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県南エリア

  • 第11回 捕鯨・炭鉱の足跡残る島、松島 2010年04月14日
    第11回 捕鯨・炭鉱の足跡残る島、松島
     今回の歴史散策は、西海市の松島を訪ねます。 散策コース&マップ 瀬戸フェリー乗り場 ↓瀬戸から松島へは約15分  釜浦港(かまうらこう) ↓歩いて約2分 三国屋の屋敷跡(釜浦地区) ↓歩いて約3分 松島神社 ↓自転車で約10分 桜坂 ↓自転車を押しながら坂道を登って約10分 あこうの樹 ↓自転車で約15分 日本一小さな公園 ↓自転車で約8分 松島炭鉱四坑(しこう)跡 ↓登り坂を自転車を押しながら歩いて約35分 遠見岳公園(とおみだけこうえん) ↓自転車で約20分(下り坂なのでスピードに注意!) 深澤与五郎の墓・浅田弥次右衛門(あさだやじえもん)の墓 ↓瀬戸港から車で約2分 大瀬戸歴史民俗資料館(おおせとれきしみんぞくしりょうかん) スポットの紹介 瀬戸フェリー乗り場  松島へ渡るには、西海市大瀬戸町にある瀬戸港(せとこう)から定期船に乗ります。瀬戸から松島へは約15分です。市営船「New松島」(西海市営交通船)とフェリー「シャトル5号」(江崎海陸運送)が運行しています。「New松島」は自転車や原付バイク、二輪バイクもOK。もし、車を渡したい場合は「シャトル5号」をご利用ください。 ○瀬戸〜釜浦間乗車券(片道) ■旅客運賃 大人・・・200円 小人(小学生まで)・・・100円 ■旅客以外 市営船「New松島」の運賃  自転車・・・50円  原付バイク(50cc以下)・・・100円  二輪バイク(50cc以上)・・・150円 ■旅客以外 フェリー「シャトル5号」の運賃 車両の長さによって異なります。 詳しくは、それぞれのサイトをご覧ください。 ○New松島    http://www.city.saikai.nagasaki.jp/living/living1101-02.html ○シャトル5号   http://www.ezakikaiun.co.jp/ 釜浦港(かまうらこう)   釜浦港   らくだ島  大村藩時代には、各地からの商船が盛んに出入りし、領内第一といってよいほど繁栄した港町でした。当時、釜浦港周辺には問屋や宿屋、飲み屋、遊郭などが軒を並べ、夜ともなれば三味線や太鼓の音色で賑わい、大村の城下から遊びに来る藩士も多かったといわれています。  島に来る人を出迎えるように横たわっているかわいらしい島があります。おやっ、何かに似てませんか! そう、まるで「らくだ」のようです!「らくだ島」は、いまや松島のシンボルとなっています。 三国屋の屋敷跡(釜浦地区) 当時の様子を残す釜浦地区  松島の玄関口「釜浦港」から入江沿いに50メートルほど行くと、三国屋の屋敷跡があります。松島では薩摩藩との貿易が盛んだったそうです。慶応年間(1865〜1868)には、この釜浦や崎戸の蛎浦で大村藩、薩摩藩、長州藩の倒幕の志士たちが、幕吏の目を避けて密かに謀議をこらしていたといわれ、その密会場所は釜浦の三国屋であったとされています。  1866年(慶応2)、大村藩の志士・渡辺昇は、長州藩の桂小五郎から銃器購入の世話を依頼され、大村藩の重臣たちに時局の重大さを説いてもらうことを約束に、共に長崎に赴きました。外国商館と銃器購入について交渉にあたっていたところ、桂小五郎が長崎の幕吏に見つかって捕らえられそうになったため、渡辺昇は奇策をこうじて桂小五郎を救ったといわれています。その後無事に銃器を購入した桂小五郎は、松島の三国屋に宿泊して、大村藩の家老江頭隼之助と御用人大村一学と大いに談笑し、時局の重大さについても討論がおこなわれました。  この時、桂小五郎は江頭隼之助に手土産として「国重」の刀を贈りました。また、江頭隼之助も「重秀」の短刀を桂小五郎に贈って感謝の意を表し、 夢は夢 夢の夢にて過ぎこしを 今宵はさめて 君と語りつ  と歌を詠んで、桂小五郎にその胸中を示しました。桂小五郎はこの日の歓待に感謝し、松島を去っていきました。  三国屋は火災によって焼失し、残念ながら跡形もなくなっていますが、釜浦地区の石段や建物に当時の面影を見ることができます。 松島神社  松島神社は松島釜浦郷の高台に建ち、若宮八幡宮と祇園三所天皇の二社が合祀されています。  1645年(正保2)に豊前国の小倉より八幡宮及び祇園社を奉遷し、1656年(明暦2)に現在地を社地と定めて社殿を造営し、奉祀したといわれています。その際に地元住民が奉納したといわれる「親子獅子」の舞は今も民俗芸能として引き継がれ、その時に使用した親子獅子の面とともに貴重な文化財として残っています。  境内のクスの大木や大瀬戸の景観など、とても見応えあります。 自転車で行こう!  釜浦港の方へ戻って、港の目の前に貸自転車があります。利用時間によって料金が変わりますが、300円から借りることができます。ここからは自転車で松島を一周してみよう! 受付・取扱:理容タサキ TEL:0959-22-1392 桜坂  松島の桜の名所「桜坂」です。坂道の両脇に桜の木が植えられており、開花時期には桜のトンネルとなって、人々を楽しませてくれます。 あこうの樹  桜坂を通り過ぎて登っていくと、あこうの樹と松山神社があります。このあこうの樹齢は定かではありませんが、地上1メートルの幹囲は8.2メートル、樹高は約20メートルもある巨木です。 日本一小さな公園  芝生の上にとても居心地がよさそうな手づくりのベンチがある、とても小さな公園です。五島灘を見渡すことができ、記念撮影や散策途中の休憩に最適です。  この公園は地元の方々のボランティアによって、美しい公園として保たれています。  すぐそばには上五島の奈良尾まで電気を送る海底ケーブルが設置されています。53キロメートルにも及ぶ海底ケーブルは日本最長です。  少し進むと、池島炭鉱跡が見えてきます。 松島炭鉱四坑(しこう)跡  松島の石炭採掘に関する歴史は、1782年(天明元)から始まるといわれています。この頃は時津町の住人が串島で掘り出し、さらに松島の住人2人が共同で採掘していたといいますが、なかなか石炭を売りさばくことができず、格別な利益も得られなかったので、ほどなく中止されたといいます。その後も新炭脈が何度か発見され採掘されましたが、経営は長続きしませんでした。しかし、1807年(文化9)に大村藩の直営となった頃から鉱主が増え始め、諸国から石炭積船が絶えず出入りするようになったそうです。  相次いで経営者が変わるなか、古賀善兵衛(こがぜんべえ:佐賀銀行の創始者)になってから1906年(明治39)に第一坑、第二坑、第三坑と開坑しました。1913年(大正2)に松島炭坑株式会社がこれらを買収し、1914年(大正3)に第四坑の開坑に着手しましたが、1915年(大正5)に第二坑が浸水。翌年に第四坑が完成したものの1918年(大正8)には第一坑が水没してしまいます。 