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  • 五島藩2 2014年03月28日
    五島藩2
    ■ 富江領の成立 前回の「五島藩・第1回」の中でも少し触れた富江領の成立について、もう少し詳しくご紹介しておきましょう。 五島藩では、1654年(承応3)に五島盛次(もりつぎ)が3代藩主として盛利の跡を継ぎますが、翌年(明暦元)江戸で急死してしまいます。盛次の嫡子・万吉はまだ11歳と幼かったため、幕府は後継者の収拾策として、叔父である盛清を後見役とし、五島家を存続させる方針をとりました。 盛清は、万吉の後見役として入部し、このとき五島領内において3,000石分知の許しがあったのではないかという説もあります。 万吉は1660年(万治3)に元服して盛勝を名乗ります。後見役を解かれた盛清は、旗本になる運動を展開し、1662年(寛文2)には富江分知が完了。盛清は、富江を城下として青方(あおかた)、魚目(うおのめ)、北魚目、宇久島の一部、神浦(こうのうら)、飯良(いいら)、椛島、福江島の黒島を領有することとなりました。 盛清以降、2代目の盛朗(もりよし)は成章館を創設し、6代の運竜(ゆきたつ)は11代将軍・徳川家斉(いえなり)の大番頭をつとめました。盛運の時代には、海産物の運上金も上がり、領民の生活はとても豊かだったといわれています。また、7代盛貫(もりつら)は徳川家の一門・津山家出身で、14代将軍・徳川家茂(いえもち)の侍役をつとめています。 有川と魚目の海境論争 鯨見山から見た風景 五島列島の地図を見るとよくわかりますが、有川(五島藩)と魚目(富江領)は、有川湾をへだてて南北に相対する漁村です。有川湾は、鯨を追い込むのに適しており、有川村名主・江口甚左衛門正明(じんざえもんまさあき)は、紀州古座浦の三郎太郎と鯨組を組織し、鯨漁をおこなっていました。 江口甚右衛門正利之像 しかし富江領が分立したことから、魚目村は富江領に属することになり、有川湾のほとんどが富江領のものとなりました。さらに富江領は大村藩の深沢義太夫に15年間の捕鯨権を与えてしまいます。有川湾の漁業権を失うということは、有川村にとって死活問題でした。論争は絶えず、江口甚左衛門正明の跡を継いだ甚右衛門正利は、ついに江戸公訴を決意します。甚右衛門正利は、江戸へ何度も上京しました。 幕府は、有川・魚目双方の話をきき、1689年(元禄2)、1690年(元禄3)と2度にわたり、魚目側の主張を退け、有川側に海の権利を公認しました。 その後1771年(明和8)から1817(年文化14)の約40年にわたった第2回海境論争では、有川側、魚目側の海岸はそれぞれの権利で、沖はどちらでも勝手にとってよいという内容に決まりました。しかし、海境争いを繰り返している間に、鯨漁はしだいに衰退の一途を辿ります。 鯨見山にある山見小屋 鯨供養碑   成章館 五島藩では、8代藩主・五島盛運(もりゆき)が江戸藩邸にて、永富独嘯庵(どくしょうあん)に儒学を学んだことをきっかけとして、1781年(天明元)、石田陣屋内に藩校・至善堂を創設しました。 富江領では、2代・盛朗(もりよし)が五島藩よりも早く、1688年(元禄元)に成章館(せいしょうかん)を設立しました。1803年(享和3)に6代・運竜は成章館を移転拡張し、1845年(弘化2)には7代・盛貫がさらに規模を拡張しながら自ら講義をおこなったといいます。 成章館では、主に、読み、書、算、武術を教えていました。家老や文学に長けたものが総裁となり、武士の中でも学力あるものは教師となっていたそうです。 また7代の盛貫は、異国船方在役を命じられていたこともあり、武術の鍛錬も厳しかったといわれ、砲術の研究家として当時は名を知られていたそうです。   潮合崎(しおやざき)騒動 龍馬ゆかりの地 1866年(慶応2)5月2日未明、江ノ浜潮合崎(しおやざき)でワイルウェフ号が遭難し、船将である高泉十兵衛ら12人が溺死するという事故が起こりました。 1865年(慶応元)、坂本龍馬が薩摩藩や長崎商人の援助を受け、神戸海軍操練所の塾生たちとともに、日本初の商社を長崎・亀山の地に設立しました。ワイルウェフ号は、亀山社中が海運業で商売をするため、龍馬たちが薩摩藩の支援によってやっと手に入れた洋式帆船でした。 1866年(慶応2)4月28 日、ワイルウェフ号は長崎を出港し、薩摩を目指しましたが、途中大暴風雨に遭って漂流し、5月2日暁、潮合崎で暗礁に乗り上げ転覆したのです。乗組員4人を除いて他は死亡しました。この事故はただちに福江藩庁、薩摩長崎屋敷に報告されました。   両藩の役人は現地入りして遺体の収容などにあたり、遭難者埋葬し供養しました。龍馬は、同志の霊を弔うため、資金を添えて建碑を依頼したといいます。この騒動で龍馬は、同郷の仲間でもあった池内蔵太(いけくらた)を失いました。墓碑は、ワイルウェフ号が遭難した潮合崎を望む広場から歩いて5、6分の江ノ浜集落の中にあります。 広場は公園になっており、「龍馬ゆかりの地」と記された石碑とともに、同型帆船の写真やかじとり棒と推定される原寸大の模型が設置されています。実物は、近くの民宿で展示されています。   富江騒動 幕末は、勤王と佐幕に分かれて争っていた時代でした。 そんななか、五島藩は、藩主・五島盛徳(もりのり)が1863年(文久3)に京都御所にて忠誠を誓い、勤王派として積極的に活動しました。1868年(明治元)には進んで版籍奉還を上願し、京都御所の守備にあたりました。また1870年(明治3)の東京遷都の際には一小隊を送って警固にあたっています。 富江領では、8代目領主に奥州植田藩主溝口直景の弟・銑之丞を養子として迎えます。銑之丞は名を盛明と改め、将軍家茂に謁見し、富江領主となりました。7代・盛貫は将軍家茂と血のつながりがあり、8代・盛明は奥州植田の出身であったので、富江領は当然外部からは佐幕派とみられていました。盛明は、1868年(慶応4)に京都へ赴き、本領安堵の御朱印を貰いましたが、その後朝廷での審議により、富江領3000石を五島藩に合藩するということが決定しました。 この合藩に反対したのは、富江領主や重臣たちだけでなく、領民たちも同じでした。宇久や魚目、椛島の領民たちは次々と富江に集まり、15歳以上の男子は竹槍を持って警備にあたるなど、合藩反対運動は予想以上に大きなものとなりました。五島藩関係者を襲撃したり、家などを焼き討ちしたりと暴徒化した領民もいたといわれています。 慌てた五島藩は、藩役人を富江領近くへ出張させ、30名ほどに武装させ、海上には監視船を出させました。さらに町人たちも武器として棒などを持ち、富江領からの攻撃に備えたといいます。五島藩、富江領、双方ともに戦う体制が整い、緊迫した状況となっていました。 しかし、双方とも攻めかける企図はなく、戦うことはありませんでした。富江領今利家老は、五島藩の要請もあって単身で福江城へと登城し、五島藩の重臣たちと事態収拾の話し合いをおこないます。富江に戻った今利家老は、領主・盛明へ報告し、翌日、盛明が重臣たちを陣屋に集めて下る訓諭をしたため、富江側の一揆は鎮静化しました。 この騒動の件は長崎役所にも届き、富江家老2名が出頭することとなりました。当時の長崎府には、長州藩からの出仕役・参謀であった井上聞多(馨)がおり、この騒動を引見しました。井上は富江領に同情的で、辛抱するよう諭したといいます。この富江騒動は、単に富江の一揆という問題ではなく、長崎府ひいては全国的な地方治安に関する大きな問題だと認識されました。 井上は、実情を把握するため、薬師寺久左衛門と高松清一とともに五島へ渡っています。井上は盛明と対談し、宣撫訓諭するところが見受けられ、今後謹慎を誓ったので安心して福江に引き上げました。井上に随行していた薬師寺と高松の2名は、善後策のため富江領地を視察し、領内宣撫に努めました。しかし、有川と長い期間をかけて海境論争を展開してきた魚目の領民をなかなか説得できず、手を焼いたといいます。 旧領回復をあきらめきれない富江領は、新政府に復領嘆願を行います。しかし、1869年(明治2)、検分に訪れた明治政府監察使・渡辺昇(のぼり)が、今利家老をはじめ藩士一同を集め、朝命遵守を訓諭したため、復領嘆願も功を奏しませんでした。 現在の富江小学校付近に富江陣屋が築かれたといいます 盛明は家臣を率いて上京し、復領嘆願に尽力しました。朝廷は実情やむなしと判断し、富江に代替地として北海道後志国磯谷郡に1000石の復領地を用意しました。しかしその後盛明は中太夫の称号を廃され、士族となり禄制も改められました。