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県北エリア

  • 第11回 二十六聖人が歩いた浦上街道 2007年09月05日
    第11回 二十六聖人が歩いた浦上街道
    −殉教地「長崎」へと向かう26人の道−  日本に漂着した一隻の外国船サン・フェリペ号。 航海士の「スペインはキリスト教信者を増やして、やがてその国を制服する。」という発言に衝撃を受けた豊臣秀吉は、日本で布教活動をおこなう宣教師や信徒の捕縛と処刑を命じました。 京都・堺から長崎まで約1,000キロの道のりをおよそ1ヶ月かけて裸足で歩かされ、西坂の地で殉教した日本人20人と外国人6人の物語。 今回は、処刑地「長崎の西坂」を目前にした最後の2日間、キリシタン26人が歩いた浦上街道をたどります。 歴史のとびら  1596年、土佐の国にある浦戸海岸(現在の高知市)に一隻のスペイン船が漂着しました。 フィリピンからメキシコを目指して太平洋を航海中、台風に遭って破損したサン・フェリペ号でした。 豊臣秀吉から調査に派遣された増田長盛は、「スペインはまずキリスト教の宣教師を派遣して信徒を増やし、やがてその国を制服するのだ。」という航海士の不穏にささやく言葉を耳にし、秀吉に伝えました。 その報告を受けた秀吉の衝撃は激怒に変わり、すぐさま、宣教師たちを捕らえるよう命令したといいます。 サン・フェリペ号に修道士が乗船していたことから、1587年に発していた伴天連追放令を根拠に、国内で布教活動をおこなっていた宣教師たちが捕らえられました。 サン・フェリペ号事件が、日本で最初の大殉教事件の引き金となったのです。  京都ではフランシスコ会の宣教師ペドロ・バプチスタら6名、大坂ではイエズス会の修道士パウロ三木ら3名、ほか合わせて計24名が捕らえられます。 1597年1月3日、24人のキリシタンたちは、京都の上京一条の辻で左耳をそぎ落とされ、見物人が見守るなか、町中を引きまわされました。 そして、処刑地の長崎へと送られるのです。1月9日に堺を出発。 山陽道を西へと裸足で歩かされ、下関に着く途中でペドロ助四郎と大工のフランシスコが加わり26人となりました。 2月4日、長崎の彼杵宿に到着。大村湾を小舟で時津港へ渡り、翌日の早朝、処刑地の西坂に向かって浦上街道を歩きました。  1597年2月5日の午前10時頃に西坂の丘へと到着、長崎の港に向かって一列に並べられた十字架に縛りつけられました。 正午、信仰を貫いた26人は、役人に槍でつかれて昇天・・・。  長崎港の開港によってポルトガル船が行き来し賑わう長崎は、キリシタンの町として栄えていました。 "キリスト教は禁止するもポルトガル船の来航は奨励する"という秀吉の伴天連追放令は、貿易と布教が一体となったポルトガルにとっては矛盾したものでしたが、この「長崎」をキリシタンの処刑地として選ぶことによって、秀吉は自分のキリスト教への考え方を世に示したのです。 宣教師への見せしめと長崎の町に対する警告だったのでしょう。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1日 1二十六聖人彼杵乗船の碑 ↓車で約1時間30分 or 電車で約25分+バス15分+大村空港から船で約25分 2日本二十六聖人上陸の地の碑 ↓車で約20分 or バスで約30分 or 徒歩で約2時間 3サンタ・クララ教会堂の跡 ↓徒歩で約10分 4ベアトス様の墓 ↓徒歩で約7分 5フランシスコ・ザベリオ堂の跡 ↓バスで約5分+徒歩で約5分 or 徒歩で約30分 6サン・ラザロ病院の跡(山王神社)と浦上街道の碑 ↓徒歩で約5分 7坂本国際墓地 ↓徒歩で約30分 8日本二十六聖人殉教地 記念碑と記念館 ↓徒歩で約15秒9 浦上街道ここに始まるの碑 *今回のコースは、車で移動する人は1からスタート(所用時間は1日)、バス&徒歩で楽しみたい人は2からスタート(所用時間は約4時間)、徒歩だけで楽しみたい人は3からスタート(所用時間は約3時間30分)することをオススメします。 いろんな方法で楽しんでください! 1二十六聖人彼杵乗船の碑 ペドロ・バプチスタの涙  処刑地の西坂の丘を目指して歩く26人。 