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  • 第5回 有川捕鯨関連文化遺産を辿る 2009年11月11日
    第5回 有川捕鯨関連文化遺産を辿る
     ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「有川捕鯨関連文化遺産(ありかわほげいかんれんぶんかいさん)を辿る」です。  「有川捕鯨関連文化遺産」は、水産庁が2006年(平成18)に発表した“未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選”に選ばれています。この百選は、全国の漁村に残る歴史的・文化的に価値の高い史跡や施設などの文化遺産を広く公募し、応募のあった350件から、地域固有の漁業文化や珍しい建築工法や形状などを基準として、選定委員会によって選ばれたものです。  「有川捕鯨関連文化遺産」には、「鯨見山(くじらみやま)」「鯨供養碑(くじらくようひ)」「海童神社(かいどうじんじゃ)」「弁財天宮(めーざいてんぐう)」「原眞一顕彰碑(はらしんいちけんしょうひ)」が含まれています。  今回は、上五島でどんな捕鯨の歴史が繰り広げられたのか、散策してみたいと思います。さあ、未来に残したい漁業漁村の歴史を辿ってみよう! 散策エリアの位置をチェック 散策コース&マップ 鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム【有川港多目的ターミナル内】 ↓歩いて約2分 海童神社 ↓歩いて約8分 鯨見山(山見小屋)・鯨供養碑 ↓歩いて約10分 弁財天宮 ↓歩いて約8分 原眞一氏・萬一郎氏銅像 ↓歩いて約1分(原眞一氏・萬一郎氏銅像と同じく中筋公園内にあります) 江口甚右衛門正利像 スポットの紹介 鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム【有川港多目的ターミナル内】  上五島の北の玄関口ともいうべき有川港に建つ「有川港多目的ターミナル」。ここに「鯨賓館ミュージアム」があります。  ミュージアムは1階と2階に分かれており、1階は日本でも珍しい鯨の博物館になっています。江戸時代の有川捕鯨、近代の捕鯨を紹介する展示や、鯨やイルカの模型など、鯨に関する資料が公開されています。捕鯨の歴史はもちろん、鯨の解体・利用、捕鯨船内の様子なども紹介されています。また、有川鯨組の多くの記録が記されている『江口文書』も展示されており、非常に貴重な資料が揃っています。 藤を巻いているように見えますが、実はこれ、セミ鯨のヒゲ板を加工してつくられているんです。世界でも珍しい大変貴重な品物です。 セミ鯨のヒゲ板を使った応接セット  2階は、上五島にある教会群と、郷土力士・第50代横綱 佐田の山を紹介するコーナーです。  新上五島町にある29の教会群と、町内丸尾郷出身で数多くの教会を設計・施工した鉄川与助(てつかわよすけ)の業績が紹介されています。上五島の教会を巡る前に訪れて、参考にしてはいかがでしょうか。  また、有川出身の横綱・佐田の山関のコーナーでは、現役時代の写真や当時の相撲映像を観ることができます。番付(ばんづけ)や化粧回し、優勝盃、敢闘賞・殊勲賞・技能賞の杯などが展示されています。相撲ファンでなくとも、一見の価値があります。 開館時間: 午前9時〜午後5時 入館料 : 一般…………200円(団体・15人以上…150円) 小・中学生…100円(団体・15人以上…50円) 休館日 : 毎週月曜日、年末年始(12月29日〜1月3日) 海童神社(かいどうじんじゃ)  この海童神社は、1973年(昭和48)に捕獲された、体長18.2メートルのナガスクジラの顎(アゴ)の骨でできた鳥居があることで知られています。捕鯨で栄えた有川地域を代表するもののひとつです。  1617年(元和3)から1619年(元和5)の間、毎年6月17日に限って、近くの海で遊泳する者の溺死が相次ぎました。人々が気味悪く思っていると、時の乙名役(おつなやく)、高井良福右衛門の夢枕に海神様が立ち、言いました。 「わしは、この地にずっと昔から住んでいるものだが、誰も祀ってくれるものがいない。以後わしを祀るものがいれば、願いを叶える」  早速福右衛門は、村の人々に計り、当時小島だった地に海神様を祀って、即席の芝居を奉納したところ、溺死する者がいなくなったといいます。  これが今でも「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事として残っており、例年7月の第4日曜日に行われます。花火を合図に海童神社に奉納され、その後三味線や太鼓を響かせながら町中に繰り出して、数カ所の踊り場で寸劇が演じられます。多くの人出で賑わいます。 鯨見山(くじらみやま)・鯨供養碑  有川湾では、江戸時代の初めごろから明治時代まで捕鯨が行われていました。一番多く捕れた年は、1698年(元禄11)の83頭で、「鯨が一頭捕れると七浦が潤う」といわれた頃の有川の繁栄を物語っています。  この山の頂上には「山見小屋」が置かれ、そこから鯨が来たことを知らせたり、出漁の合図などを行っていました。  見晴らしがよく、透き通った海や有川の町並みもよく見えます。 鯨供養碑 鯨見山にある山見小屋のすぐ傍に、鯨の供養碑があります。  1712年(正徳2)、江口甚右衛門正利(えぐちじんえもんまさとし)は、供養碑を建てました。碑文には、1691年(元禄4)から1712年(正徳2)までの21年間に、鯨を1312頭捕獲したことが刻まれています。  石塔には、「鯨」のことを「鯨鯢」と標記されていますが、「鯨」はオスくじら、「鯢」はメスくじらを意味しています。  このような鯨供養碑は、有川対岸の新魚目(しんうおのめ)、五島市の富江町(とみえちょう)にもあります。この西海の地で鯨がいかに多く捕れていたかがわかります。 弁財天宮(めーざいてんぐう)  有川では、1626年(寛永3)に江口甚左衛門正明(えぐちじんざえもんまさあき)が紀州古座三郎太郎と鯨組を組織し、鯨漁を行いました。  1661年(万治4)、江口甚左衛門正明は61歳で死亡し、甚右衛門正利(まさとし)が有川庄屋及び総名主を継承します。しかし、富江領が分立して有川の海は富江領とされたため、五島藩の有川村民の入漁猟は一切禁止されてしまいました。  甚右衛門正利は村民の窮状を救うため、藩の重役たちに必死で訴えを繰り返しましたが、富江は大村藩の深沢義太夫(ふかざわぎだゆう)に15年間の捕鯨権を与えてしまいます。双方の争論は絶えず、ついに甚右衛門正利は江戸公訴を決意します。この事件は有川・魚目の海境争いとよばれます。  江戸へ四度、幕府評定所はその決死の訴えに、1689年(元禄2)、1690年(元禄3)と二度にわたり、有川村に海の権利を公認しました。  江戸へ行き直訴していた甚右衛門正利は、道中、鎌倉の弁天様に勝訴の祈願をしていました。有川の勝訴で決着したことから、1691年(元禄4)にこの分霊を浜の小島に祀り、有川鯨組の守り神として、年の初めに鯨漁の安全を祈ったそうです。それから300年余り、鯨組や有川の守り神として住民の厚い信仰を受けてきました。  弁財天宮の入り口には、現在散策路が設置されており、透き通る青い海を眺めながら美しい砂浜へ歩いていけます。 【弁財天(メーザイデン)】  毎年1月第三日曜日、鯨を捕まえる羽差(はざし)の姿をした若者たちが太鼓をたたき、鯨唄を歌いながら地区内を練り歩き、大漁、商売繁盛、家内安全を祈願する行事が行われます。300年以上も前の慶長年間に始まったといわれています。 原眞一氏・萬一郎氏銅像  有川・中筋公園に、原眞一・原萬一郎親子の像が建てられています。この二人は、有川の近代捕鯨において大きな功績を残しました。  原眞一は、1905年(明治38)、長崎に「富田屋」を開店して、中国貿易、トロール漁業、捕鯨業などをはじめます。そして、1908年(明治41)には大阪に東洋捕鯨株式会社、原商事会社を設立します。  翌年には不振に陥った五島捕鯨会社を吸収して、失業する郷土の従業員を残らず雇い入れ、また有川村救援資金を設けて村民の生活を助けるなど、郷土の発展に尽くしました。  原眞一の息子・萬一郎は、東洋捕鯨株式会社の三代目社長となり、近海式捕鯨の大不振期に母船式の遠洋捕鯨に着目し操業しました。商業時代最盛期には、旧有川町から600名以上の人々が捕鯨に従事したそうです。萬一郎は、現在も五島航路を運行する九州商船(設立:明治44年)の初代社長も務めました。 江口甚右衛門正利像  弁財天宮で紹介した江口甚右衛門正利の像です。有川・魚目の海境争いの時、江戸へ行って決死の訴えを行い、有川村に海の権利を公認させた彼の業績を後世に顕彰するため、1999年(平成11)、像が建立されました。 参考資料 ・上五島町郷土誌(平成16年発行) ・郷土史事典(長崎県/石田 保著昌平社出版) 取材協力 鯨賓館ミュージアム 新上五島町観光物産協会
  • 第5回 自然と歴史が織りなす“祈りと癒しの島・上五島” 2009年10月07日
    第5回 自然と歴史が織りなす“祈りと癒しの島・上五島”
