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県南エリア

  • 第6回 島原半島ジオパークへの招待 2009年11月04日
    第6回 島原半島ジオパークへの招待
     このコーナーでは、長崎県内の歴史を探っていく旅のドライブルートを紹介しています。  今回の旅の必携アイテムは『旅する長崎学3』と 『旅する長崎学10』です。  今月の注目エリアは『島原半島』。2009年(平成21)8月22日、「島原半島ジオパーク」の“世界ジオパークネットワーク”への加盟が正式決定しました。“地質の世界遺産”ともいわれるジオパークに、日本で初めて認定されたということで、いま話題の島原半島を旅します。  島原半島の位置はみんなわかるかな?  では、ジオパークはどう? 世界遺産にくらべるとまだ歴史が浅いので、よく知らないっていう人も結構いるかもしれませんね。まずは、島原半島やジオパークをチェックしておこう! 島原半島の紹介 島原半島ジオパークって? 島原半島へ行く 一緒に旅をしてくれるのは、島原半島3市でそれぞれ活躍しているキャラクターたち。 島原市の「しまたろう」くん、南島原市の「六兵衛」さん そして雲仙市の「おゆっぴー」です。 今回のドライブルート 1日目千々石展望台(ちぢわてんぼうだい)・千々石海水浴場(ちぢわかいすいよくじょう)・千々石断層(ちぢわだんそう) ↓車で約15分 雲仙国立公園 ↓車で約30分 小浜温泉・小浜資料館(おばましりょうかん) ↓車で約25分 2日目 国崎半島自然公園(くにさきはんとうしぜんこうえん) ↓車で約20分 原城跡(はらじょうあと) ↓車で約30分 道の駅 みずなし本陣(ほんじん)ふかえ ↓車で約2分 雲仙岳災害記念館(うんぜんだけさいがいきねんかん) ↓車で約20分 平成新山(へいせいしんざん)ネイチャーセンター ↓車で約20分 島原城(しまばらじょう) ↓車で約20分 武家屋敷(ぶけやしき) ↓車で約5分 百花台公園(ひゃっかだいこうえん) ↓車で約3分 神代小路(こうじろくうじ)・鍋島邸(なべしまてい) スポットの紹介 1日目 千々石展望台(ちぢわてんぼうだい)・千々石海水浴場(ちぢわかいすいよくじょう)・千々石断層(ちぢわだんそう)  雲仙地溝の北の縁にある正断層。深く内陸側に入り込んだ海岸線が、高さ十数メートルの切り立った崖によって、見事に断ち切られています。島原半島の成り立ちとしても重要な場所のひとつ、「千々石断層」です。展望台はこの崖の上にあります。  千々石展望台には、長崎を代表するカステラをはじめ土産品がたくさん揃っており、多くの観光客が立ち寄り賑わっています。島原半島の大地で育ったジャガイモでつくる「じゃがちゃん」が名物! 日本景観百選の地にも選ばれた美しい橘湾の海原を眺めながら、「じゃがちゃん」を味わおう! 雲仙国立公園(うんぜんこくりつこうえん)  四季折々の自然はもちろん、地獄や温泉など魅力がいっぱいの雲仙。歴史的には、キリシタン殉教地としての悲しい歩みもありましたが、明治時代からは多くの外国人観光客が避暑に訪れて賑わい、いまもレトロな雰囲気が残ります。  次週の「テーマで歩く歴史散策」で詳しく紹介しますので、お楽しみに! 小浜温泉・小浜資料館(おばましりょうかん)  713年(和銅6)、「肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)」に“高来(たかく)の峰の西南より、温泉の湧出するのが見ゆ”と記されており、古くから知られた温泉場です。  1614年(慶長16)、浜に湯小屋が建てられた当時は、現在の小浜資料館・旧本多湯太夫邸下に浜湯があり、あちこちで湯気が湧く海岸だったといいます。その浜を1895年(明治28)に埋め立て、現在の小浜温泉街の礎ができました。  小浜資料館は、築160年の湯太夫(ゆだゆう)展示館、歴史資料展示館、さむらい小屋、足湯などの施設に分かれており、小浜の歴史を知ることができます。また施設内には、1944年(昭和19)に掘られた源泉もあります。  小浜の歴史を堪能した後は、ゆっくり足湯につかって旅の疲れを癒してください。 ■開館時間:午前9時から午後6時(入館は午後5時まで) ■休館日 :月曜日、年末・年始(12月29日〜1月3日) ■入館料 :100円(小学生以上) ■駐車場 :無料 ちゃんぽんの町  小浜は、知る人ぞ知る“ちゃんぽんの町”! 大抵のお店でちゃんぽんが食べられるんです。なんと、お寿司やさんにもちゃんぽんがあるんだよ!  さあ、「ちゃんぽんマップ」を持って、いろんなちゃんぽんに出会おう! 2日目 国崎半島自然公園(くにさきはんとうしぜんこうえん)  橘湾に細長く突き出した国崎半島。小規模ながら1970年(昭和45)に県立自然公園に指定されています。  国崎半島には250万年前に噴火した安山岩の溶岩や凝灰岩が分布しており、奥の方へ進んだ海岸沿いで、その姿を間近に見ることができます。 原城跡(はらじょうあと)  島原半島の南部に位置し、1496年(明応5)に日野江城(ひのえじょう)の支城として有馬貴純(ありまたかずみ)によって築かれたといわれます。  原城跡は、標高20mほどの高台が有明海に突き出た場所にあります。この地形は、約9万年前の阿蘇火山の大噴火に伴う大火砕流が、有明海を渡ってこの地まで流れてきたことによって作られた台地で、三方を海に囲まれたこの高台は、まさに難攻不落の天然の要塞でした。この地形を利用して、有馬家はこの地に原城を築きました。  この丘陵に本丸、二の丸、三の丸、出丸、天草丸などで構成された、長崎県内でも最大の平山城が築かれたのです。  江戸時代初期に勃発した「島原の乱」の最後の舞台となった場所です。1638年1月(寛永14年12月)、天草の領民を含む3万7千人(2万7千人ともいわれる)が、一国一城制で廃城になっていた原城に立てこもりました。88日間に及ぶ籠城の末、ついにこの地で島原の乱は終焉を迎えました。 #10" class="btn basic_btn">水の都とは? 百花台公園(ひゃっかだいこうえん)    雲仙岳を背景にした百花台公園は、木々や花々の自然が美しく、澄んだ空気に包まれる、とても気持ちのいいところです。  ゆっくりと深呼吸したくなる森林公園で、大自然をたっぷり満喫できます。