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  • 平戸を訪れた人々と、平戸を旅立ち活躍した人々 2010年01月27日
    平戸を訪れた人々と、平戸を旅立ち活躍した人々
         今回の歴史発見コラムでは、平戸を訪れた人々や平戸から旅立って活躍した人々にスポットをあててみました。   1641年(寛永18)にオランダ商館が平戸から「出島」へと移転し、海外貿易の拠点が長崎へと移ります。平戸藩は主要な財政基盤を農業におくこととなりましたが、もともと山地と島からなり、平地に乏しい地勢でした。そこで、早岐(はいき)・相神(あいのうら)・佐々地方と新田の開発をおこないます。   その後、平戸藩の財政を潤したのは捕鯨でした。1733年(享保18)、益冨又左衛門の生月御崎(いきつきみさき)の網組は船40艘・従業員587名の巨大組織をつくりあげ、毎年20〜50頭の鯨を捕獲するほどの勢いで、壱岐・対馬・五島・西彼杵(にしそのぎ)・長州へと各地に漁場を広げていきました。  また、豊臣秀吉の朝鮮出兵・文禄の役後、平戸島中野で陶磁器づくりが始まり、1637年(寛永14)以降は三川内(みかわち:現佐世保市)が平戸藩の陶磁器生産の中心となります。御用窯も置かれて隆盛し、今日に至ります。 しかしながら、新田開発による増収は限界に達し、捕鯨業も衰退の一途を辿り、平戸藩の財政は厳しい状況となっていました。 松浦 清〔静山〕と藩校・維新館   平戸藩は、財政窮乏のため藩政改革が必要でした。そんな時に藩主となった松浦 清(きよし)〔静山せいざん〕は、経費節減や行政組織の簡素化・効率化、農村そのものの再建・強化、身分にとらわれない有能な人材の登用などをおこないました。   清山は、1821年(文政4)11月17日(旧暦)の甲子の夜から筆をとったといわれる「甲子夜話(かっしやわ)」の著者としても知られています。   甲子夜話には、古今の人物の逸話、故実、学問、芸能、民俗、信仰、自然現象、地理、その他狐狸妖怪等々の記述があり、江戸文学を代表する随筆集といえます。極彩色の挿図が数多く描かれているのも面白いです。また、大塩平八郎の乱やシーボルト事件に関する伝聞等の記述も含まれており、近世後期の社会情勢や文化を知るうえでも貴重な記録となっています。 また藩校となる維新館(いしんかん)を設立し、人材の育成に努めました。 平戸藩校の立役者・山鹿素行(やまがそこう)   そもそもこの維新館の基礎は、山鹿素行の弟・平馬とその子孫が平戸に住み、藩臣となって、山鹿の軍学(兵学)を説いたことが始まりといわれています。   1651年(慶安4)、松浦鎮信〔天祥〕が江戸の板倉重矩(いたくらしげのり)邸で、素行が「荘子(そうじ)」を講じるのを聞いて感動し、素行と意気投合しました。その後鎮信が素行の住居を世話するなどして親交が深まりました。 「テーマで歩く歴史散策」の平戸城 でも紹介しましたが、平戸城の縄張り(設計)は山鹿素行の軍学に沿ってなされました。   山鹿素行は、幼い頃から儒学、軍学(兵学)を身につけ、20歳で幕府士中に頭角を現し、門下生は4,000人にも及んだといいます。素行が著した尊王思想の書「中朝事実」は、後に乃木将軍にも影響を与えたといわれています。 平戸藩で多くの儒者を育てた佐藤一齋(さとういっさい)   佐藤一齋は1772年(安永元)生まれ。林述斎(はやしじゅっさい)に学び、天保の改革を推進した水野忠邦に見出され、幕府の儒官となります。朱子学を専門として教育しますが、その広い見識は陽明学にまで及びました。江戸の私塾では、長村靖斎(ながむらせいさい)、葉山佐内(はやまさない)、楠本端山(くすもとたんざん)、楠本碩水(くすもとせきすい)など平戸藩の儒者のほとんどは佐藤一齋の講義を受けました。1800年(寛政12)、29歳の時に平戸に招かれ、維新館で講義をおこなっています 明治維新の精神的指導者 吉田松陰(よしだしょういん) 吉田松陰宿泊紙屋跡(平戸市浦の町)   山鹿流兵学をさらに学ぶために平戸を訪れたのが、長州藩士の吉田松陰でした。まず葉山左内の門を叩いて儒学をより深め、その後山鹿高紹について兵学を学んだといいます。50日余り滞在して数多くの書物を書き写したといわれる「吉田松陰宿泊紙屋跡」には、今も多くの人々が訪れます。   1857年(安政4)には叔父が主宰していた松下村塾を引継ぎ、開塾。久坂玄瑞(くさかげんすい)や伊藤博文、高杉晋作(たかすぎしんさく)、桂小五郎(かつらこごろう)などを育てています。1859年(安政6)、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画が頓挫したことから自首、斬刑となりました。   維新館は、1871年(明治4)の廃藩置県の際に閉校となりますが、1880年(明治13)に松浦 詮(あきら)〔心月(しんげつ)〕は、学舎を再興して猶興書院(ゆうこうしょいん)と名づけ、漢字・数学・歴史を教育する場をつくりました。維新館時代を含め猶興書院では、明治時代に活躍する人材を多く輩出しています。   猶興書院は、1886年(明治19)に市立中学となり、1889年(明治22)には猶興館と改称、1902年(明治35)に県立へと移行します。現在の長崎県立猶興館高等学校の前身です 明治の行動人を育てた楠本端山 國士浦敬一之碑   楠本端山は1828年(文政11)、平戸藩針尾島に生まれます。維新館に学び、24歳の時に江戸留学を命じられ、佐藤一齋や大橋訥庵(とつあん)について、儒学を深めました。平戸藩に戻ると松浦 詮(あきら)〔心月(しんげつ)〕に学問を講じながら、維新館の教員となりました。その後1871年(明治4)の廃藩置県の際、平戸県権大参事となりました。   1881年(明治14)、官をやめ針尾に帰りますが、学びたいという者が絶えず訪れるため、翌年には弟の碩水とともに鳳鳴書院(ほうめいしょいん)を開いて多くの人材を育てます。この書院では厳しい規則や試験を課さず、悠々と自由に学ばせるのが特長で、九州各県のほか山口・島根・広島・香川・三重・新潟、さらに青森など東北地方からも集まってきたといいます。   楠本端山・碩水の門下生には、志佐要一郎(しさよういちろう)や浦敬一(うらけいいち)など、海外雄飛を志して行動した先駆者がいました。 「ブラジルの父」とよばれた山県勇三郎(やまがたゆうざぶろう)   山県勇三郎は楠本端山・碩水について学び、浦敬一との親交も深かったといいます。   初期の北海道開拓に従事して漁業・海運・牧畜・鉱山・商工業・学校などの諸事業を経営。日清戦争では軍需品の輸送を担当し、以来東京に店舗を設けて盛んに活動しました。   1909年(明治42)には日本帝国領土拡大の大望に燃え、長崎県ブラジル移民第1号として同地に渡ります。マカエ市郊外に約5000ヘクタールの大農場を開拓し、塩田・漁業なども営みました。その後、一度帰国して原首相を説き、ブラジル移民を国策路線に乗せるなど功績を残しました。 フィリピンで没した菅沼貞風(すがぬまただかぜ) 菅沼貞風の碑(亀岡公園内)   菅沼貞風は幼くして俊英の誉れ高く、貧しくして郡役所に勤めながら、夜は猶興書院に通って経史を学びました。1886年(明治19)、国が貿易沿革史の編纂を企画した際、大蔵省から史料を求められた長崎県は、郡役所へ求め、郡役所は貞風に依頼しました。貞風は遺跡を調べ歩いてまとめ、「平戸貿易史」を作成。当時、貞風はまだ19歳でしたが、松浦 詮は貞風の奇才を認め、学資を援助して東京帝国大学に学ばせたといいます。   1888年(明治21)の卒業論文「大日本商業史」は、日本の対外交貿易史の詳説として高い評価を受けました。その後、日本の海外発展についてフィリピンへと向かう「南進論」を説きました。1889年(明治22)には自らスペイン領であったフィリピンに渡り、地理・風俗の調査に奔走するも、マニラで客死しました。著書「新日本図南の夢」(当時は過激な南進策として刊行されませんでした)には、貞風の抱負の一端を知ることができます。 ロシアで没した沖 禎介(おきていすけ) 沖禎介の胸像(亀岡公園内)   沖禎介は1874年(明治7)生まれ。東京専門学校(現在の早稲田大学)に入り、その後楠本碩水に学びました。1901年(明治34)に清国に渡り、北京の東文学社で教鞭をとり、自ら文明学校を創立して清国の子弟を養いました。 沖禎介の胸像土台のレリーフ(亀岡公園内)   1904年(明治37)、日露宣戦布告に際し、校務は門人に託し、清国にいる同志と共に、東清国鉄道を破壊してロシア軍の東方輸送を妨害するという特別任務につきます。ラマ僧を装い、北京を発って50有余日、満州で任務を遂行しようという時にロシア軍に捕らえられ、ハルピンにて銃殺されました。 “初代シャム公使”稲垣満次郎   稲垣満次郎は上京して東京帝国大学に入ります。そして松浦 厚(あつし)〔鸞洲 らんしゅう〕のイギリス留学に随伴してケンブリッジ大学を卒業しました。イギリス在学中には、英文で「東方策」を著し、一躍欧米人のあいだにその名を知られるようになります。