京都・大坂の堺を出発し、見せしめとして、首・腕・手首に縄をかけられた姿で列をなし、裸足で歩き続けました。 堺を発ってから27日目の2月4日。長崎街道の俵坂峠にさしかかると、司祭ペドロ・バプチスタは涙を流しました。 役人たちは、死におびえていると嘲笑しましたが、彼の涙の理由は死への恐怖心ではなく、日本にフランシスコ会を創設できなかった悔しさからの涙だったそうです。  夜になって、彼杵浦から時津へと3隻の舟が静かに出発しました。 この夜が、26人にとって最後の夜となったのです。舟の上で月を眺めたかもしれません。  京都・堺から長崎までの道のり、彼らが確実に船で移動したのは、この彼杵−時津のほか、下関−小倉、志賀島−博多だといわれます。 旅人コメント 「大きな水車が目印です。歴史公園 彼杵の荘を目指してください。少し先に彼杵川があるので、大村湾の方向へと川沿いに歩くとありますよ!」(すなめり) 「大村の彼杵川を歩いていたら、円形に並べたいくつもの石を発見しました。魚を追い込む昔からの漁方なのでしょうか?」(晟一) 「歩くっていいですね♪道に迷ってしまったのですが、田んぼの畦道を通ってしまいました。小さな花が咲いていて空がすがすがしくて気持ち良かったですよ。」(ミント) 2日本二十六聖人上陸の地の碑 時津に上陸  26人のキリシタンたちが時津港に上陸したのは2月4日の夜11時ごろ。 ルイス・フロイスの記録には、霜が降りてとても寒い夜だったと書かれています。 現在、上陸の記念碑が建立されている場所は埋め立てられた場所です。 実際に26人が到着した場所は現在の時津町役場と時津警察署の北側の一角だそうです。  26人は、翌2月5日早朝、処刑地の西坂へと歩きはじめました。 時津から西坂まで約3里(約12キロ)。  浦上街道の終始発点の目印はこの恵比寿さま。 時津の漁師さんたちが大漁を願ってお祈りするそうです。 日本二十六聖人上陸の碑のすぐそばで、時津港を向いて4体の恵比寿さまが並んでいました。  国道206号線沿いを行くと、店先からモクモクと蒸気がでていて気になるお店があります。 近寄って行くと、これは時津名物!「時津まんじゅう」。 ついつい買ってしまいました。 薄皮にぎっしり詰まったあんこがたまりません!もうひとつと手が伸びます。 3サンタ・クララ教会堂の跡 破壊後も潜伏キリシタンたちの心のよりどころ  大橋・松山・浦上地区一帯まで来ると、26人が歩いた浦上街道界隈には、秘密教会の跡や墓地などキリシタンにまつわる史跡がたくさんあります。 時代は少し前後しますが、あわせてご紹介しながら歩きましょう。  まずは、浦上村山里の家野郷にあったというサンタ・クララ教会跡。現在の大橋のたもとに石碑が建っています。 この教会は1603年に建てられましたから、26人が通った時はまだ存在していません。 スペイン人の宣教師アルファレス神父が浦上村の司牧をつとめていましたが、徳川幕府の禁教令が発布されると、1620年には破壊されてしまいました。 信仰が篤い浦上のキリシタンたちは、帳方・聞役・水方という潜伏の組織をつくって、禁教による迫害の嵐の中で信仰をつらぬきました。 教会の破壊後も、毎年夏になるとキリシタンたちは教会跡に集まり、役人の目をごまかすために、神への祈りを盆踊りの囃子に見せかけて歌っていたといわれます。 旅人コメント 「大橋です。その下に流れるのが浦上川。」(しんご) 「愛犬の散歩で山里小学校の周辺をよく歩きます。浦上川に鯉が泳いでいたのでカメラにとりました。(タンタン) 4ベアトス様の墓 敬虔な一家の悲しい物語  ベアトス様の墓は、大橋を渡って左折。 浦上川沿いに歩いて病院の角を右折し山里小学校へとのぼる坂の途中にあります。 サンタ・クララ教会堂の跡から歩いて10分もかからず到着しますよ。  徳川幕府の禁教下でキリスト教の信徒たちは潜伏して信仰を守っていた寛永の頃、浦上村の本原郷小峰(現在の石神町)に、キリシタンとして敬虔な生涯を送り尊い死を迎えた一家がいました。 その親子3人の名はジョアン、ジョアンナ、ミカエル。 ある秋の日、禁教令で役人に捕らえられた親子は、庭の井戸端で水責めにされました。 