エリアで見る「たびなが」エリアで見る「たびなが」

ホームホーム   > エリアで見る「たびなが」 > 県北エリア

県北エリア

  • 「島の館」中園成生さんインタビュー(2) 2014年03月25日
    「島の館」中園成生さんインタビュー(2)
    〜かくれキリシタンと聖人信仰〜  生月は、長崎県の北西部にある小さな島です。16世紀中頃、フランシスコ・ザビエルによって平戸にまかれたキリスト教の種子は、生月で開花します。キリシタン文化の繁栄をみながら、迫害と弾圧、脱出と潜伏…と時代に翻弄された歴史を歩みました。生月では、約450年以上を経た今もなお、かくれキリシタンの信仰が伝承されています。 今回は、生月のかくれキリシタンの調査をしながら、歴史の新たな物語を追究する「平戸市生月町博物館・島の館」の学芸員 中園成生さんにインタビューしました。 生月の歴史については、ながさき歴史散歩 第17回「生月を旅する!(1)」(12/5更新)、中園さんがガイドをしてくれた ながさき歴史散歩 第18回「生月を旅する!(2)」(12/19更新)もお楽しみに! "サン ジュワンさま"の正体は?  「外海地区の黒崎にある枯松神社には、サン ジワンさまが祀られています。また、生月では、沖合いに浮かぶ中江ノ島のことを地元のキリシタンの人々はサン ジュワンと呼び、この島で採取した聖水もその名で呼んでいます。 サン ジュワン(サン ジュワンまたはサン ジョアン)と呼ばれ、かくれキリシタンの人々に崇拝された人物とは、一体誰なのでしょうか?  今日の研究では、生月のかくれキリシタンが中江ノ島を聖地として崇めるのは殉教事件が起こったからだといわれていました。しかし半分は正解なんですが、他にも理由があったのです。ミサを行うなかで"サン ジョアン"や"サン セバスチャン"と呼ぶ聖人が登場するように、カトリックでは本来、聖人信仰が盛んです。 "サン"という文字に注目しましょう。"サン"とは"聖"のこと。たしかに中江ノ島で殉教した人物のなかにジョアンという洗礼名を持つ坂本左衛門などがいますが、その中で正式に聖人となっている人物はひとりもいません。実は"サン ジョアン"とは、彼らのことを指すのではなく、ヨルダン川でキリストを洗礼した"洗礼者聖ヨハネ"を指しているのではないか、と考えたのです。 その理由は幾つかあります。ひとつは、キリシタンの時代から存在する聖水信仰です。現在のかくれキリシタン信仰の中で、中江ノ島で採取された聖水は、"サン ジュアンさまの御水"と呼ばれ、神聖視されていますが、昔のキリシタン信者たちも、争うように聖水を持ち帰り、大切に壺に収めて祀り、病気のときに聖水を飲んでいたと宣教師の手紙に書かれています。聖水信仰は、殉教を起源とするものではないのです。  生月の壱部地区のある津元には、絵の中の要素から、洗礼者聖ヨハネの聖画に由来すると思われるお掛け絵が祀られています。このお掛け絵に、春には椿が供えられるのですが、その理由を信者に尋ねると、このお掛け絵の人物は首を刎ねられたから、花が落ちる椿を供えるのだと説明されます。首を刎ねられた聖人といえば、まさに洗礼者ヨハネなんです。サロメという娘が、義理の父であるヘロデ王の前で、綺麗な踊りを披露しました。「何でも褒美を使わす。」と言った王様は、サロメは「洗礼者ヨハネの首が欲しい。」と答え、首が刎ねられたという聖書の物語と、かくれキリシタンの椿の花の伝承は、確実に結びつくのです。  洗礼者ヨハネ信仰=サン ジュワン信仰が、キリシタン時代から長崎にあったんですね。もともとあった聖水を神聖視する洗礼者聖ヨハネ信仰の聖地としてあった中江ノ島が、殉教によって物語的な変化を来しつつ、かくれキリシタン信仰の聖地となっていったのです」 掛け軸のなかの聖人が持つ道具の意味  「カトリックの聖人図には、その人物が殉教したときに関係する品物が多く描かれています。例えば、剣で処刑された人は剣を持って描かれ、弓矢で処刑された人は、矢が刺さった様子で描かれています。  右写真のお掛け絵は、かくれキリシタンの信者から"サンパブローさま"と呼ばれています。その読み方で解釈すれば、聖パウロの像ということになります。しかし、弓矢を持っているという点に注目すると、弓矢に射られて殉教した聖人ということで、聖セバスチャン(聖セバスティアヌス)という聖人が該当します。聖セバスチャンとは、ローマ時代に矢を射られて処刑された聖人です。その人の聖画にはよく矢が描かれていて、転じて弓矢の守護聖人ともなっています。この人の日本での呼び方がバスチャンで、外海や生月の伝説でも出てきます。恐らくはキリシタン時代から、聖セバスチャン信仰があったんでしょうね。このように、キリシタン時代の聖書などに記された物語が、断片的にかくれキリシタンの信仰の中に取り入れられて伝説化している事例は、他にもいくつか見出すことができます。」 生月の魅力  「豊かな自然のなかで、いろんな神様とか仏様とかいろんな信仰が渾然一体となって存在している島です。昔ながらに人と人とが結びついて生きている。禁教、鯨の漁が振るわなくなったり、鯨が取れなくなったり…そんな逆境のなかで、みんなで力を合わせて打ち勝っていく姿は、活力があふれています。そんな生月の島が好きですね。」 "かくれキリシタン"研究のきっかけ  高校時代に参加した離島調査で、五島列島にある宇久島などを訪れました。フィールドを歩きながら、古くから伝わる伝承を聞いて「面白い!」と思いました。いつしか、島を点々としながら研究する仕事に就きたいと考え、大学では民俗学を専攻。その後、呼子で仕事をしている間に、捕鯨の歴史を研究するようになりました。   かくれキリシタンの研究をするようになったのは、生月に来てからです。他ではほとんど無くなったと言われている貴重な信仰ですから、行事は極力映像などで記録を取り、伝承についても、高齢化が進むなかでしっかりと聞き取りでデータを残していこうと考えています。現在、長崎県では「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を世界遺産にしようという活動や、生月で殉教したキリシタンの指導者ガスパル西玄可の列福式を2008年に控えていますのでがんばっています。」  中園さんは、そのほかにもいろんなお話を聞かせてくれました。第32回(12/5更新)では、生月のかくれキリシタンとオラショのお話、第34回(12/19更新)では、海を支配する領主の哲学を考えるお話と3回に分けてご紹介します。次回もお楽しみに! DATA 中園 成生 Shigeo Nakazono  1963年生まれ。福岡市出身。1985年に熊本大学民俗学研究室卒業。1993年に平戸市生月町博物館 島の館で学芸員として就任。主な著書に『民具』共著・ろうきんブックレット・1997年、『かくれキリシタンの聖画』共著・小学館・1999年、『生月島のかくれキリシタン』平戸市生月町博物館 島の館・2000年、『くじら取りの系譜』長崎新聞社・2001年。
  • 「島の館」学芸員 中園成生さんインタビュー(1) 2014年04月01日
    「島の館」学芸員 中園成生さんインタビュー(1)