これでは富江領家臣200余名を養っていくことは出来ません。ここで五島盛清以来、領主8代続いた富江領は、解散することとなりました。 この一連の騒動を「富江騒動」とよんでいます。 五島のキリシタンと信徒発見〜信徒発見と五島のキリシタン 大浦天主堂 1863年(文久3)、パリ外国宣教会のフューレ神父は、長崎の大浦居留地で教会の建築に着手しました。翌年、プチジャン神父によって完成した大浦天主堂は、「日本二十六殉教者教会」と命名されました。当時の日本人は、この美しくめずらしい教会を「フランス寺」とよび、大勢の市民が建築中から見物に押し寄せたといいます。しかし、当時の幕府が信仰の自由を認めていたのは居留地の外国人だけで、日本人はまだキリシタン禁制の時代でした。 教会の正面には、プチジャン神父らの意向によって、漢字で「天主堂」の三文字が記されました。この文字には、潜伏中の日本人キリシタンを探し出したいという強い思いが込められていたそうです。大浦天主堂のことは、これまでひそかにキリスト教の教えを守り貫いてきた浦上村の潜伏キリシタンたちに伝わりました。意を決した男女十数名が命がけでフランス寺へ向かい、プチジャン神父に自分たちはキリシタンであることを打ち明けました。この出来事は「信徒発見」とよばれ、キリスト教史上の奇跡ともいわれています。 上五島の若松島・桐古(きりふる)に住んでいたガスパル与作は、フランス寺が教会であることを知り、父親の許しを得て、大浦天主堂で教理を学び、伝道師となりました。この話は下五島の久賀島にも伝わり、島のかくれキリシタンたちのまとめ役であった帳方(ちょうかた)の栄八と水方(みずかた)の善太も長崎へ赴き、カトリックの洗礼を受けました。1869年(明治2)には伊勢松、善五郎の二人も長崎へ行きましたが、長崎港福田で役人に捕らえられます。メダイを所持していたために嫌疑がかかり、五島住民であることを自白したので、五島藩に送り返されてしまいました。 頭ケ島教会 また上五島の頭ケ島には、上五島随一のキリシタン頭目・ドミンゴ松次郎がいました。父の代に黒崎村出津から鯛之浦に移住し、紺屋として成功しました。のちに頭ケ島に移って、自分の家を仮聖堂とし、青年たちに教理を教えていたといいます。この仮聖堂が「花の御堂」といわれる頭ケ島教会のはじまりといわれています。 久賀島(ひさかじま)での迫害から全島へ 1866年(慶応2)、久賀島。神仏を棄て、キリシタンとして生活したいと代官に申し出た信者23人が捕らえられ、福江の牢へ送られました。しかしこのとき、五島藩では富江騒動が起きたため、23人は久賀島に戻され、キリシタン200人とともに、わずか6坪の牢屋に押し込められました。入牢者の中には乳児もいました。 牢では立ったまま身動きができず、多くはせり上げられた状態で、地に足がついていなかったといわれています。朝夕にサツマイモ1切れずつを与えられるだけだったといいます。衛生状態も悪く、老人や子どもたちをはじめ、次々と命を落としていきました。約8ヶ月の入牢生活で死者は39人、牢から解放された後にも3人が息をひきとったそうです。 プチジャン神父はこの惨状をフランス公使ウートレーに訴えました。外交問題にまで発展したため、外務卿の伊達宗城(むねき)は五島盛徳に対し、領民の中にキリシタンがいてもその処置は長崎府に任せるよう警告したといわれています。 久賀島の牢跡は、「牢屋の窄(さこ)」として、現在も久賀島に記念碑と聖堂が建っています。 また、信徒発見後に信仰を公にした福江島・楠原でも迫害がおこなわれます。1868年(明治元)のクリスマスの晩に水ノ浦、まもなく楠原にも迫害が及びました。33名が楠原の仮牢屋に押し込められ、その後水ノ浦牢に移され、1871年(明治4)に釈放されるまで拷問を受けたといいます。 キリシタンの迫害は五島全島に及びました。 楠原教会 楠原の仮牢屋跡 捕らえられたキリシタンのほとんどは、そろばんのように凹凸のある板を正座した足の上に乗せられ、重さを増やしていく算木(さんぎ)責めという拷問などで棄教を迫られました。また「郷責め」といって、地元住民たちによる迫害が激しかった地域もありました。キリシタンたちを大きな柱に縛りつけ、割れ木や青竹で殴ったり、家財や食料などを奪うこともあったといいます。 1870年(明治3)、上五島の鷹巣(たかのす)では、4人の郷士が新刀の試し斬りと称して、キリシタンの家に押しかけ、妊婦を含む6人を殺害するという事件が発生しました。加害者の郷士4人は長い入牢生活の後、切腹を命ぜられました。この4人の切腹によって、五島でのキリシタン迫害は終息したといわれています。 頭ケ島教会内部 青砂ケ浦教会内部 キリスト教の五島列島への伝来は16世紀です。厳しい弾圧によっていったんキリスト教は途絶えましたが、新たに外海地方から信徒が海を渡り、五島で密かに信仰を守り続けました。 禁教が解かれた後、五島の地においても、信徒たちの手によって教会堂が建設されました。現在、長崎県内には全国のおよそ1割を占める130を超える教会堂がありますが、そのうちの40%が五島列島に集中しています。なかには明治から昭和初期にかけて建築された教会堂もあり、50数棟が現存しています。 五島の教会堂にスポットをあててみると、上五島にある頭ケ島教会や青砂ケ浦教会、下五島・久賀島にある旧五輪教会は、国の重要文化財に指定されています。また、世界遺産登録をめざす「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」※の資産候補となっています。 ※文化庁が国連教育科学文化機関ユネスコへ提出する世界文化遺産の国内候補暫定リストに、2007年(平成19)に掲載されています。 近年、癒しと安らぎを求めて“教会巡礼”に訪れる人も増えているようです。 建材や構造も教会によって異なるので、教会ひとつひとつに見応えがあり、かつその空間の中に安らぎを感じることができるのですが、想像を絶するキリスト教信徒への弾圧・迫害の歴史と、それでも受け継がれて現在も生きるその信仰心や祈る姿にも目を向けると、より一層感慨深いものがあります。 参考資料 旅する長崎学4 キリシタン文化IV『 「マリア像」が見た奇跡の長崎 』 旅する長崎学5 キリシタン文化V『 教会と学校が長崎の歴史を語る 』 旅する長崎学13 海の道III 五島列島『 海原のジャンクション 癒しの島々をめぐる 』 富江町郷土誌(平成16年2月発行) 「海鳴りの五島史」(郡家真一著 佐藤今朝夫発行) 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 歴史散策「富江陣屋跡」 1662年(寛文2)、五島盛清は、現在の富江小学校から富江中学校にかけて富江陣屋を築いたといわれています。 写真は、富江小学校運動場前です。 富江陣屋石蔵跡 富江領の石蔵跡。350年ほど経っても頑丈に残っているこの石蔵は、貴重な遺構の1つです。穀物を保存するために使われていました。 富江から見る鬼岳 富江町にある温泉センター近くから鬼岳がきれいに見えます。透明な海、澄んだ空・・・。島らしい自然を満喫できます。   ●富江の珊瑚 富江の特産品のひとつに「富江珊瑚」があります。1886年(明治19)、大分県の網漁師により、男女群島沖合で赤色の珊瑚が採取されたのが始まりといわれています。大正中期には、採取・加工はますます盛んになり、緻密な平面掘りに工夫を加えた「五島掘り」の技術が確立されました。 富江陣屋跡から福江港へ向かって徒歩10〜15分程度のところにある出口珊瑚では、彫刻法の技術を引き継いできた職人さんの仕事ぶりを見学できます。詳しくは こちら をごらんください。   周辺散策地図 富江小学校 富江中学校 鬼岳 出口珊瑚
  • 五島藩 2014年03月28日
    五島藩