1891年(明治24)に帰国しましたが、官職には就かず、和文で「東方策」を著述して、当時の政界人に認められ、講演会をおこなうなど活動しました。   1897年(明治30)、初代シャム(現タイ王国)公使に選ばれ、同国との諸条約を締結、またトルコとの条約も締結させました。1907年(明治40)には特命全権公使となり、イスパニアに駐在しましたが、47歳で病没しました。 貞風の南進論を引き継いだ石橋禹三郎(いしばしうさぶろう)   石橋禹三郎は商家に生まれましたが、家業に就くことを好まず、17歳の時に平戸を離れ、福岡、そして東京へと出ました。苦労しながらも、将来のことを考えて英語を学んだといいます。あるアメリカ人の好意により単身渡米、皿洗いをしながら経済学を学びました。1891年(明治24)、南米チリで革命が勃発すると、義勇兵としてチリに赴き、その従軍記を書きました。一時平戸に帰りますが、フランスがシャムに領土の割譲を強要していると知って憤慨し、単身でシャム救援に旅立ちました。「勇敢な日本人と手を握り国運の発展をはかることが得策である」とシャムの政府要人に説いて賛同を得ると、土地を借り受け、「シャム殖民会社」や「日シャム銀行」を創設しました。しかし、シャム移民計画は実を結ばず、1898年(明治31)30歳で病死しました。 肉弾三勇士(にくだんさんゆうし)のひとり作江伊之助(さくえいのすけ) 作江伊之助の碑(亀岡公園内)   1931年(昭和6)の満州事変に続いて、1932年(昭和7)に第一次上海事変が勃発しました。日本軍は、廟行鎮(びょうこうちん)に築いた陣地を突破するのに苦戦していました。当時久留米工兵大隊の一等兵として参戦していた作江伊之助は、北川丞(きたがわすすむ)、江下武二(えした たけじ)と共に鉄条網の破壊班に加わります。爆薬筒に点火し、弾丸が飛び交うなかを3人で破壊筒を抱えて鉄条網に突入、自らも爆死しました。これにより日本軍は敵陣に突入することができました。当時この肉弾三勇士の名は知れ渡り、歌や映画も作られ、強く国民の志気を高めさせました(爆弾三勇士ともよばれています)。1965年(昭和40)、亀岡公園に作江慰霊碑が建立されました。   平戸生まれの青年のなかには、海外雄飛を志したものや海外で命を惜しまず活動したものが少なくありませんでした。海の彼方へと目を向けた彼らは、大航海時代に国際貿易港として栄えた平戸の遺伝子を受け継いでいたのでしょうか。   亀岡公園を散策していると、先人たちの記念碑や慰霊塔に出会います。平戸を訪れた際には、ぜひ立ち寄ってみてください。 亀岡公園   平戸城の二の丸跡に整備された公園で、天守閣や櫓があり、多くの観光客が訪れます。樹齢400年以上といわれるマキが多数植えられたマキ並木もあり、運動場も整備されているので、市民の皆さんにも親しまれています。マキの大きいものは幹まわりが5.5メートルを越えているそうです。 春には桜の名所にもなっており、多くの人で賑わいます。 亀岡神社鳥居とマキ並木 (亀岡公園)   1932年(昭和7)には漂泊の俳人とよばれる種田山頭火(たねだ さんとうか)は、平戸を訪れ、島の美しさと人の温かさに感激し、一時は落ち着き先にと考えたといわれています。山頭火は、行乞日記の中に以下のように書いています。 山頭火歌碑 山頭火歌碑 (亀岡公園内)   1932年(昭和7)には漂泊の俳人とよばれる種田山頭火(たねだ さんとうか)は、平戸を訪れ、島の美しさと人の温かさに感激し、一時は落ち着き先にと考えたといわれています。山頭火は、行乞日記の中に以下のように書いています。      日本は世界の公園である      平戸は日本の公園である 取材協力 社団法人 平戸観光協会 平戸市振興公社 平戸城 参考資料 「史都平戸-年表と史談-」/松浦史料博物館 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 平戸史話」(矢動丸 廣著)
  • 明日の世界遺産に出会う島・上五島 2009年10月28日
    明日の世界遺産に出会う島・上五島
       上五島を旅していると、自然の中に溶け込むように佇む教会堂に度々出会います。その姿は木造、石造り、煉瓦造りと様々で、教会ごとに違う印象をあたえています。 新上五島町に点在するカトリック教会はなんと29。その信仰が歴史とともに静かに守り継がれていることを感じずにはいられません。自然と祈りのあるこの島に、近年、 癒しと安らぎを求めて“教会巡礼”に訪れる人も増えているようです。 さて、長崎県内には、教会堂をはじめキリスト教関連の歴史遺産が数多く残っていることはご存知のとおりですが、2007年(平成19)、文化庁は、 国連教育科学文化機関ユネスコへ提出する世界文化遺産の国内候補暫定リストに、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を掲載しました。文化庁の特別委員会は、 “西洋の建築技術と日本の伝統的建築技術の融合がもたらした質の高い造形意匠をとどめている”と評価しています。 こうして世界遺産候補となった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」ですが、その価値を象徴する構成資産候補として、上五島の歴史ある教会堂もピックアップされているのです。  1873年(明治6)、キリシタン禁制の高札が撤廃され、信者たちの手によって各地に次々と教会堂が建てられるようになりました。パリ外国宣教会からやってきた、 建築学の素養のある宣教師たちが教会を設計し、日本人の大工を指導したそうです。その代表とされる人物が、鉄川与助(てつかわよすけ)です。禁教のなかで密かに信仰を守り貫いたキリシタンたちの夢を、 すばらしい建築技術でかなえた人です。彼が設計した教会は30あまり、建築に携わった教会は50を越えるといいます。人生の大半を教会建築に捧げた鉄川与助ですが、自らは生涯仏教徒でした。 教会建築の先駆者「鉄川与助」  鉄川与助は、1879年(明治12)、上五島の建設業の家に生まれました。1901年(明治34)ごろ、パリ外国宣教会のペルー神父が設計・指導した旧曽根教会の建設に、大工として参加し、初めて西洋建築と出会います。 鉄川組をつくり、冷水教会を皮切りに、1907年(明治40)以降、自ら設計・施工をおこなっています。1908年(明治41)には日本建築学准員となり、明治から昭和にかけて長崎県内を中心とした九州各地に、木造、煉瓦造り、石造り、コンクリート造りの美しく堅固な教会堂を次々とつくりました。現在、国重要文化財、県や市の有形文化財に指定されているものも少なくなく、彼が手がけた教会堂には文化財的価値が認められています。もちろん、文化財指定後も、信者の人々が集い祈りを捧げている現役の教会堂がほとんどです。 上五島の教会を訪ねて  上五島にある29の教会を巡っていくと、どの教会にもそれぞれ独特な特長が見られます。煉瓦造りの荘厳さ、清楚な白い外観、珍しい石造りの教会などなど・・・。構造も建築素材もいろいろ異なり、内部の装飾にいたっても違う特徴や工夫が見られます。 また、教会の数だけ信徒たちの苦労があったことも忘れてはなりません。信徒たちは、貧しい生活の中から献金をしたり、女性や子どもまでもが煉瓦や石を運んだりしながら、長い年月をかけて教会の完成に力をそそぎました。    頭ヶ島教会は、全国的にも極めて珍しい石造りの教会です。島内で切り出した石を丹念に積みあげものです。 内部装飾のモチーフに使われている花は「椿」といわれ、地域性も豊かに表現されています。 石の冷たいイメージは全くない。  特長のひとつ、折り上げ天井。 花模様をあしらい、優しい雰囲気をかもし出しています。 特異な石造りの外観とあわせ、国内の教会堂建築史上、例のない構造といわれています。1910年(明治43)に着工し、 完成まで約10年の歳月がかかりましたが、そのあいだ信徒たちは、資金集めや労働奉仕など献身的な努力を続けました。  青砂ヶ浦教会は、高台にある赤煉瓦造りの教会です。宣教師たちは、ここ青砂ヶ浦を、迫害が終わった後の上五島の活動の拠点としました。最初の教会は山手にありましたが、1889年(明治22)に違う場所に建てかえられ、さらに1910年(明治43)、鉄川与助の設計で現在地につくられました。50戸あまりの信者が建設費を拠出し、みんなが労働奉仕をおこなったそうです。 当時は道路が整備されておらず、海辺から建設現場までの階段を歩いて、人力で石や煉瓦などの資材を運んだといいます。女性も煉瓦をかつぎ、子どもたちも小さいながらに手伝い、信徒たち全員の力によって完成した教会です。 煉瓦造りであるが、入り口の円柱やアーチなど随所に石材も用いられている 柱頭の装飾も繊細で美しく、荘厳さをかもし出している 第2次世界大戦中に没収され、奈摩地区の警戒警報として使われたアンジェラスの鐘  信徒たちが厳しい弾圧と激しい迫害をくぐりぬけて生活してきた土地。そこに建つ教会は、ひっそりと農業や漁業を生業として営んできた景観と一体化して、優れた文化的景観を形成しています。 