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県南エリア

  • 歴史が蘇る「原城一揆まつり」 2014年03月27日
    歴史が蘇る「原城一揆まつり」
    見て・遊んで・学べる島原の乱  徳川幕府のキリシタン弾圧、飢饉と天災からおこる凶作、領民に課せられた重税や労役から端を発した日本最大規模の一揆「島原の乱」。天草四郎率いる一揆軍は、天草と島原の領民 約3万7千人が集結して、1638年1月(寛永14年12月1日)、廃城となっていた原城に籠城しました。12万もの兵力を動員した幕府軍からの攻撃に耐えながらも、ついに籠城から88日目の1638年4月12日(寛永15年2月28日)、原城は落城し一揆軍は老若男女の別なくほぼ全滅したという悲しい歴史があります。  現在、原城跡がある南島原市南有馬町では、一揆の模様を再現した「原城一揆まつり」がおこなわれています。島原の乱終焉の地である史跡「原城跡」をメイン会場として、毎年4月の土日、2日間にわたって開催。初日は、島原の乱で亡くなった方々の追悼式、2日目には天草四郎や板倉重昌に扮して戦いの様子を再現した合戦行列が町を練り歩き、観光客の目を楽しませてくれます。ふだんは静かな原城跡一帯が、この日ばかりは島原の乱が勃発した当時を思い起こさせるような歴史絵巻の世界へと変わります。本や文献では味わえない歴史物語を体験できるお祭りです。  *(  )内の月日は旧暦表記です。 地元中学生&青年が扮する!一揆軍総大将の天草四郎と幕府軍の板倉重昌  当時の戦いの様子を再現した合戦行列は必見です。まずは天草四郎率いる一揆軍。確かに一般民衆ですから完璧な武具などを持ち合わせているはずもなく、老若男女が竹やりや鍬などを手に携えての行進には、軽装が目立ちます。こんな姿で完全装備の幕府軍と戦ったのですから、改めて驚きを感じつつ、農民たちを一揆へと向かわせた怒りと覚悟は並大抵ではないことが伝わってきました。そう、この一揆には女性や子どもも参加したのでした。その中で、有馬氏の旧臣とおぼしき軽武装を施した足軽兵が総大将・天草四郎の跨がる馬を護衛しています。そして、その中心にいる天草四郎役は地元・南有馬中学校の生徒さん。綺麗に化粧をして、まさに紅顔の美少年といった様相です。乱当時の一揆軍の民衆の中にも、そのルックスにカリスマ性を感じて忠誠を誓った者もいたであろうとうなずけます。  一方の幕府軍の行列は、鎧兜でバッチリ武装していました。国家に対する反乱を鎮圧するために組織された軍ですから、別に悪者ではないのですが、どことなく悪役っぽく見えます。こちらの行列の総大将は幕府からこの乱の鎮圧のために上使として派遣された板倉重昌で、やはり地元の青年が扮していました。口ひげも生やして貫禄十分です! 二の丸付近の特設ステージで島原の乱を再現!  合戦行列で原城跡周辺の町を練り歩いた後、二の丸付近の特設ステージへと移動します。ここでは、島原の乱を再現する寸劇がおこなわれました。重税に苦しむ領民たちが一揆について話し合いをするシーンから始まり、幕府軍の軍事会議、板倉重昌の討死、天草四郎が姉妹とともに十字架に祈りを捧げる場面、そして参加者総出演での原城総攻撃…と、この一部始終を見れば島原の乱がダイジェストで理解することができる素晴らしい内容! 単なるお祭り気分ではなく、来てくれた方々に島原の乱の歴史を理解していただきたいという、スタッフのアイデアから実現したパフォーマンスだそうです。  ステージ脇には、迫力のある「一夜城」の原城も設置されていて、雰囲気を盛り上げていました。遠目からはベニヤ板で作られていると思えないほど立派なこのお城、春風にあおられて倒れないようにするのに大変だったというスタッフの苦労話のエピソードもこっそり。  この一夜城は、祭りの2週間ほど前から、夜間にライトアップもされています。 そのほかにもウォークラリーや原城発掘遺構説明会など、子どもからお年寄りまで、誰もが来て・見て・遊べて・学べる充実した原城一揆まつり。近くには温泉もあるので、家族連れで訪れるのにもってこいの催しです。  多くの人々が尊い命を落とした島原の乱から370年の時が流れ、現在の日本は信教の自由も認められて平和で豊かな社会が築かれています。パライソ(天国)のような国になることを夢見た四郎たちは、いまの私たちの暮らしをどのように見ていることでしょうか。華やかなお祭りを楽しみながらも、歴史があって今がある、その思いを実感させられる新鮮な体験でした。 小川勇気 DATA 「原城一揆まつり」 開催期間:毎年4月 お問い合わせ:原城一揆まつり事務局(南島原市南有馬総合支所経済課内) 電話 050-3381-5170 原城観光協会 電話050-3381-5079 写真提供:南島原市南有馬総合支所