     このコーナーでは、長崎県内の歴史を探っていく旅のドライブルートを紹介しています。  今月の注目エリアは『上五島』。旅の必携アイテムは『旅する長崎学4』と『旅する長崎学5』です。  まずは、新上五島町がどこにあるのかチェックしておこう。 新上五島町の位置 上五島をめぐる 今回、タビーナと一緒に上五島を旅してくれるのは、 「ナッシーくん」と「トッピーくん」! ずいぶん前から活躍している、トビウオをモデルとしたキャラクターです。 上五島産のトビウオはコクのある上品な味わいを出してくれるので、 “あごだし”で食べる「五島手延うどん」は絶品です。 長崎県内ではトビウオのことを『アゴ』と呼びます。 今回のドライブルート 1日目有川港(ありかわこう)・鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム ↓車で約20分 頭ヶ島天主堂(かしらがしまてんしゅどう) ↓車で約5分 坂本龍馬ゆかりの広場 ↓車で約20分 五島うどんの里 ↓車で約5分 蛤浜海水浴場(はまぐりはまかいすいよくじょう) ↓車で約30分 浜串教会(はまくしきょうかい)・希望の聖母像(きぼうのせいぼぞう) ↓車で約10分 高井旅海水浴場(たかいたびかいすいよくじょう) ↓車で約5分 あこうの樹 ↓車で約15分 若松大橋(わかまつおおはし) ↓車で約20分 日島の石塔群(ひのしまのせきとうぐん) ↓車で約40分 弘法井戸(こうぼういど) ↓車で約10分 カピィ・プラザ ↓車で約10分 2日目冷水教会(ひやみずきょうかい) ↓車で約3分 矢堅目(やがため)公園 ↓車で約10分 青砂ヶ浦天主堂(あおさがうらてんしゅどう) ↓車で約10分 しんうおのめふれ愛らんど ↓有川港まで車で約25分 スポットの紹介 1日目有川港(ありかわこう)・鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム  五島列島中通島(なかどおりじま)の海の玄関口として、上五島地域と佐世保地域とを結ぶ海上交通の要衝となっています。  この湾には昔から鯨が多く回遊していたといわれており、1598年(慶長3)に銛(もり)突きによる“有川捕鯨(ありかわほげい)”が始まった地です。  船を降りてすぐの有川港多目的ターミナル内には、鯨賓館(げいひんかん)ミュージアムがあり、捕鯨や教会群など上五島の歴史や、郷土が生んだ英雄などを紹介しています。  鯨賓館ミュージアムは、第2週の「テーマで歩く歴史散策」で詳しく紹介します。 頭ヶ島天主堂(かしらがしまてんしゅどう)  上五島出身で、多くの教会建築を手がけた鉄川与助(てつかわよすけ)の傑作といわれ、全国的にも珍しい石造りの教会です。信徒たちが島で切り出した石を丹念に積み上げて造られました。この地区の信徒の数はとても少なくなりましたが、当時の原型が大切に保存され、現在も教会堂として利用されています。2001年(平成13)11月に国の重要文化財に指定されました。  天井は二重の持送りハンマー・ビーム架構で折り上げられ、船底のようになっているのが特徴です。この珍しい様式の天井は、鉄川与助の一連の作品において、意匠的にかなり違うので、新しい空間創造の記念碑的建築ではないかともいわれています。    また海辺には、十字架をかたどったキリシタンの墓標が並び、この土地の歴史を訪れる人々に物語ります。 坂本龍馬ゆかりの広場  1866年(慶応2)5月2日未明、江ノ浜潮合崎(しおやざき)でワイルウェフ号が遭難し、船将である高泉十兵衛ら12人が溺死しました。  1865年(慶応元)、坂本龍馬は、薩摩藩や長崎商人の援助を受け、神戸海軍操練所の塾生たちとともに、日本初の商社を長崎・亀山の地に設立。亀山社中は、海運業に必要な船を薩摩の援助によって手に入れます。2本マストの様式帆船ワイルウェフ号は、命名式と洋上訓練を兼ね、1866年(慶応2)4月28日、長崎を出港しましたが、途中大暴風雨に遭って漂流し、5月2日暁、潮合崎で暗礁に乗り上げ転覆しました。乗組員4人を除いて他は死亡しました。この事故はただちに福江藩庁、薩摩長崎屋敷に報告されました。  両藩の役人は現地入りして遺体の収容などにあたり、有川専念寺住職によって埋葬されたそうです。龍馬は、同志の霊を弔うため、資金を添えて建碑を依頼したといいます。墓碑は、この広場から歩いて5、6分の江ノ浜集落の中にあります。  ワイルウェフ号が遭難した潮合崎を望むこの広場は公園になっており、「龍馬ゆかりの地」と記された石碑とともに、同型帆船の写真やかじとり棒と推定される原寸大の模型が設置されています。 五島うどんの里  上五島の特産品のひとつとして名高い「五島手延うどん」。そのルーツはかなり古くまで遡り中国大陸から伝わったといわれますが、はっきりしたことはわかりません。遣唐使船によって伝えられたとか、8世紀頃に中国から入ってきた舶来品がはじまりではないかとか、いろいろな説があります。このほかにも、元寇の際に捕虜となって五島に住みついた中国人が教えたという説や、五島を根拠地のひとつとしていた中国の貿易商人・王直(おうちょく)が伝えたのではないかともいわれています。  ここ「五島うどんの里」では、五島手延うどんを味わえるお店やお土産コーナーがあります。“五島手延うどんができるまで”を詳しく紹介する資料も展示されていますので、その美味しさのヒミツがわかりますよ。五島うどんの魅力を十分に満喫することができます。  毎年開催される「五島うどんフェスタ」は、多くの人出で賑わいます。 ■営業時間:8:30〜17:00(年末年始は休み)お食事処は、11:00〜14:00 ■問合せ先:0959-42-2655(有川港から徒歩1分です。) 蛤浜海水浴場(はまぐりはまかいすいよくじょう)    どこまでも遠浅の白い砂浜と透き通った青い海のコントラストが映える海水浴場です。シャワーなど設備も充実し、隣にはキャンプ場やスポーツ施設もあります。  毎年、海開きの日には「蛤浜で遊ぼDAY」のイベントが開催されます。「遊ぼDAY」とは、「遊ぶ日」と「遊ぼうよ」を重ねたネーミングです。  バナナボート、サイコロゲーム、地引網体験、スイカ割り、宝さがしなどが行われます。また2007年(平成19)からはサンドクラフトの祭典「白砂の芸術祭」も同時に開催され、砂のアートを堪能することができます。この日は町内外から多くの人が集まり、大いに賑わいます。 浜串教会(はまくしきょうかい)・希望の聖母像(きぼうのせいぼぞう)  昔から漁業が盛んな地区で、1896年(明治29)に建てられた初代の浜串教会は、捕鯨の利益で建てられたと伝えられています。1967年(昭和42)に新聖堂が建立されました。  この港口には、「希望の聖母像」が漁船の出入りを見守っているかのように立っています。  この浜串地区住民のほとんどが漁で生計をたてていることから、浜串教会が航海の安全と大漁を願って、1954年(昭和29)に建立し、1996年(平成8)に建て替えました。  浜串教会から奥の港口まで直進していくと、希望の聖母像へたどり着きます。車で約1分です。   高井旅海水浴場(たかいたびかいすいよくじょう)  ログハウス、コテージなど充実した施設が揃い、さまざまなマリンスポーツも楽しめます。   あこうの樹  あこうの樹は、全国に240本ほどあるといわれますが、長崎県内にはその3分の1に当たる80本が自生しているといいます。  ここ奈良尾のあこうの樹は、樹齢650年を越え、幹回りが約12メートル、高さは約25メートルあって、日本一の大きさを誇るといわれています。  神社の参道にそびえ、地上7メートルのところから支柱根(しちゅうこん)が2股に分かれているので、その姿はまるで自然の鳥居のよう・・・、訪れる参拝者たちを迎えてくれます。  1961年(昭和36)には国の天然記念物に指定され、1990年(平成2)には新・日本名木百選の木にも選ばれました。 若松大橋(わかまつおおはし)  全長552メートルのトラス橋で、1991年(平成3)に開通し、若松島と中通島が陸続きになりました。白い若松大橋が青い海と山々の緑の中に溶け込んで見せる美しいコントラストは、複雑なリアス式海岸の景観に違和感なくマッチして、とても癒されます。   日島の石塔群(ひのしまのせきとうぐん)  曲(まがり)地区の海に向かって延びるこの地には、中世(鎌倉〜南北朝〜室町)時代の石塔類が林立しています。長く過酷な歴史の流れをくぐり抜けてきた石塔群は、見る人を圧倒するほどの迫力をもっています。   #10" class="btn basic_btn">弘法井戸の話を読む カピィ・プラザ  青方港(あおかたこう)の沖合いに、上五島国家石油備蓄基地があります。世界初の洋上備蓄方式で、日本の造船工学、土木工学の粋を結集して造られた鋼鉄製貯蔵船です。  この国家石油備蓄基地のしくみやエネルギーについて、子どもたちにもわかりやすく伝えようと、新上五島町にある石油備蓄記念会館の1階に「カピィ・プラザ」がつくられました。  この施設は、日本を支える上五島の国家石油備蓄基地を紹介する“石油と備蓄基地ゾーン”と上五島の素晴らしい自然・歴史・文化を紹介する“上五島と自分発見ゾーン”に分かれています。石油備蓄のしくみがわかる展示パネルや、クイズに答えながらエネルギーのことを理解できるコーナーなど、誰でも楽しく学べるように工夫されています。   2日目冷水教会(ひやみずきょうかい)    1907年(明治40)5月に献堂式が行われました。この教会の設計施工も鉄川与助によるものです。この冷水教会は、鉄川与助が当時27歳で独立し、初めて手がけた教会として知られています。  内部は3廊式(さんろうしき)で主廊部(しゅろうぶ)、側廊部(そくろうぶ)ともに漆喰仕上げ(しっくいしあげ)、4分割リブ・ヴォールト(こうもり)天井を取り入れており、当時としては極めて斬新な建築といわれました。 矢堅目(やがため)公園  この地は古くから奈摩(なま)湾に侵入する外敵の見張りのために、矢(守備兵)で堅(砦)めたということで、「矢堅目」の地名が残されました。  中世末期の勘合貿易(かんごうぼうえき・室町時代における日本と明の公式貿易)の停泊(避難)港としても知られ、松浦党の一員である青方・奈摩両氏には、海賊からの警備の任務が課せられていました。  