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県南エリア

  • 具雑煮を作ろう! 2014年03月28日
    具雑煮を作ろう!
    〜長崎の郷土料理(3) 島原編〜  具雑煮は、島原半島の郷土料理です。その誕生は、約370年前に起こった"島原の乱"に由来するといわれます。  1637年(寛永14)、総大将の天草四郎率いる約3万7千人の一揆軍が、幕府軍との攻防の末、原城(南島原市)へと籠城しました。蓄えていた餅と、海や山でとれた具材を持ち寄って煮込んで食べたのではないかといわれています。寒さの厳しい冬に、この料理で体を温め、栄養を補給しながら、戦ったのではないでしょうか。  現在、島原らしい郷土料理として親しまれている具雑煮。中身は、鶏肉、丸餅、かまぼこ、旬の野菜など約10種類以上にものぼります。薄口しょうゆでほんのりと味付けした素朴なスープを飲むと、野菜の甘みが口いっぱいに広がり、体が温まります。今回は、具雑煮づくりに挑戦です。 材料:1人前 ・鶏肉 25g  ・丸餅 40g(小4個)  ・里芋 30g(小1個)  ・白菜 50g(大きい葉っぱの約半分)   ・だいこん 50g(1/20本)  ・にんじん 30g(1/5本)  ・ごぼう 30g(1/5本)  ・春菊 適宜  ・干し椎茸 0.4g(0.5枚)  ・凍り豆腐 3g(1/2枚)  ・油揚げ 1/2枚  ・かまぼこ 1/6個 *かまぼこは、ちくわ、昆布巻き、板付けなどお好みに合わせて3〜4種類を、各2切れずつ用意しましょう。また、長崎では、イワシやサバを原料にした薄い円形のかまぼこを "はんぺん"と呼ぶ場合があります。このはんぺんを入れてもおいしいですよ! ●調味料 ・薄口しょうゆ 6g(小さじ1)  ・濃口しょうゆ 6g(小さじ1)  ・みりん 17g(大さじ1)  ・酒 15cc(大さじ1)・塩  0.1g ●だし汁 ・かつお節 2g  ・だし昆布 2g  ・水  200cc ★用意するもの ・1人前の鍋を人数分 作り方 (1)だし汁をつくりましょう  あらかじめ、だし汁を準備しておきましょう。  鍋に、水、干し椎茸、昆布を入れて約30分〜1時間ほど浸します。沸騰する直前で昆布と干し椎茸を取り出しましょう。鍋にかつお節を加え、沸騰したらすぐに火を止めます。ザルなどで濾しましょう。  *取り出した干し椎茸は、包丁で薄く切ってください。 (2)材料を切りましょう  野菜を食べやすい大きさに包丁で切ります。里芋は乱切り、ごぼうはささがき、にんじんと大根は短冊切り、白菜は3センチ幅に切りましょう。  凍り豆腐は、水に戻して薄切り、かまぼこは薄切り、油揚げはざっくりと切ります。 (3)鍋で鶏肉を炒めましょう  一人前の小さな土鍋を用意しましょう。  鍋を火にかけて、こま切れにした鶏肉を中火でから炒りします。 (4)だし汁を加えましょう  鶏肉の表面に火が通ったら、(1)のだし汁を加えましょう。 (5)野菜を煮ましょう  だし汁が沸騰してきたら、にんじん、ごぼう、さといも、だいこん、干し椎茸を加えて煮ましょう。アクを取り除いたら、弱火にしてコトコトと煮ます。  野菜に火が通ったら、薄口しょうゆ、濃口しょうゆ、みりん、酒、塩でほんのりと味付けです。 (6)餅の登場です!さらに具材を加えてひと煮立ち  さらに白菜、油揚げ、凍り豆腐、かまぼこ、丸餅を加えましょう。火加減を調節して鍋に蓋をし、ひと煮立ちさせます。 (7)完成です!  丸餅がやわらかくなったら食べごろですよ。中央に春菊を盛り付けて完成です。 さぁ、いただきまーす! ★調理のポイント★ 焼きあご(長崎の特産で、干した飛魚を炙ったもの)でとった"あごだし"でつくってもおいしいですよ! 島原半島では、卵焼き、焼きアナゴ、れんこんを入れたりします。 各家庭で、材料や味付けは様々です。レシピに掲載した材料にこだわらず、いろんな素材を用意して、とにかく具だくさんに仕上げましょう! 島原半島では、白菜ではなくシロナという野菜を使います。  あっさりとしていながら出汁はしっかりと。野菜の甘みが引き立つやさしい味にプラスして、お餅がパワーを体にみなぎらせてくれるような、元気なおいしさです。お正月のお雑煮としてだけでなく、寒い冬はいつでもOK。腹持ちが良いので受験生にもオススメですよ! ぜひ一度、お試しください! 参考文献 長崎県教育庁体育保健科「長崎の郷土料理(学校給食レシピ)HP 長崎県栄養士会 「旅する長崎学3 キリシタン文化掘廖ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 2006年 島原温泉観光協会
  • 島原半島ジオパークを知ろう! 2014年03月28日
    島原半島ジオパークを知ろう!
