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しまエリア

  • 対馬バーガー 2014年03月27日
    対馬バーガー
     対馬市厳原町は、10万石の城下町風情をはじめ、万松院や金石城跡、県立対馬歴史民俗資料館、朝鮮通信士に関わる史跡など散策して回れる場所がたくさんあります。しかし歴史スポットを散策してると、どうしても途中で小腹が空いて困りませんか?  そんな対馬で、ちょっとの時間で食べて元気に散策できる食べ物を見つけました。今注目されている「対馬バーガー」です。  対馬の特産品を活かして若者向けに開発されたという対馬バーガーは、肉と海産物が一緒に味わえるというハンバーガーです。ひじきが練り込まれたひき肉と、バターと醤油で味付けされ鉄板で焼かれたイカがパンとレタスに挟まれているのです。  いったいこれはどんな味になるのか?と思って食べてみると、普通においしい!  ひじきや肉、イカの味がそれぞれに独立しているわけでなく、味も歯ごたえもバランスがとれていて実に美味しいのです。目をつぶって食べてみると、イカはエノキかと間違うくらいに似た歯ごたえで、食感自体も楽しめます。  旅には、その地域の特色を活かした食べ物に出会うことも欠かせません。そういう意味では、こんなにも手軽に食べることができて、地元の新鮮な産品を味わえるというのはうれしいですね。1個550円と少々高い感じがありますが、作り置きではなく、注文後に作られるため、新鮮で美味しく、ボリュームにおいても満足できますよ。  また現在では、「とんちゃんバーガー」も人気がでています。この「とんちゃん」とは、戦後、上対馬町在留韓国人が伝えたといわれる韓国風焼き肉のことで、その後上対馬の各精肉店が工夫を重ね、豚の肩ロースをしょうゆ、みそ、砂糖、ニンニク、ごま油などを調合した甘めのたれに漬け込んで日本人好みの味付けにされました。今では上対馬のソウルフードとして親しまれており、数々のB級グルメコンテストにも出場し、注目を集めています。  このとんちゃんをトマトとレタスと一緒にパンで挟んだバーガーは、にんにくのスパイスも効いており、散策で疲れた体も思わず回復!今後のグルメについても、対馬は目が離せません。対馬へ旅するのが楽しみですね。 対馬バーガー KiYo(キヨ) 地図に位置する「対馬屋台横丁」ビルの1階入ってすぐ右側にある「対馬バーガー KiYo(キヨ)」で販売されています。   営業時間:11:00〜23:00 定休日:月曜 TEL:0920-52-0873   近くには長崎県立対馬歴史民俗資料館や金石城跡、万松院、厳原八幡宮神社、雨森芳洲や陶山訥庵の墓など徒歩で5分程度の史跡がたくさんありますよ!
  • 長崎県立対馬歴史民俗資料館 2014年03月27日
    長崎県立対馬歴史民俗資料館
     格式ある10万石の城下町の風景を残している厳原。対馬市役所から2、3分歩いたところに、長崎県立対馬歴史民俗資料館があります。  大陸にもっとも近い国境の島・対馬は、その地理的条件から日本と大陸との文化交流の重要な拠点でした。この長崎県立対馬歴史民俗資料館には、大陸との文化交流を実証する考古資料をはじめ、中世から近世にかけての古文書など貴重な歴史・文化遺産が数多く残されています。  早速、館内へ入ってみよう! 朝鮮半島との交流  古来より対馬の文化は、朝鮮半島ぬきには考えられません。対馬島内のあちこちの遺跡から発掘された遺物のなかからは、朝鮮半島からもたらされた土器が数多く発見されており、古くから朝鮮半島との交流があったことを物語っています。またこの資料館では、朝鮮通信使に関する資料も充実しています。日本と朝鮮の修交を目的として派遣された通信使の行列の様子がわかる絵巻など貴重な資料をみることができます。 宗家文庫史料  鎌倉時代中期から幕末まで約600年にわたって対馬を治めてきた宗氏の資料も揃っています。江戸時代約230年の間に記録された対馬藩の記録や大名道具などの「宗家文庫史料」が保管されています。この史料は江戸期の日朝外交を支えた対馬藩の歴史がよくわかる貴重な史料です。 その他見どころ  江戸時代に韓国釜山にあった対馬藩の外交・貿易の最前線の場所、倭館を描いた「草梁倭館絵図」や伊能忠敬(いのうただたか)一行が測量に訪れたときに絶賛したという1700年(元禄13)完成の「元禄対馬国絵図」も収蔵されています。この絵図は、現在の対馬の衛星写真が側に展示され比較できるようになっていますが、当時の対馬の地図がどれだけ正確に描かれているかがよくわかります。  資料館のそばには、「誠信之交隣」と題した雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の顕彰碑や「朝鮮国通信使之碑」が建っています。資料館を下って国道382号とは反対方向に歩いて3分程度のところには、金石城跡や旧金石城庭園、李王家・宗伯爵家御結婚奉祝記念碑(りおうけ・そうはくしゃくけごけっこんきねんひ)、万松院などの史跡があり、対馬の歴史を知るうえでも貴重な場所です。また市役所前を通り、歩いて2、3分のところには西山寺があります。ここは景轍玄蘇(けいてつげんそ)がひらいた禅寺・以酊庵があったところです。以酊庵といえば、朝鮮との外交に関する往復文書を取り扱っていた場所でもあります。  対馬と朝鮮半島の歴史やこれまでの文化交流を想像しながら散策してみてはいかがですか? 長崎県立対馬歴史民俗資料館 長崎県対馬市厳原町今屋敷668-1 TEL:0920-52-3687 [開館時間] 午前9時から午後5時 [休館日] 12月28日〜翌年1月5日まで 毎週月曜日(祝日のときはその翌日) 資料点検整備期間(年1回10日以内) [入館料] 無料 URL: http://www.pref.nagasaki.jp/t_reki/