さらに、想像を絶するキリスト教信徒への弾圧・迫害という歴史のなかで、消えることなく綿々と受け継がれて今に生きる信仰の姿も重なり合い、 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」は世界遺産の候補として、暫定一覧表に掲載されることとなったのではないでしょうか。 上五島の教会は決して大きくもなく派手さもないけれど、訪れる人々をそっと包んでくれるような優しさがあります。癒しとやすらぎを与えてくれる上五島の教会めぐりへ、 ぜひ出かけてみませんか。 ★長崎県におけるキリシタン文化の歴史については、「 旅する長崎学 キリシタン文化編(全6巻) 」をご覧ください。 “明日の世界遺産を訪ねる教会めぐり”〜上五島の取り組み〜  特定非営利活動法人 新上五島町観光物産協会では、1名様からでも教会めぐりコースへの参加を受け付けています。 所要時間は約6時間です。完全予約制ですので、必ず事前に申し込みをしてください。 新上五島町の教会一覧ページへ  また10月には「上五島教会めぐりウォーク&クルーズ」を開催しています。 教会めぐりイメージ: 新上五島町観光物産協会提供  秋空のもと、海・山・教会・風を感じながら上五島を満喫する2日間のイベント。 ウォーキングを楽しみながら教会をめぐります。途中、クルージングにて若松島周辺を探訪し、 船でしか渡ることができない「キリシタン洞窟」も訪れます。  そして冬の上五島をあたたかく彩るイベント「チャーチウィーク in 上五島 教会コンサート」が、12月におこなわれます。 教会がイルミネーションで飾られ、上五島は光の島へと変わります。 それぞれの教会ごとに趣向を凝らしたイルミネーションの輝きを楽しみながら、教会を会場に開かれるコンサートに参加してみましょう。ライトアップされた静寂な教会堂に響き渡る管弦楽の音色、そして厳かな聖歌に満たされる空間は、素敵な冬のひとときを過ごさせてくれます。 チャーチウィーク in 上五島 教会コンサートイメージ: 新上五島町観光物産協会提供 ★新上五島町内の観光施設に行くと、教会めぐりに関するガイドブックが手に入ります。内容も充実しており、教会の開閉時間やアクセスマップ、 交通手段、駐車場台数などの情報がわかります。ただし、教会見学のマナーとして守らなければならないこともありますので、気をつけましょう。 教会巡礼のマナー   参考資料 ・『 旅する長崎学4 キリシタン文化IV 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) ・『 旅する長崎学5 キリシタン文化V 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) ・『 旅する長崎学6 キリシタン文化 総集編 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) ・『教会を訪ねて 新上五島町教会巡り』(特定非営利活動法人 新上五島町観光物産協会リーフレット)
  • ド・ロ神父オススメの野菜「クレソン」 2008年12月03日
    ド・ロ神父オススメの野菜「クレソン」
        12月の街は、クリスマスのディスプレイやイルミネーションでキラキラしています。家族や友達とパーティーを企画している人も多いのではないでしょうか?さて今回は、そんな食卓に並ぶお皿の上に注目しましょう。メインディッシュのお肉ではなく、脇を彩る緑の野菜「クレソン」のお話です。付け合わせとして食べられずに残され、なかなか主役になれない野菜ですが、その栄養価は群を抜いています。 このクレソンを近代の日本に広めた宣教師がいました。明治12年、外海に赴任したフランス人のマルコ・マリ・ド・ロ神父です。ド・ロ神父の功績とともに、クレソンにまつわる話を探ってみました。 クレソンはフランス語  クレソンが日本に渡ってきたのは明治の初めごろと言われています。水場を好み、繁殖力に優れた野菜ですから、すぐに日本に根付き、野生化しました。 「クレソン(cresson)」はフランス語。英語の「ウォータークレス」ではなく、フランス語で親しまれている珍しい野菜です。和名は「オランダカラシ」。鎖国時代からオランダとはゆかりの深い日本でしたので、そう呼ばれていても何ら不思議ではありません。幕末・明治にかけて、日本は欧米の列強に並ぶ国力を付けるために、兵力の増強や医学など、さまざまな分野でも、オランダに学びました。開国後、長崎製鉄所(三菱重工業(株)長崎造船所の前身)にいたオランダ人が飽の浦川(あくのうらがわ)にクレソンの種を蒔いたという話もあります。 クレソンのほかに、キャベツを「オランダ菜」、セロリを「オランダミツバ」、パセリを「オランダゼリ」、イチゴを「オランダイチゴ」と呼び、野菜の名称一つを取っても「オランダ」との縁の深さが伝わってきます。クレソンは水場を好む植物なので、「ミズカラシ」「西洋ゼリ」とも。ド・ロ神父が滞在していた外海では「ド・ロさまゼリ」と呼ばれて親しまれていました。 外海(そとめ)の産業振興に献身したド・ロ神父  1868年(慶応4)、ド・ロ神父はフランスを出発して、長崎にやってきました。大浦天主堂で宗教教育の普及のための石版や木版の印刷業に取り組んでいましたが、明治12年に外海に赴任すると、地域振興に力を注ぎました。山の斜面に広がる集落には産業がなかったので、地区の経済的な自立を目指して、さまざまな西洋の技術を伝えました。今も外海には、その時代の遺産が数多く残っています。 土地を開墾して小麦を生産。パンやマカロニの製法も伝授しました。水車で製粉し、パスタのような麺をつくる作業もド・ロ神父が指導し、小麦粉と落花生の油を混ぜ合わせてつくった麺は「ド・ロさまそうめん」といわれ、外海の特産品になっています。 またド・ロ神父は、とりわけ女性の就労を促しました。染物、織物を奨励し、それを売ることで収入を得て村を豊かにしました。また、明治21年に建てられたイワシ網工場は、農民たちに副業を生み出しました。そのほかにもド・ロ神父は医療や福祉の分野でも貢献、明治16年には救助院をつくって子どもの福祉にも光を当てています。 クレソンの栄養価に注目  もしかしたらド・ロ神父は外海の人たちの健康を考えて、クレソンを食卓に取り入れるようにすすめたのかもしれません。クレソンはヨーロッパでは古くから薬草として利用されていました。カルシウムや鉄分、ビタミンAやビタミンCが豊富で、貧血や強壮に適しています。19世紀のイギリスでは、ビタミンCの不足によって起こる壊血病の治療薬に使われていたという記録もあるほどです。 また、クレソンには血液を酸化させない効果があり、肉食が中心となっている現代の日本人にとっても注目の食材です。栄養の面だけでなく、ピリッとした辛味は肉料理にぴったり調和するので、ぜひ一緒に食べていただきたいものです。フランス人は夕食にスープを取ることはまれだといわれますが、クレソンのポタージュは食す習慣があるそうです。食味や風味が強く、個性的な野菜ですが、茎の固い部分を除いてサラダにしたり、さっとゆでて和え物にしたり、天ぷらでもおいしくいただけるのも特徴です。 クレソンのたくましい生命力とパワーを外海の人たちに与えて、地域を元気づけたド・ロ神父。わずか1本の草にも歴史があるのです。 [文:大浦由美子] 参考文献 『旅する長崎学5』(長崎文献社) 『長崎県の歴史散歩』(山川出版社) 『花図鑑 野菜』(草土出版) 『長崎県の文化財』(長崎県教育委員会) 『味覚旬月』辰巳芳子(ちくま文庫)
  • 博物館のオススメ(2) 2008年03月19日
    博物館のオススメ(2)
    〜長崎歴史文化博物館 南蛮屏風(右隻)〜    今回ご紹介する博物館オススメの逸品は、長崎歴史文化博物館の南蛮屏風「南蛮人来朝之図屏風」の右隻で、16世紀後半〜17世紀初頭ごろの狩野派の作品だといわれています。この屏風は、右隻に南蛮人の行列と教会堂、左隻に長崎港に停泊するポルトガル・スペイン船が描かれた6曲1双で構成されています。日本絵画の手法を用いながら異国の人々を描いている南蛮屏風からは、エキゾティックな趣があふれ出ています。 屏風は、部屋を間仕切るための調度品。祝いの席など行事の目的にあわせて屏風を選び、広間に置いて特別な空間を演出します。絵師たちが腕をふるって描いた絢爛豪華な屏風は、美術品として招かれた客人たちの目を楽しませたことでしょう。また、海を渡って日本から輸出された屏風は、Biombo<ビオンボ>とよばれ、ポルトガル語として定着しました。   16世紀の長崎 日本初のキリシタン大名 大村純忠は、1570年に長崎港の開港を認め、翌年にはじめてポルトガル船が入港しました。開港とともに岬には新しく6つの町(大村町・島原町・平戸町・横瀬浦町・外浦町・分知(文知)町)がつくられ、岬の先端(現在は長崎県庁)には教会が建ちました。1580年、純忠は周辺の敵からの攻撃をかわすため、長崎6町と茂木を日本イエズス会に寄進し、続いて1584年にはやはりキリシタン大名であった有馬晴信も浦上を寄進しています。