    五島藩(福江藩)は、1603年(慶長8)に五島玄雅(ごとう はるまさ)が徳川家康に謁し、1万5千石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まります。1869年(明治2)の版籍奉還まで、長崎県の五島列島(小値賀島を除く)を五島氏が治めました。 五島藩を知るには、五島氏の歴史を知る必要があります。ちょっとさかのぼって鎌倉時代の五島列島から見ていきましょう! 宇久氏 五島列島の上に位置する「宇久島」。この島には、鎌倉時代、宇久氏がいました。当時宇久島の南にある「小値賀島」では松浦氏と藤原氏が争っていましたが、宇久氏が徐々に南下し、中通島へ勢力を広げていきました。1383年(永徳3)頃、宇久覚(さとる)は、宇久島から福江島の鬼宿(現在の岐宿:きしく)に移り、福江島の在地勢力との間で契諾状を交わし、平和的に領土を拡大していきます。1388年(嘉慶2)には宇久勝(すぐる)が岐宿から深江(現在の福江)に移り辰ノ口城を築き、1413年(応永20)には小値賀島を除く五島列島を統一したといいます。 玉之浦納(たまのうらおさむ)の乱、宇久氏から五島氏へ 1507年(永正4)、宇久囲(かこむ)が、妹婿の玉之浦納の反逆によって命を落とし、辰ノ口城は焼失しました。妻子はなんとか平戸に逃れ、その後1521年(大永元)に囲の子・三郎(のちの宇久盛定)が玉之浦納を討ち、再興を果たします。 1526年(大永6)、領主となった盛定は、あらたに深江(福江)川河口の丘に江川城を築き、近くには中国人倭冦の頭・王直(おうちょく)に「唐人町」を開かせたといいます。福江川付近には、唐人町の名残りとして「明人堂」や「六角井戸」が史跡として今も残っています。 1592年(文禄元)には、宇久純玄(すみはる)が、姓を「宇久」から「五島」に改めました。豊臣秀吉の朝鮮出兵や天下分け目の関ヶ原の戦いなどを得て、五島玄雅(はるまさ)が五島藩初代藩主となり、世の中の動きに翻弄されつつもその歴史を刻んでいきます。 明人堂 六角井戸 五島におけるキリスト教 宇久盛定の後継・純定(すみさだ)は病に伏し、1562年(永禄5)、イエズス会に要請して派遣されてきた日本人医師ディエゴの治療を受けました。その後、純定はシャム(タイ)から五島経由で平戸に入るポルトガル船に宣教師派遣を頼み、1566年(永禄9)にポルトガル人修道士アルメイダと日本人修道士ロレンソを迎え入れたといわれています。医師でもあったアルメイダは純定の高熱の治療をおこなって信頼を得ると、五島での宣教を許されました。こうして五島におけるキリスト教の歩みが始まります。 その後信徒の数は増え、純定の次男・純尭(すみたか)は洗礼を受け、1576年(天正4)に領主となると熱心に信仰しました。福江や奥浦(おくうら)、六方(むかた)に教会が建ち、信徒は2000人を越え最盛期を迎えます。 しかし、純尭がわずか3年で没すると、後継の純玄(すみはる:純定の孫)は、キリスト教を排斥しました。純玄が朝鮮出兵で死亡すると、純定の三男でキリシタンの五島玄雅(はるまさ)が跡を継ぎ、いったんはキリスト教も再興しますが、関ヶ原の戦い後、加藤清正らの勧めによって棄教しました。その後も宣教師たちは来島していましたが、1614年(慶長18)に発令された徳川幕府の禁教令を受け、後継の五島盛利は宣教師を追放し、弾圧を強化しました。 福江直り 五島藩の2代藩主・五島盛利(もりとし)は、初代藩主・玄雅(はるまさ)の養子として跡を継ぎます。1619年(元和5)に玄雅の息子・角右衛門の養子であった大浜主水(おおはまもんど)が、後継者としての権利を主張するとともに盛利の失政を幕府に直訴しました【大浜主水事件】。この事件を機に、五島藩は藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築いていきます。兵農分離を徹底し、全島から家臣たちを集めて福江城下へ移住することを強制しました。島の各地で勢力をたくわえる者がでないようとおこなわれた城下定住の政策は、「福江直り(ふくえなおり)」とよばれ、1634年(寛永11)に完了します。また、領内の検地を実施し、家臣たちの知行高を決定して、藩財政の立て直しもおこないました。 「三年奉公」制度 五島盛利の時代までは、朝鮮半島に歳約船2艘を送るなど、海外貿易で利益を得ており、財政は比較的豊かであったといいます。しかし1614年(慶長19)、五島藩の自由貿易港である江川口と唐船之浦(とうせんのうら)の二港が閉鎖されると藩財政はひっ迫してきました。 さらに4代藩主・五島盛勝(もりかつ)の時代には叔父・盛清(もりきよ)が3,000石を持って富江に分知し、五島藩から分かれたことも経済的に大打撃を受けました。捕鯨で一時は潤ったものの、捕鯨の衰退や異国船に対する沿岸防備役として課せられた軍役負担、異国船漂着時の取り調べや長崎への曳航費用の負担、1681年(天和元)から寛保、宝暦と続いた飢饉などによって、財政はどんどん苦しくなりました。 財政の立て直しを図るため、質素倹約に努め、知行の一部を返上させたり役人の数を減らしたりもしましたが、それでも足りず、1761年(宝暦11)、7代藩主・盛道(もりみち)のとき、五島史上悪政のひとつといわれる「三年奉公(ぼうこう)」が実施されました。 富江陣屋跡 五島盛清は、富江小学校の運動場あたりに富江陣屋を築いたといいます。 三年奉公は、百姓、町人の娘が2度離別されると、武家屋敷で3年間の無報酬奉公をさせるというもの。しかし2年後には、百姓、町人、職人、漁師の長女を除く娘たちはすべて、15、6歳になると家中奉公をさせられるようになり、半奴隷的な労働を課せられたといいます。そのうえ無調法があれば、結婚することに対してまで制裁がなされていたといいます。驚くことにこの制度は、明治初期まで約100年間続きました。 五島観光歴史資料館 五島におけるキリシタン関連の資料が揃っています。 1774年(安永4)、五島藩では人別改めがおこなわれました。その結果、百姓が激減していることがわかり、1792年(寛政9)、8代藩主・五島盛運(もりゆき)は大村藩に農民移住を要請しました。第一陣は福江島の六方(むかた)に108人が上陸、最終的には3,000人ほどが海を渡って、宇久島を除く五島列島各地に分散して移住したといいます。この移住者のほとんどが西彼半島(せいひはんとう)西側の外海(そとめ)の人々で、信仰保持の苦難に悩んでいたキリシタンでした。移住者たちは荒地を開墾しながら小さな集落をつくり、帳方・水方などの組織のもと、ひそかにキリスト教の教えを守り続け、その信仰を貫いていきました。 五島藩校・育英館 五島藩の教育は、8代藩主・五島盛運(もりゆき)の時に始まりました。盛運は江戸藩邸に居た当時、儒者・永富独嘯庵(どくしょうあん)に付いて儒学を学びました。盛運は、石田陣屋(のちの石田城)内の一角に藩校・至善堂を創設し、1780年(安永9)には独嘯庵の子・数馬を教授として福江に招きました。1783年(天明3)、全藩士に文武両道を奨励し、盛運自らも出席していたといいます。 1821年(文政4)、9代藩主・五島盛繁(もりしげ)のとき、城下東町に新たに校舎と演武場が建てられ、藩校は発展していきます。名称も至善堂から育英館と改められました。 1849年(嘉永2)には10代藩主・五島盛成(もりあきら)が新たに石田城を築いたため、城内北部に藩校を移しました。 育英館では漢字の修学が重視されました。和学、兵学、そして幕末期には算術も加えられました。生徒の主体は藩士の子弟で、7〜8歳になると入学させられました。足軽などの子弟は各自の意思により入学ができました。農工商の子弟は、ほとんど入学することはありませんでしたが、特に希望する者は入学が許可され、優秀であればその身一代のあいだ藩士として挙用し、米なども若干支給されたといいます。 次回の「歴史発見!長崎幕末編」五島藩の2回目では、富江領と幕末に起こった「富江騒動」、「信徒発見後のキリシタン」を中心に紹介していきます。 参考資料 旅する長崎学13 海の道III『 五島列島 万葉と祈りの道 』 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 「海鳴りの五島史」(郡家真一著 佐藤今朝夫発行) 歴史散策「石田城(福江城)跡周辺」 五島列島には、多くの異国船の接近や漂着がありました。長崎港での貿易を許されていたオランダと中国の船はもちろんのこと、イギリスやロシア、さらには朝鮮の船など多くの外国船の記録が残されています。五島藩は幕府から異国船方を命じられていましたが、1614年(慶長19)に江川城が焼失した後、本丸・天守閣などがない石田陣屋を築いただけでした。異国警備にあたる五島藩としては心もとなく、再三にわたり幕府に築城の許可を願いでていましたがなかなか許されませんでした。 寛政年間から幕末にかけて、ロシア、アメリカ、イギリスなどの列強国が来航し、鎖国政策をとっていた日本に開国を迫るようになります。さらに1808年(文化5)には、イギリス軍艦が長崎港に侵入し、オランダ人を拉致し、当時の長崎奉行が責任を取って切腹するというフェートン号事件が起きました。