    "島原半島ジオパーク"って知ってる?  2009年(平成21)8月22日、中国泰安市で開催された世界ジオパーク事務局会議において、「島原半島ジオパーク」「糸魚川(いといがわ)ジオパーク」「洞爺湖(とうやこ)有珠(うす)山ジオパーク」の3つが、日本国内で初めて世界ジオパークネットワークへの加盟が認められ、「世界ジオパーク」として認定されました。  さて、この『ジオパーク』って一体何なのでしょうか?  島原半島ジオパーク事務局を訪ねて、いろいろと聞いてきました。 ジオパークとは?  ジオパークという言葉は、「ジオ」という言葉と「パーク」という、二つの言葉でつくられています。    「ジオ」は“地形や地質”を意味し、「パーク」は“公園”を意味します。よって、ジオパークを日本語にすれば、「大地のなりたちや地形・地質をテーマにした自然公園」と言えます。あたかも地域全体を一つの「自然の博物館」と捉え、そこに含まれる自然景観(地形)、地質、動植物といった自然環境、そしてそれらを利用している人々の暮らし、歴史、文化を「展示物」と見なした、テーマパークのようなものです。 水無川から見た平成新山 国崎半島自然公園の断層 原城跡 世界遺産とはどう違うのですか?  世界遺産は、すぐれた文化遺産や自然遺産を人類の宝物として保護することを目的としていますが、ジオパークは、貴重な地形や地層などを保護しながら、地域の科学・防災教育や地域振興に活用することを目的としています。 ジオパークとして認められる基準はあるのですか?  ジオパークになるための大まかな条件は、以下の4つです。   1.学術的に貴重な地形・地質遺産や美しい自然環境が複数あること 2.それらが保護されていること 3.それらをうまく利用した人々の暮らしや歴史があること 4.それらの貴重さやすばらしさを、誰もが学習し、観光地として楽しむことができるしくみが整備されていること    さらに、これらを長年継続していけるような組織も必要です。    ジオパークとして認定されるための地域整備を行うと、どのような効果があるのでしょうか。まず、地球科学的遺産の保護とそれらの貴重さの啓蒙活動により、地域の自然環境の保全と、その意義を後世に伝えるための仕組み作りが進みます。次に、地球科学的遺産を用いた教育普及活動をすすめる事により、子供達をはじめ、住民全体が、自らの郷土のすばらしさを再認識し、郷土に誇りと自信を持つ事ができます。さらに、これらの貴重さを一つのセールスポイントとしてし、地域のPRを勧めていくことにより、地域が国内外から注目され、観光客が増加し、地域経済の活性化に繋がる、と期待されます。 島原半島ジオパークとして、現在どのような活動をしていますか? はだしであそぼう雲仙  島原半島3市の市報などの紙面を活用して、ジオパークの意義や取り組みを広くお知らせしています。また、ウェブでは各種イベントの案内や、その様子を伝えています。  >> 島原半島ジオパーク 公式ホームページ  いま人気があるイベントは、「ジオツアー」とよばれる地形・地層の見学をメインとした小旅行です。地形・地質の専門家やボランティアガイドの方々が、島原半島のみどころをわかりやすく解説します。ほかにも、地元の産物の収穫体験や、湯せんぺい、手延べそうめんなどの特産品の制作体験ができるコースも用意されています。  雲仙火山が長年かけて堆積させた地層によって濾過され、湧き出たきれいな地下z水が美味しいそうめんを作り、また火山灰と温暖湿潤な気候が肥沃な大地を産み、じゃがいもを育ててくれる。これらを見学・体験することで、島原半島ジオパークの魅力を、存分に堪能することができます。  >> イベント情報について 【島原半島ジオパーク公式サイトへ】  最近作成されたパンフレットに、オススメのコースとして、車で半島内を移動しながら「ジオサイト」を巡る「ジオさらくコース」が掲載されています。「ジオサイト」とは、島原半島内に点在している地形や地層を観察・体験できる場所のことですが、平成の噴火や島原大変、温泉・断層、島原半島の成り立ちをたどるなど、充実したコースが紹介されています。  今回の島原半島めぐりで立ち寄った温泉も、古くからの火山活動によるもの! まさにジオパークのひとつのかたちです。“ジオサイト”だと意識しながらお湯につかると、地球に抱かれたような気分がしてきて、また違った感じのリラックスができますよ。島原半島には、「島原温泉」「雲仙温泉」「小浜温泉」と3つの有名な温泉がありますが、その泉質と効用もそれぞれ異なります。島原半島を旅するなら、島原・雲仙・小浜と3泊して、すべての温泉と食べ物をゆったり味わいながら、豊かな自然や歴史を“ジオパーク”という切り口でじっくりと堪能してみてください。 島原温泉 雲仙温泉 小浜温泉 島原中心街にある「ゆとろぎの湯」は飲める温泉。駐車場にある足湯のそば。 慢性消化器病、糖尿病、痛風、肝臓病に効果があると言われています。 雲仙は泉質的に強い酸性をもっているので、殺菌効果があります。湿疹やしもやけ、切傷などの皮膚病全般に効果があります。また美肌効果もあり、慢性のリューマチ、糖尿病、神経痛、筋肉痛、関節痛、疲労回復、健康増進にも適していると言われています。 小浜温泉は、入浴後も熱の発散を防ぎ、皮膚に軽い刺激を与えるので、新陳代謝を促して皮膚の抵抗力を強めてくれます。リューマチ・神経痛に効果があると言われます。 参考資料 島原半島ジオパーク推進連絡協議会事務局 島原半島ジオパークパンフレット『ジオパークってなに?』
  • 島原藩2 2014年03月28日
    島原藩2
      1853年(嘉永6)、ペリーの来航以降、長崎港にも異国船が頻繁に訪れました。そのたび島原藩は、警備のために兵を長崎へ送ったり、藩主自らの長崎巡見などを行いました。しかし藩費はかさむばかりでした。また島原では流行病が発生し、領内で6百人を超える死者が出たといわれています。 1862年(文久2)、藩主・忠愛(ただちか)が嗣子無くして急死したため、急遽密かに水戸・徳川斉昭(なりあき)の十六男として生まれた松平忠和(ただかず)が養子となり、最後の島原藩主となりました。 島原藩幕末の志士たち 激動する政局のなか、島原藩にも尊王攘夷の思想を持った志士がいました。丸山作楽(さくら)、半田清直、梅村真守(まもり)、石田貞幹(さだもと)、尾崎靖(やすし)、保母建(ほぼたけし)、伊藤益荒などが攘夷運動を展開していました。 島原藩主の交代により、梅村真守らは攘夷を建言しますが、松平忠和は江戸幕府最後の将軍となる慶喜の実弟であったため、幕末は特に佐幕思想が強くなり、多くの尊王攘夷派が処罰を受けました。 