山の中に点在する四角い電柱  それでも第四坑の完成によって出炭量は年間40万トンに達し、1920年(大正10)には約51万5千トンを記録して、松島石炭産業の全盛期を迎えました。  しかし、1929年(昭和4)に第三坑が、1935年(昭和10)には第四坑が水没するという大事故が発生しました。第四坑の水没事故では多くの方が犠牲となりました。その中には16歳から60歳までの女性10名の名前もあり、当時、坑内の採掘現場で女性も働いていたことがわかります。  ドイツ人技士によって建てられた赤煉瓦の建物とコンクリートの変電所跡、四角い電柱、が当時の四坑の面影を伝えています。 遠見岳公園(とおみだけこうえん)  1809年(文化6)、大村藩主・大村純昌(すみよし)はこの遠見岳に狼煙場を設置しました。そして1858年(安政5)には、純煕(すみひろ)が外国船の来航、漂着、密貿易などを監視させるため、外洋の展望のきく遠見岳頂上に番所を設けました。  現在、公園の展望所からは、素晴らしい展望とともに、眼下に広がる松島火力発電所などを見ることができます。 深澤与五郎の墓・浅田弥次右衛門(あさだやじえもん)の墓・深澤与五郎(松島与五郎)の墓  田島助次郎と名乗っていましたが、2代目儀太夫(勝幸)の養子となり、平島(ひらしま:西海市崎戸町の島)の鯨組を継ぎました。1695年(元禄8)、平島から松島へ転居し、松島を本拠地として、平島、江島(えのしま:西海市崎戸町の島)から壱岐、対馬、長戸をまたぐ海域で捕鯨の操業をおこないました。松島鯨組とともに東西にその盛名をうたわれました。  巨万の富みを得、大村藩に御用金を奉上したことよって、当時の藩主・大村純庸(すみつね)から深澤氏を賜りました。 浅田弥次右衛門の墓  浅田弥次右衛門は、勤王、佐幕の対立で、国内が騒然としていた幕末の頃、大村藩で佐幕派家老として大きな力を占めていました。1864年(元治元)、当時尊皇攘夷運動の中心であった長州藩は、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)で敗戦し、朝敵とされました。幕府は長州征伐に乗り出し、大村藩へ、長崎の長州藩邸を接収するよう命じました。家老であった浅田弥次右衛門がその任務にあたりましたが、巷に流れる流言や噂などに惑わされて慎重を期するあまり、ついに接収する機を失ってしまいました。このことにより、松島に流罪となったといわれています。  自転車に乗って約10分ほどで釜浦港へ着きます。自転車を返却したら、船に乗って瀬戸港へ戻ります。 大瀬戸歴史民俗資料館(おおせとれきしみんぞくしりょうかん)  西海市役所の先に大瀬戸歴史民俗資料館があります。この資料館では、松島炭鉱の歴史やホゲット石鍋工房跡から出土した石鍋、串島遺跡の遺物など、貴重な資料が展示されています。 大瀬戸歴史民俗資料館入口に展示されている石鍋製作跡岩塊  石鍋とは、古代人や平家の落人が厨房具として使用していたのではないかといわれる石で、日本の生活史上に登場するのは平安末期から鎌倉時代といわれています。しかしその起源や消滅した時期については明らかではありません。京都や奈良をはじめ近畿地方から西日本一帯、南は石垣島に至る各地から多数の石鍋が出土していますが、その生産地は数少ないといわれています。 ※資料館から車で約10分、さらに歩いて約20分ほど行ったところにホゲット第6製作所跡があります。保存状況、遺跡の規模、内容等に優れており、日本でも最大のものであることから、1981年(昭和56)に国の史跡に指定されました。 この資料館は、複製品ではなくすべて本物を展示しています。 鍋だけではなく、皿型も出土しました。貴重な唯一の資料です。 串島遺跡に関する遺物 家船のミニチュア ・大村藩と家船の関係  瀬戸(大瀬戸町)や崎戸島、蛎浦島に存在していたという家船(えぶね)のミニチュアサイズのものが、資料館に展示されています。全長10メートルほどの船の中に、食物や衣服、家財一切を乗せ、磯もぐりや沖もぐりなどの漁法で、網を使わず鉾突きで魚をしとめて暮らしていたといいます。このように舟上で生きる家船は九州東西の沿岸や瀬戸内海に存在したそうですが、大村氏領内の家船は数百年に渡り領主と特別な関係を保ってきたのが特徴です。  1474年(文明6)、領主・大村純伊(すみこれ)が有馬貴純(ありまたかずみ)に攻められ、中岳城の合戦において敗れました。敗走する純伊を救い、敵の目をくらましながら玄海・加々良島(佐賀県)の渋江氏のもとまで連れて行ったのが家船の人々でした。大村氏の領地は有馬氏の支配下に置かれてしまいますが、家船の人々は密かに旧領地と連絡をとるなど水面下で純伊を助け、旧領地の回復に多大な貢献をしました。大村氏は渋江氏の協力により、波多氏、千葉氏、平井氏との連盟をつくり、敗戦から6年後に旧領地回復を果たしました。純伊は家船の功をたたえ、領内の漁業を自由にし、家船の長に姓を与えたといわれています。その後、大村藩になっても関係は続き、家船は明治の廃藩置県まで年末年始にアワビ42杯を大村藩主に献上し、毎年、初アワビや初雲丹を藩主に献上したあとに磯開きをおこなって、漁を始めていたそうです。 取材協力 ・西海市役所 水産商工観光課 参考資料 ・『大村史話 上巻』(木下義春編著/大村史談会発行) ・『大瀬戸町郷土誌』
  • 第11回 歴史と自然文学の島、大島・崎戸 2010年04月07日
    第11回 歴史と自然文学の島、大島・崎戸
     このコーナーでは、長崎県内の歴史を探っていく旅のドライブルートを紹介しています。  今月の注目エリアは、西海市の『大島・崎戸・松島』です。  2005年(平成17)4月1日に長崎県西彼杵郡(にしそのぎぐん)北部の西彼町・大瀬戸町・西海町・大島町・崎戸町の5町が合併して「西海市」となりました。今月は西海市の「大島」「崎戸」「松島」をピックアップして、歴史と文化と自然を満喫する旅に出ます!  大島・崎戸・松島を知らないという人は、先にどんなところかチェックしておこう。 西海市の位置 大島・崎戸・松島へのアクセス 今回は、崎戸・大島・松島を代表する特産品である伊勢海老、大島トマト、ウニをモチーフにしたキャラクター3人が案内してくれるよ! 今回のドライブルート 大島大橋・大島大橋公園 ↓車で約3分 大釜海水浴場(おおがまかいすいよくじょう) ↓車で約5分 百合岳公園(ゆりだけこうえん) ↓車で約10分 片島(片島に沈む夕日) ↓車で約3分 太田尾教会(おおだおきょうかい) ↓車で約5分 崎戸とんぼ公園 ↓車で約5分 ウォーターデッキステーション ↓車で約1分 浅間神社(あさまじんじゃ) ↓車で約5分 崎戸歴史民俗資料館(さきとれきしみんぞくしりょうかん) ↓車で約1分 33°元気らんど ↓車で約5分 崎戸浦(さきとうら)の合戦跡 ↓車で約3分 ラジウム泉 狸の湯(ホテル咲き都) ↓徒歩で約3分 33度線展望台 スポットの紹介 大島大橋・大島大橋公園 広場奥に新宮晋氏設計の『風の花びら』があります  平成11年11月11日11時11分に開通した大島大橋は、全長1,095mの斜張橋でシルエットが美しいことでも知られています。  