    〜生月のかくれキリシタンとオラショ〜  生月は、長崎県の北西部にある小さな島です。16世紀中頃、フランシスコ・ザビエルによって平戸にまかれたキリスト教の種子は、生月で開花します。キリシタン文化の繁栄をみながら、迫害と弾圧、脱出と潜伏…と時代に翻弄された歴史を歩みました。生月では、約450年以上を経た今もなお、当時の信仰スタイルが、かくれキリシタン信仰の中に受け継がれています。 今回は、生月のかくれキリシタン信仰の調査をしながら、歴史の新たな物語を追究する「平戸市生月町博物館・島の館」の学芸員 中園成生さんにインタビューしました。  生月の歴史については、ながさき歴史散歩 第17回「生月を旅する!(1)」をご覧ください。また、中園さんがガイドをしてくれた 長崎歴史散歩 第18回「生月を旅する!(2)」(12/19更新)もお楽しみに! キリシタンの組織づくり  「1599年に生月島を治めていたキリシタン領主、籠手田氏、一部氏が長崎に退去。それを境に、キリシタンの暮らしはガラッと変わり、1609年には黒瀬の辻で信仰の指導者・ガスパル西玄可が処刑。さらに、徳川幕府の禁教令が発布された1614年以降、表向きにキリシタンを名乗るということは死を意味することとなってしまいます。1622年には中江ノ島の殉教事件が起こり、またその頃から宣教師たちが来なくなったため、ミサができなくなり、信者たちは自分たちだけの力で信仰を続けていくことを余儀なくされます。  ただ、かくれキリシタン信仰についてのこれまでの解釈では、「教会での行事ができなくなったので、それを自分たちでやるようになった。」という認識でしたが、最近の研究成果によると、この地域(生月)ではキリシタンへの一斉改宗が行われた頃から信者たちが信仰の組を作り、行事をおこなっていて、禁教時代に入って、そうした組の信仰行事がそのまま受け継がれていったのではないかと考えられます。中世ヨーロッパのカトリックでは、民衆の信仰組織づくりにも力を入れていましたが、日本でも、宣教師の絶対数が少なかったこともあって、信者たちだけで独自に信仰できるようなシステム作りを当初からおこなっていたようです。宣教師の記録によると、生月には信仰の組が1558年頃から存在しており、禁教時代に入るまでに、充分に根を下ろしていたと思われます。」 信仰の変遷とオラショ(祈り)  「「禁教時代の初期、キリシタンたちは組でまつる像やメダルなど聖なる道具を、大切に土の中に埋めたりして、厳しい探索を逃れたようです。そして禁教が一段落すると、屋内の納戸に移してまつるようになりました。またそうした聖なる道具に対する行事も、キリシタン時代のスタイルを守って続けられていきました。しかし、宣教師がいなくなったことで、キリスト教の教義は、だんだんと分からなくなっていったようです。  その結果、キリストやマリアへの思いや認識は薄らぎ、地元で処刑された殉教者に対する尊崇が次第に重みをましていき、ガスパル様や中江ノ島の殉教者の物語が、かくれキリシタンの「神話」となっていったのです。かくれキリシタン信仰の精神的根底には、そうした地元の殉教者への尊敬があるのです。身近な存在が必死に信仰を守り、無残な死に方をした。そうした出来事を語り伝えるなかで、殉教者の思いを受け継いでいかなくてはいけないという意識が強くなっていった。そうして受け継がれた祈りがオラショでした。 明治時代、カトリック教会に合流復帰しなかったかくれキリシタン  「明治6年に、明治政府が江戸時代から続いた禁教令を撤廃した後、生月の信者にも、長崎にあったカトリックの教会から合流復帰の働きかけがありました。先に復帰を果たした黒島(佐世保市)の信者たちが生月を訪れて復帰を働きかけ、カトリックに合流することが検討されたようです。ところが合流を果たせない理由がありました。それが神棚や仏壇の存在、とりわけ後者を廃棄するか否かという問題で、それは仏様の壇というより、ご先祖様を祀る祭壇として意識されてきました。ご先祖様こそ、死の危険を感じながら、営々と信仰を受け継いできた人たちであり、そうしたご先祖様にお祀りをせず捨てるということは、考えられないばかりか、場合によっては不吉なことが起こるかもしれないという危惧を持ったようです。当時日本で布教していたパリ外国宣教会のフランス人宣教師にとって、仏壇は、文字通り仏陀の祭壇であって、先祖の祭壇としての意味を十分に理解できなかったようです。もし当時のカトリック信仰にそのような祖先祭祀のスタイルを上手く組み込むことが出来ていたら、かくれキリシタンは今日存在していなかったかも知れません。」 オラショ(祈り)  「実はキリシタン時代の祈り(オラショ)と、かくれキリシタンが現在唱えているオラショは、文句がほとんど変わりません。これはよく奇跡と言われますが、ある意味当然のことで、自分たちで教義を充分解釈できなかったから、変えようがなかった。むしろ忠実に形を継承していくことに、意味があったのです。一方カトリックの方は、明治の初めに日本人信者用に制作された祈りは、長崎で使われるようになったものと、横浜で使われるようになったものの2種類がありました。長崎の神父さんたちが考えたのは、以前かくれキリシタンで教会に復帰した人たちが使っていたオラショを尊重し、ラテン語やポルトガル語まじりの祈りを採用します。一方、昔からの信者がいなかった横浜では、中国のテキストをそのまま用い、漢語で書かれた候文調のお祈りをつくっていて、どちらに一本化するかで対立も起きていますが、最終的には長崎の祈りが使われています。しかしその後、教義をより的確に、かつ分かりやすく表現できるように、たびたび文句が変えられて今日に至っています。カトリックにはきちんとした教義研究の組織があるので、このような変化も可能だったのです。」 かくれキリシタンの規模  「生月では、カトリックに合流した人たちは山田教会を建てましたが、先ほど話したように先祖供養の問題があって、合流復活した信者は一部に限られ、ほとんどの人たちはかくれキリシタン信仰を続けました。明治時代の生月の人口が6,000人程度だったなかで8〜9割がかくれキリシタンだったといわれています。現在の全人口は約7,000人ですが、仮に、お授けを受けて、ツモトと呼ばれるグループに属し、オラショを唱えることができる人と定義すると、信者の数はほんの一握りになります。しかしツモトや独立する組などに属している家の構成員を、全て関係者とみなすと、信者の数は500人弱程度と推定されます。しかしなかには、かくれキリシタンに関係するご神体を祀っていても、自分たちはかくれキリシタンと関係ないと考えている組や家もあったりします。」 生月のオラショ(祈り)  「生月のオラショは、全部のお祈りを続けて唱えるというスタイルです。一般的なかくれキリシタンの行事は、オラショを暗唱した後、酒と魚をいただくという流れです。カトリックのように祈りの時にロザリオを持つことはありません。生月のかくれキリシタン信仰では、コンタツと呼ばれるロザリオは、御神体として小さな祠を作って祀っていて、まれに葬儀などのときだけ取り出して用いることもあったと聞いたことがあります。 オラショのなかで唄われるもの=唄オラショは、もともと何の曲に由来するか全部分かっています。また唱え方として、全部の祈りを唱える一通りと、その一部を唱える六巻という形があって、生月島内の各集落で唱えられるオラショの内容は、言い回しなど若干違うところもありますが、ほぼ同じです。ただし元触という地区では、一通りという形が他の地区の六巻とほぼ同じ構成なので、短い祈りになっています。元触には、地区内に平戸藩が派遣した侍が住んでいたことも影響しているのかも知れませんが、行事の時にも、カドグチ(屋敷地の入口)に見張りを立てていたそうです。」  中園さんには、そのほかにもいろんなお話を聞かせてくれました。サン・ジュワンさまの正体にせまるお話を第33回(12/12更新)、戦国時代を生き抜く領主の生き様から思想を考えるお話を第34回( 12/19)と3回に分けてご紹介します。お楽しみに! DATA 中園 成生 Shigeo Nakazono  1963年生まれ。福岡市出身。1985年に熊本大学民俗学研究室卒業。1993年に平戸市生月町博物館 島の館で学芸員として就任。主な著書に『民具』共著・ろうきんブックレット・1997年、『かくれキリシタンの聖画』共著・小学館・1999年、『生月島のかくれキリシタン』平戸市生月町博物館 島の館・2000年、『くじら取りの系譜』長崎新聞社・2001年。
  • 長崎巡礼センターを活用しよう! 2014年03月27日
    長崎巡礼センターを活用しよう!