  • 島グルメ 2014年03月28日
    島グルメ
    〜対馬編〜  長崎県の「対馬(つしま)」をご存知ですか?朝鮮半島と九州のあいだに浮かぶ島。韓国の釜山からわずか49.5kmの距離に位置する国境の島。南北82km、東西18km、面積約708平方キロメートルと日本で3番目に大きい島。  朝鮮半島や中国大陸の影響を受けながら、昔から朝鮮半島と交流してきた対馬には、独特の自然、歴史、食文化などがあります。今回は、対馬に伝わる自慢の郷土料理を紹介します。 「石焼(いしやき)」と「対州(たいしゅう)そば」  対馬の有名な郷土料理に「石焼」と「対州そば」があります。  石焼はもともと対馬の漁師が浜辺で捕ったばかりの魚や貝を、たき火に入れた石の上で焼いたことから生まれました。普通なら刺身で食べられるほど新鮮な魚介類や季節の野菜を、石英班岩(せきえいはんがん)の上でジュージュー焼いて食べます。  そばは縄文時代の終わりに中国から朝鮮半島を経て日本の対馬に初めて伝えられたといわれます。対馬には平野が少なく稲作がほとんどできなかったので、山の斜面を利用してそばが栽培されていました。大自然の中で育った対州そばは香りがよくコシもあり、そば本来の素朴かつ豊かな風味が特徴。麺はツルツルとのど越しよくいただけます。 「いりやき」と「ろくべえ」と「かじめの味噌汁  対馬の人々が好んで食べる料理に「いりやき」と「ろくべえ」と「かじめの味噌汁」があります。  いりやきは対馬の鍋料理の代表です。だし汁は甘めで、旬の魚ベースと地鶏ベースの2種類の鍋があります。地元のルールとしては魚と地鶏を一緒に入れることはないそうです。宴会などでは魚好きと鶏好きに分かれて鍋を囲むということでした。  「ろくべえ」は芋(甘藷)を手間ひまかけて加工し、粉状にして乾燥保存した「せんだんご」をうどん状にして煮込んだものです。せんだんごの製法は中国の福建省にも分布しているといわれています。せんだんごをうどん状にしたものは、つなぎがないので普通の麺に比べて、ぶつぶつ切れて短くなっています。  ちなみに、「いりやき」や「ろくべえ」の名前に由来は諸説あり、はっきりしないようです。  ところで、地元の人々が家庭で食べる定番の朝食といえば、かじめの味噌汁。かじめは独特のとろみがある海藻の一種で、対馬の家庭ではよく温かいごはんにかじめの味噌汁とイカをおかずにして一緒に食べるそうです。就職や進学などで島外に出た人々が、まず懐かしむ島の味が磯の香り豊かなかじめの味噌汁だといわれています。 「蜂蜜(はちみつ)」と「しいたけ」  山深い対馬には、高品質の特産品として有名な「蜂蜜」と「しいたけ」があります。  対馬特有の気候と風土がもたらしてくれる対馬産の蜂蜜は全国に知られる高級品。民家近くの山林には、蜜蜂と巣を集める「はちどう」がたくさん設置されています。9月下旬、はちどうから巣を取り出し、手前の巣を削って取ると、黄金色の甘い蜜がじわっとしたたり落ちます。その蜜を布でこして瓶づめにしていくそうです。対馬の蜂蜜はニホンミツバチの巣から採れる貴重なものですが、ニホンミツバチには一カ所ではなくあちこちを放浪しながら時間をかけて蜜を集める習性があるため、様々な種類の花の蜜が混ざりあい、独特の色合いと風味に特徴があるそうです。しかもミネラルなど様々な成分が含まれ、栄養もたっぷり。採れたての蜜をなめてみると、濃厚な甘さですが甘ったるさは残りませんでした。  さて、山の幸をもうひとつ。対馬では、山の斜面と原木を利用した自然ほだばでしいたけづくりがおこなわれます。良いしいたけを栽培する条件は、日差しが当たらないことと原木そのものにいいものを使うこと。原木は切ったものを乾燥させて使います。11月中旬から3月にかけて採れるのは肉厚が特徴のどんこしいたけです。原木しいたけは肥料や農薬をまったく含まず、水分と木の養分のみで育ちます。そのため臭みがほとんどありません。生しいたけのおいしい食べ方は、炭火でそのまま焼いて藻塩や醤油を少しふりかけるだけです。地元では「森のアワビ」とよばれます。  みなさん、対馬の風土が生んだ豊かな食文化の数々、いかがでしたか?対馬にお立ち寄りの際には、歴史散策の合間に、ぜひ対馬自慢の郷土料理を味わってみてくださいね。 [文:小川内清孝] 参考文献 『長崎県文化百選 壱岐・対馬編』(企画/長崎県 制作/長崎新聞社)
  • 自然と歴史を堪能するシーカヤックエコツアー 2014年03月24日
    自然と歴史を堪能するシーカヤックエコツアー
    対馬シーカヤックエコツアーとは  対馬では、カヤックで海に乗り出し、無人島でくつろぎ、浅茅湾の自然を満喫するシーカヤックツアーがおこなわれています。  対馬の中央に広がるリアス式海岸「浅茅湾」は、古来より日本と大陸を行き交う船人に安らぎを与えてきた穏やかな海です。現在では、この浅茅湾をシーカヤックで渡り、上陸して金田城跡へトレッキングするという大自然と歴史の両方を体感できるエコツーリングがおこなわれており、注目を集めています。 シーカヤック艇庫((有)対馬エコツアー)  まずはシーカヤック艇庫にて、シーカヤックツアーのガイドやレスキューに関する説明を受けます。そして準備運動やパドリング練習を行い、浅茅湾へと漕ぎ出します。注意事項を確認して、いよいよスタート!  果てしなく広がる青空の下、深い緑に囲まれて、海抜0メートルの散歩です。  海にはいろいろな生物が活動しています。群れ泳いでいる魚たちやサンゴの群生などに出会いながら、海から見る対馬の風景を存分に楽しみましょう。  浅茅湾には点々と無人島が浮かんでいます。シーカヤックでしばらく進むと、人工的な建造物は見えなくなり、対馬の大自然に囲まれます。  