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しまエリア

  • 第12回 城下町“厳原”を巡る 2010年05月12日
    第12回 城下町“厳原”を巡る
     ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「城下町“厳原”を巡る」です。  厳原(いづはら)は、宗氏が1486年(文明18)に佐賀(さか:峰町)から移館して以降、約380年間続いた城下町です。対馬藩時代の武家屋敷跡や朝鮮通信使ゆかりの地など格式ある10万石の城下町を歩き、日朝関係の継続に尽力した歴史にも注目しましょう! 散策エリアの位置をチェック 散策コース&マップ 長崎県立対馬歴史民俗資料館 ↓歩いて約5分  金石城跡(かねいしじょうあと) ↓歩いて約5分 万松院(ばんしょういん) ↓歩いて約8分 以酊庵(いていあん)跡 ↓歩いて約10分 八幡宮神社(はちまんぐうじんじゃ) ↓歩いて約10分 対馬藩家老屋敷跡・武家屋敷(つしまはんかろうやしきあと・ぶけやしき) スポットの紹介 長崎県立対馬歴史民俗資料館 ※ドライブルート(2010年5月6日更新)のスタート地点  まず対馬の歴史を知るために、県立対馬歴史民俗資料館からスタートしましょう。  対馬の文化財、考古学資料、民俗資料、宗家文庫などを収蔵・展示しています。  詳しくはこちらをご覧ください。 金石城跡(かねいしじょうあと)   金石城跡   櫓門  1528年(享禄元)に起こった宗盛治の兵乱で、宗氏の「池の館」は炎上焼失しました。その後、清水山の麓の島分寺(国分寺)があったと伝えられる金石(かねいし)に、 宗家14代将盛(まさもり)は館を移して「金石の館」と称しました。そして1699年(寛文9)に21代義真(よしざね)が城郭を改修し、櫓を築いて「府城(ふじょう)」または「金石城(かねいしじょう)」とよばれました。この時代は、全国的に豪壮な築城が流行していましたが、対馬では天守閣をもつ城は築かれていません。  櫓門は1919年(大正8)に解体されましたが、1990年(平成2)に当時の写真や模型にもとづいて再建されました。 □ 旧金石城庭園  国の名勝に指定されている庭園は、当時を偲ばせてくれます。  2008年(平成20)の発掘調査により遺構の全容が明らかになりました。  玉砂利敷きによる洲浜は奈良時代から平安時代にかけて流行した様式で、近世庭園としては希少な意匠・構造をもっています。 対馬独特の風土を活かした作庭精神と骨格がきわめて良好なことから、2007年(平成19)に国の名勝指定を受けました。 ■お問合せ先: TEL:0920-52-5454 ■休園日 : 火曜日・木曜日 ■開館時間: 9:00〜17:00(16:30まで受付) ■見学料 : 一般300円 小・中学生100円 □ 李王家・宗伯爵家御結婚奉祝記念碑(りおうけ・そうはくしゃくけごけっこんきねんひ)  1931年(昭和6)、朝鮮王朝最後の李太王「高宗」の王女徳恵(とくへ)と、対馬藩主の後裔伯爵宗武志(たけゆき)の結婚式が東京で日本式に行われました。同年、二人は対馬を訪れ、島民の歓迎を受けました。しかし、戦後両国の関係悪化のなか、誤解や風説が流れ、1955年(昭和30)にやむなく離別することになりました。徳恵は1989年(平成元)に故国において永眠。宗武志は貴族院議員として活動していましたが、1985年(昭和60)に亡くなりました。白秋門下の詩人としても活躍し、何冊もの詩集を発行しています。  その後両国のなかで歴史が見直され、日韓交隣を促進する声があがり2001年(平成13)に対馬と韓国の両方で「記念碑復元実行委員会」が発足し、旧金石城庭園の近くに記念碑が建立されました。 万松院(ばんしょういん)  山門は、現存する対馬最古の建物で桃山様式を伝える貴重な建造物です。照葉樹林に覆われた山腹の宗家歴代の墓地がある一帯も含め、「対馬藩主宗家墓所」として国の史跡に指定されています。宗家墓所は、金沢の前田家、荻の毛利家の墓地とともに日本三大墓地といわれています。  1615年(元和元)、対馬藩2代藩主(宗氏20代)の義成(よしなり)が、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い、朝鮮国交回復と苦難を重ねた初代藩主(宗氏19代)・義智(よしとし)の供養のため、金石屋形の西の峰に松音寺を創建しました。