    教会の魅力を語る人びと その3  長崎の持つ歴史的な遺産である教会群をどのようにPRしていけばいいのか…。様々な意見がとびかい3年。着々と準備が進み、「長崎巡礼センター」開設という一本の明るい光が差し込みました。2007年5月に長崎カトリックセンターの1階にオープンした「長崎巡礼センター」が担う長崎流の新しい情報発信の役割とは何なのでしょうか。インタープリター(=翻訳者)として、特異な長崎の歴史を伝えたいと話す入口仁志さんにインタビューしました。 「長崎巡礼センター」の開設 <教会群を巡礼するための総合窓口 + ユースホステル>  「長崎巡礼センター」の構想は、実は3年前からプランとしてありました。2年前の7月、「長崎カトリックセンターの宿泊施設部門をユースホステルと併設して、一般向けに開放できる仕組みにしませんか。」という提案をカトリック長崎大司教区にしました。ユースホステルという機能は、世界中に向けた情報発信が可能なので、より内容の濃い発信ができるのです。また、カトリックセンターは、どなたでも宿泊利用できることをもっと強く発信したかったのです。 長崎の歴史を語ろうとした場合、どうしてもカトリックの話に触れないと歴史は喋れません。そこでユースホステルでは、訪れてくれる若者たちに、当然、長崎の歴史とともにカトリックの歴史を伝えています。長崎カトリックセンターでは6階をユースホステルのフロアにして、夜8時から9時まで、宿泊者を対象としたミーティングをして情報を発信してきたのです。ですから長崎カトリックセンターでは、すでに2年前にはユースホステルをカトリックの発信基地とする機能をスタートさせてきたという経緯がベースとしてあるのです。 昨年の夏に、長崎教区の大司教さまと県の観光推進本部のトップとの間で、お互いにトラブルが発生しないように、観光客が長崎を気持ちよく訪れるためにはどうしたらいいかという会議がもたれました。その後、関係者が集まり、月1回のペースで交渉が続けられました。その中で、<ながさき巡礼>という言葉で取り組むこととなりました。今年の3月には、カトリック側では県内の教会をはじめとする巡礼スポットを示すこと、どう捉えるのか具体的に言葉で表現すること、巡礼の主だったコースを示すこと、また、カトリックのなかにも巡礼センターを立ち上げましょうということが決まりました。ですから、国内外のカトリック全体の巡礼センターとしても同時に発信していきたいので、表記は<長崎巡礼センター>とし、その対応を始めました。」 世の中が求めているもの  「数年前、まだ世界遺産候補の話がまだ表に出ていない頃、もうすでに世界の社会全体がカトリック開放にベクトルが向きはじめていたのです。例えば、若い人はクルス(十字架)のネックレスをするのはザラでしょ? でもその若者たちは別に信徒でもないですよね。で、今の若い人たちが何に頼るかといった問題もそうです。みんな社会的不安系といった将来的な不安を抱えているじゃないですか。逆の言い方をすると、ものすごくいいタイミングで教会に目が向きはじめているのではないかと思ったのです。」 ガイドではなくインタープリターとして仕事をする  「長崎の歴史は、キリスト教なしには語れない…。実は別の仕事としてやっていたのが、長崎教区が主催する巡礼のお手伝いです。そのなかで僕自身、3年間、あらゆる教会堂や巡礼地を巡り、現地を訪れました。例えば、みなさんは五島にいくと有名な教会堂に行きますね。有名な教会堂だろうが小さな教会堂だろうが、そこの信徒さんにとっては大切な御堂であり、大切な歴史的背景を持っています。だからそれは、そこに行かないとわからない。それも自分自身が感じないと人々に説明できない。説明するには、自分が感じることって必要なんですよね。僕は<ガイド>という言葉を使うのはあまり好きではなくて、<インタープリター=翻訳者>という言葉を使います。何を翻訳するかというと、カトリックの人たちの生き様がどういうものなのかということ、長崎を訪れる人たちに、私の感じたことを伝える仕事をずっとやってきたんですよ。信徒ではないけど(笑)。」 観光の落とし穴  「教会堂を訪れる観光客が増えるなかで、実はトラブルも多く発生しました。聖水盤をタバコの灰皿にするという、あってはならない行為。タバコを吸いながら教会堂のなかに入ること自体が無茶苦茶なことですよ。また、観光セクションがよくやる間違いなんですが、トイレ休憩を教会堂にあててしまうのです。「おい待てよ!」って言いたくなります。なぜなら、教会堂のトイレは信徒のためのもので、通常1〜2人位しか使えないようになっている。このことを知らない人が旅行プランを企画しているんです。そして、お祈りしている信徒さんがひとりでもいたら、教会堂の中には普通入れませんよね。それどころか内陣といわれる祭壇に入って荒らす人、中には教会堂の備品を盗む人など。観光のニーズが高まるにつれて、これらのトラブルも発生しています。この現状を今すぐ改善しなければいけません。せっかく教会に目が向いてるのに教会側がそれに対応しないというのは、ある意味もったいない。みんなの目が教会に向いているのであれば、その人たちと対話をすることは必要だということなのでしょう。」 巡礼とは?  「巡礼とは、場所をまわってみること。それは、人間ひとりひとりの内的な作業なので形式的なスタイルはありません。ですから、100人いれば100通りの巡礼があります。僕は信徒ではないけれど、巡礼地をまわると、いろんな事を感じます。そのことをできるだけ素直に伝えることを心がけてご案内しています。巡礼に参加しているみなさんも、いろいろな事を感じるはずです。その思いを大切にして欲しいと思います。 巡礼者をご案内していると、僕にとってむずかしい質問がたくさん出てきます。 「ミサとは?」 「何をお祈りしているのですか?」 「五島に住んでいる私たちとバチカンの信徒さんとは、神様との距離って違うの?」 などなど。 「帰ってから近くの教会を訪ねて神父様とお話ししてみてください」 とすすめることにしています。」 「長崎巡礼センター」としての仕事  「長崎巡礼センター」は、今、立ち上がったばかり。まだ、実務は伴っていなくて、まずはパンフレットの取り寄せから。少なくとも観光パンフレットは、このセンターに来れば全部揃っているように環境を整えています。 また、巡礼 地をめぐるコースを作りましょうということで、マップが載った旅のガイドブックを企画し、今その作業が進行しているところです。 僕の思う巡礼センターの仕事とは、神父さまは指導していただく人なのであって、自分はあくまでインタープリターの仕事だと思っているんですよ。こういう生き様があるんだよっていうことが伝わればいいのだと。そう、<伝える>という仕事。五島巡礼では、どこに行かなければいけないとか、贅沢なものを食べてはいけないとか、そういうことじゃありません。