この公園から見る夕景は大変美しく、長崎県自然環境保全地域にも指定されています。 青砂ヶ浦天主堂(あおさがうらてんしゅどう)   奈摩湾を見下ろす小高い丘の上に建つ優美な煉瓦造りの教会です。長い迫害の時代が終わった後、宣教師たちは青砂ケ浦を上五島における宣教活動の拠点としました。最初の教会は山手にありましたが、1889年(明治22)に違う場所に建てかえられ、1910年(明治43)、鉄川与助の設計で現在の場所に建てられました。50戸あまりの信者たちが建設費を拠出し、さらにその労働奉仕によって建てられました。当時は海辺から建設現場までの道路もなく、女性や子どもも手伝って、石や煉瓦などの資材を人力で運んだそうです。  外観・内観ともに均整のとれた構造となっており、細部の意匠も優れています。日本人設計者の手で建設された煉瓦造り教会堂の初期のもので、この後に建築された煉瓦造り教会堂の構造や意匠の見本ともなりました。  2001年(平成13)11月に国の重要文化財に指定されました。 しんうおのめふれ愛らんど  「しんうおのめふれ愛らんど」は五島列島の北部に位置し、西海国立公園内にあります。レジャー施設として整備されており、溶岩海岸での磯遊びやパットゴルフ、テニス、おもしろ自転車などがあって、大人から子どもまで一日たっぷりと楽しく遊べます。東シナ海に沈む夕日は見逃せません。 上五島の物産  上五島の特産といえば、なんといっても『五島手延うどん』。有川港から徒歩1分のところにある「五島うどんの里」内には、観光物産センターがあり、五島手延うどんをはじめ、椿油製品やアクセサリー、そしてミネラル豊富な塩、海産物などが所狭しと並んでいます。どれもお土産にはもってこいで、迷ってしまいます。  また、アイスクリームのショーケースをのぞくと、そこには昭和を感じさせる懐かしいアイスクリームが並んでいました。上五島で生産されているものばかりなんです。 参考資料 『旅する長崎学4 キリシタン文化IV』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学5 キリシタン文化V』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『長崎旅本-慶応幕末-』(平成21年発行) 『上五島町郷土誌』(平成16年発行) 『長崎県文化百選 五島編』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『県史シリーズ42 長崎県の歴史』(瀬野精一郎著/山川出版) 取材協力 特定非営利活動法人 新上五島町観光物産協会 独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構 カピィ・プラザ
  • 大瀬崎断崖・大瀬崎灯台 2014年03月26日
    大瀬崎断崖・大瀬崎灯台
     長崎出身の作家・吉田修一原作で同名映画の「悪人」の中で、妻夫木聡さん演じる祐一と深津絵里さん演じる光代が逃避行の果てに逃げ込んだ“地の果ての灯台”のロケ地が、この大瀬崎灯台です。  大瀬崎灯台は、1879年(明治12)に竣工した歴史ある施設で、『日本の灯台50選』の一つに選ばれています。老朽化したため、最初の灯台は解体され、1971年(昭和46)に現在の灯台に生まれ変わりました。旧灯台は東海科学館に展示されています。  またこの大瀬崎には、1898年(明治31)に無線電信機を備えた旧海軍の望楼(ぼうろう)が設置され、日露戦争時の1905年(明治38)にロシアのバルチック艦隊発見の報「敵艦隊見ユ」を受信したことでも知られています。  灯台のまわりに見える断崖は、五島列島を代表する観光スポットのひとつです。淡褐色の砂岩と黒色の泥岩が交互に重なった地層が、打ち寄せる波濤によって削り取られてできました。地殻変動による傾斜や、断ち切られた断層を随所に見せており、圧巻です。展望台の手前にある展望公園からの眺めは、実に壮大で見事です!周りの島々が本当に美しい。  また、主に本州で繁殖するハチクマは(タカ目タカ科でトビと同じくらいの大きさの鳥)、秋になると越冬のため中国大陸へ向かって渡ります。この大瀬崎(大瀬崎山山頂)では、ハチクマの群れが中国大陸へ向けて次々と飛び出す様子を間近で観察できる絶好のポイントとしても知られています。この大瀬崎から中国大陸まで約600kmを一気に渡るというからすごいですね。  ロケ地観光としてだけでなく、ぜひ周りの自然も堪能してほしいスポットです。  太平洋戦争中には、大瀬崎の目の前を船で通って南方の戦線に赴いていたといいます。灯台の側に整備された展望公園には、再び祖国の地を踏むことがかなわなかった多くの将兵たちの霊を慰めるため、北村西望作の「祷りの女神像」と鎮魂碑が建立されています。  故・北村西望氏は、長崎県南島原市南有馬町出身の彫刻家で、文化勲章を受けられ、長崎県の名誉県民でもあります。長崎平和祈念像の制作者として有名です。
  • 地獄炊き 2014年03月26日
    地獄炊き
     出張で新上五島町を訪れ、佐世保市へ高速船で渡る予定でしたが、予定よりもちょっと早く港に到着。お腹も空いたな−。何かないかなと辺りを見渡すと、うどん屋さんがありました。ツルツルッと短い時間でも食べられそうなので、迷わずレッツゴー!  向かったのは、新上五島町の北の玄関口である有川港から徒歩2、3分のところにある「うどんの里」というところ。 2004年(平成16)4月に開設された施設で、五島手延うどんについての歴史や製造過程がパネルで紹介されており、申し込むと五島手延うどんの製造体験もできるそうです。  私がめざした建物部分は、名物の五島うどんを味わえる食事処「遊麺三昧(ゆめざんまい)」というお店になっていました。ここは新上五島町を訪れる観光客の交流拠点の場としても利用されているそうです。  さっそく注文。選んだメニューは、伝統の味とされる「地獄炊き」。これまで五島手延うどんはいろいろ味わってきたつもりでしたが、実は、伝統ある「地獄炊き」は初めて。本場の味が楽しみです。  目の前に現れた「地獄炊き」は本当にシンプルでした。器にかつおぶしと薬味、それから卵を割っていれ、出汁と醤油(少々)を入れて混ぜ、つゆの準備は完了。さあ、いただきまーす!と思ったらお店の方が、 「出汁はアラの出汁ですよ。」と教えてくれました。 出汁はてっきりアゴ(トビウオ)だと思っていたら、アラ(クエ)なんですって!? 高級魚ですよね。  アゴとアラの出汁の違いは、味音痴の私には残念ながらあまりわかりませんでしたが、香りがあって深く味わいでした。出汁だけ飲んでみると魚の香りも感じましたよ。贅沢な気分でいただけました。  地元の方が、第50代横綱 佐田ノ山の出身部屋・境川部屋のちゃんこをヒントにして考えられたという「五島ちゃんこ」を教えてくれました。今回は時間がないけど、次回、新上五島町を訪れた時には絶対味わいたいっ!  今度はいつ来ようか、ワクワクを胸に、帰りの船へと向かいました。 五島手延うどん協同組合 〒857-4211 長崎県南松浦郡新上五島町有川郷428-31 TEL:0959-42-2655   関連URL: http://www.goto-udon.jp/
  • “幻のうどん”とよばれる「五島手延うどん」 2014年03月27日
    “幻のうどん”とよばれる「五島手延うどん」
     五島の特産品として、「五島手延うどん」が有名です。 日本三大うどんのひとつにもあげられているこの「五島手延うどん」は、五島市や新上五島町のお店で食べることができます。  “幻のうどん”ってどんな味?どんな食感?さっそく食べに行ってきまーす♪  いただきまーす!  今までに食べたことのある他のうどんとくらべて、麺が細いな〜というのが最初の見た目の印象。  食べてみると、ツルツルツルツル〜っと滑らかなのどごしでありながら、しっかりコシもある。うん、おいし〜。出汁自体の味も良く、ついつい飲み干してしまいました。  さて、“幻のうどん”とよばれるワケが気になります。調べてみると、この麺にはいろんなヒミツがありました。  麺の原料となる小麦を五島のミネラル豊富な塩水(海水塩)で練り上げていること。  五島特産の椿油を麺に塗ってコーティングしていること。これによって麺がくっつかず、独特の風味を生み出すことができるそうです。  そして、アゴとよばれる出汁。かつお節だけでなく、炭火で焼いて天日干しされた飛魚(長崎県ではアゴとよびます)を使うことで、上品なコクが出るとのこと。    「五島手延うどん」の麺の作り方ですが、小麦と塩水を混ぜ合わせる作業から完成まで、大きく分けて11ほどの行程を手づくりでおこないます。昔は各家庭で作っていたそうですが、現在では生産者が少なくなってしまい、“幻のうどん”とよばれるようになったようです。  メニューにはうどん単品だけでなく、新鮮な魚や干物などの海産物と組み合わせた定食などもあったりますので、五島手延うどんとセットで、五島の味を存分に楽しめそうですよ!    「五島手延うどん」は、インターネットで注文することもできますので、お試しにぜひどうぞ! 詳細情報 「五島手延うどん」についてもっと詳しく知りたい方は、2009年10月21日更新の「伝統の味・五島手延うどん」をご覧ください。   関連URL: http://tabinaga.jp/video/view.php?category=3&hid=200910211212
  • 鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム 2014年03月27日
    鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム
