細長いものをいいます。ちゃんぽんや皿うどんに入れたり、長崎の郷土料理にはかかせない材料です。  海と山に囲まれた城下町で誕生した大村ずしは、自然豊かな地の利を活かして、新鮮な魚と旬の山菜がいっぱい詰まっています。ほんのり甘く、彩り豊かな大村ずしは、お花見やピクニックなど行楽シーズンにぴったりの料理です。ぜひ、お試しください!  キリシタン時代の大村を紹介した「ながさき歴史散歩」の第9回『キリシタン時代の面影をたどる大村の旅〜日本初のキリシタン大名の大村純忠〜』も、あわせてお楽しみください! 参考文献 長崎県栄養士会 「旅する長崎学6 キリシタン文化 別冊 総集編」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2007年
  • 大村藩2 2014年03月28日
    大村藩2
    大村藩の幕末 大村藩は、西九州の他藩と同様、近接する長崎の警備を要請されていたため、軍備増強、沿岸防備体制の強化を余儀なくされました。 大村藩藩主・純熈(すみひろ)は、外海地区へ砲台築造を行い、藩士を高島秋帆(しゅうはん)や幕府の長崎海軍伝習所へ派遣して洋式軍備の導入を図りました。 斉藤歓之助の碑(玖島城跡) また幕末の三剣士と称された斉藤弥九郎(やくろう)の三男・歓之助(かんのすけ)は、同じく三剣士のひとりである千葉周作(ちばしゅうさく)の二男「千葉の小天狗」とならび称され、「鬼歓(おにかん)」とよばれていました。この歓之助は、1851年(嘉永4)に大村藩へ仕官し、最初は大村藩江戸藩邸詰として剣術の指導にあたりました。当時の大村藩は、従来の組太刀中心の一刀流・新陰(しんかげ)流を採用していましたが、大村純熈には、激動する世情のなかでより実戦的な神道無念流を大村藩へ導入しようという考えがありました。 五教館御成門 歓之助は、城下の上小路(うわこうじ)登り口の左手に屋敷を構え、敷地内には微神(びしん)堂道場を設け、藩校五教館(ごこうかん)のなかにあった治振(じしん)軒でも藩士への剣術指導にあたりました。歓之助のはげしい指導により、渡辺昇(わたなべ のぼり・のぼる)や柴江運八郎(しばえうんはちろう)などの剣士を輩出しました。     大村純熈公(大村純熈公) 1863年(文久3)、大村純熈は長崎奉行に任命されました。当時、藩論は倒幕に傾きつつあったため、純熈は幕府の重職に就くことに躊躇し、何度となく辞退を申し出ましたが、幕府からあらぬ嫌疑をかけられないようにと配慮し、同年長崎奉行に就きました。 しかし藩主の長崎奉行就任により、大村藩では家老浅田弥次右衛門(あさだやじえもん)を中心とした佐幕派が倒幕派を弾圧するようになりました。 1864年(元治元)、大村純熈は病気を理由に長崎奉行を辞任します。そして大村藩の重職を佐幕派から尊皇攘夷論の改革派に代え、藩内佐幕派を一掃しました。佐幕か倒幕かと揺れ動く時代に、大村藩では他藩に先駆けて藩論を尊皇攘夷と決定し、藩主である大村純熈による藩主先導型の倒幕運動が展開されることとなりました。   勤王三十七士 ペリーが来航し安政の五カ国条約が締結されて以来、日本では佐幕派と倒幕派との対立が激化していました。そんななか大村藩では、尊皇攘夷論を掲げ三十七名から構成された勤王派ができました。 大村純熈が長崎奉行に就任した当時、大村藩では佐幕派が力を持ち、倒幕派を弾圧していましたが、そのことがかえって倒幕派の結束を強めることとなりました。1863年(文久3)、針尾九左衛門(はりおくざえもん)や長岡治三郎(じさぶろう)らを中心として三十七名による勤王派の盟約が生まれました。 この勤王三十七士には、長崎や江戸、大坂に遊学して新しい知識や技術を身につけ、政情の大きな転換期を肌で感じた人々がいました。 