志士らは、平田篤胤(あつたね)の後継者・平田 銕胤(かねたね)について国学を学び、文武修行の名義で上京し、他藩の攘夷派と交流を深めました。 その後保母建と石田貞幹、尾崎靖は、尊王攘夷派の武装集団・大和天誅組(てんちゅうぐみ)に加わり、幕府軍と戦いましたが、保母建は紀州兵に囲まれ自首、尾崎靖は津藩兵に捕まるなどして最終的に獄死しました。また梅村真守と伊藤益荒は水戸藩の天狗党(てんぐとう)に参加しましたが、内紛なども起こり、本隊から離れ各地を転戦しましたが、二人とも戦死しました。 神習処跡 かねて禁門警備にあたっていた丸山作楽は、八月十八日の政変により長州藩など京都の尊王攘夷派が一掃され、公武合体派の勢力が強まったため、島原藩に戻りました。そして1863年(文久3)に上新丁(武家屋敷跡近く)に私塾・神習処(かんならいどころ)を開き、藩士に国学と神道を説き、尊王思想を鼓舞しました。しかしあまりにも丸山作楽の思想と行動は激しかったため、島原藩の忌避するところとなり、謹慎を命ぜられています。三条実美ら5卿が大宰府に移されたと聞いては、脱藩して島原藩に迎え入れようとしましたが、実現しませんでした。 龍馬の島原上陸 龍馬長崎上陸の地 この騒動のなか、1864年(元治元)には勝海舟とともに坂本龍馬らが島原湊に上陸しました。英仏米蘭4カ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するために、海舟は外国勢との調停役としての幕命を受けていました。このとき龍馬は30歳で、海舟の信頼を受け、神戸海軍操練所の塾頭を務めてた頃です。 島原湊上陸後、島原街道、長崎街道を通り長崎に到着しています。 龍馬が初めて長崎に上陸した島原湊の石段には、現在「龍馬長崎上陸の地」の看板がたっています。 戊辰戦争 藩主・忠和の実兄で最後の徳川将軍慶喜は、1867年(慶応3)に政権返上を明治天皇に上奏し、大政奉還がなされました。 翌年には会津・桑名藩を主力とした旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍とが鳥羽・伏見で激突しました。この戦いで旧幕府軍の不利が伝わると、長崎奉行河津祐邦(すけくに)は長崎を抜け出して京都へ向かったため、長崎の町は土佐藩や薩摩藩などの藩士が協議して守ることになりました。これを知った島原藩は藩士を集めて協議し、使者を長崎へ送り、各藩士と接触させ、長崎会議所にて力を合わせて王事に尽くすことを誓いました。その後九州鎮撫総督として沢宣嘉(のぶよし)が長崎に着任すると、島原藩は安芸藩とともに大波止の警備につきました。 藩主・忠和は朝廷に対して、慶喜は実兄であるが、王事よりほかに他意はない。兄弟の縁は問わないことを伝えています。 さらに沢総督から奥羽への出兵要請を受けて、出羽国船川に上陸し、秋田へ出陣しました。その後檜木山から湯の沢をへて転戦し、一時は敵に囲まれて苦戦しました。ここで磯野波蔵、小沢文十郎、木下鉄之助が戦死しました。角館(かくのだて)にひきあげた後、長崎の振遠隊(しんえんたい)と合流し、南部領へ進みました。盛岡藩の降伏後に東北の反乱も平定したため、解兵の令がおりました。 戊辰戦争により、島原藩は砲戦を主とした英国軍隊方式を取り入れるなど軍制を改めました。 丸山作楽のその後 明治維新後、政府に請われて外務大丞(だいじょう)に就任し、樺太の国境問題についてロシアと交渉しました。また後に征韓論に同調したため、一時投獄されていますが、出獄後に新聞『明治日報』を起こし、1882年(明治15)には東京日日新聞の福地源一郎(ふくちげんいちろう)とともに立憲帝政党(りっけんていせいとう)を結成、保守的政治家として活動しました。 猛島神社にある丸山作楽の歌碑 1886年(明治19)には宮内省図書助(ずしょのすけ)に就任し、伊藤博文の命をうけて渡欧しスタイン博士に学び明治憲法や皇室典範の制定に尽力しました。また1890年(明治23)には元老院議官・貴族院議員に就任するなど政界で活躍しました。 丸山作楽は、万葉の歌人でもありました。島原市の霊丘(れいきゅう)公園や猛島(たけしま)神社などには丸山作楽の遺徳をたたえる大きな石碑や歌碑が建立されています。 参考資料 『島原の歴史 藩政編』(発行/島原市) 『長崎県の教育史』(外山幹夫 著/思文閣出版) 歴史散策 南島原市有家町(ありえちょう)は、古くから「庄屋の町」として栄えた町です。酒蔵、みそ醤油蔵や素麺蔵、神社やお寺、キリシタン遺跡、レンガ塀などの産業遺産等が多く残っています。これらの遺産を後世に伝えると共に、地域経済の活性化を目的に「ありえ蔵めぐり」イベントが開催されています。 約8メートルもある巨大な一本の木を天井からつるし、てこの原理によって微妙な圧力をかけて搾り上げる“撥ね木搾り”という古くから伝わる技法によって酒を作り続けている壱之蔵吉田屋。 雲仙山系の清純な伏流水を仕込み水として、厳選した良質の酒造好適米を高精白に磨き上げ、昔ながらの手造りの良さを守り続けている弐之蔵浦川酒造。1918年(大正7)、初代が味噌・醤油の製造を始めたことに始まる参之蔵喜代屋、古民家好きにはたまらない風情の建物の四之蔵ヤマコメ醸造、雲仙山麓の上質な水と、厳選された小麦を使い昔ながらの製法で丹念に熟成を重ねしっかりとした「コシ」の強いそうめんを作り続ける五之蔵島原一揆村ふるせの5つの蔵があります。 年に数回開催されている「ありえ蔵めぐり」イベント期間中には、「蔵さるき」ガイドツアーも開催されています。まち歩きを通して、長い歴史で培われた「蔵の文化と生活」に触れてみませんか。
  • 島原藩 2014年03月28日
    島原藩
