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  • 古楽器リュートの魅力(1) 2007年05月16日
    古楽器リュートの魅力(1)
    〜永田さん&井上さんにインタビュー〜  1582年に長崎からヨーロッパに旅立った天正遣欧少年使節は、1591年(天正19)、長い旅から帰国しました。1587年に豊臣秀吉が伴天連追放令を発布していたため、彼らは「インド副王使節」の一員として日本に戻り、聚楽第で秀吉と謁見しました。そこで西洋楽器による演奏を披露したといいます。4少年が持ち帰ったその楽器は、アルバ(ハープ)、クラヴォ(鍵盤楽器)、ラウテ(リュート)、レベカ(ヴィオール)でした。やさしい音色に魅了された秀吉はアンコールを所望し、演奏を3回も楽しんだそうです。 今回は、リュート奏者として活躍する永田斉子さんと井上周子さんにインタビューしました。このコラムは2回にわけてご紹介します。 リュートという楽器   永田さん 「リュートは撥弦(はつげん)楽器のひとつで、弦をはじいて音を出します。アラビアや中近東が起源といわれ、11世紀の十字軍の遠征によって、ヨーロッパへ伝わりました。当時は中近東の方が文明が進んでいたため、リュートは珍重され、それゆえヨーロッパのルネサンス絵画では天使が奏でる楽器として数多く描かれています。ヨーロッパのイギリス・フランス・ドイツ・イタリアなどの、主に宮廷などの貴族階層で、中世からバロック時代の約700年という長い間にわたって親しまれました。今、私たちがピアノやギターなどの独奏楽器、あるいは歌や他の楽器とのアンサンブルを楽しんでいるのと同じように、リュートはその時代ポピュラーな楽器だったのです。」 リュートの衰退   井上さん 「リュートは、12〜18世紀にかけて、サロン文化が隆盛をみせた貴族の間で発展しました。18世紀を迎えると貴族が没落。同時に貴族が親しんだ音楽も廃れていってしまいました。また世間では、音量が大きな楽器のニーズが高まりをみせました。リュートは音量が小さな楽器ですので、18世紀になると残念ながら人気がなくなってしまったのです。 1600年代のバロック時代になると、貴族に代わって興行主が劇場を取り仕切るようになりました。音楽は、興行主による商業ベースに組み込まれていきます。フランス革命以降は、サロンで少人数を集めるより、効率よく多くの人たちを劇場に収容するようになりました。劇場でたくさんの観衆に聴こえるように、楽器が改良されて音量がだんだん大きくなっていくんですよ。例えばバロックバイオリンからモダンバイオリンへの変化もそうです。舞台上の歌い手も、小さなサロンから大きなオペラホールに合わせた発声方法へと変化しました。」 リュートの再評価   永田さん 「パワフルなものをよしとする価値観の時代を迎えて、リュートのようなか細い音の楽器は完全に絶滅してしまいました。ベートーベンやチャイコフスキーなどの時代には、もう誰もリュートを弾かなくなったのです。ところが、20世紀初頭になって、音楽学者が博物館に眠っていた古楽器を復元しはじめました。その研究によって、ルネサンス時代のリュートは、心を慰める楽器として、音楽療法のひとつとして用いられていたということもわかりました。イライラがなくなり、眠りがよくなり、メランコリックな心を癒す効果が期待できる楽器なんです。リュートを弾いたり聴いたりすることは、「薬にまさる効果がある」と文献にも書かれているのですよ。 最近では、リラクゼーション、健康ブーム、あるいはロハス的な生き方が注目されています。パワフルなものよりも、日常の疲れに心やすらぐものをという人気から、弾いてみたいと言う人も増えてきています。」   井上さん 「王様は 眠りに就くまでの間、傍らのリュート奏者に演奏させていたのです。」 リュートと出会ったきっかけは?   永田さん 「昨日、長崎歴史文化博物館に行って子供の頃の出来事を思い出したんです。「弾琴図(だんきんず)」という絵画で、当時の南蛮絵師が描いたもの。昔はこの絵画の葉書がありまして、それを子どもの頃に見たことがあるんですよ。最初にリュートという楽器の姿を目にしたのは、その絵画だったと思います。当時の私はクラシックギターを習っていましたから、12〜13歳ぐらいの時だったかな。はじめてこの楽器を見たとき「これは何だろう?」って思ったんですね。 