幕末の三剣士といわれた斉藤弥九郎道場で新道無念流を修め桂小五郎のあとに塾長をつとめた渡辺昇は、坂本龍馬とも親交が深かったことでも知られています。また大村藩きっての秀才とよばれた松林飯山(はんざん)などがいました。 1864年(元治元)に藩の重職が佐幕派から倒幕派へ一新すると、渡辺昇の兄・清が中心となり藩政改革が行われました。1865年(慶応元)には英国式教練法を導入しました。この教練には藩主自らも度々参加していたといわれています。 また藩士の二・三男を中心に小銃兵五大隊を組織し、そのなかでも志気が高い30名を選出し、渡辺昇を隊長とする新精組を作りました。   小路騒動 松林飯山遭難の碑 藩論が尊皇攘夷に固まったとはいえ、佐幕派の勢力がなくなったわけではありませんでした。慶応年間に入ると両派の対立はさらに激しくなりました。 1867年(慶応3)には明治維新を目前にして倒幕派の中心人物であった針尾九左衛門と松林飯山の2名が暗殺されるという事件が発生しました。 この知らせを聞いて五教館には200名の藩士が集まり、藩主からは犯人探索の命令が下りました。犯人探しは難航しましたが、首謀格の長井兵庫(ながいひょうご)ら6名を逮捕、さらに証言から逮捕者は26名に及びました。(実行犯等については諸説あります)。 長井兵庫の墓(本教寺にて) 長井兵庫は、一刀流宮村佐久馬の高弟でした。嘉永年間の藩命によって斉藤歓之助の神道無念流に切り替えるまで、大村藩では一刀流・新陰流を採用しており、この流儀替えによってそれまで治振軒剣術取立役であった長井兵庫は、渡辺昇にその立場を奪われたという遺恨もあったといわれています。渡辺昇や松林飯山らが藩政に登用され、藩政人事に不満をもった人々が結集したことや、大村家一門で永く家老を務める家柄の大村邦三郎(くにさぶろう)と大村泰次郎(たいじろう)までが荷担していたことも判明しました。逮捕者は全員処刑され、両派の抗争は終結しました。   戊辰戦争 藩論を早くから尊皇攘夷に統一し、渡辺昇が中心となって薩摩藩や長州藩と共に行動していた大村藩は、鳥羽伏見の戦い以降の戊申の役に即応し、一番隊、二番隊、三番隊を編成し、557名に及ぶ藩兵を各所に送っています。 鳥羽伏見の戦いでは、新精隊が中心となり東からの佐幕派の攻撃に備えて大津守備にあたっています。戦闘が江戸へ移ると、大村藩は東海道征討軍の先鋒隊をつとめ、一路東海道を進撃しました。また幕府方の勝海舟と倒幕方の西郷隆盛の会談により江戸城は無血にして倒幕派へ引き渡されましたが、この会談の際には渡辺清も立ち会い、隣部屋で会談の成り行きを見守っていたといいます。 鳥羽伏見の戦いから江戸無血開城、彰義隊(しょうぎたい)との上野戦争、会津戦争に勝利しましたが、その頃東北地方では、唯一尊皇倒幕の立場をとっていた秋田藩が周辺諸藩から攻撃を受け窮地に陥っていました。大村藩は、平戸藩や島原藩、振遠(しんえん)隊(長崎裁判所に所属した官軍の部隊)とともに計1,000名の援兵を編成し、秋田へ向かいました。 少年鼓手・浜田謹吾(玖島城跡) 当時大村藩は、前述の通り英国式の教練を採用していたことから一番隊から四番隊の各隊に鼓手を1名つけ、戦場での指揮を洋太鼓で行っていました。この戦闘では大村藩兵の被害は大きかったといわれています。二番隊の鼓手をつとめていた15歳の浜田謹吾は、この戦闘中に重傷を負い、伍長の背中に負われて退却している最中に、第2弾が頭部に命中し即死したといわれています。 戊辰戦争が終結すると、1869年(明治2)に明治新政府は、戊辰戦争から明治維新実現に功績のあった功労者に対して論功行賞を行い、封禄を与えました。 