1622年(元和8)には、義智の法号にちなんで万松院と改めました。1647年(正保4)に現在地に移り、累代の菩提寺となりました。義智から15代藩主・義和(よしより)までの歴代藩主と正夫人の墓があります。  墓所は、百雁木(ひゃくがんき)とよばれる132段の石段を登った山腹の御霊屋(おたまや)にあります。中御霊屋には、厳原に最初に府を開いた宗氏10代貞国(さだくに)の墓もあります。なかでも朝鮮貿易が活況を呈し藩財政が潤っていた頃の2代藩主・義成、3代藩主・義真(よしざね)とその夫人の墓は上御霊屋にあり、ひときわ偉容です。 ■拝観料: 大人300円 高校生200円 小・中学生100円 以酊庵(いていあん)跡  宗家16代・宗義調(よししげ)に招かれて、博多聖福寺の景轍玄蘇(けいてつげんそ)が対馬にひらいた禅寺を以酊庵とよびました。  景徹玄蘇は、豊臣秀吉・徳川家康の命令で、朝鮮との外交文書をこの以酊庵で取り扱かったといいます。玄蘇の弟子・規伯玄方(きはくげんぽう)が第2代となりましたが、1635年(寛永12)の柳川一件(日本と朝鮮間の国書偽造をめぐって、対馬藩主と家老が対立した事件)に関与したことから、陸奥国に流罪となりました。  柳川一件以降、以酊庵は輪番制として、京都五山から輪番で対馬へ派遣させることになりました。対馬に派遣された僧は、以酊庵に駐在して朝鮮との外交に関する往復文書を取り扱いました。輪番制には、対馬藩の朝鮮外交を監視する意味も含まれていたといいます。  以酊庵は何度か場所を変わりましたが、1732年(享保17)に西山寺に移りました。また、朝鮮通信使の宿泊所にも使用されました。
  • 第12回 韓国外交に奮闘した島 2010年05月06日
    第12回 韓国外交に奮闘した島
     このコーナーでは、長崎県内の歴史を探っていく旅のドライブルートを紹介しています。  今月の注目エリアは『対馬』です。旅の必携アイテムは『旅する長崎学12』です。2009年7月に紹介した『韓国に一番近い島「対馬」』では主に対馬の北部を旅しましたが、今回は南部を中心に紹介します!  対馬がはじめてという人は、先にどんなところかチェックしておこう。 対馬の位置 対馬へのアクセス 対馬をドライブする 体験プログラムを利用する 今回のドライブルート 厳原港 ↓車で約5分 長崎県立対馬歴史民俗資料館〜厳原の城下町風景 ↓車で約5分 お船江跡 ↓車で約20分 尾浦海水浴場 ↓車で約15分 アカハラダカ観測地 ↓車で約15分 あゆもどし自然公園〜龍良山原生林 ↓車で約20分 銀山上(ぎんざんじょう・しろかねの)神社 ↓車で約20分 椎根(しいね)の石屋根 ↓車で約5分 小茂田浜(こもだはま)神社 ↓車で約3分 対州そば〜体験であい塾「匠」 ↓車と徒歩で(三ノ城戸まで)約1時間 金田城跡 スポットの紹介 厳原港 案内は「やんこもくん」。2009年7月に続いての登場です。よろしくね。 長崎県立対馬歴史民俗資料館  まず対馬の歴史を知るために、県立対馬歴史民俗資料館からスタートしましょう。  対馬の文化財、考古学資料、民俗資料、宗家文庫などを収蔵・展示しています。なかでも、日本と朝鮮の修交を目的として派遣された通信使の行列の様子がわかる絵巻など“朝鮮通信使”に関する資料が充実しています。このほか、伊能忠敬(いのうただたか)一行が測量に訪れたときに絶賛したという1700年(元禄13)完成の「対馬国絵図」など貴重なものも収蔵されています。  資料館のそばには、「誠信之交隣」と題した雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の顕彰碑や「朝鮮国通信使之碑」が建っています。 雨森芳洲顕彰碑 朝鮮国通信使之碑 #10" class="btn basic_btn">若田石硯とは? お問合せ先 体験であい塾「匠」 TEL:0920-56-0118 金田城(かねだじょう)跡  唐(とう)・新羅(しらぎ)の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)が救援を求めてきたため、倭国軍(日本)は663年(天智2)、朝鮮半島の白村江(はくそんこう・はくすきのえ)で唐・新羅連合軍と戦いましたが、大敗。倭国は唐や新羅の侵攻に備え、翌年に対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)と烽(とぶひ)を設置しました。  