  • 旧石器時代から弥生時代まで 2010年06月23日
    旧石器時代から弥生時代まで
    旅する長崎学オリジナル年表の【旧石器時代から弥生時代まで】を確認する
  • 第9回 キリシタン時代の面影をたどる大村の旅 2007年08月01日
    第9回 キリシタン時代の面影をたどる大村の旅
     1563年、日本初のキリシタン大名が誕生。その名は大村純忠、洗礼名はドン・バルトロメオ。横瀬浦で宣教師トーレスからキリスト教の洗礼を受けました。  蒼くおだやかな大村湾にまるで宝石を落としたかのように、美しい小島が浮かぶ。純忠ゆかりの大村は、かつて領民のほとんどがキリシタンだったという。今回はキリシタン領国を築いた大村純忠の波乱の人生と、大村に残る16世紀の遺物や遺跡を巡りながら、キリシタン時代の面影を探す旅にでかけましょう! 歴史のとびら  長いあいだ大村地方を治めてきた大村家に、島原半島を支配していた有馬家から4歳の子どもが養子として送りこまれました。当時、大村を取り巻く情勢は、北に松浦一族、南に諫早の西郷氏、そして島原半島には特に強力な有馬氏。大村も有馬の勢力下にあったと思われます。こうしたなかで、1533年に有馬晴純(有馬家第11代)の次男として、大村純伊(大村家第16代)の娘のあいだに生まれた純忠は、4歳で大村純前(大村家第17代)の養子に迎えられます。このとき純前には3歳になる実の息子がいましたが、その後、武雄の後藤家に養子に出されます。これも勢力拡大を謀る有馬晴純の考えだったとか。  有馬家から大村家の養子となって17歳で家督を継ぎ大村家18代当主となった純忠、大村家の実子でありながら武雄の後藤家に養子に出された貴明。不安定な地位にある純忠のまわりは内も外も敵だらけ。相続に対する大村家家臣の反発、貴明の敵意、周辺諸国からの攻撃・・・。純忠の人生は数奇な運命に翻弄されていきます。  純忠が大村家を継いだ1550年のこと、平戸にポルトガル船が入港し、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教にやってきました。その後、商取引のトラブルから起こった殺傷事件(宮の前事件)によって、ポルトガル船は平戸のかわりとなる新たな港を探していたため、1562年、純忠は領内の横瀬浦を開港します。この地で、純忠とその家臣たちは神父トーレスからキリスト教の洗礼を受けました。日本最初のキリシタン大名ドン・バルトロメオの誕生です。彼が鎧の上に羽織っていたという陣羽織には、地球のマークとイエス(JESUSとINRI)の文字と十字架が描かれていたといいます。そして戦いに挑むときは、トーレスから贈られた十字架の旗をなびかせたともいわれます。横瀬浦の港は、純忠への反乱によってわずか1年あまりで焼き討ちにあい焼失しますが、その後、純忠は領内の福田、そして長崎を開港し、長崎・茂木をイエズス会に寄進。さらに1582年には、日本人が初めてヨーロッパを公式に訪問する天正遣欧少年使節を派遣しました。晩年、領主の座を退いた純忠は、癌と結核を患いながらも、純粋なキリシタンとして宣教師たちに囲まれて過ごしたそうですが、遣欧使節の帰国の姿を目にすることなく息をひきとりました。豊臣秀吉の伴天連追放令が発布されたのは、純忠の死からわずか1ヶ月後のこと。キリスト教禁止の動きが始まり、純忠の息子で大村家19代(大村藩初代藩主)の喜前は棄教して日蓮宗に改宗し、厳しい禁教の時代へと移っていきます。 *写真は大村純忠像(カルディム「血染の花束」所載 松田毅一南蛮文庫) 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:車で移動した場合…約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2宝生寺の跡 ↓車で約3分 or 徒歩で約15分2 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4坂口館跡(大村純忠史跡公園) ↓ 車で約5分 or 徒歩で約40分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6今富のキリシタン墓碑 1大村市立史料館 キリシタンの貴重な資料をみる  JR大村駅で下車し、出口を左に曲がって少し歩くと、大村市立図書館があります。この建物の2階に、キリシタンに関する貴重な資料が保存されている大村市立史料館があります。  館内では、大村の歴史に関する資料に出会うことができます。  青銅製の大型メダイは<メダリオン「無原罪の聖母」>で16世紀前半のスペインでつくられたもの。キリシタン禁教下の1639年の銘が刻まれた大村家の家老の墓石の下から発見されたそうです。長さが11センチほどあるとても大きなメダイでした。  <大村市原口郷出土のキリシタン墓碑>もお見逃しなく。よーく見てみてください。中央に「花十字」、その下に「BASTIAN」と「FIOBV」の文字が刻まれています。キリスト教に入信した兵部(ひょうぶ)さんという男性のお墓で、クリスチャンネーム(洗礼名)をバスチャンといったそうです。長崎県内には通称カマボコ型などとよばれるキリシタン墓碑がよく残っていますが、これはめずらしい切石板のカタチ。石垣の上にあった屋敷神の五輪塔の台座として埋められていたのを発見! キリシタン禁教による厳しい迫害がおこなわれた大村地方にあって、当時の面影を残す貴重な資料となっています。  図書館には、南蛮文化研究の第一人者で、ルイス・フロイスの『日本史』を訳した歴史家 松田毅一氏が収集した貴重なキリシタン関係の資料を公開している「松田毅一南蛮文庫」のコーナーもありますよ! 旅人コメント 「大村市立図書館(2階が史料館)の目の前にある「天正夢広場」。ここに、天正遣欧使節のからくり時計があります。巡察師ヴァリニャーノの考案で、キリシタン大名ら(大村純忠、有馬晴信、大友宗麟)の名代としてローマ教皇に謁見し、西欧を歴訪した天正遣欧使節。広場の中央に建つモニュメントは、4少年を乗せた南蛮船が、スペインのリスボンの港へと到着した際に最初に目にしたといわれる「ベレンの塔」をモチーフにしており、からくり時計となっています。時間になると、オリジナルの音楽が鳴り響き、時計の上の石の扉が開いて4少年が踊りながら登場しますよ!」(バジル) 2宝生寺の跡 大村領内で最も大きな教会として利用されたお寺の跡  本堂川という名前が残っているように、この辺り一帯は、川に沿って中世の寺院が数多く建っていたエリアです。山手の方角が大村純忠の居城だった三城城です。キリシタン大名 純忠のもと、領民のほとんどがキリスト教に改宗してキリシタン一色となった大村では、多くの寺社仏閣が破壊されました。難を逃れた宝生寺は教会として利用され、大村の領内で最も大きな教会だったといわれています。  純忠が亡くなったときは、彼が晩年を過ごした坂口館からこの宝生寺まで長い葬列が続いたそうです。その距離はなんと約4キロメートル! 純忠の亡骸はまず宝生寺に埋葬されたといわれていますが、その後、墓は転々と移され、現在ではどこにあるかわからなくなっています。  ここから、大村藩代々の藩主たちが眠る本経寺へと向かいましょう。この辺りは三城城の城下町になります。丸い玉石の石垣を発見!昔の町並みが残る風景ですね! 3本経寺の大村家墓碑群 大村家の菩提寺として歴代藩主が眠る本経寺  大村純忠の息子 喜前は3歳のときにキリスト教の洗礼を受けていましたが、純忠亡き後、キリスト教から日蓮宗に改宗しました。1587年に豊臣秀吉の伴天連追放令が発布されてから、しだいにキリシタン弾圧が強まり、キリスト教禁止の方針は次の徳川幕府にも受け継がれました。幕府の禁教政策をいち早く見抜いた喜前は、領民に先立って信仰を棄て、イエズス会との交際も断ち、熊本の加藤清正の勧めによって日蓮宗に改宗しました。寺院復興の第一号として、藩主大村家の菩提寺として、1605年に創建されたのが「本経寺」です。キリスト教の取り締まりが一段と厳しくなる寛永年間を境に、大村藩主歴代の墓は急に巨大化し、なかには7メートル近い高さのものもみられます。