    関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康軍)に参加し、本領を安堵された有馬晴信(ありまはるのぶ)が、島原藩の初代藩主となりました。有馬晴信は熱心なキリシタン大名で、天正遣欧使節をローマに派遣するなど、島原藩にキリシタン全盛期をもたらせました。 しかし、2つの事件をきっかけに、幕府のキリシタンへの不信感が募ることとなります。ついには「島原の乱」が発生し、乱後の処理によって島原藩は大きく変わっていきます。 幕末にかけて、島原藩はどのような変化を遂げていったのでしょうか・・・。 ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件と岡本大八事件 1609年(慶長14)、有馬晴信の朱印船がマカオに寄港した際、晴信の家臣を含む日本人はポルトガル船の船員と口論になり、暴動を起こしてしまいます。当時マカオでポルトガル貿易の指揮をとっていた長官は、暴動解決にあたりますが、結果的に多数の日本人が殺害され、積荷を略奪されるという事件に発展しました。 家臣を殺害された有馬晴信は、翌年、長崎沖まで来たノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を、長崎奉行・長谷川左兵衛藤広らとともに30隻の船で包囲しました。幕府の報復処置の命令もあったことから捕獲しようとしましたが、ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号は火薬庫に火を放ち爆沈してしまいました。 この事件で、徳川家康の側近・本多正純の近臣であった岡本大八(おかもとだいはち)は有馬晴信の目付役として同行しており、晴信に対し有馬氏の旧領地であった肥前の一部を与えると偽の辞令書を無断で与えました。そして大八は、晴信から本多正純への口利きの謝礼として、多額の金品や資金を受け取りました。しかしなかなか旧領地の恩賞の通達がないため、晴信は直接本多正純に面会し催促したところ、収賄事件として発覚したのです。大八は火刑に処されることになりましたが、牢内で「晴信が長谷川左兵衛藤広の暗殺を企てている」と訴えました。嫌疑をかけられた晴信は身の潔白を証明することができず、斬首となってしまいます。 この事件で処刑された晴信と大八は二人ともキリシタンであったため、幕府はキリシタンへの不信感が高まりました。 有馬直純の天封、島原の乱 有馬晴信の子・有馬直純(なおずみ)が晴信の跡を継ぎます。直純は、キリシタンであった小西行長の姪と結婚していましたが、家康の曾孫である国姫と再婚しています。後見人の長崎奉行・長谷川とキリシタン嫌いだった国姫が結託して、キリシタンへの迫害は強化されましたが効をなさず、1614年(慶長19)、直純は宮崎県の日向に領地を移されました。その後1616年(元和2)に松倉重政(まつくらしげまさ)が入るまで、島原は幕府の直轄地とされました。 松倉氏は、一国一城令により日野江城(ひのえじょう)と原城を廃し、1618年(元和4)から島原城(森岳城)と城下町を新たに築きます。領民に重税と労役を課し、7年もの歳月をかけて立派な城を完成させました。領民にはキリシタンが多く、当初はキリスト教布教を黙認していた松倉氏でしたが、徳川家光から叱責され、一転して厳しい迫害を始めます。 雲仙地獄もキリシタンの拷問に利用されました。信仰を棄てさせるためにすぐには殺さず、煮えたぎる熱湯を使ってじわじわと長い苦痛を与えたといわれています。 松倉重政の死後、後を継いだ松倉勝家(まつだいらかついえ)はさらに重税を課し、連年の凶作にもかかわらず、領民から強引に年貢を取り立てました。口之津の庄屋の妊婦を拷問死させたことなどから、あまりのことに憤慨した領民らが島原半島南部の村々の代官を次々と襲いました。これが島原の乱のきっかけといわれています。 (「 島原の乱 」を詳しくみる ) 松倉勝家は、島原の乱の責任を問われ、領地を没収され斬首となりました。幕府は、島原の乱を機にキリスト教布教の禁止、密告制によるキリシタン摘発など、さらに取り締まりを強化し、イエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶、九州大名による長崎港の警備を強化することで、鎖国を完成させていくことになります。 原城跡(櫓台石垣跡上からの見晴らし) 日野江城跡 島原の復興 幕府は、遠江国浜松城主の譜代大名(関ヶ原の合戦以前からの徳川家家臣で、幕府の要職に就いた大名)・高力忠房(こうりきただふさ)を島原藩主としました。高力氏は島原の乱後の処理を中心に、長崎警固の責務を受け持つこととなりました。また九州は外様大名(譜代大名に対し、関ヶ原の合戦以降に徳川氏に帰属した大名)が多かったため、各藩の監視役を兼ねていたともいわれています。高力氏は近隣諸藩から農民を移住させ、特に荒廃が著しい島原半島南部の農村復興につとめました。しかし、1655年(明暦元)に忠房が京都で客死すると、子の高長(たかなが)が藩主となります。しかし、藩財政のために農民への課役を強いたため、高力氏は領地や知行を没収される結果となりました。 その後幕府は、1669年(寛文9)に丹波福地山城主である松平忠房(まつだいらただふさ)を島原藩主に任命しました。この時から豊前国宇佐郡と豊前国東郡から約2万石が加増され、島原藩の財政が強化されました。 松平忠房(まつだいらただふさ) 松平忠房は、検地を実施し、村役人を整備して農村の掌握をおこないました。また好学で、文武振興にもつとめたそうです。和漢・軍学・武術・和歌・俳諧と幅広く学んでおり、儒学者であった林羅山の子・林鵞峰(はやしがほう)や譜代大名・榊原忠次(さきばらただつぐ)などと交遊が深かったといわれています。 さらに忠房は、多くの蔵書・写本を収集しており、今日残っているだけでも3,000部、1万冊に及んでいます。これらの蔵書は、今日「松平文庫」とよばれており、神道や仏教、儒教、歴史、地理、政治、経済、教育、風俗、医学、自然科学、産業、芸能、武道、和歌、漢詩など多種多彩に揃っています。 1793年(寛政5)に松平忠馮(ただより)が藩校「稽古館」を開設すると、学生たちもこの松平文庫を閲覧し勉強できたそうです。 島原大変 1749年(寛延2)、当時の藩主・松平忠刻(まつだいらただとき)は、参勤交代のために江戸に赴く途上で急死しました。子である忠祗(ただまさ)が12歳の若さで家督を継ぎますが、下野宇都宮藩の戸田忠盈(とだただみつ)と交代するかたちで宇都宮に移ります。忠祗の弟の忠恕(ただひろ)が家督を継承すると、1775年(安永4)に再度戸田氏と交代し、島原藩に戻ってきました。 島原城や観光復興記念館には島原大変の資料があります。 1792年(寛政4)、雲仙普賢岳が噴火し、その後眉山が崩壊し大量の土砂が島原の街を通って有明海へ向かって流れ落ちました。この災害は「島原大変」とよばれ、この時の死者は約5,000人といわれています。さらに有明海に流れ落ちた土砂の衝撃によって発生した高波が、島原の対岸の肥後国天草に襲いました。これを「肥後迷惑」とよんでいます。また肥後の海岸で反射した返し波が再び島原を襲いました。津波による死者は約1万人といわれています。 当時の藩主・忠恕は被災地の巡視をおこないましたが、心労が重なり逝去、後を継いだ忠馮(ただより)は領民の救済のため、江戸幕府から1万2,000両を借用しました。 櫨の果皮を粉にして蒸し、蝋船で圧縮し蝋液を絞り出していました。 この返済に役立ったのが、櫨(はぜ)の実でした。