     みなさんは、鯨のことをどのくらい知っていますか?  今回は、上五島の北の玄関口・有川港の1階にある鯨賓館(げいひんかん)ミュージアムを紹介します。ここには鯨の生態や近代捕鯨までの歴史、鯨の食文化など、鯨に関する資料がたくさん! 資料やパネルの展示物や動画をとおして、鯨について詳しく知ることができます。  新上五島町・有川は、むかし鯨が多く回遊していたポイントで、銛(もり)突きによる“有川捕鯨(ありかわほげい)”が盛んにおこなわれていました。  さあ早速、日本でも珍しい鯨の博物館「鯨賓館ミュージアム」へ入ってみよう!  鯨やイルカの模型をはじめ、鯨に関する歴史資料など、とても充実した展示内容になっています。  鯨の進化の過程やイルカとの違いなど、これまであまり意識したことのなかった気づきもありました。  歴史については、江戸時代の有川捕鯨や近代捕鯨、鯨の食文化などが紹介されています。有川に伝わった捕鯨法や使用されていた道具をとおして、当時の人々がどのように鯨にかかわり、大切に親しんでいたのかがよくわかります。近代捕鯨のコーナーでは、捕鯨法や鯨の解体・利用、捕鯨船内の様子などについての資料を見ることができます。  五島での捕鯨方法は、突取(つきとり)式捕鯨法から網取(あみとり)式捕鯨法、そしてノルウェー式捕鯨法へと移り変わっています。捕鯨砲を用いたノルウェー式捕鯨法からが「近代捕鯨」と位置づけられていますが、この手法を日本で初めて導入したのが有川だということはあまり知られていません。南氷洋捕鯨の記録動画を閲覧できますので、近代捕鯨の様子を具体的に知ることができます。  また、現在日本が行っている調査捕鯨の様子や内容なども紹介されていますので、自分なりに現在の捕鯨について考えてみるのもいいかもしれませんね。 面白い展示  鯨の重さは、いったい自分の体重の何倍ぐらいあるのかな?  自分の体重を基準として、鯨の重さが何人分になるのかを測定できる機械があります。ちなみに私の場合、シロナガスクジラはなんと私の1586人分でした。  やっぱり鯨は大きいっー!改めて実感させてくれる結果でした。 鯨に関する史跡  鯨賓館ミュージアムで鯨について学んだあとは、周辺にちょっと足をのばしてみましょう。ここから徒歩圏内には、鯨に関する史跡がたくさんあるんですよ。  有川湾を見渡せる鯨見山には「山見小屋」が置かれ、鯨が来たことを知らせたり、出漁の合図などを行っていました。山見小屋のすぐ傍には、鯨の供養碑があります。碑文には、1691年(元禄4)から1712年(正徳2)までの21年間に、1312頭の鯨を捕獲したことが刻まれています。このような鯨供養碑は、有川対岸の新魚目(しんうおのめ)、五島市の富江町(とみえちょう)にもあり、この西海の地で鯨がいかに多く捕れていたかがわかります。  鯨賓館ミュージアムのそばには水難防止を祈願して龍神様を奉っている海童神社があります。ナガスクジラの顎の骨でできた鳥居があり、捕鯨で栄えた有川地域を代表するもののひとつです。この神社には、「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事があります。  1617年(元和3)から1619年(元和5)の間、毎年6月17日に限って、近くの海で遊泳する者の溺死が相次いだといわれています。人々が気味悪く思っていると、時の乙名役(おつなやく)、高井良福右衛門の夢枕に海神様が立ち、 「わしは、この地にずっと昔から住んでいるものだが、誰も祀ってくれるものがいない。以後わしを祀るものがいれば、願いを叶える」 と言いました。さっそく福右衛門は、村の人々にはかり、当時小島だったこの地に海神様を祀って、即席の芝居を奉納したところ、溺死する者がいなくなったと伝わります。  これが今でも「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事として残り、例年7月の第4日曜日に行われているのです。花火を合図に海童神社に奉納され、その後三味線や太鼓を響かせながら町中に繰り出して、数カ所の踊り場で寸劇が演じられます。 息づく鯨文化  五島藩では、魚目が富江領に分立して有川の海は富江領とされたため、五島藩領であった有川村民の入漁猟が一切禁止されてしまったという歴史があります。  有川の甚右衛門正利は村民の窮状を救うため、藩の重役たちに必死で訴えを繰り返しましたが、富江は大村藩の深沢義太夫(ふかざわぎだゆう)に15年間の捕鯨権 を与えてしまいます。双方の争論は絶えず、ついに甚右衛門正利は江戸公訴を決意します。この事件は有川・魚目の海境争いとよばれています。  幕府評定所はその決死の訴えに、1689年(元禄2)、1690年(元禄3)と二度にわたり、有川村に海の権利を公認しました。  江戸へ行き直訴していた甚右衛門正利は、道中、鎌倉の弁天様に勝訴の祈願をしていました。有川の勝訴で決着したことから、1691年(元禄4)にこの分霊を浜の小島に祀り、有川鯨組の守り神として、年の初めに鯨漁の安全を祈ったそうです。それから300年余り、鯨組や有川の守り神として住民の厚い信仰を受けてきました。  毎年1月第三日曜日、鯨を捕まえる羽差(はざし)の姿をした若者たちが太鼓をたたき、鯨唄を歌いながら地区内を練り歩き、大漁、商売繁盛、家内安全を祈願する行事「弁財天(めーざいてん)」が行われます。約400年前の慶長年間に始まったといわれています。昔、弁財天でたたいていた太鼓には鯨の心臓の皮膜が張られていました。現在では手に入らないため馬の皮が使用されていますが、当時の太鼓が鯨賓館ミュージアムに展示されています。現在の太鼓とは音の響きが違いますので、ぜひ訪れた際には確認してみてくださいね。  2011年の弁財天は、1月16日(日)早朝から開始されます。弁財天宮をスタートし、有川の町の中を練り歩きます。鯨賓館ミュージアムでは鯨の肉をふるまうこともあります。ぜひお出かけください。  弁財天(メーザイデン)のほかにも、有川では8月にスケッチ大会、10月には鯨丼祭りなど、鯨にまつわるイベントがいろいろ開催されます。有川港・鯨賓館ミュージアムを中心として、近隣の広場や徒歩圏内の史跡で行われるものが多いので、お出かけの際は、イベント情報もぜひチェックしてみてください。 鯨賓館ミュージアム 【開館時間】 午前9時〜午後5時 【入館料】 一般・・・200円 (団体・15人以上・・・150円) 小・中学生・・・100円 (団体・15人以上・・・50円) 【休館日】 毎週月曜日、年末年始(12月29日〜1月3日) 【お問い合わせ】 〒857-4211 長崎県南松浦郡新上五島町有川郷578-36 TEL:0959-42-0180   URL: http://k101ow01.town.shinkamigoto.nagasaki.jp/geihinkan/index.html
  • ながさき音楽祭2007「しまの教会コンサート」 2014年03月28日
    ながさき音楽祭2007「しまの教会コンサート」
    〜上五島の皆さんへ感謝を込めて〜  "長崎からはじまる新しい音楽祭「ながさき音楽祭2007」"が、県内各地をステージに繰り広げられているこの秋(9/4〜10/28)。 「育てる」「創る」「楽しむ」「賑わう」をテーマに、日本のトップアーティストや地元長崎の演奏家たちが贈る"音楽の祭典"の2ヶ月間です。 期間中、教会や酒蔵、美術館といった長崎らしいロケーションでのコンサートをはじめ、ヤングマーチングパレードやセミナー・講座など、各地で音楽が奏でられます。  9月15日(土)と16日(日)には、新上五島町にある美しい教会を会場とした「しまの教会コンサート」が開催され、神聖な空間に若いアーティストたちの澄んだ音色が響きました。  今回は、とっても素敵で幸せな時間を過ごした「しまの教会コンサート」の模様を、上五島の皆さんへの感謝の気持ちとともに、お届けします。  台風11号の接近で天候が心配されるなか、「しまの教会コンサート」のメンバー6人は、新上五島を訪れました。  ピアノの江川敦子さん、ソプラノの松下知子さん、フルートの村中彩也花さん、クラリネットの小田智子さんの4人と、県庁のスタッフ2人。 演奏者の4人は、初めての上五島とあって、ちょっとワクワクドキドキです。 アウトリーチ編〔第1日目(9月15日(土))午前〕  第1日目の午前中は、鯨賓館のホールを会場に、小中学生のみなさん約30人と一緒に音楽を楽しみました。  4人のお姉さんが、音楽祭のお揃いのポロシャツで登場。 それぞれ、楽器の特徴や音が出るしくみなどをわかりやすく説明し、曲を演奏します。  フルートの村中さんは「みんなにペットボトルを持ってきてね」とお願いしていました。 何をするのかな? 実は、ペットボトルを使って、音が鳴るように息を吹き込む体験をしてもらいました。  クラリネットの小田さんは、楽器をバラバラに収納したケースから部品をひとつずつ取り出して、組み立てながら説明。 リードが信じられないくらいの早さで振動して音を出しているという話にみんなビックリでした。  ピアノは誰でも見たことがある楽器ですが、意外と知らなかった!江川さんは3つのペダルがどんな役割をしているか、子どもたちをピアノの周りに集めて、どこが動いているのかじっくり観察してもらいながら紹介してくれました。  最後に松下さんが登場。あれ、楽器を持っていない!? そう、声です。 コーラス部の小学生のみなさんは、どうすればしっかり声を出して歌うことができるのか興味津々。 頭のてっぺんから出ているようなきれいな声と声量に、みんな聞き入っていました。  最後は、みんなで「千の風にのって」を大合唱。 指揮者として初デビューの県スタッフE氏も大はりきりでした。 