それでも信仰を棄てず改宗しない3人は、とうとう火あぶりの刑に処せられ、命を落としてしまいます。 3人の遺骸は村の人たちの手によって、この殉教地に葬られました。  ベアトスとは、ポルトガル語で福者のこと。 この信仰心に感銘を受けた村の人たちは、殉教の日には毎年祈りを捧げ、世代を越えて約350年以上も「ベアトス様の墓」として大切に守ってきたそうです。 残念ながら殉教した詳しい年代はわかっていません。 旅人コメント 「大橋から山里小学校の通りを"サントス通り"といいます。道路には平和のハトが刻まれています。」(まさみ) フランシスコ・ザベリオ堂の跡 秘密礼拝堂のひとつ  安政の開国後、長崎につくられた外国人居留地に建てられた教会「大浦天主堂」に、1865年、禁教下で潜伏して信仰を守り続けていた浦上村のキリシタン十数名がやってきました。 プチジャン神父と出会った信徒たちは自分たちの信仰を告白します。 まだキリスト教が認められていない日本でしたが、この「信徒発見」とよばれるできごとのあと、浦上村には「聖マリア堂(長崎市辻町)」、「聖ヨゼフ堂(辻町)」、「聖サンタ・クララ堂(大橋町)」、「聖フランシスコ・ザベリオ堂(橋口町)」の4つの秘密礼拝堂が建てられました。 秘密礼拝堂は、茅葺きの普通の民家で、密かに神父が呼ばれてミサや洗礼の儀式がおこなわれていたそうです。 6サン・ラザロ病院の跡(山王神社)と浦上街道の碑 大楠が歴史を見守る丘  この大楠のある周辺は、西坂へと向かう26人が休憩をとった場所といわれます。 山王神社がある辺りに、当時はサン・ラザロ病院があったとされます。 ここで、パウロ三木は告白の時間を与えられ、ディエゴ喜斎とヨハネ五島は正式にイエズス会に入信する願いが叶ったそうです。 それは処刑される数時間前のつかの間の時でした。  山王神社の右隣、階段を下りた保育園の前に浦上街道の碑が建っています。 浦上街道は、26聖人以外にもオランダ商館の医者ケンペルさんなど著名な人たちが行き交った道なんですよ。  山王神社の入口にそびえる被爆の大楠は、26人が歩いた時代のことも原爆が投下された日のことも静かに見てきたのではないでしょうか。 歴史を体験した証人で、四季を通じて緑の葉が生い茂る生命力に感動しました。 旅人コメント 「近くには、大楠と同じように原爆で被爆した一本柱鳥居があるよ。」(ピジョン) 「山王神社と坂本国際墓地の間には、第八十三番霊場がありますよ。」(ケン) 7坂本国際墓地 長崎で活躍した外国の人びと  坂本国際墓地は、山王神社から南へ歩いて5分くらいの場所にあります。 この辺りを歩くと路面電車より少し標高が高くなっているのがわかります。 路面電車が通る国道202号線はほとんど埋め立てられ昔は海だった場所。 浦上街道は、海岸沿いになっていたんですね。  地元では「外人墓地」と呼ばれる坂本国際墓地には、祈りを捧げる観光客が多く訪れます。 明治期に整備されたこの墓地は、急な坂の途中にあって、道を挟んでシンメトリーに配置され北と南の2ヶ所に別れています。  まずは、南側の公園のある墓地から見てみましょう。 入口には、「如己堂」や「この子を残して」で知られる被爆者 永井隆博士のお墓があります。 その奥には大きな樹木とグリーンの芝生に囲まれて、ロシア、フランス、ベトナムの人たちが眠るお墓が並んでいます。 石造りの立派な彫像や赤レンガで囲まれたお墓は、長崎との貿易などに尽力し祖国に帰ることができなかった人たちかもしれませんね。 たくさんの外国の人々が長崎で活躍していたことがわかります。  坂本国際墓地はさながら鎮魂のための庭園といったところでしょうか。 穏やかな時代が永遠でありますように・・・。  さて、道を渡って北側のお墓の門をくぐってみましょう。  階段を上がった奥に、長崎の観光地として有名なグラバー園ゆかりのトーマス・グラバーさんと、その息子の倉場富三郎さんのお墓があります。  春には見事な桜が咲き誇りますよ。 8日本二十六聖人殉教地 記念碑と記念館 十字架にかけられたキリシタンたち  1597年2月5日午前10時。 26人のキリシタンたちは、処刑地「西坂の丘」に到着しました。 京都・堺から約1,000キロ、およそ1ヶ月かかって歩いた道のりにピリオドが打たれました。  