リュートを見て何だか懐かしい感じがするのは、私の前世の記憶かもしれません。」   井上さん 「私は3〜4歳からピアノを始めました。学生だったある日、音楽室にあったブラウトの「オペラ史」という一冊の本がきっかけで、オベラの歴史そのものに惹かれてしまいました。オペラが誕生したのは1607年。ちょうどイタリアの作曲家クラウディオ・モンテヴェルディの「オルフィオ」が上演された年でした。詩人がハープなどの楽器を奏でながら歌いはじめたことがオペラの起源とする説に惹かれました。生まれたてのオペラは、きっと詩の韻にあわせて伴奏されていたはずなのです。その伴奏に使われた楽器がリュートでした。今度は伴奏のルーツを探っていくと、なんとルネッサンス(ギリシャ時代の文明復興)に起こったオペラの原点にたどり着いたんです。それで、ピアニストになるよりプロの伴奏家になろうと決めました。 昔懐かしいレーザーディスクに収録されていた作曲家モンテヴェルディの「ポッペーアの戴冠」を見てリュートに感動。さらに、高校3年の時にみたフランス映画「めぐりあう朝」の一場面に登場するリュートやビオラ・ダ・ガンバをみて、スパッと進路を決めました。しかし、古楽器をシステマティックに学べる大学が日本になく、リュートを教えてくれる先生もいませんでした。古楽器の歴史背景まで教えてくれるヨーロッパへと留学しました。リュートが存在してたのは18世紀半ばのバッハぐらいまで。楽器としての歴史でいえば、リュート→チェンバロ→ピアノとなります。」   永田さん 「私たちが奏でる楽器は古楽器ですので、その当時の社会や宗教、国同士の勢力争などの歴史の時代背景を解ったうえで、さらに曲を解釈しなくてはいけません。リュートには解明されていない謎の部分もたくさんあります。そこは歴史を学びながらあれこれ推測するしかありません。その当時の空気感というのは、ヨーロッパに行けば今でも感じることができるでしょう。しかし、音楽で行きづまったとき、日本でその空気感を知りたいと思ったら、船にのって平戸に行ってみたりします(笑)。長崎には、平戸のオランダ塀や石畳など当時の面影を残したものが今でもありますから。約400年前の空気感を取り戻して音楽と向き合うと、新しい発見をすることがあります。」 バロック・ルネッサンス時代の音楽の位置づけ   井上さん 当時の貴族や王様の子女たちは、教養のひとつとしてリュートを弾いていました。いわゆるお稽古事です。王様ももちろん習っていました。弾いたり、踊ったり、貴族としてのふるまいを身につけていました。もちろん昔はCDのように便利なものはありませんでしたから、音楽をかけて楽しむことがないわけです! 音楽は全て生音楽。舞踏会などにお客様が来れば、お抱えの楽団で音楽のおもてなしをしていたのです。 だからこそ、録音された音があふれている現代に、ひとつの空間で生の音楽を楽しむことは、お客さんにとっても私にとってもすごく贅沢な時間だと思いませんか。」 興味のある人物は、ガリレオ・ガリレイと天正遣欧少年使節!   永田さん 「ガリレオ・ガリレイ、実は代々続くリュート奏者の家系なんです。当時の人たちは世襲制で親の家業を継いでいました。ガリレオの父は有名なリュートの作曲家であり演奏者、さらに理論家として本まで出版しています。実験的な曲をたくさん書いていて、その血統と性格が息子ガリレオに引き継がれました。リュート奏者としてのガリレオは、父をしのぐほどの腕前だったと言われています。彼の作った曲は残っていませんが、糸の張力や重力などの実験にリュートの弦を使っていたといわれています。しかし、父のヴィンツェンツォ・ガリレイの家業を継いだのは一番下の息子ミケランジョロでした。その息子3人にも家業が受け継がれました。ガリレイ家は代々リュート奏者の血筋だったのです。 その当時は天動説から地動説へという価値観の変化があったので、音楽の変化にも関係があるのではないかと考えています。   永田さん 「ガリレオ・ガリレイ、実は代々続くリュート奏者の家系なんです。当時の人たちは世襲制で親の家業を継いでいました。ガリレオの父は有名なリュートの作曲家であり演奏者、さらに理論家として本まで出版しています。実験的な曲をたくさん書いていて、その血統と性格が息子ガリレオに引き継がれました。リュート奏者としてのガリレオは、父をしのぐほどの腕前だったと言われています。