中ノ浦教会コンサート編〔第1日目(9月15日(土))夜〕  第1日目の夜は中ノ浦教会でのコンサート。 午後2時には教会に到着。 入り江の水に姿を映す中ノ浦教会のロケーションに感動しながら教会の中へ。 赤い花のデザインが可愛らしく、神聖な中にもホッとさせてくれる優しい感じの教会です。 しばしその雰囲気を味わったあと、早速リハーサルを開始。 台風接近のせいか、異常なまでの蒸し暑さの中で、4人の演奏家たちは汗だくになりながらも、聖堂の広さや天井の高さ、床のじゅうたんなどに微妙に影響される音の響きを確認しつつ、本番までの時間を惜しんで練習です。  夕方6時30分開演。午前中のアウトリーチに参加していた子どもたちも来てくれています。 知っている顔があるのは嬉しいですね。 第一部は、フルート、クラリネット、声楽、ピアノと、それぞれの音色をソロでお聴きいただき、第二部ではアンサンブルを楽しんでいただきました。 クラシックということで眠たくなるかなと思った方もいたかもしれませんが、どこかで聴いたことのある曲がたくさんあって、リラックスした雰囲気のなかで聴いていただけたのではないでしょうか。 教会の雰囲気にもぴったりあった曲目で、厳かながらも心地よい空気を創り出していました。  この日は、実は4人のなかのひとりの誕生日。思い出深い一日となりました。 蒸し暑いなか、最後まで聴いて、あたたかい拍手を送ってくださった皆さん、本当にありがとうございました。 青砂ヶ浦教会コンサート編〔第2日目(9月16日(日))〕  第2日目は青砂ヶ浦教会でのコンサート。 到着すると、日曜日の朝のごミサがあっていて、窓から聞こえてくる祈りと聖歌に心があらわれます。 昨夜の中ノ浦教会とはまた違った、レンガづくりで荘厳なイメージの外観です。 曇りの天気にもかかわらず、中に入るとステンドグラスがやわらかな光を映しだしていました。  この教会は、もうすぐ100年を迎える歴史のある建物で、国の重要文化財に指定され、世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の候補にもなっています。 キリスト教が弾圧された禁教時代、約250年もの長い間、迫害に耐え、県内各地に潜伏していたキリシタンたちは、1865年の大浦天主堂での信徒発見後に次々と信仰を表明し、貧しいなかにも喜びのうちに信仰の証として、手づくりの教会を建てたのです。 こんな劇的な歴史性を背景に、今も信者の皆さんの手によって守られ、祈りの場として息づいている教会のすばらしさに、4人の演奏家たちの緊張も高まります。  リハーサル中に、帰りを予定していた午後の長崎行き高速艇の欠航が決定。 時間を気にすることなく演奏に集中できて、かえって良かったかも・・・。 ちょっと嬉しい足止めです。 でも、ときおり降る大雨にお客様の出足が心配。 4人の演奏家たちは昼食の時間も惜しんで、ギリギリまで練習を続けていました。 開演30分前、まだリハーサルが続く会場に、お客様が入り始めました。  お昼1時30分開演。 会場は満席。 聖堂内に、ナマの音と声が、演奏家の息づかいとともに響きわたります。 アヴェマリアに涙している方もいらっしゃいました。 じっと聴き入ってくださる優しい顔も見えました。 最後は、会場の皆さんも一緒になってアメージング・グレイスを大合唱。 みんなの心がひとつになって、そしてみんなの声がハーモニーとなって、なにか不思議な一体感に教会が包まれ、感動のうちにコンサートが終わりました。  思いがけず、高校生たちから花束を贈られた4人の若き演奏家たちの笑顔は最高に輝いていました。 忘れられない「しまの教会コンサート」となりました。 神父さま、信者のみなさん、そしてあたたかく迎えてくださった上五島の皆さん、本当にありがとうございました。 参考資料 ながさき音楽祭2007
  • 五島藩2 2014年03月28日
    五島藩2
    ■ 富江領の成立 前回の「五島藩・第1回」の中でも少し触れた富江領の成立について、もう少し詳しくご紹介しておきましょう。 五島藩では、1654年(承応3)に五島盛次(もりつぎ)が3代藩主として盛利の跡を継ぎますが、翌年(明暦元)江戸で急死してしまいます。盛次の嫡子・万吉はまだ11歳と幼かったため、幕府は後継者の収拾策として、叔父である盛清を後見役とし、五島家を存続させる方針をとりました。 盛清は、万吉の後見役として入部し、このとき五島領内において3,000石分知の許しがあったのではないかという説もあります。 万吉は1660年(万治3)に元服して盛勝を名乗ります。後見役を解かれた盛清は、旗本になる運動を展開し、1662年(寛文2)には富江分知が完了。盛清は、富江を城下として青方(あおかた)、魚目(うおのめ)、北魚目、宇久島の一部、神浦(こうのうら)、飯良(いいら)、椛島、福江島の黒島を領有することとなりました。 盛清以降、2代目の盛朗(もりよし)は成章館を創設し、6代の運竜(ゆきたつ)は11代将軍・徳川家斉(いえなり)の大番頭をつとめました。盛運の時代には、海産物の運上金も上がり、領民の生活はとても豊かだったといわれています。また、7代盛貫(もりつら)は徳川家の一門・津山家出身で、14代将軍・徳川家茂(いえもち)の侍役をつとめています。 有川と魚目の海境論争 鯨見山から見た風景 五島列島の地図を見るとよくわかりますが、有川(五島藩)と魚目(富江領)は、有川湾をへだてて南北に相対する漁村です。有川湾は、鯨を追い込むのに適しており、有川村名主・江口甚左衛門正明(じんざえもんまさあき)は、紀州古座浦の三郎太郎と鯨組を組織し、鯨漁をおこなっていました。 江口甚右衛門正利之像 しかし富江領が分立したことから、魚目村は富江領に属することになり、有川湾のほとんどが富江領のものとなりました。さらに富江領は大村藩の深沢義太夫に15年間の捕鯨権を与えてしまいます。有川湾の漁業権を失うということは、有川村にとって死活問題でした。論争は絶えず、江口甚左衛門正明の跡を継いだ甚右衛門正利は、ついに江戸公訴を決意します。甚右衛門正利は、江戸へ何度も上京しました。 幕府は、有川・魚目双方の話をきき、1689年(元禄2)、1690年(元禄3)と2度にわたり、魚目側の主張を退け、有川側に海の権利を公認しました。 その後1771年(明和8)から1817(年文化14)の約40年にわたった第2回海境論争では、有川側、魚目側の海岸はそれぞれの権利で、沖はどちらでも勝手にとってよいという内容に決まりました。しかし、海境争いを繰り返している間に、鯨漁はしだいに衰退の一途を辿ります。 鯨見山にある山見小屋 鯨供養碑   成章館 五島藩では、8代藩主・五島盛運(もりゆき)が江戸藩邸にて、永富独嘯庵(どくしょうあん)に儒学を学んだことをきっかけとして、1781年(天明元)、石田陣屋内に藩校・至善堂を創設しました。 富江領では、2代・盛朗(もりよし)が五島藩よりも早く、1688年(元禄元)に成章館(せいしょうかん)を設立しました。1803年(享和3)に6代・運竜は成章館を移転拡張し、1845年(弘化2)には7代・盛貫がさらに規模を拡張しながら自ら講義をおこなったといいます。 成章館では、主に、読み、書、算、武術を教えていました。家老や文学に長けたものが総裁となり、武士の中でも学力あるものは教師となっていたそうです。 また7代の盛貫は、異国船方在役を命じられていたこともあり、武術の鍛錬も厳しかったといわれ、砲術の研究家として当時は名を知られていたそうです。   潮合崎(しおやざき)騒動 龍馬ゆかりの地 1866年(慶応2)5月2日未明、江ノ浜潮合崎(しおやざき)でワイルウェフ号が遭難し、船将である高泉十兵衛ら12人が溺死するという事故が起こりました。 1865年(慶応元)、坂本龍馬が薩摩藩や長崎商人の援助を受け、神戸海軍操練所の塾生たちとともに、日本初の商社を長崎・亀山の地に設立しました。ワイルウェフ号は、亀山社中が海運業で商売をするため、龍馬たちが薩摩藩の支援によってやっと手に入れた洋式帆船でした。 1866年(慶応2)4月28 日、ワイルウェフ号は長崎を出港し、薩摩を目指しましたが、途中大暴風雨に遭って漂流し、5月2日暁、潮合崎で暗礁に乗り上げ転覆したのです。乗組員4人を除いて他は死亡しました。この事故はただちに福江藩庁、薩摩長崎屋敷に報告されました。   両藩の役人は現地入りして遺体の収容などにあたり、遭難者埋葬し供養しました。龍馬は、同志の霊を弔うため、資金を添えて建碑を依頼したといいます。この騒動で龍馬は、同郷の仲間でもあった池内蔵太(いけくらた)を失いました。墓碑は、ワイルウェフ号が遭難した潮合崎を望む広場から歩いて5、6分の江ノ浜集落の中にあります。 広場は公園になっており、「龍馬ゆかりの地」と記された石碑とともに、同型帆船の写真やかじとり棒と推定される原寸大の模型が設置されています。実物は、近くの民宿で展示されています。   富江騒動 幕末は、勤王と佐幕に分かれて争っていた時代でした。 そんななか、五島藩は、藩主・五島盛徳(もりのり)が1863年(文久3)に京都御所にて忠誠を誓い、勤王派として積極的に活動しました。1868年(明治元)には進んで版籍奉還を上願し、京都御所の守備にあたりました。また1870年(明治3)の東京遷都の際には一小隊を送って警固にあたっています。 富江領では、8代目領主に奥州植田藩主溝口直景の弟・銑之丞を養子として迎えます。銑之丞は名を盛明と改め、将軍家茂に謁見し、富江領主となりました。7代・盛貫は将軍家茂と血のつながりがあり、8代・盛明は奥州植田の出身であったので、富江領は当然外部からは佐幕派とみられていました。盛明は、1868年(慶応4)に京都へ赴き、本領安堵の御朱印を貰いましたが、その後朝廷での審議により、富江領3000石を五島藩に合藩するということが決定しました。 