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県北エリア

  • 第8回 大航海時代を物語る平戸城下町 2010年02月10日
    第8回 大航海時代を物語る平戸城下町
     ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「大航海時代を物語る平戸城下町」です。  このエリアは、16世紀から17世紀初頭、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスの貿易船がと来航し、国際貿易の中心地となり、「西の都」とも呼ばれ栄えていました。  さっそく大航海時代の面影を訪ねてみよう! 散策エリアの位置をチェック 散策コース&マップ 平戸城・亀岡神社 ↓車で約3分  平戸港交流広場 ↓歩いて約5分 外国貿易船錨遣唐使船碇 ↓歩いて約3分 イギリス商館記念碑 ↓車で約1分 幸橋 ↓歩いて約3分 イギリス商館跡 ↓歩いて約1分 三浦按針の館・三浦按針終焉の地 ↓歩いて約3分 王直屋敷・天門寺跡 ↓歩いて約3分 寺院と教会の見える風景、コルネリアの塔(瑞雲寺) ↓歩いて約3分 吉田松陰宿泊紙屋跡 ↓歩いて約3分 六角井戸、延命町(えんめいちょう)の町並み ↓歩いて約3分 藤浦洸の歌碑・平戸温泉うで湯・あし湯 ↓歩いて約3分 松浦史料博物館 ↓歩いて約3分 ポルトガル船入港碑・じゃがたら娘像 ↓歩いて約3分 平戸オランダ商館跡・オランダ埠頭・オランダ井戸・常燈の鼻 ↓歩いて約2分 オランダ塀・日蘭親交記念碑・オランダ公園 ↓歩いて約3分 崎方公園からの展望 スポットの紹介 平戸城(ひらどじょう)・亀岡神社(かめおかじんじゃ)  平戸松浦氏は、豊臣秀吉権下の1587年(天正15)、63,200石の大名となり、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際は、約3,000の軍兵を率いて朝鮮半島を転戦しました。帰還後の1599年(慶長4)、初めてこの地に「日の岳城」築城すべく着手しますが、完成を間近にした1613年(慶長18)の大火によって焼失してしまいました。  1603年(慶長8)、徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任官されて江戸幕府が始まり、幕藩体制は確立されつつありました。そのような中、家康は、秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしをむけていました。松浦鎮信(しげのぶ)(法印(ほういん))はその疑いを払拭するために、日の岳城に火をつけて焼却し、所領を安堵されたともいわれています。 天守閣からの展望。かつてこの海に帆船が往来していた・・・  それから約100年後の1704年(宝永元)、幕府の許可のもと、平戸城(亀岡城)再築に着手しました。山鹿素行(やまがそこう)の軍学に沿った縄張りがなされた、全国でも珍しい城です。14年の歳月を費やし、1718年(享保3)に完成しました。  1871年(明治4)に廃城。北虎口門、狸櫓、石垣、空壕などが残っていたものを、1962年(昭和37)、平戸市が復元しました。  天守閣からの眺望は素晴らしく、遠くは壱岐まで望むことができます。平戸港を擁した好地にそびえる城は、西海屈指の名城であり、幾多の歴史を物語っています。  天守内は資料館となっており、松浦党などの貴重な資料が展示されています。このほか、弥生時代の里田原遺跡(さとたばるいせき)や遣唐使時代の資料、明治天皇とその祖母にあたる中山愛子姫(平戸出身)の資料などもあります。 狸櫓について  平戸城北虎口門から入場するとすぐに、狸櫓があります。この狸櫓は、正確には「多門蔵(たもんぐら)」というのですが、こう呼ばれています。その由来については、松浦熈(ひろむ)(観中(かんちゅう))が「亀岡随筆三十六」に次のように記していました。  “櫓の床下に狸が住みついていた。1830年頃(天保初年)のこと、櫓の修理のため床板を剥ぎ取ったところ、ある夜、小姓に化けた狸が煕の寝所にやって来て、「私たち一族を櫓に棲ませてください。そうすればこの城を永代守護します」と嘆願した。そこで、翌日、床を元通りに戻してやった。”  こんなことがあって、この櫓は、狸櫓と呼ばれるようになったそうです。 亀岡神社  亀岡神社は、1880年(明治13)、松浦詮(あきら)(心月(しんげつ))によって、従来の祖廟霊椿山神社と八幡神社、乙宮神社、七郎宮が合祀されたものです。平戸の氏神であり、また松浦家の祖廟です。4世紀頃に西海鎮護のため、志々伎(ししき)、宮の浦に駐留した十城別王(とおきわけぎみ)(仲哀天皇の弟)の武将、七郎氏広の環頭(かんとう)の太刀などを所蔵しています。  境内には、浦敬一(うらけいいち)や菅沼貞風(すがぬまただかぜ / ていふう)、沖禎介(おきていすけ)、作江伊之助(さくえいのすけ)等の記念碑や中山愛子像があります。  この平戸城と各櫓、マキ並木を有した一帯「亀岡公園(かめおかこうえん)」は、桜の名所としても人気があり、観光客だけでなく市民にも親しまれています。平戸城は、常日22時までライトアップされ、対岸の平戸港交流広場やバスターミナルからも幻想的な光景を見ることができます。また期間限定ですが、平戸大橋もライトアップされますので、記念写真に是非おさえておきたいですね。 【平戸城】 入場料金 大人500円 中人300円 小人200円 団体割引:30名様以上2割引 開館時間 8:30〜17:30 休館日 12月29・30・31日 お問合せ先 0950-22-2201 平戸港交流広場  平戸港にある広場には、観光案内所が設置されており、観光や食事処などの情報を知ることができます。2時間程度無料で駐車できるスペースも設置されています。  ここから歩いて、大航海時代の足跡を見て行こう! 外国貿易船錨遣唐使船碇  大型の錨は1952年(昭和27)に川内港から引き揚げられたもので、松浦史料博物館に展示されているオランダ船錨ともよく似ており、海外貿易で栄えた平戸の様子をうかがわせてくれます。小型の錨は1956年(昭和31)に平戸瀬戸で引き揚げられたものです。一緒に展示されている方柱状の石材は、平戸の最南端に位置する宮の浦港から引き揚げられた中国船の碇石です。 イギリス商館記念碑  イギリスと日本の交流発祥の地である「平戸イギリス商館」を記念して、1927年(昭和2)に在日イギリス人たちより寄贈され、イギリス商館跡の対岸のこの地に設置されました。 幸橋(さいわいばし)  松浦棟(たかし)(雄香(ゆうこう))の命で、1702年(元禄15)に築造された石造りのアーチ橋です。かつてオランダ商館が築造した石造倉庫の技法によって造られたといわれており、別名「オランダ橋」とも呼ばれています。 イギリス商館跡  1613年(慶長18)にイギリス商館が設置され、1623年(元和9)に撤退するまでの10年間、イギリスは平戸を拠点として日本との貿易活動をおこないました。最終的には対日貿易で成果をあげることができず、商館を閉鎖して日本から撤退しました。  商館の位置は文献には詳しく残されていませんが、オランダのハーグ国立文書館保存の1621年(元和7)の古地図によれば、今の親和銀行付近にアーチ式門、円筒形の建物が見え、この一帯にあったといわれています。  初代イギリス商館長リチャード・コックスが、日本で初めて移植栽培したと伝えられる甘藷(かんしょ)畑跡(県指定史跡)は平戸市川内町にあり、イギリスとの関係を今に伝えています。 三浦按針の館(あんじんのやかた)・三浦按針(みうらあんじん)終焉(しゅうえん)の地 三浦按針の館 三浦按針終焉の地  イギリス人ウィリアム・アダムスは、オランダ艦隊の航海長としてマゼラン海峡を経て1600年(慶長5)、豊後に漂着しました。日本に着いたのは5隻艦隊のうちリーフデ号ただ1隻のみ。2年の歳月をかけた航海は、500人近くいた乗組員のうち生きて動ける者がたったの10数名と、相当に過酷なものだったそうです。ウィリアム・アダムスは、徳川家康に謁見して信任を受け、家康の外交顧問として、三浦郡逸見村(神奈川県)に知行地を受け、三浦按針と名乗りました。  松浦鎮信(しげのぶ)(法印(ほういん))は、このリーフデ号の乗組員をマレー半島のバタニへ送りとどける役目をかってでて、1609年(慶長13)には2隻のオランダ船を平戸へ入港させます。そして、オランダの使節を家康、秀忠に謁見させて貿易と商館設置の許可を得、平戸にオランダ商館を設置することに尽力しました。さらに1613年(慶長18)には、イギリス商館も設置されます。  按針は日本と交易する諸外国と公平な立場をとるため、商館には住まず、木田弥治右衛門宅を住まいとし、在宅中はイギリス国旗を掲げていたといいます。1620年(元和6)、ここで亡くなりました。享年57歳でした。現在この館は、平戸を訪れる人々の休憩の場所として活用されています。 <ちょっと一息>(平戸伝統菓子の紹介)  平戸に伝わるお菓子を味わおう! 「三浦按針の館」でちょっと一休み。南蛮の香りただよう平戸名物のお菓子「カスドース」をお土産に買ってみました。美味しそう! カスドース  ポルトガルとの交流によってうまれた南蛮菓子のひとつですが、長崎カステラとは一味違います。外はサックリ、中はしっとりとしているのが特長。卵と砂糖は当時大変貴重で藩主のお留め菓子だったそうです。 牛蒡餅(ごぼうもち)  中国から伝わったと言われています。慶弔時の菓子として用いられていました。その姿が牛蒡に似ていたことからその名がついたといわれています。王直が製法を伝えたという説もあります。 王直屋敷(おうちょくやしき)・天門寺跡  1542年(天文10)、中国の海商・王直が邸宅を構えたところです。この地に唐様式の建物を建て、松浦隆信(たかのぶ)(道可(どうか))の寵を得て15年間栄華を極めました。  1556年(弘治2)、王直は明に捕らわれ、処刑されてしまいます。1588年(天正16)には隆信の隠宅として用いられ、後に印山寺と称されました。 天門寺跡  1550年(天文19)のポルトガル船入港によって、平戸における西洋貿易が始まりました。