こうした情勢により、幕府は1849年(嘉永2)、五島藩に築城許可を与えました。石田城は、日本で最後に築城された城となりました。 石田城(福江城)跡 15年の歳月をかけて、三方を海に囲まれた海城・石田城は完成しました。しかしながら、日本はその後すぐに明治維新を迎え、石田城はわずか築城9年にして解体されてしまいます。現在は、本丸跡に県立五島高等学校、二の丸跡には五島家の祖を祀る城山神社をはじめ、文化会館、五島観光歴史資料館、市立図書館が建ち並んでいます。 五島氏庭園・心字が池 石田城完成間近に五島盛成が隠殿と庭園を造りました。庭園を造ったのは京都の僧・全正(ぜんしょう)といわれています。 本丸跡 石田城の本丸跡には、現在五島高校があります。 城山神社 五島家の氏神を祀っている神社です。 武家屋敷通り 石田城から歩いて10分ほどのところに武家屋敷通りがあります。2代藩主・五島盛利が中央集権体制をめざして各地に散在していた豪族や藩士を福江に住まわせた政策、「福江直り」の時につくられました。通りには市の文化財に指定されている松園邸と播磨邸跡があります。城下町の風情が漂い、観光スポットして多くの人々が訪れます。 常灯鼻 福江港から見えるところに常灯鼻があります。五島盛成が石田城を築城するにあたり、城の北東から吹き寄せる大波を防ぎ、築城工事を容易にするために築かせたといわれています。防波堤としての役割のほか、灯台としての役目も持っていました。   周辺散策地図 石田城跡 五島氏庭園・心字が池 本丸跡 城山神社 武家屋敷通り 常灯鼻
  • 外海と五島をつなぐ「温石」 2014年03月25日
    外海と五島をつなぐ「温石」
    〜キリスト教の信仰を守る生活のツール〜  第9回で紹介した"長崎巡礼センター"のインタープリターとして活動している犬塚明子さんにインタビューしました。彼女は、長崎にある教会堂を調べていくなかで、「温石(おんじゃく)」と呼ばれる石と、新たな出会いをしたそうです。 温石」とは、結晶片岩に分類される天然石です。暮らしに役立つ道具として、日本の生活のなかで古くから様々な用途に使われていました。カイロ(懐炉)のない時代、寒さをしのぐために、火や熱湯で暖めた温石を布などでくるみ、懐に入れて体を暖めていました。さらに、患部を温めて血行を促進しながら治療する温熱療法にも使われました。また、禅宗の僧が、胃の部分に温石を当てて空腹をしのいだことから、茶の湯では、茶会で客人をもてなす「懐石料理」の由来にもなっています。  犬塚さんが外海(そとめ)と五島で出会った、同じ「温石」。海を越えて点在する石を結ぶ先には、いったいどのような物語が隠されていたのでしょうか。さっそく、聞いてみましょう! 外海の神話『天地始之事』-テンチハジマリノコト-  「1614年、徳川幕府が発布したキリスト教の禁教令のもと、外海地方などのキリシタンに語り継がれた『天地始之事』という物語があります。これは、聖書が元になっているようですが、日本の土着的な要素が加わった物語へと変化した内容でまとめられています。外海地方のキリシタンたちによっていくつか書きとめられています。現在残されている資料の一部を少し読みました。  その中に、禁断の実を食べるという罪を犯したアダムとエバの子孫が地上に降りるとき、神様に『合石(温石の方言)のある土地を目指して行きなさい。』と言われる場面があるのです。温石というのは、外海地方の地盤を形成する結晶片岩(けっしょうへんがん)という石のことを指しているそうです。  キリシタンたちが潜伏していた外海は、急斜面で自然条件が厳しく、生活が大変な土地柄で、ある意味、陸の弧島といったところ。そのような場所で、自分たちが必死に信仰を守って生きていけたのは、『神様がそこ(温石のあるところ)に行きなさいと言ったから、ここ(温石のある外海地方)に住んでいる。だから、今は大変だけど、いつかきっといいことがある』と信じることができたからではないか、そういう願いが『天地始之事』にはこめられているのではないかと思いました。」 海を渡った温石(おんじゃく)  「温石は、外海地方など西彼杵半島で多く産出される石です。外海地方では、かまどや家の周りの石垣などに用いられてきた生活道具のひとつ。出津(しつ)に暮らす農家の方に温石について尋ねると、畑を掘ったらゴロゴロと出てくるということでした。ノミを入れると簡単に割れることから加工がしやすい石だそうです。 外海地方の出津出身の故・田中千代吉神父さまの話を書きとめたものを見ていて、この温石がなんと、海を渡って五島へと運ばれていったということを知りました。 寛政年間に五島藩の要請で、大村藩の人たちが五島へと移住したのです。その多くは秘かにキリスト教を信仰していた農民だったようです。その時、外海の人たちは、五島へ向かう舟に、この温石を乗せて運んだそうなんです。五島列島では温石(結晶片岩)は産出されません。もし五島で温石を見かけたら、それは外海から運ばれてきた石だというのです。  ある日、偶然にも水ノ浦教会堂(長崎県五島市岐宿町)の上にある、昔の水方の(潜伏キリシタンの間でのリーダー的な存在)屋敷に行きました。ここは"五島崩れ"という最後のキリシタン迫害がおきたときに、牢屋となった場所だったんですが、そこで温石を見ることができました。ここに住んでおられる方から、『外海から運ばれた石』として語り継がれていると伺うことができました。1865年(慶応1)、長崎の大浦天主堂において、浦上の信徒がローマからやってきた神父と歴史的な再会を果たすと、五島の人たちも自分たちも信徒だということを伝えたくて大浦天主堂へと向かいます。その時に、水ノ浦のキリシタンも、舟底の重りとして、この温石を再び積んで大浦へと漕いで行ったそうなんです。  でも、なぜ重たい石を小舟に乗せてわざわざ運んだのかが不思議でした。最近知ったのですが、かつて外海地方の漁師さんは、舟の上で煮炊きをする携帯かまどを『温石』でつくり、舟底や延縄の重り、錨などとして『温石』を利用していたのだそうです。それなら、移住するときに舟で石が運ばれても不思議ではなかったと思いました。  水ノ浦にあったのは、徳川幕府の厳しい禁教令のなか、"キリシタンの楽園"を夢見て五島を目指した潜伏キリシタンが、200年以上も昔に外海から一度海を渡ってきて、そしてその約70年後に、潜伏から信仰の復活を願って、再び海を渡って長崎へ行き、そしてもどってきた『温石』だったのでした。単に実用品としてそこにあるとは思えません。『信仰の出発点』であり、『神様が約束してくれたふるさと』から運んできた石として、『この場所にある』のだと思えました。 今、『海を渡った温石』のことを外海でも五島でもご存知の方は少ないようです。記憶のかなたに消えかけている石・・・。しかし、きっと、寛政年間に多くの人が"神様が約束してくれたふるさと"の石を運んだのではないかと思うのです。私は、今、キリシタンたちが命をかけて伝えてきた信仰と温石との関わりを追いかけてみたいという思いに駆られています。」  まったく思いがけないお話でした。石までが長崎のキリシタンの歴史を物語っているとは、新たな発見でした。便利な電化製品や機械などがたくさんある社会になって、自然に対する生活の知恵は忘れ去られていく世の中、私たちの生活に石とのかかわりはあまりないような気がします。今回、海を渡った温石のお話を通して、キリシタンの方々の当時の暮らしや思いを垣間見たような気がしました。 DATA 犬塚明子 Akiko Inuzuka  1956年生まれ。長崎県諫早市出身。長崎市在住。市内の某百貨店の広報担当として勤務。『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社)を担当。 2006年5月『旅する長崎学2 キリシタン文化2』(長崎文献社)、同年11月『旅する長崎学5 キリシタン文化編5』の構成・文を担当。2007年5月から長崎巡礼センターのインタープリターとして活動中 参考文献 『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 監修/カトリック長崎大司教区 発行/長崎文献社 『日本思想大系25 キリシタン書 排耶書』 発行/岩波書店 写真提供 「聖ヨハネ五島像の台座にはめ込まれた温石(水ノ浦教会)」犬塚明子 「民家の井戸の上に置かれた温石(五島市岐宿町)」犬塚明子 水ノ浦教会(五島) 長崎県観光連盟
  • 長崎巡礼センターを活用しよう! 2014年03月27日
    長崎巡礼センターを活用しよう!