公園の駐車場は広く、広場には芝生がしかれ、大島大橋を間近で見ることができる絶好のスポットです。観光案内所などの施設や世界的に有名な彫刻家・新宮晋(しんぐうすすむ) 氏設計の『風の花びら』があり、訪れる人を楽しませています。また夏になると、海辺で遊ぶ家族の姿をよく見かけます。 大島造船所(おおしまぞうせんじょ) 対岸の西海町太田和から見た大島造船所  大島大橋を通過し、寺泊(てらどまり)大橋に差し掛かると、右手に大島造船所が見えます。  大島造船所では、鉱石や石炭、穀物などを梱包せずにそのまま積載して運搬するばら積み貨物船を主に造っています。年間20隻以上を建造しているそうです。 大釜海水浴場(おおがまかいすいよくじょう)  島の南側にあり、小規模ながら遠浅の砂浜です。シャワー室、休憩所などを兼ね備えた海の家があり、家族連れで賑わいます。 百合岳公園(ゆりだけこうえん) 展望台 新宮晋氏設計モニュメント  展望台や野外音楽堂、モニュメント「星のなる木」、キャンプ場、芝生広場、探索路などが整備されています。大島の中で最も高い位置にあり、 展望台からは五島列島や崎戸、松島、西海市の山並みなど素晴らしい景観を一望できます。また桜の名所としても知られています。  展望台近くのうっそうと茂った木々の中を進むと琴平神社があり、荘厳な雰囲気を醸し出しています。 片島(片島に沈む夕日)  大島、崎戸の見晴らしの良いスポットからよく目に入る片島です。角度によって様々な表情を見せてくれます。また大島・崎戸のあちこちで美しい夕陽を見ることができますが、 特に片島の彼方の五島灘に沈む夕陽が素晴らしいと定評があります。ドライブの帰りに立ち寄る人々も少なくありません。 太田尾教会(おおだおきょうかい)  江戸時代のキリスト教禁教による迫害を逃れ、外海地方から移住してきたかつてのかくれキリシタンが1929年(昭和4)に建てたといわれています。 木造平屋の小さな教会で、教会建築特有のコウモリ天井が採用されていますが、柱がないのが太田尾教会の特徴です。他によく見られる教会のコウモリ天井の構造とは異なり、 薄い木の板を幾層も重ねて厚くし、その後で曲線をきれいにカットして上から漆喰で固めるという独特の技巧が用いられています。 崎戸とんぼ公園  全国的にも珍しいベッコウトンボを観察することできる崎戸とんぼ公園です。ベッコウトンボは、環境庁レッドデータリストの絶滅危惧I類に記されており、 「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存法」でも国内希少野生動植物に指定されています。主に4月から5月の初夏に見られ、ベッコウ模様の羽が特徴です。  またこの公園では、アオモンイトトンボ(4月から10月)やコシアキトンボ(6月から9月)、ショウジョウトンボ(5月〜10月)、シオカラトンボ(4月〜10月)、 チョウトンボ(6月〜9月)、ベニイトトンボ(6月〜9月)などを観察することができます。 ウォーターデッキステーション  丸田海岸に、ウッドデッキの散歩道「ウォーターデッキステーション」が突き出ています。幅2メートル、全長260メートルあり、 端を歩いていると海の上を歩いているような感覚!!  最高の散策コースです。潮が引いている時には、デッキから降りて広々とした岩の台地で小さな生物を観察して遊ぶこともできます。 家族連れやカップルに人気のスポットです。 浅間神社(あさまじんじゃ) 御神木  蛎浦(かきのうら)島の端にある浅間神社には、幕末の志士のエピソードが残ります。  1863年(文久3)、大村藩は佐幕派と倒幕派に揺れました。針尾(はりお)九左衛門や藩校五教館(ごこうかん)の先生であった松林飯山(まつばやしはんざん)、 渡辺昇(わたなべのぼり・のぼる)を中心に、倒幕をめざす37名が集まり、“大村三十七士”が結成されました。  1864年(元治元)には、藩主である大村純煕(すみひろ)が、倒幕派の意見を受け入れ、幕府に対して、病気を理由に長崎総奉行を辞任。 そして家老など佐幕派を藩の主要な役職からはずし、倒幕派を役職に就かせました。藩政の中心からはずされた佐幕派と倒幕派の対立は深刻な問題となりました。  1867年(慶応3)に針尾九左衛門と松林飯山が暗殺されるという事件が発生。佐幕派の首謀者は処刑され、大村藩は尊皇攘夷へと藩論を固めました。 この事件を「大村騒動(おおむらそうどう)」や「小路騒動(こうじそうどう)」といいます。  この事件の首謀者のひとりであり、大村藩の剣術指南役一刀流の達人でもあった長井兵庫(ながいひょうご)は死罪となり、その妻子は蛎浦島に流罪となりました。 長井兵庫の子・巌雄は当時7歳でした。  1871年(明治4)の廃藩置県とともに巌雄は赦免され、蛎浦島を去ります。一緒に流罪となっていた母親はすでに蛎浦島で他界していました。  蛎浦島には巌雄に関する逸話が伝わります。あるとき釣りに伴われた際、針の大きさが合わず、魚が釣れませんでした。そこで巌雄は針を火で焼いて小さくし、 翌日は大漁。小さな頃から秀才といわれていました。  蛎浦島を去って十数年後、行方がわからなかった巌雄でしたが、瀬戸で徴兵検査が行われた時に、軍医官として訪れたそうです。少年の頃に暮らしていた崎戸のこと、 蛎浦島の住民たちから親切にされたこともが忘れられなかったといいます。  1936年(昭和11)、77歳の巌雄は、当時の恩に謝し「敬神」と大書きした額をこの浅間神社に寄進しました。この書は西海市の文化財に指定され、 今でも浅間神社に飾られています。 崎戸歴史民俗資料館(さきとれきしみんぞくしりょうかん) 崎戸民俗資料館 山崎和國氏の作品 展望台からの展望  江戸時代は捕鯨、明治・大正・昭和の時代には炭鉱の町として栄えました。捕鯨時代の歴史や道具、炭鉱時代に栄え賑わっていた様子を映すフィルム、 現在の基幹産業である製塩工場の製塩過程、崎戸近海に生息する魚たちのジオラマが展示されています。  また館内には、作家・井上光晴の文学室が設置され、小説原稿や同人誌など貴重な資料が展示されています。 「地の群れ」や「明日」などの作品を遺した彼が少年期を過ごしたのが崎戸なのです。また井上光晴の娘で、 2008年(平成20)に第139回直木賞を受賞した井上荒野(あれの)の作品『切羽(きりは)へ』に関する資料も展示されています。 井上光晴文学室 文学碑 捕鯨の歴史 1988年(昭和63)4月に長崎近海で捕獲されたミンククジラ 江島の鯨唄が聴けます  1631年(寛永8)に深澤儀太夫勝清が捕鯨を開始したことによって、崎戸の島々の生活が変わり始めました。 崎戸、蛎浦、江島、平島と各島々に捕鯨の拠点が置かれ、島の人々は鯨組と一緒になって働きました。