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県北エリア

  • 第36回 2つの西海橋と3本の無線塔がある風景 2009年04月15日
    第36回 2つの西海橋と3本の無線塔がある風景
    〜急流の針尾瀬戸から針尾送信所無線塔を望む〜 歴史のとびら  佐世保市と西海市間の有料道路「西海パールライン」に、2006年(平成18)3月、美しいアーチ線形を描いた「新西海橋(しんさいかいばし)」が開通しました。そばに寄りそうように架かる「西海橋」は、1955年(昭和30)12月に完成した312mの歴史ある橋。完成当時は固定式アーチ橋として東洋一(世界第3位)の規模を誇り、全国初の有料橋として営業を始めたのがこの橋でした(現在は無料)。  この2つの橋の景観を比べてみると、西海橋には威風堂々とした紳士の風格を、新西海橋にはしなやかで凛とした貴婦人のような趣を感じます。これらの橋から針尾(伊ノ浦)瀬戸を挟んで3本の巨大なコンクリートの塔が見えてきますが、これが佐世保市針尾中町にある針尾送信所無線塔です。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約1時間 img/sub/map_point2.gif' alt='' />2新西海橋 1怪獣映画に登場した西海橋!  「西海橋」といえば、開通の翌年(1956年)に『空の大怪獣 ラドン』という怪獣映画に登場しています。この映画は東宝の特撮怪獣映画の記念すべきカラー作品第1号。つまり、赤いアーチ橋の西海橋はいきなり総天然色で全国に紹介されたのです。しかしながら、当時東洋一の規模を誇ったのがあだになってしまったのか、超高速で飛ぶ鳥獣ラドンの翼から繰り出される衝撃波で、完成したばかりの西海橋が破壊されるという、県民にとってはショッキングなシーンになってしまいました。この映画には当時の佐世保駅などがロケ地として登場し、懐かしい昭和30年代の町並みを知る、格好の材料ともなっています。 2新西海橋の歩道から潮流が見える!  新西海橋の全長は約620m。西海橋はアーチの上に車道と歩道がありますが、新西海橋はアーチの中間部分に道路(上は車道、下は歩道)が位置するという構造になっています。  新西海橋を車で渡ってみました。橋の中央に近づくとライトブルーのアーチが左右に見えてきて爽快な気分になります。車で渡ったあとは、下の歩道橋を歩いてみましょう。心地よい潮風が通りぬけていきます。しばらく歩くと真ん中付近に休憩所があるので、ちょっと足を止めてひと休み。すると、足元に設置された丸いガラス窓を発見!ガラス窓を通して真下の海をのぞくことができるのです。全国有数の急流で知られる針尾(伊ノ浦)瀬戸の豪快なうず潮が真下でグルグル・・・。吸い込まれそうなスリルの中で、このうず潮を見ることができますが、高所恐怖症の方にはガラス越しとはいえ、ちょっと怖いかもですね。  さて、この新西海橋も映画に登場しています。開通の前年(2005年)のこと、作品は『釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった』。バーの経営者・輝男(尾崎紀世彦)とハマちゃん(西田敏行)が、佐世保の街をテーマにした曲を歌うシーンが印象的な映画でした。新西海橋は、ハマちゃんが勤める鈴木建設が着工した「第二西海橋」という設定で連結式のシーンに華やかに映し出されました。しかしこの場面の影響か、いまだに橋の正式名称を「第二西海橋」だと思いこんでいる地元の人が多いとの噂もあるそうです。 圧倒される高さの針尾送信所無線塔  西海橋・新西海橋から針尾瀬戸を挟んで、煙突のようにそびえたつ3本の塔が見えます。この針尾送信所無線塔は、旧日本海軍が1918年(大正7)から4年の歳月をかけて1922年(大正11)に完成させたものです。終戦後は1948年(昭和23)に発足した海上保安庁(佐世保海上保安部)が管理を引き継ぎ、1997年(平成9)まで現役で海難通信や海上保安業務に大活躍しました。  旧日本軍は、1941年(昭和16)12月2日、「ニイタカヤマノボレ一二○八」という大平洋戦争開戦を指示する歴史的な暗号文を送信します。これは連合艦隊の戦艦長門から発信され、有線ケーブルを経由して針尾送信所無線塔から中国大陸や南大平洋の部隊に伝えられたといわれています(ほかにも諸説あります)。  異様に高い塔が建設された理由ですが、完成当時は無線電波が中波や短波ではなく、長波だった関係で、高い場所にアンテナ線を張る必要があったと考えられており、こんなに存在感のある高い煙突の施設になったそうです。  2つの西海橋と3本の無線塔があるこの風景は、いまや佐世保を代表する風景のひとつとして、市民にもちろん県民にも親しまれています。オススメの時期は、約1500本の桜が咲き誇り、豪快なうず潮を見ることができる春ですが、それぞれの季節ごとに素敵な風景を魅せてくれますので、ぜひお出かけください。 〔文:小川内清孝〕 参考文献 『旅する長崎学8 近代化ものがたり2』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 参考資料 「佐世保海上保安部業務紹介」ホームページ スタート地点までのアクセス 西海橋 所在長崎県佐世保市針尾東町 アクセス  JR・バス…JR佐世保駅から西肥バス「西海橋コラソンホテル行き」西海橋東口下車(約40分) 車…西九州自動車道「佐世保大塔IC」から国道205号を5km長崎方面に走った江上交差点を右折、さらに国道202号を西海方面に10km お問い合わせTEL/0959-28-1913
  • 「ラストサムライ」冒頭シーンの美しい島々 2014年03月26日
    「ラストサムライ」冒頭シーンの美しい島々
     「ラストサムライ」は、2003年(平成15)、アメリカ・ニュージーランド・日本合作映画で、日本を舞台に日本人と武士道を描いた作品です。  主なロケ地は姫路市で、戦闘や村のシーンなどはニュージーランド、街中のシーンはハリウッドのスタジオで撮影されました。  しかし、この映画の冒頭のシーンに登場する海と島々の遠景は、佐世保市の九十九島が使われているのをご存知ですか?  佐世保市の中でも、九十九島の遠景を眺める場所は多数ありますが、佐世保市亜熱帯動植物園の上にある石岳展望台で撮影されたといわれています。場所がわかると、早速行ってみて写真を撮ってみたくなりますね!  佐世保市亜熱帯動植物園駐車場の横の道をあがっていくと20台ほど停められる駐車場があります。この駐車場から200メートル程度歩くと石岳展望所につきます。  この展望所には、崖のそばにある展望所と後方に展望台があります。展望所は広くはありませんが、海面を遮る木々もありませんので、写真撮影のポイントとして人気があり、早い時間帯から場所を取りにくる人が少なくありません。展望台は茂みが邪魔になり海面が見えないところもありますが、九十九島の景観を味わうのであれば、素晴らしい絶景ポイントです。    夕方になると、九十九島の海面は夕焼け色に染まり、美しい写真が撮影できます。撮影も済みそろそろ帰ろうかな、と思っているとだんだん駐車場には車が増えてきました。そう、この展望所は市内外から九十九島の夕景を撮影しに集まる人気スポットだったのです。  顔見知りの方々も多いようで、初めて訪れた私にも気さくに話しかけてくれます。九十九島は、時間帯によって様々な表情を見せてくれることも教えてもらいました。こういう思わぬところで、地元の方々とコミュニケーションをとりながら旅するのも素敵な思い出になりますね。