彼の作った曲は残っていませんが、糸の張力や重力などの実験にリュートの弦を使っていたといわれています。しかし、父のヴィンツェンツォ・ガリレイの家業を継いだのは一番下の息子ミケランジョロでした。その息子3人にも家業が受け継がれました。ガリレイ家は代々リュート奏者の血筋だったのです。 その当時は天動説から地動説へという価値観の変化があったので、音楽の変化にも関係があるのではないかと考えています。 豊臣秀吉を魅了した西洋音楽   永田さん 「当時の日本人が最初に西洋の音楽を聴いたときに、何に驚いたか、何に新鮮だと感じたのかということをよく質問されます。ひとつの仮説としては、日本の音楽は基本的にひとつのメロディーをみんなで一緒に演奏したりする音楽といえるでしょう。例えば読経や祭りのお囃子や庶民の鼻歌だとか。演奏する人が何人いても、メロディーはひとつ。ところが当時のヨーロッパの音楽のスタイルは、いくつものメロディーが絡み合っている様式です。ですから秀吉が天正遣欧使節の4少年の演奏を聞いたときに何に驚いたかというと、複数のメロディーが織りなす"ハーモニー"です。その和音の響きの美しさに驚き、秀吉は大喜びしたのだと思います。」 古楽器のリュートから読み解く、ヨーロッパの歴史。そして、今から400年以上も前、日本にやってきたポルトガル人の宣教師やヨーロッパを旅した天正遣欧少年使節が、楽器を通じて交流を深めていたという歴史に思いを馳せることができました。次回も、永田さんと井上さんのおふたりに、リュートの魅力をお聞きします。 DATA 永田 斉子 Seiko Nagata  長崎県出身、東京在住。国際基督教大学卒業。フランスのストラスブール国立音楽院古学科をディプロマを取得して修了。ルネサンス、バロック時代のリュートのソリスト、アンサンブルのメンバーとして活動中。CD「ふらんすの恋歌」、映画「耳をすませば」、NHK「迷宮美術館」「ルーブル美術館」など録音多数。「コンサートプロデュース・ルミエールプロジェ」を主宰。 ・ オフィシャルサイト ・ ブログ 井上 周子 Chikako Inoue  奈良県出身、佐世保市在住。東京音楽大学器楽学科(ピアノ専攻)卒業。在学中よりリュートを水戸茂雄氏に師事。1999年リヨン国立高等音楽院古楽器科にてリュート・通奏低音をE フェレ氏に師事。2003年フランスでは日本人ではじめてリュートの高等課程修了と同時にディプロムを取得する。ヴィルウルバンヌ国立音楽学校にてチェンバロ・通奏低音をAデュバール氏に師事、2004年にチェンバロ・通奏低音のディプロム取得。在学中より・通奏低音としてフランス各地で演奏活動に参加し、ジュラやモンペリエなどの音楽祭にも参加、帰国後、リュートニストとして活動するかたわら、ルネサンス音楽、初期イタリアバロック音楽のセミナーを開催するなど普及に努めている。2007年11月にリュートソロCD『melanges』をリリース ・ オフィシャルサイト
  • 異国情緒あふれる長崎の石畳 2007年05月16日
    異国情緒あふれる長崎の石畳
    長崎散策は足もとにもご注目!  異国情緒あふれる長崎の町並み。散策スポットや眺めの良いところを気ままに歩きながら、ふと感触の違いに気付いて、足もとに眼をやると、それは「石畳」。街には、ヨーロッパのいろいろな様式で組まれた石畳が、パッチワークのように敷き詰められていました。道から道へ、坂からまた坂へ、そして過去から現代へと歴史をつないでいる長崎の石畳に迫ります!  長崎の街を歩いていると、坂道、また坂道…と続く風景が印象的。そんな坂道を演出してくれるのが異国の雰囲気を漂わせる「石畳」です。雨のなか、傘をさした人々が行き交う姿もステキな石畳ですが、降った雨は石の間からスーッと地中へしみ込み、雨が上がれば太陽の光でサッと乾いてしまうスグレモノ。さらに、坂の石畳の脇にあるV字型に組んだ三角溝は、雨が降ったときに雨水が滝のごとく坂道を流れるのを防ぐのに活躍しているのでしょうか。雨が似合うというイメージの長崎の石畳には、雨を快適に過ごす異国の工夫が取り入れられていたのですね。というわけで、石畳をチェック!! 観光スポットとして有名な東山手(長崎市)の「オランダ坂」は、横方向に板石を敷きつめ、ゆるやかな坂を演出しています。南山手(長崎市)の「国宝の大浦天主堂と旧羅典神学校の間にある石畳」は、道に沿って縦ラインを強調。