1861年(文久元)に江島捕鯨が廃絶するまで約230年にわたって行われました。 崎戸炭鉱  1906年(明治39)の石炭採掘開始から1968年(昭和43)の閉山までの歴史を紹介しています。 1931年(昭和6)には全国の炭鉱のうち6番目の出炭量だったと記録されています。最盛期の人口は25,000人を超え、8,000人の労働者がはたらき、 住居などもひしめき合う活気あふれる町でした。小さな島でありながら、映画館や遊園地、ビリヤード場、玉屋、いくつもの商店街があったそうです。 入館料:無料 休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始 問合せ:TEL:0959-37-0257 33°元気らんど  「33°元気らんど」は1999年(平成11)にオープンしました。イベントなどにも活用されており、おもしろ自転車やソリなどの遊具施設もあります。 休日は家族連れで賑わいます。ここは、もともと炭鉱時代にたくさんの社宅が建ち並んでいた場所であり、 周囲には赤煉瓦の建物や昭和小学校跡など当時の面影を残す建物があります。 崎戸浦(さきとうら)の合戦跡  1569年(永禄12)、宮村(元佐世保市)にいた大村三河守純種(すみたね)が、領主・大村純忠(すみただ)に反乱を起こすという事件が起こりました。 大村純忠の軍は、後藤貴明(ごとうたかあきら・たかあき)や松浦鎮信からの援軍を得た純種軍に敗れ、小佐々弾正純俊(すみとし)は、葛峠(くずとうげ)の戦いで戦死しました。  この機に乗じて松浦氏は、翌年兵船2隻で崎戸の浦に攻め寄せました。大島町東部黒瀬から呼子ノ瀬戸に入る航路は古くから船の交通量が多かったことから、 この海域をめぐって松浦氏と大村氏は以前から対立していたといわれています。1年前の葛峠の戦いで父を亡くした小佐々弾正純正は、弱冠18歳でしたが、松浦氏の軍を迎え撃ち、 この地を守りました。この戦いを崎戸浦の合戦とよんでいます。 ラジウム泉 狸の湯(ホテル咲き都)  そのまま丘の上の風車を目指して進んでいくと、「ホテル咲き都」があります。  このホテルには「ラジウム泉 狸の湯」という温泉施設があり、この浴場からは五島灘を一望でき、リラクゼーションを求めて訪れる人々も多いそうです。 リュウマチや神経痛、痔、冷え性、疲労回復、うちみ、湿疹、肩こり、腰痛などに効果があります。  ホテルでは、基幹産業である製塩工場の製品をはじめ、崎戸の方言入りオリジナルTシャツや狸の絵で有名な長崎県の画家・堤けんじ氏の作品の各種グッズ、 地元の伊勢海老の加工品「伊勢えびチップ」、みそ汁の粉末など豊富な品々がそろっています。  1950年(昭和25)頃に、アメリカ軍から直接レシピをきいたことから始まった佐世保バーガーや、高級将校の家族がパーティやハイキングのお弁当として作って食べていたというプチバーガーもあります。 ラジウム泉 狸の湯(ホテル咲き都) 問合せ:0959-35-2050 33度線展望台 展望台 展望台からの夕景 聴音所跡  崎戸島の最西端にある展望台で、天気が良いときには五島列島や平戸島が浮かんで見えます。ここから眺める夕陽は美しく、 撮影に訪れるアマチュアカメラマンも少なくありません。この展望台は北緯33度線に位置し、遠くはカサブランカ、バグダッドに通じています。  展望台の隣にあるのは、旧日本海軍佐世保鎮守府の特設見張り所の聴音所として1938年(昭和3)に建築されたものです。 終戦まで海底のスクリュー音等をキャッチしていたといいます。 さきと伊勢海老祭り  毎年8月下旬から9月末にかけて、「さきと伊勢海老祭り」が行われています。  崎戸沖の荒波に育まれた美味しい天然の伊勢海老が格安で販売されたり、飲食店や宿泊施設で期間限定の伊勢海老特別メニューが味わえます。 また、魚のつかみ取りや格安での伊勢海老味噌汁の提供など、イベントも開催されます。 さいかい丼フェア  いまや定番となった「さいかい丼フェア」。大好評につき第7回目を迎えました。西海市の食材にこだわったどんぶり料理が味わえます。 郷土料理の小鉢も付いてボリューム満点でお得です。旅やドライブで西海市を訪れたなら、ぜひ“西海市の食”を満喫してください。  第7弾さいかい丼フェアは、2010年4月30日までです! 取材協力 西海市役所 水産商工観光課 ホテル咲き都 太田尾教会 参考資料 『大村史話 上巻』(木下義春編著/大村史談会発行) 『大島町郷土誌』 『佐世保市宮地区 歴史散歩』(中島雄俊著)
  • 第1回 白い十字架が目印の港町「横瀬浦」の旅 2007年04月01日
    第1回 白い十字架が目印の港町「横瀬浦」の旅
    小さな漁港が長崎のルーツ!?  太陽の恵みをいっぱいに受けて実ったミカン畑の間を車で走りながら横瀬浦の港へ到着。 ブルーの水面が眩しく波穏やかな港町は、その昔、平戸の次に南蛮貿易港として賑わった歴史のある場所。もし、焼き討ちにあわなければ、 ここ横瀬浦が“長崎”だったかもしれない港町。長崎の元祖・横瀬浦へと出発!地名にご注目。 歴史のとびら  今から約420年前、平戸の次に南蛮貿易港となった横瀬浦。ここは、日本の歴史のなかで”はじめて”の出来事が起こった重要な場所だったのだ。日本初のキリシタン大名として有名な大村純忠がキリスト教の洗礼を受け、宣教師ルイス・フロイスが日本に降り立った最初の地。瞬く間にキリシタンの町となり、港は南蛮船や商人たちの船が往来し活気に沸いた。しかし、焼き討ちにあい、わずか1年で消滅した横瀬浦。いま、この町にキリシタンは1人もいないそうです。 当時の繁栄の面影をたどりながら、散策してみよう! すがすがしい青空に波穏やかな横瀬浦の港に到着。目の前に見えてきたのは、時間を越えて、静かな港にポッカリと浮かぶ八ノ子島。その頂にある白い十字架は、太陽に直射され島の縁と一体となって、陰影のコントラストをつくりあげていた。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2八ノ子島を観る(海の駅 船番所) ↓徒歩10分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4フロイス像(横瀬浦公園) ↓徒歩2分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6大村純忠の館跡 ↓徒歩7分 img/sub/map_point8.gif' alt='8' />8長崎甚左衛門純景の居宅跡 ↓徒歩20秒 img/sub/map_point10.gif' alt='10' />10丸山長袖さまの墓 ↓車で7分 img/sub/map_point12.gif' alt='12' />12中浦ジュリアン顕彰の碑 ↓徒歩1分
  • トラベル・スタディへようこそ! 2014年03月28日
    トラベル・スタディへようこそ!