対馬は国防の最前基地として位置づけられ、百済の亡命貴族や軍人の協力のもと、天険の要塞である城山に金田城が築かれました。東国から派遣された防人は、唐・新羅の侵攻に備えました。壱岐そして筑紫へと危急を知らせる通信施設として、烽が山頂に築かれました。  地元では「かねだじょう」のほか、「じょうやま」「かねたのき」ともよばれています。   少し離れたところからも城山は見えます  金田城の遺構は、東側沿岸に比較的よく残っています。天険を利用して構築された石塁は山を取り囲むように約2.8キロメートルにわたって残り、 高さは低いところで2〜3メートル、谷部では6〜7メートルにも達し、国の特別史跡に指定されています。  北東の谷部には一ノ城戸、二ノ城戸、三ノ城戸とよばれる城門跡があり、門礎石(もんそせき)や水門を確認することができます。 1993年(平成5)からスタートした本格的な発掘調査によって、築城当時の遺構も発見されています。なかでも1999年(平成11)に調査された二ノ城戸においては、 城門跡の遺構がほぼ原型を留めて出土しました。  登山道では景観や植物にも目を向け、対馬ならではの大自然を満喫しましょう。  登山道は旧軍道ともよばれています。日露戦争の頃、頂上に砲台を設置するためにダイナマイトなどで岩を削り、道を整備しました。 最も大きい谷にある三ノ城戸 いまだに機能している水門 門礎と思われる穴があいた岩
  • 第2回 朝鮮半島が見える場所にて・・・ 2009年07月08日
    第2回 朝鮮半島が見える場所にて・・・
    〜お墓に見る物語〜  ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「朝鮮半島が見える場所にて・・・」です。  韓国までわずか49.5キロという距離、天気が良く条件がいいと肉眼で釜山市を臨むことができます。“国境の島”といわれる対馬らしい特別な場所。さあ、最も韓国に近い、対馬最北端エリアをウォーキング! 散策エリアの位置をチェック 散策エリアの紹介  このエリアは、鰐浦(わにうら)とよばれる対馬最北端の地で、朝鮮半島を最も近く近く感じることができる場所です。江戸時代には通行のための番所も置かれていました。  なんといっても、そこに外国が見えるのですから! それでも、昔の航海は命がけでした。目の前に広がる国境の海と49.5キロ先にある韓国を眺めながら、この海を渡った人々に思いを馳せてみると、その長い歴史にも興味がわいてきます。まだ国境意識がないはるか昔の海人たちの往来・・・、白村江の戦いや元寇といった戦いの歴史・・・、倭寇対策を背景とした朝鮮と対馬藩の関係・・・、日朝貿易を糧とした対馬藩の奮闘ぶり・・・などなど。ここに立つと、これら独特の対馬の歩みは、やはり地理的に国境に位置するがゆえの宿命であったのだろうかと、あらためて実感できます。 散策コース&マップ 朝鮮国訳官使殉難之碑(ちょうせんこくやっかんしじゅんなんのひ) ↓朝鮮国訳官使殉難之碑から歩いて1分 韓国展望所 ↓韓国展望所から歩いて5分 ヒトツバタゴ自生地・展望所 ↓ヒトツバタゴ自生地・展望所から歩いて15分 豊砲台跡(とよほうだいあと) スポットの紹介 朝鮮国訳官使殉難之碑(ちょうせんこくやっかんしじゅんなんのひ)  豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって悪化した朝鮮との関係でしたが、徳川家康から修復を命じられた対馬藩初代藩主・宗義智の懸命な努力が実り、両国の国交は回復します。朝鮮からの正式な使節団の派遣も、慶長12年(1607)に再開しました。朝鮮通信使は、朝鮮から江戸(もしくは大坂留)を往復する総勢300〜500人の大行列で、この後文化8年(1811)までの約200年のあいだに12回送られました。  この朝鮮通信使とは別に、対馬の府中(現在の厳原町)まで往復した100名ほどの使節が「朝鮮国訳官使」です。日本語通訳官を正使とする“訳官使”は対馬藩主の慶弔や外交の実務交渉のために派遣され、江戸時代における対馬への来島は50回以上を数えます。善隣外交を支えるうえで、大きな役割を果たしてきたといえます。  この場所に建つ「朝鮮国訳官使殉難之碑」は、遭難した朝鮮国訳官使を追悼するために建立されました。元禄16年(1703)、対馬に向け出港した108名の朝鮮訳官使一行が、嵐に襲われて遭難。入港の直前に天候が急変したのでした。対馬藩をあげての救難作業も虚しく、この鰐浦で対馬藩士4名を含む乗船者全員が痛ましい死を遂げたそうです。 