子どもたちに大人気の遊戯施設やスポーツ施設もあるので、家族や友達と自然のなかで思いっきりはしゃぐこともできます。 神代小路(こうじろくうじ)・鍋島邸(なべしまてい)  中世の頃、現在の雲仙市国見町あたりには、神代(こうじろ)氏が住んでいました。この神代氏の最後の領主貴茂(たかしげ)は、1577年(天正5)に佐賀の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が島原の有馬氏を攻めた時、龍造寺側について有馬勢と戦いました。このときから佐賀と神代の特殊な関係が生まれました。  1584年(天正12)、有馬勢と戦っていた龍造寺隆信が島原郊外の沖田畷(おきたなわて)で戦死すると、島原半島における龍造寺の勢力はなくなりました。この混乱の中で神代氏は滅亡し、島原半島は有馬氏が完全に支配しました。  龍造寺家では、家臣の鍋島直茂(なべしまなおしげ)が実権を握ることとなり、東神代村・西神代村(現在の雲仙市国見町)・伊古(いこ)村・古部(こべ)村(現在の雲仙市瑞穂町)の4村を領有しました。そして龍造寺高房(たかふさ)の遺領を継承し、直茂の子・勝茂(かつしげ)の時に佐賀鍋島藩35万7,000石が誕生。直茂の兄・信房(のぶふさ)が神代鍋島家として所領します。  この地域は17世紀後半、鍋島嵩就(なべしまたかなり)によって、みのつる川の自然堆積地を中心に造成工事がおこなわれ、計画的に武家町が形成されていきました。  現在に至るまで様々な土地の変化はありましたが、江戸時代の地区割りがほぼそのまま残され、地域住民の皆さんのふるさとを愛する気持ちに支えられ、修理や復旧によって武家町の姿は守られてきました(国の重要伝統的建造物群保存地区に指定)。今でも鍋島邸(国の重要文化財に指定)を中心とした水路や生垣、石垣など多くの遺構に、当時の町並みの面影を見ることができます。 ■開館時間:午前10時から午後5時 ■休館日 :毎週月曜日・年末年始(都合により変更あり) ■入館料 :大人200円(団体150円)、小中高生150円(団体120円)、身障者の方100円 ■駐車場 :無料 参考資料 『旅する長崎学3 キリシタン文化III』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学10 近代化ものがたりIV』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 郷土史事典(長崎県/石田 保著/昌平社出版) 取材協力 島原半島ジオパーク推進連絡協議会事務局 小浜温泉観光協会 島原城天守閣事務所 道の駅みずなし本陣 雲仙岳災害記念館 平成新山ネイチャーセンター
  • 口之津歴史民俗資料館・海の資料館 2014年03月24日
    口之津歴史民俗資料館・海の資料館
    口之津歴史民俗資料館・海の資料館  口之津町(くちのつちょう)は、島原半島の南端にあった町で、船員の町としても知られています。(2006年(平成18)3月31日、周辺7町と対等合併し、南島原市となりました)  口之津という地は、これまでの歴史のなかで、日本一の賑わいが3度あった特別な地でもあります。とても興味深い歴史に出会えそうですね。早速、館内へ入ってみましょう! 海の資料館〜港町として幾度も発展を遂げた町〜  口之津は現在に至るまで、天然の良港を中心として発展してきました。  約440年前、有馬氏が統治していた時代にはポルトガル船が入港し、アルメイダ、フロイス、トルレス、ヴァリニャーノなど多くの宣教師や商人が訪れ、教会や病院、学校(セミナリヨ)などが建てられました。  そして明治時代には、三井の三池石炭の海外積み出し港として賑わいました。この当時は、石炭の積込人夫として、与論島(よろんじま:鹿児島県最南端の島)などから口之津へ移住してくるほどでした。別館で展示している「からゆきさん」もこの時代になります。島原や天草の農民は貧しく、自分の娘を売らなければ生活していけないほどであったといわれています。遠く中国や東南アジア各地へ売られていった娘たちのことを「からゆきさん」とよんでいます。映画「まぼろしの邪馬台国」の中で吉永小百合さんが歌っていた「島原の子守唄」は、宮崎康平氏が作詞作曲した唄で、からゆきさんのことが歌われています。この資料館では、ビデオ上映もしています。  大牟田に三池築港が完成した後は、急激に衰微しますが、大正・昭和時代の口之津の就業人口の30%以上が外国航路の乗組員になっており、全国一を誇る「外航船の船員の町」として知られました。1954年(昭和29)には国立口之津海員学校が設立され、港には2000トン級の船舶が横づけできるよう岸壁も完成しました。  この資料館では、カナダ移民第1号の永野万蔵(ながの まんぞう)氏や世界で初めて魚群探知機を開発した世界のフルノ・古野電機の創業者・古野清孝氏の資料もあります。古野清孝氏は、1938年(昭和13)に口之津で創業し、漁船などの電気工事やラジオの修理などを手がけていました。  1878年(明治11)に長崎税関口之津支庁として開設しましたが、手狭になったため、1899年(明治32)に新築されました。口之津町唯一の明治洋風建物で、1980年(昭和55)に国より払い下げを受けています。この旧長崎税関跡では、昔の商家や生活用具、古文書、昔の教科書・新聞、税関に関連する資料が展示されています。  与論館では、口之津が三池石炭の海外積み出し港として賑わっていた1899年(明治32)、石炭積出労務に従事し口之津の繁栄の一端を支えてくれた与論島の方々が使っていた住宅を縮小再現しています。また与論との縁を物語るさまざまな資料も展示されています。    またこの資料館では、時間が合えば館長自らが館内をわかりやすく案内してくれます。口之津の歴史がよりわかりやすいと好評で、リピーターやクチコミで広まっているそうです。  島原半島を訪れたら、必ず立ち寄ってほしい資料館です。 口之津歴史民俗資料館・海の資料館 南島原市口之津町甲16番7 TEL:050-3381-5089 FAX:0957-86-4880 【開館時間】9:00〜17:00 【休館日】月曜日及び12月29日〜1月3日 【料金】  ●個人  一般:200円、高校生:150円、小中学生:100円  ●団体(20人以上)   一般:150円、高校生:100円、小中学生:70円 URL: http://www.city.minamishimabara.lg.jp/kiji/pub/detail.aspx?c_id=54&id=72&pg=1