『万葉集』には、風待ちのために停泊中の対馬で、遣新羅使が詠んだ歌があります。たとえば、  「百船の 泊つる対馬の浅茅山 時雨の天に 黄葉ひにけり」 多くの船が停泊している対馬の浅茅山が、時雨の雨のせいで紅葉した様子を詠んでいます。また、危険な航海を前にして、月を見上げながら故郷に残してきた妻への慕情を詠んだ、 「天ざかる 鄙にも月は 照れれども 妹そ遠くは 別れ来にける」 という歌もあります。当時、彼らたちもこの風景を目にしたのかと思うと、とても感慨深いものがあります。  途中、無人島・明礬島(みょうばんじま)に上陸し、地場産品を使用した昼食をとりながら一休みします。 鋸割岩  その後、浅茅湾の断崖絶壁・鋸割岩(のこわきいわ)が現れます。鋸割岩は浅茅湾の名所のひとつで、海面から50メートル近く突きだした石英斑岩(せきえいはんがん)の巨石です。近寄って鋸割岩を見上げると、その自然の迫力に圧倒されます。運がよければ、上空に舞うミサゴやハヤブサも見ることができます。  そして浅茅湾の南に高くそびえる城山・金田城跡が見えてきます。金田城を守る大吉戸(おおきど)神社のそばから上陸します。  徒歩で城壁“一ノ城戸”に辿り着きます。下半分は当時自然石を積んだもので、上半分は切石が積まれていますので、後世に修復したものといわれています。また三ノ城戸と同様に、大雨の際に崩壊しないよう水門が設けられています。  築かれてから1,300年以上もの時を刻んできた城壁を前にすると、想像を絶する石塁に歴史の壮大さを感じ、みんな感動するそうです。今日まで守られてきた豊かな自然と、太古の歴史が共存して息づいたこの空間は、ぜひとも次代に引き継ぎたいものです。    対馬シーカヤックツアーは2DAYコースもあり、旧日本軍施設跡や調査・再整備が進んでいる「二ノ城戸」、「防人住居跡」、「三ノ城戸」をトレッキングすることができます。このトレッキングでは、新緑を引き立てるウラジロや他の植物に自ら引っかけて成長していくカギカズラなど面白い植物に出会うこともできます。      シーカヤックツアーの醍醐味はなんといっても、自然との一体感とその自然の中に息づいている歴史を体感できることです。“対馬にしかないもの”がここにあります。参加者からは、自然の中で金田城などに見る壮大な歴史に触れ、自分を見つめ直すことができたという声もあるそうです。  無人島やその周辺にはエダサンゴやハクウンキスゲなど、対馬でしか見ることの出来ない植物が自生しています。貴重な体験ができるシーカヤックは、大人だけでなく、子どもにも大好評。季節ごとに自然を満喫するシーカヤックコースがおこなわれることもあります。山に咲き誇るゲンカイツツジを眺めながら浅茅湾を進むコースや、白い花を咲かせるヒトツバタゴを海から堪能するコースなど、まさに対馬ならではの自然を満喫できる内容です。    豊かな自然と歴史を味わいながら、海をゆく・・・。そんな思い出深い旅をしてみてはいかがでしょうか。 取材協力・写真提供 対馬観光物産協会 (有)対馬エコツアー
  • 海上の交差点・対馬 2014年03月24日
    海上の交差点・対馬
    大陸と日本の「文化の交差点」 縄文時代中期の土器(上)後期の土器(下):峰町歴史民俗資料館  はじめて海を渡ると対馬国に到着。断崖絶壁の島で、山は険しく、森も深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食べ、朝鮮半島や大陸と日本本土を行き来して交易をおこなっている・・・    このような対馬の様子が、日本が「倭」とよばれていた時代に書かれた中国の歴史書『三国志』の一節に登場します。弥生時代後期、中国の「魏」が治めていた帯方郡(朝鮮半島)から海を渡って、倭の女王が住む邪馬台国に至るまでの道筋にある国々の様子などが描かれている部分は『魏書東夷伝 倭人の条』、通称『魏志倭人伝』といわれます。当時の日本のことが2008文字で記されていますが、その中にまっさきに登場するのが対馬国なのです。この文献から、弥生時代に大陸と日本の間に行き来があったことがわかります。  それでは、もっと前の縄文時代には、大陸と対馬の交流はあったのでしょうか?今度は、遺跡から出土する土器を見てみましょう。  対馬の縄文時代の遺跡から、装飾文様が盛り上がった隆起文土器(りゅうきもんどき)や櫛(くし)の歯状の道具でつけた文様が特徴の櫛目文土器(くしめもんどき)、また、九州産黒曜石(こくようせき)の石鋸(いしのこ)や西北九州型といわれる結合式釣針が出土しています。そして、これらの遺物は朝鮮半島の遺跡からも見つかっているのです。このことから、九州本土と対馬と朝鮮半島のあいだに行き来があったことがわかります。共通性のある土器や漁労具の出土は、かつて海人たちが海を渡った活動の証でもあり、縄文時代から海峡を越えた交流がはじまっていたことを今に教えてくれます。 黒曜石:峰町歴史民俗資料館  縄文時代中期の遺跡「ヌカシ遺跡」(豊玉町)から、大陸系の石器である石包丁(いしぼうちょう)様石器や扁平片刃石斧(へんぺいかたばせきふ)が出土しました。縄文時代後期の「佐賀(さか)貝塚(峰町)」でも扁平片刃石斧が見つかっています。弥生時代に入ると、「志多留(したる)貝塚」(上県町)の地層から石庖丁が出土しています。  これらの道具は農耕のはじまりを示すもので、中国大陸の農耕文化が朝鮮半島を経由して縄文時代中・後期に対馬に伝わり、その後日本列島に伝播していったと考えられます。対馬は古代から大陸と日本の文化の交差点としての役割を持っていました。 森の中の世界に見る「生物分布の交差点」 龍良山(たてらやま)原始林  国の天然記念物に指定されている龍良山(たてらやま・たてらさん)と白嶽(しらたけ)には原始林が残ります。