五島でしか味わえない旬の新鮮な海の幸がいっぱいありますからね。現地を体感してもらえれば。僕は体験上、巡礼の一回ぐらいはバーベキューをするプログラムは楽しいなと思います。旅に参加した人たちのその楽しさが、僕たちにとって巡礼のごちそうなのかなと思います。巡礼にカタチはない。あくまでも巡礼に参加した人たち同士、行った先々でのコミュニケーションが大切です。信仰を持っている人の良し悪しや強弱ではなく、その中で信仰を持っている人たちの強さや生き様、すごさが伝わればいいなと思います。たとえば、浦上天主堂に連れて行くと原爆のイメージが強いですが、信仰の礎が建っています。浦上天主堂が建つ以前に何があったのだろうか?という疑問から始まり、秘密教会の跡は約140年前の弾圧、ベアトス様の墓は約400年前の弾圧、大橋の川を渡ったらサンタ・クララ教会の跡がある。浦上天主堂周辺だけで約2時間の案内ができます。ユースホステルの1時間のミーティングに参加された方は、みなさんホントにビックリされますよ。 長崎の街は宝の山なんです。スゴイですよ。飽きないくらい上質の旅、巡礼のスポットがある!」 DATA 入口仁志 Hitoshi Iriguchi 1946年生まれ。長崎県長崎市の出身。カトリックセンターのマネージャーとして、「長崎巡礼」の業務を担当。
  • 教会巡礼のマナー 2014年03月27日
    教会巡礼のマナー
    教会の魅力を語る人びと その2  「長崎巡礼センター」は、長崎大司教区と長崎県が協議しながら立ちあげた長崎大司教区公認の窓口。今般の状況では、公式の窓口を置かないと対応できないと判断してセンターの設置を決定。一般の方に活用してもらいたいし、133ある教会堂の各々の関係者にも、このセンターを認知してもらわなければいけないので、課題は多いと語る。そのなかで、まず、教会を巡礼するときのマナーを、そして、教会を訪れることの意義を聞きました。 「巡礼とは体感すること pilgrimage is sensory  「「まず理解して欲しいのは、教会堂は祈りの場であって、観光施設ではないということ。<観光から巡礼へ>を合言葉にしたい。教会を訪れる時に、その文化や歴史、キリスト教を知ろうと思って来てほしいですね。今、実際に生きている信仰を、生きている祈りを、生きている教会堂を巡って体験・体感すること。それが巡礼なのです。アナタが教会堂に来たとしたら、観光ではなく「祈る」ということをして欲しいですね。キリスト教の信徒でない人も、祈りと祈りの場を体験するわけなんですよ。その場にいるということだけで何か感じることがあるわけですから。それが信仰の体験、巡礼なんですよ。そこで教会堂で守って欲しい8つのことをお話しします。」 教会巡礼のマナー 1.教会堂は祈りの場。聖なる場所では私語をつつしんで!  「教会堂には、観光施設にある「携帯の使用禁止」というような張り紙はありません。でも注意書きがないからといって、教会堂で大声をあげたり、携帯の着メロを鳴らして堂内で話したり、好き勝手に動いて携帯の写メで「カシャッ」と音をたてて撮ったりしないでください。また、教会堂の中で祈っている人がいたら、邪魔しないように静かに拝観してください。もちろん教会堂では結婚式や葬儀も行われます。その時は、拝観はご遠慮ください。」 2.聖水盤について!  「教会堂には、観光施設にある「携帯の使用禁止」というような張り紙はありません。でも注意書きがないからといって、教会堂で大声をあげたり、携帯の着メロを鳴らして堂内で話したり、好き勝手に動いて携帯の写メで「カシャッ」と音をたてて撮ったりしないでください。また、教会堂の中で祈っている人がいたら、邪魔しないように静かに拝観してください。もちろん教会堂では結婚式や葬儀も行われます。その時は、拝観はご遠慮ください。」 3.鐘を鳴らさないでください!  「残念なことに、年に何回かは起こってしまう出来事のひとつです。教会の鐘の音は宗教上たいせつな合図。仏教のお寺の鐘も同じことではないでしょうか。目の前にヒモがあるからといって、引っ張ってはいけませんよ!」 4.内陣に勝手に入らないで!  「祭壇及び朗読台などが配置されている場所は、祭儀を執りおこなう中心となるところで“内陣”と言っています。普通の教会堂では一段高くなっています。そこには聖櫃があってキリストの聖体を安置しています。神聖な場所ですので、絶対に入らないでください。また、外陣は参列する人たちのための祈りのスペースです。まずは座って、ゆっくり祈ってみてください。」 5.教会堂内に置いてあるものに触らないで!  「聖書・聖歌集・祈祷書(お祈りの本)などが置いてあります。堂内には教会のものもあるし、個人のものもあります。おわかりの通り巡礼者のものでないことは確かですね。教会によっては信徒の皆さんのMY座布団も置いてありますし、あとMY席も! 毎日ミサに来る人もいますから、みんなの黙認のもと自分の専用の席があるんですよ。もしかしたらMYメガネを置いているかもしれないですね。勝手に触らない、使わない、当たり前の心得ですね。」 6.飲み食いは当然ダメ!  「教会はできるだけオープンにしています。だからといって勝手に入って飲み食いをしてはいけません。いや、ウソだとお思いでしょうが、たまにあるのです。疲れたからといってペットボトルを取り出して飲んではいけませんよ、教会堂の中は休憩所ではないのですから。飲む・食う・吸うは別の所で。」 7.楽廊(歌隊席)にも勝手に入ってはいけませんよ  「楽廊は、一般的に堂内の2階席か中2階にある聖歌隊の席。オルガンなどの楽器も置いています。楽廊に入らないでください。写真を撮るのに良い場所だからといって、楽廊に勝手に入って撮影してはいけません。」 8.門はいつでもオープンなのです  「原則として教会堂の門はいつでも開いています。普通は正面・両サイドと合わせて3つの扉がありますが、教会によって開いている扉は違います。入る時は帽子をとりましょう。服装は、普通の服装で大丈夫なのですが、極端に短いスカートやノースリーブなどは教会には似合いません。祈りの場にふさわしいものを着用して下さい。夏に訪れる際は、バッグのなかに薄手のシャツを一枚入れておくと、いいかもしれませんね。」 教会で何を体感するのか? 中村神父の巡礼のススメ  「誰も気付かないことですが、たとえば黒島天主堂では、柱に手垢が残っています。年に1・2回大掃除していましたが、私はわざと「磨くな!」と言っていました。乾いた雑巾で軽く拭かせていたのです。汚れを落とさせなかった。なぜなら、歴史を理解している人はわかってくれると思いますが、その手垢が遺産なんです。どれだけ多くの人がこの柱に触れたから、こういう色になったかという証拠です。訪れる人も、それを見ないとね。ヨーロッパを訪れると良くわかるんですよ。磨り減った大理石の階段、触られて磨り減った聖人像の腕と足。