  • 原城跡発掘出土品展示室 2014年03月24日
    原城跡発掘出土品展示室
    原城跡発掘出土品展示室  島原の乱で知られる原城跡にやってきました!  ここから出土した十字架やロザリオなど貴重な遺物は、すぐ近くにある原城文化センター内の展示室で見られるというのです!  私たちのように、原城跡を訪れ、当時のことをもっと知りたいという方、この展示室に来ませんか?  早速これから原城跡発掘出土品展示室へむかいます!  原城跡で発掘された十字架やロザリオなどの貴重な遺物は、この原城文化センター内の一室に展示されています。  遺物の中には、有馬氏の統治時代の城郭に使われていたであろうといわれる瓦や鬼瓦、使用されていた陶磁器などもあり、当時の生活の一部を見ることができます。  2004年度(平成16)の発掘調査で本丸最北部の登城用通路下から発見された、本丸大手門跡の地表や石垣のレプリカも設置されています。  島原の乱当時の地表付近には焼けた瓦や人骨もあり、その上に石垣などが埋められていたといいます。  原城は島原の乱より以前にすでに取り壊されていたといわれていましたが、これまでの説とは異なり、乱が終結した後に、徹底的に壊されたという状況がわかりました。 島原の乱・原城について  島原半島の南部に位置し、1496年(明応5)に日野江城(ひのえじょう)の支城として有馬貴純(ありまたかずみ)によって築かれたといわれます。  原城跡は、標高20mほどの高台が有明海に突き出た場所にあり、約9万年前の阿蘇火山の大噴火に伴う大火砕流が、有明海を渡ってこの地まで流れてきたことによって作られた台地といわれています。  三方を海に囲まれたこの高台は、まさに難攻不落の天然の要塞でした。この地形を利用して、有馬家はこの地に原城を築きました。  この丘陵に本丸、二の丸、三の丸、出丸、天草丸などで構成された、長崎県内でも最大の平山城が築かれました。  江戸時代初期に勃発した「島原の乱」の最後の舞台となった場所です。1638年1月(寛永14年12月)、天草の領民を含む3万7千人(2万7千人とも いわれる)が、一国一城制で廃城になっていた原城に立てこもりました。88日間に及ぶ籠城の末、ついにこの地で島原の乱は終焉を迎えました。    私たちとは逆に、原城跡発掘出土品展示室で遺物や資料を先に 見て、原城跡も行きたくなってしまうという方もいると思います。車で数分のところに原城跡がありますので、ぜひとも展示室と原城跡両方を訪れてみてください。  展示室や原城跡をガイドしてくれる地元の方々もいらっしゃいます。もっと詳しい話を聞くことができますので、お気軽にお問い合わせください。   ◇お問い合わせ先 南島原ひまわり観光協会 〒859-2504 長崎県南島原市口之津町丙4252番地 南島原市口之津庁舎 別館2階 電話:0957-76-1800 FAX:0957-76-1801 原城一揆まつり  2011年4月16日(土)、原城本丸および周辺において、開催されます。  「島原の乱」終焉の地である原城跡で4万人を超える犠牲者の追悼と原城跡を顕彰するイベントです。「島原の乱」殉難者を追悼するために、市民や一般参加者による提灯追悼行列が行われます。  お昼の部では「島原の乱」で原城跡に籠城した天草四郎をはじめとする一揆衆が、幕府軍との攻防の末に落城する様子を再現した地元中学生による演舞「落城の賦」も行われます。  まつりのメーンとして、「島原の乱」で犠牲となった4万人を超える殉難者をキャンドルの炎で追悼します。原城跡周辺にはキャンドルが並べられ、幽玄な炎で包まれた原城跡は来る人に感動を与えます。  会場には原城一揆まつりのシンボルで、地域住民の手作りによる高さ15メートルの城が、幻の『一夜城』として出現します。 原城跡発掘出土品展示室(原城文化センター内) 南島原市南有馬町乙1374   見学自由(入館無料) 【開館時間】午前9時から午後5時まで 【休館日】毎週月曜日、年末年始  【問い合せ先】  原城文化センター TEL:0957-85-3217  南島原ひまわり観光協会 TEL:0957-76-1800   URL: http://himawari-kankou.jp/
  • 島原半島ジオパークを知ろう! 2014年03月28日
    島原半島ジオパークを知ろう!
    "島原半島ジオパーク"って知ってる?  2009年(平成21)8月22日、中国泰安市で開催された世界ジオパーク事務局会議において、「島原半島ジオパーク」「糸魚川(いといがわ)ジオパーク」「洞爺湖(とうやこ)有珠(うす)山ジオパーク」の3つが、日本国内で初めて世界ジオパークネットワークへの加盟が認められ、「世界ジオパーク」として認定されました。  さて、この『ジオパーク』って一体何なのでしょうか?  島原半島ジオパーク事務局を訪ねて、いろいろと聞いてきました。 ジオパークとは?  ジオパークという言葉は、「ジオ」という言葉と「パーク」という、二つの言葉でつくられています。    「ジオ」は“地形や地質”を意味し、「パーク」は“公園”を意味します。よって、ジオパークを日本語にすれば、「大地のなりたちや地形・地質をテーマにした自然公園」と言えます。あたかも地域全体を一つの「自然の博物館」と捉え、そこに含まれる自然景観(地形)、地質、動植物といった自然環境、そしてそれらを利用している人々の暮らし、歴史、文化を「展示物」と見なした、テーマパークのようなものです。 水無川から見た平成新山 国崎半島自然公園の断層 原城跡 世界遺産とはどう違うのですか?  世界遺産は、すぐれた文化遺産や自然遺産を人類の宝物として保護することを目的としていますが、ジオパークは、貴重な地形や地層などを保護しながら、地域の科学・防災教育や地域振興に活用することを目的としています。 ジオパークとして認められる基準はあるのですか?  ジオパークになるための大まかな条件は、以下の4つです。   1.学術的に貴重な地形・地質遺産や美しい自然環境が複数あること 2.それらが保護されていること 3.それらをうまく利用した人々の暮らしや歴史があること 4.それらの貴重さやすばらしさを、誰もが学習し、観光地として楽しむことができるしくみが整備されていること    さらに、これらを長年継続していけるような組織も必要です。    