長崎の港に向かって一列に並べられた26本の十字架に、全員が縛りつけられました。 4,000人もの群衆が見物に集まったといいます。  「パライソ(天国)、イエス、マリア…」と叫びつつ、清らかな聖歌と祈りとともに、正午、26人は殉教を遂げました。  この日本での大殉教は、遠く海を越えて、ポルトガルやスペイン、メキシコをはじめ、イタリアや北ヨーロッパなどへも伝わり、大きな反響をよびました。 殉教から265年後の1862年、26人はローマで聖人に列せられました。 まだ日本では、キリスト教の信仰が認められていない時代、海外で日本二十六聖人が誕生したのです。 その後すぐの1865年、大浦の居留地に献堂された大浦天主堂は、二十六聖人に捧げられた教会で、西坂の丘に向かって建てられました。 旅人コメント 「西坂公園には、日本における布教の歴史を記した「日本史」の著者ルイス・フロイスの記念碑がありますよ。二十六聖人の記念碑の右側、芝生の上に発見です!フロイスは26人の殉教についても記録しており、その殉教の姿が海外に克明に伝えられたのは彼の報告のおかげでしょうね。」(コボリ) 9浦上街道ここに始まるの碑 長い巡礼の終着点  西坂公園の裏、ガウディ・スタイルのデザインが目を引く聖フィリッポ教会のある一角に、浦上街道の碑が建立されています。 長い巡礼の旅もこの碑で終点となります。  日本において増えていくキリシタンたちは、この1597年の26人の大殉教事件の前にも後にも厳しい迫害に苛まれました。 江戸時代に入ると、さらに厳しい禁教の時代へと突入します。  そして今、この殉教の地に立つとき、私たちが感じるのは死の苦しみではなく、殉教者の信仰と喜びのような気がします。 浦上街道を"キリシタン巡礼の道"としてたどる旅は、平和を願う祈りの歴史散歩となりました。 「旅する長崎学3 キリシタン文化3」 「旅する長崎学4 キリシタン文化4」 スタート地点までのアクセス 二十六聖人彼杵乗船の碑 所在 長崎県東彼杵郡東彼杵町蔵本郷(彼杵海水浴場) お問い合わせ 東彼杵町役場 TEL/0957-46-1111 リンク http://www.sonogi.jp/ アクセス 車…長崎自動車道<東彼杵IC>で下りて約5分。 JR…JR大村線<そのぎ駅>で下車し、徒歩で約20分。 バス…東彼杵町営バスの千綿線または大野原高原線で<町営バスセンター>を下車、もしくはJRバスで<公民館前>で下車、徒歩で約15分。 福岡から行く! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し<諫早駅>で下車(所要時間は約1時間30分)、JR大村線の[シーサイドライナー]に乗り換え<彼杵駅>で下車(所要時間は約30分)、徒歩で約20分。 東京・大阪・名古屋・沖縄から飛行機で行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大阪(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 各空港から<長崎空港>に着陸。バスで<大村駅>へ移動(約15分)。 JR大村線の[シーサイドライナー]に乗車し<彼杵駅>で下車し(所要時間は約19分)、徒歩で約20分。 長崎市から行く! 電車…<JR長崎駅>より[ シーサイドライナー]に乗車し<彼杵駅>で下車(所要時間は約1時間12分)、歩いて約20分。 車…長崎自動車道の出島道路から<東彼杵IC>で降りて(所要時間は約31分)、国道205号線の約300m先の左手にある「道の駅 彼杵の荘」を目指し、海岸の方へ歩いて約15分。 佐世保市から行く! 電車…<JR佐世保駅>より[シーサイドライナー]に乗車し<彼杵駅>で下車し、徒歩で約20分。 車…国道205号線を南下し、右手に見える「道の駅 彼杵の荘」を目指す。海岸の方へ歩いて約15分。 大村市から行く! 電車…<JR大村駅>より[シーサイドライナー]に乗車し<彼杵駅>で下車、徒歩で約20分。 車…長崎自動車道をご利用の場合は、<大村IC>に乗り<東彼杵IC>で下り(所要時間は約10分)、国道205号線を約300m先の左手にある「道の駅 彼杵の荘」を目指す。