こうしてイエズス会領となっていた長崎・茂木・浦上は、その3年後の1587年、豊臣秀吉の伴天連追放令によって取りあげられ直轄地となります。しかし秀吉は、南蛮貿易は奨励したのでキリスト教の禁教は不徹底であり、長崎の町は徳川幕府の禁教令が発布される1614年頃まで、キリシタンの町として栄えました。長崎には日本イエズス会本部が置かれ、外国人宣教師の指導で建てられた教会、病院、学校、福祉施設がたち並び、その様子は『伴天連記』という反キリスト教の書物に「長崎は日本のローマなり」と書かれるほどに、貿易港として、さらにキリシタンの町として大きく急成長を遂げたのです。 当時の長崎港はどんな様子だったのでしょうか? ではさっそく、南蛮屏風(右隻)をみてみましょう。 町を行き交う南蛮人たち(右隻) 屏風には、町を歩く南蛮人の行列がメインに描かれています。なかでも中央で傘をさしかけられ、腰にはサーベルを携え、赤いマントを風になびかせながら歩く男性がひときわ目を引きます。おそらく南蛮船の船長さんで、彼の後ろにお供の人たちが続き、列をなしています。 でも、この南蛮人たち一行は、どこを目指して歩いているのでしょうか? 行列の先頭を歩いて、話をしている人物に注目してみましょう。どうやら黒いマントを着たイエズス会宣教師の案内で南蛮人一行は進んでいるようですね。 上部の右端をみると、同じように黒いマントを身につけて、行く手を指し示すような動作をしている人がいます。さて、その先には何があるのでしょうか?  回廊をたどっていくと、屏風の中央に描かれている建物に行き着きます。瓦屋根をよく見ると、十字架が掲げられていることから、南蛮寺、つまりキリスト教の教会堂であることがわかります。建物のなかには座ってくつろぐ姿があります。 南蛮屏風に描かれたストーリー 南蛮屏風の右隻と左隻の絵全体に描かれたテーマは、ポルトガル船が港に停泊して、まず乗組員たちが最初に向かった場所は教会だった、という物語なのではないでしょうか。 開港して異国の人々が行き交う町となった長崎。はるか西洋からやってきた異国の船、外国人の行列や西洋のファッション、海を渡って運ばれてきた珍しい品々・・・、日本人の目にはどれも新鮮に映ったにちがいありません。 もっとよく見ると・・・ 南蛮屏風の右隻と左隻の絵全体に描かれたテーマは、ポルトガル船が港に停泊して、まず乗組員たちが最初に向かった場所は教会だった、という物語なのではないでしょうか。 開港して異国の人々が行き交う町となった長崎。はるか西洋からやってきた異国の船、外国人の行列や西洋のファッション、海を渡って運ばれてきた珍しい品々・・・、日本人の目にはどれも新鮮に映ったにちがいありません。  もっともっとよく見てみましょう。通りには商いをするお店が軒を連ね、暖簾をだした軒先にはいろいろな商品が並んでいます。そのなかの一軒をよーく見てみると、格子の木枠に掛けて並べられているのは、十字架がついたロザリオではないでしょうか。そうです、この店はロザリオなどキリスト教がもつ聖品を販売しているお店です。右から一番目の第1扇には首にロザリオをかけた2人の武士が描かれています。  南蛮屏風の絵のなかには、当時の南蛮人の風俗などがまだまだいっぱい描かれていますよ。この南蛮屏風は長崎歴史文化博物館の常設展のなかにある、歴史文化展示ゾーン"大航海時代"に展示されています。モニター画面で詳しい解説をみることができますので、じっくり南蛮屏風の世界を楽しんでみてはいかがでしょうか。  さて、「屏風」の歴史や美術に興味がわいた方は、ただいま長崎歴史文化博物館で開催中の"日蘭修好150周年記念特別展「屏風 -将軍からの贈り物-」"におでかけになってはいかがでしょうか。オランダ国王ウィルへルム3世より献上されたスームビング号の返礼として贈られた屏風(ライデン国立民俗学博物館所蔵)の長崎で初めての里帰り展示です。幕末から近代への過渡期における日蘭友好の架け橋となった長崎をみつめ直すことができますよ。 2008年3月31日(月)まで開催されています。 じっくりと隅々まで観察してみると、当時の様子がこまやかに描かれた南蛮屏風から、町のざわめきや人々の息づかいまで聞こえてくるような気さえしてきました。 長崎港に停泊して貿易品を岸壁へと小船で運ぶ様子が描かれた左隻を紹介した"歴史発見コラム"の第45回「博物館のオススメ(1) 〜長崎歴史文化博物館 南蛮屏風(左隻)〜」、また、16世紀の長崎の教会を紹介した"ながさき歴史散歩"の第10回「 鐘の音が鳴り響く教会ストリート〜消えた教会群〜 」もあわせてご覧ください。 ☆鑑賞のコツ☆ 屏風とは?  "風を屏(ふせ)ぐ"という意味から名づけられた屏風は、部屋を間仕切るための調度品で、装飾にも用いられるインテリアのひとつです。祝いや行事など目的にあわせて屏風を選び、広間にひろげて特別な空間を演出します。 長方形に描かれた画面を扇(せん)といい、右から第一扇、第二扇…と呼びます。2〜8枚の扇を繋ぎ、山折谷折と広げて立てます。使わない時は、折りたたんで収納することができます。 屏風は一隻、二隻…と数えます。右と左がセットの作品は一双(そう)、単独の屏風は一隻(せき)といいます。今回ご紹介した南蛮屏風の場合は、一隻(半双)が6枚の画面で構成され、右と左がセットになっているので"六曲一双(ろっきょくいっそう)"となります。 屏風には絵や書が描かれ、当時の絵師たちが腕を振るった美術品としてもてはやされました。 [文:大浦由美子] 作品 「南蛮屏風(右隻)」長崎歴史文化博物館蔵 参考文献 「旅する長崎学1 キリシタン文化1」特集4 「小ローマ長崎」と消えた教会 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 「原色日本の美術 第25巻 南蛮美術と洋風画」 小学館 1970年 「長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」 監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社2005年 「ビジュアルNIPPON 江戸時代」 発行/小学館 2006年 「すぐわかる日本の美術」 発行/東京美術 1999年
  • 博物館のオススメ (1) 2008年03月12日
    博物館のオススメ (1)
    〜 長崎歴史文化博物館 南蛮屏風(左隻)〜    今回ご紹介する博物館オススメの逸品は、長崎歴史文化博物館の南蛮屏風「南蛮人来朝之図屏風」の左隻です。これは、16世紀後半〜17世紀初頭ごろの狩野派の作品だといわれています。この屏風は、右隻に南蛮人の行列と教会堂、左隻に長崎港へ停泊するポルトガル・スペイン船が描かれた六曲一双で構成されています。日本絵画の手法を用いながら異国の人々を描いている南蛮屏風からは、エキゾティックな趣があふれ出ています。 屏風は、部屋を間仕切るための調度品。祝いの席など行事の目的にあわせて屏風を選び、広間に置いて特別な空間を演出します。絵師たちが腕をふるって描いた絢爛豪華な屏風は、美術品として招かれた客人たちの目を楽しませたことでしょう。また、海を渡って日本から輸出された屏風は、Biombo<ビオンボ>とよばれ、ポルトガル語として定着しました。   16世紀の長崎 日本初のキリシタン大名 大村純忠は、1570年に長崎港の開港を認め、翌年にはじめてポルトガル船が入港しました。開港とともに岬には新しく6つの町(大村町・島原町・平戸町・横瀬浦町・外浦町・分知(文知)町)がつくられ、岬の先端(現在は長崎県庁)には教会が建ちました。1580年、純忠は周辺の敵からの攻撃をかわすため、長崎6町と茂木を日本イエズス会に寄進し、続いて1584年にはやはりキリシタン大名であった有馬晴信も浦上を寄進しています。こうしてイエズス会領となっていた長崎・茂木・浦上は、その3年後の1587年、豊臣秀吉の伴天連追放令によって取りあげられ直轄地となります。しかし秀吉は、南蛮貿易は奨励したのでキリスト教の禁教は不徹底であり、長崎の町は徳川幕府の禁教令が発布される1614年頃まで、キリシタンの町として栄えました。長崎には日本イエズス会本部が置かれ、外国人宣教師の指導で建てられた教会、病院、学校、福祉施設がたち並び、その様子は『伴天連記』という反キリスト教の書物に「長崎は日本のローマなり」と書かれるほどに、貿易港として、さらにキリシタンの町として大きく急成長を遂げたのです。 当時の長崎港はどんな様子だったのでしょうか? ではさっそく、南蛮屏風(左隻)をみてみましょう。 長崎港に停泊する南蛮船(ポルトガル船)  この南蛮屏風(左隻)には、ポルトガル・スペインを出発し、南アフリカ、インド、東南アジアを経由して長崎港に到着した南蛮船(ポルトガル・スペインの船)が描かれています。 大きな帆を降ろして停泊した船の上では、乗組員たちが貿易品の荷物を小船に積むなど、忙しく働いているようです。  波穏やかな長崎が貿易港に適しているのではないかと目をつけたのは、イエズス会の日本布教長のコスメ・デ・トーレスでした。