朝鮮通信使の再現『対馬アリラン祭り』  毎年8月第1土・日曜日に、厳原(いづはら)の繁華街周辺で開催されるのが、「対馬アリラン祭り」です。この祭りの見どころは、いうまでもなく、江戸時代に朝鮮国から12回に渡って来日した朝鮮通信使の行列の再現です。当時、この行列を見物した日本人たちは、そのあまりの絢爛さに驚き、目をうばわれたといいます。現代によみがえる色鮮やかな衣装を身にまっとった一行は必見です。韓国の人々も参加し、島民と一緒になって祭りを盛り上げています。  祭りの前後には、ぜひ長崎県立対馬歴史民俗資料館(無料)に立ち寄って、「朝鮮国信使絵巻」を見てみよう。再現された行列とくらべてみると面白いですよ! 韓国展望所  朝鮮国訳官使殉難之碑のすぐそばに、韓国の古代建築様式を取り入れて建造された韓国展望所があります。  この展望所からは、天気が良く気象条件が良い日には韓国釜山市の町並みを望むことができます。クッキリとよくは見えなくても、なんだかモヤァーッっと見えたような気がしてくるから不思議です。  また、日が暮れると、釜山の夜景も見ることができます。ぜひとも自分の目で見てみたい光景ですが、1回目で見ることができなくてもがっかりしないでくださいね。  展望所の内部には、朝鮮との外交の歴史や文化がわかる史料が展示されています。 ヒトツバタゴ自生地・展望所  ヒトツバタゴはモクセイ科の落葉高木で、日本では木曽川流域や対馬北部の鰐浦(わにうら)など限られた地域にしか自生していないそうです。  鰐浦のヒトツバタゴ自生地は国の天然記念物に指定されています。このヒトツバタゴは、たくさんの別名を持っている木です。名前がわからず見なれない不思議な木であることから「ナンジャモンジャの木」。鉈(なた)が折れるように木質が非常にかたいことから「ナタオラシ」。 展望所から見下ろす港の風景  また5月には雪のように白く小さな花が咲き誇り、夜に入り江を白く照らすことから「ウミテラシ」。花が咲く5月上旬になると、鰐浦ではヒトツバタゴ祭りが開催され、対馬内外からの見物客で賑わいます。 豊砲台跡(とよほうだいあと)  国境の島・対馬は、古代より国防の最前線にあり、その歴史に戦いの跡も刻んできました。白村江(はくそんこう)の戦い、刀伊(とい)の入寇、元寇(文永・弘安の役)、応永(おうえい)の外寇、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)・・・。  江戸時代になると、日本が鎖国政策をとっているあいだに、世界の勢力図は大きく塗り替えられていました。ヨーロッパ列強国は極東の植民地化に力を入れていました。南下していたロシアと、それを封じ込めようとしたイギリスが、対馬への侵略を計画していたのです。安政6年(1859)、イギリスの「アクチオン号」が対馬の浅茅湾(あそうわん)の入口である尾崎浦に停泊し、測量を開始するという事件が起こりました。また文久元年(1861)には、ロシアの「ポサドニック号」が浅茅湾の芋崎を占拠し、島民2名が犠牲になるという事件が発生し、イギリスを巻き込む国際問題にまで発展しました。  イギリスとロシアの事件を背景に、外敵から対馬海峡を防衛するためにも対馬と壱岐を要塞化する必要性が高まりました。1887年(明治20年)より砲台工事が開始されます。当初は、対馬海峡の中央に位置し艦船の停泊地として最適だった浅茅湾を防護するために大平砲台など4箇所が完成。東京湾に次いで国内で2番目に建設されたもので、防衛最前線としての対馬に対する意識が高いことをうかがわせます。  明治31年(1898)以降は、ロシアを意識した防衛を目的として13箇所に砲台を設置。中国東北部(満州)と韓国の支配をめぐり日本とロシアが戦った日露戦争では、明治38年(1905)、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が対馬沖で戦いました。日露戦争後は、国防の第一線が対馬から大陸へ移ったため、大陸と日本本土との交通を擁護することを目的として、この豊砲台などが建設されました。豊砲台は昭和9年(1934)3月に完成し、戦艦の主砲をこの砲台にすえつけられたとされています。しかし、実戦に使用されることはなく、「まぼろしの砲台」ともいわれています。兵舎・地下室が今も残っています。 参考文献 『旅する長崎学12 海の道2【対馬】』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学8 近代化ものがたり2』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • 第2回 韓国に一番近い島「対馬」 2009年07月01日