海岸の方向に歩いて約15分。 一般道をご利用の場合は、国道34号線を北上し東彼杵町の江頭交差点で国道205号線へと左折、約300m先の左手にある「道の駅 彼杵の荘」を目指す。海岸の方向に歩いて約15分。 *今回のコースは、車で移動する人は1からスタート(所用時間は1日)、バス&徒歩で楽しみたい人は2からスタート(所用時間は約4時間)、徒歩だけで楽しみたい人は3からスタート(所用時間は約3時間30分)することをオススメします。 いろんな方法で楽しんでください! ● 各出発点へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • そのぎ茶と茶々焼 2014年03月24日
    そのぎ茶と茶々焼
     東彼杵町(ひがしそのぎちょう)は、長崎県一の緑茶の産地です。  眼下に大村湾を一望する台地には、約400ヘクタールの茶畑が広がり、毎年県内の60%を占める750トンのお茶が生産され、「そのぎ茶」として販売されています。  道の駅そのぎの荘では、このそのぎ茶を、手軽に味わうことができるのです。  1個80円という価格で、そのぎ茶が練り込まれたあつあつの茶々焼は、今や人気商品として知られ、多くの人が購入しています。  また店内ではそのぎ茶も販売されており、一緒に購入して味わうとよりそのぎ茶の魅力を知ることができます。  15世紀に、釜炒りによる製茶法が西九州に伝えられると、各地で盛んに茶が生産されるようになりました。その後、元禄年間には、大村藩主の奨励によって、茶園の集団化で現在の基礎がつくられました。  また「そのぎ茶」は、約300年前来日したドイツ人医師ケンペル、約220年前に来日したスウェーデンの植物学者シュンベリー、さらに180年前に来日したドイツ人医師シーボルトのいわゆる出島三学者が、江戸参府のおりに、彼杵に宿泊し、見事な茶の栽培技術に驚嘆し広くヨーロッパにも紹介されたといわれます。  幕末の志士を援助したことでも知られている女性豪商大浦慶は、出島在留のオランダ人テキストルに茶の見本を託しました。3年後英国商オルトから巨額の注文を受け、九州一円から6トンのお茶を集めて輸出したと記録されています。この際にも、そのぎ茶が多く使われました。  この後お茶の輸出量は開港と共に増え、生糸と並ぶ日本の重要な輸出品目となっていきました。 道の駅 そのぎの荘 長崎県東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷747-2 TEL:0957-49-3311 【営業時間】 店舗・売店 7:00〜19:00 軽食 10:00〜17:00 体験施設、博物館・美術館 9:00〜17:00   関連URL: http://www.sonogi.jp/michinoeki.html
  • 陶芸の館 2014年03月26日
    陶芸の館
     波佐見焼は、1978年(昭和53)、日本の伝統的工芸品に指定されました。「伝統的工芸品」とは、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)」で定められているものです。 「的」とはどういうことでしょう? “工芸品の特長となっている原材料や技術・技法の主要な部分が今日まで継承されていて、さらに、その持ち味を維持しながらも、産業環境に適するように改良を加えたり、時代の需要に即した製品作りがされている工芸品”という意味が込められています。  同年、三川内焼も伝統的工芸品に指定されています。この伝統的工芸品・波佐見焼とはどのようなものでしょうか?  波佐見焼について詳しく資料を展示している「陶芸の館」にやってきました。早速館内へ入ってみましょう! 波佐見焼の歴史  1598年(慶長3)、豊臣秀吉の朝鮮出兵から帰国するの際に、大村藩主大村喜前(よしあき)が朝鮮より李祐慶(りゆうけい)らの陶工を連れ帰ってきました。陶工らは波佐見町村木の畑ノ原(はたのはら)、古皿屋(ふるさらや)、山似田(やまにた)の3ヶ所に登窯を築き、やきもの作りを始めました。これが波佐見焼の始まりです。