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県北エリア

  • 平戸城 2014年03月26日
    平戸城
     平戸城は長崎県平戸市にあった城で、江戸時代には平戸藩松浦氏の居城でした。平戸島の北部に位置し、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にあります。平戸港を見下ろす好地にそびえるこの城は、西海屈指の名城であり、2006年(平成18)には日本100名城にも選定されています。  平戸は、中国など東洋との絆も深く、アジアの貿易拠点でした。1550年(天文19)にポルトガルの貿易船が初めて平戸に入港すると、中国との交易もあいまって、平戸は「西の都」と呼ばれる国際貿易港として知られます。1609年(慶長14)にはオランダ、次いでイギリスが商館を設置するなど、鎖国が行われるまでは対外貿易の中心地として栄えていました。これだけでも平戸は、歴史のロマンと格調高い文化の香りを感じますね!さあ、早速見に行ってみよう! 平戸城の歴史  平戸松浦氏は、豊臣秀吉権下の1587年(天正15)、63,200石の大名となり、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際は、約3,000の兵を率いて朝鮮半島を転戦しました。帰還後の1599年(慶長4)、初めてこの地に「日の岳城」を築城すべく着手しますが、完成を間近にした1613年(慶長18)の大火 によって焼失してしまいました。  1603年(慶長8)、徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任官されて江戸幕府が始まり、幕藩体制は確立されつつありました。そのような中、家康は、秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしをむけていました。松浦鎮信(しげのぶ)(法印(ほういん))はその疑いを払拭するために、日の岳城に火をつけて焼却し、所領を安堵されたともいわれています。  それから約100年後の1704年(宝永元)、幕府の許可のもと、平戸城(亀岡城)再築に着手しました。山鹿素行(やまがそこう)の軍学に沿った縄張りがなされた全国でも珍しい城です。14年の歳月を費やし、1718年(享保3)に完成しました。1871年(明治4)に廃城となりましたが、1962年(昭和37)に平戸市が復元しました。 平戸城の見どころ  天守内は、現在資料館となっており、松浦党などの貴重な資料の数々が展示されています。このほか、弥生時代の里田原遺跡(さとたばるいせき)や遣唐使時代の資料も展示されており、3世紀頃に西海鎮護のため志々伎(ししき)、宮の浦に駐留した十城別王(とおきわけのみこと:仲哀天皇の弟)の武将である七郎氏広のものといわれる鐶頭太刀(かんとうのたち:国指定重要文化財)も見応えがあります。  そして大航海時代の南蛮貿易を物語る資料や代表する工芸のひとつであった刀工の作品の数々、平戸のカクレキリシタンの遺物品なども展示されており、当時の平戸の歴史や文化がよくわかります。また明治天皇とその祖母にあたる中山愛子姫(松浦清[静山]の第11女)の資料をはじめとして幕末の平戸藩の歴史を知ることができます。 天守閣  天守閣にのぼると、眺望が素晴らしく、遠くは壱岐まで望むことができます。目下には平戸港が見え、南蛮貿易時代にポルトガル船やスペイン船、オランダ船が行き来していた海が広がり、大航海時代のロマンを感じさせます。国指定史跡「平戸和蘭商館跡」地には、「平戸オランダ商館」の建物が復元されている様子も天守閣から見ることができます。2011年(平成23)9月20日オープン予定です。とっても楽しみですね。 亀岡公園  平戸城及び各櫓、亀岡神社、マキ並木を有した公園は、史跡公園として、年間を通じ多くの利用者が訪れています。  園内には遊歩道が整備され、春には桜の名所としても知られており、観光客だけでなく市民にも親しまれています。浦敬一(うらけいいち)や菅沼貞風(すがぬまただかぜ / ていふう)、沖禎介(おきていすけ)、作江伊之助(さくえいのすけ)など明治時代に活躍した平戸出身の人々の記念碑や中山愛子像があり、歴史を感じながら散策することもできます。 平戸城 ■入場料金 大人500円 中人300円 小人200円 団体割引:30名様以上2割引 ■開館時間 8:30〜17:30 ■休館日 12月29・30・31日 ■お問合せ先 TEL:0950-22-2201 URL: http://ww21.tiki.ne.jp/~hirasink/hiradozyou/siromenu.htm
  • 里田原歴史民俗資料館 2014年03月26日
    里田原歴史民俗資料館
     弥生時代の低湿地遺跡である里田原遺跡から出土した遺物等の収蔵及び展示を目的として、1982年(昭和57年)11月に開館した里田原歴史民俗資料館です。  この里田原遺跡は、長崎県平戸市田平町にあり、もともと大陸に近いという地理的環境から日本文化の起源を探るうえでも重要な位置にあります。  さて、この資料館ではどんな資料を見ることができるのでしょうか?早速入館してみましょう! 里田原遺跡  1972年(昭和47)7月、国道沿いの工事現場から弥生土器と木製の道具が発見され、2006年(平成18)3月までに51次にわたる調査が行われています。その結果、弥生時代の遺跡であることがわかりました。  “日本の米作り”が行われ始めた頃の木製の道具が多く出土していることから、全国的にも注目を集めました。水門や樫の実の貯蔵穴(ちょぞうけつ)、しゃもじや藤籠といった生活用具など多数の木製品が見つかりました。水田下の湧き水の影響で、通常では残らない縄文時代終わり頃や弥生時代の木製品がそのままの形で数多く出土しました。この館内に展示されている木製品のほとんどが複製品ではなく、弥生時代に使用されていたものだというので、一見の価値があります。  鍬(くわ)や鋤(すき)などは農耕の存在を示すものですが、それを作った工具と思われる斧(おの)や手斧(ちょうな)の柄や鋤の未完成品なども見つかりました。このことによって、木器を作っていた人がいたこともわかります。さらに魚やクジラ、鹿の骨、樫の実、うり・ひょうたんなどの種、米と籾(もみ)も出土しており、弥生時代にどんなものを食べていたのかもわかります。さらに食物を盛るための皿や漆塗りの祭器のようなものも出土しており、階級社会の成立を伺わせるものまであります。この館内の展示物をみると、弥生時代の生活がより具体的にわかり、身近に感じられるから面白いですね。  里田原の水田の中には支石墓(しせきぼ)と呼ばれるお墓があります。縄文時代の終わり頃(約2700年前頃)、朝鮮半島から伝わったといわれるお墓の形で、土壙(どこう)や石棺(せっかん)、甕棺(かめかん)などの埋葬主体の上に大きな上石(うわいし)を載せたお墓です。その上石を支える石(支石)があることから「支石墓」と呼ばれています。甕棺からは朝鮮半島系の鏡なども見つかり、朝鮮半島との交流があったことを示しています。現在里田原には、2群3基の支石墓が残っています。里田原歴史民俗資料館に隣接しているやよい幼稚園の裏手に支石墓1号基があります。  また資料館駐車場のすぐ側には、里田原の天満宮前でみつかった2基と荻田中野ノ辻遺跡(おぎたなかののつじいせき)の石棺が復元されています。資料館に寄った際には、ぜひ見てくださいね。  里田原遺跡のほかには、田平町の日の岳(ひのたけ)遺跡から発掘された台形石器(だいけいせっき)や田平熊野神社の懸仏(かけほとけ)など面白い展示物もあります。  また平戸瀬戸に面した岬の岩礁近くに「つぐめのはな遺跡」という縄文時代の遺跡があります。この遺跡から見つかった有茎石銛なども展示されており、この頃すでに捕鯨を行っていたのではないかといわれています。当時の生活がこれだけ具体的に見えてくると、今後の調査がますます楽しみになってきますね。 里田原歴史民俗資料館 【開館時間】 午前9時〜午後5時 【入館料】 一般・・・200円 (団体・10人以上・・・160円) 小・中高校生・・・100円 (団体・10人以上・・・80円) 【休館日】 毎週水曜日及び12月29日〜1月3日 【お問い合わせ】 里田原歴史民俗資料館 〒859-4807 長崎県平戸市田平町里免236-2 TEL:0950-57-1474
  • 松浦史料博物館 2014年03月28日
    松浦史料博物館
     うわぁー、平戸城が見えるね。松浦史料博物館は、平戸城や港、当時を偲ぶ風景を一望できる高台にあるよ。 1955年(昭和30)に開館した博物館で、松浦陞(すすむ)(如月(にょげつ))によって寄贈された松浦家伝来の貴重な資料等を中心に収蔵してるんだって。  すごく立派な建物は、もと鶴ケ峰邸と称して1893年(明治26)に建てられた当主の私邸だそう。現在は国の登録文化財にもなっていて、とっても趣がありました。  茶室や喫茶店で、ゆったりした時間を過ごすのもオススメ!  「おいでよ!松浦史料博物館へ!!」  館内には、松浦家に伝わる秘蔵品3万余点の内、約200点を展示しています。南蛮貿易に関する当時の品々や秀吉の切支丹禁制文、茶道などの品などがあります。  オランダ製で江戸時代に松浦清(きよし)(静山(せいざん))が長崎で購入した地球儀や天球儀、異国船絵巻、室町末期の作の紺糸威肩白赤胴丸 (こんいとおどしかたしろあかどうまる)など、貴重なコレクションも展示されています。北海道と大陸がつながって描かれている地球儀は、当時の世界地図の面白さも発見でき、楽しめます。  江戸時代に平戸から江戸まで40日ほどかかっていたといわれる「東海道並びに航路の海図」は、横に長〜く描かれた絵巻です。平戸から江戸までじっくりと描かれた貴重な資料で、見応えも十分です!  松浦清(きよし)(静山(せいざん))が綴った全編で278巻という膨大な著述書「甲子夜話(かっしやわ)」の原本は、松浦家より寄贈を受け、この博物館に大切に保管され、展示されています。  江戸時代のニュースや珍事件をはじめ、当時の様々な人々の生活ぶりが描かれています。