    〜旅する長崎学講座〜 ようこそ、長崎県へ! 2月17日(日)からの2泊3日、東京・福岡方面から40名の皆さんがやってきました。実はこのツアー、県が「ながさき歴史発見・発信プロジェクト」の取り組みのひとつとして、平成19年に県外で開講した「旅する長崎学講座」の受講修了生を対象に募集したトラベル・スタディ(現地講座ツアー)なのです。  平成19年の講座は、歴史ガイドブック「旅する長崎学 キリシタン文化編」をテーマにした内容で、次の3箇所で開講されました。中央区民カレッジ〔東京、全5回:平成19年5月〜7月〕、西日本天神文化サークル〔福岡、全4回:平成19年7月〜8月〕、早稲田大学オープンカレッジ〔東京、全8回:平成19年9月〜12月〕。 「座学で膨らませた長崎への思いを抱いて、いざ、遊学の旅へ!!」 参加者の皆さんの知的好奇心を乗せたバスが、いよいよ発車します! トラベル・スタディができるまで  今回のトラベル・スタディは、「旅する長崎学講座」受講修了生の限定ツアーとして、県が企画しました。講座の中に登場したキリシタンの物語、その証明ともいえる数々の文化遺産を実際に長崎の地で確かめ、歴史が伝えているメッセージを肌で感じてもらおうと、講座を担当した先生と職員によってコースが設定されました。(地図をクリックすると拡大します。)  オススメのポイントは次の5つ、 講座を担当したナビゲータ兼講師の先生が同行するオリジナルツアー 地元のガイドさんも登場!世界遺産候補となっている文化遺産に出会える旅 冬のビッグイベント"ランタンフェスティバル"開催中 海外線を走る、島に渡る。長崎らしさの満喫ルート 伝統あるご当地名物、そして冬の味覚。長崎グルメを召し上がれ  歴史だけでなく、その舞台となった自然や風土、そしてそこに育まれた人々との出会いをとおして、今に継承されている思いを伝えたいと思ったら、あれこれ欲ばりな企画になってしまいました。もちろん、旅のお楽しみ、食事や買い物も長崎らしくピックアップ。最後にこのコースを満喫していただける最適な人数として、募集定員は20名に決めました。これで、おすすめ度は100%です。  それでも、どれだけの方が参加してくださるのか、不安がありました。というのも、ある講座で、先方の担当の方にトラベル・スタディを実施したいというお話をしたところ、「過去に他県でも企画したことがあるが、催行人数が集まらずできなかった。なかなか厳しいと思いますよ。」という答えが返ってきたからです。こうしておそるおそる迎えた募集開始の日でしが、なんと20名の定員は一日でほぼ満席という嬉しい反応!「せっかくの機会をできるだけお断りしたくない。」「募集人数を増やしましょうか?」「でも、大勢になることで講座の質を落とさず、場所の雰囲気も壊さずにやれるかな。」いろいろと考えた結果、20名のグループをもうひとつつくる(バス2台)ことにして、あとはやむなくお断りすることとなりました。 奇跡的な好天にめぐまれて  さて、トラベル・スタディが近づくにつれ一番の心配ごとはお天気。関係者がそれぞれ週間天気予報を毎日のようにチェックしながら、一喜一憂。今回のツアーは、まち歩きあり、夕陽あり、船もありで、2月という冬の季節にはちょっと悩ましい・・・。晴れ? いえいえ曇り? うそっ、冷え込んで雪が降る? コロコロ変わる天気予報を横目に、企画者が"晴れ男・晴れ女"ばかりだから大丈夫!と妙な自信をもって、いよいよ2月17日を迎えました。  「本当に奇跡的」といってもいいほどの素晴らしい天気に恵まれた3日間となり、空も海も冬とは思えない青さを見せつけてくれました。企画者と参加者の皆さんの願いが通じた好天に、ただただ感謝するばかりです。  それでは、3日間の旅の様子を、参加者の皆さんの感想を交えてご紹介したいと思います。 1日目 2月17日(日) 曇りのち晴れ  それぞれ長崎空港と長崎駅に集合した皆さんが、昼食会場で合流。午後は20名ずつのグループにわかれて、日本二十六聖人殉教地(西坂 長崎駅近く)と長崎歴史文化博物館(立山 諏訪神社近く)を結ぶコースに点在する史跡を巡るまち歩きです。日本二十六聖人殉教地では、記念館の結城了悟 前館長が出迎えてくださり、殉教者たちの思いをかたちにして伝えている記念碑(彫刻:舟越保武)や記念館・記念聖堂(設計:今井兼次)について解説してくださいました。また、今年11月24日に日本で初めておこなわれる列福式に関連して、西坂で殉教した中浦ジュリアンのお話もありました。 ★1日目の行程(基本コース)★ *場所によって、2グループに別れて散策 長崎空港・長崎駅 集合→(バス)    昼食<吉宗:茶碗蒸しと蒸し寿司>→(バス) 〔1〕 日本二十六聖人殉教地、記念館〔結城了悟 前館長〕→(徒歩) 〔2〕 本蓮寺→(徒歩) 〔3〕 中町教会→(徒歩) 〔4〕 聖福寺→(徒歩) 〔5〕 西勝寺→(徒歩) 〔6〕 サント・ドミンゴ教会跡→(徒歩) 〔7〕 長崎歴史文化博物館 *奉行所お白洲でボランティアによるお芝居を観劇→(バス) 〔8〕 ランタンフェスティバル(自由行動) 長崎市街に宿泊 2日目 2月18日(月) 晴れ  朝から良いお天気に恵まれた2日目。少しひんやりした空気もすがすがしく、一行は大浦天主堂、旧羅典神学校へ。そのあと、浦上に立ち寄って長崎巡礼センターの入口さんにレクチャーしてもらったあと、浦上天主堂へとあがりました。お葬式があるということで、天主堂内の拝観はできませんでしたが、信仰のなかにある教会の姿を感じていただけたようです。  そのあと、バスは外海へ。枯松神社で松川さんと日宇さんが待ってくれていました。外海に潜伏したかくれキリシタンのお話を聴きながら、仏教の方たちと共存してきた地域のきずなを感じることができました。 また、ド・ロ神父記念館では、90歳の橋口シスターのおだやかな微笑みと何もかもを包み込んでくれるようなオルガンの音色に、参加者の皆さんも心癒されたようでした。日宇さんがおやつにくださった手づくりパンの味は格別で、道の駅では地元産の果物などと一緒に買い占めて宅急便で送る姿もみられました。  