そこを訪れた人の人数が何万人・何十万人・何百万人という単位では計れないほどだということの証し。それは現場に行ってみないと体験できません。  黒島に着任したころ、じーっと天井を見ていると「あれ? おかしいな。」と不思議に思ったことがあったんです。黒島天主堂は、スゴイことをしていたんですよ。「何を?」とお思いでしょう。お金がなかったから良い材木を揃えることができず、普通の安価な板を買ってきて、その板に木目を描いているんです。刷毛目という工法なんですが、ニスを塗ってその上から木目を付けた。おどろくなかれ、天井板はすべて手描きなのです。ドアの一部もそう。お金がないというところからのアイデアなんですが、今になってみるとスゴイことをしているんですよ。 現場に行って教会堂を見るだけでなく、それを設計した人、造った人、現在まで維持してきた人たちに思いをはせる。そして感謝・感動するんです。教会堂の多くは信徒の皆さんの奉仕活動で建てたもの。資材を担いでどれだけの距離を歩いたかは、現場に行って歩いてみないとわからない。そういった意味で現地を体感するのが巡礼なんです。今生きている信仰者たちの現場を体感することが巡礼ではないでしょうか。そうでないと巡礼は面白くないんですよ。たまに私も巡礼ツアーを企画して外国に行く時は、そういうことを伝えています。私もそういう見方をしているわけ。ガイドが説明してくれる建築年数なんかを聞いても面白くないから、ほかのところを見て周ります。そうすると、現代の信仰の姿だけでなく、400年、500年前の信仰の姿も見えてきます。昨年、スペインのザビエル城を訪れましたが、その窓から見える風景と地形は、どんなに写真にうまく撮っても伝わらない。ザビエルが見たものは、現場に行かなきゃ、わからないですよ。」   DATA 中村満神父 Nakamura Mitsuru 長崎県五島市久賀町の出身。久賀島の牢屋の窄殉教地で、中村家の3姉妹が殉教、その子孫。現在、長崎教区本部事務局次長。長崎巡礼センターの責任者。 参考図書 『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 監修/カトリック長崎大司教区 発行/長崎文献社
  • 教会巡りからはじまった歴史の旅 2014年03月27日
    教会巡りからはじまった歴史の旅
    教会の魅力を伝える人たち その1  『旅する長崎学 キリシタン文化』の2・5巻や『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』の構成と執筆を担当した犬塚明子さん。彼女は今、カトリック長崎大司教区と長崎県が協議を重ねて新しく発足させた「長崎巡礼センター」(長崎カトリックセンターの1階)で、インタープリターとして活動を開始しています。長崎の上質な旅へと誘う発信源として、巡礼コースなどを一般の方に紹介しています。これまで、数多くの教会に関する本を執筆し、ライフワークとして教会堂を追いかけ続ける犬塚さん。カトリック信者ではない彼女が、なぜ教会の魅力を紹介する仕事に一生懸命なのでしょうか?犬塚さん独自の目線から見た教会堂の魅力に迫ります。 教会堂を巡るきっかけは?  「父方はカトリックですが、私自身は、教会には縁のない環境に育ったんです。  でも、20代後半を迎えたある日、教会建築を撮影するカメラマン 雑賀雄二さんのエッセイを読んだのです。ページを一枚一枚めくるたびに、自分の心がいつしか、実際に教会を訪れずにはいられなくなっていました。それで、もう上五島に足が向いて、江袋教会など、いろんな教会堂を訪れました。  そのとき、頭ヶ島天主堂を訪れた見ず知らずの私に「私のおじいさんたちが(といったと思います)、島の山から石を切り出して、ひとつずつ積み上げてこの頭ヶ島天主堂が完成したんですよ。」と、語りかけてくれたのです。その話を聞いてふと感じたのが、きっと代々親から子へと、この教会が建てられた当時の様子が伝承されてきたという、島の人たちが積み重ねた長い時間。そして、地元の方々との会話を肌で実感できたこと。それは、本当に涙がでそうなくらい「生(なま) 」の歴史に触れるという魅力を感じてしまったのです。この出会いがきっかけで、教会堂の魅力というか歴史の魅力にどんどん引き込まれていきました。  五島の小さな集落に、どんなに小さくても実際に生活のなかに生きている教会堂。ひとつひとつに感動して、歴史にも感動してしまいました。それで「(自分は)長崎人だ!」って再認識したこの五島の旅が、教会堂に目覚めるきっかけとなったのです。 」 ライフワーク 1.教会堂は祈りの場。聖なる場所では私語をつつしんで!   「その後、長崎市内にある某百貨店に勤めました。広報担当という仕事のおかげで、改めて長崎を見つめ直すことができたのです。階段脇のスペースを活かしての作品展示は、来店してくださったお客さまに見てもらえるステップギャラリーとして開放していました。展示の企画も、お預かりした作品の展示のほかに、自分たちの手で長崎の情報発信をしていこうという、まさに長崎の歴史テーマとしたものもおこなっていました。その中のひとつに「長崎の教会」というテーマがあって、そこで思い切って長崎の教会を見てまわったんです。この展示を通して「長崎は面白い!」って思い始めました。それで、長崎の面白さを伝える仕事に携わりたいと思った矢先に、長崎の教会ガイド『長崎游学2』(長崎文献社)という本をつくる仕事に出会ったんです。この、ガイドブックをつくりながら、教会のことをかなり勉強させてもらったんですよ。」 犬塚流「長崎の旅の楽しみ方」  「バイクで行くんです。平戸の生月も行きましたよ。しかも50CCで(笑)!  「私のお気に入りは、生月大橋の手前にある山野教会です。いわゆるキリシタンの迫害を逃れて集落をつくった隠れ里のひとつですね。すっごくいいですよ。私の大好きな場所!今は外観が補修されていますが、中に入るとこんな感じ。本通りから人家のない山道を登って歩いたら30〜40分かかるような、山の奥にあるんです。ふと集落が現れて教会が見えるんですよ。教会の後ろにまわると畑が広がっていて、まさに集落の中にある教会。まさかこんなところに?というような場所なんです。善長谷教会や大山教会なんかもそう。香焼の方から善長谷教会を探すと、城山の中腹にチョンって見えるんです。「あれだ!」っていうオドロキ。教会堂って、何気ない風景のなかから、忽然と現れるんですよね。」 (写真は犬塚明子さんの撮影) ひとつの発見…。“西”という姓からルーツを探る  「個人的なことですが、私の祖母が生月の人で姓は“西”。生月の最初の殉教者が“ガスパル西”という人。その息子の“トマス西”は長崎十六聖人のひとりなんですよ。生月には確かに西姓の人がたくさんいらっしゃると思いますが、祖母と殉教者の苗字が同じだということを聞いて、どこか繋がりを感じてしまったんです。