    教会の魅力を語る人びと その3  長崎の持つ歴史的な遺産である教会群をどのようにPRしていけばいいのか…。様々な意見がとびかい3年。着々と準備が進み、「長崎巡礼センター」開設という一本の明るい光が差し込みました。2007年5月に長崎カトリックセンターの1階にオープンした「長崎巡礼センター」が担う長崎流の新しい情報発信の役割とは何なのでしょうか。インタープリター(=翻訳者)として、特異な長崎の歴史を伝えたいと話す入口仁志さんにインタビューしました。 「長崎巡礼センター」の開設 <教会群を巡礼するための総合窓口 + ユースホステル>  「長崎巡礼センター」の構想は、実は3年前からプランとしてありました。2年前の7月、「長崎カトリックセンターの宿泊施設部門をユースホステルと併設して、一般向けに開放できる仕組みにしませんか。」という提案をカトリック長崎大司教区にしました。ユースホステルという機能は、世界中に向けた情報発信が可能なので、より内容の濃い発信ができるのです。また、カトリックセンターは、どなたでも宿泊利用できることをもっと強く発信したかったのです。 長崎の歴史を語ろうとした場合、どうしてもカトリックの話に触れないと歴史は喋れません。そこでユースホステルでは、訪れてくれる若者たちに、当然、長崎の歴史とともにカトリックの歴史を伝えています。長崎カトリックセンターでは6階をユースホステルのフロアにして、夜8時から9時まで、宿泊者を対象としたミーティングをして情報を発信してきたのです。ですから長崎カトリックセンターでは、すでに2年前にはユースホステルをカトリックの発信基地とする機能をスタートさせてきたという経緯がベースとしてあるのです。 昨年の夏に、長崎教区の大司教さまと県の観光推進本部のトップとの間で、お互いにトラブルが発生しないように、観光客が長崎を気持ちよく訪れるためにはどうしたらいいかという会議がもたれました。その後、関係者が集まり、月1回のペースで交渉が続けられました。その中で、<ながさき巡礼>という言葉で取り組むこととなりました。今年の3月には、カトリック側では県内の教会をはじめとする巡礼スポットを示すこと、どう捉えるのか具体的に言葉で表現すること、巡礼の主だったコースを示すこと、また、カトリックのなかにも巡礼センターを立ち上げましょうということが決まりました。ですから、国内外のカトリック全体の巡礼センターとしても同時に発信していきたいので、表記は<長崎巡礼センター>とし、その対応を始めました。」 世の中が求めているもの  「数年前、まだ世界遺産候補の話がまだ表に出ていない頃、もうすでに世界の社会全体がカトリック開放にベクトルが向きはじめていたのです。例えば、若い人はクルス(十字架)のネックレスをするのはザラでしょ? でもその若者たちは別に信徒でもないですよね。で、今の若い人たちが何に頼るかといった問題もそうです。みんな社会的不安系といった将来的な不安を抱えているじゃないですか。逆の言い方をすると、ものすごくいいタイミングで教会に目が向きはじめているのではないかと思ったのです。」 ガイドではなくインタープリターとして仕事をする  「長崎の歴史は、キリスト教なしには語れない…。実は別の仕事としてやっていたのが、長崎教区が主催する巡礼のお手伝いです。そのなかで僕自身、3年間、あらゆる教会堂や巡礼地を巡り、現地を訪れました。例えば、みなさんは五島にいくと有名な教会堂に行きますね。有名な教会堂だろうが小さな教会堂だろうが、そこの信徒さんにとっては大切な御堂であり、大切な歴史的背景を持っています。だからそれは、そこに行かないとわからない。それも自分自身が感じないと人々に説明できない。説明するには、自分が感じることって必要なんですよね。僕は<ガイド>という言葉を使うのはあまり好きではなくて、<インタープリター=翻訳者>という言葉を使います。何を翻訳するかというと、カトリックの人たちの生き様がどういうものなのかということ、長崎を訪れる人たちに、私の感じたことを伝える仕事をずっとやってきたんですよ。信徒ではないけど(笑)。」 観光の落とし穴  「教会堂を訪れる観光客が増えるなかで、実はトラブルも多く発生しました。聖水盤をタバコの灰皿にするという、あってはならない行為。タバコを吸いながら教会堂のなかに入ること自体が無茶苦茶なことですよ。また、観光セクションがよくやる間違いなんですが、トイレ休憩を教会堂にあててしまうのです。「おい待てよ!」って言いたくなります。なぜなら、教会堂のトイレは信徒のためのもので、通常1〜2人位しか使えないようになっている。このことを知らない人が旅行プランを企画しているんです。そして、お祈りしている信徒さんがひとりでもいたら、教会堂の中には普通入れませんよね。それどころか内陣といわれる祭壇に入って荒らす人、中には教会堂の備品を盗む人など。観光のニーズが高まるにつれて、これらのトラブルも発生しています。この現状を今すぐ改善しなければいけません。せっかく教会に目が向いてるのに教会側がそれに対応しないというのは、ある意味もったいない。みんなの目が教会に向いているのであれば、その人たちと対話をすることは必要だということなのでしょう。」 巡礼とは?  「巡礼とは、場所をまわってみること。それは、人間ひとりひとりの内的な作業なので形式的なスタイルはありません。ですから、100人いれば100通りの巡礼があります。僕は信徒ではないけれど、巡礼地をまわると、いろんな事を感じます。そのことをできるだけ素直に伝えることを心がけてご案内しています。巡礼に参加しているみなさんも、いろいろな事を感じるはずです。その思いを大切にして欲しいと思います。 巡礼者をご案内していると、僕にとってむずかしい質問がたくさん出てきます。 「ミサとは?」 「何をお祈りしているのですか?」 「五島に住んでいる私たちとバチカンの信徒さんとは、神様との距離って違うの?」 などなど。 「帰ってから近くの教会を訪ねて神父様とお話ししてみてください」 とすすめることにしています。」 「長崎巡礼センター」としての仕事  「長崎巡礼センター」は、今、立ち上がったばかり。まだ、実務は伴っていなくて、まずはパンフレットの取り寄せから。少なくとも観光パンフレットは、このセンターに来れば全部揃っているように環境を整えています。 また、巡礼 地をめぐるコースを作りましょうということで、マップが載った旅のガイドブックを企画し、今その作業が進行しているところです。 僕の思う巡礼センターの仕事とは、神父さまは指導していただく人なのであって、自分はあくまでインタープリターの仕事だと思っているんですよ。こういう生き様があるんだよっていうことが伝わればいいのだと。そう、<伝える>という仕事。五島巡礼では、どこに行かなければいけないとか、贅沢なものを食べてはいけないとか、そういうことじゃありません。五島でしか味わえない旬の新鮮な海の幸がいっぱいありますからね。現地を体感してもらえれば。僕は体験上、巡礼の一回ぐらいはバーベキューをするプログラムは楽しいなと思います。旅に参加した人たちのその楽しさが、僕たちにとって巡礼のごちそうなのかなと思います。巡礼にカタチはない。あくまでも巡礼に参加した人たち同士、行った先々でのコミュニケーションが大切です。信仰を持っている人の良し悪しや強弱ではなく、その中で信仰を持っている人たちの強さや生き様、すごさが伝わればいいなと思います。たとえば、浦上天主堂に連れて行くと原爆のイメージが強いですが、信仰の礎が建っています。浦上天主堂が建つ以前に何があったのだろうか?という疑問から始まり、秘密教会の跡は約140年前の弾圧、ベアトス様の墓は約400年前の弾圧、大橋の川を渡ったらサンタ・クララ教会の跡がある。浦上天主堂周辺だけで約2時間の案内ができます。ユースホステルの1時間のミーティングに参加された方は、みなさんホントにビックリされますよ。 長崎の街は宝の山なんです。スゴイですよ。飽きないくらい上質の旅、巡礼のスポットがある!」 DATA 入口仁志 Hitoshi Iriguchi 1946年生まれ。長崎県長崎市の出身。カトリックセンターのマネージャーとして、「長崎巡礼」の業務を担当。
  • 教会巡礼のマナー 2014年03月27日
    教会巡礼のマナー