  • 69 sixty nine 2014年03月26日
    69 sixty nine
     1987年(昭和62)に出版された長崎県佐世保市出身の作家・村上龍さんの小説で、2004年(平成16)に公開されました。  映画と演劇とロックの一大イベント“フェスティバル”を企画し、好きな女の子の気をひくために当時流行っていたバリケード封鎖をし、警察やマスコミが乗り出す大騒動に発展するなど一見無茶苦茶に思えますが、熱い青春を送る高校生たちが描かれています。  この映画は、もちろん佐世保市のあちこちで多く撮影されています。  主人公・矢崎剣介を演じる妻夫木聡さんと親友・山田正を演じる安藤政信さんが大学生グループから逃げ、追いつめられた際に橋から飛び降りるシーンがありましたが、早岐瀬戸(はいきせと)で撮影されました。飛び降りる橋は観潮橋(かんちょうばし)です。早岐瀬戸は、大村湾と佐世保湾を繋ぐ瀬戸です。江戸時代の干拓事業で両岸から潮止め堤防を築いたため、幅10mまでに狭められており、潮の干満に応じて激流が起こることでも知られています。  奈良時代初期に編纂された肥前国(現佐賀県・長崎県)の風土記「肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)」の中に、「速来門(はやきのと)」という記述があります。この速来門が早岐瀬戸ではないかといわれています。また中世には、この早岐瀬戸で山海の産物を持ち寄って物々交換をするという「市」が自然と発生しました。現在では「早岐茶市(はいきちゃいち)」として受け継がれ、毎年5月7〜9日(初市)・17〜19日(中市)・27〜29日(後市)・6月7〜9日(梅市)の4回に分けて行われており、お茶を始め、わかめ・魚の干物・苗類・陶磁器類などの販売がおこなわれています。  映画冒頭で米軍敷地内にTシャツを投げ込み、軍関係者から追われて矢崎剣介と山田正の2人が走って逃げのびますが、一緒に“フェスティバル”をやろうと誓う場所は、SSKバイパスです。  佐世保市平瀬町ロータリー(米海軍佐世保基地正門前)から赤崎町のSSK(佐世保重工業)旧西門までの道路区間をSSKバイパスとよんでいます。このSSKバイパスからは、SSKの造船関連施設やレンガ造りの建造物、たくさんのクレーン、ドックで建造や修理が行われている船舶などを見ることができます。  この「69 sixty nine」は、1969年(昭和44)の佐世保市を舞台に、当時高校3年生だった村上龍さんの実体験が基となっています。ベトナム戦争と学生運動に揺れていたこの時代、基地の街・佐世保市がわかりやすく描かれています。  原作でも登場人物たちは、佐世保の方言で話しています。『69 sixty nine』が出版された当時、この本を読んで、自分が普段使い慣れている地元の言葉が活字になっていたので、親しみが持て、とても新鮮に感じたことを覚えています。
  • 佐世保バーガー 2014年03月26日
    佐世保バーガー
     とうとう“佐世保バーガー”を食べてきました!  私が食べたチキンバーガーとベーコンバーガーは、肉は厚くて噛み応えがあり、野菜も新鮮なレタスとたまねぎ、トマトが肉とバランスよく入り、とってもジューシーでした。  みなさんは“佐世保バーガー”をご存知でしょうか?テレビなどのメディアで紹介され、“大きくボリュームがある”、“肉が多い・大きい”などとよく耳にしますが、実際何というお店で、どんなハンバーガーを食べることができるの?と思いませんか?  ここで佐世保バーガーの定義をご説明しておきます。  佐世保バーガーには、これといって決まったスタイルのハンバーガーのことではありません。佐世保市内の店で提供される「手作り」で「注文に応じて作り始める」こだわりのハンバーガーのことをいいます。注文を受けてから作り始めるので、作り置きをせずに、アッツアツで新鮮なハンバーガーを食べることができるのです。  なぜこんなにも佐世保市ではハンバーガーを取り扱う店舗が多く、話題になるのでしょうか?そこにも佐世保市ならではの歴史が関係していました。  佐世保市は、1889年(明治22)に大日本帝国海軍の佐世保鎮守府が設置されました。それまでの佐世保は小さな村でしたが、このことにより全国各地から人が集まり、商人や移住者が増え、翌年には人口も倍増したといわれています。さらに1903年(明治36)には海軍工廠(かいぐんこうしょう)が置かれて都市化しました。  しかし太平洋戦争後、佐世保市の旧日本軍施設には米海軍が進駐します。そして、米海軍関係者を相手にした飲食店やバーが次々と現れました。アメリカ人のスタイルに合わせた飲食店も増加し、朝鮮戦争に伴い朝鮮特需による好景気を受けた1950年(昭和25)頃、米海軍関係者よりハンバーガーのレシピが佐世保市に伝わったといわれています。それから佐世保市内の飲食店で研究され、様々なハンバーガーが作られ、いまや市民に愛される郷土料理のひとつにもなっているのです。    佐世保市でハンバーガーを販売しているものであれば、佐世保バーガーと呼んでいいのかな?と思っていましたが、そうではありませんでした。  2007年(平成19)に「佐世保バーガー認定制度」というものが創設されました。そして佐世保市や旅行業界関係者などが、「独自性・主体性」「信頼性」「地産地消」「手づくり」などの項目を基準に入念に審査し、合格した佐世保市内の店舗に限り「佐世保バーガー認定店」と認められます。  「どうやって認定店と判断すればいいの?」  認定店の入口には、やなせたかしさん作の「佐世保バーガーボーイ(佐世保バーガーバー)」の入った認定証(看板)が設置されています。佐世保市を訪れた際には、これを目印にするといいでしょう。  佐世保市外のハンバーガーに対しては、拘束する権限はないため、認定店ではないのに「佐世保バーガー」と銘打って販売している業者も少なくないといいます。しかしこういうことも、佐世保バーガーが人気があるという証拠なんでしょうね。  佐世保観光情報センターのサイトでは、佐世保バーガーマップをダウンロードすることもできます。佐世保市を訪れる前に、ダウンロードしておこう! 佐世保観光情報センター 〒857-0863 長崎県佐世保市三浦町21-1(JR佐世保駅構内) TEL:0956-22-6630   佐世保バーガーについての詳しい情報は以下をご覧下さい。   関連URL: http://www.sasebo99.com/sight_sasebo/bgmap.shtml