大村藩は薩摩藩、長州藩、土佐藩に次いで4番目で、朱印高2万7,000石という小藩でありながら、3万石の賞典禄を受けました。明治維新達成への貢献度が評価されました。 参考資料 旅する長崎学1 キリシタン文化I『 長崎で「ザビエル」を探す 』 旅する長崎学3 キリシタン文化II『 長崎発ローマ行き、天正の旅 』 --> 歴史散策 肥前大村藩2万7千石の城下町。大村氏は中世から江戸時代を経て明治維新にいたるまで絶えることなく大村地方を治めてきた大名です。大村喜前の時代に5つの武家屋敷街が形成されました。一部の石垣は今でも残り、当時の風格を漂わせています。 ●草場(くさば)小路武家屋敷街と五色塀(ごしきべい) 5つの小路のうち最も北に位置した通りです。地名から草場小路と名付けられました。この通りには五色塀と呼ばれる大村藩独特の塀が残されています。 ●旧円融寺庭園・三十七士の碑 1652年(承久元)に創建された円融寺の庭園です。江戸時代初期洋式の石組庭園で、東西50メートルに及ぶ斜面を利用し400個以上の石を組み合わせて造られました。今も当時の雄大な姿を残す名園です。 また幕末に活躍した三十七士の石碑や戊辰戦争の戦死者の墓碑も建てられています。 ●春日神社 大村純信が大村家を相続するとき、幕府の許可がなかなか下りず、大村藩は存続の危機に陥りました。このときに奈良の春日神社に祈願をし、相続の許可がおりたため、お礼として奈良の春日神社の分霊を祀って建てられました。ここからの風景は格段です。階段下の鳥居の手前まで長崎街道が続き、そこから街道は山手へ曲がっています。 ●上小路(うわこうじ)武家屋敷街 5つの小路の中で最も長い通りでした。家老浅田大学の屋敷や幕末三十七士の中心人物・松林飯山の屋敷など重臣が多く住んでいました。 ●旧楠本正隆屋敷跡 幕末から明治にかけて活躍した政治家楠本正隆の旧家です。三十七士の一人としても活躍しました。明治新政府では行政官として新潟県令・東京府知事などを歴任しました。屋敷・庭園とも良く保存されており、小村の武家屋敷の貴重な遺構として公開されています。  
  • 大村藩 2014年03月28日
    大村藩
    少し時代をさかのぼり、日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠の生涯からご紹介します。純忠は、横瀬浦、福田、長崎を開港し、ポルトガル船を入港させ南蛮貿易をおこない、天正遣欧少年使節をローマへ派遣しました。戦国領主として苦しい領国経営を迫られるなか、中世から近世に移る時代の狭間で西洋文明と出会った彼は、海外への見果てぬ夢を抱いていたのでしょうか。   キリシタン大名 大村純忠 1533年(天文2)、大村純忠は、島原半島を治める有馬晴純(はるずみ)の次男として生まれましたが、大村純前(すみさき)の養子となり、17歳で大村家を相続します。しかし、大村家にはひとりの男子がすでにいました。純忠が大村家に迎えられる前に、武雄の後藤純明(すみあきら)のもとへ養子に出され、後藤家を相続した後藤貴明(たかあきら)です。この養子縁組により、貴明は純忠に恨みを持つようになり、生涯にわたり純忠を攻撃しました。 横瀬浦史跡公園(西海市) 1561年(永禄4)、平戸で起こった宮の前事件などにより、ポルトガル船は平戸から撤退しました。平戸に代わる港を探していたイエズス会は、西彼杵半島(にしのそのぎはんとう)の北端にある大村領の横瀬浦(現 西海市西海町)を視察し、純忠と開港協定を結びました。1562年(永禄5)、横瀬浦は貿易港として開港することとなります。 ポルトガルとの貿易は莫大な利益をもたらしましたが、貿易とキリスト教布教は切り離せない関係にありました。