    第2回 韓国に一番近い島「対馬」
       長崎県内の歴史を探っていく旅のドライブルートを紹介していきます!  注目エリアは『対馬』、日本で3番目に大きい島です。広いので、今回の旅は「韓国に一番近い島」をテーマに、島の北半分(上島)をめぐります。  あれ、読み方がわからないって?「つしま」って読むんだよ。まずは、対馬の場所をチェックしておこう!  必携アイテムは、『旅する長崎学12』です 対馬の位置 対馬へのアクセス  対馬をドライブする 体験プログラムを利用する 今回、一緒に旅をしてくれたゲスト・キャラクターは 「対馬観光ガイドの会やんこも」マスコットキャラクターとして 活躍している「やんこもくん」です。 「やんこも」は対馬の方言で、「たくさん、何度も」の意味。 対馬に何度でもお越しください、たくさんご案内しますよ、 という歓迎の意志がこめられています 今回のドライブルート 対馬空港(対馬やまねこ空港) スタート地点 ↓車で約10分 万関橋(まんぜきばし) ↓車で約40分 円通寺 ↓車で約60分 網代の漣痕(あじろのれんこん) ↓車で約10分 日露友好の丘 ↓車で約3分 三宇田海水浴場(みうだかいすいよくじょう) ↓車で約10分 韓国展望所・朝鮮国訳官使殉難之碑・豊砲台跡 ↓車で約25分 異国の見える丘展望台 ↓車で約10分 棹崎公園(さおざきこうえん) ↓敷地内 対馬野生生物保護センター ↓車で約30分 峰町歴史民俗資料館 ↓車で約20分 和多都美神社(わたづみじんじゃ) ↓徒歩で3分 神話の里自然公園 ↓車で3分 烏帽子岳展望台 スポットの紹介 対馬空港(対馬やまねこ空港)  島のほぼ中央、風光明媚な浅茅湾(あそうわん)を望むことができるところに対馬空港はあります。標高97mの高さに造成された山岳空港。初めて飛行機で訪れる人は、山の中に突っ込むような着陸にちょっとビックリするかもしれません。これから始まる対馬の旅に、ワクワク感が高まります。  福岡空港から30分、長崎空港から35分、あっというまに到着です。今回はこの対馬空港から出発です! 万関橋(まんぜきばし)  明治33年(1900)、日本海軍によって、艦船の通り道として人工的に開削された瀬戸がここです。中国東北部(満州)と韓国の支配をめぐり、明治38年(1905)に日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が対馬沖で戦った日本海海戦のとき、日本の水雷艇部隊はこの瀬戸を通って出撃し勝利に貢献しました。  対馬の上島と下島を結んで架けられた万関橋の上からは、すばらしい景観や渦を巻く潮流を眺めることができ、観光客も車を停めて、しばし時を過ごします。  駐車場の横にある休憩所は、石屋根になっていましたよ。対馬独特の文化ですね。  ※「龍馬と真之にまつわるながさき情報局」も開設中。見てね! 万関橋からの眺め 石屋根でできた休憩場 円通寺  14世紀半ばから倭寇(海賊・商人集団)の激増に悩んでいた朝鮮は、室町幕府や西日本の有力大名に倭寇の取り締まりを要請しました。そのころ対馬の実質的な支配者となった宗氏も、見返りに朝鮮貿易の利益を期待し、15世紀初期には宗貞茂(さだしげ)が倭寇の取り締まりをはじめました。宗氏は15世紀後半には朝鮮貿易の支配権とともに島内統治を確立していきます。  貞茂は島の東岸の佐賀(さか)に館を構え、貞盛(さだもり)、茂職(しげもと)を経て、貞国(さだくに)が府中[現在の厳原(いずはら)]に移るまで、佐賀は対馬統治の中心でした。それまで宗氏の菩提寺とされた円通寺には宗家墓地があります。また、朝鮮の意匠にデザインされた円通寺の梵鐘は、県の文化財に指定されています。 網代の漣痕(あじろのれんこん)  通称「さざなみの化石」ともよばれています。 漣痕とは、水流や気流、波浪が作り出した自然の芸術で、さざなみのように見えるのでこのようによばれます。幾何学模様をデコボコに刻んでいる岩盤から水の流れの方向がわかりますが、なんといっても時の流れを物語っている自然の力に驚きです。 日露友好の丘  明治38年(1905)、対馬沖で撃沈されたロシア・バルチック艦隊の水兵143人が上陸しました。 対馬の農夫2人は水兵たちを井戸へと案内し、助けました。