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キリシタン

  • 「島の館」中園成生さんインタビュー(2) 2007年12月12日
    「島の館」中園成生さんインタビュー(2)
    〜かくれキリシタンと聖人信仰〜  生月は、長崎県の北西部にある小さな島です。16世紀中頃、フランシスコ・ザビエルによって平戸にまかれたキリスト教の種子は、生月で開花します。キリシタン文化の繁栄をみながら、迫害と弾圧、脱出と潜伏…と時代に翻弄された歴史を歩みました。生月では、約450年以上を経た今もなお、かくれキリシタンの信仰が伝承されています。 今回は、生月のかくれキリシタンの調査をしながら、歴史の新たな物語を追究する「平戸市生月町博物館・島の館」の学芸員 中園成生さんにインタビューしました。 生月の歴史については、ながさき歴史散歩 第17回「生月を旅する!(1)」(12/5更新)、中園さんがガイドをしてくれた ながさき歴史散歩 第18回「生月を旅する!(2)」(12/19更新)もお楽しみに! "サン ジュワンさま"の正体は?  「外海地区の黒崎にある枯松神社には、サン ジワンさまが祀られています。また、生月では、沖合いに浮かぶ中江ノ島のことを地元のキリシタンの人々はサン ジュワンと呼び、この島で採取した聖水もその名で呼んでいます。 サン ジュワン(サン ジュワンまたはサン ジョアン)と呼ばれ、かくれキリシタンの人々に崇拝された人物とは、一体誰なのでしょうか?  今日の研究では、生月のかくれキリシタンが中江ノ島を聖地として崇めるのは殉教事件が起こったからだといわれていました。しかし半分は正解なんですが、他にも理由があったのです。ミサを行うなかで"サン ジョアン"や"サン セバスチャン"と呼ぶ聖人が登場するように、カトリックでは本来、聖人信仰が盛んです。 "サン"という文字に注目しましょう。"サン"とは"聖"のこと。たしかに中江ノ島で殉教した人物のなかにジョアンという洗礼名を持つ坂本左衛門などがいますが、その中で正式に聖人となっている人物はひとりもいません。実は"サン ジョアン"とは、彼らのことを指すのではなく、ヨルダン川でキリストを洗礼した"洗礼者聖ヨハネ"を指しているのではないか、と考えたのです。 その理由は幾つかあります。ひとつは、キリシタンの時代から存在する聖水信仰です。現在のかくれキリシタン信仰の中で、中江ノ島で採取された聖水は、"サン ジュアンさまの御水"と呼ばれ、神聖視されていますが、昔のキリシタン信者たちも、争うように聖水を持ち帰り、大切に壺に収めて祀り、病気のときに聖水を飲んでいたと宣教師の手紙に書かれています。聖水信仰は、殉教を起源とするものではないのです。  生月の壱部地区のある津元には、絵の中の要素から、洗礼者聖ヨハネの聖画に由来すると思われるお掛け絵が祀られています。このお掛け絵に、春には椿が供えられるのですが、その理由を信者に尋ねると、このお掛け絵の人物は首を刎ねられたから、花が落ちる椿を供えるのだと説明されます。首を刎ねられた聖人といえば、まさに洗礼者ヨハネなんです。サロメという娘が、義理の父であるヘロデ王の前で、綺麗な踊りを披露しました。「何でも褒美を使わす。」と言った王様は、サロメは「洗礼者ヨハネの首が欲しい。」と答え、首が刎ねられたという聖書の物語と、かくれキリシタンの椿の花の伝承は、確実に結びつくのです。  洗礼者ヨハネ信仰=サン ジュワン信仰が、キリシタン時代から長崎にあったんですね。もともとあった聖水を神聖視する洗礼者聖ヨハネ信仰の聖地としてあった中江ノ島が、殉教によって物語的な変化を来しつつ、かくれキリシタン信仰の聖地となっていったのです」 掛け軸のなかの聖人が持つ道具の意味  「カトリックの聖人図には、その人物が殉教したときに関係する品物が多く描かれています。例えば、剣で処刑された人は剣を持って描かれ、弓矢で処刑された人は、矢が刺さった様子で描かれています。  右写真のお掛け絵は、かくれキリシタンの信者から"サンパブローさま"と呼ばれています。その読み方で解釈すれば、聖パウロの像ということになります。しかし、弓矢を持っているという点に注目すると、弓矢に射られて殉教した聖人ということで、聖セバスチャン(聖セバスティアヌス)という聖人が該当します。聖セバスチャンとは、ローマ時代に矢を射られて処刑された聖人です。その人の聖画にはよく矢が描かれていて、転じて弓矢の守護聖人ともなっています。この人の日本での呼び方がバスチャンで、外海や生月の伝説でも出てきます。恐らくはキリシタン時代から、聖セバスチャン信仰があったんでしょうね。このように、キリシタン時代の聖書などに記された物語が、断片的にかくれキリシタンの信仰の中に取り入れられて伝説化している事例は、他にもいくつか見出すことができます。」 生月の魅力  「豊かな自然のなかで、いろんな神様とか仏様とかいろんな信仰が渾然一体となって存在している島です。昔ながらに人と人とが結びついて生きている。禁教、鯨の漁が振るわなくなったり、鯨が取れなくなったり…そんな逆境のなかで、みんなで力を合わせて打ち勝っていく姿は、活力があふれています。そんな生月の島が好きですね。」 "かくれキリシタン"研究のきっかけ  高校時代に参加した離島調査で、五島列島にある宇久島などを訪れました。フィールドを歩きながら、古くから伝わる伝承を聞いて「面白い!」と思いました。いつしか、島を点々としながら研究する仕事に就きたいと考え、大学では民俗学を専攻。その後、呼子で仕事をしている間に、捕鯨の歴史を研究するようになりました。   かくれキリシタンの研究をするようになったのは、生月に来てからです。他ではほとんど無くなったと言われている貴重な信仰ですから、行事は極力映像などで記録を取り、伝承についても、高齢化が進むなかでしっかりと聞き取りでデータを残していこうと考えています。現在、長崎県では「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を世界遺産にしようという活動や、生月で殉教したキリシタンの指導者ガスパル西玄可の列福式を2008年に控えていますのでがんばっています。」  中園さんは、そのほかにもいろんなお話を聞かせてくれました。第32回(12/5更新)では、生月のかくれキリシタンとオラショのお話、第34回(12/19更新)では、海を支配する領主の哲学を考えるお話と3回に分けてご紹介します。次回もお楽しみに! DATA 中園 成生 Shigeo Nakazono  1963年生まれ。福岡市出身。1985年に熊本大学民俗学研究室卒業。1993年に平戸市生月町博物館 島の館で学芸員として就任。主な著書に『民具』共著・ろうきんブックレット・1997年、『かくれキリシタンの聖画』共著・小学館・1999年、『生月島のかくれキリシタン』平戸市生月町博物館 島の館・2000年、『くじら取りの系譜』長崎新聞社・2001年。
  • 「島の館」学芸員 中園成生さんインタビュー(1) 2007年12月05日
    「島の館」学芸員 中園成生さんインタビュー(1)