白磁や染付、青磁などの磁器の生産も始まりました。  1630年代に入ると、肥前(現長崎県・佐賀県)では陶器生産から本格的な磁器生産へと移行します。波佐見では、白磁・染付も生産しましたが、草花などの文様を彫りだす青磁が多く製作されています。この頃には三股古窯(みつのまたこよう)や三股青磁(みつのまたせいじ)窯などが設置されました。1665年(寛文5)、藩主・大村純長(すみなが)は、三股に皿山役所を設け積極的に殖産政策を推し進めました。  1650年代には、中国での内乱によって中国産のやきものの海外輸出が中断し、中国にかわって日本のやきものが海外へ盛んに輸出されるようになりました。肥前一帯に注文が増えました。波佐見にも多くの窯が築かれ、生産技術も向上し、海外輸出用の大きな染付鉢や青磁皿を生産しました。 海外へ渡った波佐見焼「コンプラ瓶」  西洋や中国に開かれていた長崎から、東南アジアやヨーロッパへと輸出されたものの中には、波佐見で製作されたコンプラ瓶がありました。長崎の仲買がオランダ東インド会社を通じて輸出したものです。「仲買」をオランダ語で「コンプラドール」といいますが、そこから名付けられたといわれています。  醤油や酒を入れて輸出されていました。醤油瓶には「JAPANSCHZOYA (ヤバンセ・ソヤー:日本の醤油)、酒瓶には「JAPANSCHZAKY(ヤバンセ・サキー:日本の酒)と書かれており、独特な形はヨーロッパ人から愛され、1874年(明治7)まで生産されました。出島からも多くのコンプラ瓶が出土しています。  1690年代に入いると、海外向けから国内向けのやきものを多く生産するようになります。特に庶民が買える安価なやきもの作りが行われ、日本中に親しまれた「くらわんか茶碗」も大量に生産されました。  当時、やきものは積み出す港の名をとって「伊万里焼」、明治以降には出荷駅の名をとって「有田焼」として流通していたために、「波佐見焼」という名称が知られていませんでした。しかし染付磁器の生産量は日本一であったといわれ、18世紀以降の江戸時代の遺跡から出土する磁器の多くが波佐見焼であるといわれています。 「くらわんか」とは?  江戸時代には、大坂天満・京都間の淀川を往来する船に近づき、乗船客に「餅くらわんか」「酒くらわんか」などと声をかけ、飲食の商売をしている茶船がありました。掛け声から、くらわんか舟とも呼ばれていましたが、この小舟には火床が備えられ、餅や酒、煮炊きをした料理を器に盛って販売していました。これらの器の多くが波佐見で生産されたもので「くらわんか手」とも呼ばれました。植物をはじめ動物や自然、風景、幾何文様のものが多く、大坂・江戸を中心に全国津々浦々へ運ばれ、庶民の間で親しまれました。安価な磁器であったため、波佐見の磁器は庶民に広まり、日本の食文化の歴史にも関わっています。 明治以降の波佐見焼  明治に入り、皿山役所が廃止されると、藩の保護がなくなり、窯元やそこで働く人々は困難な道を歩むことになりました。しかし窯元同士協力しあい苦労を重ねながらも新しい技術を導入し、発展し続けました。  この頃には様々な改革がなされました。天草陶石が使用されるようになり、安定した品質の高いやきものが製作されるようになりました。陶石粉砕は、それまでの唐臼から水車へと変わりました。その後電力の利用による陶土製造がはじまり、蹴りロクロでの成形へと変化し、動力ロクロも登場するようになりました。下絵具においては、合成呉須(人工コバルト)が使われはじめ、また銅板転写も導入されました。1915年(大正4)には石灰窯が初めて導入され、燃料として石炭が使用されるようになります。この頃には石膏型による鋳込(いこみ)成形が登場し、袋物の量産が可能となります。ゴム版による絵付も始まりました。  昭和に入ると、機械ロクロが登場し、さらに大量生産が可能となりました。 現在の波佐見焼  江戸時代、それまで庶民の手が届かないと思われていた磁器碗を、「くらわんか茶碗」などで手頃な価格にし、庶民の人気を得て、日本の食文化の発展にも影響を与えました。  毎日の暮らしの中で、“使えて、手軽でしかも良質な器”を消費者のニーズに合わせて提案する姿勢は、現在でも変わりません。