この合藩に反対したのは、富江領主や重臣たちだけでなく、領民たちも同じでした。宇久や魚目、椛島の領民たちは次々と富江に集まり、15歳以上の男子は竹槍を持って警備にあたるなど、合藩反対運動は予想以上に大きなものとなりました。五島藩関係者を襲撃したり、家などを焼き討ちしたりと暴徒化した領民もいたといわれています。 慌てた五島藩は、藩役人を富江領近くへ出張させ、30名ほどに武装させ、海上には監視船を出させました。さらに町人たちも武器として棒などを持ち、富江領からの攻撃に備えたといいます。五島藩、富江領、双方ともに戦う体制が整い、緊迫した状況となっていました。 しかし、双方とも攻めかける企図はなく、戦うことはありませんでした。富江領今利家老は、五島藩の要請もあって単身で福江城へと登城し、五島藩の重臣たちと事態収拾の話し合いをおこないます。富江に戻った今利家老は、領主・盛明へ報告し、翌日、盛明が重臣たちを陣屋に集めて下る訓諭をしたため、富江側の一揆は鎮静化しました。 この騒動の件は長崎役所にも届き、富江家老2名が出頭することとなりました。当時の長崎府には、長州藩からの出仕役・参謀であった井上聞多(馨)がおり、この騒動を引見しました。井上は富江領に同情的で、辛抱するよう諭したといいます。この富江騒動は、単に富江の一揆という問題ではなく、長崎府ひいては全国的な地方治安に関する大きな問題だと認識されました。 井上は、実情を把握するため、薬師寺久左衛門と高松清一とともに五島へ渡っています。井上は盛明と対談し、宣撫訓諭するところが見受けられ、今後謹慎を誓ったので安心して福江に引き上げました。井上に随行していた薬師寺と高松の2名は、善後策のため富江領地を視察し、領内宣撫に努めました。しかし、有川と長い期間をかけて海境論争を展開してきた魚目の領民をなかなか説得できず、手を焼いたといいます。 旧領回復をあきらめきれない富江領は、新政府に復領嘆願を行います。しかし、1869年(明治2)、検分に訪れた明治政府監察使・渡辺昇(のぼり)が、今利家老をはじめ藩士一同を集め、朝命遵守を訓諭したため、復領嘆願も功を奏しませんでした。 現在の富江小学校付近に富江陣屋が築かれたといいます 盛明は家臣を率いて上京し、復領嘆願に尽力しました。朝廷は実情やむなしと判断し、富江に代替地として北海道後志国磯谷郡に1000石の復領地を用意しました。しかしその後盛明は中太夫の称号を廃され、士族となり禄制も改められました。これでは富江領家臣200余名を養っていくことは出来ません。ここで五島盛清以来、領主8代続いた富江領は、解散することとなりました。 この一連の騒動を「富江騒動」とよんでいます。 五島のキリシタンと信徒発見〜信徒発見と五島のキリシタン 大浦天主堂 1863年(文久3)、パリ外国宣教会のフューレ神父は、長崎の大浦居留地で教会の建築に着手しました。翌年、プチジャン神父によって完成した大浦天主堂は、「日本二十六殉教者教会」と命名されました。当時の日本人は、この美しくめずらしい教会を「フランス寺」とよび、大勢の市民が建築中から見物に押し寄せたといいます。しかし、当時の幕府が信仰の自由を認めていたのは居留地の外国人だけで、日本人はまだキリシタン禁制の時代でした。 教会の正面には、プチジャン神父らの意向によって、漢字で「天主堂」の三文字が記されました。この文字には、潜伏中の日本人キリシタンを探し出したいという強い思いが込められていたそうです。大浦天主堂のことは、これまでひそかにキリスト教の教えを守り貫いてきた浦上村の潜伏キリシタンたちに伝わりました。意を決した男女十数名が命がけでフランス寺へ向かい、プチジャン神父に自分たちはキリシタンであることを打ち明けました。この出来事は「信徒発見」とよばれ、キリスト教史上の奇跡ともいわれています。 上五島の若松島・桐古(きりふる)に住んでいたガスパル与作は、フランス寺が教会であることを知り、父親の許しを得て、大浦天主堂で教理を学び、伝道師となりました。この話は下五島の久賀島にも伝わり、島のかくれキリシタンたちのまとめ役であった帳方(ちょうかた)の栄八と水方(みずかた)の善太も長崎へ赴き、カトリックの洗礼を受けました。1869年(明治2)には伊勢松、善五郎の二人も長崎へ行きましたが、長崎港福田で役人に捕らえられます。メダイを所持していたために嫌疑がかかり、五島住民であることを自白したので、五島藩に送り返されてしまいました。 頭ケ島教会 また上五島の頭ケ島には、上五島随一のキリシタン頭目・ドミンゴ松次郎がいました。父の代に黒崎村出津から鯛之浦に移住し、紺屋として成功しました。のちに頭ケ島に移って、自分の家を仮聖堂とし、青年たちに教理を教えていたといいます。この仮聖堂が「花の御堂」といわれる頭ケ島教会のはじまりといわれています。 久賀島(ひさかじま)での迫害から全島へ 1866年(慶応2)、久賀島。神仏を棄て、キリシタンとして生活したいと代官に申し出た信者23人が捕らえられ、福江の牢へ送られました。しかしこのとき、五島藩では富江騒動が起きたため、23人は久賀島に戻され、キリシタン200人とともに、わずか6坪の牢屋に押し込められました。入牢者の中には乳児もいました。 牢では立ったまま身動きができず、多くはせり上げられた状態で、地に足がついていなかったといわれています。朝夕にサツマイモ1切れずつを与えられるだけだったといいます。衛生状態も悪く、老人や子どもたちをはじめ、次々と命を落としていきました。約8ヶ月の入牢生活で死者は39人、牢から解放された後にも3人が息をひきとったそうです。 プチジャン神父はこの惨状をフランス公使ウートレーに訴えました。外交問題にまで発展したため、外務卿の伊達宗城(むねき)は五島盛徳に対し、領民の中にキリシタンがいてもその処置は長崎府に任せるよう警告したといわれています。 久賀島の牢跡は、「牢屋の窄(さこ)」として、現在も久賀島に記念碑と聖堂が建っています。 また、信徒発見後に信仰を公にした福江島・楠原でも迫害がおこなわれます。1868年(明治元)のクリスマスの晩に水ノ浦、まもなく楠原にも迫害が及びました。33名が楠原の仮牢屋に押し込められ、その後水ノ浦牢に移され、1871年(明治4)に釈放されるまで拷問を受けたといいます。 キリシタンの迫害は五島全島に及びました。 楠原教会 楠原の仮牢屋跡 捕らえられたキリシタンのほとんどは、そろばんのように凹凸のある板を正座した足の上に乗せられ、重さを増やしていく算木(さんぎ)責めという拷問などで棄教を迫られました。また「郷責め」といって、地元住民たちによる迫害が激しかった地域もありました。キリシタンたちを大きな柱に縛りつけ、割れ木や青竹で殴ったり、家財や食料などを奪うこともあったといいます。 1870年(明治3)、上五島の鷹巣(たかのす)では、4人の郷士が新刀の試し斬りと称して、キリシタンの家に押しかけ、妊婦を含む6人を殺害するという事件が発生しました。加害者の郷士4人は長い入牢生活の後、切腹を命ぜられました。この4人の切腹によって、五島でのキリシタン迫害は終息したといわれています。 頭ケ島教会内部 青砂ケ浦教会内部 キリスト教の五島列島への伝来は16世紀です。厳しい弾圧によっていったんキリスト教は途絶えましたが、新たに外海地方から信徒が海を渡り、五島で密かに信仰を守り続けました。 禁教が解かれた後、五島の地においても、信徒たちの手によって教会堂が建設されました。現在、長崎県内には全国のおよそ1割を占める130を超える教会堂がありますが、そのうちの40%が五島列島に集中しています。なかには明治から昭和初期にかけて建築された教会堂もあり、50数棟が現存しています。 五島の教会堂にスポットをあててみると、上五島にある頭ケ島教会や青砂ケ浦教会、下五島・久賀島にある旧五輪教会は、国の重要文化財に指定されています。また、世界遺産登録をめざす「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」※の資産候補となっています。 ※文化庁が国連教育科学文化機関ユネスコへ提出する世界文化遺産の国内候補暫定リストに、2007年(平成19)に掲載されています。 近年、癒しと安らぎを求めて“教会巡礼”に訪れる人も増えているようです。 建材や構造も教会によって異なるので、教会ひとつひとつに見応えがあり、かつその空間の中に安らぎを感じることができるのですが、想像を絶するキリスト教信徒への弾圧・迫害の歴史と、それでも受け継がれて現在も生きるその信仰心や祈る姿にも目を向けると、より一層感慨深いものがあります。 参考資料 旅する長崎学4 キリシタン文化IV『 「マリア像」が見た奇跡の長崎 』 旅する長崎学5 キリシタン文化V『 教会と学校が長崎の歴史を語る 』 旅する長崎学13 海の道III 五島列島『 海原のジャンクション 癒しの島々をめぐる 』 富江町郷土誌(平成16年2月発行) 「海鳴りの五島史」(郡家真一著 佐藤今朝夫発行) 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 歴史散策「富江陣屋跡」 1662年(寛文2)、五島盛清は、現在の富江小学校から富江中学校にかけて富江陣屋を築いたといわれています。 写真は、富江小学校運動場前です。 富江陣屋石蔵跡 富江領の石蔵跡。350年ほど経っても頑丈に残っているこの石蔵は、貴重な遺構の1つです。穀物を保存するために使われていました。 富江から見る鬼岳 富江町にある温泉センター近くから鬼岳がきれいに見えます。透明な海、澄んだ空・・・。島らしい自然を満喫できます。   ●富江の珊瑚 富江の特産品のひとつに「富江珊瑚」があります。1886年(明治19)、大分県の網漁師により、男女群島沖合で赤色の珊瑚が採取されたのが始まりといわれています。大正中期には、採取・加工はますます盛んになり、緻密な平面掘りに工夫を加えた「五島掘り」の技術が確立されました。 富江陣屋跡から福江港へ向かって徒歩10〜15分程度のところにある出口珊瑚では、彫刻法の技術を引き継いできた職人さんの仕事ぶりを見学できます。詳しくは こちら をごらんください。   周辺散策地図 富江小学校 富江中学校 鬼岳 出口珊瑚