    〜生月のかくれキリシタンとオラショ〜  生月は、長崎県の北西部にある小さな島です。16世紀中頃、フランシスコ・ザビエルによって平戸にまかれたキリスト教の種子は、生月で開花します。キリシタン文化の繁栄をみながら、迫害と弾圧、脱出と潜伏…と時代に翻弄された歴史を歩みました。生月では、約450年以上を経た今もなお、当時の信仰スタイルが、かくれキリシタン信仰の中に受け継がれています。 今回は、生月のかくれキリシタン信仰の調査をしながら、歴史の新たな物語を追究する「平戸市生月町博物館・島の館」の学芸員 中園成生さんにインタビューしました。  生月の歴史については、ながさき歴史散歩 第17回「生月を旅する!(1)」をご覧ください。また、中園さんがガイドをしてくれた 長崎歴史散歩 第18回「生月を旅する!(2)」(12/19更新)もお楽しみに! キリシタンの組織づくり  「1599年に生月島を治めていたキリシタン領主、籠手田氏、一部氏が長崎に退去。それを境に、キリシタンの暮らしはガラッと変わり、1609年には黒瀬の辻で信仰の指導者・ガスパル西玄可が処刑。さらに、徳川幕府の禁教令が発布された1614年以降、表向きにキリシタンを名乗るということは死を意味することとなってしまいます。1622年には中江ノ島の殉教事件が起こり、またその頃から宣教師たちが来なくなったため、ミサができなくなり、信者たちは自分たちだけの力で信仰を続けていくことを余儀なくされます。  ただ、かくれキリシタン信仰についてのこれまでの解釈では、「教会での行事ができなくなったので、それを自分たちでやるようになった。」という認識でしたが、最近の研究成果によると、この地域(生月)ではキリシタンへの一斉改宗が行われた頃から信者たちが信仰の組を作り、行事をおこなっていて、禁教時代に入って、そうした組の信仰行事がそのまま受け継がれていったのではないかと考えられます。中世ヨーロッパのカトリックでは、民衆の信仰組織づくりにも力を入れていましたが、日本でも、宣教師の絶対数が少なかったこともあって、信者たちだけで独自に信仰できるようなシステム作りを当初からおこなっていたようです。宣教師の記録によると、生月には信仰の組が1558年頃から存在しており、禁教時代に入るまでに、充分に根を下ろしていたと思われます。」 信仰の変遷とオラショ(祈り)  「「禁教時代の初期、キリシタンたちは組でまつる像やメダルなど聖なる道具を、大切に土の中に埋めたりして、厳しい探索を逃れたようです。そして禁教が一段落すると、屋内の納戸に移してまつるようになりました。またそうした聖なる道具に対する行事も、キリシタン時代のスタイルを守って続けられていきました。しかし、宣教師がいなくなったことで、キリスト教の教義は、だんだんと分からなくなっていったようです。  その結果、キリストやマリアへの思いや認識は薄らぎ、地元で処刑された殉教者に対する尊崇が次第に重みをましていき、ガスパル様や中江ノ島の殉教者の物語が、かくれキリシタンの「神話」となっていったのです。かくれキリシタン信仰の精神的根底には、そうした地元の殉教者への尊敬があるのです。身近な存在が必死に信仰を守り、無残な死に方をした。そうした出来事を語り伝えるなかで、殉教者の思いを受け継いでいかなくてはいけないという意識が強くなっていった。そうして受け継がれた祈りがオラショでした。 明治時代、カトリック教会に合流復帰しなかったかくれキリシタン  「明治6年に、明治政府が江戸時代から続いた禁教令を撤廃した後、生月の信者にも、長崎にあったカトリックの教会から合流復帰の働きかけがありました。先に復帰を果たした黒島(佐世保市)の信者たちが生月を訪れて復帰を働きかけ、カトリックに合流することが検討されたようです。ところが合流を果たせない理由がありました。それが神棚や仏壇の存在、とりわけ後者を廃棄するか否かという問題で、それは仏様の壇というより、ご先祖様を祀る祭壇として意識されてきました。ご先祖様こそ、死の危険を感じながら、営々と信仰を受け継いできた人たちであり、そうしたご先祖様にお祀りをせず捨てるということは、考えられないばかりか、場合によっては不吉なことが起こるかもしれないという危惧を持ったようです。当時日本で布教していたパリ外国宣教会のフランス人宣教師にとって、仏壇は、文字通り仏陀の祭壇であって、先祖の祭壇としての意味を十分に理解できなかったようです。もし当時のカトリック信仰にそのような祖先祭祀のスタイルを上手く組み込むことが出来ていたら、かくれキリシタンは今日存在していなかったかも知れません。」 オラショ(祈り)  「実はキリシタン時代の祈り(オラショ)と、かくれキリシタンが現在唱えているオラショは、文句がほとんど変わりません。これはよく奇跡と言われますが、ある意味当然のことで、自分たちで教義を充分解釈できなかったから、変えようがなかった。むしろ忠実に形を継承していくことに、意味があったのです。一方カトリックの方は、明治の初めに日本人信者用に制作された祈りは、長崎で使われるようになったものと、横浜で使われるようになったものの2種類がありました。長崎の神父さんたちが考えたのは、以前かくれキリシタンで教会に復帰した人たちが使っていたオラショを尊重し、ラテン語やポルトガル語まじりの祈りを採用します。一方、昔からの信者がいなかった横浜では、中国のテキストをそのまま用い、漢語で書かれた候文調のお祈りをつくっていて、どちらに一本化するかで対立も起きていますが、最終的には長崎の祈りが使われています。しかしその後、教義をより的確に、かつ分かりやすく表現できるように、たびたび文句が変えられて今日に至っています。カトリックにはきちんとした教義研究の組織があるので、このような変化も可能だったのです。」 かくれキリシタンの規模  「生月では、カトリックに合流した人たちは山田教会を建てましたが、先ほど話したように先祖供養の問題があって、合流復活した信者は一部に限られ、ほとんどの人たちはかくれキリシタン信仰を続けました。明治時代の生月の人口が6,000人程度だったなかで8〜9割がかくれキリシタンだったといわれています。現在の全人口は約7,000人ですが、仮に、お授けを受けて、ツモトと呼ばれるグループに属し、オラショを唱えることができる人と定義すると、信者の数はほんの一握りになります。しかしツモトや独立する組などに属している家の構成員を、全て関係者とみなすと、信者の数は500人弱程度と推定されます。しかしなかには、かくれキリシタンに関係するご神体を祀っていても、自分たちはかくれキリシタンと関係ないと考えている組や家もあったりします。」 生月のオラショ(祈り)  「生月のオラショは、全部のお祈りを続けて唱えるというスタイルです。一般的なかくれキリシタンの行事は、オラショを暗唱した後、酒と魚をいただくという流れです。カトリックのように祈りの時にロザリオを持つことはありません。生月のかくれキリシタン信仰では、コンタツと呼ばれるロザリオは、御神体として小さな祠を作って祀っていて、まれに葬儀などのときだけ取り出して用いることもあったと聞いたことがあります。 オラショのなかで唄われるもの=唄オラショは、もともと何の曲に由来するか全部分かっています。また唱え方として、全部の祈りを唱える一通りと、その一部を唱える六巻という形があって、生月島内の各集落で唱えられるオラショの内容は、言い回しなど若干違うところもありますが、ほぼ同じです。ただし元触という地区では、一通りという形が他の地区の六巻とほぼ同じ構成なので、短い祈りになっています。元触には、地区内に平戸藩が派遣した侍が住んでいたことも影響しているのかも知れませんが、行事の時にも、カドグチ(屋敷地の入口)に見張りを立てていたそうです。」  中園さんには、そのほかにもいろんなお話を聞かせてくれました。サン・ジュワンさまの正体にせまるお話を第33回(12/12更新)、戦国時代を生き抜く領主の生き様から思想を考えるお話を第34回( 12/19)と3回に分けてご紹介します。お楽しみに! DATA 中園 成生 Shigeo Nakazono  1963年生まれ。福岡市出身。1985年に熊本大学民俗学研究室卒業。1993年に平戸市生月町博物館 島の館で学芸員として就任。主な著書に『民具』共著・ろうきんブックレット・1997年、『かくれキリシタンの聖画』共著・小学館・1999年、『生月島のかくれキリシタン』平戸市生月町博物館 島の館・2000年、『くじら取りの系譜』長崎新聞社・2001年。
  • 外海と五島をつなぐ「温石」 2007年11月07日
    外海と五島をつなぐ「温石」