この巨大な墓石は、キリシタンであった大村家が棄教し熱心な仏教徒になったことを、内外に示すためのものだったと思われます。また、長崎街道が本経寺近くで道筋を曲げて寺のすぐそばを通っていることも、街道を通る要人に、脱キリスト教をアピールする意図があったためではないかと考えられています。  突然ですが、ここで大村の郷土料理「大村寿司」のご紹介。大村寿司には大村氏がこの地を守って戦ったという物語がありました。  文明6年(1474)、大村家16代当主 大村純伊は島原地方の有馬勢と合戦をおこないました。そのとき純伊は命からがら唐津の孤島に落ちのび、その後なんとか大村領を有馬の手から奪回し、ようやく故郷の大村へと帰って来たそうです。領民たちは大喜び。しかしあまりに突然の帰郷だったので、祝い用の食器が用意できませんでした。そこで、「もろぶた」とよばれる長方形の木箱のなかに、炊いたご飯、刺身、野菜を散らして上から押して、領主や兵士の前に供えました。将軍たちは脇差しの刀で、その寿司を切り分けながら手づかみで食べたといわれています。  喜びを表現した祝いのもてなし料理「大村寿司」は、南蛮貿易で手に入るようになった砂糖がふんだんに使われるようになり、やや甘めの味付けになっています。彩りも鮮やかで、ついついおかわりしてしまいます! 本経寺の霊廟に、純伊と喜前の五輪塔が並んで建っています。 旅人コメント 「本経寺の大村家墓碑群は、ぜひ実物を見に行ってください。話には聞いていましたが、ほんとにもう、そのありえない大きさにびっくりでした。」(ヒロコ) 「長崎空港へと向かう箕島大橋のたもとに、「天正遣欧少年使節顕彰之像」があります。日本での布教の様子を視察に訪れた巡察師ヴァリニャーノは、使節のヨーロッパ派遣を企画し、有馬のセミナリヨで学んでいた少年4人を選びました。1582年に長崎港を出航、2年半もの航海を経てローマ教皇やスペイン国王に謁見。8年半後に活版印刷の技術を持ち帰るなど、輝かしい偉業を果たして帰国しました。この像は使節の出発400周年を記念して建立されたそうです。本経寺から車で約5分のところにありますよ。」(椿) 4坂口館跡(大村純忠史跡公園)  ここは、坂口館跡を中心に、大村純忠が晩年の約2年間を過ごした場所として整備された史跡公園です。さっそく中に入ってみましょう。  喉の癌と肺結核にかかった純忠は、郡川のそばで闘病生活を送っていました。宣教師に囲まれて、ひとりのキリシタンとして穏やかな晩年の日々を過ごしたといわれています。敷地内には、どんな干ばつでも涸れなかったと伝えられている泉「館(たち)の川」が残っています。  亡くなる前日のこと、純忠は、飼っていた籠のなかの鳥を空に放って自由にしてやり、臨終の枕元で息子の喜前に「日本中のキリシタンに模範を示すことができなくて残念だ」と語ったそうです。1587年、純忠らキリシタン大名の名代としてローマへと派遣された天正遣欧使節の帰国の姿を見ることなく、55歳で息をひきとりました。ひとつの時代が終わりを告げました。  純忠の死後、わずか1ヶ月後に秀吉の伴天連追放令が発布されました。その後、キリシタン文化の全盛を誇った大村にも禁教による迫害の嵐が吹き荒れ、この地にもキリシタンたちの血が流されました。未曾有の潜伏キリシタン発覚事件となった1657年の郡崩れでは、608人が捕らえられ、411人(諸説あり)が処刑されています。 5田下(たじも)のキリシタン様式墓碑 キリシタン弾圧時代のカムフラージュ 地中に埋めて  国道444号線沿いの田下の入口に、2つの平庵(ひろいおり)型の墓碑があります。キリシタン様式の墓碑に仏教の戒名を刻んで仏式に見せかけた墓が建っています。ひとつには側面に、もうひとつには付属塔に刻んであります。キリシタン弾圧から逃れるために、キリスト教の様式の部分を地中に埋めて隠していたと思われます。建てられた年代は1653年(承応2)とされ、前述の「郡崩れ」の直前4年前。厳しいキリシタン禁教の時代に建てられた貴重なもので、当時の様子をしのぶことができます。 6今富のキリシタン墓碑 キリシタン弾圧時代のカムフラージュ 起こして立てて  正面から見ると、一見、四角いお墓に見えますが、上からと後ろ側から見ると、実はカマボコ型(半円柱)。