しかし、1561年(永禄4)に平戸商人とポルトガル船員との間に起こった殺傷事件(宮ノ前事件)が原因となり、ポルトガル人は新たな港を求めて横瀬浦(西海市西海町)へと去ってしまいます。しかし、横瀬浦が焼き討ちにあったため、2年後には再びポルトガル船は、平戸へ戻ってきました。松浦隆信(道可)は歓迎し、この地に御宿(みやど)りのサンタ・マリア教会(天門寺)の建立を許可したといいます。 寺院と教会の見える風景、コルネリアの塔(瑞雲寺)  光明寺・瑞雲寺・正宗寺と3つの寺院に重なるように、聖フランシスコ・ザビエル記念教会の屋根と十字架が望める場所です。異国文化の溶け合う町並みに、寺院と教会が混在する平戸の象徴的な風景を堪能することができます。 周辺の石畳の階段や坂道は風情ある静かな散歩道で、観光客が記念撮影をする姿がよく見られます。 コルネリアの塔(瑞雲寺内)  コルネリアはオランダ人男性と日本人女性の間に生まれました。父親は、オランダ商館長コルネリス・ファン・ナイエンローデ。彼は10年間平戸に勤務し、1633年(寛永10)にこの世を去りました。はじめトケシヨという日本人と結婚して一女エステル(山崎甚左衛門の義姉に当たる)をもうけ、後にスリシャという女性と結婚してコルネリアが生まれました。スリシャはナイエンローデ死後復籍して判田五右衛門に嫁ぎ、コルネリアは商館に引きとられて育ちました。  1637年(寛永14)、幕府の鎖国政策により、彼女たちのような混血児はバタビア(今のジャカルタ)に追放されてしまいます。コルネリアは、その地で東インド会社の事務員ピーテル・コノルと結婚して裕福に暮らしましたが、平戸に残った母を慕い、子を抱いた自分の木彫り像を判田家に送ったといいます。1679年(延宝7)、両親の菩提(ぼだい)を弔いたいという彼女の願いによって、判田家は西久保法華宗本成寺の境内に五輪の塔を建てました。現在は、瑞雲寺境内に移されています。 吉田松陰宿泊紙屋跡 1850年(嘉永3)、吉田松陰は、山鹿流軍学を学ぶために平戸を訪れました。儒学者で平戸藩家老でもあった葉山佐内にひかれ、この地にあった紙屋に滞在しながら数多くの書物を書き写したといいます。 六角井戸、延命町の町並み  中国人の海商・王直がつくったといわれる六角井戸です。唐人や倭寇にゆかりの遺構として伝承されています。  江戸時代初期の平戸には、オランダやイギリスの東インド会社による貿易の窓口がおかれていました。この付近には川崎、半田家などの豪商や大商人が軒を連ね、武士や町人、外国人の往来が多かったといいます。 藤浦洸(ふじうらこう)の歌碑・平戸温泉うで湯・あし湯  藤浦洸は、オランダ商館跡に建った家を生家とし、詩人・作詞家として活動しました。代表作には、美空ひばりの「東京キッド」や、ラジオ体操の歌などなじみ深い作品があります。  横には、平戸温泉を無料で楽しめる手足専用の「平戸温泉うで湯・あし湯」があるので、散策に疲れたら、ここでひと休みしましょう。平戸温泉は、神経痛ややけどにも良いナトリウム炭酸水素塩泉です。(利用時間8:00〜21:00) うで湯 あし湯 松浦史料博物館  1955年(昭和30)に開館した博物館で、松浦陞(すすむ)(如月(じょげつ))によって寄贈された松浦家伝来の貴重な資料等を中心に収蔵しています。建物はもと鶴ケ峰邸と称して1893年(明治26)に建てられた当主の私邸で、現在は国の登録文化財となっています。  館内には、オランダ製で江戸時代に松浦清(きよし)(静山(せいざん))が長崎で購入した地球儀や天球儀、異国船絵巻、室町末期の作の紺糸威肩白赤胴丸(こんいとおどしかたしろあかどうまる)など、貴重なコレクションが展示されています。地球儀をよく見ると、北海道と大陸がつながって描かれています。おもしろいですね。また、定期的に企画展も開催されています。  兜や鎧などを自由に試着して、記念撮影ができるコーナーもあります。 平戸藩最後のお殿様が建てた茶室・閑雲亭(かんうんてい)。台風によって崩壊したため復元されました。元禄時代、松浦鎮信(しげのぶ)(天祥(てんしょう))によって始められた武家茶道・鎮信流(ちんしんりゅう)。閑雲亭は、今に受け継ぐ門人たちの稽古道場となっており、茶道体験もおこなわれています。詳しくはお問い合わせください。 1997年(平成9)、博物館の敷地内にオープンした喫茶ミューゼアム「眺望亭(ちょうぼうてい)」です。外観は純和風の倉造りになっていますが、中に入るとアンティークな家具や調度品が並び、西欧の雰囲気に包まれます。少し時間をとって、景色を楽しみながらのティータイムを過ごしてはいかが?  ここでしか手に入らないオリジナルグッズも販売されています。 【松浦史料博物館】 入館料 個人:大人500円 高校生300円 小・中学生200円 団体:大人400円 高校生240円 小・中学生160円 身障者(個人):大人90円 高校生50円 小・中学生 40円 身障者(団体):大人80円 高校生40円 小・中学生 20円 ※団体割引は30名様以上、一括購入のみ適用です ※身体障害者割引は、証明書が必要です ※館内は写真撮影・ビデオ撮影は禁止しています 開館時間 8:00〜17:30  8:00〜16:30(12月のみ) 休館日 年末年始のみ(12月29日〜1月1日) お問合せ先  0950-22-2281 ポルトガル船入港碑・じゃがたら娘像  ポルトガル船が平戸に初めて来航したのは1550年(天文19)のこと。その歴史を記念し、碑が建てられています。この場所は、「王直屋敷(おうちょくやしき)・天門寺跡」のところで紹介した、1561年(永禄4)の宮ノ前事件の現場といわれています。  ポルトガル船入港碑のそばには、じゃがたら娘像があります。島原の乱以降、幕府の鎖国政策とキリシタン弾圧はますます厳しくなりました。瑞雲寺にある「コルネリアの塔」でもふれましたが、コルネリアのような混血児たちは平戸から出航してジャカルタに追放され、二度と日本には帰れなかったのです。この像は、異国より望郷の念をジャガタラ文に託す娘の姿をしのび、1965年(昭和40)に建立されました。 平戸オランダ商館跡・オランダ埠頭・オランダ井戸・常燈の鼻 古い町並みを味わいながらゆっくり歩きましょう!  1609年(慶長14)、オランダは耐火倉庫付き家屋1軒を借り受けて商館業務を開始しました。貿易の拡大とともに海岸を埋め立て敷地を拡大していきます。1640年(寛永17)、建物の破風(はふ)にキリスト生誕を紀元とする西暦年号が記されていることを理由に、幕府による破壊命令がくだります。オランダ商館は1641年(寛永18)に長崎出島へと移転することとなり、平戸オランダ商館の歴史は幕を閉じました。 平戸オランダ商館跡  現在、「平戸和蘭(オランダ)商館1639年(寛永16)築造倉庫復元整備」がおこなわれており、2011年秋に完成する予定です。楽しみです!   周辺には、オランダとの交流をしめす面影が残っています。さあ、散策してみよう。 オランダ埠頭  東インド会社が所有する帆船の荷卸し、積み込みをおこなっていたところです。背後に水門があり、さらに荷物を置く広場があったと考えられています。築造年代は不明です。 オランダ井戸  オランダ商館員用の井戸として掘られたものです。オランダ埠頭と同様、築造年代については明らかではありませんが、商館移転の際に破壊を免れた遺構として貴重なものです。 常燈の鼻  1630年代におこなわれた拡張工事によって、ほぼ現在の地形が整いました。この海岸石垣も当時のものといわれています。常燈の鼻には、かつてオランダ国旗が翻っていましたが、商館が長崎へ移行した後の1643年(寛永20)に常夜燈が設置され、夜間の船の航行の安全を守る平戸瀬戸の灯台として機能しました。 オランダ塀・日蘭親交記念碑・オランダ公園 オランダ塀  石段に沿って続く漆喰(しっくい)で塗り固められた塀は、オランダ塀とよばれています。1609年(慶長14)から1641年(寛永18)までの間、この塀の東側にオランダ商館が置かれていました。商館を外から覗かれないように、この塀が設置されたといいます。塀の高さは2メートル、底辺の幅は約70センチあります。当時の様子を知ることができる遺構のひとつです。 日蘭親交記念碑  1925年(大正14)に日蘭交流発祥の地として、当時の日蘭協会が両国の親交を記念し建立したものです。除幕式はオランダ国特命公使らを迎えて執り行われました。 オランダ公園  きれいに整備されたオランダ公園。オランダ人も見ていた景観を味わおう。 崎方公園からの展望  平戸桟橋の裏手山一帯で、桜とつつじの名所として知られています。  平戸市街を見下ろす高台にあるので、対岸にそびえる平戸城や港をぐるりと囲む町並みを見ることができます。今回巡った散策コースを思い出しながら、あらためて平戸の歴史を感じてみましょう。 取材協力 ・社団法人 平戸観光協会 ・平戸市振興公社 平戸城 ・財団法人 松浦史料博物館 参考資料 ・『旅する長崎学1 キリシタン文化I』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) ・「史都平戸―年表と史談―」/松浦史料博物館 ・「郷土史事典」(長崎県/石田 保著昌平社出版)
  • 第8回 歴史と自然を満喫する平戸・松浦路 2010年01月06日
    第8回 歴史と自然を満喫する平戸・松浦路