ヨーロッパの通りに迷い込んだような雰囲気で、港の風景を借景に切り取られた絵画のような景色は、急な坂を登る辛さも吹き飛んでしまうような絶景です。  石畳の歴史の古さからみると、“ながさき歴史散歩”の第4回「世界遺産候補を巡る旅 長崎市街&島原編」で訪れた長崎市勝山町にあるサント・ドミンゴ教会跡資料館。お見逃しなく! サント・ドミンゴ教会は、当時の代官 村山等安が土地をドミニコ会に寄進して1609年に建てられた教会でした。禁教令でわずか5年後には壊されてしまいましたが、現在一般に公開されているサント・ドミンゴ教会跡資料館ではこの教会の面影に触れ、当時の様子を想像したりして、歴史に思いを馳せることができます。なんと残っているんです、約400年以上前の石畳が! 教会時代の石畳など遺跡の発掘現場がそのまま展示されているという、とても貴重な資料館です。遺跡の一角でかすかにスポットライトが当たった石畳は、地下室へとつながるアプローチ。小さな石から大きな石へと、まるで遠近法を用いたような感じで敷き詰められています。また、サント・ドミンゴ教会付近の通りにも石畳があったことを物語る記述として『イエズス会年報』に、1601年、山のサンタ・マリア教会(長崎歴史文化博物館付近)から、現在の長崎市役所のある桜町方面へと向かうまっすぐ行く道に、長崎で石畳がはじめて敷かれたと記録されています。  観光スポットとして有名な東山手(長崎市)の「オランダ坂」は、横方向に板石を敷きつめ、ゆるやかな坂を演出しています。南山手(長崎市)の「国宝の大浦天主堂と旧羅典神学校の間にある石畳」は、道に沿って縦ラインを強調。ヨーロッパの通りに迷い込んだような雰囲気で、港の風景を借景に切り取られた絵画のような景色は、急な坂を登る辛さも吹き飛んでしまうような絶景です。    長崎の街は、歴史とともに17世紀〜19世紀〜現代へとパッチワークのように石畳でつながっていたのです。長崎の街を歩いたら、あなたの足元にある石畳にも、ぜひ注目してみてください。 参考資料 『旅する長崎学1 キリシタン文化機抛箪賢検 崗ローマ長崎」と消えた教会 『新長崎年表(上・下)』著者/満井・土井編 出版/長崎文献社 1974年
  • 教会の建築に使われた「ミナ」の貝殻 2007年05月02日
    教会の建築に使われた「ミナ」の貝殻
    〜教会に見る長崎らしさ。ミナが石灰に変身!?〜  長崎の教会を訪れると、まわりの自然に溶け込んだ外観の美しさや、素朴に施された装飾のかわいらしさに心惹かれます。さらに、この目の前にある教会の歴史的な背景にも目を向けると、もっと心に響く感動を味わうことができます。迫害・潜伏といったキリシタンの激動の歴史を乗り越えた信徒の皆さんが、貧しいなかにも奉仕して、信仰の喜びのうちに建てた教会・・・、その数だけ物語があるのです。  今回は、海の岩場でよく見かける貝「ミナ」にまつわる教会建築のエピソードをご紹介します。長崎の身近にある、自然の恵みを活かして建てられた教会がありました。教会のレンガの隙間や白い壁をじーっと観察してみてください。  ミナ」とは長崎での呼び名で、磯に生息する巻貝のこと。磯遊びに出かけると、小さいものから大きくて立派なものまで、びっしりと岩にへばりついています。岩場を歩くと、人影に気付いたミナたちはカチャカチャと音をたてながら海中へと落ちて身を隠します。大げさな音のわりには、まだまだ岩にたくさんへばりついているので、かんたんに手で採れます。家路に着いて大きめの鍋で茹で、湯気がたつ熱いうちにいただきます。茹でると身が貝殻の奥に縮むので、縫い針でかき出して食べますが、これがビールにつまみにピッタリなんです。 田平天主堂  さて、このミナの貝殻が“教会の建築資材として使われた石灰”に変身していたとは驚きです。食卓にのぼった黒茶色のミナを手に取りながら、どうやって真っ白な石灰になるのだろう?とわいてくる疑問。なんと、ミナの貝殻を集めて素焼きにし、粉になるまで砕いて真っ白な石灰を作ったのだそうです。 水ノ浦教会  今回は、ミナにスポットをあてましたが、当時貧しい中で建てられた教会には、それぞれに建築の材料として長崎の自然が活かされています。教会の建つロケーションだけでなく、建築にも見ることができる長崎らしさを発見してください。そこには、きっと信者の皆さんのご苦労を思い起こさせてくれるエピソードがあり、より深い感動の旅に誘ってくれることでしょう。 *磯遊びは、安全な場所で楽しんでね。 参考資料 『旅する長崎学5 キリシタン文化后戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 写真下:水ノ浦教会は『旅する長崎学5 キリシタン文化后p.37より転用