島原藩では以前から櫨の木を植林し製蝋(せいろう)を奨励していました。製蝋は島原藩の重要な産業のひとつだったのです。1804年〜1830年(文化・文政期頃)には櫨の値段が下落しましたが、1843年(天保14)には3,000両ほどの利益を得たといいます。また島原藩の蝋は、厳格な検査をおこなっていたので商人の信用もあり、他藩製の蝋よりも高額で販売されていたそうです。 島原藩校「稽古館」、「済衆館」 稽古館跡 松平忠房以降、松平氏は学問に積極的に取り組んでおり、忠恕は藩校創設の意図をもっていたといわれています。しかし島原大変により実現はできませんでした。忠恕の後を継いだ忠馮が、父・忠恕の遺志を引き継ぎ、1793年(寛政5)に藩校「稽古館(けいこかん)」の創立に踏み切りました。現在の島原市先魁(さきがけ)町の地にあたります。 1834年(天保5)、忠侯(ただこれ・ただよし)のときには拡充され、学生増加を奨励し、さらに医学校「済衆館(さいしゅうかん)」を創設しました。済衆館の医学はもともと稽古館の学科の中に含まれていたものですが、医学校兼病院済衆館として独立開校したものです。藩医・医学生に限らず、領内の開業医も随時入校し、研修を受けることができたといいます。 済衆館では、藩医・市川泰朴(いちかわたいぼく)が、1844年(弘化元)に同じ藩医・賀来佐之(かくすけゆき)の協力のもとに死体解剖をおこなっています。その際、絵師に描かせた人体解剖図が貴重な資料として島原城に保存・展示されています。 旧島原藩薬園跡 賀来佐之は、豊前国宇佐郡出身でシーボルトの鳴滝塾に学び、1843年(天保14)に島原藩医に招かれました。薬園開設の命を受け、済衆館の庭園に薬草類を栽培しました。しかし、栽培するには土の条件が悪く、土地も狭かったため、1846年(弘化3)に雲仙岳のふもとに薬草類を移しました。これが現在残っている旧島原藩薬園跡です。 旧島原藩薬園跡 小藩の薬草園とはいえ、全国的にも稀にみる遺構をとどめた史跡であることから、1929年(昭和4)に日本三大薬園跡として国の史跡指定を受けています。あとの2園は奈良県の森野旧薬園と鹿児島県の佐多旧薬園です。 現在の旧島原藩薬園跡では、薬草を身近なものとして親しんでもらえるよう、薬用植物を栽培し、薬園を再現しています。気軽に立ち寄って薬草の効果を学んだり、旬の薬草を使った薬草料理を作って味わう体験もできます。詳しくは島原市教育委員会へお問い合せください。(TEL:0957-68-5473) 参考資料 旅する長崎学3 キリシタン文化III『 26聖人殉教、島原の乱から鎖国へ 』 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 歴史散策「島原城下町」 ■武家屋敷・武家屋敷水路 島原城の築城とともに形成されました。中央を流れる清水は熊野神社を水源とし、飲料水として使われ、水奉行によって厳重に管理されていました。現在、保存されている武家屋敷は、山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒で一般に無料開放されています。 島原城 松倉重政藩主時代に7年の歳月をかけて築かれました。明治に入り、城壁だけを残して解体されてしまいましたが、1960年(昭和35)以降復元されました。 鯉が泳ぐまち アーケードすぐそばの水路には鯉が放流されており、住民の皆さんの管理の下「鯉の泳ぐまち」を形成し、道行く人々の目を楽しませてくれます。 白土湖 1792年(寛政4)の島原大変時、噴火の時に陥没してできたといわれています。清水がこんこんと湧き出て、水の都のシンボルともなっています。 周辺散策地図 武家屋敷通り 島原城 鯉が泳ぐまち 白土湖
  • 雲仙&小浜&島原の旅のススメ 極上の温泉を楽しむ 2014年03月27日
    雲仙&小浜&島原の旅のススメ 極上の温泉を楽しむ
       長崎市内から車で約90分、島原半島は、ポルトガル人から伝わった馬鈴薯(じゃがいも)のカタチにも似た愛らしい形をしています。もちろん、じゃがいもの産地としても有名です。北に有明海、東に島原湾、西に橘湾と海に囲まれ、島原半島の屋根と呼ばれる雲仙岳は四季折々の表情を見せてくれます。海の新鮮な魚と高原で採れる野菜など豊かな自然に恵まれたロケーション。1年を通じて訪れる旅人たちを楽しませてくれます。  南蛮貿易で栄えキリシタン文化が華開いた有馬の地、幕府をゆるがせた島原の乱…、激動の時代を駆け抜けた歴史の舞台巡りとセットでおすすめしたいのが、「雲仙」「小浜」「島原」の極上の温泉めぐり。それぞれに違う泉質を紹介します。 雲仙  小浜から仁田峠へと向かう途中にある温泉郷「雲仙」。その歴史は古く、僧行基が開基した701年。山号を温泉山としたことから“おんせんやま”が訛って“雲仙”と呼ばれるようになったといわれています。雲仙岳で一番高い山は平成新山の標高1486メートル。小浜の海岸線から標高1000メートルまで山道を一気に登るので、杉林の間からみえる景色は最高です。車で雲仙までの山道を走るのはとても楽しいですが、霧がかかって視界が全く遮られることもしばしばありますので天気には十分ご注意を。風景を楽しみながらドライブしていると、硫黄の香りとともに白い湯煙が立ち昇る温泉街「雲仙」が現れてくるのです。  泉質は酸性硫黄泉。湯には乳白色と透明の2種類があって各旅館で違います。やわらかく肌になじむ温泉は美肌効果大!ついつい1日に何度も入ってしまいそう。旅館の部屋でゴロゴロと、贅沢に過ごせる雲仙はリピーターも多い人気の温泉地です。  そうそう、県外から遊びにきた友達を雲仙地獄に連れて行ったときに必ずすすめるのが「温泉タマゴ」! でも大抵はビックリされちゃいます。「あれ、ゆで卵じゃん。」 なんでも温泉タマゴといえば黄身は半熟!?がフツウなんだそうで、雲仙の温泉タマゴのように蒸気で固ゆでされてちょっと黒っぽくなった黄身は意外なんだとか! 長崎生まれの私にとっての温泉タマゴ常識をくつがえす友の言葉でした。しかし、「ゆで卵」と言った友達も、一口食べてそれとは違う独特の美味しさに感動の様子。2、3個ペロリとたいらげました。 リュートの再評価  雲仙では、摂氏100度以上の温泉を薄めないように、旅館へと配管で送る課程で適温にしています。雲仙地獄の散策コースで、その様子を観察することができますよ。  温泉街は、老舗の旅館やホテルが建ち並ぶ風情あるレトロな街並みです。明治には外国人の夏の避暑地として賑わったそうで、当時ではハイカラなテニスやゴルフと一緒に温泉を楽しんでいたそうです。