     このコーナーでは、長崎県内の歴史を探っていく旅のドライブルートを紹介しています。  今月の注目エリアは『平戸・松浦』。平戸はかつて、「西の都フィランド」と呼ばれ、ポルトガルやスペイン、オランダ、イギリスなどヨーロッパの国々や中国と貿易をおこなった国際色あふれる港町でした。まずは、平戸・松浦の位置をチェックしておこう!   平戸・松浦の位置と歴史  平戸・松浦へのアクセス 今回、一緒に旅をしてくれるのは、 この「旅する長崎学サイト」オリジナルのキャラクターたちです。 平戸・松浦の自然や名物など、いろんなことを教えてくれるよ! さぁ、早速スタート地点の平戸市田平町へLet's GO!! 今回のドライブルート 1日目 道の駅「昆虫の里たびら」(みちのえき「こんちゅうのさとたびら」) ↓車で約5分 たびら昆虫自然園(たびらこんちゅうしぜんえん) ↓車で約30分 平戸大橋(ひらどおおはし) ↓車で約25分 鄭成功居宅跡(ていせいこうきょたくあと) ↓車で約25分 平戸切支丹資料館(ひらどきりしたんしりょうかん) ↓車で約1分 根獅子の浜海水浴場(ねしこのはまかいすいよくじょう) ↓車で約10分 生月大橋(いきつきおおはし)・道の駅「生月大橋」(みちのえき「いきつきおおはし」)・中江ノ島(なかえのしま) ↓車で約1分 平戸市生月町博物館 島の館(ひらどしいきつきちょうはくぶつかん しまのやかた) ↓車で約15分 塩俵の断崖(しおだわらのだんがい) ↓車で約5分 大バエ灯台(おおばえとうだい) ↓車で約40分 平戸城周辺へ 2日目 平戸城下町(ひらどじょうかまち) ↓車で約15分 焼罪史跡公園(やいざしせきこうえん) ↓車で約5分 日本最西端の駅「たびら平戸口駅」(にほんさいせいたんのえき「たびらひらどぐちえき」)・松浦鉄道(まつうらてつどう) ↓車で約10分 大崎海水浴場(おおさきかいすいよくじょう) ↓車で約10分 道の駅「松浦海のふるさと館」(みちのえき「まつうらうみのふるさとかん」) ↓車で約10分 不老山総合公園(ふろうさんそうごうこうえん) ↓車で約15分 調川道路公園(つきのかわどうろこうえん) ↓車で約10分 梶谷城跡(かじやじょうあと) スポットの紹介 1日目 道の駅「昆虫の里たびら」(みちのえき「こんちゅうのさとたびら」)    佐世保から平戸方面へと向かう国道204号を北に走っていると、右手に大きなカブトムシのモニュメントが見えてきます。ここが道の駅「昆虫の里たびら」です。長崎県の県北地域の特産品や農産物がそろっていて、ドライブ途中のお立ち寄りスポットとして人気があります。平戸市と松浦市の観光パンフレットやイベントのチラシなども置いてあるので、情報入手のためにも立ち寄るのもいいですよ。 県立北松農業高校の生徒さん手づくりの“ざぼんジャム”と“にくみそ”。 特に4月下旬頃に出荷される“イチゴジャム”は大人気で、売り切れてしまうことも。 独自の製法で蒸し上げる“川内蒲鉾”。一度食べるとやみつきになるようで、ファンが多い人気商品です。 とれたての新鮮な野菜やお弁当も販売されています。 たびら昆虫自然園(たびらこんちゅうしぜんえん)    たびら昆虫自然園は、畑、小川、池、雑木林、草原などの里山の環境を再現し、そこに集まる昆虫たちを自然のままに観察できる施設。田平町にもともと住んでいる昆虫のうち、3,000種類以上が生息しているといいます。  ここでは、園の解説員の方々が、自然の中を解説しながら案内してくれます。1時間程度で30〜60種類ほどの昆虫を観察することができるそうです。虫たちがどんな特徴をもち、どんな生活をしているのか。そして自然の中でどんな役割を持っているのかなど、詳しく知ることができます。 #08" class="btn basic_btn">島の館に入ってみる ◎入館料 【個人】  大人500円、高校生300円、小中学生200円 【団体】  15名以上450円、高校生270円、小中学生180円      50名以上400円、高校生240円、小中学生160円      100名以上300円、高校生180円、小中学生120円 【身障者(個人・団体)】  大人250円、高校生150円、小中学生100円 【年間パスポート】  大人1,000円、高校生600円、小中学生400円 ◎開館時間 9:00〜17:00(最終受付16:30) ◎休館日 正月(1月1日、2日)特別休館有 ※ご予約により博物館内、生月島内をご案内いたします。 ※島内案内のみ有料 塩俵の断崖(しおだわらのだんがい)  柱がいくつも立っているような奇岩。南北に500メートル、高さ約20メートルという圧巻の光景。火山の溶岩と玄海の荒波が刻んだ壮大な彫刻ともいえます。 大バエ灯台(おおばえとうだい)    80メートルほど切り立つ大バエ断崖の上に立つ白亜の無人灯台です。展望所も設置されており視界いっぱいに水平線が広がる大パノラマが広がります。 ●平戸のグルメ  平戸では肉も魚も堪能できます。霜降りで柔らかく甘みのある長崎和牛、海のエキスたっぷりの牡蠣、獲れたての天然ひらめなど、とっても豪華です。  魚の中でも高級魚として知られるひらめ。平戸は日本でも有数の漁獲高を誇り、獲れたての天然ものを味わうことができます。また旬の時期を迎える1月から4月までは、「平戸ひらめまつり」が開催され、宿泊施設ではひらめ料理と宿泊がセットになったプランが毎年好評です。2010年は、1月15日から4月4日まで開催されます。天然のひらめを贅沢に味わってみてください。    さらに、平戸市補助金が入って「2泊3日で8,000円〜」と、ご予算に合わせたお得なキャンペーンも実施されます。(2010年1月12日〜3月14日)  詳しくは、平戸観光協会のウェブサイトをご覧ください。 2日目 平戸城下町(ひらどじょうかまち) 焼罪史跡公園(やいざしせきこうえん)  1622年(元和8)、キリスト禁教令の下で布教活動・救済事業をおこなったイタリア人宣教師・カミロ・コスタンツォ神父が、宇久島で捕らえられました。そして田平のこの地で火刑に処され、50歳の生涯を閉じました。カミロ神父は、自分の命を神に捧げることを喜び、「すべての民よ、神をほめたたえよ」と歌い、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな・・・」と5回祈って、帰天したといわれています。  殉教の時代を今に伝えるため、1990年(平成2)、平戸瀬戸を望む小高い丘に「殉教の碑」が建てられました。 日本最西端の駅「たびら平戸口駅」(にほんさいせいたんのえき「たびらひらどぐちえき」)・松浦鉄道(まつうらてつどう)  東経129度35分、北緯33度21分にあるこの駅は、日本最西端の駅・たびら平戸口駅です。この駅では、「日本最西端の駅訪問証明書」を発行(200円/平成21年12月現在)してくれるので、旅の記念やお土産として人気です。あわせて、「たびら平戸口駅」入場券(160円/平成21年12月現在)も一緒に買っていくマニアな人も少なくありません。 日本最西端の駅訪問証明書 駅名が入ったストラップ ●松浦鉄道  1918年(大正7)、世知原(現佐世保市世知原町)の政治家・中倉万次郎らが発起人となり、石炭の運搬賃を主な収入源とする佐世保軽便鉄道会社を設立しました。1931年(昭和6)までに佐世保から佐々までを開通させ、翌年には松浦炭鉱鉄道を買収して吉井(現佐世保市吉井町)まで路線を伸ばしました。その後、1936年(昭和11)に国鉄が全線を買収。線路幅を軽便時代の76センチメートルから102センチメートルに広げ、1944年(昭和19)には伊万里線と連結し、1988年(昭和63)に現在の松浦鉄道(愛称MR)となりました。 大崎海水浴場(おおさきかいすいよくじょう)  御厨町(みくりやちょう)にある白い砂浜の海岸線が約150メートルも続く遠浅の大崎海水浴場です。  ロケーションが良く、ウィンドサーフィンやキャンプのスポットとしても人気です。ゴールデンウィークあたりから夏の終わりまで、家族連れや恋人同士、友達グループで賑わいます。 道の駅「松浦海のふるさと館」(みちのえき「まつうらうみのふるさとかん」)    松浦で水揚げされた鮮魚や地元の水産加工品、農産物、お土産などを販売している「道の駅 松浦海のふるさと館」です。ここでは松浦市内だけでなく、長崎県内の特産品も揃っているので、お土産を買うのにも便利です。  また、松浦には、主に遠洋まき網漁業の水揚げ基地として整備された魚市場があり、特にアジとサバは日本有数の水揚げを誇ります。だからお魚も新鮮です。 不老山総合公園(ふろうさんそうごうこうえん)    日本各地に残る「徐福伝説」の一舞台といわれ、弥生時代に秦の始皇帝の命を受けた徐福が“不老不死の薬”を求めて訪れたことから、「不老山」という名前がついたといわれています。  標高288メートルの山頂からは、伊万里湾や緑豊かな松浦市の山並みなど360度の展望を楽しめます。春には11万本のツツジが咲き乱れ、県内外から多くの人が訪れて賑わいます。 調川道路公園(つきのかわどうろこうえん)    中世に活躍した「松浦党(まつらとう)」をモチーフにしたモニュメントは、記念撮影にバッチリのスポットです。松浦党は、源平の合戦にも参戦し、元軍が攻めてきた元寇(文永の役・弘安の役)のときには、目の前の湾内に集結した元軍の軍船に奇襲戦法などで応戦しました。郷土の歴史ロマンと先達者の活躍をたたえて、設置されました。 梶谷城跡(かじやじょうあと)    松浦党の祖・源久(みなもとのひさし)が宇野御厨検校(うのみくりやけんぎょう)として1095年(嘉保2)に今福に下向しました。梶谷城は、翌年の1096年(永長元)に築城の縄張りを始めたといわれています。※源久の出自、築城の年代等については諸説あります。  この城山の頂から望む景観は雄大で、北は伊万里湾の福島からさらに遠くは壱岐・対馬を望み、西には志佐(しさ)・田平、平戸島、そして遠く五島列島へとひらけています。天気のいい日にぜひとも訪れたいスポットです。 参考資料 『旅する長崎学3 キリシタン文化III』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学10 近代化ものがたりIV』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『史都平戸 -年表と史談-』(財団法人松浦史料博物館) 『松浦の史跡 -伝承と文化財-』(松浦史談会) 取材協力 社団法人 平戸観光協会 松浦市教育委員会 生涯学習課 文化財室) 道の駅「昆虫の里たびら」 たびら昆虫自然園 平戸切支丹資料館 道の駅「生月大橋」 生月町博物館 島の館 道の駅「松浦海のふるさと館」
  • 第3回 世界遺産候補を巡る旅 平戸&外海編 2007年05月02日
    第3回 世界遺産候補を巡る旅 平戸&外海編