  • 海岸線をなぞってみよう 2007年04月25日
    海岸線をなぞってみよう
    海岸線をなぞってみよう  長崎は大陸に近い日本の西にあって、海外貿易には便利な場所。でも、それなら他の県でもよかったんでは?なぜ長崎だったのでしょう?地理的な位置や周りを囲む海、自然の力、美しい風土・・・、いろんなことが素晴らしいから貿易港に選ばれたはず。長崎がどんなところなのかをデータから探ってみました。 長〜い長い「長崎県」の海岸線  長崎県の海岸線の長さは約4,196キロメートル(平成17年3月31日 国土交通省河川局「海岸統計」)、北海道に次いで全国で2番目です。これがどのくらい長いかというと、全国の海岸線の12%にもなります。面積はというと、全国37位で、これは全国の1%ぐらいですから、長崎県の海岸線がいかに複雑に入り組んでいるかがわかりますよね。しかも平地が少ない地形なので、昔は馬よりも船で移動するほうが早かったんです。 岬の教会  日本で初めてキリシタン大名となった大村純忠は、自分の領地内を船で往来していました。16世紀に開港した横瀬浦に別荘を構え、三城城から船で大村湾を横切り、横瀬浦の別荘から小船に乗り換え、教会のミサに通ったそうです。  横瀬浦、福田に続いて、純忠が開港したのは長崎でした。1570年、付近の様子はというと、長い岬の台地があるだけでした。ホントに細長い岬だったんです。そこに新しいまちづくりがスタートし、最初6つの町ができました。いまの県庁のあるところが岬の先端で、教会が建ち、鐘の音が響いていました。大きな貿易船も行き来できる波穏やかで静かな入り江、しかも長い船旅の疲れを癒すような美しい風景。そんな天然の良港が長崎県には多かったのです。  ここで、長崎の楽しみ方! この長〜い海岸線をドライブするのが最高なんです。晴れた日の空と海の青さ、夕暮れにはオレンジ色に映える海。様々な表情を見せてくれる長崎の海岸線は、何度ドライブしても感動です! また、海からアプローチするのも素敵です。港には豪華客船が寄航し、海外から訪れる人も少なくありません。クルーザーや遊覧船で、ゆったりした時間を優雅に楽しむのも、長崎の魅力を満喫する方法のひとつです。 日本一の「しま」の数、どれくらいだと思います?  長崎県の島の数は全国第1位。全国の島の数は6,852島で、そのうちの14.2%にあたる971島が長崎県にあります(昭和63年9月 海上保安庁「海上保安の現状 *島(海上)は、外周0.1km以上)。ちなみに、県では、陸地面積が1,000m2のものを「しま」ととらえています。こうしてみると、長崎県には596のしまがあり、そのうち、有人島が74島、無人島が522島となります。  長崎を愛した遠藤周作氏は、代表作『沈黙』のなかで、どこまでも蒼い海と森の緑という大自然のあまりの美しさに、人間の存在そのものを投げかける。たしかに長崎の歴史的背景のうちに見るその風景は、素朴ながらも何かを問いかけてくるような重みと強さがあります。  ここで、魅力がいっぱいの「しま」自慢をちょっとだけ! 世界遺産候補となった教会が点在する五島。シーカヤックで渡る九十九島は、プチ・アイランドリゾート。麦焼酎やウニが美味しい壱岐。韓国に一番近い国境の対馬・・・などなど。すみません。ちょっとだけでは語り尽くせない長崎県の「しま」でした。 季節風に吹かれてやってきた外国船  日本へとやってきた中国のジャンク船やポルトガルのナウ船。帆をあげた船は、夏は南からの季節風にのってきました。帰る時は冬の北からの季節風にのって長崎を出航。季節風がたよりだった航海は命がけだったようです。  そのむかし、南蛮船が来る以前から、大陸との航海ルートにおいて、長崎県の島々は重要な位置にありました。そして16世紀、平戸にやってきたポルトガル船とキリスト教を受け入れ、西洋との貿易を始めたのが平戸領主の松浦隆信(道可)だったのです。長崎と西洋がはじめて出会った場所「平戸」。その後、平戸の港にはイギリス船、オランダ船が次々と入港し、西洋文化の窓口となりました。その面影をたどる旅にでかけませんか。「 ながさき歴史散歩 第2回 【ザビエルも訪れた国際貿易港「平戸」の旅】 」をご覧ください。 参考資料 『旅する長崎学1 キリシタン文化機戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 『旅する長崎学2 キリシタン文化供戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 『ホームページ『長崎100の指標 較べてみれば(2006改訂版)』 『ホームページ『ながさきの「しま」』