本当に貴重な資料なので、ぜひ見てほしいと思います。    館内で記念撮影できるコーナーがあります。 兜などを自由に試着して、松浦党になりきってみましょう。 平戸藩の明治維新  また、特別展覧会『平戸藩の明治維新』が開催されています!!  幕末の平戸海峡防備のための砲術や、砲術にともなう平戸藩の鋳造技術の発展と近代化、吉田松陰の平戸遊学、戊辰戦争に関する資料など、幕末の平戸藩がよくわかる企画展です。ぜひともご覧ください。   ●開催期間:2010年5月1日(土)〜2010年12月28日(火) ●入場料:大人500円 高校生300円 小・中学生200円 ●主催:平戸市・財団法人松浦史料博物館 ●開館時間:8:00〜17:30/8:00〜16:30(12月のみ) 閑雲亭(かんうんてい)  平戸藩最後のお殿様が建てた茶室・閑雲亭(かんうんてい)。台風によって崩壊したため復元されました。元禄時代、松浦鎮信(しげのぶ)(天祥(てんしょう))によって始められた武家茶道・鎮信流(ちんしんりゅう)。閑雲亭は、今に受け継ぐ門人たちの稽古道場となっており、茶道体験もおこなわれています。 詳しくは、博物館へお問い合わせください。 眺望亭(ちょうぼうてい)  1997年(平成9)、博物館の敷地内にオープンした喫茶ミューゼアム「眺望亭(ちょうぼうてい)」です。外観は純和風の倉造りになっていますが、中に入るとアンティークな家具や調度品が並び、西欧の雰囲気に包まれます。少し時間をとって、景色を楽しみながらのティータイムを過ごしてはいかが?  ここでしか手に入らないオリジナルグッズも販売されています。 松浦史料博物館 ■入館料 個人:大人500円 高校生300円 小・中学生200円 団体:大人400円 高校生240円 小・中学生160円 身障者(個人):大人90円 高校生50円 小・中学生 40円 身障者(団体):大人80円 高校生40円 小・中学生 20円 ※団体割引は30名様以上、一括購入のみ適用です ※身体障害者割引は、証明書が必要です ■開館時間 8:00〜17:30  8:00〜16:30(12月のみ) ■休館日 年末年始のみ(12月29日〜1月1日) ■問合先 0950-22-2281    博物館の入口の近くには、無料で楽しめる手足専用の「平戸温泉うで湯・あし湯」があるので、疲れたらここでひと休みして、それから平戸市内を散策してはいかがでしょうか。平戸温泉は、神経痛ややけどにも良いナトリウム炭酸水素塩泉です。(利用時間8:00〜21:00) URL: http://www.matsura.or.jp/
  • 平戸藩2 2014年03月28日
    平戸藩2
    明治維新に向けた平戸藩 前回ご紹介しましたが、1775年(安永4)に平戸藩主となった清[静山]の第11女・愛子は、中山忠能と結婚し、慶子(よしこ)をもうけました。この慶子は、典侍として孝明天皇に仕え、明治天皇を生みましたので、愛子姫は明治天皇の外祖母にあたります。 また幕末には黒船が日本近海に出没し、国内では尊王攘夷の論争が起こり、佐幕・勤王の対立が激しくなっていきますが、時の平戸藩主・松浦詮(まつらあきら[心月])は、姻戚である中山忠能の指導を得て、平戸藩を勤王へと進めていきました。 1868年(明治元)には、鳥羽・伏見の戦に在京の平戸藩士が出陣するなど活躍しています。 また同年、平戸藩は奥羽出兵の勅命を受けました。二隊約400名が田助港を出帆し、出羽船川に上陸。角館(かくのだて)や苅和野(かりわの)の地などで会津庄内藩と戦っています。 平戸城では、幕末に関する詳しい展示がみられます   「西海の二程(にてい)」と呼ばれた楠本端山・碩水 1867年(慶応3)、松浦詮(あきら)[心月]が明治天皇に儒教の四書のひとつ「大学」をご進講することとなりました。このときの詮の講義は、堂々として見事な内容で、列席していた公卿や諸大名も驚くほどだったといいます。 この講義で、詮の侍講(じこう)であった楠本端山(くすもとたんざん)の名が全国に知られるようになりました。 幕末の平戸藩には、楠本端山と楠本碩水(せきすい)という平戸藩領針尾(はりお)島(現佐世保市)出身の兄弟がいました。三島中洲(みしま ちゅうしゅう)は、宋の儒者であった程朸協ていこΙと程頤(ていい)の兄弟になぞらえ、端山と碩水のことを「西海の二程(てい)」と讃えました。 今回は、この二人にスポットを当てて紹介していきます。 楠本端山は、平戸藩校・維新館に学び、葉山左内から才能を認められ、24歳の時に江戸留学を命じられました。佐藤一齋(さとういっさい)や大橋訥庵(とつあん)について儒学を深め、平戸藩に戻ると松浦詮に学問を講じながら、維新館の教員となりました。 端山は、当時の維新館の教育が単に解釈や暗記に偏ってきていることを指摘し、人間の徳性を養いものの道理を知るという朱子学本来の姿に近づけようと改革を唱えました。しかしこの改革は取り入れられなかったため、端山は教員を辞めて針尾へ帰郷します。 数年後、藩主である詮からの懇請もあり、端山は再び平戸に出仕し、詮の侍講を勤めました。端山の学識と人格に、藩主の信頼は厚かったといいます。 この当時、佐幕か尊王かで激しく国内が揺れ動いていましたが、端山は過激な行動を慎み、君主に仕える尊王の大義を藩主に説いたともいわれています。 明治維新後、端山は平戸藩権大参事という職につくと藩政に関わり、猶興(ゆうこう)書院をひらき、税を軽減して民生の安定をはかるなど学制の改革を行いました。 弟の碩水も維新館に学びます。九州各地を遊学した際には広瀬淡窓(たんそう)の門に入り、その後上京して佐藤一斎の門にも入り学びました。平戸に戻ると、維新館の教員となります。解釈や暗記に偏った保守的な藩校の改革をめざしましたが端山と同様に果たせず、城下に「櫻谿(おうけい)書院」という私塾を開き、自分の信じる教育を進め、子弟を教えました。この櫻谿書院では、当時侍講であった端山も招かれて、講義に出ていたといわれています。 明治維新後、碩水は貢士(こうし:各藩の意見を代表する役目)として上京し、その後新政府の役職がめまぐるしく変わり、新しく京都に設置された大学で漢学を教えました。しかしこの大学はわずか一年で廃止となりました。 若い頃、生涯仕官をさけて門人の教育に尽くした浅見絅斎(あさみけいさい)の影響を受けていた碩水は、その後藩に仕えることはなかったといいます。 楠本端山旧宅 平戸から針尾島に戻った端山と碩水は、1882年(明治15)に自らの学問、教育の理想をめざし、「鳳鳴(ほうめい)書院」を設立しました。 この鳳鳴書院では、知行合一を重んじ、国家につくす知徳豊かな人材を育てることを目的とし、きびしい規則や試験を課さずに、自由に学ばせる方針をとりました。   端山と碩水を慕って、九州各県のほか山口・島根・広島・香川・徳島・三重・新潟、さらに青森県など東北地方にまで及び、鳳鳴書院の門人は約400名にのぼったといいます。このほか維新館や櫻谿書院、猶行書院など私塾時代をあわせると、二人の門人は千数百名ほどといわれています。 この門人の中には、元老院議官や貴族院議員となった籠手田安定(こてだやすさだ)や熊本県出身で自由民権運動家の宮崎八郎など、明治期に国内外で活躍した先駆者が多くみられます。精神形成に実行を重んじる二人の教育が及ぼした影響も大いにあったと思われます。 二人の門人たちの活躍は、2010年(平成22)1月27日に公開された「歴史発見コラム」の“ 平戸を訪れた人々と平戸を旅立ち活躍した人々 ”をご覧ください。   参考資料 「史都平戸-年表と史談-」/松浦史料博物館 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 「江戸時代 人づくり風土記42 長崎」/企画・発行 社団法人農山漁村協会 歴史散策「楠本端山旧宅」 楠本端山旧宅の周辺には、有料道路・西海パールラインが整備され、大村湾やハウステンボス、針尾の無線塔などを遠望できます。近くをドライブするなら歴史スポットを訪れてみませんか? 楠本端山旧宅 旧宅は武家屋敷に儒教の祀堂を備えた珍しい造りです。近くに儒教様式の土墳墓7基があり、大変貴重なものとして県の史跡に指定されています。この建物は端山の父が1832年(天保3)に建築したもので,門は平戸の楠本屋敷より明治初年移築したものだそうです。 針尾の無線塔 国道202号から針尾農道へ入り、西海パールラインの下を走っていくと、巨大な3本のコンクリート製の電波塔を間近で見ることができます。元は日本海軍佐世保鎮守府下の無線送信所です。1918年(大正7)に着工し、1922年(大正11)に完成しました。1本の高さは130メートルを超えています。 浦頭(うらがしら)引揚記念平和公園 太平洋戦争の終結に伴い、海外に居住していた邦人や軍関係者約629万人が日本に引き揚げました。このうち主に中国大陸や南方諸島からの引揚船 1,216隻、一般邦人・軍人・軍属合わせて1,396,468人もの方々がこの浦頭に上陸しました。1986年(昭和61)、近くに浦頭引揚記念平和公園が整備され、当時の資料を展示した引揚記念資料館があります。 開館時間:9:00〜18:00(11月から3月は17時閉館) 入館料:無料 休 館:12月30日〜1月3日 浦頭引揚記念平和公園 内にある「かえり橋」 歌碑 引揚記念資料館 元検疫所消毒室の 軒先復元 (引揚記念資料館の裏) 引揚第一歩の地 平和公園から約500メートル ほど離れた波止場にある 記念碑です。
  • 平戸藩 2014年03月28日
    平戸藩