  • 五島藩 2014年03月28日
    五島藩
    五島藩(福江藩)は、1603年(慶長8)に五島玄雅(ごとう はるまさ)が徳川家康に謁し、1万5千石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まります。1869年(明治2)の版籍奉還まで、長崎県の五島列島(小値賀島を除く)を五島氏が治めました。 五島藩を知るには、五島氏の歴史を知る必要があります。ちょっとさかのぼって鎌倉時代の五島列島から見ていきましょう! 宇久氏 五島列島の上に位置する「宇久島」。この島には、鎌倉時代、宇久氏がいました。当時宇久島の南にある「小値賀島」では松浦氏と藤原氏が争っていましたが、宇久氏が徐々に南下し、中通島へ勢力を広げていきました。1383年(永徳3)頃、宇久覚(さとる)は、宇久島から福江島の鬼宿(現在の岐宿:きしく)に移り、福江島の在地勢力との間で契諾状を交わし、平和的に領土を拡大していきます。1388年(嘉慶2)には宇久勝(すぐる)が岐宿から深江(現在の福江)に移り辰ノ口城を築き、1413年(応永20)には小値賀島を除く五島列島を統一したといいます。 玉之浦納(たまのうらおさむ)の乱、宇久氏から五島氏へ 1507年(永正4)、宇久囲(かこむ)が、妹婿の玉之浦納の反逆によって命を落とし、辰ノ口城は焼失しました。妻子はなんとか平戸に逃れ、その後1521年(大永元)に囲の子・三郎(のちの宇久盛定)が玉之浦納を討ち、再興を果たします。 1526年(大永6)、領主となった盛定は、あらたに深江(福江)川河口の丘に江川城を築き、近くには中国人倭冦の頭・王直(おうちょく)に「唐人町」を開かせたといいます。福江川付近には、唐人町の名残りとして「明人堂」や「六角井戸」が史跡として今も残っています。 1592年(文禄元)には、宇久純玄(すみはる)が、姓を「宇久」から「五島」に改めました。豊臣秀吉の朝鮮出兵や天下分け目の関ヶ原の戦いなどを得て、五島玄雅(はるまさ)が五島藩初代藩主となり、世の中の動きに翻弄されつつもその歴史を刻んでいきます。 明人堂 六角井戸 五島におけるキリスト教 宇久盛定の後継・純定(すみさだ)は病に伏し、1562年(永禄5)、イエズス会に要請して派遣されてきた日本人医師ディエゴの治療を受けました。その後、純定はシャム(タイ)から五島経由で平戸に入るポルトガル船に宣教師派遣を頼み、1566年(永禄9)にポルトガル人修道士アルメイダと日本人修道士ロレンソを迎え入れたといわれています。医師でもあったアルメイダは純定の高熱の治療をおこなって信頼を得ると、五島での宣教を許されました。こうして五島におけるキリスト教の歩みが始まります。 その後信徒の数は増え、純定の次男・純尭(すみたか)は洗礼を受け、1576年(天正4)に領主となると熱心に信仰しました。福江や奥浦(おくうら)、六方(むかた)に教会が建ち、信徒は2000人を越え最盛期を迎えます。 しかし、純尭がわずか3年で没すると、後継の純玄(すみはる:純定の孫)は、キリスト教を排斥しました。純玄が朝鮮出兵で死亡すると、純定の三男でキリシタンの五島玄雅(はるまさ)が跡を継ぎ、いったんはキリスト教も再興しますが、関ヶ原の戦い後、加藤清正らの勧めによって棄教しました。その後も宣教師たちは来島していましたが、1614年(慶長18)に発令された徳川幕府の禁教令を受け、後継の五島盛利は宣教師を追放し、弾圧を強化しました。 福江直り 五島藩の2代藩主・五島盛利(もりとし)は、初代藩主・玄雅(はるまさ)の養子として跡を継ぎます。1619年(元和5)に玄雅の息子・角右衛門の養子であった大浜主水(おおはまもんど)が、後継者としての権利を主張するとともに盛利の失政を幕府に直訴しました【大浜主水事件】。この事件を機に、五島藩は藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築いていきます。兵農分離を徹底し、全島から家臣たちを集めて福江城下へ移住することを強制しました。島の各地で勢力をたくわえる者がでないようとおこなわれた城下定住の政策は、「福江直り(ふくえなおり)」とよばれ、1634年(寛永11)に完了します。また、領内の検地を実施し、家臣たちの知行高を決定して、藩財政の立て直しもおこないました。 「三年奉公」制度 五島盛利の時代までは、朝鮮半島に歳約船2艘を送るなど、海外貿易で利益を得ており、財政は比較的豊かであったといいます。しかし1614年(慶長19)、五島藩の自由貿易港である江川口と唐船之浦(とうせんのうら)の二港が閉鎖されると藩財政はひっ迫してきました。 さらに4代藩主・五島盛勝(もりかつ)の時代には叔父・盛清(もりきよ)が3,000石を持って富江に分知し、五島藩から分かれたことも経済的に大打撃を受けました。捕鯨で一時は潤ったものの、捕鯨の衰退や異国船に対する沿岸防備役として課せられた軍役負担、異国船漂着時の取り調べや長崎への曳航費用の負担、1681年(天和元)から寛保、宝暦と続いた飢饉などによって、財政はどんどん苦しくなりました。 財政の立て直しを図るため、質素倹約に努め、知行の一部を返上させたり役人の数を減らしたりもしましたが、それでも足りず、1761年(宝暦11)、7代藩主・盛道(もりみち)のとき、五島史上悪政のひとつといわれる「三年奉公(ぼうこう)」が実施されました。 富江陣屋跡 五島盛清は、富江小学校の運動場あたりに富江陣屋を築いたといいます。 三年奉公は、百姓、町人の娘が2度離別されると、武家屋敷で3年間の無報酬奉公をさせるというもの。しかし2年後には、百姓、町人、職人、漁師の長女を除く娘たちはすべて、15、6歳になると家中奉公をさせられるようになり、半奴隷的な労働を課せられたといいます。そのうえ無調法があれば、結婚することに対してまで制裁がなされていたといいます。驚くことにこの制度は、明治初期まで約100年間続きました。 五島観光歴史資料館 五島におけるキリシタン関連の資料が揃っています。 1774年(安永4)、五島藩では人別改めがおこなわれました。その結果、百姓が激減していることがわかり、1792年(寛政9)、8代藩主・五島盛運(もりゆき)は大村藩に農民移住を要請しました。第一陣は福江島の六方(むかた)に108人が上陸、最終的には3,000人ほどが海を渡って、宇久島を除く五島列島各地に分散して移住したといいます。この移住者のほとんどが西彼半島(せいひはんとう)西側の外海(そとめ)の人々で、信仰保持の苦難に悩んでいたキリシタンでした。移住者たちは荒地を開墾しながら小さな集落をつくり、帳方・水方などの組織のもと、ひそかにキリスト教の教えを守り続け、その信仰を貫いていきました。 五島藩校・育英館 五島藩の教育は、8代藩主・五島盛運(もりゆき)の時に始まりました。盛運は江戸藩邸に居た当時、儒者・永富独嘯庵(どくしょうあん)に付いて儒学を学びました。盛運は、石田陣屋(のちの石田城)内の一角に藩校・至善堂を創設し、1780年(安永9)には独嘯庵の子・数馬を教授として福江に招きました。1783年(天明3)、全藩士に文武両道を奨励し、盛運自らも出席していたといいます。 1821年(文政4)、9代藩主・五島盛繁(もりしげ)のとき、城下東町に新たに校舎と演武場が建てられ、藩校は発展していきます。名称も至善堂から育英館と改められました。 1849年(嘉永2)には10代藩主・五島盛成(もりあきら)が新たに石田城を築いたため、城内北部に藩校を移しました。 育英館では漢字の修学が重視されました。和学、兵学、そして幕末期には算術も加えられました。生徒の主体は藩士の子弟で、7〜8歳になると入学させられました。足軽などの子弟は各自の意思により入学ができました。農工商の子弟は、ほとんど入学することはありませんでしたが、特に希望する者は入学が許可され、優秀であればその身一代のあいだ藩士として挙用し、米なども若干支給されたといいます。 次回の「歴史発見!長崎幕末編」五島藩の2回目では、富江領と幕末に起こった「富江騒動」、「信徒発見後のキリシタン」を中心に紹介していきます。 参考資料 旅する長崎学13 海の道III『 五島列島 万葉と祈りの道 』 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 「海鳴りの五島史」(郡家真一著 佐藤今朝夫発行) 歴史散策「石田城(福江城)跡周辺」 五島列島には、多くの異国船の接近や漂着がありました。長崎港での貿易を許されていたオランダと中国の船はもちろんのこと、イギリスやロシア、さらには朝鮮の船など多くの外国船の記録が残されています。五島藩は幕府から異国船方を命じられていましたが、1614年(慶長19)に江川城が焼失した後、本丸・天守閣などがない石田陣屋を築いただけでした。異国警備にあたる五島藩としては心もとなく、再三にわたり幕府に築城の許可を願いでていましたがなかなか許されませんでした。 寛政年間から幕末にかけて、ロシア、アメリカ、イギリスなどの列強国が来航し、鎖国政策をとっていた日本に開国を迫るようになります。さらに1808年(文化5)には、イギリス軍艦が長崎港に侵入し、オランダ人を拉致し、当時の長崎奉行が責任を取って切腹するというフェートン号事件が起きました。