  • 平戸“はじめて”物語 2007年04月17日
    平戸“はじめて”物語
    平戸“はじめて”物語  東シナ海の海上交通の要所として海外交易の拠点となり、かつて国際貿易港として栄えたまち「平戸」。その相手国は時代とともに中国、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスと変わっていきますが、鎖国の前までは外国船が入港する賑やかな港でした。 南蛮船  異国の船が運んできた珍しい品々に、平戸っ子だけでなく、貿易めあてに集まってきた京や堺の商人たちもびっくり驚いたことでしょう。輸入品のほか、外国人の習慣や風習、愛用品なども初めて目にするものばかり。 さあ、ここに日本人の好奇心が全開! 新しいものを生み出す原動力とエネルギーもみなぎったにちがいありません。  ワールドワイドな平戸の港に何が運ばれてきたのか!? これら舶来品の数々は、今でこそお馴染みのものかもしれませんが、それだけに身近でおもしろいはず。ということで、今回は「平戸“はじめて”物語」を、お国別にみていきます。 ポルトガル  1550年、平戸にポルトガル船が初めて入港。のちに開港した長崎港への来航は1571年だから、20年も早かったんですね。ポルトガル船が運んできた“はじめて”は、「食」に関するものが圧倒的。南蛮貿易によって400年以上も前に伝えられた異国の味ですが、その料理やお菓子の名が日本語として定着しているものの多いこと! いまさらながらビックリしてしまいました。  まずはパン。語源はポルトガル語です。南蛮船の商人や船員たちの食糧として欠かせないものであると同時に、彼らが信仰するキリスト教のミサに使う「パンと葡萄酒」はなくてはならないものでした。南蛮船に乗って一緒にやってきた宣教師たちは、平戸でも熱心な布教活動をおこないましたから、キリシタンとなった平戸の人たちは、当時日本にはなかったパンや葡萄酒を口にしたことでしょう。その後パンは、南蛮人やキリシタンが多い平戸や長崎では盛んにつくられたそうですが、日本人の主食となるほどは広まらず、キリスト教禁教とともに一般にパンを食べることも禁じられたため、西洋直伝のパンづくりも行われなくなってしまいました。  さて、なんといってもポルトガルの甘いお菓子が入ってきたことは、日本の食文化を一変させる出来事だったのではないでしょうか。はるばるやってくる南蛮船には料理専門の船員さんたちがいて、港に停泊中の異国の船からはきっと甘〜い香りが漂っていたんじゃないかと想像してしまいます。これって商売上手な外国人商人たちの商品戦略のひとつでは!?。「砂糖があれば美味しいお菓子がたくさんできるよ」って、輸出品の砂糖が売れるように、日本人にアピールしていたのかもしれませんね。  カステラのルーツは、「パン・デ・ロー」とよばれるポルトガルのお菓子で、丸い形をしたシンプルなスポンジケーキ。現在のカステラとは形も味も異なります。スペインのカスティーリャ王国に由来するその名前だけを残し、砂糖を豊富に手に入れることができた長崎の菓子職人たちによって、長崎らしい独自の「カステラ」が生まれたのです。 平戸の「カスドース」もポルトガル語にすると「甘いカステラ」。カステラのスポンジを卵黄に浸して高温の砂糖蜜で揚げ、仕上げにグラニュー糖をまぶした甘いお菓子です。 織田信長が大変喜んだという瓶詰めのコンペイトウ(金平糖)。ルイス・フロイスの『日本史』にそのことが記されています。語源はポルトガル語のコンフェイト。星のような凸凹が不思議なかたちで、見た目もかわいらしい金平糖、16世紀のポルトガルには魚や貝のかたちをしたものもあったそうです。  ポルトガルから伝わった食べ物はまだまだたくさんあります。焼菓子のボウロ、砂糖菓子のアルヘイトウ、ポルトガル船の常備食だったビスケット、もともとは南蛮菓子として伝わったものが家庭料理に変化したヒロウズ(飛龍頭)、南蛮料理のヒカドやテンプラなどなどです。 