    〜キリスト教の信仰を守る生活のツール〜  第9回で紹介した"長崎巡礼センター"のインタープリターとして活動している犬塚明子さんにインタビューしました。彼女は、長崎にある教会堂を調べていくなかで、「温石(おんじゃく)」と呼ばれる石と、新たな出会いをしたそうです。 温石」とは、結晶片岩に分類される天然石です。暮らしに役立つ道具として、日本の生活のなかで古くから様々な用途に使われていました。カイロ(懐炉)のない時代、寒さをしのぐために、火や熱湯で暖めた温石を布などでくるみ、懐に入れて体を暖めていました。さらに、患部を温めて血行を促進しながら治療する温熱療法にも使われました。また、禅宗の僧が、胃の部分に温石を当てて空腹をしのいだことから、茶の湯では、茶会で客人をもてなす「懐石料理」の由来にもなっています。  犬塚さんが外海(そとめ)と五島で出会った、同じ「温石」。海を越えて点在する石を結ぶ先には、いったいどのような物語が隠されていたのでしょうか。さっそく、聞いてみましょう! 外海の神話『天地始之事』-テンチハジマリノコト-  「1614年、徳川幕府が発布したキリスト教の禁教令のもと、外海地方などのキリシタンに語り継がれた『天地始之事』という物語があります。これは、聖書が元になっているようですが、日本の土着的な要素が加わった物語へと変化した内容でまとめられています。外海地方のキリシタンたちによっていくつか書きとめられています。現在残されている資料の一部を少し読みました。  その中に、禁断の実を食べるという罪を犯したアダムとエバの子孫が地上に降りるとき、神様に『合石(温石の方言)のある土地を目指して行きなさい。』と言われる場面があるのです。温石というのは、外海地方の地盤を形成する結晶片岩(けっしょうへんがん)という石のことを指しているそうです。  キリシタンたちが潜伏していた外海は、急斜面で自然条件が厳しく、生活が大変な土地柄で、ある意味、陸の弧島といったところ。そのような場所で、自分たちが必死に信仰を守って生きていけたのは、『神様がそこ(温石のあるところ)に行きなさいと言ったから、ここ(温石のある外海地方)に住んでいる。だから、今は大変だけど、いつかきっといいことがある』と信じることができたからではないか、そういう願いが『天地始之事』にはこめられているのではないかと思いました。」 海を渡った温石(おんじゃく)  「温石は、外海地方など西彼杵半島で多く産出される石です。外海地方では、かまどや家の周りの石垣などに用いられてきた生活道具のひとつ。出津(しつ)に暮らす農家の方に温石について尋ねると、畑を掘ったらゴロゴロと出てくるということでした。ノミを入れると簡単に割れることから加工がしやすい石だそうです。 外海地方の出津出身の故・田中千代吉神父さまの話を書きとめたものを見ていて、この温石がなんと、海を渡って五島へと運ばれていったということを知りました。 寛政年間に五島藩の要請で、大村藩の人たちが五島へと移住したのです。その多くは秘かにキリスト教を信仰していた農民だったようです。その時、外海の人たちは、五島へ向かう舟に、この温石を乗せて運んだそうなんです。五島列島では温石(結晶片岩)は産出されません。もし五島で温石を見かけたら、それは外海から運ばれてきた石だというのです。  ある日、偶然にも水ノ浦教会堂(長崎県五島市岐宿町)の上にある、昔の水方の(潜伏キリシタンの間でのリーダー的な存在)屋敷に行きました。ここは"五島崩れ"という最後のキリシタン迫害がおきたときに、牢屋となった場所だったんですが、そこで温石を見ることができました。ここに住んでおられる方から、『外海から運ばれた石』として語り継がれていると伺うことができました。1865年(慶応1)、長崎の大浦天主堂において、浦上の信徒がローマからやってきた神父と歴史的な再会を果たすと、五島の人たちも自分たちも信徒だということを伝えたくて大浦天主堂へと向かいます。その時に、水ノ浦のキリシタンも、舟底の重りとして、この温石を再び積んで大浦へと漕いで行ったそうなんです。  でも、なぜ重たい石を小舟に乗せてわざわざ運んだのかが不思議でした。最近知ったのですが、かつて外海地方の漁師さんは、舟の上で煮炊きをする携帯かまどを『温石』でつくり、舟底や延縄の重り、錨などとして『温石』を利用していたのだそうです。それなら、移住するときに舟で石が運ばれても不思議ではなかったと思いました。  水ノ浦にあったのは、徳川幕府の厳しい禁教令のなか、"キリシタンの楽園"を夢見て五島を目指した潜伏キリシタンが、200年以上も昔に外海から一度海を渡ってきて、そしてその約70年後に、潜伏から信仰の復活を願って、再び海を渡って長崎へ行き、そしてもどってきた『温石』だったのでした。単に実用品としてそこにあるとは思えません。『信仰の出発点』であり、『神様が約束してくれたふるさと』から運んできた石として、『この場所にある』のだと思えました。 今、『海を渡った温石』のことを外海でも五島でもご存知の方は少ないようです。記憶のかなたに消えかけている石・・・。しかし、きっと、寛政年間に多くの人が"神様が約束してくれたふるさと"の石を運んだのではないかと思うのです。私は、今、キリシタンたちが命をかけて伝えてきた信仰と温石との関わりを追いかけてみたいという思いに駆られています。」  まったく思いがけないお話でした。石までが長崎のキリシタンの歴史を物語っているとは、新たな発見でした。便利な電化製品や機械などがたくさんある社会になって、自然に対する生活の知恵は忘れ去られていく世の中、私たちの生活に石とのかかわりはあまりないような気がします。今回、海を渡った温石のお話を通して、キリシタンの方々の当時の暮らしや思いを垣間見たような気がしました。 DATA 犬塚明子 Akiko Inuzuka  1956年生まれ。長崎県諫早市出身。長崎市在住。市内の某百貨店の広報担当として勤務。『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社)を担当。 2006年5月『旅する長崎学2 キリシタン文化2』(長崎文献社)、同年11月『旅する長崎学5 キリシタン文化編5』の構成・文を担当。2007年5月から長崎巡礼センターのインタープリターとして活動中 参考文献 『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 監修/カトリック長崎大司教区 発行/長崎文献社 『日本思想大系25 キリシタン書 排耶書』 発行/岩波書店 写真提供 「聖ヨハネ五島像の台座にはめ込まれた温石(水ノ浦教会)」犬塚明子 「民家の井戸の上に置かれた温石(五島市岐宿町)」犬塚明子 水ノ浦教会(五島) 長崎県観光連盟
  • 女神と男神 2007年10月03日
    女神と男神
    〜長崎港の歴史物語〜  2005年(平成17)12月11日に「ヴィーナスウイング 長崎女神大橋」が開通しました。長崎市の南部と西部を結ぶ長崎南環状線の重要なポイントとして誕生したこの橋は、休日にはドライブコースとして車が行き交い、無料の歩道を利用して対岸へと渡る散歩コースとして楽しまれているスポットとなりました。夜はライトアップされ、長崎港に彩りを添えます。  ところで、この女神大橋の"女神"が地名であることは周知の通りですが、対岸に"男神"があったことをご存知でしょうか? この女神大橋のたもとには女神と男神という岩が祀られ、その起源は古く、『日本書紀』にまでさかのぼる歴史物語があります。さらに17世紀、徳川幕府の鎖国時代にやってきたポルトガル船の出航を阻止した場所であり、その前代未聞の警備体制のうらには不思議な伝説も残っていました。さっそく女神大橋を渡って、歴史をひも解いてみましょう。 ポルトガル使節船事件<徳川時代>  17世紀、徳川幕府は、キリスト教の布教活動を防止するために、長崎の有力商人によって人工の隔離島「出島」を築造しました。ポルトガル人は、1636年(寛永13)に完成した出島に収容され、1639年(寛永16)には出島からも追放され、日本への来航が禁止されました。 それから8年後、長崎の港を舞台に大事件が起こります。1647年(正保4) 6月、ポルトガルの大きな軍船2隻がやってきたのです。この船には修好使節が乗船しており、「自国ポルトガルは、イスパニア(スペイン)から独立した。」ということを報告するためにはるばる日本へやってきたとされますが、実のところ本当の目的は通商の再開だったとか。再び貿易を行い、キリスト教を布教する許しを幕府からもらおうとしたようです。 