    キリシタンゆかりの里を訪ねて  「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産の候補となりました。長崎におけるキリスト教の歴史は、伝来、繁栄、禁教、弾圧のあと、長い潜伏を経て奇跡の復活を遂げ、その後各地に教会が建てられ、いまに続いています。この世界宗教史上まれにみる激動の歴史と、厳しい迫害の中で何代にもわたって受け継がれてきた篤い信仰の姿を、いまもなお現存する教会や史跡の数々が物語っています。現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」には、県内各地に残るキリシタンの歴史を物語る文化遺産のなかでも、代表的な史跡や教会が構成資産として、県内20箇所がピックアップされています。  このウェブサイト「旅する長崎学<<たびなが>>」では、この20箇所を「平戸&外海編」「長崎市街&島原編」「五島編」と、3編に分けてご紹介します。長崎のキリシタンの歴史を旅してそのすばらしさと価値を体感すると、これらの“長崎のたからもの”をずっと大切にして、世界中の人にも知ってほしいと思わずにはいられません。今回は、「平戸&外海編」です。このエリアに点在する貴重な教会と遺産を旅してきました。教会は祈りの場所ですから、マナーを守って見学させていただきましょう。 歴史のとびら  長崎におけるキリスト教の歴史は、1550年、平戸に来航したフランシスコ・ザビエルの布教にはじまります。海外からやってきた宣教師たちの熱心な宣教活動と、南蛮貿易の利を得たい領主たちの思惑もはたらいて、キリシタンの数は増え続けますが、一転して受難の時代を迎えることになります。禁教下での弾圧による迫害、そして殉教・・・。1644年には日本国内にはひとりの神父もいなくなってしまいますが、キリシタンたちは先祖から伝えられた伝承やマリア信仰を心のよりどころに、潜伏しながらその教えを守り続けるのです。こうして受け継がれた篤い信仰は、約250年もの長い潜伏の時を経て、1865年、大浦天主堂を舞台に起こった「信徒発見」とよばれる信仰表明の感動的な瞬間へとつながり、日本キリシタンの復活は世界中に感動と衝撃を与えました。こののち、信仰の証として信徒たちの手によって建てられた教会は、まさに復活のシンボル的な存在となったことでしょう。長崎の自然環境とみごとに調和した幻想的で厳かな空間はもちろん、西洋と日本の技術が折り込まれた美しく独創的な意匠は、訪れる人々を魅了します。これらの遺産は450年以上もの歴史が育んだ結晶なのです。 現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産としてピックアップされているのは20資産。そのうち教会が12件、キリスト教関連遺産は史跡など8件となっています。この長崎の“たから”を、次の世代へと大切に受け継ぎたい。2007年、長崎県は世界遺産の登録へ向けての大きな一歩を踏み出しました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1泊2日 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2田平天主堂 ↓車で相浦港まで約30分+フェリーで約50分+徒歩約20分(佐世保で1泊、相浦10:00発に乗船) img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4大野教会 ↓車で約10分 or 徒歩約1時間 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6旧出津救助院 ↓徒歩約5分
  • 第18回 生月を旅する!(2) 2007年12月19日
    第18回 生月を旅する!(2)
    〜しまに息づく かくれキリシタンの歴史〜 歴史のとびら  生月は、美しい海に囲まれた小さな島。長崎県の北西部に位置し、平戸島の北の沖合いに浮かびます。かくれキリシタンたちが大切に守ってきた信仰を今でも伝承する"祈りの島"でもあります。その歴史は、長崎でもいち早くキリスト教が伝えられ、一時はキリシタン文化の繁栄をみながら、その後は弾圧と迫害、脱出と潜伏……、時代に翻弄された厳しい棘(いばら)の道でした。 キリシタン時代  1550年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが平戸に上陸しました。松浦隆信(道可)を領主とする平戸は、これまでの大陸との交流に加え、ポルトガル船の到来によって西洋との貿易を獲得し、「西の都」と呼ばれるまでに繁栄していました。さらに、平戸・生月地方でキリスト教が浸透し、キリシタン文化が誕生したのでした。  籠手田(こてだ)と一部(いちぶ)の両氏は、松浦隆信(道可)の家臣で、松浦氏の勢力圏のなかで生月島、度島、平戸島の西海岸を支配していました。1558年、籠手田氏の領地である生月島南部、度島、平戸島内で領民の一斉改宗がおこなわれ、改宗を指導したガスパル・ヴィレラ神父の手によって、教会や十字架が建立されました。このように多くの村を含む広い地域で一斉改宗がおこなわれたのは、籠手田領の改宗が最古の事例だそうです。しかしその際に、仏像を焼いたりしたことから、仏僧や仏教徒の反感が強まり、隆信はヴィレラ神父を追放する事態となりました。  1561年、平戸では、日本人商人とポルトガル船員の取引上のトラブルから殺傷事件「宮の前事件」が起こり、翌年、貿易の港は、いったん大村領内の横瀬浦に移ります。しかし南蛮貿易を継続させたい松浦隆信(道可)は、平戸領内に教会の建立を許可するなど手を尽くし、1564年にはポルトガル貿易船の再入港を成功させます。しかし、宣教師の隆信に対する不信感は拭えず、結局大村の領主で、のちに日本初のキリシタン大名となる大村純忠と手を組み、翌1565年の貿易船は、大村領内の福田港に入港することとなります。平戸への貿易船の入港を期待していた隆信は、その事態に激怒し、福田に停泊していたポルトガル船に攻撃をしかけますが、敗れてしまいます。  くしくも同年、一部氏が支配する生月島北部などで一斉改宗がおこなわれ、これによって生月の全島がキリシタンの島となりました。しかし平戸の松浦氏やその家臣と、キリシタン領主である籠手田・一部氏との間に生じた亀裂は、その後修復されることはなく、次第に深まっていったのでした。  1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布。その時生月は、日本各地で布教活動をしていた多くの宣教師たちをかくまいました。同時にセミナリヨやコレジオも一時的に移ってきたといわれています。1596年には、秀吉の命によってキリシタン26人が西坂の丘で殉教を遂げたことを機に、キリスト教に対する処遇は厳しくなっていきます。 禁教・殉教時代  1599年、平戸の前藩主・松浦隆信が死去。家督を継いだ息子の鎮信(法印)は、意に反して思うようにならない宣教師やキリシタンたちを嫌い、父の法要に参列するよう家臣たちに強要します。キリシタンであるため仏事に参列できないとした籠手田安一と一部正治は、信者800人を引き連れ、故郷である生月島を離れ、当時イエズス会の勢力が強かった長崎へと亡命したのでした。  しかし、島には信仰の篤いキリシタンたちが大勢残っていました。1609年、藩から派遣された奉行の家に嫁いだキリシタンである娘が棄教しないことを理由に、生月キリシタンの指導者であったガスパル西玄可が、松浦鎮信の命令によって処刑されたのは、徳川幕府の禁教令が発布(1614年)される5年前のことでした。  禁教令発布後にも悲劇は続きます。1622年、生月などで秘かに布教をおこなっていたカミロ神父が捕らえられ、田平の焼罪(やいざ)で処刑されました。そしてカミロ神父を助けたとして生月の人々も捕らえられ、中江ノ島で処刑(元和の殉教)。1624年にはその信者達の家族も捕らえられ、やはり中江ノ島で処刑されてしまいます(寛永の殉教)。彼らが中江ノ島に連行され処刑される光景を目のあたりにして、生月のキリシタンたちは、彼らの遺志を継ぎ、信仰を守り抜く決意をしたのではないでしょうか。殉教した人たちにオラショ(祈り)を捧げながら、子から孫へと信仰を継承していったのです。 復活時代  1873年、明治政府はキリシタン禁教令の高札を撤廃しました。各地に潜伏して信仰を守り続けていた人々は、再布教を開始したカトリックと合流した「復活キリシタン」と、先祖が大切に守ってきた信仰形態をそのまま受け継いだ「かくれキリシタン」にわかれました。かくれキリシタンの組織は、昭和初期ごろには外海地方や五島列島にも多く存在していたそうですが、平成になって平戸の組織も解散したように、現在ではきちんとした組織が存続している地域は殆どなくなり、伝統的な信仰形態を最もよく残しているのが、生月のかくれキリシタンだといわれます。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約2時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2山田教会 ↓車で約10分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4幸四郎の森 1生月大魚籃観音 生月の町並みを眺めよう!  生月大橋を渡って国道42号線を走ると、民家の屋根を越えて頭を突き出した巨大な観音さまが見えてきました。  生月の丘の頂に、ポルトガル人宣教師のガスパル・ヴィレラ神父によって、記念すべき十字架が建てられました。"クルス(十字架)の丘"は、時世の流れに伴い、漢字であてはめ、いつしか"黒瀬の辻"と呼ばれるようになったといいます。生月のキリシタンにとって黒瀬の辻は、キリスト教信仰の出発点なのです。  鎮座する観音さまの広場からは、舘浦港と町並みが一望できますが、よく見ると、京都の町家とちょっと様子が違います。隣どうしピッタリと壁をくっつけて、狭い道に沿って密集しています。これには、幾つか理由があるそうです。ひとつは台風などの暴風対策。ひとつは島の木材が少なかったからだといわれています。  生月大魚籃観音は、航海の安全を願って建てられました。観音さまの高さは台座を合わせると、なんと21メートルもあり、ブロンズ像としては世界一。活きのいい鯛を手で押さえているかのようなポーズには理由がありました。魚の霊も追悼しているのだとか。豊かな漁場の生月ならではですね。観音さまの台座の中は御堂になっていて、自由に参拝することができます。 