    南蛮貿易後の平戸 前回の「長崎の幕末1」でも平戸の歴史を紹介しましたが、中世末期には南蛮貿易の中心地として栄えました。しかしオランダ商館は出島に移り、貿易港も平戸から長崎へと変わりました。 このことにより、平戸藩の財政は大打撃を受け、寛永年間には深刻な財政難に陥りました。南蛮貿易断絶後の平戸藩では、まずは農業に基盤をおき、新田開発を行いました。また1725年(享保10)から始まった益冨組による捕鯨が一大事業として栄えました。商人のなかには鯨突に転向する人も多く、18世紀中期には捕鯨業がピークに達します。平戸から壱岐、対馬、五島、西彼杵(にしそのぎ)、長州(山口県)など各地に漁場をひろげました。益冨又左衛門から藩主へ納入された献金は15万2000両を超えるほどで、平戸藩の財政を支えました。そして19世紀には石炭業にも取り掛かりました。相浦や小佐々町で炭坑をひらき、長崎や博多、瀬戸内海の塩田へ石炭を送っていました。その後、草刈太一左衛門は、中里・相浦・佐々・小佐々一帯の石炭山を経営し、明治以降に栄える北松炭田のもとを築きます。 しかし、新田開発による増収が限界に達したことや捕鯨業の衰退も起因し、またも財政難に陥ることになりました。   松浦清 [静山] (まつらきよし・せいざん) 1775年(安永4)に平戸藩主となった清 [静山] は、平戸藩財政の再建を図り、節約の実行を藩士に徹底させました。そして農業が根本であるとして藩内の各地に新田や新畑を開拓し、土木治水や耕牛・農機具の貸与などに力を入れました。洪水や旱魃などで天災による飢饉のときには税を免除し、被災者を救うために米を与えるなど安定を図りました。 また農業とともに平戸藩の重要な基幹産業である漁業においては、清 [静山] みずから捕鯨の様子を検分して当事者を激励しています。そして魚市場を作り、魚介類の流通と価格を安定させ、漁港の護岸工事を行うなど漁業の保護発展に取り組みました。 中山愛子像 (平戸城亀岡公園) 清 [静山] は自らの生活も質素に努め、藩用の出納は非常に厳格で、無駄遣いせず、常に節約させました。さらに財政の安定を図るため、1790年(寛政2)『財用法鑑(ざいようほうかん)』を、そして1795年(寛政7)に藩の会計法を改革して条規を定めた『国用法典(こくようほうてん)』を編集しました。清 [静山] は、平戸藩の民生の安定・安行の発展に尽くしました。 清 [静山] の第11女・愛子は、中山忠能と結婚し、慶子(よしこ)をもうけました。この慶子は、典侍として孝明天皇に仕え、明治天皇を生みました。このことから、清 [静山] は、明治天皇の曽祖父にあたります。   名著『甲子夜話(かっしやわ)』 ある日、親交が深い林述斎(はやしじゅっさい)が清 [静山] を訪れました。話題が4代藩主・松浦鎮信 [天祥] (まつらしげのぶ:てんしょう)の著述『武功雑記(ぶこうざっき)』におよんだ際に、林述斎が清 [静山] に著述をすすめました。清 [静山] は刺激を受け、その夜から筆をとります。この夜が1821年(文政4)11月17日甲子(きのえね)の夜であったことから、「甲子夜話」と名づけられました。 「甲子夜話」は、どんな内容かご存知ですか? 「甲子夜話」は、歴史書や民俗書、説話文学の要素を持っており、当時の社会・風俗・宗教・自然現象・地理・博物誌、朝廷や幕府、そして一般庶民の生活ぶり、さらに笑話にいたるまでこと細かく描かれた随筆集です。中には挿絵も描かれており、全編で287巻という膨大な著述書です。 この原本は、松浦家より寄贈を受けた松浦史料博物館に保管され、展示されています。興味がある方は、ぜひ平戸市の松浦史料博物館へ見に来てください。 【松浦史料博物館】 [現在特別展覧会『平戸藩の明治維新』が開催されています!!] ■期 間 2010年5月1日(土)〜2010年12月28日(火) ■入場料 大人500円 高校生300円 小・中学生200円 ■主 催 平戸市・財団法人松浦史料博物館 ■開館時間 8:00〜17:30/8:00〜16:30(12月のみ) ■休館日 年末年始のみ(12月29日〜1月1日) ■お問い合わせ TEL: 0950-22-2281   平戸藩校「維新館(いしんかん)」 平戸藩学の基礎は、4代藩主・松浦鎮信[天祥](まつらしげのぶ:てんしょう)が山鹿素行(やまがそこう)と親交が深く、素行の弟平馬と孫の高道が平戸に使官して山鹿の学統を伝えたことに始まります。そして松浦清 [静山] は、文武の奨励と振興を目的として、藩校「維新館」を設立します。総裁・教頭のほかに数名の教授や助教授、漢文の読み方を教える句読師(くとうし)らを置き、清 [静山] 自身もしばしば教壇に立って講義を行いました。維新館の開校により、学問を志す人が増え、数年ではやくも校舎の建て替えが必要となったといいます。現在の平戸小学校近くに校舎を新築し、隣に武道場を設置しました。 この維新館では、正課として中国の四書(大学(だいがく)・中庸(ちゅうよう)・論語(ろんご)・孟子(もうし))と五経(易経(えききょう)・書経(しょきょう)・詩経(しきょう)・春秋(しゅんじゅう)・礼記(らいき))などがありました。 藩の子弟は、13歳で入学し、句読を三年間学んで秀士となり、のち三年で学員に補し、さらに三年で官に就くことができました。主人の乗った馬の周囲で警護を行う役目にあった馬廻(うままわり)以上の子弟は、13歳から35歳までの間に入学しなければ厳しい罰則があったといいます。 吉田松陰が平戸を訪れた際に滞在したといわれる紙屋跡 この維新館のことを知り、平戸を訪れた中の一人に吉田松陰がいます。この当時吉田松陰は、諸外国の事情を研究しており、日本の新たな防衛策の必要性を感じていました。山鹿流兵学をさらに深く学ぶために遊学の旅へ出て、目指した場所がこの平戸だったのです。儒学者で平戸藩家老でもあった葉山佐内にひかれ、紙屋に滞在しながら数多くの書物を読み、書き写したといいます。 この維新館では、多くの人材が育ちました。幕末に行動した人物や明治期に活躍した人物など少なくありません。 次回の「歴史発見 長崎幕末編」平戸藩の2回目では、この人々にもスポットを当てながら紹介していきます。 参考資料 --> 歴史散策「田助(たすけ)港周辺」 オランダなどとの貿易が断絶した後、松浦鎮信 [天祥] (まつらしげのぶ:てんしょう)が平戸港の副港として整備したのが、この田助港です。壱岐や小値賀から50戸ほどの住民を移住させて拡張し、商人たちが集まり港町として栄えました。 幕末当時は、回船問屋や船宿、遊女屋などが立ち並び、賑わいました。当時、長崎・長州間の船旅では、寄港地として利用されていたといいます。薩摩藩とゆかりのある回船問屋多々良孝平の角(すみ)屋や明石屋には、西郷隆盛や桂小五郎、高杉晋作など薩長のそうそうたる志士が集まり密談していたといわれています。主に明石屋が密談や隠れ家として利用され、隠れ部屋や脱出口が設置されていたといいます。 田助港 松浦鎮信[天祥](まつらしげのぶ:てんしょう)が平戸港の副港として整備したのが、この田助港です。 永山邸(明石屋) 永山邸はもともと回船問屋明石屋で、1903年(明治36)の火災で焼失しましたが、翌年には消失前とそっくりに再現したといいます。 浜尾神社・田助ハイヤ節発祥の地 起源はあきらかではありませんが、蘭学者の司馬江漢が1788年(天明8)に田助を訪れたとき、船宿の繁栄振りとともにハイヤ節を表すものと考えられる記述を日記に残しています。 維新志士会合の碑 薩摩藩の西郷、長州藩の高杉、桂、肥前藩の大隈などの英傑がこの地で会合して密かに謀議を行ったといいます。 現在は、多々良孝平氏の居宅から浜尾神社に移設されています。 田助港は、平戸城から北へ向かって車で約8分のところです。   周辺散策地図 永山邸 維新志士会合の碑 浜尾神社・田助ハイヤ節発祥の地
  • 幕末の長崎1 2014年03月28日
    幕末の長崎1
    “長崎って何藩ですか?”という質問が少なくありません。長崎は、どの藩に属していたのでしょうか?・・・実は、長崎はいずれの藩にも属していませんでした。不思議ですよね。 いったい、“長崎”ってどんな地域なのでしょう。 少し歴史をさかのぼって、 “長崎”を紹介しましょう。   南蛮貿易とキリスト教のはじまり 長崎県北部の平戸では、古い時代から倭寇や松浦党水軍の根拠地のひとつであり、長崎県北部の政治・文化の先進地でした。中世末期には、南蛮貿易の中心地として歴史に登場します。 1543年(天文12)、種子島にポルトガル船が漂着し、日本に鉄砲が伝わります。次いで1549年(天文18)にはイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、布教を開始しました。しかし、当時の薩摩領主であった島津貴久(しまづたかひさ)はキリスト教に関心を示さなかったため、ザビエルは翌年に鹿児島を去ります。しかし1541年にザビエルと一緒にインドへ渡航したという船長ミランダが平戸に来航していることを知り、ザビエルは平戸を訪れます。 ポルトガル船入港の地 (平戸市) ポルトガル船入港碑 (平戸市) フランシスコ・ザビエル記念碑 (平戸市)   平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)は、ポルトガル人船員たちが敬愛しているザビエルを歓迎し、貿易にも熱心だったこともあり、ザビエルに布教活動を認めました。これが、長崎における南蛮貿易とキリスト教布教のはじまりとされています。 しかし、1561年(永禄4)の宮の前事件などの紛争により、ポルトガル船の寄港地は平戸から西彼杵半島(にしのそのぎはんとう)の北端にある大村領の横瀬浦(現西海市西海町)へと移ります。翌年大村領主・大村純忠(おおむらすみただ)への反乱が起こり、武雄の後藤貴明(ごとうたかあきら)らの攻撃によって横瀬浦の港は焼き討ちに遭います。 横瀬浦公園と横江浦港の眺め(西海市) 一時的にポルトガル船の寄港地は平戸に戻りますが、1570年(元亀元)に長崎へと寄港地を移します。当時の長崎は、大村純忠の家臣・長崎甚左衛門(ながさきじんざえもん)の領地で小さな漁村だったのですが、天然の良港でした。年々ポルトガル船の来航によって、港町として発展をとげていきました。岬の先端にまちづくりが始まり、みるみる人口も増えました。南蛮貿易によって莫大な利益をもたらすことから、周辺諸国の領主は誰でもがポルトガル船の入港を望んでいたため、大村純忠には様々な圧力がかかっていました。そこで大村純忠は、1580年(天正8)に長崎と茂木(現長崎市南東部)を、そして口之津で南蛮貿易を行っていた有馬領主・有馬晴信(ありまはるのぶ)も領地の浦上をイエズス会教会領として寄進したのです。   直轄領・長崎とキリスト教 ポルトガルとの貿易は、莫大な利益をもたらしましたが、貿易とキリスト教布教は切り離せない関係にありました。 