純忠はポルトガル貿易における免税、キリスト教布教の自由、教会の建設などの特権を与えたといいます。翌年には、重臣たちとともに自ら洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となりました。そして横瀬浦には教会が建てられ、多くの商人たちで賑わったといいます。 しかし1563年(永禄6)、キリシタンとなった純忠を快く思わない仏教徒の家臣らが、後藤貴明らと結託し、謀反を起こします。横瀬浦の港は焼き討ちに遭い、開港からわずか1年あまりで壊滅してしまいます。 その後貿易港は大村領内の福田へと移りますが、今度は平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)によるポルトガル船襲撃などもあり、最終的に長崎が開港することとなりました。外海に直接面するために風や波が激しかった福田と比べ、長崎は貿易港に適した天然の良港でした。 天正遣欧少年使節顕彰之像 長崎空港から大村市内へ向かうと右手に見えます 長崎の開港後、港に突き出た長い岬には新しい町が誕生して賑わいます。しかしながら、隣接する西郷氏や深堀氏の度重なる攻撃をはじめ、龍造寺氏の圧力、有馬氏の口之津開港の動きなど、純忠を取り巻く情勢は町の繁栄と反比例するかのように厳しく、悪戦苦闘の日々でした。こうしたなかで勢力を保とうとする純忠は、長崎と茂木をイエズス会に寄進することを巡察使ヴァリニャーノに申し入れるという策を講じました。 天正夢広場 JR大村駅から徒歩2分のところにあります。 純忠は、1582年(天正9)には、九州のキリシタン大名である有馬晴信、大友宗麟(そうりん)とともに、ローマに使節団を派遣します。名代として遣わされたのは、正使に伊藤マンショと千々石ミゲル、副使に中浦ジュリアンと原マルチノ。4人のうち3人は大村氏ゆかりの少年で、皆わずか13歳前後での旅立ちでした。ヨーロッパに一大センセーションを巻き起こし、西洋の文化を携えた使節は、8年半の歳月を経て帰国し豊臣秀吉と謁見、その後の彼らはそれぞれ波瀾万丈の人生を歩みました。   晩年の純忠は領主の座を退き、坂口(現在の大村市)に隠居しています。病気を患いながらも、宣教師たちに囲まれて純粋なキリシタンとして過ごしたといわれ、1587年(天正15)、55歳で息を引きとりました。 そのわずか1ヶ月後、豊臣秀吉の伴天連(ばてれん)追放令が発布されました。 大村純忠史跡公園 大村純忠史跡公園にある庭園跡 キリスト教から日蓮宗へ 大村神社境内にある大村喜前公遺徳費と大村純熈公銅像 大村純忠の長男・喜前(よしあき)は、秀吉の九州征伐に出兵し、大村所領を安堵され、朝鮮出兵にも参加しています。幕藩体制のもと、喜前は大村藩の初代藩主となりました。キリスト教禁教がますます厳しくなることを見据えた喜前は、領民に先立ってキリスト教を棄て日蓮宗に改宗し、加藤清正(かとうきよまさ)の協力のもと、現在の大村市に本教寺を建立しました。 1657年(明暦3)、第4代藩主・純長(すみなが)の時代には、郡村3村より多数の隠れキリシタンが発覚し逮捕されるという「郡崩れ」とよばれる事件が起き、藩の存亡を揺るがす重大事件にまで発展しました。当時幕府の要職にあった旗本・伊丹勝長(いたみかつなが:純長の実父)の素早い対応などにより咎を受けずにすみましたが、この事件以後、大村藩ではキリシタンへの徹底した取り締まりと探索が行われました。 大村藩の藩政改革 豊臣秀吉によって直轄領(天領)となった長崎は、その後大村領に戻ってくることはなく、明治になるまで天領のままでした。長崎港でおこなわれる南蛮貿易で多くの利益を得ていた大村藩は、その収入がなくなってしまい、江戸時代初めには財政的に大変苦しい状況にありました。 