水兵たちが水を飲んだり、顔や衣服を洗ったという井戸は、今の記念碑の下に残っています。 #10" class="btn basic_btn">センターに入る  #11" class="btn basic_btn">資料館に入る 和多都美神社(わたづみじんじゃ)  和多都美とは海神(わたつみ)のことです。この和多都美神社は、ヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊)とトヨタマヒメノミコト(豊玉姫命)を祀る海宮で、海神神社の一の宮として古くから竜宮伝説が残されています。本殿正面の5つの鳥居のうち2つは、海中にそびえ、潮の干満によってその様相を変えます。遠い昔の神話の時代を感じさせる神秘的な神社です。 #15" class="btn basic_btn">対馬蜂蜜のヒミツ 参考文献 『旅する長崎学12 海の道Ⅱ【対馬】』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 取材協力 対馬観光物産協会 対馬市教育委員会文化財課
  • 第35回 十万石の城下町の面影がのこるまち“厳原” 2009年03月18日
    第35回 十万石の城下町の面影がのこるまち“厳原”
    〜朝鮮通信使が見た府中〜  長崎県の北東に位置する対馬の空港(美津島町)に降り立つと、日本語とハングルの案内板が目に飛び込んできます。朝鮮半島に近い国境の島には、 異国から運ばれてくる特有の“空気と時間”が流れていました。対馬空港から車で15分ほどの、島南部にある対馬市厳原町(いづはらまち)は、 江戸時代に対馬藩主宗(そう)氏の城下町「府中(ふちゅう)」として栄えました。朝鮮から派遣された使節「朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)」が最初に上陸する日本の島が対馬でした。 当時、朝鮮との交易や交流の窓口となっていた対馬藩は、藩をあげて朝鮮通信使をもてなしました。今回は、城下町の風情が残る厳原町を散策しながら、 朝鮮通信使ゆかりの地や足跡を訪ねる旅です。 歴史のとびら  1719年(享保4)、江戸時代9回目の朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)が来日しました。その中に製述官(せいじゅつかん)として随行したのが申維翰(シンユハン)です。 彼はのちに『海游録(かいゆうろく)』という記録を残しています。『海游録』には対馬の佐須浦(佐須奈)などを経て、6月27日に府中(厳原)に到着した様子が描かれています。 到着後に藩主による歓迎式がおこなわれ、府中に3週間滞在したのち、藩主船の先導で壱岐に向かったことなどが記されています。 申維翰はこのとき藩の朝鮮外交を担当していた雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)と出会いました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3〜4時間 img/sub/map_point2.gif' alt='' />2長崎県立対馬歴史民俗資料館 ↓徒歩5分 img/sub/map_point4.gif' alt='' />4万松院 ↓車で10分 img/sub/map_point6.gif' alt='' />6雨森芳洲の墓 ↓車で10分
  • 対州馬とのふれあい体験 2014年03月24日
    対州馬とのふれあい体験
     対馬市美津島町にある「あそうベイパーク」は、対馬のほぼ中央に位置し、オートキャンプ場やパットゴルフ、フィールドアスレチックがあり、休日には多くの家族で賑わっています。  敷地内には、野鳥や魚類、昆虫など対馬の貴重な生物が生息している「自然観察の池」があります。ここには43種のトンボ類もおり、環境省種指定の絶滅危惧砧犹慊蠅離劵魅泪ぅ肇肇鵐椶肇轡アメンボが生息しているそうです。  実はあそうベイパークには、「対州馬」が飼育されており、「対州馬」とふれあえることも楽しみのひとつなんです。エサやり体験、ブラッシング、引き馬散歩などができるのです。  みなさんは「対州馬」をご存知ですか?  「対州馬」は、日本在来種の馬で対馬を中心に飼育されてきた馬なんです。他の日本在来馬と同様、ポニーに分類される小柄な馬で、以下のような特徴をもっています。 ・性格はいたっておだやか ・粗食にもよく耐える ・体質剛健 ・坂路の歩行にも適している  対州馬はその性質・体格から、狭い悪路での運搬や上り坂を苦にしないそうです。