途中、中浦ジュリアンの生誕地で夕陽を眺め、今夜の宿泊地である崎戸へとバスは向かいます。 ★2日目の行程(基本コース)★ *場所によって、2グループに別れて散策 各ホテル→(バス) 〔9〕 大浦天主堂→(徒歩) 〔10〕 旧羅典神学校→(徒歩)→自由行動→(バス) 〔11〕 浦上天主堂→(バス) 〔12〕 枯松神社→(バス)     昼食<日浦亭:ド・ロ様そうめん>→(バス) 〔13〕 大野教会→(バス) 〔14〕 大平作業場跡→(バス)→*車窓からド・ロ神父のお墓→(バス) 〔15〕 ド・ロ神父遺跡、記念館→(徒歩) 〔16〕 出津教会→(バス) 〔17〕 遠藤周作文学館→(徒歩) 〔18〕 道の駅 夕陽が丘そとめ→(バス) 〔19〕 中浦ジュリアン生誕地→(バス) 崎戸に宿泊 3日目 2月19日(火) 晴れ  あっという間に3日目。今日は、船に乗って黒島に渡ります。ぽかぽか陽気で、この様子なら波も穏やかでしょう。皆さん、3日目の疲れもみせず、ウキウキの笑顔で最終日の一日がスタートしました。  横瀬浦、西海橋を経由して、車窓から見える針尾無線塔や赤レンガの倉庫群など近代化遺産なども楽しみながら、佐世保市の相浦港へ。魚市場内の「もったいない食堂」で素朴な懐かしい味を堪能したあとは、いよいよ黒島へ。バスは1台だけを渡します。ここでも、地元の鶴崎さんと大村さんがガイドとして一行を歓迎してくれました。 ★3日目の行程(基本コース)★ *場所によって、2グループに別れて散策 ホテル→(バス) 〔20〕 横瀬浦→(バス) 〔21〕 西海橋、新西海橋、魚魚市場→(バス)     昼食<もったいない食堂:日替定食>→(バス)→相浦港→(船) 〔22〕 黒島天主堂、島内→(バス)(船)→相浦港→     夕食 持ち帰り<ぎおん:大村ずし> 長崎空港・長崎駅 解散 トラベル・スタディで伝わったもの  今回のトラベル・スタディでは、長崎県の自然、風景、歴史、特産品などの魅力をたくさん見たり味わったりしてもらえたと思います。でも、なにより、企画した私たち自身も感動し感謝したことがありました。それは、各地で心からのおもてなしをしてくださった地元のみなさんの笑顔と気持ちです。このふれあいや交流がなかったら、いくら素晴らしい天気で、どれだけたくさんの場所をまわったとしても、私たちが伝えたかったものの半分も参加者の皆さんの心に残らなかったかもしれません。  最後に、参加者の感想を少しだけご紹介させていただきます(抜粋)。 ○「講座のおかげで、長崎を旅するチャンスを得ました。わくわくして参加しました。みなさんのあたたかいもてなしで、本当に素晴らしい旅となりました。観光ツアーとは違うトラベル・スタディに大満足です。バスの中での先生のお話や、夜の唐人屋敷めぐりも楽しかったです。長崎が大好きになりました。」 ○「企画された皆様のきめ細かい配慮がプログラムの隅々に感じられ、観光ツアーにはない心あたたまる思いで、本当に楽しく過ごさせていただきました。大村湾の夕陽を眺めつつ、大村ずしをいただき、やがて機上の人となり、心地よい疲れをおぼえながら東京へと戻りました。」 ○「青い海、複雑な入江に囲まれた風光明媚な土地に、キリシタンの歴史があることを肌で感じることができました。危険や困難をかえりみず遠い外国からやってきた宣教師や神父のご苦労、迫害にあって殉教された方々の跡をたどり、思わず涙しました。信仰とは何かを真摯に考えさせられました。」 ○「外海や島の方々の素朴な信仰に感動いたしました。今回のトラベル・スタディでは、歴史や文化をベースにして、"今、生きている長崎"を感じることができました。参加者全体の雰囲気も良くて、"大人の学び"という感じでした。食事に関しては高級グルメではなく、ホッとする素朴で新鮮な食材を使った料理に好感がもてました。」 ○「すごくハートフルなトラベル・スタディでした。本当に現存したかくれキリシタンのことを思って、日本人の精神的な凄さと強さを改めて考えさせられました。」 ○「現地のガイドの方のもてなしは、心からうれしかったです。キリスト教の精神が深く伝わっているのが、よーくわかりました。出会った人々をとおして、自分も少しでも変わらなければと思いました。いただいた"遊学のしおり"は、今回の旅の記録として完成させたいです。地方の文化、日本の文化をひろめるために、長崎県の取り組みをもっともっと日本中の人々に知ってもらいたいですし、見習ってほしいと思いました。」 ○「長崎県の素顔に会えたような素敵な旅でした。」
  • 崎戸炭鉱の足跡をたどって 2014年03月28日
    崎戸炭鉱の足跡をたどって
      炭鉱の町・崎戸 崎戸橋 大島町から崎戸町へ入り、製塩工場前にさしかかると、赤い色の崎戸橋が目に映ります。 崎戸橋は1967年(昭和42)に完成しました。かつて、写真の崎戸橋の下から右側に福浦桟橋があり、多くの人に利用されていたそうです。商人たちや昭和小学校・崎戸中学校に通学する生徒のために渡し船が行き交い、上空には海水科学工場と巻座を結ぶ石炭運搬用のゴンドラが稼働していたといいます。   崎戸橋を渡ると、そこはかつて炭鉱で栄えた崎戸の町です。 現在の「崎戸歴史民俗資料館」から「33°元気らんど」にかけては、今に残る炭鉱時代の遺構を見ながら散策することができます。 崎戸歴史民俗資料館の入口には油倉庫跡があり、資料館の向かい側にある展望台周辺にはかつて変電所がありました。今は三菱崎戸炭鉱跡記念碑が建てられています。また、資料館駐車場からはすぐ近くに一坑坑口と煙突を見ることができます。 三菱崎戸炭鉱跡記念碑 崎戸歴史民俗資料館の入口にある油倉庫跡 一坑坑口 煙突   まず、崎戸歴史民俗資料館を訪れて、崎戸炭坑の歴史を知ったうえで町を散策すると、より感慨深いものがあります。 展望台から蛎浦島を見渡すと、立ち入りは禁止されているものの、煙突や赤煉瓦の建物など当時の建造物が点在している風景が目に入ります。炭鉱時代の面影を感じることができます。   