その頃日本では、1582年(天正10)にキリスト教を保護していた織田信長が本能寺の変で倒れると、豊臣秀吉が全国統一を果たします。1587年(天正15)に大村純忠は没し、秀吉は九州を制圧すると、「伴天連(ばてれん)追放令」を発令し、イエズス会から長崎・茂木・浦上を没収し、直轄領(天領)としました。翌年には佐賀の鍋島直茂(なべしまなおしげ)を長崎の代官として任命しました。この地を統括する長崎代官には、大きな権限が与えられました。鍋島直茂に次いで任命された寺沢広高(てらさわひろたか)の時に長崎奉行の役職名が与えられました。徳川幕府も秀吉と同様に、長崎を直轄領としました。 なぜ幕府の直轄領にしたがるのでしょう?それには大きく2つの理由がありました。 ひとつは、長崎で行われる貿易の利益を独占するため、そしてもうひとつは、キリシタンを監視するためでした。 禁教令発令にもかかわらず、キリシタンの町として半ば黙認され、栄えていた長崎でしたが、1596年(慶長元)に起こったサン・フェリペ号事件では、長崎西坂の丘で26人を処刑させるという殉教事件にまで発展しました。それから長崎や大村、島原など各地でキリシタンの弾圧が始まりました。1637年(寛永14)には妊婦を拷問死させたことに憤慨した信者らが起こした島原の乱により、キリシタン取り締まりはますます強化されました。 1639年(寛永16)、幕府はイエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶し、出島に住まわせていたポルトガル人を追放しました。平戸から出島にオランダ商館を移し、長崎での貿易はオランダと中国に限られました。長崎港の警備は九州大名によって行われ、江戸幕府の『鎖国』が完成しました。 今も残るオランダ塀 荷の積み上げを行っていたオランダ埠頭     国際貿易都市へ 秀吉の政策を継承して長崎を天領とした江戸幕府は、1603(慶長8)年に小笠原一庵(おがさわらいちあん)を長崎奉行に任命しました。いったい長崎奉行はどんな仕事を行っていたのでしょうか。 長崎奉行は、長崎の統治、外交交渉、貿易事務、長崎の警備、密貿易やキリシタンの取り締まりを行っていました。 しかし内町の行政は、町年寄をトップとする自治組織に委任され、外町と長崎村、浦上村の行政は、有力な豪商による代官によって行われました。 もともと長崎は、各地から逃げてきたキリシタンや、富をもとめて集まった商人、ポルトガル人や中国人などが多く住んでいました。鎖国の時代下においても、オランダ・中国との貿易は長崎でのみ行われていましたので、国際貿易都市としてますます発展していきます。 長崎では、封建的な家柄などよりも個人の才能が重視され、指導者としての資質や商才にたけたものが町を治め、尊敬されました。 幕府の直轄地でありながら、長崎の町人たちは奉行のもとで自治組織を形成して行政の実施を行うなど、他の都市にはない独特な都市“長崎”を創り上げました。   海外文化の窓口・長崎 近世の長崎は、海外文化を受け入れる窓口として発展し、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダ・中国などの文化が伝わり、長崎ならではの美術工芸を生み出していきました。 長崎の港が最初に開かれたのはポルトガル船との貿易によってでした。次いで唐船に乗った中国人が長崎の町に住み、スペイン人が出島に住み、次いでオランダ人が定着しました。当時の日本では知ることができなかったヨーロッパや中国大陸のさまざまな文化が次々と持ち込まれたのです。長崎の人々は、それらの文化に接し、長崎奉行の援助を受けて異国の美術工芸を習い伝えるようになったのです。 この長崎の人々に伝えられた新しい異国の美術工芸は、やがて江戸に、そして大坂、京都へと伝わり、日本の近代化に大きな影響を与えていったのです。   異国の技術を受け入れ、引き継いでいった長崎の人 幕末までの長崎はどんなふうに発展していったのでしょうか、少し具体的に見ていきましょう。 1570年(元亀元)に長崎が開港して以来、来航していたポルトガル船には、キリスト教の布教を目的としたイエズス会の神父たちも多く乗っていました。当時、長崎の町人は熱心なキリシタンでしたので、町人の協力によって大きな教会が建てられました。セミナリヨ(小神学校)、コレジョ(大学)という学校施設や画学舎(ががくしゃ)という油絵の画法を教える施設も建てられたといいます。ここでは信者に配布するためにマリア様やキリスト、聖者などの絵像・銅版画が制作されました。また京都や大坂で教会が多く建てられた頃には、教会内部を装飾するヨーロッパ風の壁画や彫刻を制作するために、長崎の芸術家たちが多く招かれたといいますので、当時の長崎にはヨーロッパ風の芸術工芸を制作できる人たちがすでにいました。 強い陰影をつけて表現される油彩は、多くの日本人を驚かせました。「南蛮画」「蛮画」ともよばれました。 南蛮貿易時には、美しいラシャの布やタバコ、ポルトガルの葡萄酒・チンダ酒、ビイドロ(ガラス)などが輸入されました。 特にガラスは、ポルトガル人が長崎でその製法を教えました。そして長崎から大坂・江戸へと製法は伝えられました。このビイドロ細工のひとつに眼鏡細工がありました。 長崎の浜田弥兵衛(はまだやへえ)がポルトガル文化圏にて、その製法を習い伝えたといいます。また1603年(慶長8)には、長崎には時計細工師もいました。江戸時代になると長崎の時計師は幕府の御用時計師に任命されています。 出島 そして1641年(寛永18)よりオランダ船が長崎に入港するようになります。 オランダからは西洋の医学が伝えられました。オランダ商館にはオランダ語の医学書や医者も送られ、長崎の人たちはヨーロッパの新しい文化や学問を吸収していきました。 当時、出島に出入りできていたのは、オランダ通詞や役人、使用人、丸山遊女など限られていましたが、出島の使用人の中には御用絵師や御用細工人なども多くいましたので、これらの人々によって伝えられました。 また、杉田玄白(すぎたげんぱく)と前野良沢(まえのりょうたく)らによって翻訳された『解体新書』によって、医学と同時に蘭学も全国に広まっていきます。 オランダ船や唐船によってタイマイ亀(和名:タイマイ)の甲羅を材料とする鼈甲(べっこう)細工も長崎に伝わりました。中国人に鼈甲細工の技術を習い、細工人たちは女性の装飾品や置物などを製作しています。やがて長崎の鼈甲職人たちは、江戸時代後期には江戸や大坂へ進出していきました。 また唐船からは、美しい貝細工の漆工芸品や黄檗派(おうばくは)の絵画も伝えられています。1644年(寛永20)に中国より来航した画僧逸然性融(いつねんしょうゆう)は長崎の画人たちに大いに影響を与えました。渡辺秀石(わたなべしゅうせき)は逸然の画風から中国の新しい画法を学びとり、漢画の画風を確立しました。19世紀には南画が伝えられ、僧鉄翁(てつおう)や木下逸雲(きのしたいつうん)、三浦梧門(みうらごもん)と長崎南画の三画人が高い評価を受けています。 このようにして、長崎の人々は海外の文化を受け入れ、近代化の礎を築いていったのです。   ここから近代化の技術は広がった・・・長崎海軍伝習所 1853年(嘉永6)のペリー来航以来、イギリス・フランス・ロシアなどが琉球(沖縄県)や浦賀(神奈川県)、長崎に来航し、通商を求める事件がつぎつぎと起こります。 日本では、これまで通りに外国人を入れてはならないと主張する攘夷論と、時代に合わせて開国しようとする開国論とに国論が二つに分かれ、騒然とした幕末の真っただ中に突き進んでいきました。 イギリス・フランスなどの列強国の侵略を防ぐため、江戸幕府はオランダの助力を得て、1855年(安政2)に長崎海軍伝習所を設立しました。 オランダ国王から軍艦「スームビング号(のちに観光丸)」が献上され、長崎在勤の目付永井岩之丞(尚志)を取り締まりとし、勝麟太郎をはじめ、各藩から選りすぐりの青年約120名が、オランダ人教官のもと、長崎奉行所西役所(現長崎県庁)敷地内の海軍伝習所で必要な学科を学びました。 ここでは主に地理・物理・天文・測量・機関・航海術・造船術・砲術などの高度な技術を学んだといいます。まさに近代教育らしい内容ですね。 1857年(安政4)には、幕府がオランダに注文していた「咸臨丸(かんりんまる)」が第二次教官団とともに入港しました。咸臨丸は、勝麟太郎が1860年(万延元)に艦長として太平洋を横断し、遣米使節の役目を果たしたことでも知られています。この第二次教官団の中には、艦長カッティンディケ中尉(のちのオランダ海軍大臣)、医師ポンペ、ハルデスなどがいました。 近代化の技術がこの長崎海軍伝習所から広がっていくこととなるのです。 幕末であっても、長崎は西洋の近代技術の窓口としてその役割を果たします。この海軍伝習所から長崎溶鉄所(長崎製鉄所)、近代医学、洋式採炭技術、唐通事・オランダ通詞、英語伝習所、活版印刷・・・国内各地から、新しい科学や技術を吸収したい若者たちが、この“長崎”を目指していたのです。 次回は幕末の長崎で活躍した人々を取り上げながら長崎を紹介していきます。 参考資料 旅する長崎学1 キリシタン文化I『 長崎で「ザビエル」を探す 』 旅する長崎学3 キリシタン文化III『 26聖人殉教、島原の乱から鎖国へ 』 旅する長崎学8 近代化ものがたりII『 長崎は野外産業博物館 』 改定郷土史事典42 長崎県(石田 保著/昌平社発行)  歴史散策「長崎奉行所立山役所 長崎公園」 現在「龍馬伝館」が開催されている長崎歴史文化博物館は、かつて長崎奉行所立山役所があった場所です。発掘調査で発見された当時の遺構の一部を活かし、奉行所が復元され、博物館に併設されています。 奉行所の入口の石垣を見てみると、当時の石垣と復元された石垣では明らかに色が異なり、当時の様子が偲ばれます。1867年(慶応3)に起こった「イカルス号事件」の取り調べでは、坂本龍馬もこの石段を上がったことでしょう。当時の奉行所の姿を体感してみてください。 また博物館裏手にある長崎公園には長崎に貢献した人々や長崎にゆかりのある人物の記念碑が自然に溶け込むように存在し、長崎の歴史の厚みを感じさせる空間となっています。 一部をご紹介します。 スウェーデン人の医学者・学者であったテュンベリー記念碑、シーボルト記念碑 日本初のプロカメラマンとなった上野彦馬之像 日本初の鉛版印刷に成功した本木昌造翁像 今回の長崎港の歴史に登場した長崎甚左衛門之像 1878年(明治11)頃に建造された日本初の噴水公園といわれています。復元されて今日に至ります。 噴水のある日本庭園からは諏訪神社へ。10月に行われる長崎くんちは有名です。 この公園は自然豊かで、1932年(昭和7)に上海から長崎へ運ばれたというオーストラリア原産のトックリノキなどが植えられ、歩いて眺めているだけでも癒されます。スロープも整備され、ベビーカーで散策する親子も少なくありません。 博物館を堪能した後に、ぜひとも立ちよってほしいスポットです。   周辺散策地図  