彼の命令で、宣教師のメルシオール・デ・フィゲイレドがポルトガル人の航海士とともに水深調査や測量をおこない、南蛮船の入港に適していることを確認しました。そして、キリシタン大名 大村純忠に長崎の港を開港するように要請したのです。1570年に純忠が開港を認め、翌年には初めてポルトガル船がやってきました。それから、屏風に描かれているような南蛮船が毎年のように入ってくるようになりました。 南蛮船上陸の地  左隻の右から2・3枚目(第三・四扇)に、南蛮船と岸壁を行き来する荷物を載せた小船が描かれています。 貿易品としてもってきた積荷を載せた小船が砂浜に到着し、それを降ろしている南蛮人の様子がわかります。さて、この積荷の中身は一体何だったのでしょうか? 小船に積まれている赤・青・緑の包みには、西洋の時計や楽器、望遠鏡、金襴緞子、ブドウ酒、西洋絵画や書籍など、日本人の好奇心をかき立てる貿易品がたくさん入っていたのかもしれませんね。  現在、長崎県庁の坂を大波止の方にくだる途中に、「南蛮船来航の波止場跡」の石碑が建っています。現在は埋め立てられて、昔の港のかたちとは随分と変わってしまいましたが、当時このあたりで、屏風に描かれているような作業がおこなわれていたことを想像すると、なんだか楽しくなりました。  南蛮屏風の絵のなかには、当時の南蛮人の風俗などがまだまだいっぱい描かれていますよ。この南蛮屏風は長崎歴史文化博物館の常設展のなかにある、歴史文化展示ゾーン"大航海時代"で展示されています。モニター画面で詳しい解説をみながら南蛮屏風を楽しんでみてはいかがでしょうか。  さて、「屏風」の歴史や美術に興味がわいた方は、ただいま長崎歴史文化博物館で開催中の"日蘭修好150周年記念特別展「屏風 -将軍からの贈り物-」"におでかけになってはいかがでしょうか。オランダ国王ウィルへルム3世より献上されたスームビング号の返礼として贈られた屏風(ライデン国立民俗学博物館所蔵)の長崎で初めての里帰り展示です。幕末から近代への過渡期における日蘭友好の架け橋となった長崎をみつめ直すことができますよ。 2008年3月31日(月)まで開催されています。  16世紀の長崎の教会を紹介した<ながさき歴史散歩>第10回「 鐘の音が鳴り響く教会ストリート〜消えた教会群〜 」もあわせてお楽しみください。 次回は、この屏風と対になった右隻をご紹介します。貿易船に乗って長崎に上陸した南蛮人が行列をつくって、南蛮寺(教会堂)へと向かう様子が描かれていますよ。お楽しみに。 ☆鑑賞のコツ☆ 屏風とは?  "風を屏(ふせ)ぐ"という意味から名づけられた屏風は、部屋を間仕切るための調度品で、装飾にも用いられるインテリアのひとつです。祝いや行事など目的にあわせて屏風を選び、広間にひろげて特別な空間を演出します。 長方形に描かれた画面を扇(せん)といい、右から第一扇、第二扇…と呼びます。2〜8枚の扇を繋ぎ、山折谷折と広げて立てます。使わない時は、折りたたんで収納することができます。 屏風は一隻、二隻…と数えます。右と左がセットの作品は一双(そう)、単独の屏風は一隻(せき)といいます。今回ご紹介した南蛮屏風の場合は、一隻(半双)が6枚の画面で構成され、右と左がセットになっているので"六曲一双(ろっきょくいっそう)"となります。 屏風には絵や書が描かれ、当時の絵師たちが腕を振るった美術品としてもてはやされました。 作品 「南蛮屏風(左隻)」長崎歴史文化博物館蔵 参考文献 「旅する長崎学1 キリシタン文化1 特集2 宣教師たち長崎で動く! ザビエルの意志を継いだ人々 特集4 「小ローマ長崎」と消えた教会 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 「原色日本の美術 第25巻 南蛮美術と洋風画」 小学館 1970年 「長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」 監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社2005年 「ビジュアルNIPPON 江戸時代」 発行/小学館 2006年 「すぐわかる日本の美術」 発行/東京美術 1999年
  • 銅版画家 渡辺千尋さんインタビュー 2008年02月20日
    銅版画家 渡辺千尋さんインタビュー
        1597年2月5日は長崎港を望む西坂の丘で26聖人が十字架にかけられて処刑された日です。この世界を震撼させた事件と同年に、有家にあったセミナリヨ(神学校)の日本人学生が銅版「セビリアの聖母」を制作していたのです。 現在、銅版画家そして作家として活躍する渡辺千尋さんは、1995年に長崎県南島原市有家町からの依頼で「セビリアの聖母」の復刻をおこないました。この復元に端を発し、二十六聖人殉教の道を堺から長崎までの行程を実際に体験し、版画に秘められた謎を推理する『殉教(マルチル)の刻印』(小学館)を執筆されています。今回は、渡辺千尋さんにインタビューしてきました。 日本二十六聖人殉教者が歩いた道を追体験した理由  左僕は西坂(長崎市)で育ちました。西坂公園は幼い頃の遊び場。昔は石塔が一本あるだけで、教会もまだない単なる公園でした。子どもの頃の僕は、西坂公園が26聖人の処刑された丘だということを知らなかったし、学校でも教えてはくれませんでした。  その事実を知ったのは、大人になって旅したメキシコでの体験がきっかけでした。メキシコ・シティの郊外に16世紀に建てられたフランシスコ会の古い教会を訪れました。この教会では修復工事中に白壁から二十六聖人の殉教の様子が描かれた壁画が出現していたんです。高さ8メートル、長さは60メートル以上にわたって描かれた巨大な壁画でした。「どうしてメキシコに日本の二十六聖人が描かれているんですか?」とガイドに聞いたら、「フィリッポというメキシコ人が日本で処刑されたというニュースが国中に広がって壁画の制作がおこなわれたんです。」という答えが返ってきました。次第に僕の頭のなかで、遊び場だった西坂公園で26人が処刑され、そのひとりでメキシコ人のフィリッポのために建てられた教会が僕の実家の目の前にある聖フィリッポ教会、さらに二十六聖人に捧げられた教会が大浦天主堂だという関連が、一本の線に繋がってやっと理解できたんです。それまで全く長崎の歴史に興味がなかったので、それを知って僕はちょっとショックを受けたんです。そういうお勉強が嫌いで絵描きになったんだからね(笑)。  それから、長崎県の有家町(現南島原市)の企画で、銅版画「セビリアの聖母」の復刻の依頼がきました。それは、有家のセミナリヨ(神学校)で日本人学生によって作られたというキリシタン銅版画です。制作に取りかかる前に、長崎カトリックセンターにオリジナルを見せてほしいと何度もお願いしました。しかし断られたんです。しようがなくて、二十六聖人殉教の道をたどりました。 同じ行程を歩くという理由にもうひとつ、フィリッポという人物像にも興味があったからなんです。彼は普通の青年なんですよ。メキシコ人で若くて日本にたまたま流れ着いて、訳の分からないうちに京都で捕まって長崎まで歩かされて殺されてしまった。彼の視線で歩いてみたら面白いかなと思って、後先考えずに行動してしまったんです。今まで、誰もそれをやったことがなかった26人の殉教者が歩いた道をその日程どおりに歩きました。 日本二十六聖人殉教の道を実際に歩いて  1596年、豊臣秀吉の命令でキリシタン日本人18名と外国人6名が捕らえられました。京都で耳を削がれて馬に乗せられて市中を引きずられ見せしめにされ、命令が下されるまで大坂の堺に滞在。1月8日に処刑の行程が決まって9日から27日間に及ぶ殉教の道。僕は1月9日に堺から出発しました。歩きはじめて10日間は苦しくて苦しくしようがなかったですよ。なにせ40キロなんか歩いたことがないからね。違いが分かったのは、彼らにはキリスト教という神様がいたということ。僕は無宗教だから神様がいない。この差は大きい。彼ら26人は、捕まったのは"受難"だと受け止めていたのですから。彼らは自分たちの信念のために逝くのですから、肉体的な苦痛など無かったのではないでしょうか。僕にはその信念が理解できません。日本人のなかには12歳ほどの幼い少年が3人いました。なにも抵抗しないで、ありがたく死を受け入れる姿を見て、大人や外国人宣教師たちは、逆にその少年たちに励まされたと思います。1597年2月5日正午、殉教の当日、神々しい顔で処刑されていくシーンが記録にたくさん残されています。この26人ものキリスト教徒が大量に殺された大事件は、典型的な"殉教"劇へと昇華したのです。実際に殉教の光景を見た群衆はますますキリシタンとして結束が芽生えたのではないでしょうか。秀吉の意図とは逆の作用が起こってしまったのです。過去にこのような殉教の例はなく、このニュースが海を越えて駆け巡り、世界中を震撼させたのです。 僕は二十六聖人と同じ道を歩いたことで、歴史の本を読むだけではわからない、そのことをハッキリと感じることができたと思います。 「セビリアの聖母」の復刻  有家町(現南島原市)から銅版画の復刻の依頼がきていました。