    教会の魅力を語る人びと その2  「長崎巡礼センター」は、長崎大司教区と長崎県が協議しながら立ちあげた長崎大司教区公認の窓口。今般の状況では、公式の窓口を置かないと対応できないと判断してセンターの設置を決定。一般の方に活用してもらいたいし、133ある教会堂の各々の関係者にも、このセンターを認知してもらわなければいけないので、課題は多いと語る。そのなかで、まず、教会を巡礼するときのマナーを、そして、教会を訪れることの意義を聞きました。 「巡礼とは体感すること pilgrimage is sensory  「「まず理解して欲しいのは、教会堂は祈りの場であって、観光施設ではないということ。<観光から巡礼へ>を合言葉にしたい。教会を訪れる時に、その文化や歴史、キリスト教を知ろうと思って来てほしいですね。今、実際に生きている信仰を、生きている祈りを、生きている教会堂を巡って体験・体感すること。それが巡礼なのです。アナタが教会堂に来たとしたら、観光ではなく「祈る」ということをして欲しいですね。キリスト教の信徒でない人も、祈りと祈りの場を体験するわけなんですよ。その場にいるということだけで何か感じることがあるわけですから。それが信仰の体験、巡礼なんですよ。そこで教会堂で守って欲しい8つのことをお話しします。」 教会巡礼のマナー 1.教会堂は祈りの場。聖なる場所では私語をつつしんで!  「教会堂には、観光施設にある「携帯の使用禁止」というような張り紙はありません。でも注意書きがないからといって、教会堂で大声をあげたり、携帯の着メロを鳴らして堂内で話したり、好き勝手に動いて携帯の写メで「カシャッ」と音をたてて撮ったりしないでください。また、教会堂の中で祈っている人がいたら、邪魔しないように静かに拝観してください。もちろん教会堂では結婚式や葬儀も行われます。その時は、拝観はご遠慮ください。」 2.聖水盤について!  「教会堂には、観光施設にある「携帯の使用禁止」というような張り紙はありません。でも注意書きがないからといって、教会堂で大声をあげたり、携帯の着メロを鳴らして堂内で話したり、好き勝手に動いて携帯の写メで「カシャッ」と音をたてて撮ったりしないでください。また、教会堂の中で祈っている人がいたら、邪魔しないように静かに拝観してください。もちろん教会堂では結婚式や葬儀も行われます。その時は、拝観はご遠慮ください。」 3.鐘を鳴らさないでください!  「残念なことに、年に何回かは起こってしまう出来事のひとつです。教会の鐘の音は宗教上たいせつな合図。仏教のお寺の鐘も同じことではないでしょうか。目の前にヒモがあるからといって、引っ張ってはいけませんよ!」 4.内陣に勝手に入らないで!  「祭壇及び朗読台などが配置されている場所は、祭儀を執りおこなう中心となるところで“内陣”と言っています。普通の教会堂では一段高くなっています。そこには聖櫃があってキリストの聖体を安置しています。神聖な場所ですので、絶対に入らないでください。また、外陣は参列する人たちのための祈りのスペースです。まずは座って、ゆっくり祈ってみてください。」 5.教会堂内に置いてあるものに触らないで!  「聖書・聖歌集・祈祷書(お祈りの本)などが置いてあります。堂内には教会のものもあるし、個人のものもあります。おわかりの通り巡礼者のものでないことは確かですね。教会によっては信徒の皆さんのMY座布団も置いてありますし、あとMY席も! 毎日ミサに来る人もいますから、みんなの黙認のもと自分の専用の席があるんですよ。もしかしたらMYメガネを置いているかもしれないですね。勝手に触らない、使わない、当たり前の心得ですね。」 6.飲み食いは当然ダメ!  「教会はできるだけオープンにしています。だからといって勝手に入って飲み食いをしてはいけません。いや、ウソだとお思いでしょうが、たまにあるのです。疲れたからといってペットボトルを取り出して飲んではいけませんよ、教会堂の中は休憩所ではないのですから。飲む・食う・吸うは別の所で。」 7.楽廊(歌隊席)にも勝手に入ってはいけませんよ  「楽廊は、一般的に堂内の2階席か中2階にある聖歌隊の席。オルガンなどの楽器も置いています。楽廊に入らないでください。写真を撮るのに良い場所だからといって、楽廊に勝手に入って撮影してはいけません。」 8.門はいつでもオープンなのです  「原則として教会堂の門はいつでも開いています。普通は正面・両サイドと合わせて3つの扉がありますが、教会によって開いている扉は違います。入る時は帽子をとりましょう。服装は、普通の服装で大丈夫なのですが、極端に短いスカートやノースリーブなどは教会には似合いません。祈りの場にふさわしいものを着用して下さい。夏に訪れる際は、バッグのなかに薄手のシャツを一枚入れておくと、いいかもしれませんね。」 教会で何を体感するのか? 中村神父の巡礼のススメ  「誰も気付かないことですが、たとえば黒島天主堂では、柱に手垢が残っています。年に1・2回大掃除していましたが、私はわざと「磨くな!」と言っていました。乾いた雑巾で軽く拭かせていたのです。汚れを落とさせなかった。なぜなら、歴史を理解している人はわかってくれると思いますが、その手垢が遺産なんです。どれだけ多くの人がこの柱に触れたから、こういう色になったかという証拠です。訪れる人も、それを見ないとね。ヨーロッパを訪れると良くわかるんですよ。磨り減った大理石の階段、触られて磨り減った聖人像の腕と足。そこを訪れた人の人数が何万人・何十万人・何百万人という単位では計れないほどだということの証し。それは現場に行ってみないと体験できません。  黒島に着任したころ、じーっと天井を見ていると「あれ? おかしいな。」と不思議に思ったことがあったんです。黒島天主堂は、スゴイことをしていたんですよ。「何を?」とお思いでしょう。お金がなかったから良い材木を揃えることができず、普通の安価な板を買ってきて、その板に木目を描いているんです。刷毛目という工法なんですが、ニスを塗ってその上から木目を付けた。おどろくなかれ、天井板はすべて手描きなのです。ドアの一部もそう。お金がないというところからのアイデアなんですが、今になってみるとスゴイことをしているんですよ。 現場に行って教会堂を見るだけでなく、それを設計した人、造った人、現在まで維持してきた人たちに思いをはせる。そして感謝・感動するんです。教会堂の多くは信徒の皆さんの奉仕活動で建てたもの。資材を担いでどれだけの距離を歩いたかは、現場に行って歩いてみないとわからない。そういった意味で現地を体感するのが巡礼なんです。今生きている信仰者たちの現場を体感することが巡礼ではないでしょうか。そうでないと巡礼は面白くないんですよ。たまに私も巡礼ツアーを企画して外国に行く時は、そういうことを伝えています。私もそういう見方をしているわけ。ガイドが説明してくれる建築年数なんかを聞いても面白くないから、ほかのところを見て周ります。そうすると、現代の信仰の姿だけでなく、400年、500年前の信仰の姿も見えてきます。昨年、スペインのザビエル城を訪れましたが、その窓から見える風景と地形は、どんなに写真にうまく撮っても伝わらない。ザビエルが見たものは、現場に行かなきゃ、わからないですよ。」   DATA 中村満神父 Nakamura Mitsuru 長崎県五島市久賀町の出身。久賀島の牢屋の窄殉教地で、中村家の3姉妹が殉教、その子孫。現在、長崎教区本部事務局次長。長崎巡礼センターの責任者。 参考図書 『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 監修/カトリック長崎大司教区 発行/長崎文献社
  • 教会巡りからはじまった歴史の旅 2014年03月27日
    教会巡りからはじまった歴史の旅
    教会の魅力を伝える人たち その1  『旅する長崎学 キリシタン文化』の2・5巻や『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』の構成と執筆を担当した犬塚明子さん。彼女は今、カトリック長崎大司教区と長崎県が協議を重ねて新しく発足させた「長崎巡礼センター」(長崎カトリックセンターの1階)で、インタープリターとして活動を開始しています。長崎の上質な旅へと誘う発信源として、巡礼コースなどを一般の方に紹介しています。これまで、数多くの教会に関する本を執筆し、ライフワークとして教会堂を追いかけ続ける犬塚さん。カトリック信者ではない彼女が、なぜ教会の魅力を紹介する仕事に一生懸命なのでしょうか?犬塚さん独自の目線から見た教会堂の魅力に迫ります。 教会堂を巡るきっかけは?  「父方はカトリックですが、私自身は、教会には縁のない環境に育ったんです。  でも、20代後半を迎えたある日、教会建築を撮影するカメラマン 雑賀雄二さんのエッセイを読んだのです。ページを一枚一枚めくるたびに、自分の心がいつしか、実際に教会を訪れずにはいられなくなっていました。それで、もう上五島に足が向いて、江袋教会など、いろんな教会堂を訪れました。  