  • 三川内焼 2014年03月27日
    三川内焼
     1598年(慶長3)、平戸領主・松浦鎮信(法印)は、豊臣秀吉の朝鮮出兵から帰国する際に、朝鮮半島から巨関(こせき)ら陶工を平戸に連れ帰ってきました。巨関らは、やがて平戸島北部の中野地区の紙漉(かみすき)に窯を築きました。  後に針尾(はりお)島で網代(あじろ)陶石が発見され、本格的に白磁の製品作りに取りかかりました。三川内の皿山に役所を置き、そして木原と江永に出張所も設けられたといいます。  平戸藩の御用窯が置かれた三川内では、「美」を生み出す技術を追求することができました。高度な技術を持った陶工たちは、藩から手厚く保護されたそうです。 三川内焼の特徴  三川内焼の白さは、ほかの焼物にくらべて抜きん出ているといわれていますが、これは針尾島の陶石と天草石を混ぜて調合し、生み出された白さだといわれています。現在活躍している陶工の中にも、この陶石の調合にこだわって製作されている方も少なくありません。そして白いうつわの面に澄んだ青い色で描かれる独特の染付けも特徴のひとつです。  ご存知の方も多いと思いますが、楽しく遊ぶ中国の子どもを描いた唐子絵(からこえ)は三川内焼を代表する絵柄のひとつです。描かれた唐子には、藩の御止焼として厳しい制限もありました。唐子が7人の場合は、朝廷や幕府向け、唐子が5人の場合は大名向け、唐子が3人の場合は武士階級向けとして描かれたといいます。  陶工たちの技術の追求は、うつわの白さや、染付けだけに留まりませんでした。花瓶の耳や蓋物のつまみ部分などにほどこされた美しい細工や、透かし彫り、卵の殻のように薄く透き通るような白磁は、「卵殻手(らんかくで)」「薄胎(はくたい)」とよばれました。天保年間には池田安次郎が厚さ1mmほどの器を製作しました。その器は主にコーヒー碗として海外へ輸出されて高い評価を受け、知られるようになりました。  三川内焼伝統産業会館(三川内焼美術館)には、江戸期から明治までの古美術品と現代作品が、常時展示されています。三川内焼の素晴らしい作品が揃っており、匠の「技」と「美」を無料で観覧できます。またここでは、三川内焼の体験プログラムも行われています。ぜひ、参加してみてください。 みかわち焼体験プログラム  三川内では、以下のような体験プログラムが用意されています。   【三川内まち歩き】 三川内山の史跡や窯元を、ガイド付きで散策します。見学や買い物などご要望にも対応できます! ・所要時間:1時間〜2時間 ・体験料:500円〜5,000円 ※ただし3名以上で1団体(1,500)20名まで1団体とします。 ・予約:1週間前までに要予約   【透かし彫り体験】 生地を剣先で彫り透かす作業を体験できます。匠の世界を体験してみませんか? ・所要時間:約1時間 ・種類:ペン立て ・定員:150人 ・体験料:2,000円 ・予約:1週間前までに要予約 ・完成までの期間:約1ヶ月   【手捻り(てびねり)体験】 ろくろを使わない手捻りならではの、味のある器づくりを体験できます! ・所要時間:約1時間 ・定員:最大100人 ・体験料:1,000円 ・予約:1週間前までに要予約 ・完成までの期間:約1ヶ月   【絵付け体験】 素焼きの磁器に呉須(ごす)で絵付けする作業を体験できます! ・所要時間:約50分 ・種類:皿、マグカップ、湯のみ ・定員:最大200人 ・体験料:1,000円 ・予約:10名様以上の場合要予約 ・完成までの期間:約2週間   とても気軽に三川内焼にふれることができるのです! 絵付け体験  今回は、絵付けを体験してきました。まずは素焼きの状態のものの中から皿にするかマグカップにするか、湯のみにするかを決めます。そして以下の手順で絵付け作業を行います。 1.素焼きの焼き物に鉛筆で下書きをします。 鉛筆の色は、焼けたときに消えますが、強く描くと跡が残ることがありますので、力を抜いて下書きしましょう! 2.下書きした構図を呉須絵の具で線描きします。あまり同じところを何回も重ねて描くと焼きあがった時に、きれいな色に仕上がらないので注意が必要です! 3.線描きした絵に濃淡をつけます。水を含ませて、薄く重ね塗りして濃淡をつけます。本描きしたところを触ると、呉須がにじむので注意しましょう! 4.絵付けが終わったら預けます。   2週間後の仕上がりが楽しみです・・・。 世界でたったひとつの「三川内焼タビーナ」  体験から約2週間後、焼きあがったマグカップが届きました。  絵付けした素焼きのカップは本焼成され、大きさは素焼きの時より少し縮んで小さくなったような気がします。  色は思ったより薄い仕上がりとなりましたが、マイマグカップとして嬉しい一品です。世界でたったひとつの「三川内焼タビーナ」、これは貴重です!  今度は、違う絵柄でお皿が欲しくなってきました・・・。  皆さんも、旅の記念に・・・といわず定期的にマイ器作りはいかがですか?    三川内焼の伝統工芸は、現在三川内名工たちによって再現され、注目を集めています。窯元では、江戸時代の技術を追求しつつも、現代生活に取り入れやすくした新ブランド「NEO-MIKAWACHI」が開発されています。 その作品の一部は、三川内焼伝統産業会館でも観覧できますので、ぜひ足を運んでみてください。 三川内焼伝統産業会館(三川内焼美術館) 開館時間:9:00〜17:00 休館日:年末年始 TEL:0956-30-8080 三川内陶磁器工業組合でも体験プログラムの申込ができます。 TEL:0956-30-8311   【三川内焼イベント】 ●はまぜん祭り(三川内皿山周辺) 5月1日〜5月5日 窯元主催の陶器市で、一般の方も気軽に窯元とふれあえます。 ●三川内陶器市(三川内伝統産業会館前) 10月10日前後の5日間 平成22年度は、10月8日(金)〜10月12日(火)10:00〜16:00 (最終日は少し早く終わります) 名工たちの磨きぬかれた技に魅せられて、全国各地から陶器に親しむ人々が訪れ、賑わいます。ぜひお出かけください。
  • トラベル・スタディへようこそ! 2014年03月28日
    トラベル・スタディへようこそ!