でも当初は、復刻には興味がなかったんです。ただ、26聖人が処刑された同じ年に、「セビリアの聖母」の版画が制作されたということに胸騒ぎがしたんです。同じ年になぜ聖母が作られたのかという疑問と、その裏側に関連するドラマを一瞬パッと感じたわけです。それでお引き受けしたんです。しかし、僕たち創作側の人間にとって復刻という作業は、人の作品を真似するわけですからイヤなものなのです。僕じゃなくても他の人が復刻してもいいのですから。 仕事に取りかかる前に、原画を見なくては復刻できません。オリジナルを所有している長崎カトリックセンターに何度お願いしても、いくら待っても全然見せてくれなかった。原因はよくわからなかったのですが「60年間誰にも見せてない。」ということでした。しかし、その後、二十六聖人殉教の道をたどった行動と、取材したテレビ局の記者、日本二十六聖人記念館元館長の結城神父たちの働きかけによって、あっけなく封印が解かれ、オリジナルを見ることができたのです。  聖画とはイコンのことです。「セビリアの聖母」が描かれた16世紀には、芸術という意識はなく、自己表現という言葉も認識もない時代です。彼らはキリスト教徒の信者たちに配るためのイコン制作者でしかありません。そして二十六聖人が処刑された時代に作られて、有家版の幼子キリストの手に持つハトの絵が消されてしまっているというスゴさがあります。ハトは、ヨーロッパでは平和の象徴です。あくまで推測ですが、その当時の日本人にはそんな概念はなかったのではないでしょうか。マリアの右手に持つ花。西洋ではバラが描かれていますが、日本では見たことがなかったでしょうから、「バラとは椿みたいな花ですよ。」と教えられたかもしれない。ハトは日本にもいたでしょうから描けないことはないのですが、イコン制作者はわざと絵の中から消してしまっています。では、聖画のなかの重要なシンボルを消すとは、いったいどのような心理状態だったのでしょうか。 復刻作業のなかで出会ったキリシタン文化  キリシタン文化とは西洋の文化です。印刷画、銅版画、油絵などが、日本の、しかも長崎で芽生えようとしていたのに、キリシタン弾圧でそれが全て根こそぎ無くなってしまったのです。それから日本の文化というのは300年ぐらい遅れてしまいます。時の権力者たちが、印刷はスゴイものだと理解していたならば、銅版画や本などの新しい文化を生み出すことができたはずです。宗教とは関係なく技術だけでも吸収すればよかったのに、全部根こそぎ無くしてしまった。技術が途絶えてしまったのです。それがものすごく惜しいと感じますね。それから時代を経て江戸末期にならないと銅版画も復活しません。16世紀の長崎の芸術レベルは高かった。しかし芸術がキリシタンと結びついていたから切り離せなかったのでしょうね。その当時、セミナリヨやコレジヨでは、日本の古典と同時に西洋の文学も教えていたのですから、西洋と日本の比較文化ができていたのです。それが現在まで続いていれば、おそらく文化の意識や理解度も違っていたのではないでしょうか。  渡辺千尋さんは、『旅する長崎学3 キリシタン文化3』の"たびなが羅針盤(15頁に掲載)"に、「二十六聖人が歩いた道をたどって〜二十六聖人と同じ日程を歩いた体験記〜」を寄稿されています。あわせてお楽しみください! DATA 渡辺 千尋 Chihiro Watanabe 1944年生まれ。長崎市出身。1964年桑沢デザイン研究所卒業。1978年、日本版画協会奨励賞受賞。銅版画家として活躍し、画集『叛吐』『掌画集』、チェコ国立版画美術館に『象の風景』シリーズが収蔵されている。1995年長崎県有家町の銅版画「セビリアの聖母」を復刻。主な著書に『ざくろの空-頓珍漢人形伝』(河出書房新社・1995年)で第一回蓮如賞を受賞。『殉教(マルチル)の刻印』(小学館・2001年)で第8回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。現在、銅版画家、作家として活躍中。 協力 「セビリアの聖母」…南島原市教育委員会有家町事務所
  • 2月5日〜日本26聖人殉教の記念碑と聖フィリッポ教会を訪ねて〜 2008年02月06日
    2月5日〜日本26聖人殉教の記念碑と聖フィリッポ教会を訪ねて〜
    〜日本26聖人殉教の記念碑と聖フィリッポ教会を訪ねて〜  1597年2月5日、長崎の西坂の丘で十字架にかけられて殉教した日本人20人と外国人6人のキリシタン。彼らは豊臣秀吉の命によって京都と大坂・堺で捕らえられ、処刑地となる長崎までのおよそ千キロの道のりを約一ヶ月かけて裸足で歩かされました。なかには、フィリピン総督の使節として来日し京都で教会を建てるなど熱心な布教活動をおこなったペドロ・バプチスタや、12歳のルドビコ茨城、14歳のトマス小崎といった日本の幼い少年たちもいました。  この大殉教事件は、ポルトガルやスペイン、メキシコやヨーロッパなどにも伝えられ、大きな反響を呼びました。そして、日本ではまだキリシタン迫害が続く1862年、彼らは教皇ピオ9世によってローマで聖人に列せられたのです。さらに列聖から100年後の1962年、殉教地の西坂の丘に記念碑と記念館が完成しました。 今回は、二十六聖人が殉教した日に思いを寄せて、西坂公園にある二十六聖人のレリーフ、聖フィリッポ教会堂を訪ねてきました。2月3日(日)に、長崎市で行われた「日本26聖人殉教記念ミサ」の様子もご紹介します。 日本二十六聖人殉教記念ミサの模様  通常、この記念ミサは西坂公園の広場でおこなわれますが、今年はあいにくの雨に見舞われ、歩いて5分ほどのところにあるカトリック中町教会(長崎市)へと会場を移しておこなわれました。 当日は、教会堂に入ることができないほどの参列者であふれ、入口の扉を開放したまま、鐘の合図でミサがはじまりました。二十六聖人への賛歌が教会堂に響き、祈りが捧げられました。  では、殉教事件の歴史の舞台となった西坂の丘をご紹介しましょう。 西坂の丘にある二十六聖人の記念碑  西坂公園にある二十六聖人の記念碑は、日本を代表する彫刻家・舟越保武(1912-2002)が制作に約4年の歳月を費やして完成させたものです。 長崎港に向かって手を合わせて1列に並んでいます。ところが、よく見てください。聖ペドロ・バプチスタと聖パウロ三木の像はポーズが違います。2人だけ両手を広げています。舟越さんは「この2体だけは下の方に視線を向けさせ、観る人と視線が合うことによって、その人の心を上へと引き上げてくれるようにした。26体を人間の身体にたとえるならば、このふたりはその眼に相当するものである。」と解説しています。では、二十六聖人記念碑の写真をクリックしてみましょう。左が聖ペドロ・バプチスタで右が聖パウロ三木です。舟越さんは2002年、偶然にも二十六聖人が殉教を遂げた日と同じ"2月5日"に他界しました。 復レリーフ「長崎への道」  記念碑には裏面があります。これは「長崎への道」と題して、今井兼次さんが制作しました。レリーフ全体は、二十六聖人が歩いた京都から大坂・堺、長崎までの長く苦しい道のりを現しています。  よく見ると十字を刻んだ丸い石がいくつも寄せ集まっています。一体これにはどんな意味があるのでしょうか?  これは、十字架にかけられた26人の尊い命を、聖書から引用した葡萄の実にたとえています。26個の葡萄の実をつけたひとつの房は"京都"の位置に埋め込まれ、"長崎"の位置にくると金の十字架だけが一枚の石板に刻まれています。葡萄の丸いカタチの実態が消えて、十字架だけが残った…。26人が信仰を守って殉教したというストーリが読み取れます。 聖フィリッポ教会  西坂公園の向かいにある教会は、二十六聖人のひとりでメキシコ人の聖フィリッポ・デ・ヘススに捧げて建てられたものです。この教会を見て、「なんだかスペインの建築家ガウディが設計したものを連想させるなぁ。」と感じた人も多いのでははでしょうか。それもそのはず、聖フィリッポ教会と記念館を設計した建築家の今井兼次さん(1895-1987)は、いち早く建築家ガウディの存在を日本に紹介した人なのです。教会堂の双塔には、京都・長崎・メキシコ・スペインの各地の窯元で焼かれたタイルが貼られています。写真をクリックしてみましょう。塔の拡大写真を見ることができますよ。  記念ミサの当日は冷たい雨が降っていました。鞭打つような冬の寒さと肉体にかかる苦痛をかみしめながら長く苦しい道のりを歩いた26人の姿はどのような思いだったのでしょうか。そして彼らの道行きや殉教を見た人々は、それをどのように受け止めたのでしょうか。そんな400年以上も前のできごとに思いを馳せながら、西坂の丘から長崎港に入ってくる船を眺めて時を過ごした2月5日でした  当サイトのながさき歴史散歩 第11回「 二十六聖人が歩いた浦上街道 」もご覧ください。 参考文献 「旅する長崎学3 キリシタン文化3」 26聖人順境、島原の乱から鎖国へ 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年
  • 黒島天主堂に感動! 2008年01月23日
    黒島天主堂に感動!