そのとき、頭ヶ島天主堂を訪れた見ず知らずの私に「私のおじいさんたちが(といったと思います)、島の山から石を切り出して、ひとつずつ積み上げてこの頭ヶ島天主堂が完成したんですよ。」と、語りかけてくれたのです。その話を聞いてふと感じたのが、きっと代々親から子へと、この教会が建てられた当時の様子が伝承されてきたという、島の人たちが積み重ねた長い時間。そして、地元の方々との会話を肌で実感できたこと。それは、本当に涙がでそうなくらい「生(なま) 」の歴史に触れるという魅力を感じてしまったのです。この出会いがきっかけで、教会堂の魅力というか歴史の魅力にどんどん引き込まれていきました。  五島の小さな集落に、どんなに小さくても実際に生活のなかに生きている教会堂。ひとつひとつに感動して、歴史にも感動してしまいました。それで「(自分は)長崎人だ!」って再認識したこの五島の旅が、教会堂に目覚めるきっかけとなったのです。 」 ライフワーク 1.教会堂は祈りの場。聖なる場所では私語をつつしんで!   「その後、長崎市内にある某百貨店に勤めました。広報担当という仕事のおかげで、改めて長崎を見つめ直すことができたのです。階段脇のスペースを活かしての作品展示は、来店してくださったお客さまに見てもらえるステップギャラリーとして開放していました。展示の企画も、お預かりした作品の展示のほかに、自分たちの手で長崎の情報発信をしていこうという、まさに長崎の歴史テーマとしたものもおこなっていました。その中のひとつに「長崎の教会」というテーマがあって、そこで思い切って長崎の教会を見てまわったんです。この展示を通して「長崎は面白い!」って思い始めました。それで、長崎の面白さを伝える仕事に携わりたいと思った矢先に、長崎の教会ガイド『長崎游学2』(長崎文献社)という本をつくる仕事に出会ったんです。この、ガイドブックをつくりながら、教会のことをかなり勉強させてもらったんですよ。」 犬塚流「長崎の旅の楽しみ方」  「バイクで行くんです。平戸の生月も行きましたよ。しかも50CCで(笑)!  「私のお気に入りは、生月大橋の手前にある山野教会です。いわゆるキリシタンの迫害を逃れて集落をつくった隠れ里のひとつですね。すっごくいいですよ。私の大好きな場所!今は外観が補修されていますが、中に入るとこんな感じ。本通りから人家のない山道を登って歩いたら30〜40分かかるような、山の奥にあるんです。ふと集落が現れて教会が見えるんですよ。教会の後ろにまわると畑が広がっていて、まさに集落の中にある教会。まさかこんなところに?というような場所なんです。善長谷教会や大山教会なんかもそう。香焼の方から善長谷教会を探すと、城山の中腹にチョンって見えるんです。「あれだ!」っていうオドロキ。教会堂って、何気ない風景のなかから、忽然と現れるんですよね。」 (写真は犬塚明子さんの撮影) ひとつの発見…。“西”という姓からルーツを探る  「個人的なことですが、私の祖母が生月の人で姓は“西”。生月の最初の殉教者が“ガスパル西”という人。その息子の“トマス西”は長崎十六聖人のひとりなんですよ。生月には確かに西姓の人がたくさんいらっしゃると思いますが、祖母と殉教者の苗字が同じだということを聞いて、どこか繋がりを感じてしまったんです。仏教用語でいう因縁というか縁というか、自分にも何か引っ張られるものがあるんだなぁということをすごく感じてしまいました。長い歴史の中に自分がいるということ。それを知ってから、自分は殉教者の子孫だと自称しています。自分が信者になれるかということは置いても、歴史の中に「私」がいるという事実が、ある意味、魅力であるような気がしたんですよね。このことは私の人生観を変える出来事でした。」 とある結婚式…、教会堂での失敗談  「いとこが教会で結婚式を挙げるというので、私にカメラ係になって欲しいと頼まれたことがあったんです。「どこでも撮っていいから。」と言われたのですが、教会のことを何も知らなくて、内陣の中に入っちゃったんですよ。その時、みんなから冷やかな視線を向けられていたこともわからず、ただ私は、新郎新婦のシャッターチャンスを逃すまいと神父様の背後にまわって内陣に入ってしまったんです。それがいけないことだと後で知ったのです。私を含めてよく知らないのが実情だと思います。そういった教会堂でのマナーも紹介していくのもこれからの仕事ですね。」 長崎巡礼センターの使命  「本を執筆しながら、長崎カトリックセンターとのご縁で、長崎巡礼センターのインタープリターとして仕事をしています。例えば、長崎の教会は、そこにただ建っているのではなくて、そこに信仰を守りつづけている人がいるから教会があるということ。たとえ小さな教会堂でも存在する意味がある。そのことを私自身が知りましたし、そのことを伝えたいと思いますね。「祈り」があるということも長い歴史を物語ります。例えば、外海から、ふるさとの石を乗せて船を漕いで五島へと渡ったと聞きます。たどり着いた場所ですごく苦労をして、200年という長く苦しい時間の先に教会が存在していること。そういう話を私が伝えることで、みなさんに感動してほしいですね。  大切なことは、そこにある教会を語ることで、長崎の歴史も語っていけるということ。まだまだ勉強の途中ですが、少しでも長崎の魅力が伝えられるようにがんばります。  みなさん、巡礼センターへ来て下さい!」 DATA 犬塚明子 Akiko Inuzuka  1956年生まれ。長崎県諫早市出身。諫早市在住。日本女子大学生物農芸専攻。1990年から2003年まで市内の某百貨店の広報担当として勤務。2005年9月『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社)を担当。 2006年5月『旅する長崎学2 キリシタン文化2』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)、同年11月『旅する長崎学5 キリシタン文化編5』の構成・文を担当。2007年5月から長崎巡礼センターのインタープリターとして活動中。2007年9月には構成・文を担当する『ながさき巡礼』(監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社)を出版予定。
  • 五島の教会を巡って 2014年03月27日
    五島の教会を巡って
    歴史の遺産・教会のある風景を訪ねて感じたこと  ザビエルが平戸にキリスト教を伝えて15年後のこと。宣教師アルメイダとロレンソが五島を訪れ、広めたキリスト教。五島では、16世紀と19世紀の時代を超えてキリシタン弾圧という同じ悲劇が繰り返されました。壮絶な殉教を目の前に、しまの人たちは耐えて守るという強い信仰を心に誓ったのではないでしょうか。五島巡礼の旅は、キリシタンの歴史を学ぶと同時に、それまでの「日本」を振り返る旅でもありました。 教会堂を巡るきっかけは?  五島の主な教会を訪ねるだけでも、それらが辺鄙なところにばかり建っていることに誰もが気付くと思います。迫害を逃れ、静かな信仰の地を求めて海を渡ったキリシタンたちにとって、五島は天国のはずでした。しかし恵まれた場所に堂々と住めるわけもなく、海辺の痩せた土地にへばりつくような暮らしを余儀なくされたといいます。「五島天国行ってみて地獄」と唄われるほど、困難を極めた移住生活。現在でも交通アクセスが困難な場所に、これほどたくさんのすばらしい教会堂が残されていることを考えるとき、当時の苦労とそれを乗り越える信徒の皆さんの熱い心がありありと伝わってくるようです。 ライフワーク 1.教会堂は祈りの場。聖なる場所では私語をつつしんで!  「その後、長崎市内にある某百貨店に勤めました。広報担当という仕事のおかげで、改めて長崎を見つめ直すことができたのです。階段脇のスペースを活かしての作品展示は、来店してくださったお客さまに見てもらえるステップギャラリーとして開放していました。展示の企画も、お預かりした作品の展示のほかに、自分たちの手で長崎の情報発信をしていこうという、まさに長崎の歴史テーマとしたものもおこなっていました。その中のひとつに「長崎の教会」というテーマがあって、そこで思い切って長崎の教会を見てまわったんです。この展示を通して「長崎は面白い!」って思い始めました。それで、長崎の面白さを伝える仕事に携わりたいと思った矢先に、長崎の教会ガイド『長崎游学2』(長崎文献社)という本をつくる仕事に出会ったんです。この、ガイドブックをつくりながら、教会のことをかなり勉強させてもらったんですよ。」  出会った地元の人が、「辺鄙な場所に建っているからこそ価値があるのですよ」と言っていました。もうすぐ建設から100年を迎える教会堂と、そこに伝わる先祖たちの思いを大切に守ってきているのだなあと感動しました。当時、教会堂を建てるための莫大な費用をどこから捻出するか。敬虔な五島の信者たちは、食べる物を減らしてまでも教会建築のために奉仕したといいます。ある島では出稼ぎに行ったまま教会堂の完成を見る事がなかった人、完成するころには財産を使い果たして島を出るしかなかった人も多かったとか。世界遺産登録への動きを通して、教会巡りを楽しむ人は増えると思うけれど、建物だけを見るのではなく、ぜひその教会堂が建てられるまでの話にも耳を傾けてほしいと思います。そして、ザビエルが日本にキリスト教を伝えて以来450年以上のキリシタンの歴史と、実に多くの犠牲者のうえに、今の信仰の自由が成り立っているのだと感じていただければうれしいです。  かつてはキリシタンの天国といわれた島も過疎高齢化が進み、実際には維持が難しくなっている教会堂も少なくありません。一日数往復しかないバスを待つお年寄りの姿が目に留まります。 旅の終わりに久賀島を案内して頂いた木口汽船の木口さんが「これらの教会群が世界遺産になることで、観光客が増える事も嬉しいけれど、世界中から巡礼者が集まる巡礼の島になるといいですね」と話されていたのがとても印象的でした。 江崎博子