ジオパークとして認定されるための地域整備を行うと、どのような効果があるのでしょうか。まず、地球科学的遺産の保護とそれらの貴重さの啓蒙活動により、地域の自然環境の保全と、その意義を後世に伝えるための仕組み作りが進みます。次に、地球科学的遺産を用いた教育普及活動をすすめる事により、子供達をはじめ、住民全体が、自らの郷土のすばらしさを再認識し、郷土に誇りと自信を持つ事ができます。さらに、これらの貴重さを一つのセールスポイントとしてし、地域のPRを勧めていくことにより、地域が国内外から注目され、観光客が増加し、地域経済の活性化に繋がる、と期待されます。 島原半島ジオパークとして、現在どのような活動をしていますか? はだしであそぼう雲仙  島原半島3市の市報などの紙面を活用して、ジオパークの意義や取り組みを広くお知らせしています。また、ウェブでは各種イベントの案内や、その様子を伝えています。  >> 島原半島ジオパーク 公式ホームページ  いま人気があるイベントは、「ジオツアー」とよばれる地形・地層の見学をメインとした小旅行です。地形・地質の専門家やボランティアガイドの方々が、島原半島のみどころをわかりやすく解説します。ほかにも、地元の産物の収穫体験や、湯せんぺい、手延べそうめんなどの特産品の制作体験ができるコースも用意されています。  雲仙火山が長年かけて堆積させた地層によって濾過され、湧き出たきれいな地下z水が美味しいそうめんを作り、また火山灰と温暖湿潤な気候が肥沃な大地を産み、じゃがいもを育ててくれる。これらを見学・体験することで、島原半島ジオパークの魅力を、存分に堪能することができます。  >> イベント情報について 【島原半島ジオパーク公式サイトへ】  最近作成されたパンフレットに、オススメのコースとして、車で半島内を移動しながら「ジオサイト」を巡る「ジオさらくコース」が掲載されています。「ジオサイト」とは、島原半島内に点在している地形や地層を観察・体験できる場所のことですが、平成の噴火や島原大変、温泉・断層、島原半島の成り立ちをたどるなど、充実したコースが紹介されています。  今回の島原半島めぐりで立ち寄った温泉も、古くからの火山活動によるもの! まさにジオパークのひとつのかたちです。“ジオサイト”だと意識しながらお湯につかると、地球に抱かれたような気分がしてきて、また違った感じのリラックスができますよ。島原半島には、「島原温泉」「雲仙温泉」「小浜温泉」と3つの有名な温泉がありますが、その泉質と効用もそれぞれ異なります。島原半島を旅するなら、島原・雲仙・小浜と3泊して、すべての温泉と食べ物をゆったり味わいながら、豊かな自然や歴史を“ジオパーク”という切り口でじっくりと堪能してみてください。 島原温泉 雲仙温泉 小浜温泉 島原中心街にある「ゆとろぎの湯」は飲める温泉。駐車場にある足湯のそば。 慢性消化器病、糖尿病、痛風、肝臓病に効果があると言われています。 雲仙は泉質的に強い酸性をもっているので、殺菌効果があります。湿疹やしもやけ、切傷などの皮膚病全般に効果があります。また美肌効果もあり、慢性のリューマチ、糖尿病、神経痛、筋肉痛、関節痛、疲労回復、健康増進にも適していると言われています。 小浜温泉は、入浴後も熱の発散を防ぎ、皮膚に軽い刺激を与えるので、新陳代謝を促して皮膚の抵抗力を強めてくれます。リューマチ・神経痛に効果があると言われます。 参考資料 島原半島ジオパーク推進連絡協議会事務局 島原半島ジオパークパンフレット『ジオパークってなに?』
  • 島原藩2 2014年03月28日
    島原藩2
      1853年(嘉永6)、ペリーの来航以降、長崎港にも異国船が頻繁に訪れました。そのたび島原藩は、警備のために兵を長崎へ送ったり、藩主自らの長崎巡見などを行いました。しかし藩費はかさむばかりでした。また島原では流行病が発生し、領内で6百人を超える死者が出たといわれています。 1862年(文久2)、藩主・忠愛(ただちか)が嗣子無くして急死したため、急遽密かに水戸・徳川斉昭(なりあき)の十六男として生まれた松平忠和(ただかず)が養子となり、最後の島原藩主となりました。 島原藩幕末の志士たち 激動する政局のなか、島原藩にも尊王攘夷の思想を持った志士がいました。丸山作楽(さくら)、半田清直、梅村真守(まもり)、石田貞幹(さだもと)、尾崎靖(やすし)、保母建(ほぼたけし)、伊藤益荒などが攘夷運動を展開していました。 島原藩主の交代により、梅村真守らは攘夷を建言しますが、松平忠和は江戸幕府最後の将軍となる慶喜の実弟であったため、幕末は特に佐幕思想が強くなり、多くの尊王攘夷派が処罰を受けました。 志士らは、平田篤胤(あつたね)の後継者・平田 銕胤(かねたね)について国学を学び、文武修行の名義で上京し、他藩の攘夷派と交流を深めました。 その後保母建と石田貞幹、尾崎靖は、尊王攘夷派の武装集団・大和天誅組(てんちゅうぐみ)に加わり、幕府軍と戦いましたが、保母建は紀州兵に囲まれ自首、尾崎靖は津藩兵に捕まるなどして最終的に獄死しました。また梅村真守と伊藤益荒は水戸藩の天狗党(てんぐとう)に参加しましたが、内紛なども起こり、本隊から離れ各地を転戦しましたが、二人とも戦死しました。 神習処跡 かねて禁門警備にあたっていた丸山作楽は、八月十八日の政変により長州藩など京都の尊王攘夷派が一掃され、公武合体派の勢力が強まったため、島原藩に戻りました。そして1863年(文久3)に上新丁(武家屋敷跡近く)に私塾・神習処(かんならいどころ)を開き、藩士に国学と神道を説き、尊王思想を鼓舞しました。しかしあまりにも丸山作楽の思想と行動は激しかったため、島原藩の忌避するところとなり、謹慎を命ぜられています。三条実美ら5卿が大宰府に移されたと聞いては、脱藩して島原藩に迎え入れようとしましたが、実現しませんでした。 龍馬の島原上陸 龍馬長崎上陸の地 この騒動のなか、1864年(元治元)には勝海舟とともに坂本龍馬らが島原湊に上陸しました。英仏米蘭4カ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するために、海舟は外国勢との調停役としての幕命を受けていました。このとき龍馬は30歳で、海舟の信頼を受け、神戸海軍操練所の塾頭を務めてた頃です。 島原湊上陸後、島原街道、長崎街道を通り長崎に到着しています。 