    〜旅する長崎学講座〜 ようこそ、長崎県へ! 2月17日(日)からの2泊3日、東京・福岡方面から40名の皆さんがやってきました。実はこのツアー、県が「ながさき歴史発見・発信プロジェクト」の取り組みのひとつとして、平成19年に県外で開講した「旅する長崎学講座」の受講修了生を対象に募集したトラベル・スタディ(現地講座ツアー)なのです。  平成19年の講座は、歴史ガイドブック「旅する長崎学 キリシタン文化編」をテーマにした内容で、次の3箇所で開講されました。中央区民カレッジ〔東京、全5回:平成19年5月〜7月〕、西日本天神文化サークル〔福岡、全4回:平成19年7月〜8月〕、早稲田大学オープンカレッジ〔東京、全8回:平成19年9月〜12月〕。 「座学で膨らませた長崎への思いを抱いて、いざ、遊学の旅へ!!」 参加者の皆さんの知的好奇心を乗せたバスが、いよいよ発車します! トラベル・スタディができるまで  今回のトラベル・スタディは、「旅する長崎学講座」受講修了生の限定ツアーとして、県が企画しました。講座の中に登場したキリシタンの物語、その証明ともいえる数々の文化遺産を実際に長崎の地で確かめ、歴史が伝えているメッセージを肌で感じてもらおうと、講座を担当した先生と職員によってコースが設定されました。(地図をクリックすると拡大します。)  オススメのポイントは次の5つ、 講座を担当したナビゲータ兼講師の先生が同行するオリジナルツアー 地元のガイドさんも登場!世界遺産候補となっている文化遺産に出会える旅 冬のビッグイベント"ランタンフェスティバル"開催中 海外線を走る、島に渡る。長崎らしさの満喫ルート 伝統あるご当地名物、そして冬の味覚。長崎グルメを召し上がれ  歴史だけでなく、その舞台となった自然や風土、そしてそこに育まれた人々との出会いをとおして、今に継承されている思いを伝えたいと思ったら、あれこれ欲ばりな企画になってしまいました。もちろん、旅のお楽しみ、食事や買い物も長崎らしくピックアップ。最後にこのコースを満喫していただける最適な人数として、募集定員は20名に決めました。これで、おすすめ度は100%です。  それでも、どれだけの方が参加してくださるのか、不安がありました。というのも、ある講座で、先方の担当の方にトラベル・スタディを実施したいというお話をしたところ、「過去に他県でも企画したことがあるが、催行人数が集まらずできなかった。なかなか厳しいと思いますよ。」という答えが返ってきたからです。こうしておそるおそる迎えた募集開始の日でしが、なんと20名の定員は一日でほぼ満席という嬉しい反応!「せっかくの機会をできるだけお断りしたくない。」「募集人数を増やしましょうか?」「でも、大勢になることで講座の質を落とさず、場所の雰囲気も壊さずにやれるかな。」いろいろと考えた結果、20名のグループをもうひとつつくる(バス2台)ことにして、あとはやむなくお断りすることとなりました。 奇跡的な好天にめぐまれて  さて、トラベル・スタディが近づくにつれ一番の心配ごとはお天気。関係者がそれぞれ週間天気予報を毎日のようにチェックしながら、一喜一憂。今回のツアーは、まち歩きあり、夕陽あり、船もありで、2月という冬の季節にはちょっと悩ましい・・・。晴れ? いえいえ曇り? うそっ、冷え込んで雪が降る? コロコロ変わる天気予報を横目に、企画者が"晴れ男・晴れ女"ばかりだから大丈夫!と妙な自信をもって、いよいよ2月17日を迎えました。  「本当に奇跡的」といってもいいほどの素晴らしい天気に恵まれた3日間となり、空も海も冬とは思えない青さを見せつけてくれました。企画者と参加者の皆さんの願いが通じた好天に、ただただ感謝するばかりです。  それでは、3日間の旅の様子を、参加者の皆さんの感想を交えてご紹介したいと思います。 1日目 2月17日(日) 曇りのち晴れ  それぞれ長崎空港と長崎駅に集合した皆さんが、昼食会場で合流。午後は20名ずつのグループにわかれて、日本二十六聖人殉教地(西坂 長崎駅近く)と長崎歴史文化博物館(立山 諏訪神社近く)を結ぶコースに点在する史跡を巡るまち歩きです。日本二十六聖人殉教地では、記念館の結城了悟 前館長が出迎えてくださり、殉教者たちの思いをかたちにして伝えている記念碑(彫刻:舟越保武)や記念館・記念聖堂(設計:今井兼次)について解説してくださいました。また、今年11月24日に日本で初めておこなわれる列福式に関連して、西坂で殉教した中浦ジュリアンのお話もありました。 ★1日目の行程(基本コース)★ *場所によって、2グループに別れて散策 長崎空港・長崎駅 集合→(バス)    昼食<吉宗:茶碗蒸しと蒸し寿司>→(バス) 〔1〕 日本二十六聖人殉教地、記念館〔結城了悟 前館長〕→(徒歩) 〔2〕 本蓮寺→(徒歩) 〔3〕 中町教会→(徒歩) 〔4〕 聖福寺→(徒歩) 〔5〕 西勝寺→(徒歩) 〔6〕 サント・ドミンゴ教会跡→(徒歩) 〔7〕 長崎歴史文化博物館 *奉行所お白洲でボランティアによるお芝居を観劇→(バス) 〔8〕 ランタンフェスティバル(自由行動) 長崎市街に宿泊 2日目 2月18日(月) 晴れ  朝から良いお天気に恵まれた2日目。少しひんやりした空気もすがすがしく、一行は大浦天主堂、旧羅典神学校へ。そのあと、浦上に立ち寄って長崎巡礼センターの入口さんにレクチャーしてもらったあと、浦上天主堂へとあがりました。お葬式があるということで、天主堂内の拝観はできませんでしたが、信仰のなかにある教会の姿を感じていただけたようです。  そのあと、バスは外海へ。枯松神社で松川さんと日宇さんが待ってくれていました。外海に潜伏したかくれキリシタンのお話を聴きながら、仏教の方たちと共存してきた地域のきずなを感じることができました。 また、ド・ロ神父記念館では、90歳の橋口シスターのおだやかな微笑みと何もかもを包み込んでくれるようなオルガンの音色に、参加者の皆さんも心癒されたようでした。日宇さんがおやつにくださった手づくりパンの味は格別で、道の駅では地元産の果物などと一緒に買い占めて宅急便で送る姿もみられました。  途中、中浦ジュリアンの生誕地で夕陽を眺め、今夜の宿泊地である崎戸へとバスは向かいます。 ★2日目の行程(基本コース)★ *場所によって、2グループに別れて散策 各ホテル→(バス) 〔9〕 大浦天主堂→(徒歩) 〔10〕 旧羅典神学校→(徒歩)→自由行動→(バス) 〔11〕 浦上天主堂→(バス) 〔12〕 枯松神社→(バス)     昼食<日浦亭:ド・ロ様そうめん>→(バス) 〔13〕 大野教会→(バス) 〔14〕 大平作業場跡→(バス)→*車窓からド・ロ神父のお墓→(バス) 〔15〕 ド・ロ神父遺跡、記念館→(徒歩) 〔16〕 出津教会→(バス) 〔17〕 遠藤周作文学館→(徒歩) 〔18〕 道の駅 夕陽が丘そとめ→(バス) 〔19〕 中浦ジュリアン生誕地→(バス) 崎戸に宿泊 3日目 2月19日(火) 晴れ  あっという間に3日目。今日は、船に乗って黒島に渡ります。ぽかぽか陽気で、この様子なら波も穏やかでしょう。皆さん、3日目の疲れもみせず、ウキウキの笑顔で最終日の一日がスタートしました。  