こうした情勢により、幕府は1849年(嘉永2)、五島藩に築城許可を与えました。石田城は、日本で最後に築城された城となりました。 石田城(福江城)跡 15年の歳月をかけて、三方を海に囲まれた海城・石田城は完成しました。しかしながら、日本はその後すぐに明治維新を迎え、石田城はわずか築城9年にして解体されてしまいます。現在は、本丸跡に県立五島高等学校、二の丸跡には五島家の祖を祀る城山神社をはじめ、文化会館、五島観光歴史資料館、市立図書館が建ち並んでいます。 五島氏庭園・心字が池 石田城完成間近に五島盛成が隠殿と庭園を造りました。庭園を造ったのは京都の僧・全正(ぜんしょう)といわれています。 本丸跡 石田城の本丸跡には、現在五島高校があります。 城山神社 五島家の氏神を祀っている神社です。 武家屋敷通り 石田城から歩いて10分ほどのところに武家屋敷通りがあります。2代藩主・五島盛利が中央集権体制をめざして各地に散在していた豪族や藩士を福江に住まわせた政策、「福江直り」の時につくられました。通りには市の文化財に指定されている松園邸と播磨邸跡があります。城下町の風情が漂い、観光スポットして多くの人々が訪れます。 常灯鼻 福江港から見えるところに常灯鼻があります。五島盛成が石田城を築城するにあたり、城の北東から吹き寄せる大波を防ぎ、築城工事を容易にするために築かせたといわれています。防波堤としての役割のほか、灯台としての役目も持っていました。   周辺散策地図 石田城跡 五島氏庭園・心字が池 本丸跡 城山神社 武家屋敷通り 常灯鼻
  • 明日の世界遺産に出会う島・上五島 2014年03月28日
    明日の世界遺産に出会う島・上五島
       上五島を旅していると、自然の中に溶け込むように佇む教会堂に度々出会います。その姿は木造、石造り、煉瓦造りと様々で、教会ごとに違う印象をあたえています。 新上五島町に点在するカトリック教会はなんと29。その信仰が歴史とともに静かに守り継がれていることを感じずにはいられません。自然と祈りのあるこの島に、近年、 癒しと安らぎを求めて“教会巡礼”に訪れる人も増えているようです。 さて、長崎県内には、教会堂をはじめキリスト教関連の歴史遺産が数多く残っていることはご存知のとおりですが、2007年(平成19)、文化庁は、 国連教育科学文化機関ユネスコへ提出する世界文化遺産の国内候補暫定リストに、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を掲載しました。文化庁の特別委員会は、 “西洋の建築技術と日本の伝統的建築技術の融合がもたらした質の高い造形意匠をとどめている”と評価しています。 こうして世界遺産候補となった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」ですが、その価値を象徴する構成資産候補として、上五島の歴史ある教会堂もピックアップされているのです。  1873年(明治6)、キリシタン禁制の高札が撤廃され、信者たちの手によって各地に次々と教会堂が建てられるようになりました。パリ外国宣教会からやってきた、 建築学の素養のある宣教師たちが教会を設計し、日本人の大工を指導したそうです。その代表とされる人物が、鉄川与助(てつかわよすけ)です。禁教のなかで密かに信仰を守り貫いたキリシタンたちの夢を、 すばらしい建築技術でかなえた人です。彼が設計した教会は30あまり、建築に携わった教会は50を越えるといいます。人生の大半を教会建築に捧げた鉄川与助ですが、自らは生涯仏教徒でした。 教会建築の先駆者「鉄川与助」  鉄川与助は、1879年(明治12)、上五島の建設業の家に生まれました。1901年(明治34)ごろ、パリ外国宣教会のペルー神父が設計・指導した旧曽根教会の建設に、大工として参加し、初めて西洋建築と出会います。 鉄川組をつくり、冷水教会を皮切りに、1907年(明治40)以降、自ら設計・施工をおこなっています。1908年(明治41)には日本建築学准員となり、明治から昭和にかけて長崎県内を中心とした九州各地に、木造、煉瓦造り、石造り、コンクリート造りの美しく堅固な教会堂を次々とつくりました。現在、国重要文化財、県や市の有形文化財に指定されているものも少なくなく、彼が手がけた教会堂には文化財的価値が認められています。もちろん、文化財指定後も、信者の人々が集い祈りを捧げている現役の教会堂がほとんどです。 上五島の教会を訪ねて  上五島にある29の教会を巡っていくと、どの教会にもそれぞれ独特な特長が見られます。煉瓦造りの荘厳さ、清楚な白い外観、珍しい石造りの教会などなど・・・。構造も建築素材もいろいろ異なり、内部の装飾にいたっても違う特徴や工夫が見られます。 また、教会の数だけ信徒たちの苦労があったことも忘れてはなりません。信徒たちは、貧しい生活の中から献金をしたり、女性や子どもまでもが煉瓦や石を運んだりしながら、長い年月をかけて教会の完成に力をそそぎました。    頭ヶ島教会は、全国的にも極めて珍しい石造りの教会です。島内で切り出した石を丹念に積みあげものです。 内部装飾のモチーフに使われている花は「椿」といわれ、地域性も豊かに表現されています。 石の冷たいイメージは全くない。  特長のひとつ、折り上げ天井。 花模様をあしらい、優しい雰囲気をかもし出しています。 特異な石造りの外観とあわせ、国内の教会堂建築史上、例のない構造といわれています。1910年(明治43)に着工し、 完成まで約10年の歳月がかかりましたが、そのあいだ信徒たちは、資金集めや労働奉仕など献身的な努力を続けました。  青砂ヶ浦教会は、高台にある赤煉瓦造りの教会です。宣教師たちは、ここ青砂ヶ浦を、迫害が終わった後の上五島の活動の拠点としました。最初の教会は山手にありましたが、1889年(明治22)に違う場所に建てかえられ、さらに1910年(明治43)、鉄川与助の設計で現在地につくられました。50戸あまりの信者が建設費を拠出し、みんなが労働奉仕をおこなったそうです。 当時は道路が整備されておらず、海辺から建設現場までの階段を歩いて、人力で石や煉瓦などの資材を運んだといいます。女性も煉瓦をかつぎ、子どもたちも小さいながらに手伝い、信徒たち全員の力によって完成した教会です。 煉瓦造りであるが、入り口の円柱やアーチなど随所に石材も用いられている 柱頭の装飾も繊細で美しく、荘厳さをかもし出している 第2次世界大戦中に没収され、奈摩地区の警戒警報として使われたアンジェラスの鐘  信徒たちが厳しい弾圧と激しい迫害をくぐりぬけて生活してきた土地。そこに建つ教会は、ひっそりと農業や漁業を生業として営んできた景観と一体化して、優れた文化的景観を形成しています。 さらに、想像を絶するキリスト教信徒への弾圧・迫害という歴史のなかで、消えることなく綿々と受け継がれて今に生きる信仰の姿も重なり合い、 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」は世界遺産の候補として、暫定一覧表に掲載されることとなったのではないでしょうか。 上五島の教会は決して大きくもなく派手さもないけれど、訪れる人々をそっと包んでくれるような優しさがあります。癒しとやすらぎを与えてくれる上五島の教会めぐりへ、 ぜひ出かけてみませんか。 ★長崎県におけるキリシタン文化の歴史については、「 旅する長崎学 キリシタン文化編(全6巻) 」をご覧ください。 “明日の世界遺産を訪ねる教会めぐり”〜上五島の取り組み〜  特定非営利活動法人 新上五島町観光物産協会では、1名様からでも教会めぐりコースへの参加を受け付けています。 所要時間は約6時間です。完全予約制ですので、必ず事前に申し込みをしてください。 新上五島町の教会一覧ページへ  また10月には「上五島教会めぐりウォーク&クルーズ」を開催しています。 教会めぐりイメージ: 新上五島町観光物産協会提供  秋空のもと、海・山・教会・風を感じながら上五島を満喫する2日間のイベント。 ウォーキングを楽しみながら教会をめぐります。途中、クルージングにて若松島周辺を探訪し、 船でしか渡ることができない「キリシタン洞窟」も訪れます。  そして冬の上五島をあたたかく彩るイベント「チャーチウィーク in 上五島 教会コンサート」が、12月におこなわれます。 教会がイルミネーションで飾られ、上五島は光の島へと変わります。 それぞれの教会ごとに趣向を凝らしたイルミネーションの輝きを楽しみながら、教会を会場に開かれるコンサートに参加してみましょう。ライトアップされた静寂な教会堂に響き渡る管弦楽の音色、そして厳かな聖歌に満たされる空間は、素敵な冬のひとときを過ごさせてくれます。 チャーチウィーク in 上五島 教会コンサートイメージ: 新上五島町観光物産協会提供 ★新上五島町内の観光施設に行くと、教会めぐりに関するガイドブックが手に入ります。内容も充実しており、教会の開閉時間やアクセスマップ、 交通手段、駐車場台数などの情報がわかります。ただし、教会見学のマナーとして守らなければならないこともありますので、気をつけましょう。 教会巡礼のマナー   参考資料 ・『 旅する長崎学4 キリシタン文化IV 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) ・『 旅する長崎学5 キリシタン文化V 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) ・『 旅する長崎学6 キリシタン文化 総集編 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) ・『教会を訪ねて 新上五島町教会巡り』(特定非営利活動法人 新上五島町観光物産協会リーフレット)