龍馬が初めて長崎に上陸した島原湊の石段には、現在「龍馬長崎上陸の地」の看板がたっています。 戊辰戦争 藩主・忠和の実兄で最後の徳川将軍慶喜は、1867年(慶応3)に政権返上を明治天皇に上奏し、大政奉還がなされました。 翌年には会津・桑名藩を主力とした旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍とが鳥羽・伏見で激突しました。この戦いで旧幕府軍の不利が伝わると、長崎奉行河津祐邦(すけくに)は長崎を抜け出して京都へ向かったため、長崎の町は土佐藩や薩摩藩などの藩士が協議して守ることになりました。これを知った島原藩は藩士を集めて協議し、使者を長崎へ送り、各藩士と接触させ、長崎会議所にて力を合わせて王事に尽くすことを誓いました。その後九州鎮撫総督として沢宣嘉(のぶよし)が長崎に着任すると、島原藩は安芸藩とともに大波止の警備につきました。 藩主・忠和は朝廷に対して、慶喜は実兄であるが、王事よりほかに他意はない。兄弟の縁は問わないことを伝えています。 さらに沢総督から奥羽への出兵要請を受けて、出羽国船川に上陸し、秋田へ出陣しました。その後檜木山から湯の沢をへて転戦し、一時は敵に囲まれて苦戦しました。ここで磯野波蔵、小沢文十郎、木下鉄之助が戦死しました。角館(かくのだて)にひきあげた後、長崎の振遠隊(しんえんたい)と合流し、南部領へ進みました。盛岡藩の降伏後に東北の反乱も平定したため、解兵の令がおりました。 戊辰戦争により、島原藩は砲戦を主とした英国軍隊方式を取り入れるなど軍制を改めました。 丸山作楽のその後 明治維新後、政府に請われて外務大丞(だいじょう)に就任し、樺太の国境問題についてロシアと交渉しました。また後に征韓論に同調したため、一時投獄されていますが、出獄後に新聞『明治日報』を起こし、1882年(明治15)には東京日日新聞の福地源一郎(ふくちげんいちろう)とともに立憲帝政党(りっけんていせいとう)を結成、保守的政治家として活動しました。 猛島神社にある丸山作楽の歌碑 1886年(明治19)には宮内省図書助(ずしょのすけ)に就任し、伊藤博文の命をうけて渡欧しスタイン博士に学び明治憲法や皇室典範の制定に尽力しました。また1890年(明治23)には元老院議官・貴族院議員に就任するなど政界で活躍しました。 丸山作楽は、万葉の歌人でもありました。島原市の霊丘(れいきゅう)公園や猛島(たけしま)神社などには丸山作楽の遺徳をたたえる大きな石碑や歌碑が建立されています。 参考資料 『島原の歴史 藩政編』(発行/島原市) 『長崎県の教育史』(外山幹夫 著/思文閣出版) 歴史散策 南島原市有家町(ありえちょう)は、古くから「庄屋の町」として栄えた町です。酒蔵、みそ醤油蔵や素麺蔵、神社やお寺、キリシタン遺跡、レンガ塀などの産業遺産等が多く残っています。これらの遺産を後世に伝えると共に、地域経済の活性化を目的に「ありえ蔵めぐり」イベントが開催されています。 約8メートルもある巨大な一本の木を天井からつるし、てこの原理によって微妙な圧力をかけて搾り上げる“撥ね木搾り”という古くから伝わる技法によって酒を作り続けている壱之蔵吉田屋。 雲仙山系の清純な伏流水を仕込み水として、厳選した良質の酒造好適米を高精白に磨き上げ、昔ながらの手造りの良さを守り続けている弐之蔵浦川酒造。1918年(大正7)、初代が味噌・醤油の製造を始めたことに始まる参之蔵喜代屋、古民家好きにはたまらない風情の建物の四之蔵ヤマコメ醸造、雲仙山麓の上質な水と、厳選された小麦を使い昔ながらの製法で丹念に熟成を重ねしっかりとした「コシ」の強いそうめんを作り続ける五之蔵島原一揆村ふるせの5つの蔵があります。 年に数回開催されている「ありえ蔵めぐり」イベント期間中には、「蔵さるき」ガイドツアーも開催されています。まち歩きを通して、長い歴史で培われた「蔵の文化と生活」に触れてみませんか。
  • 島原藩 2014年03月28日
    島原藩
    関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康軍)に参加し、本領を安堵された有馬晴信(ありまはるのぶ)が、島原藩の初代藩主となりました。有馬晴信は熱心なキリシタン大名で、天正遣欧使節をローマに派遣するなど、島原藩にキリシタン全盛期をもたらせました。 しかし、2つの事件をきっかけに、幕府のキリシタンへの不信感が募ることとなります。ついには「島原の乱」が発生し、乱後の処理によって島原藩は大きく変わっていきます。 幕末にかけて、島原藩はどのような変化を遂げていったのでしょうか・・・。 ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件と岡本大八事件 1609年(慶長14)、有馬晴信の朱印船がマカオに寄港した際、晴信の家臣を含む日本人はポルトガル船の船員と口論になり、暴動を起こしてしまいます。当時マカオでポルトガル貿易の指揮をとっていた長官は、暴動解決にあたりますが、結果的に多数の日本人が殺害され、積荷を略奪されるという事件に発展しました。 家臣を殺害された有馬晴信は、翌年、長崎沖まで来たノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を、長崎奉行・長谷川左兵衛藤広らとともに30隻の船で包囲しました。幕府の報復処置の命令もあったことから捕獲しようとしましたが、ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号は火薬庫に火を放ち爆沈してしまいました。 この事件で、徳川家康の側近・本多正純の近臣であった岡本大八(おかもとだいはち)は有馬晴信の目付役として同行しており、晴信に対し有馬氏の旧領地であった肥前の一部を与えると偽の辞令書を無断で与えました。そして大八は、晴信から本多正純への口利きの謝礼として、多額の金品や資金を受け取りました。しかしなかなか旧領地の恩賞の通達がないため、晴信は直接本多正純に面会し催促したところ、収賄事件として発覚したのです。大八は火刑に処されることになりましたが、牢内で「晴信が長谷川左兵衛藤広の暗殺を企てている」と訴えました。嫌疑をかけられた晴信は身の潔白を証明することができず、斬首となってしまいます。 