横瀬浦、西海橋を経由して、車窓から見える針尾無線塔や赤レンガの倉庫群など近代化遺産なども楽しみながら、佐世保市の相浦港へ。魚市場内の「もったいない食堂」で素朴な懐かしい味を堪能したあとは、いよいよ黒島へ。バスは1台だけを渡します。ここでも、地元の鶴崎さんと大村さんがガイドとして一行を歓迎してくれました。 ★3日目の行程(基本コース)★ *場所によって、2グループに別れて散策 ホテル→(バス) 〔20〕 横瀬浦→(バス) 〔21〕 西海橋、新西海橋、魚魚市場→(バス)     昼食<もったいない食堂:日替定食>→(バス)→相浦港→(船) 〔22〕 黒島天主堂、島内→(バス)(船)→相浦港→     夕食 持ち帰り<ぎおん:大村ずし> 長崎空港・長崎駅 解散 トラベル・スタディで伝わったもの  今回のトラベル・スタディでは、長崎県の自然、風景、歴史、特産品などの魅力をたくさん見たり味わったりしてもらえたと思います。でも、なにより、企画した私たち自身も感動し感謝したことがありました。それは、各地で心からのおもてなしをしてくださった地元のみなさんの笑顔と気持ちです。このふれあいや交流がなかったら、いくら素晴らしい天気で、どれだけたくさんの場所をまわったとしても、私たちが伝えたかったものの半分も参加者の皆さんの心に残らなかったかもしれません。  最後に、参加者の感想を少しだけご紹介させていただきます(抜粋)。 ○「講座のおかげで、長崎を旅するチャンスを得ました。わくわくして参加しました。みなさんのあたたかいもてなしで、本当に素晴らしい旅となりました。観光ツアーとは違うトラベル・スタディに大満足です。バスの中での先生のお話や、夜の唐人屋敷めぐりも楽しかったです。長崎が大好きになりました。」 ○「企画された皆様のきめ細かい配慮がプログラムの隅々に感じられ、観光ツアーにはない心あたたまる思いで、本当に楽しく過ごさせていただきました。大村湾の夕陽を眺めつつ、大村ずしをいただき、やがて機上の人となり、心地よい疲れをおぼえながら東京へと戻りました。」 ○「青い海、複雑な入江に囲まれた風光明媚な土地に、キリシタンの歴史があることを肌で感じることができました。危険や困難をかえりみず遠い外国からやってきた宣教師や神父のご苦労、迫害にあって殉教された方々の跡をたどり、思わず涙しました。信仰とは何かを真摯に考えさせられました。」 ○「外海や島の方々の素朴な信仰に感動いたしました。今回のトラベル・スタディでは、歴史や文化をベースにして、"今、生きている長崎"を感じることができました。参加者全体の雰囲気も良くて、"大人の学び"という感じでした。食事に関しては高級グルメではなく、ホッとする素朴で新鮮な食材を使った料理に好感がもてました。」 ○「すごくハートフルなトラベル・スタディでした。本当に現存したかくれキリシタンのことを思って、日本人の精神的な凄さと強さを改めて考えさせられました。」 ○「現地のガイドの方のもてなしは、心からうれしかったです。キリスト教の精神が深く伝わっているのが、よーくわかりました。出会った人々をとおして、自分も少しでも変わらなければと思いました。いただいた"遊学のしおり"は、今回の旅の記録として完成させたいです。地方の文化、日本の文化をひろめるために、長崎県の取り組みをもっともっと日本中の人々に知ってもらいたいですし、見習ってほしいと思いました。」 ○「長崎県の素顔に会えたような素敵な旅でした。」
  • 平戸藩2 2014年03月28日
    平戸藩2
    明治維新に向けた平戸藩 前回ご紹介しましたが、1775年(安永4)に平戸藩主となった清[静山]の第11女・愛子は、中山忠能と結婚し、慶子(よしこ)をもうけました。この慶子は、典侍として孝明天皇に仕え、明治天皇を生みましたので、愛子姫は明治天皇の外祖母にあたります。 また幕末には黒船が日本近海に出没し、国内では尊王攘夷の論争が起こり、佐幕・勤王の対立が激しくなっていきますが、時の平戸藩主・松浦詮(まつらあきら[心月])は、姻戚である中山忠能の指導を得て、平戸藩を勤王へと進めていきました。 1868年(明治元)には、鳥羽・伏見の戦に在京の平戸藩士が出陣するなど活躍しています。 また同年、平戸藩は奥羽出兵の勅命を受けました。二隊約400名が田助港を出帆し、出羽船川に上陸。角館(かくのだて)や苅和野(かりわの)の地などで会津庄内藩と戦っています。 平戸城では、幕末に関する詳しい展示がみられます   「西海の二程(にてい)」と呼ばれた楠本端山・碩水 1867年(慶応3)、松浦詮(あきら)[心月]が明治天皇に儒教の四書のひとつ「大学」をご進講することとなりました。このときの詮の講義は、堂々として見事な内容で、列席していた公卿や諸大名も驚くほどだったといいます。 この講義で、詮の侍講(じこう)であった楠本端山(くすもとたんざん)の名が全国に知られるようになりました。 幕末の平戸藩には、楠本端山と楠本碩水(せきすい)という平戸藩領針尾(はりお)島(現佐世保市)出身の兄弟がいました。三島中洲(みしま ちゅうしゅう)は、宋の儒者であった程朸協ていこΙと程頤(ていい)の兄弟になぞらえ、端山と碩水のことを「西海の二程(てい)」と讃えました。 今回は、この二人にスポットを当てて紹介していきます。 楠本端山は、平戸藩校・維新館に学び、葉山左内から才能を認められ、24歳の時に江戸留学を命じられました。佐藤一齋(さとういっさい)や大橋訥庵(とつあん)について儒学を深め、平戸藩に戻ると松浦詮に学問を講じながら、維新館の教員となりました。 端山は、当時の維新館の教育が単に解釈や暗記に偏ってきていることを指摘し、人間の徳性を養いものの道理を知るという朱子学本来の姿に近づけようと改革を唱えました。しかしこの改革は取り入れられなかったため、端山は教員を辞めて針尾へ帰郷します。 数年後、藩主である詮からの懇請もあり、端山は再び平戸に出仕し、詮の侍講を勤めました。端山の学識と人格に、藩主の信頼は厚かったといいます。 この当時、佐幕か尊王かで激しく国内が揺れ動いていましたが、端山は過激な行動を慎み、君主に仕える尊王の大義を藩主に説いたともいわれています。 明治維新後、端山は平戸藩権大参事という職につくと藩政に関わり、猶興(ゆうこう)書院をひらき、税を軽減して民生の安定をはかるなど学制の改革を行いました。 弟の碩水も維新館に学びます。九州各地を遊学した際には広瀬淡窓(たんそう)の門に入り、その後上京して佐藤一斎の門にも入り学びました。平戸に戻ると、維新館の教員となります。解釈や暗記に偏った保守的な藩校の改革をめざしましたが端山と同様に果たせず、城下に「櫻谿(おうけい)書院」という私塾を開き、自分の信じる教育を進め、子弟を教えました。この櫻谿書院では、当時侍講であった端山も招かれて、講義に出ていたといわれています。 明治維新後、碩水は貢士(こうし:各藩の意見を代表する役目)として上京し、その後新政府の役職がめまぐるしく変わり、新しく京都に設置された大学で漢学を教えました。しかしこの大学はわずか一年で廃止となりました。 