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蒙古襲来(元寇)の背景

元の勢力図 ※服属国を含む
元の勢力図 ※服属国を含む

 チンギス=ハンがモンゴル高原の諸部族を統合して、1206年にモンゴル帝国を形成し、遊牧民たちをまとめました。その後の後継者たちもしだいに勢力を増し、13世紀なかばまでに、モンゴルの支配は、東は中国北部から西はロシア・イランにいたる広大な領域に拡がりました。
 この大領土のなかで、チンギス=ハンの子孫たちによる相続争いもしばしばおこりますが、第5代として即位した孫のフビライ=ハンは、中国を支配するため、都を大都(現在の北京)に移し、1271年に国号を“元”と定めます。そして、高麗を全面的に服属させた元は、日本に対してもたびたび朝貢を強要してきました。南宋を滅ぼして中国全土をその手におさめたい元にとって、南宋と密接な関係にあった日本を服属させることは、南宋の孤立を促して滅亡に追いやることができるという狙いがあったようです。
 蒙古襲来(元寇)は、日本にとっては未曾有の一大国難として歴史に残ります。

蒙古襲来(元寇)まで

 1268年(文永5)、第1回目の元の使者が太宰府に到着し、元への服属を示唆する国書を手渡します。当時の執権・北条時宗(ほうじょうときむね)は、18歳と若いながらも剛胆気鋭(ごうたんきえい)、これを拒否し、国内には時局の重大性を知らせました。
 時宗は、その後も数度にわたる元からの使者を追い返し、当時敵軍の侵入の危険性が最も大きい博多・松浦沿岸に異国警固番役(いこくけいごばんやく)を置き、九州一円の武将が防備をかためました。
 1270年(文永7)、日本には服属する意志がないと判断したフビライ=ハンは、高麗に命じて兵船の建造など侵攻の準備を進めます。

文永の役

小茂田浜神社
小茂田浜神社

 1274年(文永11)、総司令官都元帥にモンゴル人の忻都(きんと)、右副元帥に高麗人の洪茶丘(こうさきゅう)、左副元帥に漢人の劉復亨(りょうふくこう)、以下約4万人の元軍が、高麗の合浦(がっぽ 現在の馬山)を出航し、対馬の佐須浦(さすうら)に上陸しました。
 対馬の守護代宗助国(そうすけくに*宗資国とも)は、自ら80余騎を率いて奮戦するも、全員壮絶な玉砕を遂げます。この時、全滅の覚悟をした宗助国は、家臣の小太郎と兵衛次郎に対し、元軍の襲来を太宰府に知らせるように命じたといいます。
 佐須浦は、現在の対馬市厳原町小茂田(こもだ)といわれ、元寇の役古戦場跡とされます。宗助国や戦死者を祀った小茂田浜神社があり、毎年11月には「小茂田浜神社大祭(通称:元寇祭)」が行われています。

平景隆の墓(新城神社本殿前)
平景隆の墓
(新城神社本殿前)

 ついで、元軍は壱岐の北部海岸へ上陸。壱岐の守護代平景隆(たいらのかげたか)は、一門百余騎を率いて庄ノ三郎ヶ城の前の唐人原(とうじんばる)で大敗。樋詰城(ひのつめじょう)に篭城して奮戦しましたがおよばず、家臣の宗三郎に命じて急を太宰府に報告させ、自ら壮絶な最期を遂げます。

開田の七人塚
開田の七人塚

 つづいて元軍は鷹島を襲い、生き残る者わずか2名と伝えられるほどの惨禍をもたらしました。この元軍の鷹島侵攻の際の悲劇として、「開田(ひらきだ)の七人塚」のような話が今に伝えられています。
 当時の鷹島本島の領主は松浦答(こたう)。松浦党水軍の総師でしたが、博多防衛のため留守にしていたそうです。

 その後、元軍は博多方面へと進み、 筑前今津に侵入し、上陸を開始しました。九州各地から御家人が従者を連れて戦場に駆けつけました。少弐(しょうに)・大友をはじめとして、臼木(うすき)・戸次(へつぎ)・松浦党(まつらとう)、菊池・原田(はるだ)・小玉党(こだまとう)以下、神社仏寺の司(つかさ)まで、我も我もと馳せ集まったと『八幡愚童記』に記されています。
 博多では一日中激戦が続いたといい ます。元軍の主戦力は軽装で長槍(ながやり)を持った歩兵であったため、日本の騎馬武者は徒歩の元軍集団に取り囲まれて苦戦。さらに元軍の火薬を使った「てつはう」という新しい武器の前に、日本は大敗してしまいました。