喜前は、秀吉の朝鮮出兵の命に応じなかった家臣の所領を没収して大村家の直轄地とし、1598年(慶長3)には玖島城(くしまじょう)の築城に取りかかり、家臣を城下に住まわせ城下町を整備しました。 天下を統一した豊臣秀吉によって初めておこなわれた検地(一区切りごとの田畑の大きさや作物のとれ具合、耕作者を調べる調査)が、大村藩でおこなわれたのは1599年(慶長4)年、喜前によってでした。領地の範囲は、わずかな変化はあるものの、幕末まで国替えされることなく、長いこと大村氏の領地として続きました。 喜前は、江戸時代初期の1607年(慶長12)、有力一族の所領を没収・半減する「御一門払い」を断行し、この跡地を大村藩の直轄地に編入しました。これによって家臣の領地の整理もおこなわれ、藩の収入は大きく増加し、藩主の力は大きくなりました。また、江戸時代中期以降は、家臣に領地を与えるのを止め、米を支給する俸禄性に切り替えるなど、藩の収入増加を目指し、小さな大村藩が苦労して財政の立て直しに取り組んでいたことがわかります。 桜田屋敷跡 玖島城を築く際に埋め立て屋敷地として大村氏が居住したといわれています。ここに藩校集義館が創設されました。 1670年(寛文10)、4代藩主の純長が玖島城内桜馬場に藩校「集義館」を創立しました。九州内でも早期であり、わずか2万7千900石の小藩がこの時期に創立したのは稀なことでした。また純長自ら家老以下藩士に講義をしていたといいます。 集義館は1694年(元禄7)に静寿園と改称され、その後五教館(ごこうかん)へと発展し、幕末には多くの優れた人材を輩出しました。 次回の「歴史発見 長崎幕末編」大村藩の2回目では、この五教館の発展と幕末の大村藩の動向にスポットを当てて紹介していきます。 参考資料 旅する長崎学1 キリシタン文化I『 長崎で「ザビエル」を探す 』 旅する長崎学3 キリシタン文化II『 長崎発ローマ行き、天正の旅 』  歴史散策「玖島城跡・大村公園」 大村純忠の長男・喜前(よしあき)が築城した玖島城は、大村湾に突き出した半島に築城された平山城で天守閣はなかったといわれています。現在、この一帯は大村公園とよばれ、天然記念物のオオムラザクラや菖蒲など季節折々の花が咲き誇り、多くの人々が訪れる歴史ある憩いの場となっています。 斉藤歓之助の碑 幕末江戸の三剣客の一人といわれた斉藤歓之助の碑です。 板敷櫓台(いたじきやぐらだい) このあたりの地名・板敷から名づけられており、大村湾を望むことができます。 玖島崎樹叢(くしまざきじゅそう) 玖島城の本丸を囲むように茂っており、昔からそのままの状態で保護されている自然林です。 戊辰戦争役記念碑、浜田謹吾銅像などが建てられており、大村の歴史も十分知ることができます。 大村神社 本殿前には国の天然記念物に指定されているオオムラザクラ、境内には長崎県の天然記念物に指定されているクシマザクラがあり、春には多くの人が訪れます。 大村藩お船蔵(ふなぐら)跡 元禄年間にこの地に移されたといわれています。 周辺散策地図 大村公園・玖島城跡 板敷櫓台 大村藩お船蔵跡 大村神社
  • 大村湾一帯を守り続けた大村家 2015年11月16日
    大村湾一帯を守り続けた大村家