長崎奉行は、幕府の指示を待つあいだ、ポルトガル使節が船から降りたり、勝手に出航したりしないよう、ただちに厳重な警備にあたりました。そのものすごく厳重な警備の様子が詳細に描かれた一枚の絵図「正保4年葡萄牙船入港ニ付長崎警備図(長崎歴史文化博物館蔵)」をご覧ください。左が出島のある長崎港で2隻のポルトガル船が見えます。それを阻止するように男神(下)から女神(上)の小島まで大網が張られ、船を浮かべ板を敷いた舟筏橋で港を封鎖して、ポルトガル船を港の外へ逃がさないようにしている状況が描かれています。この「長崎警備図」によると「舟橋長三丁四十三間」=長さ約400m。さらに大小数百隻の船を3列にズラリと整列させて、周囲の海岸にも配置。その全ての船は威嚇するようにポルトガル船の方を向いています。 約2ヶ月間、この非常事態の警備にあたったのは伊予松山城城主松平隠岐守・伊予今治城城主(現:愛媛県)、細川藩(現:熊本県)をはじめ、福岡藩、佐賀藩、大村藩、小倉藩、柳川藩など西日本各地の諸大名。『徳川実紀』によると軍勢は約48,300人、船は約898艘がこの警備に参加したと記されています。 結果的に徳川幕府は、"独立の報告につき処罰なし"とし、ポルトガル船は幕府の出航命令に従って長崎港を8月に去っていきました。ともかくも、ポルトガルの軍事的脅威に対する公儀権力の対面を守ることには成功しました。幕府がこれほどに大がかりな警備体制をしいた理由のひとつには、1640年(寛永17)にポルトガル使節を処刑したことへの報復を恐れたのではないかといわれています。この事件以降、近隣の各藩は藩士を長崎に常駐させて護衛にあたり、緊急時の幕府の指示に備えました。  その後、ほかの外国船もやってきました。1673年にイギリス船リターン号が通商復活の要請のため、1685年にはポルトガル船サン=パウロ号が漂流民を送還するため、来崎しましたが、大きな衝突もなく帰っていきます。幕府は当初のような厳重な海防策をやわらげ、常時、福岡と佐賀の両藩の交代制、さらに大村や島原などの周辺の藩で補うというかたちで、恒常的・制度的な警備体制を維持しました。また、平戸藩によって、神崎(男神の付近)・女神・太田尾の3ヶ所、長崎港の外には白崎・高鉾島・長刀岩・蔭尾(現:香焼)の4ヶ所、あわせて7ヶ所に石火矢台場が築かれました。  こうしてオランダ船と唐船以外の船が訪れることはなくなり、1647年のポルトガル使節船事件から安政の5か国条約締結(1858年)によって日本が開国へと向かうまで、200年以上もの月日を待つことになります。 男神と女神の誕生は『日本書紀』!?<弥生時代>  男神と女神には、神功皇后にまつわるエピソードを起源とする歴史物語があります。神功皇后は仲哀天皇(第14代天皇)の妻。約2世紀の初期、神功皇后が三韓征伐へと向かう途中で長崎に立ち寄ったことが『日本書紀』に記されています。この時ちょうど神功皇后は皇子さま(応神天皇)を身ごもっていました。夢で見た神様のお告げにより、浦上村からもってきた2個の霊石を「鎮懐石」として上帯に挟み出陣したといわれています。長崎を出航する時に船から眺めた美しい景色・・・。その地形に陰陽の2つの神がいるようだと感動して、陰神と陽神とよばせ、対岸2ヶ所に神様を祀ったのだそうです。これがはじまりといわれ、三韓から持ち帰った倭奴国王印も鎮懐石とともに祀ったそうです。後に男神・女神とよばれるようになりました。 長崎の東部には神功皇后にまつわる地名があります。皇后が鉾を立てた「高鉾島」、榊に鈴を付けて祈った地「神ノ島」、ほか「皇后島」も関係があるという言い伝えが残っています。 女神と男神を結ぶ"白狐"の伝説<神崎神社>  対岸にあって向かい合う男神と女神。神が宿る2つの岩には、先に紹介した「ポルトガル使節船事件」にまつわる伝説があります。長崎港に突然姿を現した2隻のポルトガル船に対して、九州各藩が警備にあたった時のお話です。 男神と女神の間に船を並べ板を渡すという作業は、波が高くうねり、強風にあおられ、困難を極めました。さらにポルトガル船を長崎港のなかに閉じ込めての作業ですから、いつポルトガル船から攻撃を受けてもおかしくない危険な状態だったのではないでしょうか。村人たちは男神に向かって一心に祈りを捧げました。途端に神崎鼻にある男神から、突然2匹の白い狐が現れ、素早い動きで船橋を駆け抜けて、対岸にある女神へと消えてしまいました。すると、悪天候による荒波や強風がたちまち鎮まり、難攻していた作業がみるみる完成していったそうです。 この不思議な出来事は神の思し召しとして社殿が建立され、その後、古祠を合祠して神崎神社となりました。海を渡って参拝するこの神社には、航海の神様として、唐船やオランダ船からの寄付も多かったといわれます。また、男神神社はいつしか商売繁盛の神様とされ、金貸稲荷社(かねかしいなり)をお参りする商人が多く訪れたそうです。その近くに設置された警備のための台場は明治維新の前に廃止となり、周辺の海岸には石油備蓄槽が設置され行き来するには不便な場所でした。現在、女神大橋の開通にともなって整備され、山頂にある神崎神社へは木鉢方面から歩いてお参りすることができるようになりました。  さすが、長崎!! 新しい観光スポット「女神大橋」に秘められた長〜い歴史物語に驚きました。歴史をひも解きながら現地を訪れる楽しみを体感できた一日でした。それにしても、長崎港に侵入してきたポルトガル船警備のために九州各藩が必死でつくった舟筏橋の真上に、いま、女神大橋が架かっているなんて、歴史の流れって本当に不思議なものですね。 参考文献 『旅する長崎学3 キリシタン文化3』 企画/長崎県 製作/長崎文献社 2006年 『長崎県の歴史』 著/五野井隆史ほか 発行/山川出版社 1998年 『崎陽群談』 長崎県立長崎図書館/写 1966年 『長崎事典 歴史編』 発行/長崎文献社 1982年 『長崎市史』 企画/長崎市役所 発行/清文堂出版 1967年 『日本書紀』巻8 長さ 一間=1.81818182メートル  一町=109.090909=60間として計算しました。 写真&資料 「正保4年ポルトガル船入港ニ付長崎警備図(部分)」長崎歴史文化博物館収蔵
  • 長崎十六聖人殉教者 2007年09月05日
    長崎十六聖人殉教者
    ー聖トマス西と15殉教者ー  1597年に西坂の丘で26人が殉教した事件を皮切りに、56人が西坂で処刑された1622年の元和の大殉教、1627年頃に始まった雲仙地獄での拷問など、残酷さを極める迫害によって次々とキリシタンたちの多くの命が奪われました。 領民は宣教師をかくまうだけでも重罪とみなされて処罰が下されたというキリシタン禁教の時代がありました。  今回訪れた長崎市の中町教会は、長崎十六聖人に捧げられています。 この聖トマス西と十五殉教者16人は、徳川幕府が支配した江戸時代、厳しい禁教令のなかで、1633年から1637年にかけて、長崎の西坂の丘で穴吊りや火あぶり、水責めの刑に耐えながら信仰を守り通して殉教した人たちです。  16人のほとんどがドミニコ会で、司祭が9人、修道士2人、大村のマリナと長崎のマグダレナという女性が2人、信徒が3人でした。 出生地でいうと、日本人が9人、外国人が7人。 その7人は、スペイン人司祭アントニオ・ゴンザレスら4人、フランス人司祭のギョーム・クルテ、イタリア人司祭のヨルダノ・アンサロネ、そしてフィリピン人で最初の聖人となった信徒ロレンソ・ルイスです。  16人のひとり「聖トマス西」は、生月出身で、日本人で初めてドミニコ会の司祭になった人物です。 彼は、少年時代を有馬のセミナリヨで過ごし、伝道士として教会で働いていましたが、1614年マカオに追放されます。 しかし2年後に帰国した長崎でドミニコ会の神父と交流をもちながら活動を続け、1624年にドミニコ会に入会し、1626年フィリピンのマニラで司祭となりました。 台湾や琉球で布教活動をおこない、1629年には長崎に潜入し、苦労の生活を強いられながらも密かにミサを捧げたりして信徒を導いていました。 ともに宣教していた神父を看病していたところを捕らえられ、過酷な拷問にさらされますが信仰を棄てず、1634年、西坂の丘で穴吊りの刑によって44歳で殉教しました。 