2山田教会 明治時代に復活した信仰の光  ザビエルによって平戸に撒かれたキリスト教の種は、キリシタンとなった生月の領主たちによって一斉改宗がおこなわれるなどして広まりました。厳しい禁教令が布かれた江戸時代でも信仰は受け継がれ、独自の信仰形態を保ち250年以上も殉教者と先祖を祀り伝承してきました。  1850年代になって長い鎖国の時代を経て開国した日本に、海外から多くの宣教師が再布教のためにやってきました。長崎の居留地に建てられた大浦天主堂では、1865年、プチジャン神父の前で浦上村の人々が信徒であることを告白しました(信徒発見)。このことをきっかけに、潜伏しながら信仰を守ってきた人々がキリスト教に復活するようになりました。いち早くキリスト教に戻った黒島の信徒たちは、生月の人々に合流復活するよう説得にあたりました。生月ではごく一部の人々が、1878年(明治11)に平戸を訪れたペルー神父から洗礼を受けました。  しかし、生月の大多数の人々は復活しませんでした。それは殉教者や先祖を祀る仏壇を捨てることができなかったからです。かくれキリシタンとして独自の信仰形態のまま、今でも組織ごと年中行事をおこなっています。  この教会堂は教会建築の父 鉄川与助によって大正元年に完成しました。アーチ窓の脇を見てみると剥がれた漆喰から当時の赤レンガが顔を覗かせていました。日本古来の技法と、煉瓦造りの洋の文化が融合し、モダンにみえます。  教会に入ると、木造のリブ・ヴォールト天井と細部のデザイン、世界中の蝶の羽を集めてつくられた7つの秘蹟、キリストを失った親としての悲しみを表した心臓に7つの刃が刺さった「7つの悲しみのマリア像」など目に映るものすべてが印象的です。ステンドグラスからやさしい光が射し込んでいました。 3焼山 教会があった山  ここからは、「島の館」の中園成生さんに案内してもらいながら見学しました。  生月小学校の近くの植栽のアーチの門をくぐっていきましょう。ここは、民家の建つ脇道を通りますので、地元の方のご迷惑にならないよう、静かに見学させてもらいましょう。  見たところ、焼山は、どこにでもある木々に覆われた丘に見えますが…。  中園さん「焼山は、キリシタン時代に教会が建っていた場所だと言われています。豊臣秀吉の伴天連追放令が発布されると、外国人の宣教師たちが生月に避難してきて、その時セミナリヨ(神学校)も移転してきました。江戸時代になって、平戸藩が本格的な禁教政策に転じた時、切り捨てたキリシタンたちを穴に放り込んで火をかけたことから"焼山"と呼ばれています。」  隣には、御堂がありました。ここでは境目(さかいめ)のかくれキリシタンが集まって年中行事をおこなっています。 4幸四郎の森 裸足で歩く神聖な森  焼山からさらに山手へ歩くこと約5分。先ほどの焼山と同じように、木々が生い茂る小さな丘が現れました。  中園さん「この石段からは靴を脱ぎましょう。この幸四郎の山は聖地なんです。」との説明を受けました。靴を脱いで、いざ森の中へと入りました。中には落ち葉が敷き詰められ、中央には石の祠がありました。 しばし、祈りを捧げます。  ところで、幸四郎さまとは、一体誰なんです?  中園さん「地元の言い伝えによると、幸四郎さまという人物は、徳川幕府の禁教令によって、平戸藩から派遣されたキリシタン取締りの役人です。ある時、彼は、踏絵を「踏めない」と逃げたキリシタンに向かって矢を放ちます。しかし、その矢が旋回して自分に当たってしまいました。この不思議な現象から幸四郎はキリシタンに改宗して、後に殉教し、サンパブローさまと呼ばれたそうです。  この森は、昭和初期まで松の大木が茂っていました。昔から履物をしたままの入場を禁じ、薪を拾うこともゆるされなかった聖地でした。堺目には幸四郎様を描いた掛け軸を御神体としてまつる、かくれキリシタン信者の講(組)もありますが、その絵の男性武人像には弓矢が描かれています。サンパブローは聖書に出てくる聖パウロの名前と同じですが、彼は聖画に描かれる場合は本を持った姿などで描かれていて、弓矢と一緒に描かれるのは聖セバスチャンの像です。外海や生月ではバスチャン様という殉教者も信仰されていますが、キリシタン時代に聖セバスチャンの説話が伝えられ、信仰がおこなわれていた名残かも知れず、弓矢のお掛け絵も、実は聖セバスチャンを祀ったものだったのかも知れません。」  生月は、キリスト教の種が日本ではじめて撒かれた平戸の領内にある島で、キリシタン時代、禁教時代、復活時代、そして現代と450年にわたってキリシタンの信仰を守り続けています。時代の流れによって独自のカタチに変化していく信仰は、大切に子から孫へと伝承され、つつましくささやかな祈りが、日々捧げられています。 参考文献 「旅する長崎学1 キリシタン文化1」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 巻頭特集 ザビエルが平戸にまいた キリスト教の種子 「旅する長崎学4 キリシタン文化4」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集4 平戸・生月のかくれキリシタン 「旅する長崎学6 キリシタン文化6」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 キリシタン文化の旅 長崎へのいざない 第1章 布教はここから始まった 平戸ガイド編 生月探訪 土地に息づく かくれキリシタンの歴史 「生月島のかくれキリシタン(改訂版)」 制作/平戸市生月町博物館・島の館 発行/平戸市生月振興公社 2000年 協力 平戸市生月町博物館・島の館 学芸員 中園成生 スタート地点までのアクセス 生月大魚籃観音 所在 長崎県平戸市生月町山田免570-1 開館時間 台座内部の入場8:30〜17:00 *11〜2月の期間は〜16:30迄。 料金 無料 駐車場 あり 休み なし アクセス 車… 生月大橋より県道42号線を北上し約5分。舘浦の信号(比売神社の角)を左折、一つ目の信号(農協ストアの角)を左折。 高速道路をご利用の場合… 長崎自動車道<武雄北方IC>を下車、国道498号線を通り伊万里で国道204号線へ、平戸大橋を渡り国道383号線から県道19号線へ、生月大橋を渡り県道42号線を北上して約5分。生月大橋より県道42号線を北上し約5分。比売神社(舘浦)の角の信号を左折、一つ目の信号を左折(角に農協ストアあり)。 *所要時間のめやす…長崎より長崎自動車道を利用して約2時間30分。 バス… 生月バス<舘浦漁協前>を下車し徒歩で約5分。 生月までのアクセス 車…*所要時間のめやす 福岡より唐津経由で約2時間30分 (国道202号線→国道204号線→平戸大橋→国道383号線→県道19号線→生月大橋) 佐世保より約1時間 (国道204号線→平戸大橋→国道383号線→県道19号線→生月大橋) 平戸より約25分(国道383号線→県道19号線→生月大橋) 長崎より高速道路を利用して約2時間30分 高速道路をご利用の場合… 長崎自動車道<武雄北方IC>を下車、国道498号線を通り伊万里で国道204号線へ、平戸大橋を渡り国道383号線から県道19号線へ、生月大橋を渡り県道42号線を北上して約7分。生月バス<正田>バス停より右折して約30メートル。*所要時間のめやす…長崎より長崎自動車道を利用して約2時間30分。 生月大橋の通行料・片道(2007年12月現在) 普通車200円 中型250円 大型(1)350円 大型(2)550円 軽自動車・バイク(125cc以上)150円 軽車両等20円 平戸大橋の通行料・片道(2007年12月現在) 普通車100円 大型車150円 特大車300円 軽車両等10円 バス… <佐世保駅前>より西肥バス[(特急バス)平戸]行きに乗車し<平戸新町>で乗り換え(所要時間は約1時間)。生月バス[一部桟橋・御崎]行きに乗車しバスで約30分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約45分)。鳥栖駅より約25分。佐賀駅より約10分。諫早駅より約8分。 *JR佐世保駅からは、バスまたはタクシーをご利用下さい。 長崎方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR長崎駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR佐世保駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボス駅より約20分。大村駅より約1時間。 JR佐世保駅からは、バスまたはタクシー・レンタカーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *長崎空港からは、バスまたは電車・タクシー・レンタカーをご利用ください。 ●JR佐世保駅・生月へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第17回 生月を旅する!(1) 2007年12月05日
    第17回 生月を旅する!(1)