  • 平戸を訪れた人々と、平戸を旅立ち活躍した人々 2014年04月02日
    平戸を訪れた人々と、平戸を旅立ち活躍した人々
         今回の歴史発見コラムでは、平戸を訪れた人々や平戸から旅立って活躍した人々にスポットをあててみました。   1641年(寛永18)にオランダ商館が平戸から「出島」へと移転し、海外貿易の拠点が長崎へと移ります。平戸藩は主要な財政基盤を農業におくこととなりましたが、もともと山地と島からなり、平地に乏しい地勢でした。そこで、早岐(はいき)・相神(あいのうら)・佐々地方と新田の開発をおこないます。   その後、平戸藩の財政を潤したのは捕鯨でした。1733年(享保18)、益冨又左衛門の生月御崎(いきつきみさき)の網組は船40艘・従業員587名の巨大組織をつくりあげ、毎年20〜50頭の鯨を捕獲するほどの勢いで、壱岐・対馬・五島・西彼杵(にしそのぎ)・長州へと各地に漁場を広げていきました。  また、豊臣秀吉の朝鮮出兵・文禄の役後、平戸島中野で陶磁器づくりが始まり、1637年(寛永14)以降は三川内(みかわち:現佐世保市)が平戸藩の陶磁器生産の中心となります。御用窯も置かれて隆盛し、今日に至ります。 しかしながら、新田開発による増収は限界に達し、捕鯨業も衰退の一途を辿り、平戸藩の財政は厳しい状況となっていました。 松浦 清〔静山〕と藩校・維新館   平戸藩は、財政窮乏のため藩政改革が必要でした。そんな時に藩主となった松浦 清(きよし)〔静山せいざん〕は、経費節減や行政組織の簡素化・効率化、農村そのものの再建・強化、身分にとらわれない有能な人材の登用などをおこないました。   清山は、1821年(文政4)11月17日(旧暦)の甲子の夜から筆をとったといわれる「甲子夜話(かっしやわ)」の著者としても知られています。   甲子夜話には、古今の人物の逸話、故実、学問、芸能、民俗、信仰、自然現象、地理、その他狐狸妖怪等々の記述があり、江戸文学を代表する随筆集といえます。極彩色の挿図が数多く描かれているのも面白いです。また、大塩平八郎の乱やシーボルト事件に関する伝聞等の記述も含まれており、近世後期の社会情勢や文化を知るうえでも貴重な記録となっています。 また藩校となる維新館(いしんかん)を設立し、人材の育成に努めました。 平戸藩校の立役者・山鹿素行(やまがそこう)   そもそもこの維新館の基礎は、山鹿素行の弟・平馬とその子孫が平戸に住み、藩臣となって、山鹿の軍学(兵学)を説いたことが始まりといわれています。   1651年(慶安4)、松浦鎮信〔天祥〕が江戸の板倉重矩(いたくらしげのり)邸で、素行が「荘子(そうじ)」を講じるのを聞いて感動し、素行と意気投合しました。その後鎮信が素行の住居を世話するなどして親交が深まりました。 「テーマで歩く歴史散策」の平戸城 でも紹介しましたが、平戸城の縄張り(設計)は山鹿素行の軍学に沿ってなされました。   山鹿素行は、幼い頃から儒学、軍学(兵学)を身につけ、20歳で幕府士中に頭角を現し、門下生は4,000人にも及んだといいます。素行が著した尊王思想の書「中朝事実」は、後に乃木将軍にも影響を与えたといわれています。 平戸藩で多くの儒者を育てた佐藤一齋(さとういっさい)   佐藤一齋は1772年(安永元)生まれ。林述斎(はやしじゅっさい)に学び、天保の改革を推進した水野忠邦に見出され、幕府の儒官となります。朱子学を専門として教育しますが、その広い見識は陽明学にまで及びました。江戸の私塾では、長村靖斎(ながむらせいさい)、葉山佐内(はやまさない)、楠本端山(くすもとたんざん)、楠本碩水(くすもとせきすい)など平戸藩の儒者のほとんどは佐藤一齋の講義を受けました。1800年(寛政12)、29歳の時に平戸に招かれ、維新館で講義をおこなっています 明治維新の精神的指導者 吉田松陰(よしだしょういん) 吉田松陰宿泊紙屋跡(平戸市浦の町)   山鹿流兵学をさらに学ぶために平戸を訪れたのが、長州藩士の吉田松陰でした。まず葉山左内の門を叩いて儒学をより深め、その後山鹿高紹について兵学を学んだといいます。50日余り滞在して数多くの書物を書き写したといわれる「吉田松陰宿泊紙屋跡」には、今も多くの人々が訪れます。   1857年(安政4)には叔父が主宰していた松下村塾を引継ぎ、開塾。久坂玄瑞(くさかげんすい)や伊藤博文、高杉晋作(たかすぎしんさく)、桂小五郎(かつらこごろう)などを育てています。1859年(安政6)、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画が頓挫したことから自首、斬刑となりました。   維新館は、1871年(明治4)の廃藩置県の際に閉校となりますが、1880年(明治13)に松浦 詮(あきら)〔心月(しんげつ)〕は、学舎を再興して猶興書院(ゆうこうしょいん)と名づけ、漢字・数学・歴史を教育する場をつくりました。維新館時代を含め猶興書院では、明治時代に活躍する人材を多く輩出しています。   猶興書院は、1886年(明治19)に市立中学となり、1889年(明治22)には猶興館と改称、1902年(明治35)に県立へと移行します。現在の長崎県立猶興館高等学校の前身です 明治の行動人を育てた楠本端山 國士浦敬一之碑   楠本端山は1828年(文政11)、平戸藩針尾島に生まれます。維新館に学び、24歳の時に江戸留学を命じられ、佐藤一齋や大橋訥庵(とつあん)について、儒学を深めました。平戸藩に戻ると松浦 詮(あきら)〔心月(しんげつ)〕に学問を講じながら、維新館の教員となりました。その後1871年(明治4)の廃藩置県の際、平戸県権大参事となりました。   1881年(明治14)、官をやめ針尾に帰りますが、学びたいという者が絶えず訪れるため、翌年には弟の碩水とともに鳳鳴書院(ほうめいしょいん)を開いて多くの人材を育てます。この書院では厳しい規則や試験を課さず、悠々と自由に学ばせるのが特長で、九州各県のほか山口・島根・広島・香川・三重・新潟、さらに青森など東北地方からも集まってきたといいます。   楠本端山・碩水の門下生には、志佐要一郎(しさよういちろう)や浦敬一(うらけいいち)など、海外雄飛を志して行動した先駆者がいました。 「ブラジルの父」とよばれた山県勇三郎(やまがたゆうざぶろう)   山県勇三郎は楠本端山・碩水について学び、浦敬一との親交も深かったといいます。   初期の北海道開拓に従事して漁業・海運・牧畜・鉱山・商工業・学校などの諸事業を経営。日清戦争では軍需品の輸送を担当し、以来東京に店舗を設けて盛んに活動しました。   1909年(明治42)には日本帝国領土拡大の大望に燃え、長崎県ブラジル移民第1号として同地に渡ります。マカエ市郊外に約5000ヘクタールの大農場を開拓し、塩田・漁業なども営みました。その後、一度帰国して原首相を説き、ブラジル移民を国策路線に乗せるなど功績を残しました。 フィリピンで没した菅沼貞風(すがぬまただかぜ) 菅沼貞風の碑(亀岡公園内)   菅沼貞風は幼くして俊英の誉れ高く、貧しくして郡役所に勤めながら、夜は猶興書院に通って経史を学びました。1886年(明治19)、国が貿易沿革史の編纂を企画した際、大蔵省から史料を求められた長崎県は、郡役所へ求め、郡役所は貞風に依頼しました。貞風は遺跡を調べ歩いてまとめ、「平戸貿易史」を作成。当時、貞風はまだ19歳でしたが、松浦 詮は貞風の奇才を認め、学資を援助して東京帝国大学に学ばせたといいます。   1888年(明治21)の卒業論文「大日本商業史」は、日本の対外交貿易史の詳説として高い評価を受けました。その後、日本の海外発展についてフィリピンへと向かう「南進論」を説きました。1889年(明治22)には自らスペイン領であったフィリピンに渡り、地理・風俗の調査に奔走するも、マニラで客死しました。著書「新日本図南の夢」(当時は過激な南進策として刊行されませんでした)には、貞風の抱負の一端を知ることができます。 ロシアで没した沖 禎介(おきていすけ) 沖禎介の胸像(亀岡公園内)   沖禎介は1874年(明治7)生まれ。東京専門学校(現在の早稲田大学)に入り、その後楠本碩水に学びました。1901年(明治34)に清国に渡り、北京の東文学社で教鞭をとり、自ら文明学校を創立して清国の子弟を養いました。 沖禎介の胸像土台のレリーフ(亀岡公園内)   1904年(明治37)、日露宣戦布告に際し、校務は門人に託し、清国にいる同志と共に、東清国鉄道を破壊してロシア軍の東方輸送を妨害するという特別任務につきます。ラマ僧を装い、北京を発って50有余日、満州で任務を遂行しようという時にロシア軍に捕らえられ、ハルピンにて銃殺されました。 “初代シャム公使”稲垣満次郎   稲垣満次郎は上京して東京帝国大学に入ります。そして松浦 厚(あつし)〔鸞洲 らんしゅう〕のイギリス留学に随伴してケンブリッジ大学を卒業しました。イギリス在学中には、英文で「東方策」を著し、一躍欧米人のあいだにその名を知られるようになります。1891年(明治24)に帰国しましたが、官職には就かず、和文で「東方策」を著述して、当時の政界人に認められ、講演会をおこなうなど活動しました。   1897年(明治30)、初代シャム(現タイ王国)公使に選ばれ、同国との諸条約を締結、またトルコとの条約も締結させました。1907年(明治40)には特命全権公使となり、イスパニアに駐在しましたが、47歳で病没しました。 