仏教用語でいう因縁というか縁というか、自分にも何か引っ張られるものがあるんだなぁということをすごく感じてしまいました。長い歴史の中に自分がいるということ。それを知ってから、自分は殉教者の子孫だと自称しています。自分が信者になれるかということは置いても、歴史の中に「私」がいるという事実が、ある意味、魅力であるような気がしたんですよね。このことは私の人生観を変える出来事でした。」 とある結婚式…、教会堂での失敗談  「いとこが教会で結婚式を挙げるというので、私にカメラ係になって欲しいと頼まれたことがあったんです。「どこでも撮っていいから。」と言われたのですが、教会のことを何も知らなくて、内陣の中に入っちゃったんですよ。その時、みんなから冷やかな視線を向けられていたこともわからず、ただ私は、新郎新婦のシャッターチャンスを逃すまいと神父様の背後にまわって内陣に入ってしまったんです。それがいけないことだと後で知ったのです。私を含めてよく知らないのが実情だと思います。そういった教会堂でのマナーも紹介していくのもこれからの仕事ですね。」 長崎巡礼センターの使命  「本を執筆しながら、長崎カトリックセンターとのご縁で、長崎巡礼センターのインタープリターとして仕事をしています。例えば、長崎の教会は、そこにただ建っているのではなくて、そこに信仰を守りつづけている人がいるから教会があるということ。たとえ小さな教会堂でも存在する意味がある。そのことを私自身が知りましたし、そのことを伝えたいと思いますね。「祈り」があるということも長い歴史を物語ります。例えば、外海から、ふるさとの石を乗せて船を漕いで五島へと渡ったと聞きます。たどり着いた場所ですごく苦労をして、200年という長く苦しい時間の先に教会が存在していること。そういう話を私が伝えることで、みなさんに感動してほしいですね。  大切なことは、そこにある教会を語ることで、長崎の歴史も語っていけるということ。まだまだ勉強の途中ですが、少しでも長崎の魅力が伝えられるようにがんばります。  みなさん、巡礼センターへ来て下さい!」 DATA 犬塚明子 Akiko Inuzuka  1956年生まれ。長崎県諫早市出身。諫早市在住。日本女子大学生物農芸専攻。1990年から2003年まで市内の某百貨店の広報担当として勤務。2005年9月『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社)を担当。 2006年5月『旅する長崎学2 キリシタン文化2』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)、同年11月『旅する長崎学5 キリシタン文化編5』の構成・文を担当。2007年5月から長崎巡礼センターのインタープリターとして活動中。2007年9月には構成・文を担当する『ながさき巡礼』(監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社)を出版予定。
  • 教会の建築に使われた「ミナ」の貝殻 2014年03月19日
    教会の建築に使われた「ミナ」の貝殻
    〜教会に見る長崎らしさ。ミナが石灰に変身!?〜  長崎の教会を訪れると、まわりの自然に溶け込んだ外観の美しさや、素朴に施された装飾のかわいらしさに心惹かれます。さらに、この目の前にある教会の歴史的な背景にも目を向けると、もっと心に響く感動を味わうことができます。迫害・潜伏といったキリシタンの激動の歴史を乗り越えた信徒の皆さんが、貧しいなかにも奉仕して、信仰の喜びのうちに建てた教会・・・、その数だけ物語があるのです。  今回は、海の岩場でよく見かける貝「ミナ」にまつわる教会建築のエピソードをご紹介します。長崎の身近にある、自然の恵みを活かして建てられた教会がありました。教会のレンガの隙間や白い壁をじーっと観察してみてください。  ミナ」とは長崎での呼び名で、磯に生息する巻貝のこと。磯遊びに出かけると、小さいものから大きくて立派なものまで、びっしりと岩にへばりついています。岩場を歩くと、人影に気付いたミナたちはカチャカチャと音をたてながら海中へと落ちて身を隠します。大げさな音のわりには、まだまだ岩にたくさんへばりついているので、かんたんに手で採れます。家路に着いて大きめの鍋で茹で、湯気がたつ熱いうちにいただきます。茹でると身が貝殻の奥に縮むので、縫い針でかき出して食べますが、これがビールにつまみにピッタリなんです。 田平天主堂  さて、このミナの貝殻が“教会の建築資材として使われた石灰”に変身していたとは驚きです。食卓にのぼった黒茶色のミナを手に取りながら、どうやって真っ白な石灰になるのだろう?とわいてくる疑問。なんと、ミナの貝殻を集めて素焼きにし、粉になるまで砕いて真っ白な石灰を作ったのだそうです。 水ノ浦教会  今回は、ミナにスポットをあてましたが、当時貧しい中で建てられた教会には、それぞれに建築の材料として長崎の自然が活かされています。教会の建つロケーションだけでなく、建築にも見ることができる長崎らしさを発見してください。そこには、きっと信者の皆さんのご苦労を思い起こさせてくれるエピソードがあり、より深い感動の旅に誘ってくれることでしょう。 *磯遊びは、安全な場所で楽しんでね。 参考資料 『旅する長崎学5 キリシタン文化后戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 写真下:水ノ浦教会は『旅する長崎学5 キリシタン文化后p.37より転用
  • 海岸線をなぞってみよう 2014年03月19日
    海岸線をなぞってみよう
    海岸線をなぞってみよう  長崎は大陸に近い日本の西にあって、海外貿易には便利な場所。でも、それなら他の県でもよかったんでは?なぜ長崎だったのでしょう?地理的な位置や周りを囲む海、自然の力、美しい風土・・・、いろんなことが素晴らしいから貿易港に選ばれたはず。長崎がどんなところなのかをデータから探ってみました。 長〜い長い「長崎県」の海岸線  長崎県の海岸線の長さは約4,196キロメートル(平成17年3月31日 国土交通省河川局「海岸統計」)、北海道に次いで全国で2番目です。これがどのくらい長いかというと、全国の海岸線の12%にもなります。面積はというと、全国37位で、これは全国の1%ぐらいですから、長崎県の海岸線がいかに複雑に入り組んでいるかがわかりますよね。しかも平地が少ない地形なので、昔は馬よりも船で移動するほうが早かったんです。 岬の教会  日本で初めてキリシタン大名となった大村純忠は、自分の領地内を船で往来していました。16世紀に開港した横瀬浦に別荘を構え、三城城から船で大村湾を横切り、横瀬浦の別荘から小船に乗り換え、教会のミサに通ったそうです。  横瀬浦、福田に続いて、純忠が開港したのは長崎でした。1570年、付近の様子はというと、長い岬の台地があるだけでした。