「博多・箱崎ヲ打捨テ、多クノ大勢、一日ノ合戦ニタへカネテ、落籠(おちこも)ルコソ口惜(くちおし)ケレ」

『八幡愚童記』より

文永の役の元軍進行図
文永の役の元軍進行図

 ところが元軍は、日本軍を追撃せず、なぜか軍船に引き上げてしまいました。これが運命の分かれ道となりました。その夜、大暴風雨が元軍の船団を襲い、大損害を受けた元軍は撤退することとなったのです。『高麗史』によると、元・高麗軍の溺死者1万3,500人、難を逃れた者も1ヶ月以上かかってやっとのことで合浦に帰着したといいます。

文永の役後

 1275年(建治元)、フビライ=ハンは再び杜世忠(とせいちゅう)を正使とする使者を日本に送ります。北条時宗は、鎌倉の龍ノ口刑場(江ノ島付近)で杜世忠以下5名を斬首に処しました。
 元は杜世忠らが処されたことを知らないまま、1279年(弘安2)に再度使者を送ってきましたが、太宰府にて全員斬首に処されました。南宋の首都・臨安(現在の杭州)をすでに占領[1276年]していた元は、この年に南宋を完全征服します。これまで日本へと送った使者たちが処刑されていたことを知った元は、再び日本への侵攻を計画するのです。

弘安の役

 1281年(弘安4)、再び元軍が来襲しました。今度は文永の役とは比較にならないほどの大軍です。元軍は二つにわかれ、朝鮮半島の方から東路軍(モンゴル人・漢人・高麗軍の総勢4万2,000人)、慶元(現在の中国の寧波[にんぽう])から江南軍(総勢10万人)が日本へと向かってきました。
 一方日本は、文永の役における経験から、海岸線には石築地(いしついじ)とよばれる石による防塁(ぼうるい)を築き、異国警固番役も強化して防備をかためました。

[東路軍の動き]

 東路軍は、高麗の合浦を出航し、約2週間後に対馬へ侵攻、その5日後には壱岐を襲来しました。つづいて博多湾に侵入し、石築地のない志賀島攻略をめぐり、大激戦が展開されました。上陸に失敗した東路軍は、いったん撤退します。

[江南軍の動き]

 江南軍は、壱岐で東路軍と合流する予定でしたが、総司令官・阿刺罕(アラカン)が急病を発したため阿塔海(アタハイ)に交代するという諸事情などで出発が大きく遅れます。博多に上陸できなかった東路軍とは、平戸で合流しました。
 合流した元の東路軍と江南軍は、約14万という大軍となって平戸を発ち、鷹島へ移動しました。元軍の大船団が鷹島に集結したという情報を入手した日本の軍は、博多湾から軍船を出して鷹島近海に進出し、伊万里湾一帯で待ち構えていた将兵たちと、元軍の不備に乗じて夜襲(やしゅう)を敢行し、大きな損害を与えたそうです。

 そしてある夜のこと、またも大暴風雨が元軍を襲います。軍船の大部分は沈没し、将兵の多くは溺死するなど壊滅的な大打撃を受けました。『八幡愚童記』には、「七月三十日の夜半に西北の風が吹き荒れ、閏七月一日には賊船ことごとく大破し海に沈んだ・・・鷹島に打ち上げられた数千人は、船なくして疲労していたが破船をつくろい、七、八隻に蒙古、高麗軍が打ち乗りて逃げようとした」とあります。

 文永の役・弘安の役の2度にわたって吹き荒れた大暴風雨のことを「神風(かみかぜ)」とよんでいます。

残兵元軍の掃討戦

少弐景資(しょうにかげすけ)が本陣を置いたところと伝えられている龍面庵小弐公園
少弐景資(しょうにかげすけ)が
本陣を置いたところと伝えられて
いる龍面庵小弐公園

弘安の役の元軍進行図
弘安の役の元軍進行図

 元軍の残兵が鷹島に上陸したとの急報を受けた総指揮官・少弐景資(しょうにかげすけ)は、自ら兵を率いて陸路を急行、現在の唐津市肥前町星賀浦(ひぜんちょうほしがうら)を出て、松浦市鷹島町日比浦(ひびうら)、伊野利(いのり)の浜より鷹島に上陸し、阿翁龍面庵(あおうりゅうめんあん)に戦闘指揮所を設置しました。
 閏七月五日より七日まで残敵掃討戦が展開されました。捕らえた敵兵は約5,000人。ことごとく処刑したといいます。

参考資料

・『旅する長崎学 11』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)

・『旅する長崎学 12』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)

・『鷹島郷土誌』(昭和50年発行)

・『元寇ロマンの島 鷹島史跡めぐり』(鷹島町教育委員会)

・『松浦党研究 第三号』 特集 元寇と松浦党(松浦党研究連合会)

・『松浦党研究 第六号』(松浦党研究連合会)

・『マンガ日本の歴史17 蒙古来襲と海外交流』石ノ森章太郎


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