高原野菜や新鮮なキノコを使ったフレンチや創作料理が楽しめるのも雲仙ならでは。 泉質 :酸性硫黄泉 色 :乳白色と透明の2種類 香り :ほのかな硫黄 効能 :湿疹・しもやけ・切り傷・糖尿病・疲労回復・健康増進・美肌効果など 小浜  島原半島の西に位置し、橘湾を臨む国道57号線の海岸線に沿って旅館が建ち並ぶ温泉街「小浜」。この通りを歩くと、排水溝の隙間からごうごうと白くて熱い湯気が吹き出している箇所がいくつもあります。その温度は摂氏100度以上。豊かな湯量を誇る温泉街です。さっそく温泉に浸かってみましょう。ちょっと湯を舐めてみると「しょっぱい!」と感じます。この塩分が皮膚に効きます。そして湯冷めしにくいというのが小浜の温泉の特徴で、体の芯から温まります。  小浜温泉のプラスワンのオススメは、夕暮れ時に露天風呂に入ること! 夕方の時間をねらって温泉に浸かれば、目の前に見えるのは海に沈む美しい夕陽。橘湾も、温泉も、空も、目に映る全てがオレンジ色に染まります。この光景を眺めながら、しみじみと島原半島の大自然に感謝・・・。夜の入浴もオススメ! 暗い海に転々と浮かびあがる漁り火も風情がありますよ。島原の乱の若き総大将として有明な天草四郎もこの小浜の温泉に浸かったといわれています。四郎も見たであろうこの海のすばらしい景色が、今も昔も変わらずに残っているのが嬉しいですね。  小浜の温泉街の裏通りにある、小浜歴史資料館やキリシタン殉教の秘話が残る上の川湧水、炭酸泉なども散策してみましょう。 泉質 :ナトリウム含有泉(食塩泉) 色 :透明 香り :ほのかな硫黄 効能 :胃腸・呼吸器系疾患・リュウマチ・術後の療養・婦人病・筋肉痛・冷え性・腰痛など 島原  鯉が泳ぐ水の都「島原」は、「名水百選」や「水の郷全国10」にも選ばれた城下町です。小浜は夕陽でしたが、島原は朝風呂から眺める朝日が絶景です。飲むとほんのわずかですが炭酸というか重曹のような味がします。源泉の温度は30〜42度位。無色透明で中性なので、肌への負担がからず入浴を楽しめます。市内には6ヶ所の飲泉所が設けられていて、観光客でも気軽に楽しむことができます。水を汲みに訪れる人も多いとか。コーヒーや抹茶に使う 泉質 :ナトリウム・カルシウム炭酸水素塩泉 色 :透明 香り :無臭 効能 :入浴…火傷・切り傷・慢性皮膚病・慢性消化器病など  飲泉…糖尿病・肝臓病・痛風・慢性消化器病など  「ながさき歴史散歩」の第7回「殉教の足跡を探して〜島原半島&天草の旅〜」で紹介した歴史の旅と一緒に、それぞれの泉質の違いを楽しむ極上の温泉めぐりはいかがですか。 DATA 参考 雲仙観光協会  http://www.unzen.org/japanese/ 小浜温泉観光協会  http://obama.or.jp/ 島原温泉観光協会  http://www.shimabaraonsen.com/index.cgi 写真:長崎県観光連盟 上から「雲仙 妙見山頂より」「雲仙地獄」「小浜 小浜温泉街(小浜町)」「島原 鯉の泳ぐまち」
  • 中浦ジュリアンの世界グルメ紀行 2014年03月19日
    中浦ジュリアンの世界グルメ紀行
    中浦ジュリアンの世界グルメ紀行  キリシタン大名 大村純忠、大友宗麟、有馬晴信の名代としてローマへ派遣されることとなった4人の少年たちが、1582年2月、長崎の港を旅立ちました。わずか13歳前後の4少年の名は、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ。若く希望に満ち溢れた彼らが訪れた外国の港町は、貿易で発展した最先端の街ばかり。インド、南アフリカ、ポルトガル、ローマ、スペインで、美味しい料理でもてなしを受けたことが書かれています。当時のヨーロッパは、ルネッサンスのファッション、建築、食の文化が華開いた時代。ジュリアンたちは世界きっての少年グルメだったにちがいありません!  約420年前の冬、天正遣欧少年使節は、長崎港(現在の長崎県庁下に「南蛮船来航の波止場跡」の碑がある)から、赤い十字架の帆がはためくポルトガルの貿易船に乗り込み、ローマへと出発しました。有馬のセミナリヨの第一期生として学んだ彼らは、その目に焼きついた絵画の中の西欧の風景に、きっと様々な夢と想像を膨らませて海を渡ったのでしょうね。最初に降り立ったマカオは、貿易港だけあって、ポルトガル料理にインド、アフリカがミックスされたマカオ料理。中国野菜とカニなどの海の幸に、香辛料のピリッと効いた料理が特徴。そうそう、揚げパンは福建料理のひとつだけど、長崎の中華料理が福建料理をルーツにもつのは同じ貿易港たる由縁かな。現在、世界遺産となっているマカオ歴史地区、今は壁だけが残るサン・パウロ教会を、4人も訪れたことでしょう。(イラストをクリックしてみよう!)  お次はマレーシアにある古都マラッカ。名物チキンライスは少年たちも食べたでしょうか。ゴアに向かう航海中のインド洋上で、タイ、マグロ、カツオを釣って遊んでいた少年たち。時には、その釣り糸で鳥も捕まえていたそうです。  モザンビークから喜望峰をグルリと回った大西洋にあるセント・ヘレナ島は、かの有名なナポレオンが幽閉された島。この島では初めて食べる果物を体験したとか。やっとのことでリスボンへと到着。リスボンのアルデアガレの司教ドン・テオトニに招かれたディナーでは、とれたてのエビをつまみにワインを堪能。  一行はポルトガルからスペインを横断し、さあ、いよいよイタリアへ。ピサの斜塔は、彼らが訪れた頃もすでに傾いていたらしい。ここで行われたトスカーナ大公妃主催の舞踏会でのエピソード。社交ダンスを踊ることになってしまったジュリアンが、緊張のあまり、声をかけたのは老婦人!!まわりはなごやかな笑いに包まれたとか。  ジュリアンを除く3人は、群衆のなかを、和服で正装し、灰色に金のリボンと白い羽が付いたイタリア風の帽子というファッションで堂々と行進し、ヴァチカン宮殿の「帝王の間」でローマ教皇グレゴリウス13世と感動の謁見。用意してきた手紙を読み、狩野派が描いた織田信長の安土城の屏風を渡し、旅一番の大仕事をこなしました。その時のファッションをイラストにしてみました。  ヴェネツィア、ミラノ各地でも熱狂的な歓迎を受けた少年たちは、再びポルトガルへ。コインブラでの司教の招きによる晩餐会は、かなりゴージャスなディナーだったらしいです。魚釣りや野原でのウサギ狩りに雷鳥狩り、もちろん食材としてテーブルに並んだのでしょう。長崎名物「カステラ」の原型と言われるパン・デ・ローも食べたかもしれないし!当時ヨーロッパでは、彼らの登場で日本ブームが湧き起こったというから、はるばる東洋からやってきた日本人の珍しさに、その待遇はVIPの域だったにちがいありませんね。長崎を出発してから8年5ヶ月の歳月が流れ、1590年に4人は日本へと帰港しました。 参考資料 ローマを見た 天正少年使節』結城了悟著 日本二十六聖人記念館刊 1982年発行