    〜天井板の技巧〜  今回の黒島天主堂行きは、長崎巡礼センターの中村神父様にインタビューした歴史発見コラムの第11回「教会巡礼のマナー 〜教会の魅力を語る人びと その2〜」でのお話がきっかけでした。質問の中で、中村神父流"巡礼のススメ"として黒島天主堂の魅力を教えてくださった、あるお話に興味がわいたのでした。  中村神父:黒島に着任したころ、じーっと天井をみていると「あれ?おかしいな。」と不思議に思ったことがあったんです。黒島天主堂はすごいことをしていたんですよ。「何を?」とお思いでしょう。なんとお金がなかったから良い材木を揃えることができず、普通の安価な板を買ってきて、その板に木目を描いているんです。刷毛目(はけめ)という工法なんですが、ニスを塗ってその上から木目を付けた。おどろくなかれ、天井板はすべて手描きなのです。ドアの一部もそう。お金がないというところからのアイデアなんですが、今になってみるとスゴイことをしているんですよ…。  と聞いて、即座に「見てみたいです。行ってみます!必ず!!」と答えた私。そして実際に訪れてみて本当におどろきました。実は心の中では、「今でこそプリント合板が普通に流通しているけれど、明治のころにそんなアイデアがあるわけがない…」と、正直、半信半疑だったのです。しかし、実際に黒島天主堂をたずねてみると、当時の信徒のみなさんの手によって、驚くほどに緻密な板目が一枚一枚描かれていたのです。 今回は、"刷毛目"という工法で独特の雰囲気を生み出している黒島天主堂をご紹介します いざ、黒島へ!  実際に黒島へ行って、"刷毛目"という手描きの工法をこの目で確かめるしかない。カメラを持って、いざ、出発です! 長崎市内から高速バス2時間、松浦鉄道30分、フェリー1時間を乗り継ぐ小旅行。小雨がパラパラと降るあいにくの天気でしたが、波がおだやかだったので船上ではホッとひと安心でした。  フェリーが黒島港に到着しました。港では、先を急ぐ車、郵便物を受け渡して配達する姿、雨がやんだからか、何隻かの漁船が港を出発していくという、島の生活をちょっとだけ垣間見ることができました。岸壁から海中をのぞくと、底がまる見えで、泳ぐ魚の影がわかるほどの透明度に驚きでした。  おっと、先を急がなくては…。  港から黒島天主堂までは歩いていきます。 黒島天主堂  黒島港から山へと続く道を歩いていると、「ピーヒョロロ」とトンビが頭上を飛んでいました。ひたすら歩くこと約25分。黒島小学校まで来ると、黒島天主堂はすぐそこです。  やっと到着しました。  黒島天主堂は、明治35年、フランス人宣教師のマルマン神父が設計したレンガ造りの教会堂です。内部は国宝の大浦天主堂と同じ3層構造、内陣の床には有田焼のタイルが張られ、上海製の聖人像、フランス製の聖鐘、ステンドグラスが施されたこの美しい教会堂は、黒島に住む信徒の皆さんの献金と奉仕によって完成しました。一部には黒島で産出された赤土で焼かれたレンガを使用しています。 静かに教会堂の内部を見学させていただきました。 そして、今回、私をここに誘った"天井"をじっくり観察・・・。 刷毛目仕上げの擬似板とプリント合板の比較をしてみた さぁ、あなたはどちらがプリント合板でどちらが刷毛目仕上げの擬似板かわかりますか?  正解は、左がプリント合板で、右が刷毛目仕上げの擬似板です。 色合いが違いますが、どちらかというと刷毛目仕上げの方が逆にリアルな感じがしてきました。 天井板の手描きは、驚きの工法"刷毛目仕上げの擬似板"   教会を出ようとドアに手をかけた瞬間、ハッと驚きました。このドアの板目も刷毛目仕上げでした。 ドアの写真をクリックしてみましょう。アップで表示された木目がみえますか? 木目の線をたどってみると…、不自然に終わっていますよね。こんな木目はありません。あきらかに描かれたものなのです。 さらに、クローズアップ!  じかによく観察してみると、筆で板目を描いてあります。刷毛の跡が残るようにニスをサーッと塗り重ねて木目のディテールを表現しています。これは職人技に近い! すごい! 感動ーっ!! そして、板の一枚一枚が個性的。太さ、濃淡、形もさまざまです。あきらかに一人の人間ではなく多くの人たちの手によって描かれていることが見てとれます。天井全体を見渡すと、まるで現代アートをみているようでした。  信徒の皆さんたちの、天主堂の完成にかける思いが刷毛目という工法に込められ、一枚一枚大切に大工さんが組み建てていったのではないでしょうか。当時の苦労が目に浮かぶようです。刷毛目仕上げの板だけでなく、赤レンガも信徒の皆さんが手づくりしたレンガなんだそうです。 刷毛目仕上げの板は、天井板と開口部の扉すべてに使用されています。どれだけの人数でどのくらいの日数がかかったのでしょうか。この独特の重厚感をかもしだす雰囲気は、この天井板すべてに描かれた手描きのなせる業が生み出していたのでした。   刷毛目仕上げの板は、天井板と開口部の扉すべてに使用されています。どれだけの人数でどのくらいの日数がかかったのでしょうか。この独特の重厚感をかもしだす雰囲気は、この天井板すべてに描かれた手描きのなせる業が生み出していたのでした。 参考文献 「旅する長崎学6 キリシタン文化編 別冊総集編」 企画/長崎県 制作/長崎文献社  p.22 発見コラム カトリック信者の島 黒島 2007年 「長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」 監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社 2005年 「信仰告白125周年 黒島教会の歩み」 発行/黒島カトリック教会 1990年 長崎県 長崎から世界遺産を「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」黒島天主堂 ★いざ、黒島へ! R佐世保駅から松浦鉄道に乗り換えます。[伊万里][佐々」[たびら平戸口]行きに乗車し、約30分で<相浦駅>に到着。 相浦駅を降りて蛭子川に架かる港橋を渡って相浦桟橋へ。黒島旅客船のフェリーに乗って約50分です。 (1日3便の運行ですので、帰りの時間を確認しましょう。また、季節によって運行ダイヤの変更がありますのでご注意を!) ながさき歴史散歩 第3回 「 世界遺産候補を巡る旅 平戸&外海編 〜キリシタンゆかりの里を訪ねて〜 」もあわせてご覧下さい。
  • 古楽器リュートの魅力(2) 2008年01月09日
    古楽器リュートの魅力(2)
    〜永田さん&井上さんにインタビュー〜  1582年に長崎からヨーロッパに旅立った天正遣欧少年使節は、1591年(天正19)、長い旅から帰国しました。1587年に豊臣秀吉が伴天連追放令を発布していたため、彼らは「インド副王使節」の一員として日本に戻り、聚楽第で秀吉と謁見しました。そこで西洋楽器による演奏を披露したといいます。4少年が持ち帰ったその楽器は、アルバ(ハープ)、クラヴォ(鍵盤楽器)、ラウテ(リュート)、レベカ(ヴィオール)でした。やさしい音色に魅了された秀吉はアンコールを所望し、演奏を3回も楽しんだそうです。 前回に続き、リュート奏者として活躍する永田斉子さんと井上周子さんへのインタビューをご紹介します。 リュートの魅力   井上さん 「ライブに来てくださった方々のアンケートを見ると、心が安らぐ、癒されたという感想をいただいています。どんな風に楽しんでいただいてもいいのですが、一人の音楽家として思うのが、1つの音楽を私が聴いて感じたことが、リュートの弦を爪弾き空気を振動させていること。音楽を私という媒体を通して、お客さんと通じあう楽しさを会場で味わってほしいです。バスの中でひとりでiPotを聞いているのと違ってライブは楽しいですよ。 私の夫がレストランを経営しています。私が古い昔の音楽をやっていることもあって、夫も昔のレシピを調べて再現したりします。昔のレシピをみると非常に簡単でシンプルなんですよね。映画でローランド・ジョフィ監督の「宮廷料理人のヴァテール」の一場面にでてくるように、盛り付けてあるテーブルの横に花火や噴水などの演出に驚きます。食べることがスペクタクルで、このような宴を貴族が好み、そこに必ず音楽家がいました。王様が眠りに就くまで音楽が奏でられていたことから、今も昔も変わらないのは音楽と生活が結びついているということ。私は朝起きたらプチッと音楽を鳴らすほうなんですけど。ライブは、演奏は自分の表現ですね。」   永田さん 「確かに音楽と生活が結びついているのは素敵なことですよね。リュートの魅力は たった一人で自分のために弾くのもまた楽しいという点。理想としては私の演奏会にたまたまきてくださった方々が、自分も弾いてみたいと思って、弾く楽しみをもっていただけるといいなと思います。楽器の入手方法や習う場所などを考えてしまうと、そう簡単にはいかないのですが。自分が弾けたら日常の暮らしが心豊かになる、悲しいことがあってもそれを弾けば落ち着いていられる。また、たった一人の大切な人のために、そばで弾いてあげるとか、そういうことが音楽の究極のカタチだと思います。華やかなおもてなしのなかでの演奏もあり、また一方で、自分が落ち込んで悲しいときに、リュートを弾いてエネルギーを得ては次の日からまた頑張る、それもリュートの魅力です。」 人間が音楽を奏でる理由   永田さん 「モンゴルの人とお会いした時、伺った話があるんです。モンゴルでは見渡す限りの高原地帯で、人々は移住しながら生活をしています。年頃の人たちは男女の出会いのチャンスが非常に少ない。そこで偶然、年頃の男女が出会った時にどうするかというと、歌が得意な人は歌を歌い、踊りが得意な人は踊りを踊るんです。伴侶を得るために必死で披露するわけですよ。そのときのために備えて日々練習しているんです。その技が上手であれば相手の心を獲得し結婚して子孫繁栄となるのですが、演奏がイマイチで伴侶をえられなければ、結婚できず、次のチャンスまでまた長いこと待たなければならないのです。この話しを聞いて私は、なぜ人は音楽を奏でるのか、それは子孫繁栄のためなんだなと思いました。一対一なんですよ、基本的に。そして一期一会。演奏会の時もそう思いますね。客様が20〜30人と増えても、私は基本的に一対一で向かい合っていると思って演奏しています。」   井上さん 「ルネッサンスの場合はシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』もテラスで、音楽を爪弾きながら愛を語って、シラノ・ド・ベルジュラックの中のシーンでは2階の部屋に気づかせるために石を投げて、「なにかしら?」とテラスへ出てきたロクサーヌが下を見ると楽師たちが音楽を奏でて横で詩人が愛を語っています。」 長崎のお気に入りの場所は?   井上さん 「生月です! 休日なんかはよく生月に行くんですよ。佐世保に住んでいますので。車で運転すると、生月の島に架かる大橋のトラスが視界いっぱいにひらけて、そこに空があってスゴイですよね。