若い頃、生涯仕官をさけて門人の教育に尽くした浅見絅斎(あさみけいさい)の影響を受けていた碩水は、その後藩に仕えることはなかったといいます。 楠本端山旧宅 平戸から針尾島に戻った端山と碩水は、1882年(明治15)に自らの学問、教育の理想をめざし、「鳳鳴(ほうめい)書院」を設立しました。 この鳳鳴書院では、知行合一を重んじ、国家につくす知徳豊かな人材を育てることを目的とし、きびしい規則や試験を課さずに、自由に学ばせる方針をとりました。   端山と碩水を慕って、九州各県のほか山口・島根・広島・香川・徳島・三重・新潟、さらに青森県など東北地方にまで及び、鳳鳴書院の門人は約400名にのぼったといいます。このほか維新館や櫻谿書院、猶行書院など私塾時代をあわせると、二人の門人は千数百名ほどといわれています。 この門人の中には、元老院議官や貴族院議員となった籠手田安定(こてだやすさだ)や熊本県出身で自由民権運動家の宮崎八郎など、明治期に国内外で活躍した先駆者が多くみられます。精神形成に実行を重んじる二人の教育が及ぼした影響も大いにあったと思われます。 二人の門人たちの活躍は、2010年(平成22)1月27日に公開された「歴史発見コラム」の“ 平戸を訪れた人々と平戸を旅立ち活躍した人々 ”をご覧ください。   参考資料 「史都平戸-年表と史談-」/松浦史料博物館 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 「江戸時代 人づくり風土記42 長崎」/企画・発行 社団法人農山漁村協会 歴史散策「楠本端山旧宅」 楠本端山旧宅の周辺には、有料道路・西海パールラインが整備され、大村湾やハウステンボス、針尾の無線塔などを遠望できます。近くをドライブするなら歴史スポットを訪れてみませんか? 楠本端山旧宅 旧宅は武家屋敷に儒教の祀堂を備えた珍しい造りです。近くに儒教様式の土墳墓7基があり、大変貴重なものとして県の史跡に指定されています。この建物は端山の父が1832年(天保3)に建築したもので,門は平戸の楠本屋敷より明治初年移築したものだそうです。 針尾の無線塔 国道202号から針尾農道へ入り、西海パールラインの下を走っていくと、巨大な3本のコンクリート製の電波塔を間近で見ることができます。元は日本海軍佐世保鎮守府下の無線送信所です。1918年(大正7)に着工し、1922年(大正11)に完成しました。1本の高さは130メートルを超えています。 浦頭(うらがしら)引揚記念平和公園 太平洋戦争の終結に伴い、海外に居住していた邦人や軍関係者約629万人が日本に引き揚げました。このうち主に中国大陸や南方諸島からの引揚船 1,216隻、一般邦人・軍人・軍属合わせて1,396,468人もの方々がこの浦頭に上陸しました。1986年(昭和61)、近くに浦頭引揚記念平和公園が整備され、当時の資料を展示した引揚記念資料館があります。 開館時間:9:00〜18:00(11月から3月は17時閉館) 入館料:無料 休 館:12月30日〜1月3日 浦頭引揚記念平和公園 内にある「かえり橋」 歌碑 引揚記念資料館 元検疫所消毒室の 軒先復元 (引揚記念資料館の裏) 引揚第一歩の地 平和公園から約500メートル ほど離れた波止場にある 記念碑です。
  • 五島藩 2014年03月28日
    五島藩
    五島藩(福江藩)は、1603年(慶長8)に五島玄雅(ごとう はるまさ)が徳川家康に謁し、1万5千石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まります。1869年(明治2)の版籍奉還まで、長崎県の五島列島(小値賀島を除く)を五島氏が治めました。 五島藩を知るには、五島氏の歴史を知る必要があります。ちょっとさかのぼって鎌倉時代の五島列島から見ていきましょう! 宇久氏 五島列島の上に位置する「宇久島」。この島には、鎌倉時代、宇久氏がいました。当時宇久島の南にある「小値賀島」では松浦氏と藤原氏が争っていましたが、宇久氏が徐々に南下し、中通島へ勢力を広げていきました。1383年(永徳3)頃、宇久覚(さとる)は、宇久島から福江島の鬼宿(現在の岐宿:きしく)に移り、福江島の在地勢力との間で契諾状を交わし、平和的に領土を拡大していきます。1388年(嘉慶2)には宇久勝(すぐる)が岐宿から深江(現在の福江)に移り辰ノ口城を築き、1413年(応永20)には小値賀島を除く五島列島を統一したといいます。 玉之浦納(たまのうらおさむ)の乱、宇久氏から五島氏へ 1507年(永正4)、宇久囲(かこむ)が、妹婿の玉之浦納の反逆によって命を落とし、辰ノ口城は焼失しました。妻子はなんとか平戸に逃れ、その後1521年(大永元)に囲の子・三郎(のちの宇久盛定)が玉之浦納を討ち、再興を果たします。 1526年(大永6)、領主となった盛定は、あらたに深江(福江)川河口の丘に江川城を築き、近くには中国人倭冦の頭・王直(おうちょく)に「唐人町」を開かせたといいます。福江川付近には、唐人町の名残りとして「明人堂」や「六角井戸」が史跡として今も残っています。 1592年(文禄元)には、宇久純玄(すみはる)が、姓を「宇久」から「五島」に改めました。豊臣秀吉の朝鮮出兵や天下分け目の関ヶ原の戦いなどを得て、五島玄雅(はるまさ)が五島藩初代藩主となり、世の中の動きに翻弄されつつもその歴史を刻んでいきます。 明人堂 六角井戸 五島におけるキリスト教 宇久盛定の後継・純定(すみさだ)は病に伏し、1562年(永禄5)、イエズス会に要請して派遣されてきた日本人医師ディエゴの治療を受けました。その後、純定はシャム(タイ)から五島経由で平戸に入るポルトガル船に宣教師派遣を頼み、1566年(永禄9)にポルトガル人修道士アルメイダと日本人修道士ロレンソを迎え入れたといわれています。医師でもあったアルメイダは純定の高熱の治療をおこなって信頼を得ると、五島での宣教を許されました。こうして五島におけるキリスト教の歩みが始まります。 その後信徒の数は増え、純定の次男・純尭(すみたか)は洗礼を受け、1576年(天正4)に領主となると熱心に信仰しました。福江や奥浦(おくうら)、六方(むかた)に教会が建ち、信徒は2000人を越え最盛期を迎えます。 しかし、純尭がわずか3年で没すると、後継の純玄(すみはる:純定の孫)は、キリスト教を排斥しました。純玄が朝鮮出兵で死亡すると、純定の三男でキリシタンの五島玄雅(はるまさ)が跡を継ぎ、いったんはキリスト教も再興しますが、関ヶ原の戦い後、加藤清正らの勧めによって棄教しました。その後も宣教師たちは来島していましたが、1614年(慶長18)に発令された徳川幕府の禁教令を受け、後継の五島盛利は宣教師を追放し、弾圧を強化しました。 福江直り 五島藩の2代藩主・五島盛利(もりとし)は、初代藩主・玄雅(はるまさ)の養子として跡を継ぎます。1619年(元和5)に玄雅の息子・角右衛門の養子であった大浜主水(おおはまもんど)が、後継者としての権利を主張するとともに盛利の失政を幕府に直訴しました【大浜主水事件】。