その時代の人々のさまざまな暮らしにあわせて変化し、使われ、愛される陶磁器を製作するため、常に新しい技術に取り組んでいます。 さらに波佐見焼を楽しむには  波佐見町では、自分だけの器を作る体験だけでなく、農業やお酒作り、そば作りなどの体験とを組み合わせた滞在プランが充実しています。このことによってより生活に身近である器に関わることができます。  年間を通じてイベントも多く、様々な内容が盛り合わされています。 代表的なイベント ●中尾山 桜陶祭(おうとうさい)  毎年4月第1土日には、普段は見ることの出来ない陶郷中尾山の窯元17社が一般に開放され、 焼きものの直売が行われます。また桜や波佐見ののどかな風景を眺めながら歩く窯元ウォークラリーも実施されます。 ●波佐見陶器まつり  毎年4月29日〜5月5日は、20万人もの観光客と焼きものファンで賑わい、値段交渉の声がお祭り気分を盛り上げます。陶芸の館では、波佐見焼の歴史をたどり陶芸体験もできます。  8月には、各地区で江戸時代から続いている浮立や皿山人形浄瑠璃公演、はさみ夏まつりなどが行われます。 ●鬼木棚田まつり  案山子コンテストをはじめ、波佐見町ならではのイベントが多数開催されます。 ●はさみ炎まつり  11月には、農産物や波佐見焼の販売が行われ、500円で器を購入いただくと、郷土料理を召し上がっていただくという満足いっぱいのイベントが開催されます。絵付け体験やロクロ鋳込み体験コーナーも行われます。 ●皿山「器替まつり」  12月には「環境にやさしい」をテーマにした「器替まつり」が開催されます。ご自宅にある不用の器を持っていくと各店にてお好きな器を各店1点を定価の5割引きで購入し、交換できるというものです。御持ちいただいた器は、エコスタイルとして生まれ変わるというから面白いイベントです。  5月下旬に酒米田植えを行い、10月下旬に稲を刈り、自分だけのお酒と酒器を作るという数ヶ月に渡って完成する贅沢な体験があります。波佐見町では、毎月何かしら参加できるイベントがたくさんあり、やきもの作りに気軽に参加することができるのです。  また陶芸の館「くらわん館」や中尾山伝習館をはじめ、波佐見町内の様々な会場で、随時ろくろや手びねりでイチから自分の手で作る本格陶芸や絵付け体験、やきものの窯を利用したピザ焼き、石窯料理、パン作り体験が体験できます。  さらに今後は、地元観光会社の協力を得て、博多駅を発着とした2泊3日の体験滞在ツアーや日帰りツアーをはじめ5種類のツアーが開催される予定です。四季を通して開催される予定ですので、波佐見観光協会の公式サイトをチェックしていてくださいね。 陶芸の館 観光交流センター 〒859-3711 長崎県東彼杵郡波佐見町井石郷2255-2 ・波佐見町観光協会  TEL:0956-85-2290 FAX:0956-85-2856 ・波佐見焼振興会  TEL:0956-85-2214 FAX:0956-85-2856 ・くらわん館  TEL:0956-26-7162 FAX:0956-26-7163   【開館時間】9:00〜17:00 【休館日】1月1日のみ ※資料展示コーナーは入館料無料です ※団体見学や絵付け・ロクロ体験ご希望の方は、一週間前までに電話・FAXでお申し込みください。 ※絵付け・ロクロ体験は有料です   URL: http://www.hasami-kankou.jp/
  • 東彼杵町歴史民俗資料館 2014年03月26日
    東彼杵町歴史民俗資料館
     東彼杵町歴史民俗資料館は、長崎自動車道/東そのぎICで降りてすぐのところで、国道205号を佐世保市へ向かって走ると、1分もしないうちに左側に長崎県内でも代表的な前方後円墳・ひさご塚古墳が目に入ります。この古墳を見守るように資料館が建っています。東彼杵町は、長崎に入って来た西洋や中国の文化が大坂・江戸へ向けて伝えられていく道「長崎街道」の宿場町として、そして「平戸街道」の起点となる場所としてたくさんの人と文化が集まる地域でした。どんな歴史があるのか楽しみですね、早速その歴史を見に行ってみよう! 1階企画展スペース  館内1階は東彼杵町民参加型の企画展示スペースです。