聖トマス西が殉教した1634年というと、幕府の命令によって長崎の商人が出島の築造に着手し、また諏訪神社の例祭・長崎くんちがはじまった年でもありました。 「長崎十六聖人(聖トマス西と15殉教者)」は、1987年(昭和62)、時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人に列せられました。 日本との関係でいえば、1597年に西坂で殉教した「日本二十六聖人殉教者」が1862年に列聖されて以来、125年ぶりのことでした。 現在、白い尖塔が長崎の町並みと青い空に映える中町教会には、この16人の殉教者を顕彰する記念碑が建立され、毎年9月の第4日曜日には記念ミサが行われています。  この2007年6月、188人の日本人殉教者(ペトロ岐部と187殉教者)が福者として列せられることが、教皇ベネディクト16世によって承認されましたが、この中には、聖人「聖トマス西」の父であるガスパル西玄可と、その妻ウルスラと息子のジョアン又市が含まれています。 フランシスコ・ザビエルが布教した平戸の松浦藩に属する生月島は、キリシタンの籠手田一族が中心でしたが、実際には平戸に住んでいたので、家臣の西家が代々生月の代官を務めていました。 生月にも迫害が迫り、籠手田氏が信仰を守るために1599年長崎に退去したとき、ガスパル西は職を解かれましたが島を離れず、引退して妻とともに生月の伝道士となり、信仰面でリーダー的な存在であり続けました。 玄可は1609年に生月で殉教し、同じ頃、少し離れたところでその妻ウルスラと息子又市も殉教しています。 先に聖人に列せられた息子「聖トマス西」のゆるぎない信仰は、父ガスパル西玄可が家族全員を導き育てたゆえに生まれたものだったのではないでしょうか。 信仰を貫く強いスピリットが親子のあいだに受け継がれ、離れた地にあっても時を移しても同じ生き方をした・・・。 かけがえのない家族の姿がとても感動的な生月の西家の物語です。 中町教会 明治22年(1889)に建立された教会。 創立者の島田要助神父は、キリシタン大名 大村純忠ゆかりの地として大村藩が治めていた領地内の蔵屋敷の跡地に、日本人のための教会を設立に着手しました。 設計者はフランス人のパピノー神父で、着手してから8年後に完成しました。 創建当初はレンガ造りの赤い建物でしたが、原爆の被害を受け、焼け残った外壁と尖塔を活かして白亜の教会堂へと生まれ変わりました。 昭和62年(1987)に教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人に列せられた長崎十六聖人に、翌年捧げられました。 教会の敷地の一角には、長崎十六聖人殉教の碑が建立され、16人をイメージしたモニュメントが置かれています。 所在/長崎県長崎市中町1-13 お問い合わせ/095-823-24841 開館時間/6:00〜18:00 ミサの日/土曜日19:00〜、日曜日6:30〜/9:00〜 イベント/9月の第4日曜日…聖トマス西と15殉教者記念ミサ リンク/ http://nakamachi.sakura.ne.jp/index.html アクセス/ 徒歩…JR長崎駅より約6分。 路面電車…[3番・蛍茶屋-赤迫]に乗車し<桜町>で下車し、徒歩約4分。 バス…長崎バスもしくは県営バスに乗車に<桜町>で下車し、徒歩約4分。 参考文献 「旅する長崎学3 キリシタン文化3」企画/長崎県 制作/長崎文献社 特集2-第4章 受難の時代に生きたキリシタン 長崎十六聖人と金鍔次兵衛 聖トマス西と15殉教者/カトリック中央協議会 長崎における44人の殉教者/長崎大司教区 殉教者列福推進委員会編
  • 大村湾一帯を守り続けた大村家 2007年08月08日
    大村湾一帯を守り続けた大村家
    〜お墓に見る物語〜  長崎街道が通る大村市古町には、慶長13年(1603)、第19代大村喜前が大村家の菩提寺として建立した「本経寺」があります。その境内の一角でひときわ目をひく大村家の墓碑群。墓所に立ち並ぶ墓塔の巨大さと様式の多様さは、大村家墓所特有のものであり、近世大名の菩提寺としての形態を現代に伝えています。ひとつひとつのお墓に、大村とともに時代を歩んだ人物たちの苦悩と、それぞれの人生の物語がありました。大村の激動の歴史を感じることができる場所です。 大村家の菩提寺 本経寺を訪ねて  本経寺は日本最初のキリシタン大名として有名な大村純忠の息子、喜前(よしあき)が建立した寺院で、境内には大村藩歴代の藩主が眠っています。墓所には、高さ6メートルを越える、とてつもなく大きなお墓がいくつもたっています。これほどまでに巨大な墓碑の理由とは・・・?! 単に大村家の偉大さを誇示するなどといったことで目立たせたわけではないようです。  もともとはキリシタンだった喜前が、江戸幕府が強力に推し進めるキリスト教の禁教政策の意向に添うよう、日蓮宗に改宗して建てた本経寺。大村藩の初代藩主となった喜前は、藩存続のためにも完全にキリスト教と断絶したことを広くアピールする必要があったのでしょう。そのために、長崎街道を行き来する要人たちの目につくように仏教式のお墓を高くして、かつてキリシタン大名であった過去を払拭し、仏教信仰の復興を示そうとしたのです。江戸時代の宗教政策と近世大名大村家の立場をうかがい知ることができます。亡き父のキリシタン大名 純忠の時代から、新しい大村藩の時代への幕開けでした。  ちょっと気になるお墓をいくつか紹介しましょう。 ○第16代大村純伊の五輪塔(左)と 第19代大村喜前の五輪塔(右)  石組みの門をくぐり、特別にしつらえた霊廟の中に、2つの五輪塔が並んでいます。左は第16代の純伊さんのお墓。そうそう、純伊さんといえば大村の郷土料理「大村寿司」誕生にゆかりの人。戦国時代、戦に敗れ、流浪の末に領地を取り戻した彼が帰ってきたとき、喜んだ領民たちがお祝いに出したことに由来するのが大村寿司の始まりといわれます。  右の方は、3歳の時にキリスト教の洗礼を受けたものの、キリスト教の禁教政策でキリシタン取り締まりが厳しくなるなか、日蓮宗に改宗してこの本経寺を建てた第19代(大村藩初代藩主)喜前さんの五輪塔です。  この2人の間には、第17代の純前さんと第18代の純忠さんがいます。大村家のなかでも、日本最初のキリシタン大名となったことで有名な純忠さんは、坂口館で亡くなりました。彼のお墓は、宝生寺(教会)に建ってのち、草場へと場所を変えて、この本経寺へと改葬されたそうですが、江戸時代の末期にはもう本経寺には見あたらず、今はどこにあるのかわからなくなっています。お墓こそありませんが、大村家の過去帳には「円殿純忠公通院前戸部侍郎理仙日融大居士」と、純忠の戒名が記されているそうです。 ○家臣の小佐々市右衛門&愛犬のお墓  墓所には、大村家当主や正側室のお墓のほか、一族・家臣のお墓もたち並んでいます。そんななかにこんなお墓がありました。これは第21代(大村藩3代藩主)純信さんの家臣だった小佐々市右衛門さんのお墓です。脇に小さなお墓が、並んで仲良くたっています。このかわいいお墓は、市右衛門が飼っていた愛犬のお墓なんです。  このお墓には忠誠を守った3つの魂にまつわるエピソードがあります。ある日、藩主の純信さんが東京で急死したという悲しい知らせが大村に届きました。それを聞いた家臣の小佐々市右衛門さんは、主人を失った悲しみとそばについて守ることができなかったことを悔やんで、後を追うように切腹してしまいました。亡くなった市右衛門さんが荼毘(だび)にふされるその時、愛犬が後を追って燃え盛る火の中へと飛び込んでしまったのです。その光景に心をうたれた身内の人たちが、市右衛門さんの眠る傍らに小さな愛犬のお墓をたてたのでした。純信、市右衛門、愛犬、忠誠を尽くした3つの魂の物語がありました。 ○第22代純長の息子 次郎太の墓    写真提供 「家臣の小佐々市右衛門と愛犬のお墓」 長崎文献社
  • 長崎巡礼センターを活用しよう! 2007年06月27日
    長崎巡礼センターを活用しよう!