ホントに細長い岬だったんです。そこに新しいまちづくりがスタートし、最初6つの町ができました。いまの県庁のあるところが岬の先端で、教会が建ち、鐘の音が響いていました。大きな貿易船も行き来できる波穏やかで静かな入り江、しかも長い船旅の疲れを癒すような美しい風景。そんな天然の良港が長崎県には多かったのです。  ここで、長崎の楽しみ方! この長〜い海岸線をドライブするのが最高なんです。晴れた日の空と海の青さ、夕暮れにはオレンジ色に映える海。様々な表情を見せてくれる長崎の海岸線は、何度ドライブしても感動です! また、海からアプローチするのも素敵です。港には豪華客船が寄航し、海外から訪れる人も少なくありません。クルーザーや遊覧船で、ゆったりした時間を優雅に楽しむのも、長崎の魅力を満喫する方法のひとつです。 日本一の「しま」の数、どれくらいだと思います?  長崎県の島の数は全国第1位。全国の島の数は6,852島で、そのうちの14.2%にあたる971島が長崎県にあります(昭和63年9月 海上保安庁「海上保安の現状 *島(海上)は、外周0.1km以上)。ちなみに、県では、陸地面積が1,000m2のものを「しま」ととらえています。こうしてみると、長崎県には596のしまがあり、そのうち、有人島が74島、無人島が522島となります。  長崎を愛した遠藤周作氏は、代表作『沈黙』のなかで、どこまでも蒼い海と森の緑という大自然のあまりの美しさに、人間の存在そのものを投げかける。たしかに長崎の歴史的背景のうちに見るその風景は、素朴ながらも何かを問いかけてくるような重みと強さがあります。  ここで、魅力がいっぱいの「しま」自慢をちょっとだけ! 世界遺産候補となった教会が点在する五島。シーカヤックで渡る九十九島は、プチ・アイランドリゾート。麦焼酎やウニが美味しい壱岐。韓国に一番近い国境の対馬・・・などなど。すみません。ちょっとだけでは語り尽くせない長崎県の「しま」でした。 季節風に吹かれてやってきた外国船  日本へとやってきた中国のジャンク船やポルトガルのナウ船。帆をあげた船は、夏は南からの季節風にのってきました。帰る時は冬の北からの季節風にのって長崎を出航。季節風がたよりだった航海は命がけだったようです。  そのむかし、南蛮船が来る以前から、大陸との航海ルートにおいて、長崎県の島々は重要な位置にありました。そして16世紀、平戸にやってきたポルトガル船とキリスト教を受け入れ、西洋との貿易を始めたのが平戸領主の松浦隆信(道可)だったのです。長崎と西洋がはじめて出会った場所「平戸」。その後、平戸の港にはイギリス船、オランダ船が次々と入港し、西洋文化の窓口となりました。その面影をたどる旅にでかけませんか。「 ながさき歴史散歩 第2回 【ザビエルも訪れた国際貿易港「平戸」の旅】 」をご覧ください。 参考資料 『旅する長崎学1 キリシタン文化機戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 『旅する長崎学2 キリシタン文化供戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 『ホームページ『長崎100の指標 較べてみれば(2006改訂版)』 『ホームページ『ながさきの「しま」』
  • 平戸“はじめて”物語 2014年03月19日
    平戸“はじめて”物語
    平戸“はじめて”物語  東シナ海の海上交通の要所として海外交易の拠点となり、かつて国際貿易港として栄えたまち「平戸」。その相手国は時代とともに中国、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスと変わっていきますが、鎖国の前までは外国船が入港する賑やかな港でした。 南蛮船  異国の船が運んできた珍しい品々に、平戸っ子だけでなく、貿易めあてに集まってきた京や堺の商人たちもびっくり驚いたことでしょう。輸入品のほか、外国人の習慣や風習、愛用品なども初めて目にするものばかり。 さあ、ここに日本人の好奇心が全開! 新しいものを生み出す原動力とエネルギーもみなぎったにちがいありません。  ワールドワイドな平戸の港に何が運ばれてきたのか!? これら舶来品の数々は、今でこそお馴染みのものかもしれませんが、それだけに身近でおもしろいはず。ということで、今回は「平戸“はじめて”物語」を、お国別にみていきます。 ポルトガル  1550年、平戸にポルトガル船が初めて入港。のちに開港した長崎港への来航は1571年だから、20年も早かったんですね。ポルトガル船が運んできた“はじめて”は、「食」に関するものが圧倒的。南蛮貿易によって400年以上も前に伝えられた異国の味ですが、その料理やお菓子の名が日本語として定着しているものの多いこと! いまさらながらビックリしてしまいました。  まずはパン。語源はポルトガル語です。南蛮船の商人や船員たちの食糧として欠かせないものであると同時に、彼らが信仰するキリスト教のミサに使う「パンと葡萄酒」はなくてはならないものでした。南蛮船に乗って一緒にやってきた宣教師たちは、平戸でも熱心な布教活動をおこないましたから、キリシタンとなった平戸の人たちは、当時日本にはなかったパンや葡萄酒を口にしたことでしょう。その後パンは、南蛮人やキリシタンが多い平戸や長崎では盛んにつくられたそうですが、日本人の主食となるほどは広まらず、キリスト教禁教とともに一般にパンを食べることも禁じられたため、西洋直伝のパンづくりも行われなくなってしまいました。  さて、なんといってもポルトガルの甘いお菓子が入ってきたことは、日本の食文化を一変させる出来事だったのではないでしょうか。はるばるやってくる南蛮船には料理専門の船員さんたちがいて、港に停泊中の異国の船からはきっと甘〜い香りが漂っていたんじゃないかと想像してしまいます。これって商売上手な外国人商人たちの商品戦略のひとつでは!?。「砂糖があれば美味しいお菓子がたくさんできるよ」って、輸出品の砂糖が売れるように、日本人にアピールしていたのかもしれませんね。  カステラのルーツは、「パン・デ・ロー」とよばれるポルトガルのお菓子で、丸い形をしたシンプルなスポンジケーキ。現在のカステラとは形も味も異なります。スペインのカスティーリャ王国に由来するその名前だけを残し、砂糖を豊富に手に入れることができた長崎の菓子職人たちによって、長崎らしい独自の「カステラ」が生まれたのです。 平戸の「カスドース」もポルトガル語にすると「甘いカステラ」。カステラのスポンジを卵黄に浸して高温の砂糖蜜で揚げ、仕上げにグラニュー糖をまぶした甘いお菓子です。 織田信長が大変喜んだという瓶詰めのコンペイトウ(金平糖)。ルイス・フロイスの『日本史』にそのことが記されています。語源はポルトガル語のコンフェイト。