    〜キリシタン殉教の物語をめぐる〜 歴史のとびら  生月は、美しい海に囲まれた小さな島。長崎県の北西部に位置し、平戸島の北の沖合いに浮かびます。かくれキリシタンたちが大切に守ってきた信仰を今でも伝承する"祈りの島"でもあります。その歴史は、長崎でもいち早くキリスト教が伝えられ、一時はキリシタン文化の繁栄をみながら、その後は弾圧と迫害、脱出と潜伏……、時代に翻弄された厳しい棘(いばら)の道でした。 キリシタン時代  1550年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが平戸に上陸しました。松浦隆信(道可)を領主とする平戸は、これまでの大陸との交流に加え、ポルトガル船の到来によって西洋との貿易を獲得し、「西の都」と呼ばれるまでに繁栄していました。さらに、平戸・生月地方でキリスト教が浸透し、キリシタン文化が誕生したのでした。  籠手田(こてだ)と一部(いちぶ)の両氏は、松浦隆信(道可)の家臣で、松浦氏の勢力圏のなかで生月島、度島、平戸島の西海岸を支配していました。1558年、籠手田氏の領地である生月島南部、度島、平戸島内で領民の一斉改宗がおこなわれ、改宗を指導したガスパル・ヴィレラ神父の手によって、教会や十字架が建立されました。このように多くの村を含む広い地域で一斉改宗がおこなわれたのは、籠手田領の改宗が最古の事例だそうです。しかしその際に、仏像を焼いたりしたことから、仏僧や仏教徒の反感が強まり、隆信はヴィレラ神父を追放する事態となりました。  1561年、平戸では、日本人商人とポルトガル船員の取引上のトラブルから殺傷事件「宮の前事件」が起こり、翌年、貿易の港は、いったん大村領内の横瀬浦に移ります。しかし南蛮貿易を継続させたい松浦隆信(道可)は、平戸領内に教会の建立を許可するなど手を尽くし、1564年にはポルトガル貿易船の再入港を成功させます。しかし、宣教師の隆信に対する不信感は拭えず、結局大村の領主で、のちに日本初のキリシタン大名となる大村純忠と手を組み、翌1565年の貿易船は、大村領内の福田港に入港することとなります。平戸への貿易船の入港を期待していた隆信は、その事態に激怒し、福田に停泊していたポルトガル船に攻撃をしかけますが、敗れてしまいます。  くしくも同年、一部氏が支配する生月島北部などで一斉改宗がおこなわれ、これによって生月の全島がキリシタンの島となりました。しかし平戸の松浦氏やその家臣と、キリシタン領主である籠手田・一部氏との間に生じた亀裂は、その後修復されることはなく、次第に深まっていったのでした。  1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布。その時生月は、日本各地で布教活動をしていた多くの宣教師たちをかくまいました。同時にセミナリヨやコレジオも一時的に移ってきたといわれています。1596年には、秀吉の命によってキリシタン26人が西坂の丘で殉教を遂げたことを機に、キリスト教に対する処遇は厳しくなっていきます。 禁教・殉教時代  1599年、平戸の前藩主・松浦隆信が死去。家督を継いだ息子の鎮信(法印)は、意に反して思うようにならない宣教師やキリシタンたちを嫌い、父の法要に参列するよう家臣たちに強要します。キリシタンであるため仏事に参列できないとした籠手田安一と一部正治は、信者800人を引き連れ、故郷である生月島を離れ、当時イエズス会の勢力が強かった長崎へと亡命したのでした。  しかし、島には信仰の篤いキリシタンたちが大勢残っていました。1609年、藩から派遣された奉行の家に嫁いだキリシタンである娘が棄教しないことを理由に、生月キリシタンの指導者であったガスパル西玄可が、松浦鎮信の命令によって処刑されたのは、徳川幕府の禁教令が発布(1614年)される5年前のことでした。  禁教令発布後にも悲劇は続きます。1622年、生月などで秘かに布教をおこなっていたカミロ神父が捕らえられ、田平の焼罪(やいざ)で処刑されました。そしてカミロ神父を助けたとして生月の人々も捕らえられ、中江ノ島で処刑(元和の殉教)。1624年にはその信者達の家族も捕らえられ、やはり中江ノ島で処刑されてしまいます(寛永の殉教)。彼らが中江ノ島に連行され処刑される光景を目のあたりにして、生月のキリシタンたちは、彼らの遺志を継ぎ、信仰を守り抜く決意をしたのではないでしょうか。殉教した人たちにオラショ(祈り)を捧げながら、子から孫へと信仰を継承していったのです。 復活時代  1873年、明治政府はキリシタン禁教令の高札を撤廃しました。各地に潜伏して信仰を守り続けていた人々は、再布教を開始したカトリックと合流した「復活キリシタン」と、先祖が大切に守ってきた信仰形態をそのまま受け継いだ「かくれキリシタン」にわかれました。かくれキリシタンの組織は、昭和初期ごろには外海地方や五島列島にも多く存在していたそうですが、平成になって平戸の組織も解散したように、現在ではきちんとした組織が存続している地域は殆どなくなり、伝統的な信仰形態を最もよく残しているのが、生月のかくれキリシタンだといわれます。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 1黒瀬の辻 殉教碑 ↓ 徒歩で約30秒 2ガスパル西玄可のお墓 ↓ 黒瀬の辻 殉教碑から眺めましょう 3中江ノ島 ↓ 車で約15分 4ダンジクさま ↓ 車で約5分 5平戸市生月町博物館 島の館 1黒瀬の辻 殉教碑 生月キリシタンの出発点  1550年、フランシスコ・ザビエルの平戸来航によって、長崎に初めて伝えられたキリスト教。日本伝来の翌年のことです。平戸領主の家臣だった籠手田安経(こてだやすつね)と一部勘解由(いちぶかげゆ)は、キリスト教の洗礼を受け、自分たちの治める生月で、キリスト教への一斉改宗をおこないました。町には教会が建ち、ポルトガル人宣教師が往来し、西洋の音楽も流れ、キリシタン文化が開花。生月は"キリシタンの島"となったのです。  生月の丘の頂に、ポルトガル人宣教師のガスパル・ヴィレラ神父によって、記念すべき十字架が建てられました。"クルス(十字架)の丘"は、時世の流れに伴い、漢字であてはめ、いつしか"黒瀬の辻"と呼ばれるようになったといいます。生月のキリシタンにとって黒瀬の辻は、キリスト教信仰の出発点なのです。  現在、殉教碑が建立されたクルスの丘公園では、毎年11月に殉教ミサがおこなわれています。 2ガスパル西玄可のお墓 福者に列せられることが決定した殉教者  次は、この丘で殉教を遂げたガスパル西玄可のお墓へ行ってみましょう。黒瀬の辻 殉教碑の裏手へと回って約20メートルのところにあります。  1558年と1565年の一斉改宗で全島民がキリシタンとなった島"生月"。しかし平戸の領主・松浦隆信の息子の鎮信(法印)は、キリスト教の禁教政策を強化していきました。その政策を受け入れられない籠手田氏と一部氏は、1599年に一族や家臣などキリシタン約800人とともに生月を脱出、新天地を求め長崎へと亡命しました。  生月に残ったキリシタンたちを指導したのが、リーダー的存在であったガスパル西玄可です。娘のマリアも信仰が篤く、嫁ぎ先の義父(舘浦の奉行)から信仰を棄てることを強要されますが、かたくなに応じず実家に戻ったそうです。このことを知った松浦鎮信は、自分の命令に反している者たちを処刑するよう命じました。役人に捕らえられた玄可は「十字架が建っていた場所で処刑、埋葬してほしい。」と願い、1609年11月14日に斬首され、その妻ウルスラと長男ジョアン又市も、その後すぐ、連行中に斬り殺されました。  ガスパル西玄可のお墓は、四角の石積みで作られていましたが、いつしかそこから松が生え、「ガスパル様の松」と呼ばれ、かくれキリシタンから聖木として崇められていました。昔は大きく立派だった松の木も枯れてしまい、現在は根本が残るだけになっていますが、カトリック信者が、枯れた丸太の芯から十字架を作って、再び信仰の標としたそうです。そのうちのひとつは山田教会の正面に安置されていますが、かくれキリシタン信者に託されたもののひとつは、現在、島の館で展示されています。  ガスパル西玄可、妻のウルスラ、長男ジョアン又市の3人は、2007年6月、教皇ベネディクト16世によって「ペトロ岐部と187殉教者」として福者に列せられることが決まり、そのことを宣言する列福式が2008年11月24日に長崎でおこなわれるというニュースが流れました。生月の西家は、信仰が篤い家族として知られます。西玄可の次男トマス兵次(のちに六左衛門)は、ドミニコ会の日本人最初の司祭となり1634年に長崎西坂で殉教、1987年に当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人の位にあげられ、「聖トマス西」として讃えられています。 3中江ノ島 生月"カクレキリシタン"の聖地  殉教碑のレリーフから青い海の方向をみると、生月と平戸の中間に浮かぶ中江ノ島。  1614年に徳川幕府が禁教令を発布した直後も、外国人宣教師たちは、日本に潜入して布教を試み、生月にもやってきました。そのひとりカミロ神父は、納島への渡航を企て実行しますが、宇久島であえなく役人に見つかり、1622年、田平の焼罪(やいざ)で火あぶりにされました。このカミロ神父を援助した生月のキリシタンたちも、異教徒に加担したという罪で捕まり、次々と中江ノ島で処刑されるという事件がおこりました。  この悲しい殉教の物語は、キリシタンたちのあいだで子から孫へと伝承されました。この島そのものが生月キリシタンの信仰の対象となっています。  もうひとつの殉教事件を学ぶために、生月島の西海岸へと移動しましょう。 4ダンジクさま キリシタン一家が殉教した海岸  「平戸市生月町博物館 島の館」から約3分ほど車を走らせると、左手に現れる道案内の看板を目印に向かいましょう。さらに看板(写真右)があります。ここからは海岸まで約300メートルの険しい道を降りていきますので、足元に注意してください。  小さな浜辺へとたどり着くと、竹薮に覆われたダンジクさまの祠がありました。  江戸時代、幕府の禁教令によって役人に追われていたキリシタンの一家がいました。弥市兵衛と妻マリア・息子ジュリアンは断崖の下の暖竹(ダンジク)の茂みに身を寄せて隠れていましたが、ある日、ジュリアンが浜で遊んでいるところを、船で捜索していた役人に見つかってしまい、一家は捕らえられ処刑されてしまいました。1645年のお話です。この悲しい発見劇の物語から、海上からの参拝はタブーとなっています。  命日の1月16日には、信者の方々によってオラショ(祈り)が捧げられています。  生月キリシタンの歴史をもっと学ぶために、来た道を少し戻って「島の館」の博物館へ行ってみましょう! 5平戸市生月町博物館 島の館 キリシタン文化を学ぼう!  「島の館」は、約450年間も厳しい弾圧に耐えながら受け継がれてきた生月キリシタンの歴史と、江戸時代に日本最大規模とまでいわれた生月の捕鯨の歴史を紹介する博物館です。  かくれキリシタンにまつわる資料を一部だけご紹介しましょう。  左写真の掛け軸は、幼子キリストと聖母マリアを描いた聖母子像に起源を持ちます。マリアの頭上にはくっきりと赤い十字架があります。このような掛軸の図像は「納戸神」「御前様」と呼ばれる御神体のなかでも「お掛け絵」と呼ばれる種類で、かくれキリシタンの信仰対象とされたものです。  