    教会の魅力を語る人びと その3  長崎の持つ歴史的な遺産である教会群をどのようにPRしていけばいいのか…。様々な意見がとびかい3年。着々と準備が進み、「長崎巡礼センター」開設という一本の明るい光が差し込みました。2007年5月に長崎カトリックセンターの1階にオープンした「長崎巡礼センター」が担う長崎流の新しい情報発信の役割とは何なのでしょうか。インタープリター(=翻訳者)として、特異な長崎の歴史を伝えたいと話す入口仁志さんにインタビューしました。 「長崎巡礼センター」の開設 <教会群を巡礼するための総合窓口 + ユースホステル>  「長崎巡礼センター」の構想は、実は3年前からプランとしてありました。2年前の7月、「長崎カトリックセンターの宿泊施設部門をユースホステルと併設して、一般向けに開放できる仕組みにしませんか。」という提案をカトリック長崎大司教区にしました。ユースホステルという機能は、世界中に向けた情報発信が可能なので、より内容の濃い発信ができるのです。また、カトリックセンターは、どなたでも宿泊利用できることをもっと強く発信したかったのです。 長崎の歴史を語ろうとした場合、どうしてもカトリックの話に触れないと歴史は喋れません。そこでユースホステルでは、訪れてくれる若者たちに、当然、長崎の歴史とともにカトリックの歴史を伝えています。長崎カトリックセンターでは6階をユースホステルのフロアにして、夜8時から9時まで、宿泊者を対象としたミーティングをして情報を発信してきたのです。ですから長崎カトリックセンターでは、すでに2年前にはユースホステルをカトリックの発信基地とする機能をスタートさせてきたという経緯がベースとしてあるのです。 昨年の夏に、長崎教区の大司教さまと県の観光推進本部のトップとの間で、お互いにトラブルが発生しないように、観光客が長崎を気持ちよく訪れるためにはどうしたらいいかという会議がもたれました。その後、関係者が集まり、月1回のペースで交渉が続けられました。その中で、<ながさき巡礼>という言葉で取り組むこととなりました。今年の3月には、カトリック側では県内の教会をはじめとする巡礼スポットを示すこと、どう捉えるのか具体的に言葉で表現すること、巡礼の主だったコースを示すこと、また、カトリックのなかにも巡礼センターを立ち上げましょうということが決まりました。ですから、国内外のカトリック全体の巡礼センターとしても同時に発信していきたいので、表記は<長崎巡礼センター>とし、その対応を始めました。」 世の中が求めているもの  「数年前、まだ世界遺産候補の話がまだ表に出ていない頃、もうすでに世界の社会全体がカトリック開放にベクトルが向きはじめていたのです。例えば、若い人はクルス(十字架)のネックレスをするのはザラでしょ? でもその若者たちは別に信徒でもないですよね。で、今の若い人たちが何に頼るかといった問題もそうです。みんな社会的不安系といった将来的な不安を抱えているじゃないですか。逆の言い方をすると、ものすごくいいタイミングで教会に目が向きはじめているのではないかと思ったのです。」 ガイドではなくインタープリターとして仕事をする  「長崎の歴史は、キリスト教なしには語れない…。実は別の仕事としてやっていたのが、長崎教区が主催する巡礼のお手伝いです。そのなかで僕自身、3年間、あらゆる教会堂や巡礼地を巡り、現地を訪れました。例えば、みなさんは五島にいくと有名な教会堂に行きますね。有名な教会堂だろうが小さな教会堂だろうが、そこの信徒さんにとっては大切な御堂であり、大切な歴史的背景を持っています。だからそれは、そこに行かないとわからない。それも自分自身が感じないと人々に説明できない。説明するには、自分が感じることって必要なんですよね。僕は<ガイド>という言葉を使うのはあまり好きではなくて、<インタープリター=翻訳者>という言葉を使います。何を翻訳するかというと、カトリックの人たちの生き様がどういうものなのかということ、長崎を訪れる人たちに、私の感じたことを伝える仕事をずっとやってきたんですよ。信徒ではないけど(笑)。」 観光の落とし穴  「教会堂を訪れる観光客が増えるなかで、実はトラブルも多く発生しました。聖水盤をタバコの灰皿にするという、あってはならない行為。タバコを吸いながら教会堂のなかに入ること自体が無茶苦茶なことですよ。また、観光セクションがよくやる間違いなんですが、トイレ休憩を教会堂にあててしまうのです。「おい待てよ!」って言いたくなります。なぜなら、教会堂のトイレは信徒のためのもので、通常1〜2人位しか使えないようになっている。このことを知らない人が旅行プランを企画しているんです。そして、お祈りしている信徒さんがひとりでもいたら、教会堂の中には普通入れませんよね。それどころか内陣といわれる祭壇に入って荒らす人、中には教会堂の備品を盗む人など。観光のニーズが高まるにつれて、これらのトラブルも発生しています。この現状を今すぐ改善しなければいけません。せっかく教会に目が向いてるのに教会側がそれに対応しないというのは、ある意味もったいない。みんなの目が教会に向いているのであれば、その人たちと対話をすることは必要だということなのでしょう。」 巡礼とは?  「巡礼とは、場所をまわってみること。それは、人間ひとりひとりの内的な作業なので形式的なスタイルはありません。ですから、100人いれば100通りの巡礼があります。僕は信徒ではないけれど、巡礼地をまわると、いろんな事を感じます。そのことをできるだけ素直に伝えることを心がけてご案内しています。巡礼に参加しているみなさんも、いろいろな事を感じるはずです。その思いを大切にして欲しいと思います。 巡礼者をご案内していると、僕にとってむずかしい質問がたくさん出てきます。 「ミサとは?」 「何をお祈りしているのですか?」 「五島に住んでいる私たちとバチカンの信徒さんとは、神様との距離って違うの?」 などなど。 「帰ってから近くの教会を訪ねて神父様とお話ししてみてください」 とすすめることにしています。」 「長崎巡礼センター」としての仕事  「長崎巡礼センター」は、今、立ち上がったばかり。まだ、実務は伴っていなくて、まずはパンフレットの取り寄せから。少なくとも観光パンフレットは、このセンターに来れば全部揃っているように環境を整えています。 また、巡礼 地をめぐるコースを作りましょうということで、マップが載った旅のガイドブックを企画し、今その作業が進行しているところです。 僕の思う巡礼センターの仕事とは、神父さまは指導していただく人なのであって、自分はあくまでインタープリターの仕事だと思っているんですよ。こういう生き様があるんだよっていうことが伝わればいいのだと。そう、<伝える>という仕事。五島巡礼では、どこに行かなければいけないとか、贅沢なものを食べてはいけないとか、そういうことじゃありません。五島でしか味わえない旬の新鮮な海の幸がいっぱいありますからね。現地を体感してもらえれば。僕は体験上、巡礼の一回ぐらいはバーベキューをするプログラムは楽しいなと思います。旅に参加した人たちのその楽しさが、僕たちにとって巡礼のごちそうなのかなと思います。巡礼にカタチはない。あくまでも巡礼に参加した人たち同士、行った先々でのコミュニケーションが大切です。信仰を持っている人の良し悪しや強弱ではなく、その中で信仰を持っている人たちの強さや生き様、すごさが伝わればいいなと思います。たとえば、浦上天主堂に連れて行くと原爆のイメージが強いですが、信仰の礎が建っています。浦上天主堂が建つ以前に何があったのだろうか?という疑問から始まり、秘密教会の跡は約140年前の弾圧、ベアトス様の墓は約400年前の弾圧、大橋の川を渡ったらサンタ・クララ教会の跡がある。浦上天主堂周辺だけで約2時間の案内ができます。ユースホステルの1時間のミーティングに参加された方は、みなさんホントにビックリされますよ。 長崎の街は宝の山なんです。スゴイですよ。飽きないくらい上質の旅、巡礼のスポットがある!」 DATA 入口仁志 Hitoshi Iriguchi 1946年生まれ。長崎県長崎市の出身。カトリックセンターのマネージャーとして、「長崎巡礼」の業務を担当。
  • 教会巡礼のマナー 2007年06月20日
    教会巡礼のマナー