星のような凸凹が不思議なかたちで、見た目もかわいらしい金平糖、16世紀のポルトガルには魚や貝のかたちをしたものもあったそうです。  ポルトガルから伝わった食べ物はまだまだたくさんあります。焼菓子のボウロ、砂糖菓子のアルヘイトウ、ポルトガル船の常備食だったビスケット、もともとは南蛮菓子として伝わったものが家庭料理に変化したヒロウズ(飛龍頭)、南蛮料理のヒカドやテンプラなどなどです。 「日本最初のたばこ種子渡来の地」の碑   そういえばタバコ(煙草)も舶来品。平戸城の敷地内に「日本最初のたばこ種子渡来の地」の碑があります。今でこそ体に害のあるものとして愛煙家にとっては肩身の狭い世の中だけど、昔は薬用として喫煙され、1601年にマニラから平戸港に入ったポルトガル船によってその種子が伝えられ、徳川家康に献上されたといいます。 ちなみに、長崎市の春徳寺の手前に「煙草初植地」の碑があります。ここはもともと、長崎で最初の教会「トードス・オス・サントス教会」があった場所ですが、なんと煙草の栽培がおこなわれていたそうです。禁教令によって教会が破壊されたあとに建った春徳寺でも栽培は続けられ、「長崎煙草」「桜馬場タバコ」と呼ばれる長崎ブランドのお土産として江戸や大坂で楽しまれたんですって。 オランダ  続いてオランダ。1609年にオランダ船が平戸に入港し、日本初のオランダ商館ができました。倉庫や住宅なども建ち並び、その外観を彩りよく飾ったのが、日本ではじめて使われたペンキだと言われています。建物に色を塗るなんて感覚は、きっと当時の日本人には珍しかったことでしょう。 また、大航海を続ける船には医者も乗船していました。平戸の嵐山甫庵はオランダ人から西洋医学を教わり、蘭学の先駆者となりました。その時の史料が平戸観光資料館に展示されています。  また、松浦史料博物館に併設されている喫茶「眺望亭」では、当時のレシピをもとに再現したお菓子カネールクウクKanelkoekが楽しめます。カネールはシナモン、クウクはケーキ。シナモン味の素朴なクッキーです。出島のオランダ商館で行われた「阿蘭陀正月」にも出されたお菓子だそうです。 イギリス  お次はイギリス。1613年にイギリス船「グローブ号」が平戸に来航しました。その船内にはビールが積まれていたと『セーリス日本渡航記』に書かれています。日本にもやってきたこのビールは、17世紀のイギリスではちょうどホップが普及しはじめた時代と重なります。平戸の港へタイムスリップしたら、こんな声が聞こえてきそう…。 イギリス人「どうかねこの砂糖、この値段で買わないかね。大坂でヒットするよ。」 堺の商人「せやけど、もう少しまけてもらわんと、かなわんわ。」 イギリス人「しょうがないなー。ちょっと安くします。」 堺の商人「商談成立!明日には荷を運ぶさかいによろしゅう。」 イギリス人『商談がまとまったところで、ビールで乾杯しますか!カンパーイ。」 堺の商人「大仕事の後の一杯はたまらん!大坂でもこのビール、流行るかな?これ、なんぼ?」 中国  西洋との貿易で繁栄した時代よりも、もっと以前から中国船が行き交っていた平戸。遣唐使の寄港地のひとつとして、空海や栄西なども平戸を訪れました。臨済宗の栄西がもたらしたのは茶道の基本となる教え「禅と茶」。栄西は、この地で最初の禅規を行い、宗から持ち帰った優良な茶の種を冨春園に蒔き、製茶や喫茶(抹茶)の方法を伝えたそうです。 のちに平戸藩主松浦鎮信が武家茶道「鎮信流」を打ち立てますが、こうしたベースのある風土ならではかもしれませんね。  国際貿易港として、いろいろな国々との交流があった地だからこそ、“はじめて”がいっぱいの平戸。海外交流の窓口として栄えた平戸の歴史をあらためて感じました。 参考資料 『旅する長崎学1 キリシタン文化機戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 『『歴史とロマンの島 平戸』パンフレット 平戸市観光商工課
  • 海外交流の窓口・平戸 〜平戸から世界がみえる〜 2013年03月28日
    海外交流の窓口・平戸 〜平戸から世界がみえる〜
    干物づくり体験 平戸大橋を渡り、海風香る平戸市へ。西九州自動車道の整備が進み、また平戸大橋も無料化されたので、ずいぶん行きやすくなったように感じます。 新鮮な海産物のお土産を手に入れよう、どうせなら手作りしようということで、干物作り体験にチャレンジ。個人的には自宅で魚をさばくことは少ないので、この際プロからさばき方を習っておこうという一石二鳥を狙ってみました。 やってきたのは篠崎海産物店。店の奥が加工場となっていて、商品を作るために日々大量の魚をさばく大ベテランが指導してくれます。体験に使われる魚はアジが多いそうです。扱いやすそうな手のひらサイズのアジで、今回は頭のついた背開きに挑戦。 まず頭を左向きにして魚を起こし、頭のほうに包丁で切れ目をつけます。 今度は寝かせて先ほどの頭の切れ目から包丁を入れ、背骨に沿って尾の方まで、お腹まで切ってしまわないよう気をつけながら、包丁で切り開きます。ちゃんと包丁を入れたつもりだったけれど、いざ開いてみようとすると、きれいに中まで切れてなくて、何度も包丁でギコギコ。 「刃先だけで切るから、包丁のお腹のところも使ってぐっと」と先生のアドバイス。もう少し思い切って刃を入れないといけないんだ。 無事に開けたら、内蔵は手で取り除きます。この段階が一番難しかったのですが、この状態になったら今までのぎこちない手つきは忘れて、いい出来ばえに見えてきました。 水で洗い流したら、塩の山に開いた身を付け、余分な塩を軽く払って10~15分置きます。そして再び水で洗い流し、開いた方を上にしてカゴに並べて干します。晴れていれば外へ出して天日干し。天気が悪い場合はお店の乾燥機に入れて干してくれます。 干し時間は約2~3時間。午前中に体験を行ったので、この待ち時間で観光することに。近くには平戸オランダ商館があり、松浦史料博物館や平戸ザビエル記念教会などにも徒歩で行ける距離。海産物たっぷりのランチを提供するお店もあります。 平戸のまちあるきを堪能したあと再び篠崎海産物店へ行き、完成した干物とご対面。自分で作った干物が箱の中に並ぶ姿にうっとり、実に美味しそうに輝いて見えます。 「干物は店で買うもの」という認識があったのですが、こんな簡単に作れるなんて、びっくりです。さばく手順さえマスターすれば恐れるに足らず。家に帰ってからも実践できる嬉しい体験でした。 篠崎海産物店 住所/長崎県平戸市崎方町898 TEL/0950-22-2425 体験時間/約1時間 人数/1~10名 料金/2000円(1週間前に予約) ※干物10枚程度持ち帰り付 ※午前の体験は夕方受け渡し可、午後の体験は後日配送 大きな地図で見る
  • 旧石器時代から弥生時代まで 2010年06月23日
    旧石器時代から弥生時代まで
    旅する長崎学オリジナル年表の【旧石器時代から弥生時代まで】を確認する