展望台から遠くその原生林をのぞむと、美しく統一された緑色に染まっています。古くから伐採されることも植樹されることもなく、人の手がはいらずに時が流れてきたため、山々の表情は今も限りなく太古の時代に近いものなのです。その神秘的な空気はまさに神々が住むところといった感じで、龍良山は対馬独特の天道信仰の聖地として、また白嶽は山岳信仰の聖地として崇められてきたことにもうなずけます。  このほか、白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い後の防衛対策として築かれた山城「金田城」跡や、豊臣秀吉が朝鮮出兵時に築いた「清水城」の石垣が残る有明山(ありあけやま)、国定公園・国指定天然記念物・鳥獣保護区等の指定を受けている御獄(みたけ)なども、対馬の歴史性や地理的な特徴をあらわしています。   ※入山の許可が必要な山もありますので、事前に厳原森林事務所(TEL:0920-52-0243)へご確認ください。    さて、これら対馬の山々に生息する動植物を観察してみると・・・。    対馬には、ヒトツバタゴやチョウセンヤマツツジなど大陸系の植物群が自生しています。またシマトウヒレンやツシマギボウシといった対馬にしか自生していない植物に出会うこともできます。 ツシマヤマネコ:環境省 対馬野生生物保護センター  生物ではアキマドボタルやツシマテン、ツシマヤマネコなどが日本では対馬にしか生息していません。アキマドボタルは、中国や朝鮮半島などにいる大陸系の珍しいホタルで、9月から10月にかけて草地や林の緑の中で単独で強い光りを放ちながら飛びます。絶滅の危機に瀕しているツシマヤマネコは、約10万年前に大陸から渡ってきたと考えられています。近年の遺伝子研究から、アジア大陸産のベンガルヤマネコにきわめて近い種類であることが判明しました。ツシマヤマネコが朝鮮海峡を泳いで渡ったとは考えにくく、陸地を渡ってきたとする方がより現実的です。 ヒトツバタゴ:対馬観光物産協会提供  このように日本と大陸の動植物が混生する対馬独自の生態系は、まさに「生物分布の交差点」。対馬の動植物において、大陸系の動植物とこれだけ多くの共通点がみられることから、やはり対馬は“陸橋の島”ともいえるようです。はるか昔むか〜し、対馬が大陸とつながっていたのかどうか・・・。みなさんはどう思いますか。 参考文献 『 旅する長崎学12 海の道供畋佛蓮 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 写真提供 対馬観光物産協会 取材協力 対馬市教育委員会文化財課 対馬観光物産協会 環境省 対馬野生生物保護センター
  • 対馬藩2 2014年03月28日
    対馬藩2
      前回紹介したように、幕末の対馬藩では、イギリスのアクチオン号とロシアのポサドニック号来航の事件が語られています。しかし幕末の対馬藩では、もちろんこの事件だけではありませんでした。 対馬藩は、最終的には佐幕派としての立場をとりますが、最後まで佐幕派か攘夷派かで揺れ動き、緊迫したなかで明治維新を迎えました。なぜ、対馬藩はそんな状況になったのでしょうか? 少し時間をさかのぼってご案内します。 御家騒動 宗義質の墓 1838年(天保9)、対馬藩主・宗義質(よしかた)は江戸で急死しました。翌年22歳の若さで義質の長子・義章(よしあや:夫人は長州藩主毛利大膳大夫の娘)が藩主となります。しかし、この義章は藩主となってからわずか4年で急死します。 世継ぎがいなかったため、養子に出ていた義章の弟を呼び戻し、義和(よしより)と改名し、襲封しました。 この新しい藩主・義和には侍妾(じしょう)が多く、子女も27人ほどいたといわれています。もちろん後継者争いが起こりました。そうなると当然家臣の間にも派閥争いが発生しました。 宗義章の墓 その契機をつくったのが、藩主の寵愛を受け、次第に頭角をあらわしてきた御側女中・碧(みどり)でした。 この碧に対し、藩主の寵を争ったのが、勝井タミでした。タミは勝井五八郎の妹で、士分の出身でした。タミは1846年(弘化3)に長子・彦七郎を生みました。幕府へ出生を届け出ましたが、翌年彦七郎は死んでしまいます。このまま子が居なければ、御家断絶の可能性があります。 彦七郎の墓 そういう間に碧が勝千代を産み、同年にタミは善之允(よしのじょう)を産みました。問題がどんどん複雑になってきました。最終的に生母の身分階級で決定することとなり、世子は善之允と決まりました。しかし、これからまた複雑になっていくのです・・・。 当時対馬藩政の中枢を占めていた江戸家老・佐須伊織、国家老・杉村大蔵、御側用人・森川長久郎などがいました。世子問題に納得いかなかった碧は、世子決定を覆す政治工作を始めていくのです。なんと藩内の政情の不安をもたらしたという理由で江戸家老・佐須伊織に謹慎を求め、1848年(嘉永元)、ついに佐須派を一掃させると、自分を支持する人々を取り込み小姓政治を推進させていいました。 もちろん、碧の策を排除しようという動くものも居ました。これらは義党と称して藩政の粛正を求めました。しかし碧は義党のメンバーを次々に蟄居させ対抗勢力を弾圧していきます。とうとう藩主・義和も碧派に屈し、勝千代を世子にしました。佐須伊織は、勝千代を世子にするため反対する人々を弾圧し、1856年(安政3)、勝千代が正式に世子と決定しました。一度世子となっていた善之允は、根緒岩次郎と名を変え家臣列に下りました。 転々とする世子問題 勝千代の墓 喜びもつかの間、1856年(安政6)に勝千代は死去。世子問題はさらに派閥政権の争いへと突入しました。再度世子に復帰するチャンスが勝井タミに巡ってきました。善之允とタミにつながる勝井五八郎の勝井派・義党と、杉村党とタイアップした碧派の戦いとなりました。