私は出身が奈良県で大阪から電車で20分ぐらいのベッドタウンなので、今まで見たことのない自然がいっぱいな生月が大好きなんです。ひとけのないところにポツンとカフェがあったりして。波佐見もいいですね。焼物があって若い人たちがアートをやっているからよく遊びにいきます。軍艦島にも行きたいですね! 出島も好きで「和蘭(オランダ)商館の屋敷に住みたい!」と思ってしまいました。」 長崎で演奏してみたい場所   永田さん 「カステラを食べながらポルトガルの音楽を演奏するというコンサート、これは10年前に実現しました。今の夢は、大浦天主堂で演奏させていただくことです。天主堂で本当の宗教音楽を、17世紀の聖母マリアのための音楽をリュート2本、歌手2人、それにオルガンか、バロック・チェロを交えて演奏したいです。東京のほうではすでに披露していますので、ぜひ長崎の皆さんにも聴いて頂きたいですね。教会の多くは「教会堂は礼拝の場であって、コンサートホールではありません。」と言われることもありますが、それは大きな誤解で、宗教音楽は本来、教会堂で演奏されるために作曲されたものなのです。カトリックの信徒のためにかかれた音楽を、ふさわしい場所で演奏してみたいのです。心を込めて演奏したいと思います。」  長崎で奏でられていた西洋音楽は、当時のキリシタンの人々の心を癒し感動を与えていたのではないでしょうか。また、音楽を通して長崎の歴史を体感できるのは貴重な体験です。そのような機会が長崎に増えることを願って、永田さんと井上さんのご活躍に期待しましょう。  永田さんと井上さんは、2008年1月26日(土)、江戸東京博物館にて開催される県主催のイベント「旅する長崎学講座トーク&コンサート -長崎発、歴史を未来へつなぐメッセージ。-」に出演されます。お近くの方は、ぜひお出かけください! お申し込み方法はコチラまで。 DATA 永田 斉子 Seiko Nagata  長崎県出身、東京在住。国際基督教大学卒業。フランスのストラスブール国立音楽院古学科をディプロマを取得して修了。ルネサンス、バロック時代のリュートのソリスト、アンサンブルのメンバーとして活動中。CD「ふらんすの恋歌」、映画「耳をすませば」、NHK「迷宮美術館」「ルーブル美術館」など録音多数。「コンサートプロデュース・ルミエールプロジェ」を主宰。 ・ オフィシャルサイト ・ ブログ 井上 周子 Chikako Inoue  奈良県出身、佐世保市在住。東京音楽大学器楽学科(ピアノ専攻)卒業。在学中よりリュートを水戸茂雄氏に師事。1999年リヨン国立高等音楽院古楽器科にてリュート・通奏低音をE フェレ氏に師事。2003年フランスでは日本人ではじめてリュートの高等課程修了と同時にディプロムを取得する。ヴィルウルバンヌ国立音楽学校にてチェンバロ・通奏低音をAデュバール氏に師事、2004年にチェンバロ・通奏低音のディプロム取得。在学中より・通奏低音としてフランス各地で演奏活動に参加し、ジュラやモンペリエなどの音楽祭にも参加、帰国後、リュートニストとして活動するかたわら、ルネサンス音楽、初期イタリアバロック音楽のセミナーを開催するなど普及に努めている。2007年11月にリュートソロCD『melanges』をリリース ・ オフィシャルサイト
  • 「島の館」中園成生さんインタビュー(3) 2007年12月19日
    「島の館」中園成生さんインタビュー(3)
    〜海域を支配する領主の哲学〜  生月は、長崎県の北西部にある小さな島です。16世紀中頃、フランシスコ・ザビエルによって平戸にまかれたキリスト教の種子は、生月で開花します。キリシタン文化の繁栄をみながら、迫害と弾圧、脱出と潜伏…と時代に翻弄された歴史を歩みました。生月では、約450年以上を経た今もなお、かくれキリシタンの信仰が伝承されています。今回は、生月のかくれキリシタンの調査をしながら、歴史の新たな物語を追究する「平戸市生月町博物館・島の館」の学芸員 中園成生さんにインタビューしました。 生月の歴史については、ながさき歴史散歩 第17回「 生月を旅する!(1) 」(12/5更新)、中園さんがガイドをしてくれた ながさき歴史散歩 第18回「 生月を旅する!(2) 」(12/19更新)もお楽しみに! 籠手田・一部の領民が、新天地を求めて長崎へ亡命  「江戸時代の1614年(慶長19)、禁教令が発布されると、キリシタンへの逆風が決定的になってきました。しかし平戸においてはそれより早く、1599年(慶長4)からキリシタンの禁教が具体化していきました。その直接的契機は、対立しながらもポルトガルとの貿易関係を断続的に続けた平戸藩主・松浦隆信(道可)が亡くなり、キリシタン嫌いだった息子の鎮信(法印)の時代を迎えたことにあります。 禁教令からさかのぼること30年以上前の、1558年(永禄1)と1565年(永禄8)に、籠手田氏と一部氏が、生月などの領民を全てキリスト教へ入信する"一斉改宗"を果たしており、信仰は根強く定着していました。しかし松浦鎮信は、父の葬儀へ参列するように全ての家臣に命令します。キリシタンである籠手田・一部両氏にとって、仏式の葬儀へ参列することは、棄教(キリシタンの信仰を棄てること)を意味します。しかし葬儀に参列しないという選択肢を選べば、松浦氏に対して反旗をひるがえしたことになり、戦争を引き起こしかねません。しかし彼らは第三の途を選びます。それは、自らの領地を棄て、キリシタンの領民たちとともにこの島を去るという選択でした。ある晩、彼らは船に乗って長崎に着き、イエズス会の保護を受けました。」 平戸の領主のターニングポイント  「しかしこの籠手田・一部氏の退去については、信仰以外の視点からの検討も必要です。近世の武家社会は集権的な支配体制を志向していて、中世のように、自分が治める領地のなかに、独立した強い家臣が何人もいるという状態は、歓迎されるものではありません。自分の命令が領地全体に行き届く体制づくりが必要だったのです。集権的な領国体制を構築する願望を持った松浦鎮信(法印)にとって、独立した権力を持つ籠手田・一部のような領主は、邪魔な存在だったのです。実際、鎮信の時代やその前後に、取り潰された領主も他に何人かいて、キリシタンというのはどうも口実だったようにすら思えます。また、さらに別の見方をすれば、平戸松浦氏が、貿易から利益を得るという"港市の王"としての在り方から、領地を支配しそこからの収益を権力の基盤とする領土型の戦国大名に変容していったことも、関係があるかも知れません。"港市の王"的な性格は、江戸時代の始めのオランダ貿易の頃まで継続してはいるのですが、一方で、平戸を避けて大村領の福田浦に入港したポルトガル船を攻撃した福田浦海戦の頃(1565年)から、松浦氏の領土志向型への変容が進んでいき、鎮信の代にほぼ領土が確定したという側面も、見落とせないのではと思います。」 籠手田氏のダブルスタンダードな思考  「生月の領主である籠手田氏と一部氏の、領地を捨て"新天地"を求めるという発想についても、少し考えてみましょう。両氏は1587年(天正15)、豊臣秀吉によって伴天連追放令が出されたとき、生月に避難してきた宣教師たちを自領内に受け入れ、平戸松浦氏などの攻撃から守るため、家来を武装して待機させました。その時、籠手田安一は宣教師にこういったそうです。「自分たちはあなたたちキリシタンの信仰を守るために命を懸けて戦うであろう。それがもし、難しいということであれば、自分たちはためらいなく自分の領地を捨てて宣教師たちと一緒にマカオに立ち去るつもりだ」。彼らの宗教的熱意を窺い知ることができる発言ですが、ここで私が注目したいのは、軋轢(あつれき)があったなら海の向こう(外国)へ行ってもいい、という発想です。その背景には、この辺りの人たちの、こっちで駄目なら海の向こうに行きゃ何とかなるのではないかという意識があるように思えるのですが、それこそは、領土で区画された国民国家という幻想が出てくる近代以前の、海に囲まれたマージナル(境界的)な地域に住む人たちの意識として捉えることができるのではないでしょうか。言い換えると、京都を"中心"と認識するような感覚観念というのは、当時この地方の人たちにはそれ程強くなく、先進地域というのは実は自分たちが住む地域の海の向こうに広がっていて、そっちに対する志向も強かったという、ダブルスタンダードな志向を持っていたように思えます。京都の人からみれば、長崎は西の果てと思っているところがあるのかも知れませんが、当時の長崎の人たちのベクトルは、東の京都ではなく、海を越えた世界に、より大きく向いていたのかも知れません。」 海上貿易の要所としての文化  「京の文化には求心性というものがありました。海の向こうなどから、いろんな文化を取り入れつつも、最終的に自分自身のスタイルといったカタチで様式化して周辺に発信していきます。京都の文化が持つ様式美は、外の情報を取り入れた上で一度シャットアウトし、独自のスタイルに昇華することで成立します。そういった流れのなかで北西九州地域は、そうした京都の文化が最終的にたどり着く場所でもあり、そういった意味での辺境ではあるのですが、同時に、海の向こうの文化がいち早く流入するという部分では、先進地でもあるのです。流入があまりに日常的だったので、独自の形にあまり拘らないような姿勢の方が、やりやすかったのではないかと思うところもあります。それは長崎だけではなく、南の琉球、北の蝦夷などの境界世界もそうです。しかし日本全体の文化の流れを歴史的に捉えたとき、北西九州地域は特に、日本文化にさまざまな文化要素を流入させる窓口の役割を常に果たしてきました。ただそうした働きについて、単純に文化面だけで推し量ることはできません。政治や経済、特に経済が果たした意味はとても大きかったと思います。例えば16世紀中頃から後半にかけて海域世界が活性化した背景には、石見銀山の開発と増産が重要な役割を果たしており、それに対応して中国人の私貿易が活発化し、さらに彼らのルートに乗ってポルトガル人がやって来て、キリスト教という文化が伝来しているのです。ある意味宗教とは、もっとも重さや嵩が小さい(というか存在しない)、それでいて最も付加価値が高い貿易品だといえるかも知れません。」  文化交流で海外と日本を比較できた平戸・生月・大村などの領主たちは、日本がつくる時代の流れよりも世界の波に乗りたかったのではないでしょうか。16世紀のオルテリウスが制作した地図には、長崎のキリシタンの島々と石見銀山が詳細に描かれています。貿易の中継点となった長崎は、生月の領主 籠手田氏も海外に思いを馳せ、移住してきた生月の人たちによって、熱気あふれる賑いをみせた街だったのではないでしょうか。 DATA 永中園 成生 Shigeo Nakazono  長崎県出身、東京在住。国際基督教大学卒業。フランスのストラスブール国立音楽院古学科をディプロマを取得して修了。ルネサンス、バロック時代のリュートのソリスト、アンサンブルのメンバーとして活動中。CD「ふらんすの恋歌」、映画「耳をすませば」、NHK「迷宮美術館」「ルーブル美術館」など録音多数。「コンサートプロデュース・ルミエールプロジェ」を主宰。