禁教時代、かくれキリシタンの人々は聖母子像や聖人、聖家族を描いたこうした掛け軸を納戸に設けた祭壇に飾り、オラショ(祈り)を捧げていました。  右の写真は「オブマリ」。和紙で作られた十字架は、いろいろな行事で魔除けとして使われるそうです。  かくれキリシタンの組織は、外海、五島、平戸、生月など各地に存在していましたが、減少の一途をたどり、現在では生月以外では、組織的な信仰は殆どなくなったといわれています。  学芸員の中園成生さんに、生月にまつわるキリシタンの歴史を教えていただきました。歴史発見コラム 第32回をご覧ください!  生月の殉教地は、キリスト教を信仰する人々にとって大切な聖地となっています。過去の悲しい事件を繰り返さないようにその歴史を伝え残していく、そんな思いが込められているのではないでしょうか。人々の思いと願いをのせたオラショ(祈り)が、こだましながら倍音となって、どこからか聞こえてくるような気がする生月の旅でした。  次回の歴史散歩も、生月をめぐる旅をお送りします。 参考文献 「旅する長崎学1 キリシタン文化1」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 巻頭特集 ザビエルが平戸にまいた キリスト教の種子 「旅する長崎学4 キリシタン文化4」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集5 平戸・生月のかくれキリシタン 「旅する長崎学6 キリシタン文化6」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 キリシタン文化の旅 長崎へのいざない 第1章 布教はここから始まった 平戸ガイド編 生月探訪 土地に息づく かくれキリシタンの歴史 「生月島のかくれキリシタン(改訂版)」 制作/平戸市生月町博物館・島の館 発行/平戸市生月振興公社 2000年 協力 平戸市生月町博物館・島の館 学芸員 中園成生 スタート地点までのアクセス 黒瀬の辻 所在 長崎県平戸市生月町山田免 クルスの丘公園 駐車場 あり アクセス 車… 生月大橋より県道42号線を北上し約7分。生月バス<正田>バス停より右折して約30メートル。 高速道路をご利用の場合… 長崎自動車道<武雄北方IC>を下車、国道498号線を通り伊万里で国道204号線へ、平戸大橋を渡り国道383号線から県道19号線へ、生月大橋を渡り県道42号線を北上して約7分。生月バス<正田>バス停より右折して約30メートル。*所要時間のめやす…長崎より長崎自動車道を利用して約2時間30分。 バス… 生月バス<正田>を下車し徒歩で約5分。 生月までのアクセス 車…*所要時間のめやす 福岡より唐津経由で約2時間30分 (国道202号線→国道204号線→平戸大橋→国道383号線→県道19号線→生月大橋) 佐世保より約1時間 (国道204号線→平戸大橋→国道383号線→県道19号線→生月大橋) 平戸より約25分(国道383号線→県道19号線→生月大橋) 長崎より高速道路を利用して約2時間30分 高速道路をご利用の場合… 長崎自動車道<武雄北方IC>を下車、国道498号線を通り伊万里で国道204号線へ、平戸大橋を渡り国道383号線から県道19号線へ、生月大橋を渡り県道42号線を北上して約7分。生月バス<正田>バス停より右折して約30メートル。*所要時間のめやす…長崎より長崎自動車道を利用して約2時間30分。 生月大橋の通行料・片道(2007年12月現在) 普通車200円 中型250円 大型(1)350円 大型(2)550円 軽自動車・バイク(125cc以上)150円 軽車両等20円 平戸大橋の通行料・片道(2007年12月現在) 普通車100円 大型車150円 特大車300円 軽車両等10円 バス… <佐世保駅前>より西肥バス[(特急バス)平戸]行きに乗車し<平戸新町>で乗り換え(所要時間は約1時間)。生月バス[一部桟橋・御崎]行きに乗車しバスで約30分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約45分)。鳥栖駅より約25分。佐賀駅より約10分。諫早駅より約8分。 *JJR佐世保駅からは、バスまたはタクシーをご利用下さい。 長崎方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR長崎駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR佐世保駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボス駅より約20分。大村駅より約1時間。 JR佐世保駅からは、バスまたはタクシー・レンタカーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *長崎空港からは、バスまたは電車・タクシー・レンタカーをご利用ください。 ●JR佐世保駅・生月へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第2回 ザビエルも訪れた国際貿易港(長崎県平戸市) 2007年04月18日
    第2回 ザビエルも訪れた国際貿易港(長崎県平戸市)
    歴史の中の“Firand”(フィランド)へ 平戸大橋を渡って、歴史の浪漫があふれる城下町「平戸」へと向かいました。その昔、貿易を通じて、中国・ポルトガル・オランダ・イギリスといった異国の文化を吸収した海外交流の玄関口。西洋の佇まいと美しい城下町のまち並みは、平戸ならでは。ここは訪れるたびに新しい発見に出会えるまちです。16世紀の国際貿易港・祈りの島“Firand”(フィランド)を巡る心弾む楽しい旅に出かけましょう。 歴史のとびら  平戸は、遣唐使船の寄港地となるなど、古くからアジアとの海上交通ルートにおいて重要な港でした。16世紀、この港町は世界を結ぶ海外交易の要所としてさらに栄えることとなります。  長崎県と西洋の最初の出会いは、1550年、ポルトガル船の平戸入港に始まります。東洋でのキリスト教布教に生涯を捧げたフランシスコ・ザビエルも平戸にやってきました。貿易に熱心だった当時の領主・松浦隆信のもと、南蛮貿易とキリスト教布教の出発の地となった平戸は、世界地図にFirando(フィランド)と記され、その名を世界に知られます。  17世紀になると、新教国のオランダやイギリスがアジアに進出。ポルトガル船が去った平戸にも入港し、1609年にオランダ商館が、1613年にはイギリス商館が開設され、瞬く間に国際貿易港としての脚光を再び浴びることになります。  1550年(ポルトガル船来航)から1641年(オランダ商館が長崎・出島に移転)までのおよそ90年間、ポルトガル、イギリス、オランダなどヨーロッパの国々と親密な交わりをもち、海外文化の交差点となった「平戸」。いまから約450年前、世界への扉が大きく開け放たれたこのまちに残る異国の香りを訪ねました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約6時間30分 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2平戸和蘭商館跡 ↓徒歩5分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4聖フランシスコ・ザビエル記念碑 ↓徒歩10分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6六角井戸 ↓徒歩15分 img/sub/map_point8.gif' alt='8' />8寺院と教会が混在する風景 ↓徒歩10分 img/sub/map_point10.gif' alt='10' />10冨春園・冨春庵跡 ↓車で30分 img/sub/map_point12.gif' alt='12' />12平戸市切支丹資料館 ↓徒歩12分
  • 平戸焼 2014年03月25日
    平戸焼
     六角や三角の形が大きさを微妙に変えながら一分の狂いもなく配列された模様は、まさに神業です。白磁の本体に伝統の籠目文様が透かし彫りされているものですが、近づいてよく見てみると機械が彫ったのではないかと思うほどです。均等に美しく彫りあげられており、つい我を忘れて見入ってしまいます。気が遠くなるほどの時間を費やして仕上げられる作品は、まさに名匠のなせる手技です。  写真の作品は、400年余にわたって高度な技術と崇高な精神を受け継ぐ平戸茂右ヱ門の手によって製作されたものです。 平戸焼の特徴  平戸焼の特徴のひとつには、“優れた細工”があげられます。先に述べたように、均等に六画や三角の模様を手で彫り上げる技術です。透かし彫りとよばれますが、香炉や多宝塔などの作品にも多く使われています。「瓢型花瓶」という作品もその典型的な透かし彫りが施されています。内部には龍が彫り上げられていますが、別々に彫って組み合わせたものではなく、均等な文様をつけた外側の部分から内側の龍の部分を彫り上げているそうです。溜め息が出そうな技術ですね。  また動物をモデルに造形された作品が多いのも特徴のひとつです。猿が三番叟の装束をつけた立姿の「舌出し人形」は、頭部が差し込み式になっていて、首を振ると口から白い舌が出てくるという面白い仕掛けになったものがあります。いずれも繊細で優美な作品に仕上がっていて、見る人の心を豊かにしてくれます。 平戸焼の歴史  1598年(慶長3)、朝鮮出兵から帰国する際に、平戸藩主・松浦鎮信が朝鮮半島より陶工を連れ帰ったことから平戸焼の歴史は始まります。体験コーナーの「三川内焼」でもとりあげて紹介しましたが、平戸藩では、三川内に御用窯を置き、高度な技術を持った陶工たちによって作品が作られ、高い評価を受けてきました。以来、朝廷や幕府向けや藩使用の調達品、家臣への下賜品、他藩への贈答品などを作り続けました。さらに白磁の美をきわめた製品は、オランダや中国へ輸出されて諸外国の王侯貴族にも愛されました。  現在、三川内で作り続けられている「三川内焼」と平戸市の「平戸焼」は、歴史をたどってみるともともとどちらも平戸藩の御用窯(ごようがま)として製作されたものです。明治時代に入り、藩の保護がなくなり、御用窯の制度も廃止されると、窯元は独自に研究を続け、進化してきました。 