この事件で処刑された晴信と大八は二人ともキリシタンであったため、幕府はキリシタンへの不信感が高まりました。 有馬直純の天封、島原の乱 有馬晴信の子・有馬直純(なおずみ)が晴信の跡を継ぎます。直純は、キリシタンであった小西行長の姪と結婚していましたが、家康の曾孫である国姫と再婚しています。後見人の長崎奉行・長谷川とキリシタン嫌いだった国姫が結託して、キリシタンへの迫害は強化されましたが効をなさず、1614年(慶長19)、直純は宮崎県の日向に領地を移されました。その後1616年(元和2)に松倉重政(まつくらしげまさ)が入るまで、島原は幕府の直轄地とされました。 松倉氏は、一国一城令により日野江城(ひのえじょう)と原城を廃し、1618年(元和4)から島原城(森岳城)と城下町を新たに築きます。領民に重税と労役を課し、7年もの歳月をかけて立派な城を完成させました。領民にはキリシタンが多く、当初はキリスト教布教を黙認していた松倉氏でしたが、徳川家光から叱責され、一転して厳しい迫害を始めます。 雲仙地獄もキリシタンの拷問に利用されました。信仰を棄てさせるためにすぐには殺さず、煮えたぎる熱湯を使ってじわじわと長い苦痛を与えたといわれています。 松倉重政の死後、後を継いだ松倉勝家(まつだいらかついえ)はさらに重税を課し、連年の凶作にもかかわらず、領民から強引に年貢を取り立てました。口之津の庄屋の妊婦を拷問死させたことなどから、あまりのことに憤慨した領民らが島原半島南部の村々の代官を次々と襲いました。これが島原の乱のきっかけといわれています。 (「 島原の乱 」を詳しくみる ) 松倉勝家は、島原の乱の責任を問われ、領地を没収され斬首となりました。幕府は、島原の乱を機にキリスト教布教の禁止、密告制によるキリシタン摘発など、さらに取り締まりを強化し、イエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶、九州大名による長崎港の警備を強化することで、鎖国を完成させていくことになります。 原城跡(櫓台石垣跡上からの見晴らし) 日野江城跡 島原の復興 幕府は、遠江国浜松城主の譜代大名(関ヶ原の合戦以前からの徳川家家臣で、幕府の要職に就いた大名)・高力忠房(こうりきただふさ)を島原藩主としました。高力氏は島原の乱後の処理を中心に、長崎警固の責務を受け持つこととなりました。また九州は外様大名(譜代大名に対し、関ヶ原の合戦以降に徳川氏に帰属した大名)が多かったため、各藩の監視役を兼ねていたともいわれています。高力氏は近隣諸藩から農民を移住させ、特に荒廃が著しい島原半島南部の農村復興につとめました。しかし、1655年(明暦元)に忠房が京都で客死すると、子の高長(たかなが)が藩主となります。しかし、藩財政のために農民への課役を強いたため、高力氏は領地や知行を没収される結果となりました。 その後幕府は、1669年(寛文9)に丹波福地山城主である松平忠房(まつだいらただふさ)を島原藩主に任命しました。この時から豊前国宇佐郡と豊前国東郡から約2万石が加増され、島原藩の財政が強化されました。 松平忠房(まつだいらただふさ) 松平忠房は、検地を実施し、村役人を整備して農村の掌握をおこないました。また好学で、文武振興にもつとめたそうです。和漢・軍学・武術・和歌・俳諧と幅広く学んでおり、儒学者であった林羅山の子・林鵞峰(はやしがほう)や譜代大名・榊原忠次(さきばらただつぐ)などと交遊が深かったといわれています。 さらに忠房は、多くの蔵書・写本を収集しており、今日残っているだけでも3,000部、1万冊に及んでいます。これらの蔵書は、今日「松平文庫」とよばれており、神道や仏教、儒教、歴史、地理、政治、経済、教育、風俗、医学、自然科学、産業、芸能、武道、和歌、漢詩など多種多彩に揃っています。 1793年(寛政5)に松平忠馮(ただより)が藩校「稽古館」を開設すると、学生たちもこの松平文庫を閲覧し勉強できたそうです。 島原大変 1749年(寛延2)、当時の藩主・松平忠刻(まつだいらただとき)は、参勤交代のために江戸に赴く途上で急死しました。子である忠祗(ただまさ)が12歳の若さで家督を継ぎますが、下野宇都宮藩の戸田忠盈(とだただみつ)と交代するかたちで宇都宮に移ります。忠祗の弟の忠恕(ただひろ)が家督を継承すると、1775年(安永4)に再度戸田氏と交代し、島原藩に戻ってきました。 島原城や観光復興記念館には島原大変の資料があります。 1792年(寛政4)、雲仙普賢岳が噴火し、その後眉山が崩壊し大量の土砂が島原の街を通って有明海へ向かって流れ落ちました。この災害は「島原大変」とよばれ、この時の死者は約5,000人といわれています。さらに有明海に流れ落ちた土砂の衝撃によって発生した高波が、島原の対岸の肥後国天草に襲いました。これを「肥後迷惑」とよんでいます。また肥後の海岸で反射した返し波が再び島原を襲いました。津波による死者は約1万人といわれています。 当時の藩主・忠恕は被災地の巡視をおこないましたが、心労が重なり逝去、後を継いだ忠馮(ただより)は領民の救済のため、江戸幕府から1万2,000両を借用しました。 櫨の果皮を粉にして蒸し、蝋船で圧縮し蝋液を絞り出していました。 この返済に役立ったのが、櫨(はぜ)の実でした。島原藩では以前から櫨の木を植林し製蝋(せいろう)を奨励していました。製蝋は島原藩の重要な産業のひとつだったのです。1804年〜1830年(文化・文政期頃)には櫨の値段が下落しましたが、1843年(天保14)には3,000両ほどの利益を得たといいます。また島原藩の蝋は、厳格な検査をおこなっていたので商人の信用もあり、他藩製の蝋よりも高額で販売されていたそうです。 島原藩校「稽古館」、「済衆館」 稽古館跡 松平忠房以降、松平氏は学問に積極的に取り組んでおり、忠恕は藩校創設の意図をもっていたといわれています。しかし島原大変により実現はできませんでした。忠恕の後を継いだ忠馮が、父・忠恕の遺志を引き継ぎ、1793年(寛政5)に藩校「稽古館(けいこかん)」の創立に踏み切りました。現在の島原市先魁(さきがけ)町の地にあたります。 1834年(天保5)、忠侯(ただこれ・ただよし)のときには拡充され、学生増加を奨励し、さらに医学校「済衆館(さいしゅうかん)」を創設しました。済衆館の医学はもともと稽古館の学科の中に含まれていたものですが、医学校兼病院済衆館として独立開校したものです。