貞風の南進論を引き継いだ石橋禹三郎(いしばしうさぶろう)   石橋禹三郎は商家に生まれましたが、家業に就くことを好まず、17歳の時に平戸を離れ、福岡、そして東京へと出ました。苦労しながらも、将来のことを考えて英語を学んだといいます。あるアメリカ人の好意により単身渡米、皿洗いをしながら経済学を学びました。1891年(明治24)、南米チリで革命が勃発すると、義勇兵としてチリに赴き、その従軍記を書きました。一時平戸に帰りますが、フランスがシャムに領土の割譲を強要していると知って憤慨し、単身でシャム救援に旅立ちました。「勇敢な日本人と手を握り国運の発展をはかることが得策である」とシャムの政府要人に説いて賛同を得ると、土地を借り受け、「シャム殖民会社」や「日シャム銀行」を創設しました。しかし、シャム移民計画は実を結ばず、1898年(明治31)30歳で病死しました。 肉弾三勇士(にくだんさんゆうし)のひとり作江伊之助(さくえいのすけ) 作江伊之助の碑(亀岡公園内)   1931年(昭和6)の満州事変に続いて、1932年(昭和7)に第一次上海事変が勃発しました。日本軍は、廟行鎮(びょうこうちん)に築いた陣地を突破するのに苦戦していました。当時久留米工兵大隊の一等兵として参戦していた作江伊之助は、北川丞(きたがわすすむ)、江下武二(えした たけじ)と共に鉄条網の破壊班に加わります。爆薬筒に点火し、弾丸が飛び交うなかを3人で破壊筒を抱えて鉄条網に突入、自らも爆死しました。これにより日本軍は敵陣に突入することができました。当時この肉弾三勇士の名は知れ渡り、歌や映画も作られ、強く国民の志気を高めさせました(爆弾三勇士ともよばれています)。1965年(昭和40)、亀岡公園に作江慰霊碑が建立されました。   平戸生まれの青年のなかには、海外雄飛を志したものや海外で命を惜しまず活動したものが少なくありませんでした。海の彼方へと目を向けた彼らは、大航海時代に国際貿易港として栄えた平戸の遺伝子を受け継いでいたのでしょうか。   亀岡公園を散策していると、先人たちの記念碑や慰霊塔に出会います。平戸を訪れた際には、ぜひ立ち寄ってみてください。 亀岡公園   平戸城の二の丸跡に整備された公園で、天守閣や櫓があり、多くの観光客が訪れます。樹齢400年以上といわれるマキが多数植えられたマキ並木もあり、運動場も整備されているので、市民の皆さんにも親しまれています。マキの大きいものは幹まわりが5.5メートルを越えているそうです。 春には桜の名所にもなっており、多くの人で賑わいます。 亀岡神社鳥居とマキ並木 (亀岡公園)   1932年(昭和7)には漂泊の俳人とよばれる種田山頭火(たねだ さんとうか)は、平戸を訪れ、島の美しさと人の温かさに感激し、一時は落ち着き先にと考えたといわれています。山頭火は、行乞日記の中に以下のように書いています。 山頭火歌碑 山頭火歌碑 (亀岡公園内)   1932年(昭和7)には漂泊の俳人とよばれる種田山頭火(たねだ さんとうか)は、平戸を訪れ、島の美しさと人の温かさに感激し、一時は落ち着き先にと考えたといわれています。山頭火は、行乞日記の中に以下のように書いています。      日本は世界の公園である      平戸は日本の公園である 取材協力 社団法人 平戸観光協会 平戸市振興公社 平戸城 参考資料 「史都平戸-年表と史談-」/松浦史料博物館 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 平戸史話」(矢動丸 廣著)
  • 古楽器リュートの魅力(2) 2014年03月25日
    古楽器リュートの魅力(2)
    〜永田さん&井上さんにインタビュー〜  1582年に長崎からヨーロッパに旅立った天正遣欧少年使節は、1591年(天正19)、長い旅から帰国しました。1587年に豊臣秀吉が伴天連追放令を発布していたため、彼らは「インド副王使節」の一員として日本に戻り、聚楽第で秀吉と謁見しました。そこで西洋楽器による演奏を披露したといいます。4少年が持ち帰ったその楽器は、アルバ(ハープ)、クラヴォ(鍵盤楽器)、ラウテ(リュート)、レベカ(ヴィオール)でした。やさしい音色に魅了された秀吉はアンコールを所望し、演奏を3回も楽しんだそうです。 前回に続き、リュート奏者として活躍する永田斉子さんと井上周子さんへのインタビューをご紹介します。 リュートの魅力   井上さん 「ライブに来てくださった方々のアンケートを見ると、心が安らぐ、癒されたという感想をいただいています。どんな風に楽しんでいただいてもいいのですが、一人の音楽家として思うのが、1つの音楽を私が聴いて感じたことが、リュートの弦を爪弾き空気を振動させていること。音楽を私という媒体を通して、お客さんと通じあう楽しさを会場で味わってほしいです。バスの中でひとりでiPotを聞いているのと違ってライブは楽しいですよ。 私の夫がレストランを経営しています。私が古い昔の音楽をやっていることもあって、夫も昔のレシピを調べて再現したりします。昔のレシピをみると非常に簡単でシンプルなんですよね。映画でローランド・ジョフィ監督の「宮廷料理人のヴァテール」の一場面にでてくるように、盛り付けてあるテーブルの横に花火や噴水などの演出に驚きます。食べることがスペクタクルで、このような宴を貴族が好み、そこに必ず音楽家がいました。王様が眠りに就くまで音楽が奏でられていたことから、今も昔も変わらないのは音楽と生活が結びついているということ。私は朝起きたらプチッと音楽を鳴らすほうなんですけど。ライブは、演奏は自分の表現ですね。」   永田さん 「確かに音楽と生活が結びついているのは素敵なことですよね。リュートの魅力は たった一人で自分のために弾くのもまた楽しいという点。理想としては私の演奏会にたまたまきてくださった方々が、自分も弾いてみたいと思って、弾く楽しみをもっていただけるといいなと思います。楽器の入手方法や習う場所などを考えてしまうと、そう簡単にはいかないのですが。自分が弾けたら日常の暮らしが心豊かになる、悲しいことがあってもそれを弾けば落ち着いていられる。また、たった一人の大切な人のために、そばで弾いてあげるとか、そういうことが音楽の究極のカタチだと思います。華やかなおもてなしのなかでの演奏もあり、また一方で、自分が落ち込んで悲しいときに、リュートを弾いてエネルギーを得ては次の日からまた頑張る、それもリュートの魅力です。」 人間が音楽を奏でる理由   永田さん 「モンゴルの人とお会いした時、伺った話があるんです。モンゴルでは見渡す限りの高原地帯で、人々は移住しながら生活をしています。年頃の人たちは男女の出会いのチャンスが非常に少ない。そこで偶然、年頃の男女が出会った時にどうするかというと、歌が得意な人は歌を歌い、踊りが得意な人は踊りを踊るんです。伴侶を得るために必死で披露するわけですよ。そのときのために備えて日々練習しているんです。その技が上手であれば相手の心を獲得し結婚して子孫繁栄となるのですが、演奏がイマイチで伴侶をえられなければ、結婚できず、次のチャンスまでまた長いこと待たなければならないのです。この話しを聞いて私は、なぜ人は音楽を奏でるのか、それは子孫繁栄のためなんだなと思いました。一対一なんですよ、基本的に。そして一期一会。演奏会の時もそう思いますね。客様が20〜30人と増えても、私は基本的に一対一で向かい合っていると思って演奏しています。」   井上さん 「ルネッサンスの場合はシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』もテラスで、音楽を爪弾きながら愛を語って、シラノ・ド・ベルジュラックの中のシーンでは2階の部屋に気づかせるために石を投げて、「なにかしら?」とテラスへ出てきたロクサーヌが下を見ると楽師たちが音楽を奏でて横で詩人が愛を語っています。」 長崎のお気に入りの場所は?   井上さん 「生月です! 休日なんかはよく生月に行くんですよ。佐世保に住んでいますので。車で運転すると、生月の島に架かる大橋のトラスが視界いっぱいにひらけて、そこに空があってスゴイですよね。私は出身が奈良県で大阪から電車で20分ぐらいのベッドタウンなので、今まで見たことのない自然がいっぱいな生月が大好きなんです。ひとけのないところにポツンとカフェがあったりして。波佐見もいいですね。焼物があって若い人たちがアートをやっているからよく遊びにいきます。軍艦島にも行きたいですね! 出島も好きで「和蘭(オランダ)商館の屋敷に住みたい!」と思ってしまいました。」 長崎で演奏してみたい場所   永田さん 「カステラを食べながらポルトガルの音楽を演奏するというコンサート、これは10年前に実現しました。今の夢は、大浦天主堂で演奏させていただくことです。天主堂で本当の宗教音楽を、17世紀の聖母マリアのための音楽をリュート2本、歌手2人、それにオルガンか、バロック・チェロを交えて演奏したいです。東京のほうではすでに披露していますので、ぜひ長崎の皆さんにも聴いて頂きたいですね。教会の多くは「教会堂は礼拝の場であって、コンサートホールではありません。」と言われることもありますが、それは大きな誤解で、宗教音楽は本来、教会堂で演奏されるために作曲されたものなのです。カトリックの信徒のためにかかれた音楽を、ふさわしい場所で演奏してみたいのです。心を込めて演奏したいと思います。」  長崎で奏でられていた西洋音楽は、当時のキリシタンの人々の心を癒し感動を与えていたのではないでしょうか。また、音楽を通して長崎の歴史を体感できるのは貴重な体験です。そのような機会が長崎に増えることを願って、永田さんと井上さんのご活躍に期待しましょう。  永田さんと井上さんは、2008年1月26日(土)、江戸東京博物館にて開催される県主催のイベント「旅する長崎学講座トーク&コンサート -長崎発、歴史を未来へつなぐメッセージ。-」に出演されます。お近くの方は、ぜひお出かけください! お申し込み方法はコチラまで。 DATA 永田 斉子 Seiko Nagata  長崎県出身、東京在住。国際基督教大学卒業。フランスのストラスブール国立音楽院古学科をディプロマを取得して修了。ルネサンス、バロック時代のリュートのソリスト、アンサンブルのメンバーとして活動中。CD「ふらんすの恋歌」、映画「耳をすませば」、NHK「迷宮美術館」「ルーブル美術館」など録音多数。「コンサートプロデュース・ルミエールプロジェ」を主宰。 ・ オフィシャルサイト ・ ブログ 井上 周子 Chikako Inoue  奈良県出身、佐世保市在住。東京音楽大学器楽学科(ピアノ専攻)卒業。在学中よりリュートを水戸茂雄氏に師事。1999年リヨン国立高等音楽院古楽器科にてリュート・通奏低音をE フェレ氏に師事。2003年フランスでは日本人ではじめてリュートの高等課程修了と同時にディプロムを取得する。ヴィルウルバンヌ国立音楽学校にてチェンバロ・通奏低音をAデュバール氏に師事、2004年にチェンバロ・通奏低音のディプロム取得。在学中より・通奏低音としてフランス各地で演奏活動に参加し、ジュラやモンペリエなどの音楽祭にも参加、帰国後、リュートニストとして活動するかたわら、ルネサンス音楽、初期イタリアバロック音楽のセミナーを開催するなど普及に努めている。2007年11月にリュートソロCD『melanges』をリリース ・ オフィシャルサイト