  • 旧石器時代から弥生時代まで 2010年06月23日
    旧石器時代から弥生時代まで
    旅する長崎学オリジナル年表の【旧石器時代から弥生時代まで】を確認する
  • 島原半島の情景〜らしい風景、ならではの風景〜 2009年11月18日
    島原半島の情景〜らしい風景、ならではの風景〜
    イルカウォッチング動画 長崎県南島原市加津佐町の早崎海峡には、約300頭のイルカが定住しています。イルカの数は年間を通して変わりません。自然のままのイルカをみることができます。 イルカウォッチングの動画を見る 撮影協力:かづさイルカウォッチング 参考資料 『book/modern/10.php">旅する長崎学10  近代化ものがたりIV 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 取材協力 島原半島ジオパーク推進連絡協議会事務局 島原城天守閣事務所 かづさイルカウォッチング 島原城薪能振興会
  • 第7回 殉教の足跡を探して 2007年07月04日
    第7回 殉教の足跡を探して
     17世紀、徳川幕府を震撼させた日本最大の一揆「島原の乱」。飢饉と凶作のなかでの重税、築城のための過重な負担、幕府の禁教令によるキリシタンへの拷問などなど、耐えるだけ耐えた島原・天草の領民たちの苦しみは怒りへと変わりました。 キリスト教の棄教を迫る厳しい拷問のはじまり、島原の乱の原因となった背景、天草四郎率いる一揆軍が原城へと篭城するまでの歴史を追いかけます。  雲仙岳の麓にある小浜からスタートして雲仙・島原・天草を巡り、島原の乱が勃発したきっかけを掴む今回の旅。訪れる先は、いまは風光明媚な温泉の名所ばかり。車とフェリーを乗り継いで、湯ったりのんびり歴史と温泉の旅を満喫しましょう! 歴史のとびら  豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康へと政治の主導権が移りました。家康は慶長8年(1603)に江戸幕府を開き強力な幕藩体制を確立していきます。当初、キリスト教の布教に寛大だった幕府は、布教を条件とするポルトガルとの貿易に対して不信感を持ち、増え続ける日本のキリシタンたちに脅威を抱くようになりました。特に、西日本を中心に増えるキリシタンが豊臣方の残党勢力が結束するのを恐れ、ついに幕府は禁教令を発布。1612年には天領に、そして1614年には全国に広げ、キリシタン摘発がおこなわれます。  1637年、このような厳しい拷問が続くなか、これに追いうちをかけるように天災、飢饉・凶作・重税などが島原半島と天草の領民を苦しめていました。同年、妊婦を拷問死させた事件や、代官が聖画像を踏みにじる事件が相次いで起こり、領民たちは激昂。おさまらない怒りに次々と島原半島南部の代官を襲いました。そして、島原半島と天草の間に浮かぶ湯島で、一揆軍の首謀者が密かに集まってキリシタンであることを表明し合い、天草四郎を総大将に蜂起することを誓った「湯島の談合」とよばれる密談がおこなわれました。一揆軍は数日後には島原城下を焼き払い、森岳城(島原城)を攻撃するも落城できず。天草では、本渡瀬で一揆軍と幕府の唐津軍が合戦、そして富岡城の総攻撃、最後の砦の本丸を陥落できず。城を落とせなかった島原と天草の領民ら約3万7千人(約2万7千人ともいわれる)は、廃城となっていた“原城”へと向かい籠城。一揆軍は若干16、17歳の天草四郎を総大将にポルトガルからの援軍を待ちながら、幕府の攻撃に耐えていました。悲愴なまでの覚悟を胸に、幕府という強大な権力に立ち向かった一揆軍の魂を感じる歴史の旅がはじまります。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1泊2日(車) 1小浜町歴史資料館(湯太夫跡) ↓車で30分 2雲仙教会(雲仙市小浜町雲仙) ↓車で3分 3雲仙地獄(雲仙市小浜町雲仙) ↓車で40分 4島原城(島原市) ↓ 車で30分→フェリー(須川港−湯島)で約30分 5湯島(熊本県上天草市) ↓→フェリー(湯島-三角)で約70分→車で60分 6天草切支丹館(熊本県天草市) ↓車で40分 7殉教公園(熊本県天草市) ↓車で約40分 8富岡城跡(熊本県天草郡) 1小浜町歴史資料館(湯太夫跡) 森岳城(島原城)の門が残る湯の町・小浜  今回の旅は、雲仙への登山口でもある温泉郷・小浜からスタート。雲仙地獄での厳しい拷問をおこなった島原藩主 松倉重政は、長崎からの帰り道にこの小浜の温泉の入浴を楽しんでいる最中に、長崎奉行の刺客に暗殺されたといわれています。また、小浜地域の民話では、島原の乱勃発直前に天草四郎一行がこの辺りの温泉に立ち寄ったとも伝えられています。史郎は、戦を前にして、小浜の温泉で何を思っていたのでしょうか。島原の乱には、小浜の領民の多くが参加したそうです。(写真は小浜温泉街(長崎県観光連盟)  当時の様子を詳しく知るために、築160年を誇る温泉の番人 本多家の屋敷を利用した小浜町歴史資料館を訪れました。館内には小浜温泉を発展させた本多家の業績のほかに、島原の乱が起こったときの小浜の様子などが展示されています。資料館の入口には、明治維新の際に森岳城(島原城)解体で買い取ったという門が残っていました。この門を挟んで一揆軍と幕府軍が攻防を繰り返したのかもしれません。中庭には、昔から親しまれていた足湯や、武士や藩士が宿泊して湯地できる施設さむらい小屋などがあって、今では家族風呂として楽しめるそうですよ。 旅人コメント 「公民館の向かいにある「上の川湧水」に行ってみて!ここはキリシタン殉教の秘話に登場する湧水だそうです。」(茜) 「小浜の小さい路地を散策していたら発見しました『炭酸泉』。ボコボコと音をたてながら湧いています。熱いのかなと思って手を入れたら冷たかったのでビックリ! 肌によさそうね!」(芳乃) 2雲仙教会 殉教者に捧げられた教会  小浜から車で山道をうねうねと登ると、閑静な山あいに雲仙教会があります。日光に反射する赤レンガが特徴です。この教会は、雲仙地獄で長期間の拷問に耐えた後、長崎にある西坂の丘で火あぶりの刑に処せられた殉教者・アントニオ石田神父らに捧げるため、1981年に建てられました。毎年5月には殉教祭がおこなわれ、多くの巡礼者や観光客が訪れて、静かに祈りを捧げています。 