この事件を機に、五島藩は藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築いていきます。兵農分離を徹底し、全島から家臣たちを集めて福江城下へ移住することを強制しました。島の各地で勢力をたくわえる者がでないようとおこなわれた城下定住の政策は、「福江直り(ふくえなおり)」とよばれ、1634年(寛永11)に完了します。また、領内の検地を実施し、家臣たちの知行高を決定して、藩財政の立て直しもおこないました。 「三年奉公」制度 五島盛利の時代までは、朝鮮半島に歳約船2艘を送るなど、海外貿易で利益を得ており、財政は比較的豊かであったといいます。しかし1614年(慶長19)、五島藩の自由貿易港である江川口と唐船之浦(とうせんのうら)の二港が閉鎖されると藩財政はひっ迫してきました。 さらに4代藩主・五島盛勝(もりかつ)の時代には叔父・盛清(もりきよ)が3,000石を持って富江に分知し、五島藩から分かれたことも経済的に大打撃を受けました。捕鯨で一時は潤ったものの、捕鯨の衰退や異国船に対する沿岸防備役として課せられた軍役負担、異国船漂着時の取り調べや長崎への曳航費用の負担、1681年(天和元)から寛保、宝暦と続いた飢饉などによって、財政はどんどん苦しくなりました。 財政の立て直しを図るため、質素倹約に努め、知行の一部を返上させたり役人の数を減らしたりもしましたが、それでも足りず、1761年(宝暦11)、7代藩主・盛道(もりみち)のとき、五島史上悪政のひとつといわれる「三年奉公(ぼうこう)」が実施されました。 富江陣屋跡 五島盛清は、富江小学校の運動場あたりに富江陣屋を築いたといいます。 三年奉公は、百姓、町人の娘が2度離別されると、武家屋敷で3年間の無報酬奉公をさせるというもの。しかし2年後には、百姓、町人、職人、漁師の長女を除く娘たちはすべて、15、6歳になると家中奉公をさせられるようになり、半奴隷的な労働を課せられたといいます。そのうえ無調法があれば、結婚することに対してまで制裁がなされていたといいます。驚くことにこの制度は、明治初期まで約100年間続きました。 五島観光歴史資料館 五島におけるキリシタン関連の資料が揃っています。 1774年(安永4)、五島藩では人別改めがおこなわれました。その結果、百姓が激減していることがわかり、1792年(寛政9)、8代藩主・五島盛運(もりゆき)は大村藩に農民移住を要請しました。第一陣は福江島の六方(むかた)に108人が上陸、最終的には3,000人ほどが海を渡って、宇久島を除く五島列島各地に分散して移住したといいます。この移住者のほとんどが西彼半島(せいひはんとう)西側の外海(そとめ)の人々で、信仰保持の苦難に悩んでいたキリシタンでした。移住者たちは荒地を開墾しながら小さな集落をつくり、帳方・水方などの組織のもと、ひそかにキリスト教の教えを守り続け、その信仰を貫いていきました。 五島藩校・育英館 五島藩の教育は、8代藩主・五島盛運(もりゆき)の時に始まりました。盛運は江戸藩邸に居た当時、儒者・永富独嘯庵(どくしょうあん)に付いて儒学を学びました。盛運は、石田陣屋(のちの石田城)内の一角に藩校・至善堂を創設し、1780年(安永9)には独嘯庵の子・数馬を教授として福江に招きました。1783年(天明3)、全藩士に文武両道を奨励し、盛運自らも出席していたといいます。 1821年(文政4)、9代藩主・五島盛繁(もりしげ)のとき、城下東町に新たに校舎と演武場が建てられ、藩校は発展していきます。名称も至善堂から育英館と改められました。 1849年(嘉永2)には10代藩主・五島盛成(もりあきら)が新たに石田城を築いたため、城内北部に藩校を移しました。 育英館では漢字の修学が重視されました。和学、兵学、そして幕末期には算術も加えられました。生徒の主体は藩士の子弟で、7〜8歳になると入学させられました。足軽などの子弟は各自の意思により入学ができました。農工商の子弟は、ほとんど入学することはありませんでしたが、特に希望する者は入学が許可され、優秀であればその身一代のあいだ藩士として挙用し、米なども若干支給されたといいます。 次回の「歴史発見!長崎幕末編」五島藩の2回目では、富江領と幕末に起こった「富江騒動」、「信徒発見後のキリシタン」を中心に紹介していきます。 参考資料 旅する長崎学13 海の道III『 五島列島 万葉と祈りの道 』 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 「海鳴りの五島史」(郡家真一著 佐藤今朝夫発行) 歴史散策「石田城(福江城)跡周辺」 五島列島には、多くの異国船の接近や漂着がありました。長崎港での貿易を許されていたオランダと中国の船はもちろんのこと、イギリスやロシア、さらには朝鮮の船など多くの外国船の記録が残されています。五島藩は幕府から異国船方を命じられていましたが、1614年(慶長19)に江川城が焼失した後、本丸・天守閣などがない石田陣屋を築いただけでした。異国警備にあたる五島藩としては心もとなく、再三にわたり幕府に築城の許可を願いでていましたがなかなか許されませんでした。 寛政年間から幕末にかけて、ロシア、アメリカ、イギリスなどの列強国が来航し、鎖国政策をとっていた日本に開国を迫るようになります。さらに1808年(文化5)には、イギリス軍艦が長崎港に侵入し、オランダ人を拉致し、当時の長崎奉行が責任を取って切腹するというフェートン号事件が起きました。こうした情勢により、幕府は1849年(嘉永2)、五島藩に築城許可を与えました。石田城は、日本で最後に築城された城となりました。 石田城(福江城)跡 15年の歳月をかけて、三方を海に囲まれた海城・石田城は完成しました。しかしながら、日本はその後すぐに明治維新を迎え、石田城はわずか築城9年にして解体されてしまいます。現在は、本丸跡に県立五島高等学校、二の丸跡には五島家の祖を祀る城山神社をはじめ、文化会館、五島観光歴史資料館、市立図書館が建ち並んでいます。 五島氏庭園・心字が池 石田城完成間近に五島盛成が隠殿と庭園を造りました。庭園を造ったのは京都の僧・全正(ぜんしょう)といわれています。 本丸跡 石田城の本丸跡には、現在五島高校があります。 城山神社 五島家の氏神を祀っている神社です。 武家屋敷通り 石田城から歩いて10分ほどのところに武家屋敷通りがあります。2代藩主・五島盛利が中央集権体制をめざして各地に散在していた豪族や藩士を福江に住まわせた政策、「福江直り」の時につくられました。通りには市の文化財に指定されている松園邸と播磨邸跡があります。城下町の風情が漂い、観光スポットして多くの人々が訪れます。 常灯鼻 福江港から見えるところに常灯鼻があります。五島盛成が石田城を築城するにあたり、城の北東から吹き寄せる大波を防ぎ、築城工事を容易にするために築かせたといわれています。防波堤としての役割のほか、灯台としての役目も持っていました。   周辺散策地図 石田城跡 五島氏庭園・心字が池 本丸跡 城山神社 武家屋敷通り 常灯鼻
  • 黒島天主堂に感動! 2014年03月25日
    黒島天主堂に感動!