  • 古楽器リュートの魅力(1) 2014年03月27日
    古楽器リュートの魅力(1)
    〜永田さん&井上さんにインタビュー〜  1582年に長崎からヨーロッパに旅立った天正遣欧少年使節は、1591年(天正19)、長い旅から帰国しました。1587年に豊臣秀吉が伴天連追放令を発布していたため、彼らは「インド副王使節」の一員として日本に戻り、聚楽第で秀吉と謁見しました。そこで西洋楽器による演奏を披露したといいます。4少年が持ち帰ったその楽器は、アルバ(ハープ)、クラヴォ(鍵盤楽器)、ラウテ(リュート)、レベカ(ヴィオール)でした。やさしい音色に魅了された秀吉はアンコールを所望し、演奏を3回も楽しんだそうです。 今回は、リュート奏者として活躍する永田斉子さんと井上周子さんにインタビューしました。このコラムは2回にわけてご紹介します。 リュートという楽器   永田さん 「リュートは撥弦(はつげん)楽器のひとつで、弦をはじいて音を出します。アラビアや中近東が起源といわれ、11世紀の十字軍の遠征によって、ヨーロッパへ伝わりました。当時は中近東の方が文明が進んでいたため、リュートは珍重され、それゆえヨーロッパのルネサンス絵画では天使が奏でる楽器として数多く描かれています。ヨーロッパのイギリス・フランス・ドイツ・イタリアなどの、主に宮廷などの貴族階層で、中世からバロック時代の約700年という長い間にわたって親しまれました。今、私たちがピアノやギターなどの独奏楽器、あるいは歌や他の楽器とのアンサンブルを楽しんでいるのと同じように、リュートはその時代ポピュラーな楽器だったのです。」 リュートの衰退   井上さん 「リュートは、12〜18世紀にかけて、サロン文化が隆盛をみせた貴族の間で発展しました。18世紀を迎えると貴族が没落。同時に貴族が親しんだ音楽も廃れていってしまいました。また世間では、音量が大きな楽器のニーズが高まりをみせました。リュートは音量が小さな楽器ですので、18世紀になると残念ながら人気がなくなってしまったのです。 1600年代のバロック時代になると、貴族に代わって興行主が劇場を取り仕切るようになりました。音楽は、興行主による商業ベースに組み込まれていきます。フランス革命以降は、サロンで少人数を集めるより、効率よく多くの人たちを劇場に収容するようになりました。劇場でたくさんの観衆に聴こえるように、楽器が改良されて音量がだんだん大きくなっていくんですよ。例えばバロックバイオリンからモダンバイオリンへの変化もそうです。舞台上の歌い手も、小さなサロンから大きなオペラホールに合わせた発声方法へと変化しました。」 リュートの再評価   永田さん 「パワフルなものをよしとする価値観の時代を迎えて、リュートのようなか細い音の楽器は完全に絶滅してしまいました。ベートーベンやチャイコフスキーなどの時代には、もう誰もリュートを弾かなくなったのです。ところが、20世紀初頭になって、音楽学者が博物館に眠っていた古楽器を復元しはじめました。その研究によって、ルネサンス時代のリュートは、心を慰める楽器として、音楽療法のひとつとして用いられていたということもわかりました。イライラがなくなり、眠りがよくなり、メランコリックな心を癒す効果が期待できる楽器なんです。リュートを弾いたり聴いたりすることは、「薬にまさる効果がある」と文献にも書かれているのですよ。 最近では、リラクゼーション、健康ブーム、あるいはロハス的な生き方が注目されています。パワフルなものよりも、日常の疲れに心やすらぐものをという人気から、弾いてみたいと言う人も増えてきています。」   井上さん 「王様は 眠りに就くまでの間、傍らのリュート奏者に演奏させていたのです。」 リュートと出会ったきっかけは?   永田さん 「昨日、長崎歴史文化博物館に行って子供の頃の出来事を思い出したんです。「弾琴図(だんきんず)」という絵画で、当時の南蛮絵師が描いたもの。昔はこの絵画の葉書がありまして、それを子どもの頃に見たことがあるんですよ。最初にリュートという楽器の姿を目にしたのは、その絵画だったと思います。当時の私はクラシックギターを習っていましたから、12〜13歳ぐらいの時だったかな。はじめてこの楽器を見たとき「これは何だろう?」って思ったんですね。 リュートを見て何だか懐かしい感じがするのは、私の前世の記憶かもしれません。」   井上さん 「私は3〜4歳からピアノを始めました。学生だったある日、音楽室にあったブラウトの「オペラ史」という一冊の本がきっかけで、オベラの歴史そのものに惹かれてしまいました。オペラが誕生したのは1607年。ちょうどイタリアの作曲家クラウディオ・モンテヴェルディの「オルフィオ」が上演された年でした。詩人がハープなどの楽器を奏でながら歌いはじめたことがオペラの起源とする説に惹かれました。生まれたてのオペラは、きっと詩の韻にあわせて伴奏されていたはずなのです。その伴奏に使われた楽器がリュートでした。今度は伴奏のルーツを探っていくと、なんとルネッサンス(ギリシャ時代の文明復興)に起こったオペラの原点にたどり着いたんです。それで、ピアニストになるよりプロの伴奏家になろうと決めました。 昔懐かしいレーザーディスクに収録されていた作曲家モンテヴェルディの「ポッペーアの戴冠」を見てリュートに感動。さらに、高校3年の時にみたフランス映画「めぐりあう朝」の一場面に登場するリュートやビオラ・ダ・ガンバをみて、スパッと進路を決めました。しかし、古楽器をシステマティックに学べる大学が日本になく、リュートを教えてくれる先生もいませんでした。古楽器の歴史背景まで教えてくれるヨーロッパへと留学しました。リュートが存在してたのは18世紀半ばのバッハぐらいまで。楽器としての歴史でいえば、リュート→チェンバロ→ピアノとなります。」   永田さん 「私たちが奏でる楽器は古楽器ですので、その当時の社会や宗教、国同士の勢力争などの歴史の時代背景を解ったうえで、さらに曲を解釈しなくてはいけません。リュートには解明されていない謎の部分もたくさんあります。そこは歴史を学びながらあれこれ推測するしかありません。その当時の空気感というのは、ヨーロッパに行けば今でも感じることができるでしょう。しかし、音楽で行きづまったとき、日本でその空気感を知りたいと思ったら、船にのって平戸に行ってみたりします(笑)。長崎には、平戸のオランダ塀や石畳など当時の面影を残したものが今でもありますから。約400年前の空気感を取り戻して音楽と向き合うと、新しい発見をすることがあります。」 バロック・ルネッサンス時代の音楽の位置づけ   井上さん 当時の貴族や王様の子女たちは、教養のひとつとしてリュートを弾いていました。いわゆるお稽古事です。王様ももちろん習っていました。弾いたり、踊ったり、貴族としてのふるまいを身につけていました。もちろん昔はCDのように便利なものはありませんでしたから、音楽をかけて楽しむことがないわけです! 音楽は全て生音楽。舞踏会などにお客様が来れば、お抱えの楽団で音楽のおもてなしをしていたのです。 だからこそ、録音された音があふれている現代に、ひとつの空間で生の音楽を楽しむことは、お客さんにとっても私にとってもすごく贅沢な時間だと思いませんか。」 興味のある人物は、ガリレオ・ガリレイと天正遣欧少年使節!   永田さん 「ガリレオ・ガリレイ、実は代々続くリュート奏者の家系なんです。当時の人たちは世襲制で親の家業を継いでいました。ガリレオの父は有名なリュートの作曲家であり演奏者、さらに理論家として本まで出版しています。実験的な曲をたくさん書いていて、その血統と性格が息子ガリレオに引き継がれました。リュート奏者としてのガリレオは、父をしのぐほどの腕前だったと言われています。彼の作った曲は残っていませんが、糸の張力や重力などの実験にリュートの弦を使っていたといわれています。しかし、父のヴィンツェンツォ・ガリレイの家業を継いだのは一番下の息子ミケランジョロでした。その息子3人にも家業が受け継がれました。ガリレイ家は代々リュート奏者の血筋だったのです。 その当時は天動説から地動説へという価値観の変化があったので、音楽の変化にも関係があるのではないかと考えています。   永田さん 「ガリレオ・ガリレイ、実は代々続くリュート奏者の家系なんです。当時の人たちは世襲制で親の家業を継いでいました。ガリレオの父は有名なリュートの作曲家であり演奏者、さらに理論家として本まで出版しています。実験的な曲をたくさん書いていて、その血統と性格が息子ガリレオに引き継がれました。リュート奏者としてのガリレオは、父をしのぐほどの腕前だったと言われています。彼の作った曲は残っていませんが、糸の張力や重力などの実験にリュートの弦を使っていたといわれています。しかし、父のヴィンツェンツォ・ガリレイの家業を継いだのは一番下の息子ミケランジョロでした。その息子3人にも家業が受け継がれました。ガリレイ家は代々リュート奏者の血筋だったのです。 その当時は天動説から地動説へという価値観の変化があったので、音楽の変化にも関係があるのではないかと考えています。 