あそうベイパークの対州馬も確かに高い位置まで登って遊んでいました。  また現在の多くの馬が、斜めに向かい合った右前肢と左後肢・左前肢と右後肢が対になって前にすすむ「斜対歩」で歩くのに対して、対州馬は特に調教をする必要もなく右と右、左と左をきれいに揃えて歩く「側対歩」ができるのも特徴のひとつです。豊臣秀吉も対州馬を気に入り、対馬から取り寄せたという話もあるそうです。  そして対馬は、山地が全面積の90%近くを占めており傾斜地が多いため、男性は漁へ出るため、女性が牛馬の飼養をすることが多かったといいます。また対州馬は性格が温厚でおとなしいので、女性でも簡単に扱えて対馬の人々の生活に適応できたそうです。  あそうベイパークの対州馬も本当にやさしい目をしており、近づいて触っても警戒しません。日曜日になると、動物好きな親子に大人気です。 あそうベイパーク 〒817-1105 長崎県対馬市美津島町大山584-1  TEL:0920-54-4994 【営業時間】  年中無休 9:00〜18:00  (7月〜9月は9:00〜19:00) 関連URL: http://asoubaypark.com/
  • 対馬の蜂蜜と蜂洞 2014年03月26日
    対馬の蜂蜜と蜂洞
     対馬を車で走っていると、山の斜面のあちこちに円筒状の大きいポストのような木箱が置いてあるのが目に留まります。  今までこんなものを見たことがないので、つい近寄ってみてみました。  「これって何ですか?」  地元の方に聞いてみると、蜂蜜を集める“蜂洞(はちどう)”というもので、丸太を切って作っているそうです。  なんと対馬には、ニホンミツバチが生息しているのです。  通常は、短時間でより多くの蜂蜜をとる場合は西洋のミツバチを利用して蜂密を作っているのですが、対馬には西洋ミツバチが入り込んでおらず、古くからずっと純粋なニホンミツバチの蜂蜜がとれるそうなんです。  こんな貴重な地域は、現在日本国内では対馬と四国の一部だけなんだそうです。 「土産屋さんで買うことができますか?」  この時期(11月末)は残念ながらないという。毎年10月に瓶詰めされて店頭に並ぶようになりますが、西洋ミツバチのようにたくさんの蜜を集めることができませんので、多くをつくれないのが現状なんだそうです。またニホンミツバチは放浪しながら時間をかけて蜜を集める習性があるため、様々な種類の花の蜜が混ざり合い、風味豊かな蜂蜜がとれるそうです。そうまで言われると、ぜひとも味わってみたい。  なんと10月から11月半ばくらいで売り切れてしまうんだとか。残念・・・。    この蜂洞を自宅の庭にいくつも設置して、自家用の蜂蜜を作っている方もいらっしゃいます。ミネラルをはじめ、栄養たっぷりのこの蜂蜜は、滋養強壮として昔か ら地元の人々も愛用しています。この蜂密づくりは、対馬では昔からずっと継承されてきており、自然と人々とが共に暮らしている姿がとても印象に残りました 。
  • 遣唐使気分で対馬へ船旅 2014年03月27日
    遣唐使気分で対馬へ船旅
     対馬へは、福岡や長崎の空港から直接飛行機を利用して行く方法が一番早く到着する手段なのですが、今回は船旅で対馬へと渡ってみました。  0時15分(出発時間は変更があります)に博多埠頭を出発し、対馬(厳原)へ行くフェリーがあります。  深夜のうちに博多を出て、壱岐(芦辺または郷ノ浦)で停泊し、朝5時頃には厳原に到着するというコースです。これは、7世紀の遣隋使、遣唐使が朝鮮、中国を目指して渡っていた北路コースにも似ていますね。  日本から朝鮮半島へと飛び石のように位置する壱岐と対馬は、古代より日本の使節が朝鮮半島や中国大陸に向かうための寄港地として重要な役割を果たしていました。今、その遣唐使たちと同じ航路を進んでいると思うと、太古のロマンを感じずにはいられません。  船内2等では、特に座席などはなく、ゴロンと横になれる広いスペースがあります。毛布は一枚50円で借りられます。他の搭乗者は何度も利用しているのか、先に場所を確保し、それから毛布を借りにいくという手慣れた動きです。  博多埠頭を発つと、しばらくして船内の明かりは暗くなります。ほとんどの乗客は眠りにつきはじめました。気づくとフェリーのエンジン音とフェリーに激しくぶつかる波の音だけが聞こえ、遣唐使たちが進んだ海にいることを改めて感じることができます。