藩医・医学生に限らず、領内の開業医も随時入校し、研修を受けることができたといいます。 済衆館では、藩医・市川泰朴(いちかわたいぼく)が、1844年(弘化元)に同じ藩医・賀来佐之(かくすけゆき)の協力のもとに死体解剖をおこなっています。その際、絵師に描かせた人体解剖図が貴重な資料として島原城に保存・展示されています。 旧島原藩薬園跡 賀来佐之は、豊前国宇佐郡出身でシーボルトの鳴滝塾に学び、1843年(天保14)に島原藩医に招かれました。薬園開設の命を受け、済衆館の庭園に薬草類を栽培しました。しかし、栽培するには土の条件が悪く、土地も狭かったため、1846年(弘化3)に雲仙岳のふもとに薬草類を移しました。これが現在残っている旧島原藩薬園跡です。 旧島原藩薬園跡 小藩の薬草園とはいえ、全国的にも稀にみる遺構をとどめた史跡であることから、1929年(昭和4)に日本三大薬園跡として国の史跡指定を受けています。あとの2園は奈良県の森野旧薬園と鹿児島県の佐多旧薬園です。 現在の旧島原藩薬園跡では、薬草を身近なものとして親しんでもらえるよう、薬用植物を栽培し、薬園を再現しています。気軽に立ち寄って薬草の効果を学んだり、旬の薬草を使った薬草料理を作って味わう体験もできます。詳しくは島原市教育委員会へお問い合せください。(TEL:0957-68-5473) 参考資料 旅する長崎学3 キリシタン文化III『 26聖人殉教、島原の乱から鎖国へ 』 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 歴史散策「島原城下町」 ■武家屋敷・武家屋敷水路 島原城の築城とともに形成されました。中央を流れる清水は熊野神社を水源とし、飲料水として使われ、水奉行によって厳重に管理されていました。現在、保存されている武家屋敷は、山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒で一般に無料開放されています。 島原城 松倉重政藩主時代に7年の歳月をかけて築かれました。明治に入り、城壁だけを残して解体されてしまいましたが、1960年(昭和35)以降復元されました。 鯉が泳ぐまち アーケードすぐそばの水路には鯉が放流されており、住民の皆さんの管理の下「鯉の泳ぐまち」を形成し、道行く人々の目を楽しませてくれます。 白土湖 1792年(寛政4)の島原大変時、噴火の時に陥没してできたといわれています。清水がこんこんと湧き出て、水の都のシンボルともなっています。 周辺散策地図 武家屋敷通り 島原城 鯉が泳ぐまち 白土湖
  • 「坂本龍馬」と「近藤勇」のSP盤レコードを聴く 2014年03月28日
    「坂本龍馬」と「近藤勇」のSP盤レコードを聴く
    「坂本龍馬」と「近藤勇」のSP盤レコードを聴く  幕末の志士で明治維新の礎(いしずえ)を築いたといわれる坂本龍馬。今でも国民的人気を誇る龍馬は、長崎を何度か訪れたことがあります。土佐、江戸、京と並んで長崎も龍馬が足跡を残した重要な地だったのです。そこで、長崎県内で何か龍馬に関する"モノ"がないかと探していましたら、南島原市有家町山川の酒蔵「吉田屋」さんに、龍馬を題材にした珍しいSP盤レコードが残っていると聞いて、さっそく取材をさせていただくことにしました。  南島原市は長崎県南部、島原半島の南東部に位置し、雄大な山々と美しい海をもった地域で、日本のキリシタン史的にも重要なエリアです。1580年(天正8)にキリシタン大名・有馬晴信のもと、ヨーロッパの中等教育機関「セミナリヨ」が設置されたところ〔北有馬町〕や、1637年(寛永14)の「島原の乱」の舞台となった原城跡(国指定史跡)〔南有馬町〕などがあり、その光と影の歴史を今に伝えています。 どこか懐かしい町並みと撥ね木搾りの老舗酒蔵・吉田屋  今回訪れた有家町には古い家屋や町並みが今もなお残っていました。酒造会社や醤油店、素麺(そうめん)店などの製造業が多いのが有家町の特徴です。現在これらの店鋪を活用した「蔵めぐり」や「酒蔵コンサート」などのまちおこし事業が盛んに行われているそうです。  吉田屋は1917年(大正6)創業の老舗で、撥ね木搾り(はねぎしぼり)という技術をもちいた伝統の酒造りを行っている酒蔵です。吉田屋によると撥ね木搾りという技法は「テコの原理を応用した圧搾による酒搾りの方法で、巨大な一本の木(約8メートル)を天井からつるし、その重みとテコの原理によって微妙な圧力をかけて丁寧に搾り上げる」というもの。その製法は「まず酒袋にもろみ(発酵したお酒のもと)をつめて、槽(ふね)と呼ばれる大きな枠の中に敷き並べる。その上から蓋(ふた)をし、巨木(撥ね木)を使って圧力を掛けて搾り出す」ということでした。 筑前琵琶 坂本龍馬」と「近藤勇」のSPレコード盤の内容とは?  吉田屋の店鋪は木造で、昔ながらの懐かしい雰囲気が漂っていました。希望者には酒蔵見学も実施してくれるそうです。その吉田屋の喫茶室(座敷)に古い蓄音機とSP盤レコードが保存されていました。龍馬にまつわるレコードは、ニッポノホンの「筑前琵琶 坂本龍馬(五絃)高野旭嵐(たかのきょくらん)」とニットーレコードの「近藤勇 石橋恒男 オーケストラ伴奏」の2枚です。さっそく吉田屋所有の蓄音機でレコードを回してもらい聴かせていただくことにしました。  まずは「筑前琵琶 坂本龍馬」。その内容は、坂本龍馬の宿(近江屋)に土佐陸援隊隊長・中岡慎太郎が訪ねたところを、新撰組局長・近藤勇らが急襲し、暗殺するという龍馬最後の場面でした。龍馬暗殺の実行犯には新撰組や京都見廻組など諸説ありますが、このレコードでは、新撰組が龍馬暗殺の真犯人として描かれていました。  筑前琵琶は明治時代に博多生れの橘旭翁(たちばなきょくおう)が創始し、絃を四絃から五絃に改良し、歌を分かりやすい七五調にして全国的なブームを起こし、日本の代表的な音曲として戦前まで親しまれていたそうです。筑前琵琶奏者の高野旭嵐は、筑前琵琶をレコードに録音し、全国に普及させた人物と言われています。  もう1枚は「近藤勇」という音楽入り講談風のレコード。その内容は、左文字という刀屋が近藤勇に頼まれて「虎徹(こてつ)」という名刀を探していました。しかし2ヵ月経っても見つけることができません。左文字は気がとがめつつも虎徹ではなく無名の刀を近藤に差し出してしまいます。ほぼ同じ時刻、新撰組は清水二年坂で坂本龍馬と同士らを襲っていました。