碧派はミワという娘の子・徳之輔を推し、藩主に継嗣させるよう迫ったといいます。領内では次第に碧派への批判が高まりました。 この頃(1859年)、イギリス艦アクチオン号が浅茅湾(あそうわん)の入口にあたる尾崎浦に停泊し、乗組員たちは湾内を測量して上陸するという騒ぎが起きています。 1860年(万延元)には、勝井五八郎ら碧派に反対する勢力が武装し、万松院や太平寺に立て籠り藩政の粛正を訴えました。藩主・義和に対し、碧を排除し、善之允を世子とするよう嘆願しました。現状のままでは紛争が絶えないという不安もあり、義和は善之允を世子とすることに決め、碧派によって排斥されていたものも藩政に復帰させることにしました。 翌年、嫡子届けが行われ、善之允が後継者として確定しました。 世子問題で揺れていた対馬藩でしたが、ようやく世子問題が片付いた矢先に、ロシアのポサドニック号が対馬の尾崎浦に現れ、芋崎(いもざき)を占拠するという事件が起きました。 1859年(安政6)のイギリス艦アクチオン号の来訪の目的は、東南アジアの植民地化政策を強化し、ロシアの南下政策に対抗し、朝鮮海峡に防御線をはるということも目的のひとつでした。そのイギリスに対し、ロシアは船が破損したので修理したいという理由で芋崎に来訪しましたが、船修理所を設営し、治外法権地の設置をすることが目的だったといわれています。そして船員たちは上陸し、木材を切って営舎を構え、その後井戸を掘りました。 イギリスもロシアも、自国の利益のために対馬を占拠することの重要性を認めていたことは確かだったようです。 万松院 対馬府中藩宗氏の菩提寺です。百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる123段の自然石の大石段を登ると歴代の藩主と一族の墓が並んでいます。国の史跡。 対馬移封論と対長同盟 朝鮮との貿易が衰退していた対馬藩は、外国船の来訪から防備問題が重なり、藩の財政は貧窮化し、領民の不安も増すばかりでした。 イギリスやロシアの来島に対抗する術がないことから、対馬を幕府へ返上し、代わりにどこかの領地を拝領してはどうかという意見が出るようになりました。対馬移封論です。この中心人物が、江戸家老・佐須伊織でした。畿内河内国三十万石へ移り、対馬を幕府の直轄領とし、朝鮮通交にも幕府が対応するという案を当時の大老・井伊直弼に提案していたといわれています。桜田門外の変で井伊直弼が倒れたため、この話はなくなっていましたが、外国船の来訪を契機に再び対馬藩で対馬移封論が論議されることとなりました。攘夷派は当然反対をしましたが、1861年(文久元)、藩の方針として正式に対馬移封論が採択されました。 しかし攘夷論者たちは、移封論に反対し、善之允を藩主にして藩政を攘夷論に安定させようと、移封論者であった佐須伊織を殺害しました。そして攘夷論者たちは長州藩の援助で攘夷論を強化しようと動き出します。前藩主・義章(よしあや)の夫人は毛利斉熈(なりひろ)の娘でした。彼女を橋渡しとして、長州藩と会談が実現。対馬と長州はともに攘夷論をもって運命を共にするという盟約を交わしました。これが対長同盟です。 宗義和の墓 長州藩の協力を得て、藩主・義和の隠居、善之允の家督願いが出され、1862年(文久2)、善之允は藩主となり義達(よしあきら)と改名しました。これで対馬藩は、攘夷派へと傾いていくことになります。しかし尊王攘夷論の中心であった長州藩と同盟をしているため、幕府に対して対馬の地位は不安定になるものでした。 日新館の設立、攘夷派へ 藩内では、攘夷運動が展開されていきました。対馬藩は対長同盟により、兵食援助や手当金、兵粮米支給など思った以上に長州藩の支援を受けました。藩主・義達は、行財政を改正し、攘夷体制を強化しました。しかし対長同盟によって、長州藩とともに尊王攘夷の遂行を義務づけられています。 朝廷が攘夷決行を決定し、決行日が近づいてきました。勅使三条実美(さねとみ)らの身辺が危険となりつつあったため、長州藩は対馬藩へ50人の身辺護衛を求めてきました。しかしこの護衛問題をめぐって、佐幕派の勝井五八郎と当時対馬藩の攘夷論の中心人物であった大浦教之助が対立するようになりました。 復元された日新館門 しかし長州藩がアメリカ・フランス・オランダの軍艦によって下関を砲撃され、その後アメリカと交戦し敗退するという事件が起こりました。この事件で長州藩は御所警備の任務を解かれて京から追放されました。この状況を知った対馬藩の攘夷論者は、続々と脱藩し、長州藩に加わっていきました。また藩内では平田大江が列藩協和による攘夷を唱え、福岡藩を仲介にして薩摩藩と長州藩が提携するという提案が出されました。また大浦教之助は、文武の興隆と養成によって攘夷論を高めようと、1864年(元治元)に文武館を設置しました。その後文武館から日新館へと改称し、経学、史学、諸子学、文章学、習字、医学を、武術では剣・槍・弓・砲・柔術などを教え、200余人の有能な人材が集まりました。 勝井騒動(甲子事変)、佐幕派へ 長州藩が御所警備の任務を解かれたことで、対長同盟はかえって幕府から責任を追求されることになる可能性もあるため、自藩の国力を増加し、富国強兵による攘夷体制を強化する方針がとられました。また藩の財政改革も必要となり、生産方役所を設置して大坂で生産品を取りさばくよう財政強化を図りました。そして諸役人を縮小し、重職者などを対馬へ帰国させるようにしました。 大坂で帰国命令を受けた勝井五八郎と平田大江は、尊王攘夷派の大浦派の策ではないかと疑い、大浦教之助の長男で京都の留守居役であった作兵衛を自殺に追い込みました。 この事件が対馬藩に届き、大浦派や日新館メンバーは激怒しますが、ちょうど幕府から長州征伐の命令が出されたのを好機ととらえた勝井と平田は、対馬藩へと戻りました。