3雲仙地獄 多くのキリシタンが殉教した文字通りの地獄  雲仙教会からさらに山手へ車を進めると、雲仙地獄に到着。立ち上る湯気と硫黄の独特なにおい、無骨な岩がゴロゴロしている光景はまさに「地獄」の様相です! 1627年、なんとこの熱湯煮えたぎる地獄にキリシタンを浸けては引き上げるという非道な拷問が始まります。幕府の禁教令に従ってキリスト教を棄教させるためとは言え、悲しい出来事です…。2007年6月1日、正式に列福が決まった「ペトロ岐部と187殉教者」のなかには、キリシタン大名の有馬晴信に仕え身分の高い武士だった内堀作右衛門をはじめとする雲仙で殉教した29名も含まれています。  時代は変わって明治になると、雲仙は外国人の避暑地として賑わいました。ゴルフやテニスといった当時ハイカラなスポーツが楽しめる温泉街。四季折々に楽しめる懐深い雲仙の自然は、日本で初めて国立公園の指定を受けました。 旅人コメント 「この看板を見て!私も大好きなんです。硫黄の燻製みたいな感じでおいしいんですよ。雲仙でしか味わえないタマゴです。」(温泉博士) 4島原城(森岳城) 一揆軍の攻撃を跳ね返した難攻不落の城  この島原城(森岳城)は、藩主・松倉重政が1624年の完成までに7年の歳月を費やしました。石高4万石に対して立派すぎる城郭建築のための重税と労役が、ゆくゆくは島原の乱を招くことになりました。湯島の談合の2日後、い1637年旧暦の10月26日に、一揆軍は総攻撃を仕掛けましたが、ついに落城できませんでした。  激戦の跡を、館内に展示された資料が物語っています。現在の城郭は、戦後に復元されたもの。湧水の豊かな島原! お城近くの店では、島原名物の“具雑煮”や夏限定の和のスイーツ“かんざらし”をいただくことができますよ。 旅人コメント 「城内に天草四郎の像を発見! 島原の一揆軍が籠城して最期を迎えたのが島原城だと勘違いしている人も多いとか・・。」(千秋) 5湯島  雲仙から県道132号線を通って南島原市西有家町の須川港から湯島商船のフェリーに乗って、天草の湯島へと渡りましょう。  目の前にぽっかりと浮かぶ「湯島」が見えてきますよ。この島は島原の乱 一揆軍の密やかな作戦会議の場となったことから「談合島」ともよばれます。1637年旧暦の10月、島原と天草の首謀者たちがこの湯島に集まり、一揆の計画を企てました。この密談で、若き天草四郎が一揆軍の総大将として決定しました。談合の翌日、一揆軍は、島原藩の代官 林兵左衛門を殺害し、2日後には森岳城(島原城)を攻めました。島原藩、幕府という強大な敵に立ち向かう時、彼らの心中にはどんな思いが交錯したのでしょうか。ちなみに湯島へは熊本の三角港から湯島商船の船で渡ることができます。夏には鯛釣り大会で賑わっています。  静かに浮かぶ湯島を見つめながら、今度は天草の一揆をたどってみましょう。 三角から天草パールラインを通る途中にある天草四郎公園(上天草市の大矢野島) で、1637年旧暦の10月28日に一揆軍がノロシを挙げました。ここからも湯島が見えますよ。一揆軍は徐々に上島から南下して、11月14日に本渡瀬戸の合戦、11月19日に富岡城まで攻め込みます。この距離を車で走るだけでも、その凄まじい勢いが伝わってきます 7殉教公園 一揆軍の武勇を伝える資料館と史跡のある殉教公園 ○天草切支丹資料館  島原の乱における天草最大の激戦地、本渡の町へ来ました。乱で使用されたキリシタンの品々を展示している天草切支丹館。現在は本渡歴史民俗資料館に移転され、仮館として開設しています(*)。館内のスタッフさんが話してくれる見事な島原の乱の物語を聞きながら、天草四郎陣中旗など貴重な資料を拝見。天草での一揆軍の勢いが、リアルに感じられるスポットです。 *現在、天草切支丹館は改装工事のため、天草市今釜新町にある本渡歴史民俗資料館の1階に移転しています。完成の予定は平成21年頃です。 ○殉教戦千人塚とキリシタン墓地(殉教公園)  本渡の町が一望できる高台にある殉教公園は、天草氏の本渡城があった場所です。ここは、16世紀に宣教師を招いて天草氏やその家臣たちが洗礼を受けたといわれている城の跡なのです。公園内に建つ殉教戦千人塚は、1637年旧暦11月、天草四郎率いる7千人のキリシタンと、幕府の唐津軍約2万5千人が本渡で激突した時に、命を落とした人たちを手厚く祀った地蔵堂を各所から集めてひとつにしたものです。  もう少し上の方へ歩いていくと、芝生の上に無数の白い十字架が並んだキリシタン墓地があります。ここで、日本で初めて西洋医学を伝えた宣教師ルイス・デ・アルメイダの記念碑を発見しました。長崎での布教にも活躍したアルメイダは、1583年、58歳のときにこの天草の地で亡くなったのですね。 旅人コメント 「天草四郎の像をここでも発見しました!九州には何体の像があるんでしょうね?」(バンブー) 8富岡城跡 一揆軍が攻めあぐねた山城  この旅の最後に訪れたのは富岡城跡です。一揆軍は、この城に総攻撃をかけ攻めたてたものの、ついに落とせず、これが戦局のターニングポイントになったという城です。城下には島原の乱の戦闘で命を落としたキリシタンを祀ったという首塚(千人塚)があり、戦いの凄惨さがひしひしと感じられます。  城郭は現在改修中。天守閣付近からは、青く美しい天草灘をぐるりと見渡せて、抜群の眺望が楽しめます。特に夕暮れ時は最高! 珍しい天草の海中生物などを展示している富岡ビジターセンターもありますよ。 参考文献 『旅する長崎学1 キリシタン文化1』 特集2-第2章 アルメイダとヴィレラの足跡 長崎における布教と教会建設 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 特集2-第5章 雲仙地獄の拷問 そして絵踏みは始まった… 特集2 幕府をゆるがせた123日-島原の乱 『旅する長崎学6 キリシタン文化 別冊総集編』 第4章 キリシタン受難そして島原の乱 島原半島 スタート地点までのアクセス 小浜町歴史資料館(湯太夫) 所在 長崎県雲仙市小浜町北本町923-1 お問い合わせ TEL/0957-75-0858 開館時間 9:00〜18:00 休館日 月曜日 年末年始(12月29日〜1月3日) 料金 100円(小学生以下無料) 駐車場 11台 アクセス 車…国道57線より伊勢屋旅館先を左折、つきあたりを右へ約50m(諫早ICより50分) バス…島鉄バス[島原・雲仙・愛野駅・諫早線]《西登山口》より徒歩3分、長崎空港から約70分、諫早駅より約40分 ● 長崎空港、島鉄バスのバス停[小浜]までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。