近藤は「虎徹の切れ味を試そう」と二年坂に向かって駆け出します。近藤が二年坂に到着した時には、残念ながら龍馬は逃れた後でしたが、残っていた土佐藩士を相手に近藤ひとりで切り合いをします。次々に相手を倒す近藤は「虎徹はよく切れるのう」と刀が気に入った様子。心配のあまり現場に駆けつけた左文字。近藤さんは「刀で切らず腕で切る」ので、虎徹でも無名の刀であっても関係がないのだと安堵するのでした。そして近藤は「勇はこの無名の刀気が気に入ったぞ」と最後に一言つぶやく、という物語でした。 2枚のレコードを聴き比べ。興味深い点を発見!?  1932年(昭和7)頃から戦前にかけて発売されたこれらのレコード。内容は史実と異なり講談調のフィクションなのですが、この時代の一般人が抱いていた坂本龍馬や近藤勇の人物像が垣間見えてくるようです。2枚のレコードを聴き比べていくうちにいくつか興味深い点も発見しました。  例えば2枚のレコードとも近藤勇の読みが <こんどういさみ> ではなく <こんどういさむ> となっているところ。坂本龍馬は <さかもとりゅうま> <さかもとりょうま> の2つの読みにそれぞれ分かれていました。時代とともに名前の読み方が変わっていくということでしょうか。もっとも最近では <こんどういさみ> と <さかもとりょうま> に統一して読まれているようです。  もうひとつの興味深い点は、「近藤勇」のレコードの中では坂本龍馬と近藤勇が敵対関係にありながらも、その度量や剣術の技量を互いに認め合い、一目置く存在という内容になっていることです。当時は維新回天のドラマというよりも、カリスマ性のあるライバル剣豪のチャンバラドラマに比重を置いて描かれていたようですね。  さて、2010年のNHK大河ドラマが『龍馬伝』に決まり、すでに長崎でも盛り上がりが見られます。幕末の長崎を舞台にどういう歴史上の人物たちが登場し、どういった活躍を見せてくれるのか、今から楽しみです。 [文:小川内清孝 / 取材協力:吉田屋] 参考資料 ニッポノホン「筑前琵琶 坂本龍馬(五絃)高野旭嵐」 ニットーレコード「近藤勇 石橋恒男 オーケストラ伴奏」 参考文献 『旅する長崎学7 近代ものがたりI』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『現代視点 戦国・幕末の群像 坂本龍馬』(旺文社)
  • 旧石器時代から弥生時代まで 2010年06月23日
    旧石器時代から弥生時代まで
    旅する長崎学オリジナル年表の【旧石器時代から弥生時代まで】を確認する
  • 島原半島の情景〜らしい風景、ならではの風景〜 2009年11月18日
    島原半島の情景〜らしい風景、ならではの風景〜
    イルカウォッチング動画 長崎県南島原市加津佐町の早崎海峡には、約300頭のイルカが定住しています。イルカの数は年間を通して変わりません。自然のままのイルカをみることができます。 イルカウォッチングの動画を見る 撮影協力:かづさイルカウォッチング 参考資料 『book/modern/10.php">旅する長崎学10  近代化ものがたりIV 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 取材協力 島原半島ジオパーク推進連絡協議会事務局 島原城天守閣事務所 かづさイルカウォッチング 島原城薪能振興会
  • 第8回 原城に散った祈り 2007年07月18日
    第8回 原城に散った祈り"島原の乱"をゆく
     1637年(寛永14)、天草四郎を総大将に島原と天草の領民が結集した一揆軍は、島原城と富岡城を落城できず、最後の砦「原城」へと向かい、籠城しました。幕府軍と援軍オランダ船に挟み撃ちにされながら、激しい砲撃を必死に攻防する四郎たち。領民たちの悲痛な苦しみと怒り、そして心のよりどころとなった祈り…。今回の旅は、日本最大の一揆“島原の乱”の最後の舞台となった南島原を巡ります。 歴史のとびら  1614年、徳川幕府の発布した禁教令により、全国で厳しいキリシタン摘発がおこなわれました。  島原では、2代目藩主となった松倉勝家(重政の息子)がさらに無謀な重税を課し、禁教に名をかりて領民をおどします。これに追いうちをかけるように天災、飢饉・凶作などが島原半島と天草の領民を苦しめていました。1637年(寛永14)、妊婦を拷問死させた事件や、代官が聖画像を踏みにじる事件が相次いで起こり、領民たちは激昂。おさまらない怒りに次々と島原半島南部の代官を襲いました。そして、とうとう「湯島の談合」で蜂起することを決意。天草四郎を総大将とする一揆軍は、森岳城(島原城)と富岡城を激するも落城できず。城を落とせなかった島原と天草の領民ら約3万7千人(約2万7千人ともいわれる)は、1638年、一国一城制で廃城となっていた原城に立てこもりました。一揆軍は、ポルトガルからの援軍を待っていたといわれますが、海上に現れたのは幕府軍の援軍として要請されたオランダ船による大砲の砲撃でした。原城本丸を正面に見据える重箱山から放たれた一発の銃弾が、四郎の着物の裾を打ち抜きました。不死身といわれカリスマ的存在だった四郎に迫る攻撃の嵐、一揆軍に動揺が広がった瞬間でした。幕府軍との激しい攻防の末、ついに陥落した原城では、なんと女性や子どもまでもが皆殺しに…。そのなかで、ただひとり生き延びたとされる南蛮絵師の山田右衛門作の数奇な悲運…。  乱の最後の舞台となった原城は、幕府の命令で徹底的に破壊されました。原城籠城88日間にわたる島原の乱の終盤戦を追いかけて、探求の旅へ出かけましょう。悲愴なまでの覚悟を胸に、幕府という強大な権力に立ち向かった一揆軍の魂を感じる歴史の旅がはじまります。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1日(車&徒歩) img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2鈴木重成建立の供養塔 ↓徒歩で約25分 or 車で約8分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4重箱山 ↓ 徒歩で約10分 or 車で約3分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />66板倉重昌の碑 ↓車で約10分 or バスで約10分