崎戸歴史民俗資料館から、当時のメインストリートだった東峰商店街跡を目指して歩いていくと、途中に崎戸劇場跡や共楽館跡があります。そして階段を下りると、右手には700名ほどが住んでいたという独身寮・平和寮がありました。残念ながらこれらは老朽化のために取り壊されて、現在では見ることはできませんが、当時このあたりは映画や劇、買い物、ビリヤードなどを楽しむ人々で溢れかえっていたといいます。 メインストリートへ降りる階段 取り壊された平和寮 かつてのメインストリート・東峰商店街(平和寮跡に向かった写真)   「33°元気らんど」へ到着です。 ここは広大な芝生広場となっており、散策路が設置されたコースはウォーキングやジョギングに活用されています。メインストリートだった東峰商店街の通りも、今では芝生広場になってしまいましたが、かつては商店が建ち並び活気に満ちていました。市場には毎日新鮮な野菜が運ばれ、デパートの玉屋もあったので、生活に必要なものはすべて揃っていたといいます。 プール跡 (立ち入り禁止になっています) 東峰商店街の近くにあったプール跡がかろうじてそのまま残っています。広場のおもしろ乗り物が揃っている施設から奥の方に、当時は崎戸中学校と崎戸炭鉱病院が建っていたそうです。 昭和小学校跡 (立ち入り禁止になっています) 1943年(昭和18)には開坑以来最高の126万トンの出炭を記録し、翌年には従事者数も7,000人を超えました。その後、崎戸町の人口は増え続け、2万5,000人を上回り、人口密度日本一といわれた時期もありました。 昭和小学校周辺から 平和寮に向かって撮影された写真 (崎戸歴史民俗資料館パネルより) 当時の校舎が残る昭和小学校はマンモス校とよばれ、教室が足りなくて、午前と午後の二部授業をおこなっていたそうです。昭和小学校周辺から平和寮に向かって撮影された写真を見ると、社宅跡が所狭しと建ち並び、多くの人々が暮らしたいた様子をうかがえます。   当時の地図 遺構が取り壊されても残る炭鉱の記憶 美崎アパート跡 炭鉱時代の建物が割りと最近まで残っていた崎戸でしたが、近年、老朽化のためにそのほとんどが取り壊されてしまいました。わたしたちは、小説や映画の舞台となって登場する崎戸炭鉱やその風景をとおして、かつての歴史に思いを馳せることができます。 崎戸炭鉱を舞台として描かれた小説には、1975年(昭和50)の井上光晴 著「虚構のクレーン」や2008年(平成20)に直木賞を受賞した井上荒野 著「切羽へ」があります。 また、芳田秀明監督・脚本による映画「Sweet Sweet Ghost」(2000年製作)は崎戸でロケがおこなわれ、昭和小学校跡などが登場しています。 毎年秋に崎戸地区で開催されている「スケッチ大会」においては、崎戸炭鉱時代の遺構をテーマにして描く参加者も多く、歴史の記憶は絵画というかたちで後世にも残されていくものと思います。 1906年(明治40)に採掘が始まった崎戸。閉山となった1968年(昭和43)に炭鉱の歴史は閉じましたが、今でも当時崎戸で生活していた人たちが、懐かしみ訪れるそうです。 今回の取材でお会いした崎戸歴史民俗資料館館長の尾崎さんが、「閉山後、各地に転居した人々が、いま崎戸がどうなっているかを見に来られます。今日も北海道から5,6人の方が資料館に来られる予定なんですよ」と話してくださったのが印象に残りました。 閉山から40年以上経った今でも、まだ崎戸炭鉱は人々の記憶の中で生き続けているのです。 浅間神社近くの広場から炭鉱記念公園を見た写真 炭鉱時代の面影を残す煙突や建物の一部が見えます。  
  • 中浦ジュリアンの世界グルメ紀行 2014年03月19日
    中浦ジュリアンの世界グルメ紀行
    中浦ジュリアンの世界グルメ紀行  キリシタン大名 大村純忠、大友宗麟、有馬晴信の名代としてローマへ派遣されることとなった4人の少年たちが、1582年2月、長崎の港を旅立ちました。わずか13歳前後の4少年の名は、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ。若く希望に満ち溢れた彼らが訪れた外国の港町は、貿易で発展した最先端の街ばかり。インド、南アフリカ、ポルトガル、ローマ、スペインで、美味しい料理でもてなしを受けたことが書かれています。当時のヨーロッパは、ルネッサンスのファッション、建築、食の文化が華開いた時代。ジュリアンたちは世界きっての少年グルメだったにちがいありません!  約420年前の冬、天正遣欧少年使節は、長崎港(現在の長崎県庁下に「南蛮船来航の波止場跡」の碑がある)から、赤い十字架の帆がはためくポルトガルの貿易船に乗り込み、ローマへと出発しました。有馬のセミナリヨの第一期生として学んだ彼らは、その目に焼きついた絵画の中の西欧の風景に、きっと様々な夢と想像を膨らませて海を渡ったのでしょうね。最初に降り立ったマカオは、貿易港だけあって、ポルトガル料理にインド、アフリカがミックスされたマカオ料理。中国野菜とカニなどの海の幸に、香辛料のピリッと効いた料理が特徴。そうそう、揚げパンは福建料理のひとつだけど、長崎の中華料理が福建料理をルーツにもつのは同じ貿易港たる由縁かな。現在、世界遺産となっているマカオ歴史地区、今は壁だけが残るサン・パウロ教会を、4人も訪れたことでしょう。(イラストをクリックしてみよう!)  お次はマレーシアにある古都マラッカ。名物チキンライスは少年たちも食べたでしょうか。ゴアに向かう航海中のインド洋上で、タイ、マグロ、カツオを釣って遊んでいた少年たち。時には、その釣り糸で鳥も捕まえていたそうです。  モザンビークから喜望峰をグルリと回った大西洋にあるセント・ヘレナ島は、かの有名なナポレオンが幽閉された島。この島では初めて食べる果物を体験したとか。やっとのことでリスボンへと到着。リスボンのアルデアガレの司教ドン・テオトニに招かれたディナーでは、とれたてのエビをつまみにワインを堪能。  一行はポルトガルからスペインを横断し、さあ、いよいよイタリアへ。ピサの斜塔は、彼らが訪れた頃もすでに傾いていたらしい。ここで行われたトスカーナ大公妃主催の舞踏会でのエピソード。