    教会の魅力を語る人びと その2  「長崎巡礼センター」は、長崎大司教区と長崎県が協議しながら立ちあげた長崎大司教区公認の窓口。今般の状況では、公式の窓口を置かないと対応できないと判断してセンターの設置を決定。一般の方に活用してもらいたいし、133ある教会堂の各々の関係者にも、このセンターを認知してもらわなければいけないので、課題は多いと語る。そのなかで、まず、教会を巡礼するときのマナーを、そして、教会を訪れることの意義を聞きました。 「巡礼とは体感すること pilgrimage is sensory  「「まず理解して欲しいのは、教会堂は祈りの場であって、観光施設ではないということ。<観光から巡礼へ>を合言葉にしたい。教会を訪れる時に、その文化や歴史、キリスト教を知ろうと思って来てほしいですね。今、実際に生きている信仰を、生きている祈りを、生きている教会堂を巡って体験・体感すること。それが巡礼なのです。アナタが教会堂に来たとしたら、観光ではなく「祈る」ということをして欲しいですね。キリスト教の信徒でない人も、祈りと祈りの場を体験するわけなんですよ。その場にいるということだけで何か感じることがあるわけですから。それが信仰の体験、巡礼なんですよ。そこで教会堂で守って欲しい8つのことをお話しします。」 教会巡礼のマナー 1.教会堂は祈りの場。聖なる場所では私語をつつしんで!  「教会堂には、観光施設にある「携帯の使用禁止」というような張り紙はありません。でも注意書きがないからといって、教会堂で大声をあげたり、携帯の着メロを鳴らして堂内で話したり、好き勝手に動いて携帯の写メで「カシャッ」と音をたてて撮ったりしないでください。また、教会堂の中で祈っている人がいたら、邪魔しないように静かに拝観してください。もちろん教会堂では結婚式や葬儀も行われます。その時は、拝観はご遠慮ください。」 2.聖水盤について!  「教会堂には、観光施設にある「携帯の使用禁止」というような張り紙はありません。でも注意書きがないからといって、教会堂で大声をあげたり、携帯の着メロを鳴らして堂内で話したり、好き勝手に動いて携帯の写メで「カシャッ」と音をたてて撮ったりしないでください。また、教会堂の中で祈っている人がいたら、邪魔しないように静かに拝観してください。もちろん教会堂では結婚式や葬儀も行われます。その時は、拝観はご遠慮ください。」 3.鐘を鳴らさないでください!  「残念なことに、年に何回かは起こってしまう出来事のひとつです。教会の鐘の音は宗教上たいせつな合図。仏教のお寺の鐘も同じことではないでしょうか。目の前にヒモがあるからといって、引っ張ってはいけませんよ!」 4.内陣に勝手に入らないで!  「祭壇及び朗読台などが配置されている場所は、祭儀を執りおこなう中心となるところで“内陣”と言っています。普通の教会堂では一段高くなっています。そこには聖櫃があってキリストの聖体を安置しています。神聖な場所ですので、絶対に入らないでください。また、外陣は参列する人たちのための祈りのスペースです。まずは座って、ゆっくり祈ってみてください。」 5.教会堂内に置いてあるものに触らないで!  「聖書・聖歌集・祈祷書(お祈りの本)などが置いてあります。堂内には教会のものもあるし、個人のものもあります。おわかりの通り巡礼者のものでないことは確かですね。教会によっては信徒の皆さんのMY座布団も置いてありますし、あとMY席も! 毎日ミサに来る人もいますから、みんなの黙認のもと自分の専用の席があるんですよ。もしかしたらMYメガネを置いているかもしれないですね。勝手に触らない、使わない、当たり前の心得ですね。」 6.飲み食いは当然ダメ!  「教会はできるだけオープンにしています。だからといって勝手に入って飲み食いをしてはいけません。いや、ウソだとお思いでしょうが、たまにあるのです。疲れたからといってペットボトルを取り出して飲んではいけませんよ、教会堂の中は休憩所ではないのですから。飲む・食う・吸うは別の所で。」 7.楽廊(歌隊席)にも勝手に入ってはいけませんよ  「楽廊は、一般的に堂内の2階席か中2階にある聖歌隊の席。オルガンなどの楽器も置いています。楽廊に入らないでください。写真を撮るのに良い場所だからといって、楽廊に勝手に入って撮影してはいけません。」 8.門はいつでもオープンなのです  「原則として教会堂の門はいつでも開いています。普通は正面・両サイドと合わせて3つの扉がありますが、教会によって開いている扉は違います。入る時は帽子をとりましょう。服装は、普通の服装で大丈夫なのですが、極端に短いスカートやノースリーブなどは教会には似合いません。祈りの場にふさわしいものを着用して下さい。夏に訪れる際は、バッグのなかに薄手のシャツを一枚入れておくと、いいかもしれませんね。」 教会で何を体感するのか? 中村神父の巡礼のススメ  「誰も気付かないことですが、たとえば黒島天主堂では、柱に手垢が残っています。年に1・2回大掃除していましたが、私はわざと「磨くな!」と言っていました。乾いた雑巾で軽く拭かせていたのです。汚れを落とさせなかった。なぜなら、歴史を理解している人はわかってくれると思いますが、その手垢が遺産なんです。どれだけ多くの人がこの柱に触れたから、こういう色になったかという証拠です。訪れる人も、それを見ないとね。ヨーロッパを訪れると良くわかるんですよ。磨り減った大理石の階段、触られて磨り減った聖人像の腕と足。そこを訪れた人の人数が何万人・何十万人・何百万人という単位では計れないほどだということの証し。それは現場に行ってみないと体験できません。  黒島に着任したころ、じーっと天井を見ていると「あれ? おかしいな。」と不思議に思ったことがあったんです。黒島天主堂は、スゴイことをしていたんですよ。「何を?」とお思いでしょう。お金がなかったから良い材木を揃えることができず、普通の安価な板を買ってきて、その板に木目を描いているんです。刷毛目という工法なんですが、ニスを塗ってその上から木目を付けた。おどろくなかれ、天井板はすべて手描きなのです。ドアの一部もそう。お金がないというところからのアイデアなんですが、今になってみるとスゴイことをしているんですよ。 現場に行って教会堂を見るだけでなく、それを設計した人、造った人、現在まで維持してきた人たちに思いをはせる。そして感謝・感動するんです。教会堂の多くは信徒の皆さんの奉仕活動で建てたもの。資材を担いでどれだけの距離を歩いたかは、現場に行って歩いてみないとわからない。そういった意味で現地を体感するのが巡礼なんです。今生きている信仰者たちの現場を体感することが巡礼ではないでしょうか。そうでないと巡礼は面白くないんですよ。たまに私も巡礼ツアーを企画して外国に行く時は、そういうことを伝えています。私もそういう見方をしているわけ。ガイドが説明してくれる建築年数なんかを聞いても面白くないから、ほかのところを見て周ります。そうすると、現代の信仰の姿だけでなく、400年、500年前の信仰の姿も見えてきます。昨年、スペインのザビエル城を訪れましたが、その窓から見える風景と地形は、どんなに写真にうまく撮っても伝わらない。ザビエルが見たものは、現場に行かなきゃ、わからないですよ。」   DATA 中村満神父 Nakamura Mitsuru 長崎県五島市久賀町の出身。久賀島の牢屋の窄殉教地で、中村家の3姉妹が殉教、その子孫。現在、長崎教区本部事務局次長。長崎巡礼センターの責任者。 参考図書 『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 監修/カトリック長崎大司教区 発行/長崎文献社
  • 教会巡りからはじまった歴史の旅 2007年06月13日
    教会巡りからはじまった歴史の旅
    教会の魅力を伝える人たち その1  『旅する長崎学 キリシタン文化』の2・5巻や『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』の構成と執筆を担当した犬塚明子さん。彼女は今、カトリック長崎大司教区と長崎県が協議を重ねて新しく発足させた「長崎巡礼センター」(長崎カトリックセンターの1階)で、インタープリターとして活動を開始しています。長崎の上質な旅へと誘う発信源として、巡礼コースなどを一般の方に紹介しています。これまで、数多くの教会に関する本を執筆し、ライフワークとして教会堂を追いかけ続ける犬塚さん。カトリック信者ではない彼女が、なぜ教会の魅力を紹介する仕事に一生懸命なのでしょうか?犬塚さん独自の目線から見た教会堂の魅力に迫ります。 教会堂を巡るきっかけは?  「父方はカトリックですが、私自身は、教会には縁のない環境に育ったんです。  でも、20代後半を迎えたある日、教会建築を撮影するカメラマン 雑賀雄二さんのエッセイを読んだのです。ページを一枚一枚めくるたびに、自分の心がいつしか、実際に教会を訪れずにはいられなくなっていました。それで、もう上五島に足が向いて、江袋教会など、いろんな教会堂を訪れました。  そのとき、頭ヶ島天主堂を訪れた見ず知らずの私に「私のおじいさんたちが(といったと思います)、島の山から石を切り出して、ひとつずつ積み上げてこの頭ヶ島天主堂が完成したんですよ。」と、語りかけてくれたのです。その話を聞いてふと感じたのが、きっと代々親から子へと、この教会が建てられた当時の様子が伝承されてきたという、島の人たちが積み重ねた長い時間。そして、地元の方々との会話を肌で実感できたこと。それは、本当に涙がでそうなくらい「生(なま) 」の歴史に触れるという魅力を感じてしまったのです。この出会いがきっかけで、教会堂の魅力というか歴史の魅力にどんどん引き込まれていきました。  五島の小さな集落に、どんなに小さくても実際に生活のなかに生きている教会堂。ひとつひとつに感動して、歴史にも感動してしまいました。それで「(自分は)長崎人だ!」