「日本最初のたばこ種子渡来の地」の碑   そういえばタバコ(煙草)も舶来品。平戸城の敷地内に「日本最初のたばこ種子渡来の地」の碑があります。今でこそ体に害のあるものとして愛煙家にとっては肩身の狭い世の中だけど、昔は薬用として喫煙され、1601年にマニラから平戸港に入ったポルトガル船によってその種子が伝えられ、徳川家康に献上されたといいます。 ちなみに、長崎市の春徳寺の手前に「煙草初植地」の碑があります。ここはもともと、長崎で最初の教会「トードス・オス・サントス教会」があった場所ですが、なんと煙草の栽培がおこなわれていたそうです。禁教令によって教会が破壊されたあとに建った春徳寺でも栽培は続けられ、「長崎煙草」「桜馬場タバコ」と呼ばれる長崎ブランドのお土産として江戸や大坂で楽しまれたんですって。 オランダ  続いてオランダ。1609年にオランダ船が平戸に入港し、日本初のオランダ商館ができました。倉庫や住宅なども建ち並び、その外観を彩りよく飾ったのが、日本ではじめて使われたペンキだと言われています。建物に色を塗るなんて感覚は、きっと当時の日本人には珍しかったことでしょう。 また、大航海を続ける船には医者も乗船していました。平戸の嵐山甫庵はオランダ人から西洋医学を教わり、蘭学の先駆者となりました。その時の史料が平戸観光資料館に展示されています。  また、松浦史料博物館に併設されている喫茶「眺望亭」では、当時のレシピをもとに再現したお菓子カネールクウクKanelkoekが楽しめます。カネールはシナモン、クウクはケーキ。シナモン味の素朴なクッキーです。出島のオランダ商館で行われた「阿蘭陀正月」にも出されたお菓子だそうです。 イギリス  お次はイギリス。1613年にイギリス船「グローブ号」が平戸に来航しました。その船内にはビールが積まれていたと『セーリス日本渡航記』に書かれています。日本にもやってきたこのビールは、17世紀のイギリスではちょうどホップが普及しはじめた時代と重なります。平戸の港へタイムスリップしたら、こんな声が聞こえてきそう…。 イギリス人「どうかねこの砂糖、この値段で買わないかね。大坂でヒットするよ。」 堺の商人「せやけど、もう少しまけてもらわんと、かなわんわ。」 イギリス人「しょうがないなー。ちょっと安くします。」 堺の商人「商談成立!明日には荷を運ぶさかいによろしゅう。」 イギリス人『商談がまとまったところで、ビールで乾杯しますか!カンパーイ。」 堺の商人「大仕事の後の一杯はたまらん!大坂でもこのビール、流行るかな?これ、なんぼ?」 中国  西洋との貿易で繁栄した時代よりも、もっと以前から中国船が行き交っていた平戸。遣唐使の寄港地のひとつとして、空海や栄西なども平戸を訪れました。臨済宗の栄西がもたらしたのは茶道の基本となる教え「禅と茶」。栄西は、この地で最初の禅規を行い、宗から持ち帰った優良な茶の種を冨春園に蒔き、製茶や喫茶(抹茶)の方法を伝えたそうです。 のちに平戸藩主松浦鎮信が武家茶道「鎮信流」を打ち立てますが、こうしたベースのある風土ならではかもしれませんね。  国際貿易港として、いろいろな国々との交流があった地だからこそ、“はじめて”がいっぱいの平戸。海外交流の窓口として栄えた平戸の歴史をあらためて感じました。 参考資料 『旅する長崎学1 キリシタン文化機戞ヾ覯茵芯杭蠍 制作/長崎文献社 『『歴史とロマンの島 平戸』パンフレット 平戸市観光商工課
  • 中浦ジュリアンの世界グルメ紀行 2007年04月11日
    中浦ジュリアンの世界グルメ紀行
    中浦ジュリアンの世界グルメ紀行  キリシタン大名 大村純忠、大友宗麟、有馬晴信の名代としてローマへ派遣されることとなった4人の少年たちが、1582年2月、長崎の港を旅立ちました。わずか13歳前後の4少年の名は、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ。若く希望に満ち溢れた彼らが訪れた外国の港町は、貿易で発展した最先端の街ばかり。インド、南アフリカ、ポルトガル、ローマ、スペインで、美味しい料理でもてなしを受けたことが書かれています。当時のヨーロッパは、ルネッサンスのファッション、建築、食の文化が華開いた時代。ジュリアンたちは世界きっての少年グルメだったにちがいありません!  