そのままフェリーは夜の航路を進み、壱岐の芦辺で一度乗客を降ろし、厳原へ向けて再び出発します。  厳原に到着したのは午前4時45分でした。 フェリーに車を乗せた人や地元で近くの人々はこの時間にフェリーをおりますが、私みたいな旅人は、レンタカーが迎えに来る午前7時まではこの船内に寝たまま待つことができます。(さらに寝坊してしまうと船員の方々が起こしにきてくれますが時間がぎりぎりで余裕がなくなるので注意しましょう)  朝日を浴びながら、厳原港やフェリーを眺め、対馬にいることを実感していると、レンタカーのお迎えが港に到着。レンタカー手続きを終えたら、早速対馬を満喫のドライブへ!  帰りも同様にフェリーを利用しました。15時25分に厳原を出発するフェリーに乗り、18時前に壱岐の郷ノ浦に停泊し、20時過ぎに博多に到着するというコースです。厳原に向かう航路では深夜でしたが、帰りはまだ明るいため、対馬海峡の荒波を間近で見たり、壱岐島の島影もフェリーから確認できます。  日本に帰ろうとしていた遣唐使たちも、壱岐の島が見えてくると安心したことでしょう。郷ノ浦港、そして博多が窓の中で小さく見えてくると船で旅をしているという実感がこみ上げてきます。険しい山々が目立つ対馬の島と比べ、今度は平べったく起伏が少ない壱岐の島、島々の様子を見ながら進む船旅もなかなかいいものです。  飛行機であっという間に目的地に着くことも大事ですが、ゆっくりと旅を思い出しながら進む船旅というのもいいものですよ。 詳細情報 掲載した船旅では、九州郵船のフェリー(博多〜壱岐〜対馬)を利用しました ●博多埠頭 博多港 TEL:092-281-6636 ●壱岐(芦辺港) TEL:0920-45-3011 ●壱岐(郷ノ浦港) TEL:0920-47-0003 ●厳原港 TEL:0920-52-0793   関連URL: http://www.kyu-you.co.jp/
  • 和多津美神社 2014年03月27日
    和多津美神社
     対馬市にある和多都美(わたづみ)神社は、本殿正面に海、裏手には森という神秘的な神社です。本殿正面の5つの鳥居のうち2つは、海中にそびえ、潮の干満によってその様相を変えます。  遠い昔の神話の時代を感じさせる神秘的な神社で、訪れる人々を今でも魅了しています。  和多都美神社の「和多都美」とは海神(わたつみ)のことで、この和多都美神社は、ヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊)とトヨタマヒメノミコト(豊玉姫命)を祀る海宮 で、海神神社の一の宮として古くから竜宮伝説が残されています。対馬を旅するなら、一度は訪れてほしい場所です。  この神社は、映画「男はつらいよ」第27作“浪花の恋の寅次郎”に登場しています。和多都美神社で昼寝している寅さんが、助けた亀に連れられて竜宮城へ行き、家に戻ってくると孫の世代になっていて慌ててしまうという恒例の夢から醒めるオープニングシーンがありますが、今とそう変わらない和多都美神社の景観をみることができます。当時寅さんが昼寝をしていたベンチは、残念ながら残っておりませんでした。 和多津美神社 ふれあい交流の棟、オートキャンプ場、チビッコ向けの遊具がある「神話の里自然公園」のすぐそばです。
  • 対馬のいりやきそば 2014年03月27日
    対馬のいりやきそば
     しんなりしたキャベツとこんにゃく、味のしみた歯ごたえのある鶏肉、そしてつなぎを一切使わず、100%天然のそば粉を用いた対州そば。対馬では「いりやきそば」というメニューで味わうことができます。スープは鶏肉で出汁をとったもので、少々甘いしょうゆ味という印象でコクがありました。  驚くほど鶏肉に味がしみていて、食べごたえがあり、そばにも弾力がありました。あっという間に食べてしまうと、スープも飲み干してしまうほど独特の味がありました。  散策の途中にも、気軽に食べられることもあり、しかも体は中からポッカポカになれる食べ物です。  もともと対馬では、農地が少なく、米がほとんど採れなかったため、山の斜面を利用して蕎麦が各地で栽培されていました。中国の雲南地方から朝鮮半島を経て対馬に伝わったといわれています。  小麦粉などのつなぎ粉や卵、山芋などのつなぎを一切使わないので、そば独自の風味が広がり素朴な味がいっそう引き立ち、香りが高くコシがあると食通の方々にも評判です。    対馬ではそばをメニューに扱っているお店などで味わうことができます。  対馬に来たら、一度は食べてみてくださいね!