    〜お墓に見る物語〜  長崎街道が通る大村市古町には、慶長13年(1603)、第19代大村喜前が大村家の菩提寺として建立した「本経寺」があります。その境内の一角でひときわ目をひく大村家の墓碑群。墓所に立ち並ぶ墓塔の巨大さと様式の多様さは、大村家墓所特有のものであり、近世大名の菩提寺としての形態を現代に伝えています。ひとつひとつのお墓に、大村とともに時代を歩んだ人物たちの苦悩と、それぞれの人生の物語がありました。大村の激動の歴史を感じることができる場所です。 大村家の菩提寺 本経寺を訪ねて  本経寺は日本最初のキリシタン大名として有名な大村純忠の息子、喜前(よしあき)が建立した寺院で、境内には大村藩歴代の藩主が眠っています。墓所には、高さ6メートルを越える、とてつもなく大きなお墓がいくつもたっています。これほどまでに巨大な墓碑の理由とは・・・?! 単に大村家の偉大さを誇示するなどといったことで目立たせたわけではないようです。  もともとはキリシタンだった喜前が、江戸幕府が強力に推し進めるキリスト教の禁教政策の意向に添うよう、日蓮宗に改宗して建てた本経寺。大村藩の初代藩主となった喜前は、藩存続のためにも完全にキリスト教と断絶したことを広くアピールする必要があったのでしょう。そのために、長崎街道を行き来する要人たちの目につくように仏教式のお墓を高くして、かつてキリシタン大名であった過去を払拭し、仏教信仰の復興を示そうとしたのです。江戸時代の宗教政策と近世大名大村家の立場をうかがい知ることができます。亡き父のキリシタン大名 純忠の時代から、新しい大村藩の時代への幕開けでした。  ちょっと気になるお墓をいくつか紹介しましょう。 ○第16代大村純伊の五輪塔(左)と 第19代大村喜前の五輪塔(右)  石組みの門をくぐり、特別にしつらえた霊廟の中に、2つの五輪塔が並んでいます。左は第16代の純伊さんのお墓。そうそう、純伊さんといえば大村の郷土料理「大村寿司」誕生にゆかりの人。戦国時代、戦に敗れ、流浪の末に領地を取り戻した彼が帰ってきたとき、喜んだ領民たちがお祝いに出したことに由来するのが大村寿司の始まりといわれます。  右の方は、3歳の時にキリスト教の洗礼を受けたものの、キリスト教の禁教政策でキリシタン取り締まりが厳しくなるなか、日蓮宗に改宗してこの本経寺を建てた第19代(大村藩初代藩主)喜前さんの五輪塔です。  この2人の間には、第17代の純前さんと第18代の純忠さんがいます。大村家のなかでも、日本最初のキリシタン大名となったことで有名な純忠さんは、坂口館で亡くなりました。彼のお墓は、宝生寺(教会)に建ってのち、草場へと場所を変えて、この本経寺へと改葬されたそうですが、江戸時代の末期にはもう本経寺には見あたらず、今はどこにあるのかわからなくなっています。お墓こそありませんが、大村家の過去帳には「円殿純忠公通院前戸部侍郎理仙日融大居士」と、純忠の戒名が記されているそうです。 ○家臣の小佐々市右衛門&愛犬のお墓  墓所には、大村家当主や正側室のお墓のほか、一族・家臣のお墓もたち並んでいます。そんななかにこんなお墓がありました。これは第21代(大村藩3代藩主)純信さんの家臣だった小佐々市右衛門さんのお墓です。脇に小さなお墓が、並んで仲良くたっています。このかわいいお墓は、市右衛門が飼っていた愛犬のお墓なんです。  このお墓には忠誠を守った3つの魂にまつわるエピソードがあります。ある日、藩主の純信さんが東京で急死したという悲しい知らせが大村に届きました。それを聞いた家臣の小佐々市右衛門さんは、主人を失った悲しみとそばについて守ることができなかったことを悔やんで、後を追うように切腹してしまいました。亡くなった市右衛門さんが荼毘(だび)にふされるその時、愛犬が後を追って燃え盛る火の中へと飛び込んでしまったのです。その光景に心をうたれた身内の人たちが、市右衛門さんの眠る傍らに小さな愛犬のお墓をたてたのでした。純信、市右衛門、愛犬、忠誠を尽くした3つの魂の物語がありました。 ○第22代純長の息子 次郎太の墓    写真提供 「家臣の小佐々市右衛門と愛犬のお墓」 長崎文献社