  • 教会の建築に使われた「ミナ」の貝殻 2014年03月19日
    教会の建築に使われた「ミナ」の貝殻
    〜教会に見る長崎らしさ。ミナが石灰に変身!?〜  長崎の教会を訪れると、まわりの自然に溶け込んだ外観の美しさや、素朴に施された装飾のかわいらしさに心惹かれます。さらに、この目の前にある教会の歴史的な背景にも目を向けると、もっと心に響く感動を味わうことができます。迫害・潜伏といったキリシタンの激動の歴史を乗り越えた信徒の皆さんが、貧しいなかにも奉仕して、信仰の喜びのうちに建てた教会・・・、その数だけ物語があるのです。  今回は、海の岩場でよく見かける貝「ミナ」にまつわる教会建築のエピソードをご紹介します。長崎の身近にある、自然の恵みを活かして建てられた教会がありました。教会のレンガの隙間や白い壁をじーっと観察してみてください。  ミナ」とは長崎での呼び名で、磯に生息する巻貝のこと。磯遊びに出かけると、小さいものから大きくて立派なものまで、びっしりと岩にへばりついています。岩場を歩くと、人影に気付いたミナたちはカチャカチャと音をたてながら海中へと落ちて身を隠します。大げさな音のわりには、まだまだ岩にたくさんへばりついているので、かんたんに手で採れます。家路に着いて大きめの鍋で茹で、湯気がたつ熱いうちにいただきます。茹でると身が貝殻の奥に縮むので、縫い針でかき出して食べますが、これがビールにつまみにピッタリなんです。 田平天主堂  さて、このミナの貝殻が“教会の建築資材として使われた石灰”に変身していたとは驚きです。食卓にのぼった黒茶色のミナを手に取りながら、どうやって真っ白な石灰になるのだろう?とわいてくる疑問。なんと、ミナの貝殻を集めて素焼きにし、粉になるまで砕いて真っ白な石灰を作ったのだそうです。 水ノ浦教会  今回は、ミナにスポットをあてましたが、当時貧しい中で建てられた教会には、それぞれに建築の材料として長崎の自然が活かされています。教会の建つロケーションだけでなく、建築にも見ることができる長崎らしさを発見してください。そこには、きっと信者の皆さんのご苦労を思い起こさせてくれるエピソードがあり、より深い感動の旅に誘ってくれることでしょう。 *磯遊びは、安全な場所で楽しんでね。 参考資料 『旅する長崎学5 キリシタン文化后戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 写真下:水ノ浦教会は『旅する長崎学5 キリシタン文化后p.37より転用
  • 海岸線をなぞってみよう 2014年03月19日
    海岸線をなぞってみよう
    海岸線をなぞってみよう  長崎は大陸に近い日本の西にあって、海外貿易には便利な場所。でも、それなら他の県でもよかったんでは?なぜ長崎だったのでしょう?地理的な位置や周りを囲む海、自然の力、美しい風土・・・、いろんなことが素晴らしいから貿易港に選ばれたはず。長崎がどんなところなのかをデータから探ってみました。 長〜い長い「長崎県」の海岸線  長崎県の海岸線の長さは約4,196キロメートル(平成17年3月31日 国土交通省河川局「海岸統計」)、北海道に次いで全国で2番目です。これがどのくらい長いかというと、全国の海岸線の12%にもなります。面積はというと、全国37位で、これは全国の1%ぐらいですから、長崎県の海岸線がいかに複雑に入り組んでいるかがわかりますよね。しかも平地が少ない地形なので、昔は馬よりも船で移動するほうが早かったんです。 岬の教会  日本で初めてキリシタン大名となった大村純忠は、自分の領地内を船で往来していました。16世紀に開港した横瀬浦に別荘を構え、三城城から船で大村湾を横切り、横瀬浦の別荘から小船に乗り換え、教会のミサに通ったそうです。  横瀬浦、福田に続いて、純忠が開港したのは長崎でした。1570年、付近の様子はというと、長い岬の台地があるだけでした。ホントに細長い岬だったんです。そこに新しいまちづくりがスタートし、最初6つの町ができました。いまの県庁のあるところが岬の先端で、教会が建ち、鐘の音が響いていました。大きな貿易船も行き来できる波穏やかで静かな入り江、しかも長い船旅の疲れを癒すような美しい風景。そんな天然の良港が長崎県には多かったのです。  ここで、長崎の楽しみ方! この長〜い海岸線をドライブするのが最高なんです。晴れた日の空と海の青さ、夕暮れにはオレンジ色に映える海。様々な表情を見せてくれる長崎の海岸線は、何度ドライブしても感動です! また、海からアプローチするのも素敵です。港には豪華客船が寄航し、海外から訪れる人も少なくありません。クルーザーや遊覧船で、ゆったりした時間を優雅に楽しむのも、長崎の魅力を満喫する方法のひとつです。 日本一の「しま」の数、どれくらいだと思います?  長崎県の島の数は全国第1位。全国の島の数は6,852島で、そのうちの14.2%にあたる971島が長崎県にあります(昭和63年9月 海上保安庁「海上保安の現状 *島(海上)は、外周0.1km以上)。ちなみに、県では、陸地面積が1,000m2のものを「しま」ととらえています。こうしてみると、長崎県には596のしまがあり、そのうち、有人島が74島、無人島が522島となります。  長崎を愛した遠藤周作氏は、代表作『沈黙』のなかで、どこまでも蒼い海と森の緑という大自然のあまりの美しさに、人間の存在そのものを投げかける。たしかに長崎の歴史的背景のうちに見るその風景は、素朴ながらも何かを問いかけてくるような重みと強さがあります。  ここで、魅力がいっぱいの「しま」自慢をちょっとだけ! 世界遺産候補となった教会が点在する五島。シーカヤックで渡る九十九島は、プチ・アイランドリゾート。麦焼酎やウニが美味しい壱岐。韓国に一番近い国境の対馬・・・などなど。すみません。ちょっとだけでは語り尽くせない長崎県の「しま」でした。 季節風に吹かれてやってきた外国船  日本へとやってきた中国のジャンク船やポルトガルのナウ船。帆をあげた船は、夏は南からの季節風にのってきました。帰る時は冬の北からの季節風にのって長崎を出航。季節風がたよりだった航海は命がけだったようです。  そのむかし、南蛮船が来る以前から、大陸との航海ルートにおいて、長崎県の島々は重要な位置にありました。そして16世紀、平戸にやってきたポルトガル船とキリスト教を受け入れ、西洋との貿易を始めたのが平戸領主の松浦隆信(道可)だったのです。長崎と西洋がはじめて出会った場所「平戸」。その後、平戸の港にはイギリス船、オランダ船が次々と入港し、西洋文化の窓口となりました。その面影をたどる旅にでかけませんか。「 ながさき歴史散歩 第2回 【ザビエルも訪れた国際貿易港「平戸」の旅】 」をご覧ください。 参考資料 『旅する長崎学1 キリシタン文化機戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 『旅する長崎学2 キリシタン文化供戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 『ホームページ『長崎100の指標 較べてみれば(2006改訂版)』 『ホームページ『ながさきの「しま」』
  • 旧石器時代から弥生時代まで 2010年06月23日
    旧石器時代から弥生時代まで
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