社交ダンスを踊ることになってしまったジュリアンが、緊張のあまり、声をかけたのは老婦人!!まわりはなごやかな笑いに包まれたとか。  ジュリアンを除く3人は、群衆のなかを、和服で正装し、灰色に金のリボンと白い羽が付いたイタリア風の帽子というファッションで堂々と行進し、ヴァチカン宮殿の「帝王の間」でローマ教皇グレゴリウス13世と感動の謁見。用意してきた手紙を読み、狩野派が描いた織田信長の安土城の屏風を渡し、旅一番の大仕事をこなしました。その時のファッションをイラストにしてみました。  ヴェネツィア、ミラノ各地でも熱狂的な歓迎を受けた少年たちは、再びポルトガルへ。コインブラでの司教の招きによる晩餐会は、かなりゴージャスなディナーだったらしいです。魚釣りや野原でのウサギ狩りに雷鳥狩り、もちろん食材としてテーブルに並んだのでしょう。長崎名物「カステラ」の原型と言われるパン・デ・ローも食べたかもしれないし!当時ヨーロッパでは、彼らの登場で日本ブームが湧き起こったというから、はるばる東洋からやってきた日本人の珍しさに、その待遇はVIPの域だったにちがいありませんね。長崎を出発してから8年5ヶ月の歳月が流れ、1590年に4人は日本へと帰港しました。 参考資料 ローマを見た 天正少年使節』結城了悟著 日本二十六聖人記念館刊 1982年発行
  • ポルトガル語の古文書がひもとく、横瀬浦の真実 2015年07月23日
    ポルトガル語の古文書がひもとく、横瀬浦の真実
       1550年にポルトガル船が入港し、フランシスコ・ザビエルが訪れた。南蛮貿易とキリスト教布教の拠点として栄えた平戸にかわって、1562年、歴史の舞台へと登場した横瀬浦。 西海市教育委員会の諏訪勝郎さんにインタビュー。16世紀のポルトガル語で書かれた本『イエズス会日本書簡集』を訳しながら、約420年前の横瀬浦の様子を語ってくれた内容から、当時の町の風景がより鮮明に浮かび上がる。 天主堂の謎  横瀬浦公園にある天主堂跡の碑。実は、当時建っていた位置と違うんです。実際は丘のふもと、舗装された道路の周辺に教会があったと思われます。1562年10月25日付のアルメイダの書簡を読みますと「入江から入って右にキリスト教徒の集落があります。その対岸に私たちの家(つまり教会)があります。対岸へと架けられた石の橋があり、橋のたもとから7段を数える階段があります。階段の上に前庭があり、さらに4段上がって大きな門を潜り、四角形のパティオを通り、その奥に教会が建っています。」とあります。翌年の記録には教会の階段が増えていますが、その間に教会自体を移築するということは考えにくいでしょう。教会はそのままに、階段を増築したのではないでしょうか。フロイスの記述で「横瀬浦は日本で最も知られたキリシタンの町になった」と報告されています。その記述は本当だと思います。平戸で貿易ができなくなり、開港していたのは横瀬浦だけですからポルトガル商人だけでなく、遠くは京都からも日本の商人たちが集まっていました。横瀬浦の教会は九州でも数少ない教会のひとつ。ミサを行えるのは神父さんのみで、修道士ではできません。ですから、毎週日曜日になると、各地からキリスト教徒たちが船に乗って横瀬浦の教会に集まっていたことがわかります。その賑わいは凄かったと思います。」 わずか1年で壊滅した横瀬浦が物語るもの  キリスト教布教期でも最も幸福な1年ともいえますし、西洋人やその文化を目の当たりにした日本人の衝撃や、南蛮貿易での繁栄があるいっぽう、一瞬にして燃えて無くなり今は何も残っていない空虚感とが並存しています。当時の日本の歴史の象徴的なものを見せているのが横瀬浦だと思います。1563年、純忠の家臣で反キリシタン勢力からの焼き討ちにあった後のポルトガル人たち。実は再度(1564年に)横瀬浦に来てるんですよ。ルイス・フロイスの『日本史』に、「いまだ住民が絶えたままで入港することができないので、平戸へと航路をとった。」とあります。焼き討ちも無くそのまま貿易を続けていれば、横瀬浦が長崎だったかもしれませんね。」。 発見! 長崎の地名に良く似た言葉  「長崎の地名に横瀬浦がルーツと考えられるものがあります。上町、思案橋、丸山以外にもあるんですよ。長崎の「大波止」。実は、横瀬浦に「小波止」と呼ばれた所があります。当時の大村純忠の館のそばにあった小さな船着場のことです。純忠はその小波止から船に乗って教会へ通っていたとも考えられます。波止場が長崎では大きかったので大波止と呼ばれるようになったのでしょうね。」 西海市での取り組み  「横瀬浦に伝わった歌があります。1563年4月17日付の修道士フェルナンデスの書簡に記されている、復活祭で歌っていたアレルヤやラウダーテという歌です。昨年、西海北小学校6年生児童が歌い、CD化しました。地元の人々の協力を得て、横瀬浦で演奏会を催したときは、イルミネーションを飾り、当時の復活祭の様子を偲びました。また今年は、西海南小学校6年生のみなさんと古楽器アルパを使い、16世紀の西洋音楽を披露する演奏会を催しました。中浦ジュリアンたち天正遣欧少年使節が秀吉に謁見した際、彼らが古楽器ラウデ(リュート)、アルパ(ハープ)、ラヴェキーニャ(小型のレヴェック)、クラーヴォ(鍵盤楽器)を演奏し歌ったことにちなんだ企画です。西海市(西海町中浦)出身といわれる中浦ジュリアンや郷土の歴史を学ぶとともに、キリシタンの時代をイメージし、歴史を身近に感じられるような体験ができればと考えて実施しました。日本で最も早い時代に西洋音楽に触れた地域のひとつが、ここ西海でしたから。」 諏訪 勝郎 Katsurou Suwa 1966年愛知県出身。大阪芸術大学卒業、ポルトガル国立ポルト大学文学部及びポルトガル国立ミーニョ大学文学人文科学院留学。著書に『ポルトガル・ノート』(彩流社)がある。当時、西海市教育委員会学芸員。
  • 松島のむかし話 2010年04月21日
    松島のむかし話
    関連ページ テーマで歩く歴史散策「捕鯨・炭鉱の足跡残る島、松島」(2010.4.14 更新)