本来は正面に相当する半円形の部分に十字紋が刻まれていることから、キリスト教式のお墓を起こして立て、キリシタンだと見つからないように、仏教の戒名を刻んで改造したものと思われます。  碑銘から1576年に没した大村純忠の家臣 一瀬栄正のお墓だと思われていましたが、2007年7月、大村史談会によって墓碑の上部に「慶長19年」という年代と、洗礼名とみられる「庵■」(■は読みとれない)という文字が刻まれていることが確認され、いったい誰のお墓なのか、栄正とは別人の墓碑の可能性も出てきたそうです。もしかしたら、中浦ジュリアンの叔母にあたる人のお墓かもしれないという説も浮上しているとか。今後の研究の成果に注目したいですね。  大村純忠の人生を思いながら、大村のまちを散策していると、いまから約500年近く前の時代を生き抜いた人たちのココロにふれたような気がしました。領主がキリシタンに改宗し一度はキリシタン領国となった大村。その後の幕府の禁教政策のなかで棄教を選択しなければならなかった苦悩もあったことでしょう。特殊な宗教事情を抱えた大村藩の姿を垣間見る旅となりました。 参考文献 『旅する長崎学1 キリシタン文化1』 特集3 キリシタン大名 大村純忠のナゾ 『旅する長崎学2 キリシタン文化2』 長崎発ローマ行き、天正の旅 『旅する長崎学6 キリシタン文化 別冊総集編』 第5章 領主棄教とキリシタン取締まり 大村 スタート地点までのアクセス 大村市立史料館 所在 長崎県大村市東本町481 大村市立図書館2F お問い合わせ TEL/0957-53-1979 開館時間 10:00〜18:00 入場料 無料 駐車場 34台 休館日 月曜日・祝日・毎月25日・年末年始 アクセス 徒歩…JR大村駅より徒歩で約2分。大村バスターミナルより徒歩で約2分。 車…長崎空港より車で約10分。 バス…長崎空港よりバスで約15分。 福岡から行く! 電車…JR博多駅より[かもめ]に乗車し<諫早駅>で下車、[快速シーサイドライナー][大村線・早岐行き]に乗り換えて<大村駅>で下車(所要時間は約2時間10分)、徒歩で約2分。 高速バス…博多駅交通センターより九州急行バス〔九州号〕に乗り≪大村IC≫で下車、県営バスに乗り換え≪JR大村駅≫で下車、徒歩で約2分。 車…福岡市内より九州自動車道を利用し、長崎自動車道<大村IC>で降りて(約1時間20分)、さらに国道444号線から国道34号線に左折、西本町の交差点より左折、JR大村駅より右折してすぐ(所要時間は約10分)。 佐賀から行く! 車…鹿島より国道444号線を通り約1時間20分。 佐世保から行く! 車…JR佐世保駅より約1時間20分。 電車…JR佐世保駅より[快速シーサイドライナー]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約60分)、出口を左に向かい徒歩約2分。 長崎から行く! 電車…<JR長崎駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約55分)、徒歩で約2分。 車…長崎市内より出島道路経由の長崎自動車道を利用する場合は、「大村IC」で下りて(所要時間は約25分)、国道444号線から国道34号線に左折、西本町の交差点より左折し、JR大村駅より右折してすぐ(所要時間は約10分)。 長崎自動車道を利用しない場合は、長崎市内より諫早を経由して国道34号線を通り約1時間30分。 長崎の時津から行く! 車…時津より県道33号から諫早の化屋名で国道34号線へ、大村方面へ走り約1時間。 船…時津より安田産業汽船の定期船<長崎空港>で下船(所要時間は約25分)し、車で約1時間。 長崎の長与から行く! 車…長与より県道33号から諫早の化屋名で国道34号線へ、大村方面へ走り約1時間。 船…長与より大村湾観光汽船の定期船<長崎空港>で下船(所要時間は約25分)し、車で約1時間。 電車…JR長与駅より長崎本線[佐世保行き]に乗り<大村駅>で下車(所要時間は約1時間)、駅の出口を左折して徒歩約2分。 ● 長崎空港・JR博多駅・長崎バスターミナル・佐世保バスターミナル・大村ターミナル・JR大村駅までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。