現在は「ひなまつり」が開催され、町民の方々がお持ちのひな人形がずらりと並んでいます。このひなまつりは、4月3日まで開催されています。定期的に面白い企画展が催されますので、楽しみのひとつですね。1階の企画展は無料です。お気軽にお入りください。 2階歴史館  2階には歴史館と文化館の2つの展示スペースが設置されています。  歴史館は、旧石器時代から大村湾岸地域の中心として栄えた弥生・古墳時代、そして深沢儀大夫の捕鯨や大規模な新田開発が行われた江戸時代までの歴史、そして長崎県を代表するお茶のひとつ「そのぎ茶」の資料が展示されています。  国道からも見えるひさご塚古墳から出土した遺物も見ることができます。ひさご塚古墳の「ひさご」という名称は、前方後円墳が「ひょうたん(ひさご)」の形に似ていることから名付けられたそうです。今から約1500年前にこの地域を治めていた豪族で、神功皇后の三韓征伐の際には、武内宿禰(たけのうちすくね)の配下として従軍した武将の墓であるといわれています。  1914年(大正3)に茶園を開き、茶樹の栽培と製茶法の改良に取り組んだ野田卯太郎(うたろう)や赤木原を開拓して茶園を造った中島栄(さかえ)などそのぎ茶の発展を支えてきた人々もパネルで紹介されています。1859年(安政5)の開国により、茶は貿易品となりました。長崎の大浦慶は、千綿(ちわた)宿の土肥家と取引をしていたといわれています。4月中頃から5月いっぱいにかけてそのぎ茶の品評会やイベントが多数開催されますので、チェックしていてくださいね。  また大村氏領であったため、キリシタン文化も切り離すことはできません。町内にもキリシタン墓碑があります。1596年(慶長元)に起こったサン・フェリペ号事件の翌年に長崎西坂の丘で処刑された26人は、彼杵浦から船に乗って時津(とぎつ)へ向かい、そして西坂へと歩き出しました。26人が船に乗ったといわれる彼杵浦には、日本26聖人船出の碑が建立されています。近くにありますので、散策がてら寄ってみてください。 2階文化館  東彼杵町は、江戸時代には長崎街道や平戸街道の宿場町として大いに賑わいました。文化館に入ると、当時庶民の旅行許可と身分証明を兼ねた通行手形などをはじめ、彼杵宿本陣に関する資料が展示されています。  今から約200年前に千綿宿で始まったといわれる千綿人形浄瑠璃も紹介されています。明治・大正の頃は大変盛んで、地元水神宮の祇園祭で上演され、各地を巡業していました。現在は地元中学校のクラブ活動にも取り入れられており、長崎県の無形民俗文化財にも指定されています。 明治の民家  資料館のそばには、明治時代の民家が建っています。明治時代に町内中岳郷に建てられた富農家の母屋部分を移築したもので、内部の構造は日本の古い農家の様式を留めています。建物の中には当時使われていた生活用具や農具などが数多く展示されています。この民家でも企画展示が行われることがありますので、気がけてのぞいてみてくださいね。    長崎街道の宿場町であり、また平戸街道の起点でもありましたので、たくさんの商人や武士たちで賑わいました。江戸時代初めから明治にかけての数百年間は、捕鯨と鯨肉取引の中心地としても栄え、ここに陸揚げされた鯨が九州各地へと送られていました。  現在は長崎自動車道が通り、国道205号で平戸へと続き交通の面でも昔と同じで便利な地です。そして2002年(平成14)には、隣に道の駅「彼杵(そのぎ)の荘(しょう)」がオープンし、家族や友達同士のグループなど多くの人出で賑わっています。新しい歴史と文化の交流スポットとしても期待できますね。 東彼杵町歴史民俗資料館 ◎入館料 【個人】  大人200円、小中学生100円 【団体10名以上】  大人100円、小中学生50円     ◎開館時間 9:00〜17:00(入館16:30まで) ◎休館日 毎週火曜日、年末年始(12月28日〜1月5日)   〒859-3807 長崎県東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷430番地5 TEL:0957-46-1632 URL: http://www.sonogi.jp/rekiminkan.html