他の勝井派と合流した一行は城内に入ると藩主を拉致し、そして大浦教之助は藩主を防州氷上に移し、勝井・平田を排斥しようと計画していることを進言し藩主を警固する体制をとりました。 勝井五八郎の城内占拠により、府中は騒然となりました。 藩主は藩士を集め、勝井五八郎の処分を決めようとしましたが、逆に勝井は大浦らが藩主を防州氷上に移そうとしていると強く主張しました。日新館のメンバーは憤慨しましたが、藩主移住の嫌疑を晴らすことができずに、逆に大浦教之助をはじめ多くの日新館メンバーが処分されることとなりました。200名を超える対馬藩の有能な人材が処刑され、日新館は廃止されました。 この事件を勝井騒動(甲子事変)とよんでいます。 揺れ動く対馬藩 攘夷論の中心であった大浦派や日新館メンバーを一掃すること成功した勝井五八郎は、宗家の政権確保と自分の保身しか考えていなかったため、動揺している対馬藩をどういう政策で進めていくかなどは特に考えてはいませんでした。 大浦派や日新館メンバーを一掃するために協力し、勝井騒動後に重職についていた平田大江には、考えがありました。福岡藩を仲介にして薩摩藩と長州藩が提携するという雄藩連合による王政復古論でした。そのため平田大江にとっては、佐幕派の勝井五八郎を排斥する必要があったのです。平田大江・主米(しゅめ)父子は、福岡藩と長州藩に応援を求め、当時日新館派で京都藩邸にいた旧勝井派の多田荘蔵(ただしょうぞう)らを中心に尽義隊(じんぎたい)を編成しました。そして福岡藩に使節を要請し、平戸藩・大村藩に援兵を依頼、当時博多に居た西郷吉之助(隆盛)にも対馬藩の実情を説明し応援を承諾させ、大宰府の三条実美卿らにも会って使者派遣の承諾を得ると長州藩からは回天隊が派遣されました。 その間、勝井にとっては、平田父子と多田荘蔵の行動は、幕府の嫌疑を招き対馬藩自体が取り壊されるという危険性を感じており、帰国命令を出しても戻ってこない平田大江を解職し、藩命をもって1,000人ほどの人を集め、平田大江の来島に備えました。 対馬藩には福岡藩使節がまず交渉を行い、その後三条実美の使節と回天隊によって交渉が行われ、対馬藩はようやく平田父子と多田荘蔵の罪を許します。しかし、藩内では依然勝井派の力が及んでいたため、三条実美の使節をはじめ各藩の攘夷論者たちは、藩主・義達に攘夷の復活と佐幕派の排斥、平田大江を支持するよう陳述したといいます。 藩主は、勝井の暴政や今後の藩の立場を考慮し、勝井五八郎の暴政を抑圧させることを決め、家臣に指示し、勝井派の中心人物たちを殺害させました。一方勝井五八郎も反対勢力を暗殺する動きに出ましたが阻止され、切腹を命じられました。勝井は抵抗しますが、平田大江や反勝井派に囲まれ斬殺されました。そして勝井派は罷免され、藩政から大きく退かされました。 勝井派が退くことで、再度攘夷派が台頭するかと思われましたが、平田大江が目指した勤王論は取り入れられず、対馬藩は佐幕派の立場を決めました。 各藩の攘夷論者たちは、再三平田父子の復職運動を試みましたが、対馬藩は三条実美や長州藩には苦しい藩の立場を理解してもらうよう使者を出し、幕府に対してはこれまでの経緯を説明し、仕方なく攘夷論をとった時期があったことを説明し、長州藩と行動をともにしない旨を伝えました。 一方、平田大江はなんとかして藩政を佐幕派から勤王論へと変えようと努力し、福岡藩や薩摩藩にも使節派遣を依頼し、藩主を説得しようとしますが、佐幕派や勝井派の残党の反対にあいます。1865年(慶応元)、平田大江は勝井派の残党から殺害され、翌日子の主米は自刃したといいます。多田荘蔵ら尽義隊も命を狙われましたが、長州藩の回天隊に助けられ、脱藩しました。 こうして平田父子や尽義隊は、志を果たせずに終わりました。 脱藩した勤王論者たち 平田大江が殺害された後、長州藩の回天隊に助けられた多田荘蔵らは、その後どうしていたでしょうか・・・・ 多田荘蔵らは、平田大江が主張していた薩摩藩と長州藩が提携する雄藩連合による王政復古を目指し、運動を展開していました。 長州藩が征討されるという危機に、薩摩藩へ行き、大久保利通と面会し薩長連合の必要性を説き、その後大久保と共に上京して西郷吉之助と面会、その後黒田了介と会談し、黒田了介を長州藩へ下向させることに成功したといわれています。 そして1866年(慶応2)には下関で木戸孝允と面談し、奇兵隊の一員となっています。その後奇兵隊隊長・高杉晋作の命を受けて筑前姫島に牢居されていた野村望東尼(ぼうとうに)救出に成功するなど活躍しています。 対馬藩の幕末は、世子問題に始まり、外国船の来航、移封論と様々な出来事に直面し、さらに攘夷論、佐幕論、勤王論と藩政をめぐって血なまぐさい派閥政争が展開されました。こういうことから、対馬藩は時局から大きく取り残されることになりました。 参考資料 『 旅する長崎学12 対馬 朝鮮外交への道 』(企画/長崎県制作/長崎文献社) 『厳原町誌』 『つしま百科』(平成20年3月 長崎県対馬地方局) 歴史散策 格式ある10万石の厳原の城下町を歩きながら、対馬の歴史を堪能しましょう! ●半井桃水館 半井桃水生家跡に建設された交流施設です。藩主・宗家の典医の家の長男として生まれ、小説家・記者として活躍し、日露戦争にも記者として従軍しました。樋口一葉の師であり、思慕の対象であったことが、樋口一葉の手記からわかりました。 ●日新館門 1864年(元治元)に設置された日新館門(復元)です。経学、史学、諸子学、文章学、習字、医学を、武術では剣・槍・弓・砲・柔術などを教え、200余人の有能な人材が集まりました。 ●対馬藩家老屋敷跡 国道382号線が目の前を通っていますが、ここはかつて馬場筋通りと称する大通りで、宗家の家臣達の屋敷が建ち並び、人の背丈よりも高い石垣塀が続いていました。 ●城下町・武家屋敷風情 対馬藩時代の城下町・武家屋敷跡は散策しながらもあちらこちらで見ることができ、対馬の歴史を堪能できます。歴史スポットを探し歩くよりも、の〜んびりと散策を楽しむのもおススメです。