平戸焼の体験  平戸市では、平戸焼の伝統技法である透かし彫りや、絵付けなどの体験をすることができます。   【すかし彫り体験】  白磁の本体に、文様を入れて一輪挿しを製作することができます。彫りやすいようにと平戸茂右ヱ門自らが用意してくれた道具を使い、伝統である透かし彫りを施します。下書きに沿って細工をしていきますが、思った以上に白磁本体は柔らかく、容易に細工することができますが、曲面になった位置では角度がつくため、彫りにくいという難しさもあり、思うように彫れると楽しくなってきます。   【ミニチュア教会絵付け体験】  平戸市にある田平天主堂、宝亀(ほうき)教会、紐差(ひもさし)教会は、世界遺産登録をめざす「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の資産候補となっています。これらの教会をはじめ、平戸市にある教会のミニチュアの白磁が用意されてあります。これらの教会に色をつける絵付け体験を行うことができます。  出来上がった作品は、世界でひとつしかないオリジナル作品となりますので、感動はひとしおです。   【体験について】 ●体験期間:通年(不定休) ●時間:約1時間30分 ●定員:1〜20名(小学生以上) ●参加費  すかし彫り体験:2,000円(送料含む)  ミニチュア教会絵付け体験:2,500円(送料含む) ●申込期日:10日前 社団法人 平戸観光協会 長崎県平戸市岩の上町1473 TEL 0950-23-8600 FAX 0950-23-8601   関連URL: http://www.hirado-net.com/
  • あごだしラーメン 2014年03月25日
    あごだしラーメン
     平戸市で知られる「あごだしラーメン」を食べてきました。 「あご」って何?と思う方は多いでしょう。長崎県では、飛魚のことを「あご」と呼んでいます。  つまり飛魚で出汁をとったラーメンのことなのですが、平戸市では飛魚を炭火で焼いたり天日干しにして香ばしくなった「あご」をスープに使ったあごだしラーメンを味わうことができます。  時間をかけて丁寧に作られたスープは、黄金色に輝き、透明度が高いことも特徴です。香ばしく風味豊かなスープは、とってもあっさりしているのにコクがあり、味わい深い印象です。最後はあごのスープとして飲み干してきました。  よくお酒を飲んだ後にラーメンを食べたくなるという方が少なくありませんが、このあごだしラーメンはまさにオススメです!  また以前から炭火などで焼いた「焼きあご」は、最高級だしとしても知られています。干しあごは、酒の肴やおかずにも人気があり、カルシウム不足を補うおやつとしても最適です。  平戸市では、飛魚の商品が豊富に揃っています。炭火で丹念に焼いた後に秘伝のタレで仕上げたあごや、一夜干しのあご、焼いた後に軽く叩いて身をほぐし、骨ごと食べられるアゴ、ふりかけ用として加工されたアゴなどバラエティに富んでいます。  平戸市を訪れたら、ぜひご賞味ください。
  • 寅さんの声が聴こえてきそう… 2014年03月26日
    寅さんの声が聴こえてきそう…
     1977年(昭和52)に公開された映画「男はつらいよ」第20作“寅次郎頑張れ!”では、平戸島がロケ地に選ばれ、ところどころに歴史スポットが登場しています。  とらやに下宿する青年・良介(中村雅俊さん)が、近所の食堂で働く女性・幸子(大竹しのぶさん)に恋をします。そこで、寅さんが愛のキューピッド役を買ってでますが、うまく気持ちを伝えることができずに、良介はとらやで自殺未遂までやる始末。  田舎に帰った良介を心配して、寅さんが様子を見に来た島というのが、平戸島でした。  寅さんは、この平戸島で良介の姉・藤子(藤村志保さん)と出会い、ホレてしまい、藤子が運営している土産店を手伝うようになってしまいます。  この土産店は、松浦史料博物館に登っていく石段の手前にありました。現在は立て替えられて変化していますが、当時の雰囲気は残っています。また寅さんが、早朝から仕入れのために毎朝歌いながら自転車で重要文化財の幸橋の前を走り去るなど平戸島の歴史スポットは随所でさりげなく登場しています。  1550年(天文19)にポルトガルの貿易船が初めて平戸に入港すると、中国との交易もあ いまって、平戸は「西の都」と呼ばれる国際貿易港として知られます。その後オランダ、イギリスが商館を設置するなど、鎖国が行われるまでは、対外貿易の中心地として栄えていました。  藤子と一緒に行った礼拝の帰りに話しながら歩くシーンがありましたが、「寺院と教会が見える風景」として知られ、古くから異国文化を受け入れてきた平戸ならではの異国情緒溢れた風景といえます。これらのスポットは、今でも寅さんを観て訪れる人が少なくないといいます。  平戸港を訪れる前に、寅さんが商売をしていた神社は濱尾神社です。この濱尾神社は、平戸港の副港として江戸時代に整備された田助港のそばにあります。この一帯は、幕末当時には回船問屋や船宿、遊女屋などが立ち並び、賑わっていた地域なんです。また薩摩藩とゆかりのある回船問屋多々良孝平の角(すみ)屋や明石屋には、西郷隆盛や桂小五郎、高杉晋作など薩長のそうそうたる志士が集まり密談していたといわれており、維新志士会合の碑が建立されされました。 現在維新志士会合の碑は、多々良孝平氏居宅跡から濱尾神社境内に移されています。
  • 平戸市生月町博物館 島の館 2014年03月26日
    平戸市生月町博物館 島の館
     江戸時代には益冨(ますとみ)組を中心とした沿岸捕鯨が活発に行われ、平戸藩の財政を支えるほどの規模を誇りました。また安土桃山時代には、フランシスコ・ザビエル以降平戸に来たイエズス会宣教師がこの生月島でもカトリックの布教を行い、平戸藩の重臣だった籠手田安昌(こてだやすまさ)・安経(やすつね)父子をはじめ多くの島民が洗礼を受けましたが、その後の禁教令により殉教したり、長い間迫害に耐えてかくれキリシタンとして密かに信仰を受け継いできました。生月島とはどんな島なのか!?さあ、早く館内へ入ってみよう! 勇魚とりの物語  早速第1展示室「勇魚(いさな)とりの物語」に入ってみると、大きなミンククジラとツチクジラの骨格標本が出迎えています。「勇魚」とは、「鯨」の古い呼び方です。  益冨(ますとみ)捕鯨は、1820年頃(文政年間)には、5つの鯨組を経営するほどに拡大し、西海のみならず日本一の規模を誇る鯨組へと発展しました。室内には江戸時代の捕鯨の様子を忠実に再現した大型ジオラマや、生月島の鯨取りの様子を紹介した捕鯨図説「勇魚取絵詞(いさなとりえことば)」などが展示されています。「勇魚取絵詞」は、1832年(天保3)に益冨家が刊行したもので、漁場や施設の紹介から、網をかけて銛を突き刺す捕鯨の様子、解体や加工の過程など20の場面を絵と解説文で描いたもので、貴重な資料です。  またミンククジラの骨格や内臓の標本など貴重な資料や当時の鯨の利用法について、捕鯨の歴史とともにわかりやすく紹介してあります。  そして生月島出身で日本一の巨漢力士として知られる生月鯨太左衛門(いきつきけいたざえもん:身長227センチ)について紹介するコーナーもあります。実寸サイズの生月鯨太左衛門と一緒に記念写真を撮る方も少なくありません。 島の暮らし  島の人々の生活には欠かせない漁業や農業に関する道具や資料、祭礼の展示が行われています。漁業は、島の基幹産業であるまき網や定置網がジオラマなどで紹介されています。農業に関しては、昔の稲作にまつわる道具や信仰に関する資料が紹介されています。また神社や寺院が出した各種お札なども展示されています。 かくれキリシタン  約260年ものあいだ、厳しい弾圧に耐え抜き受け継がれた信仰の歴史を紹介しています。教会を模した展示室になっており、聖母子像、メダイなどかくれキリシタンの祭具の数々が展示されています。  生月島のかくれキリシタンは、16〜17世紀の祈りの言葉であるオラショを唱えるなど、古いキリシタンの形態を残す一方で、潜伏時代に土着の信仰・宗教と習合した独自の形態を持っており、研究者にも注目されているそうです。奥に設置された部屋にはかくれキリシタンの生活空間が再現され、オラショを唱える音声も聞くことができます。 シーファンタジックアリーナ  生月島の近海にいる海の生き物たち約250種類、400匹の剥製(はくせい)が展示された空間になっています。海中を散歩をしている気分になってきます。魚の姿をあらゆる角度からじっくりと観察することができます。子どもと訪れて、一緒に魚の名前を覚えていくのも楽しそうですね。 オリジナル商品も充実したミュージアムショップ  図書資料や映像コーナーのそばには、ミュージアムショップがあります。ミュージアムショップには、この博物館に来ないと手に入らない逸品も少なくありません。  お守りとして古くから重宝されてきた鯨のヒゲや、鯨の情報が印刷された消しゴム、生月ボランティアガイド協会オリジナル商品である生月絵はがき、地元産品を利用して作られた加工品など貴重な商品が並んでいます。生月町の主婦有志でつくられた料理研究サークルが作った「鯨ジャーキー」「鯨味噌」が注目を集めており、人気を博しています。くじらカレーやくじらシチューなども大好評なのだそうですが、生月島に来たなら、ぜひとも味わいたい一品ですね。 平戸市生月町博物館 島の館 ◎入館料 【個人】  大人500円、高校生300円、小中学生200円 【団体】 15名以上450円、高校生270円、小中学生180円   50名以上400円、高校生240円、小中学生160円 100名以上300円、高校生180円、小中学生120円  【身障者(個人・団体)】   大人250円、高校生150円、小中学生100円  【年間パスポート】 大人1,000円、高校生600円、小中学生400円  ◎開館時間 9:00〜17:00(最終受付16:30)  ◎休館日 正月(1月1日、2日)特別休館有  ※ご予約により博物館内、生月島内をご案内いたします。 ※島内案内のみ有料 ※館内はバリアフリー対応です   〒859-5706 長崎県平戸市生月町南免4289番地1 TEL:0950-53-3000 URL: http://www.ikitsuki.com/yakata/