って再認識したこの五島の旅が、教会堂に目覚めるきっかけとなったのです。 」 ライフワーク 1.教会堂は祈りの場。聖なる場所では私語をつつしんで!   「その後、長崎市内にある某百貨店に勤めました。広報担当という仕事のおかげで、改めて長崎を見つめ直すことができたのです。階段脇のスペースを活かしての作品展示は、来店してくださったお客さまに見てもらえるステップギャラリーとして開放していました。展示の企画も、お預かりした作品の展示のほかに、自分たちの手で長崎の情報発信をしていこうという、まさに長崎の歴史テーマとしたものもおこなっていました。その中のひとつに「長崎の教会」というテーマがあって、そこで思い切って長崎の教会を見てまわったんです。この展示を通して「長崎は面白い!」って思い始めました。それで、長崎の面白さを伝える仕事に携わりたいと思った矢先に、長崎の教会ガイド『長崎游学2』(長崎文献社)という本をつくる仕事に出会ったんです。この、ガイドブックをつくりながら、教会のことをかなり勉強させてもらったんですよ。」 犬塚流「長崎の旅の楽しみ方」  「バイクで行くんです。平戸の生月も行きましたよ。しかも50CCで(笑)!  「私のお気に入りは、生月大橋の手前にある山野教会です。いわゆるキリシタンの迫害を逃れて集落をつくった隠れ里のひとつですね。すっごくいいですよ。私の大好きな場所!今は外観が補修されていますが、中に入るとこんな感じ。本通りから人家のない山道を登って歩いたら30〜40分かかるような、山の奥にあるんです。ふと集落が現れて教会が見えるんですよ。教会の後ろにまわると畑が広がっていて、まさに集落の中にある教会。まさかこんなところに?というような場所なんです。善長谷教会や大山教会なんかもそう。香焼の方から善長谷教会を探すと、城山の中腹にチョンって見えるんです。「あれだ!」っていうオドロキ。教会堂って、何気ない風景のなかから、忽然と現れるんですよね。」 (写真は犬塚明子さんの撮影) ひとつの発見…。“西”という姓からルーツを探る  「個人的なことですが、私の祖母が生月の人で姓は“西”。生月の最初の殉教者が“ガスパル西”という人。その息子の“トマス西”は長崎十六聖人のひとりなんですよ。生月には確かに西姓の人がたくさんいらっしゃると思いますが、祖母と殉教者の苗字が同じだということを聞いて、どこか繋がりを感じてしまったんです。仏教用語でいう因縁というか縁というか、自分にも何か引っ張られるものがあるんだなぁということをすごく感じてしまいました。長い歴史の中に自分がいるということ。それを知ってから、自分は殉教者の子孫だと自称しています。自分が信者になれるかということは置いても、歴史の中に「私」がいるという事実が、ある意味、魅力であるような気がしたんですよね。このことは私の人生観を変える出来事でした。」 とある結婚式…、教会堂での失敗談  「いとこが教会で結婚式を挙げるというので、私にカメラ係になって欲しいと頼まれたことがあったんです。「どこでも撮っていいから。」と言われたのですが、教会のことを何も知らなくて、内陣の中に入っちゃったんですよ。その時、みんなから冷やかな視線を向けられていたこともわからず、ただ私は、新郎新婦のシャッターチャンスを逃すまいと神父様の背後にまわって内陣に入ってしまったんです。それがいけないことだと後で知ったのです。私を含めてよく知らないのが実情だと思います。そういった教会堂でのマナーも紹介していくのもこれからの仕事ですね。」 長崎巡礼センターの使命  「本を執筆しながら、長崎カトリックセンターとのご縁で、長崎巡礼センターのインタープリターとして仕事をしています。例えば、長崎の教会は、そこにただ建っているのではなくて、そこに信仰を守りつづけている人がいるから教会があるということ。たとえ小さな教会堂でも存在する意味がある。そのことを私自身が知りましたし、そのことを伝えたいと思いますね。「祈り」があるということも長い歴史を物語ります。例えば、外海から、ふるさとの石を乗せて船を漕いで五島へと渡ったと聞きます。たどり着いた場所ですごく苦労をして、200年という長く苦しい時間の先に教会が存在していること。そういう話を私が伝えることで、みなさんに感動してほしいですね。  大切なことは、そこにある教会を語ることで、長崎の歴史も語っていけるということ。まだまだ勉強の途中ですが、少しでも長崎の魅力が伝えられるようにがんばります。  みなさん、巡礼センターへ来て下さい!」 DATA 犬塚明子 Akiko Inuzuka  1956年生まれ。長崎県諫早市出身。諫早市在住。日本女子大学生物農芸専攻。1990年から2003年まで市内の某百貨店の広報担当として勤務。2005年9月『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社)を担当。 2006年5月『旅する長崎学2 キリシタン文化2』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)、同年11月『旅する長崎学5 キリシタン文化編5』の構成・文を担当。2007年5月から長崎巡礼センターのインタープリターとして活動中。2007年9月には構成・文を担当する『ながさき巡礼』(監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社)を出版予定。
  • 五島の教会を巡って 2007年06月06日
    五島の教会を巡って
    歴史の遺産・教会のある風景を訪ねて感じたこと  ザビエルが平戸にキリスト教を伝えて15年後のこと。宣教師アルメイダとロレンソが五島を訪れ、広めたキリスト教。五島では、16世紀と19世紀の時代を超えてキリシタン弾圧という同じ悲劇が繰り返されました。壮絶な殉教を目の前に、しまの人たちは耐えて守るという強い信仰を心に誓ったのではないでしょうか。五島巡礼の旅は、キリシタンの歴史を学ぶと同時に、それまでの「日本」を振り返る旅でもありました。 教会堂を巡るきっかけは?  五島の主な教会を訪ねるだけでも、それらが辺鄙なところにばかり建っていることに誰もが気付くと思います。迫害を逃れ、静かな信仰の地を求めて海を渡ったキリシタンたちにとって、五島は天国のはずでした。しかし恵まれた場所に堂々と住めるわけもなく、海辺の痩せた土地にへばりつくような暮らしを余儀なくされたといいます。「五島天国行ってみて地獄」と唄われるほど、困難を極めた移住生活。現在でも交通アクセスが困難な場所に、これほどたくさんのすばらしい教会堂が残されていることを考えるとき、当時の苦労とそれを乗り越える信徒の皆さんの熱い心がありありと伝わってくるようです。 ライフワーク 1.教会堂は祈りの場。聖なる場所では私語をつつしんで!  「その後、長崎市内にある某百貨店に勤めました。広報担当という仕事のおかげで、改めて長崎を見つめ直すことができたのです。階段脇のスペースを活かしての作品展示は、来店してくださったお客さまに見てもらえるステップギャラリーとして開放していました。展示の企画も、お預かりした作品の展示のほかに、自分たちの手で長崎の情報発信をしていこうという、まさに長崎の歴史テーマとしたものもおこなっていました。その中のひとつに「長崎の教会」というテーマがあって、そこで思い切って長崎の教会を見てまわったんです。この展示を通して「長崎は面白い!」って思い始めました。それで、長崎の面白さを伝える仕事に携わりたいと思った矢先に、長崎の教会ガイド『長崎游学2』(長崎文献社)という本をつくる仕事に出会ったんです。この、ガイドブックをつくりながら、教会のことをかなり勉強させてもらったんですよ。」  出会った地元の人が、「辺鄙な場所に建っているからこそ価値があるのですよ」と言っていました。もうすぐ建設から100年を迎える教会堂と、そこに伝わる先祖たちの思いを大切に守ってきているのだなあと感動しました。当時、教会堂を建てるための莫大な費用をどこから捻出するか。敬虔な五島の信者たちは、食べる物を減らしてまでも教会建築のために奉仕したといいます。ある島では出稼ぎに行ったまま教会堂の完成を見る事がなかった人、完成するころには財産を使い果たして島を出るしかなかった人も多かったとか。世界遺産登録への動きを通して、教会巡りを楽しむ人は増えると思うけれど、建物だけを見るのではなく、ぜひその教会堂が建てられるまでの話にも耳を傾けてほしいと思います。そして、ザビエルが日本にキリスト教を伝えて以来450年以上のキリシタンの歴史と、実に多くの犠牲者のうえに、今の信仰の自由が成り立っているのだと感じていただければうれしいです。  かつてはキリシタンの天国といわれた島も過疎高齢化が進み、実際には維持が難しくなっている教会堂も少なくありません。一日数往復しかないバスを待つお年寄りの姿が目に留まります。 旅の終わりに久賀島を案内して頂いた木口汽船の木口さんが「これらの教会群が世界遺産になることで、観光客が増える事も嬉しいけれど、世界中から巡礼者が集まる巡礼の島になるといいですね」と話されていたのがとても印象的でした。 江崎博子