  • 対馬藩 2014年03月28日
    対馬藩
    江戸時代、対馬藩は、対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(現在の佐賀県鳥栖市東部及び基山町)と浜崎(現在の佐賀県唐津市浜崎)を治めていました。藩主は宗氏で、初代藩主の義智(よしとし)以来、改易もなく宗氏が治めました。 室町時代の日朝関係はおおむね良好でした。朝鮮半島の三浦(さんぽ)に形成された日本人居留地に住む人々が起こした反乱(三浦の乱)によって、1510年、対馬と朝鮮の関係は一旦断絶状態に陥りましたが、翌年には宗氏が関係復活のための交渉に動き、日朝間のおおむね平和な外交関係を保っていました。ところが、豊臣秀吉による朝鮮出兵[1592年(文禄元)の文禄の役、1597年(慶長2)の慶長の役]により、朝鮮との国交が途絶えることになります。 それまで朝鮮貿易を独占してきた対馬にとって、国交を回復できるかどうかは死活問題でした。しかし、朝鮮出兵による影響は大きく、国交回復を求める対馬の交渉は難航します。こうした状況で江戸時代を迎え、対馬藩はスタートしたのです。対馬藩は、どうやって藩の危機を乗り越えていったのでしょうか。幕末にかけての対馬藩を一緒に見ていきましょう! 朝鮮との国交回復まで 江戸幕府が開かれた当時、徳川政権には外交の実務がなかったこともあり、家康は朝鮮との国交回復の任を宗義智(そう よしとし)に命じました。 内治・外交に藩主の信頼を得ていた柳川調信(やながわ しげのぶ)は義智とともに、朝鮮へ書を送ったり、朝鮮出兵時に日本へ連行した人々を送還するなどして、国交回復に努力します。 国交回復の条件として朝鮮側が示したのは二つ。一つめは、朝鮮出兵の際に先王の陵墓を荒らした犯人を捕らえて朝鮮へ連行すること。二つめは日本から先に国書を送ることでした。一つ目の件は対馬の罪人2人を送ることにしましたが、二つ目に関しては、先に国書を送ることは朝鮮への恭順を意味するため、幕府が条件を承諾することは到底不可能でした。そこで、義智と柳川調信・智永(としなが)父子、景轍玄蘇(けいてつげんそ)らは国書を偽造し、朝鮮へ送りました。さらに1607年(慶長12)、朝鮮の使者が江戸城で将軍・徳川秀忠に朝鮮国王の返書を渡す際、先に送った偽造国書への返書とばれないように、「奉復」を「奉書」と書き直す改ざんや朝鮮国王印の偽造などをおこないました。 外交僧玄蘇や弟子規泊玄方(きはくげんぽう)らが居住していた以酊庵(西山寺) 以後も対馬藩は偽造と改ざんというかたちで朝鮮と幕府の仲介役を演じ、1609年(慶長14)、ついに国交回復の約条を結ぶこと[己酉(きゆう)約条]に成功します。 こうして対馬は、やっとの思いで朝鮮との貿易を再開することができました。 柳川一件 1635年(寛永12)、対馬藩主・宗義成(そう よしなり)を追い落とそうとした有力家臣の柳川調興(やながわ しげおき:柳川智永の子)が、国書偽造と改ざんを繰り返した対馬藩の実態を幕府に訴えました。調興は、幼くして義智の後継者として襲封した義成と、所領地の問題や調興自身の専横などで、たびたび対立していました。 この訴訟内容には、幕府政策の日朝交易に関わる重要問題が含まれていたため、幕府は役人を対馬へ派遣させて詳しく調べさせ、最終的に将軍・徳川家光が自ら関係者を呼び裁決することとなりました。義成は、この国書偽造と改ざんの内容について関知しておらず、一応義成の勝利に落着しました。この事件は「柳川一件」とよばれています。 朝鮮通信使 朝鮮国通信使之碑 朝鮮は、鎖国体制下で幕府が正式に外交関係を結んだ唯一の外国でした。両国の修好を目的とし、朝鮮国王の国書を日本の徳川将軍に届ける使節のことを「朝鮮通信使」といい、幕府は国内に威信を示すため、国家的行事として一行を迎えました。宗氏の要請で、通信使が再開したのは、1607年(慶長12)のこと。その後、約200年の間に12回の使節を迎えています。「通信」とは、“信義を通わす”という意味です。 使節一行の総勢は300人から500人にものぼりました。使節の中には官僚のほか、朝鮮を代表する多くの学者や文化人も含まれていました。朝鮮通信使は、外交面だけでなく文化交流においても大きな役割を担っていたのです。当時、この行列を見物した日本人たちは、そのあまりの絢爛さに驚き、目をうばわれたといいます。 対馬アリラン祭りの行列の様子 1回の通信使の対応に、前後3年間はその準備や後処理に時間を費やしたといいますから、どれだけ重要で壮大なイベントであったかがわかります。 現在では毎年8月に対馬でおこなわれる「対馬アリラン祭り」において、色鮮やかな衣装を身にまとった朝鮮通信使の行列が再現されます。この祭りには韓国の人々も参加して交流し、島民と一緒になって祭りを盛りあげています。 長崎県立対馬歴史民俗資料館 長崎県立対馬歴史民俗資料館には、「朝鮮国信使絵巻」の資料が揃っており、当時の様子をうかがうことができます。入館料は無料ですので、ぜひ立ち寄ってみてください。 動画で見る歴史スポット【第12回】「 日朝のかけ橋 朝鮮通信使 」のアニメーションで詳しくみることができるよ! 宗義真(よしざね) 宗義成の亡き後、第3代藩主として義真が封を継ぎます。義真の治世では、朝鮮との貿易も順調で、財政も豊かでした。多くの土木事業をおこない内政を整え、「中興の英主」とまでいわれています。1672年(寛文12)におこなった、大船越(おおふなこし)瀬戸の堀切(ほりきり)によって、浅茅湾(あそうわん)の東西に水路をひらくことに成功しました。