豊臣秀吉を魅了した西洋音楽   永田さん 「当時の日本人が最初に西洋の音楽を聴いたときに、何に驚いたか、何に新鮮だと感じたのかということをよく質問されます。ひとつの仮説としては、日本の音楽は基本的にひとつのメロディーをみんなで一緒に演奏したりする音楽といえるでしょう。例えば読経や祭りのお囃子や庶民の鼻歌だとか。演奏する人が何人いても、メロディーはひとつ。ところが当時のヨーロッパの音楽のスタイルは、いくつものメロディーが絡み合っている様式です。ですから秀吉が天正遣欧使節の4少年の演奏を聞いたときに何に驚いたかというと、複数のメロディーが織りなす"ハーモニー"です。その和音の響きの美しさに驚き、秀吉は大喜びしたのだと思います。」 古楽器のリュートから読み解く、ヨーロッパの歴史。そして、今から400年以上も前、日本にやってきたポルトガル人の宣教師やヨーロッパを旅した天正遣欧少年使節が、楽器を通じて交流を深めていたという歴史に思いを馳せることができました。次回も、永田さんと井上さんのおふたりに、リュートの魅力をお聞きします。 DATA 永田 斉子 Seiko Nagata  長崎県出身、東京在住。国際基督教大学卒業。フランスのストラスブール国立音楽院古学科をディプロマを取得して修了。ルネサンス、バロック時代のリュートのソリスト、アンサンブルのメンバーとして活動中。CD「ふらんすの恋歌」、映画「耳をすませば」、NHK「迷宮美術館」「ルーブル美術館」など録音多数。「コンサートプロデュース・ルミエールプロジェ」を主宰。 ・ オフィシャルサイト ・ ブログ 井上 周子 Chikako Inoue  奈良県出身、佐世保市在住。東京音楽大学器楽学科(ピアノ専攻)卒業。在学中よりリュートを水戸茂雄氏に師事。1999年リヨン国立高等音楽院古楽器科にてリュート・通奏低音をE フェレ氏に師事。2003年フランスでは日本人ではじめてリュートの高等課程修了と同時にディプロムを取得する。ヴィルウルバンヌ国立音楽学校にてチェンバロ・通奏低音をAデュバール氏に師事、2004年にチェンバロ・通奏低音のディプロム取得。在学中より・通奏低音としてフランス各地で演奏活動に参加し、ジュラやモンペリエなどの音楽祭にも参加、帰国後、リュートニストとして活動するかたわら、ルネサンス音楽、初期イタリアバロック音楽のセミナーを開催するなど普及に努めている。2007年11月にリュートソロCD『melanges』をリリース ・ オフィシャルサイト
  • 「島の館」中園成生さんインタビュー(3) 2014年03月25日
    「島の館」中園成生さんインタビュー(3)
    〜海域を支配する領主の哲学〜  生月は、長崎県の北西部にある小さな島です。16世紀中頃、フランシスコ・ザビエルによって平戸にまかれたキリスト教の種子は、生月で開花します。キリシタン文化の繁栄をみながら、迫害と弾圧、脱出と潜伏…と時代に翻弄された歴史を歩みました。生月では、約450年以上を経た今もなお、かくれキリシタンの信仰が伝承されています。今回は、生月のかくれキリシタンの調査をしながら、歴史の新たな物語を追究する「平戸市生月町博物館・島の館」の学芸員 中園成生さんにインタビューしました。 生月の歴史については、ながさき歴史散歩 第17回「 生月を旅する!(1) 」(12/5更新)、中園さんがガイドをしてくれた ながさき歴史散歩 第18回「 生月を旅する!(2) 」(12/19更新)もお楽しみに! 籠手田・一部の領民が、新天地を求めて長崎へ亡命  「江戸時代の1614年(慶長19)、禁教令が発布されると、キリシタンへの逆風が決定的になってきました。しかし平戸においてはそれより早く、1599年(慶長4)からキリシタンの禁教が具体化していきました。その直接的契機は、対立しながらもポルトガルとの貿易関係を断続的に続けた平戸藩主・松浦隆信(道可)が亡くなり、キリシタン嫌いだった息子の鎮信(法印)の時代を迎えたことにあります。 禁教令からさかのぼること30年以上前の、1558年(永禄1)と1565年(永禄8)に、籠手田氏と一部氏が、生月などの領民を全てキリスト教へ入信する"一斉改宗"を果たしており、信仰は根強く定着していました。しかし松浦鎮信は、父の葬儀へ参列するように全ての家臣に命令します。キリシタンである籠手田・一部両氏にとって、仏式の葬儀へ参列することは、棄教(キリシタンの信仰を棄てること)を意味します。しかし葬儀に参列しないという選択肢を選べば、松浦氏に対して反旗をひるがえしたことになり、戦争を引き起こしかねません。しかし彼らは第三の途を選びます。それは、自らの領地を棄て、キリシタンの領民たちとともにこの島を去るという選択でした。ある晩、彼らは船に乗って長崎に着き、イエズス会の保護を受けました。」 平戸の領主のターニングポイント  「しかしこの籠手田・一部氏の退去については、信仰以外の視点からの検討も必要です。近世の武家社会は集権的な支配体制を志向していて、中世のように、自分が治める領地のなかに、独立した強い家臣が何人もいるという状態は、歓迎されるものではありません。自分の命令が領地全体に行き届く体制づくりが必要だったのです。集権的な領国体制を構築する願望を持った松浦鎮信(法印)にとって、独立した権力を持つ籠手田・一部のような領主は、邪魔な存在だったのです。実際、鎮信の時代やその前後に、取り潰された領主も他に何人かいて、キリシタンというのはどうも口実だったようにすら思えます。また、さらに別の見方をすれば、平戸松浦氏が、貿易から利益を得るという"港市の王"としての在り方から、領地を支配しそこからの収益を権力の基盤とする領土型の戦国大名に変容していったことも、関係があるかも知れません。"港市の王"的な性格は、江戸時代の始めのオランダ貿易の頃まで継続してはいるのですが、一方で、平戸を避けて大村領の福田浦に入港したポルトガル船を攻撃した福田浦海戦の頃(1565年)から、松浦氏の領土志向型への変容が進んでいき、鎮信の代にほぼ領土が確定したという側面も、見落とせないのではと思います。」 籠手田氏のダブルスタンダードな思考  「生月の領主である籠手田氏と一部氏の、領地を捨て"新天地"を求めるという発想についても、少し考えてみましょう。両氏は1587年(天正15)、豊臣秀吉によって伴天連追放令が出されたとき、生月に避難してきた宣教師たちを自領内に受け入れ、平戸松浦氏などの攻撃から守るため、家来を武装して待機させました。その時、籠手田安一は宣教師にこういったそうです。「自分たちはあなたたちキリシタンの信仰を守るために命を懸けて戦うであろう。それがもし、難しいということであれば、自分たちはためらいなく自分の領地を捨てて宣教師たちと一緒にマカオに立ち去るつもりだ」。彼らの宗教的熱意を窺い知ることができる発言ですが、ここで私が注目したいのは、軋轢(あつれき)があったなら海の向こう(外国)へ行ってもいい、という発想です。その背景には、この辺りの人たちの、こっちで駄目なら海の向こうに行きゃ何とかなるのではないかという意識があるように思えるのですが、それこそは、領土で区画された国民国家という幻想が出てくる近代以前の、海に囲まれたマージナル(境界的)な地域に住む人たちの意識として捉えることができるのではないでしょうか。言い換えると、京都を"中心"と認識するような感覚観念というのは、当時この地方の人たちにはそれ程強くなく、先進地域というのは実は自分たちが住む地域の海の向こうに広がっていて、そっちに対する志向も強かったという、ダブルスタンダードな志向を持っていたように思えます。京都の人からみれば、長崎は西の果てと思っているところがあるのかも知れませんが、当時の長崎の人たちのベクトルは、東の京都ではなく、海を越えた世界に、より大きく向いていたのかも知れません。」 海上貿易の要所としての文化  「京の文化には求心性というものがありました。海の向こうなどから、いろんな文化を取り入れつつも、最終的に自分自身のスタイルといったカタチで様式化して周辺に発信していきます。京都の文化が持つ様式美は、外の情報を取り入れた上で一度シャットアウトし、独自のスタイルに昇華することで成立します。そういった流れのなかで北西九州地域は、そうした京都の文化が最終的にたどり着く場所でもあり、そういった意味での辺境ではあるのですが、同時に、海の向こうの文化がいち早く流入するという部分では、先進地でもあるのです。流入があまりに日常的だったので、独自の形にあまり拘らないような姿勢の方が、やりやすかったのではないかと思うところもあります。それは長崎だけではなく、南の琉球、北の蝦夷などの境界世界もそうです。しかし日本全体の文化の流れを歴史的に捉えたとき、北西九州地域は特に、日本文化にさまざまな文化要素を流入させる窓口の役割を常に果たしてきました。ただそうした働きについて、単純に文化面だけで推し量ることはできません。政治や経済、特に経済が果たした意味はとても大きかったと思います。例えば16世紀中頃から後半にかけて海域世界が活性化した背景には、石見銀山の開発と増産が重要な役割を果たしており、それに対応して中国人の私貿易が活発化し、さらに彼らのルートに乗ってポルトガル人がやって来て、キリスト教という文化が伝来しているのです。ある意味宗教とは、もっとも重さや嵩が小さい(というか存在しない)、それでいて最も付加価値が高い貿易品だといえるかも知れません。」  文化交流で海外と日本を比較できた平戸・生月・大村などの領主たちは、日本がつくる時代の流れよりも世界の波に乗りたかったのではないでしょうか。16世紀のオルテリウスが制作した地図には、長崎のキリシタンの島々と石見銀山が詳細に描かれています。貿易の中継点となった長崎は、生月の領主 籠手田氏も海外に思いを馳せ、移住してきた生月の人たちによって、熱気あふれる賑いをみせた街だったのではないでしょうか。 DATA 永中園 成生 Shigeo Nakazono  長崎県出身、東京在住。国際基督教大学卒業。フランスのストラスブール国立音楽院古学科をディプロマを取得して修了。ルネサンス、バロック時代のリュートのソリスト、アンサンブルのメンバーとして活動中。CD「ふらんすの恋歌」、映画「耳をすませば」、NHK「迷宮美術館」「ルーブル美術館」など録音多数。「コンサートプロデュース・ルミエールプロジェ」を主宰。