    〜天井板の技巧〜  今回の黒島天主堂行きは、長崎巡礼センターの中村神父様にインタビューした歴史発見コラムの第11回「教会巡礼のマナー 〜教会の魅力を語る人びと その2〜」でのお話がきっかけでした。質問の中で、中村神父流"巡礼のススメ"として黒島天主堂の魅力を教えてくださった、あるお話に興味がわいたのでした。  中村神父:黒島に着任したころ、じーっと天井をみていると「あれ?おかしいな。」と不思議に思ったことがあったんです。黒島天主堂はすごいことをしていたんですよ。「何を?」とお思いでしょう。なんとお金がなかったから良い材木を揃えることができず、普通の安価な板を買ってきて、その板に木目を描いているんです。刷毛目(はけめ)という工法なんですが、ニスを塗ってその上から木目を付けた。おどろくなかれ、天井板はすべて手描きなのです。ドアの一部もそう。お金がないというところからのアイデアなんですが、今になってみるとスゴイことをしているんですよ…。  と聞いて、即座に「見てみたいです。行ってみます!必ず!!」と答えた私。そして実際に訪れてみて本当におどろきました。実は心の中では、「今でこそプリント合板が普通に流通しているけれど、明治のころにそんなアイデアがあるわけがない…」と、正直、半信半疑だったのです。しかし、実際に黒島天主堂をたずねてみると、当時の信徒のみなさんの手によって、驚くほどに緻密な板目が一枚一枚描かれていたのです。 今回は、"刷毛目"という工法で独特の雰囲気を生み出している黒島天主堂をご紹介します いざ、黒島へ!  実際に黒島へ行って、"刷毛目"という手描きの工法をこの目で確かめるしかない。カメラを持って、いざ、出発です! 長崎市内から高速バス2時間、松浦鉄道30分、フェリー1時間を乗り継ぐ小旅行。小雨がパラパラと降るあいにくの天気でしたが、波がおだやかだったので船上ではホッとひと安心でした。  フェリーが黒島港に到着しました。港では、先を急ぐ車、郵便物を受け渡して配達する姿、雨がやんだからか、何隻かの漁船が港を出発していくという、島の生活をちょっとだけ垣間見ることができました。岸壁から海中をのぞくと、底がまる見えで、泳ぐ魚の影がわかるほどの透明度に驚きでした。  おっと、先を急がなくては…。  港から黒島天主堂までは歩いていきます。 黒島天主堂  黒島港から山へと続く道を歩いていると、「ピーヒョロロ」とトンビが頭上を飛んでいました。ひたすら歩くこと約25分。黒島小学校まで来ると、黒島天主堂はすぐそこです。  やっと到着しました。  黒島天主堂は、明治35年、フランス人宣教師のマルマン神父が設計したレンガ造りの教会堂です。内部は国宝の大浦天主堂と同じ3層構造、内陣の床には有田焼のタイルが張られ、上海製の聖人像、フランス製の聖鐘、ステンドグラスが施されたこの美しい教会堂は、黒島に住む信徒の皆さんの献金と奉仕によって完成しました。一部には黒島で産出された赤土で焼かれたレンガを使用しています。 静かに教会堂の内部を見学させていただきました。 そして、今回、私をここに誘った"天井"をじっくり観察・・・。 刷毛目仕上げの擬似板とプリント合板の比較をしてみた さぁ、あなたはどちらがプリント合板でどちらが刷毛目仕上げの擬似板かわかりますか?  正解は、左がプリント合板で、右が刷毛目仕上げの擬似板です。 色合いが違いますが、どちらかというと刷毛目仕上げの方が逆にリアルな感じがしてきました。 天井板の手描きは、驚きの工法"刷毛目仕上げの擬似板"   教会を出ようとドアに手をかけた瞬間、ハッと驚きました。このドアの板目も刷毛目仕上げでした。 ドアの写真をクリックしてみましょう。アップで表示された木目がみえますか? 木目の線をたどってみると…、不自然に終わっていますよね。こんな木目はありません。あきらかに描かれたものなのです。 さらに、クローズアップ!  じかによく観察してみると、筆で板目を描いてあります。刷毛の跡が残るようにニスをサーッと塗り重ねて木目のディテールを表現しています。これは職人技に近い! すごい! 感動ーっ!! そして、板の一枚一枚が個性的。太さ、濃淡、形もさまざまです。あきらかに一人の人間ではなく多くの人たちの手によって描かれていることが見てとれます。天井全体を見渡すと、まるで現代アートをみているようでした。  信徒の皆さんたちの、天主堂の完成にかける思いが刷毛目という工法に込められ、一枚一枚大切に大工さんが組み建てていったのではないでしょうか。当時の苦労が目に浮かぶようです。刷毛目仕上げの板だけでなく、赤レンガも信徒の皆さんが手づくりしたレンガなんだそうです。 刷毛目仕上げの板は、天井板と開口部の扉すべてに使用されています。どれだけの人数でどのくらいの日数がかかったのでしょうか。この独特の重厚感をかもしだす雰囲気は、この天井板すべてに描かれた手描きのなせる業が生み出していたのでした。   刷毛目仕上げの板は、天井板と開口部の扉すべてに使用されています。どれだけの人数でどのくらいの日数がかかったのでしょうか。この独特の重厚感をかもしだす雰囲気は、この天井板すべてに描かれた手描きのなせる業が生み出していたのでした。 参考文献 「旅する長崎学6 キリシタン文化編 別冊総集編」 企画/長崎県 制作/長崎文献社  p.22 発見コラム カトリック信者の島 黒島 2007年 「長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」 監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社 2005年 「信仰告白125周年 黒島教会の歩み」 発行/黒島カトリック教会 1990年 長崎県 長崎から世界遺産を「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」黒島天主堂 ★いざ、黒島へ! R佐世保駅から松浦鉄道に乗り換えます。[伊万里][佐々」[たびら平戸口]行きに乗車し、約30分で<相浦駅>に到着。 相浦駅を降りて蛭子川に架かる港橋を渡って相浦桟橋へ。黒島旅客船のフェリーに乗って約50分です。 (1日3便の運行ですので、帰りの時間を確認しましょう。また、季節によって運行ダイヤの変更がありますのでご注意を!) ながさき歴史散歩 第3回 「 世界遺産候補を巡る旅 平戸&外海編 〜キリシタンゆかりの里を訪ねて〜 」もあわせてご覧下さい。
  • 旧石器時代から弥生時代まで 2010年06月23日
    旧石器時代から弥生時代まで
    旅する長崎学オリジナル年表の【旧石器時代から弥生時代まで】を確認する