この事業で対馬は2つに分断されますが、船で積み荷をおろしていた人々にとっては、東西に船での出入りが可能となり便利になったといいます。 お船江 また全島の検地をおこない、土地の等級により租率を定め、禄制の改革にも取り組んでいます。 1663年(寛文3)、久田(くた)村に御用船の停泊所として人工で築かれたお船江(ふなえ)は、4基の突堤と5つの船渠がありました。今も当時の原状をよく残しているお船江跡は貴重な遺構であり、県の史跡に指定されています。 1689年(元禄2)、対馬藩は藩財政の生命線である朝鮮外交の体制を維持する目的で、記録文書の整理や保管をおこなう「朝鮮方」を設置し、制度の見直しや理論化をおこなうために、藩外から雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)を採用します。これも義真の時代でした。 「誠信之交隣」碑 芳洲は対馬藩の外交方針として「誠信之交隣」を提唱する『交隣提醒(こうりんていせい)』をまとめ、朝鮮通詞の養成にも力を入れました。 “交隣”とは、隣国と対等に交わることで、本来朝鮮で使われた外交用語です。芳洲は「互いに欺かず、争わず、真実を以て交わる」と方針を説き、朝鮮外交と友好親善に努めました。 対馬の幕末「ポサドニック号」 1853年(嘉永6)、ペリー提督が黒船艦隊を率いてやってきたことにより、江戸幕府の鎖国政策は危機を迎えました。朝鮮や中国、ロシアと近い場所に位置する対馬にとっても、外国船の来航は重大な問題でした。 当時インドを植民地としていたイギリスは、その勢いで極東へと進み、ロシアの南下を恐れてロシアを封じ込めようとしていました。 1859年(安政6)、イギリス艦アクチオン号が浅茅湾(あそうわん)の入口にあたる尾崎浦に停泊し、乗組員たちは湾内を勝手に測量して上陸し、対馬の村を歩き回ったため、大騒ぎとなりました。20日あまり滞在した後、同艦は釜山へ向け出航しましたが、朝鮮の倭館にも立ち寄ったのでここでもひと騒動あったといいます。 こうしたイギリスの行動に触発され、ロシアも動き出しました。1861年(文久元)、ロシアのポサドニック号が対馬の尾崎浦に現れ、芋崎(いもざき)を占拠しました。箱館から対馬まで来る途中で船を損じたため修理をさせてほしいという理由だったのですが、これが長引き、最終的には半年ものあいだ滞在しました。その間、対馬藩番兵による殺傷事件をはじめ、ロシアと日本のあいだで種々のトラブルが発生したので、藩も幕府も手を焼きました。 このロシアの芋崎占拠に対してイギリスは激しく抗議し、日本の要請なしでもイギリスの東インド艦隊を呼び寄せてロシア艦を排除すると通告したため、ポサドニック号は退去しました。ポサドニック号による芋崎占拠事件は「ポサドニック号事件」とよばれ、藩・幕府ともに単独では外国との問題を解決できないほど弱体化していることを明かにしてしまうこととなりました。 ここから、対馬も幕末に向かって動き出すことになります。 続きは、次回の「対馬藩2」で。お楽しみに! 参考資料 旅する長崎学12 海の道III『 朝鮮外交への道 』 歴史散策「金石城跡周辺」 厳原(いづはら)は、宗氏が1486年(文明18)に佐賀(さか:峰町)から移館して以降、約380年間続いた城下町です。対馬藩時代の藩主にまつわる地や朝鮮通信使ゆかりの地など、格式ある10万石の城下町を歩きながら、日朝関係の継続に尽力した歴史を想像してみましょう! ●金石城跡 1528年(享禄元)に起こった宗盛治の兵乱で、宗氏の「池の館」は炎上焼失しました。その後、清水山のふもとの島分寺(国分寺)があったと伝えられる金石(かねいし)に、宗将盛(まさもり)は館を移して「金石の館」と称しました。そして1699年(寛文9)に宗義真(よしざね)が城郭を改修し、櫓を築いて、「府城(ふじょう)」または「金石城(かねいしじょう)」とよばれました。 ● 旧金石城庭園 2008年(平成20)の発掘調査により遺構の全容が明らかになりました。 玉砂利敷きによる洲浜は奈良時代から平安時代にかけて流行した様式で、近世庭園としては希少な意匠と構造をもっています。対馬独特の風土を活かした作庭精神と骨格がきわめて良好なことから、2007年(平成19)に国の名勝指定を受けました。 見学料:一般300円 小・中学生100円 休園日:火曜日・木曜日 ●万松院(ばんしょういん) 「対馬藩主宗家墓所」として国の史跡に指定されています。宗家墓所は、金沢の前田家、荻の毛利家の墓地とともに日本三大墓地といわれています。 1615年(元和元)、対馬藩2代藩主の義成(よしなり)が、朝鮮出兵・関ヶ原の戦い・朝鮮国交回復と苦難を重ねた初代藩主・義智(よしとし)の供養のため、金石屋形の西の峰に松音寺を創建しました。 拝観料:大人300円 高校生200円 小・中学生100円 ●以酊庵(いていあん) 宗義調(よししげ)に招かれた博多聖福寺の景轍玄蘇(けいてつげんそ)が、対馬にひらいた禅寺を以酊庵とよびました。 以酊庵は何度か場所を変わりましたが、1732年(享保17)に西山寺に移りました。朝鮮通信使の宿泊所にも使用されました。 周辺散策地図 金石城跡 旧金石城庭園 万松院 以酊庵 長崎県立対馬歴史民俗資料館
  • 旧石器時代から弥生時代まで 2010年06月23日
    旧石器時代から弥生時代まで
    旅する長崎学オリジナル年表の【旧石器時代から弥生時代まで】を確認する
  • 日朝のかけ橋 朝鮮通信使 2010年05月19日
    日朝のかけ橋 朝鮮通信使
    関連ページ テーマで歩く歴史散策「城下町“厳原”を巡る」(2010.05.06. 更新)
  • 対馬ならでは〜自然から対馬を知ろう〜 2009年07月15日
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