約420年前の冬、天正遣欧少年使節は、長崎港(現在の長崎県庁下に「南蛮船来航の波止場跡」の碑がある)から、赤い十字架の帆がはためくポルトガルの貿易船に乗り込み、ローマへと出発しました。有馬のセミナリヨの第一期生として学んだ彼らは、その目に焼きついた絵画の中の西欧の風景に、きっと様々な夢と想像を膨らませて海を渡ったのでしょうね。最初に降り立ったマカオは、貿易港だけあって、ポルトガル料理にインド、アフリカがミックスされたマカオ料理。中国野菜とカニなどの海の幸に、香辛料のピリッと効いた料理が特徴。そうそう、揚げパンは福建料理のひとつだけど、長崎の中華料理が福建料理をルーツにもつのは同じ貿易港たる由縁かな。現在、世界遺産となっているマカオ歴史地区、今は壁だけが残るサン・パウロ教会を、4人も訪れたことでしょう。(イラストをクリックしてみよう!)  お次はマレーシアにある古都マラッカ。名物チキンライスは少年たちも食べたでしょうか。ゴアに向かう航海中のインド洋上で、タイ、マグロ、カツオを釣って遊んでいた少年たち。時には、その釣り糸で鳥も捕まえていたそうです。  モザンビークから喜望峰をグルリと回った大西洋にあるセント・ヘレナ島は、かの有名なナポレオンが幽閉された島。この島では初めて食べる果物を体験したとか。やっとのことでリスボンへと到着。リスボンのアルデアガレの司教ドン・テオトニに招かれたディナーでは、とれたてのエビをつまみにワインを堪能。  一行はポルトガルからスペインを横断し、さあ、いよいよイタリアへ。ピサの斜塔は、彼らが訪れた頃もすでに傾いていたらしい。ここで行われたトスカーナ大公妃主催の舞踏会でのエピソード。社交ダンスを踊ることになってしまったジュリアンが、緊張のあまり、声をかけたのは老婦人!!まわりはなごやかな笑いに包まれたとか。  ジュリアンを除く3人は、群衆のなかを、和服で正装し、灰色に金のリボンと白い羽が付いたイタリア風の帽子というファッションで堂々と行進し、ヴァチカン宮殿の「帝王の間」でローマ教皇グレゴリウス13世と感動の謁見。用意してきた手紙を読み、狩野派が描いた織田信長の安土城の屏風を渡し、旅一番の大仕事をこなしました。その時のファッションをイラストにしてみました。  ヴェネツィア、ミラノ各地でも熱狂的な歓迎を受けた少年たちは、再びポルトガルへ。コインブラでの司教の招きによる晩餐会は、かなりゴージャスなディナーだったらしいです。魚釣りや野原でのウサギ狩りに雷鳥狩り、もちろん食材としてテーブルに並んだのでしょう。長崎名物「カステラ」の原型と言われるパン・デ・ローも食べたかもしれないし!当時ヨーロッパでは、彼らの登場で日本ブームが湧き起こったというから、はるばる東洋からやってきた日本人の珍しさに、その待遇はVIPの域だったにちがいありませんね。長崎を出発してから8年5ヶ月の歳月が流れ、1590年に4人は日本へと帰港しました。 参考資料 ローマを見た 天正少年使節』結城了悟著 日本二十六聖人記念館刊 1982年発行
  • ポルトガル語の古文書がひもとく、横瀬浦の真実 2007年04月01日
    ポルトガル語の古文書がひもとく、横瀬浦の真実
       1550年にポルトガル船が入港し、フランシスコ・ザビエルが訪れた。南蛮貿易とキリスト教布教の拠点として栄えた平戸にかわって、1562年、歴史の舞台へと登場した横瀬浦。 西海市教育委員会の諏訪勝郎さんにインタビュー。16世紀のポルトガル語で書かれた本『イエズス会日本書簡集』を訳しながら、約420年前の横瀬浦の様子を語ってくれた内容から、当時の町の風景がより鮮明に浮かび上がる。 天主堂の謎  横瀬浦公園にある天主堂跡の碑。実は、当時建っていた位置と違うんです。実際は丘のふもと、舗装された道路の周辺に教会があったと思われます。1562年10月25日付のアルメイダの書簡を読みますと「入江から入って右にキリスト教徒の集落があります。その対岸に私たちの家(つまり教会)があります。対岸へと架けられた石の橋があり、橋のたもとから7段を数える階段があります。階段の上に前庭があり、さらに4段上がって大きな門を潜り、四角形のパティオを通り、その奥に教会が建っています。」とあります。翌年の記録には教会の階段が増えていますが、その間に教会自体を移築するということは考えにくいでしょう。教会はそのままに、階段を増築したのではないでしょうか。フロイスの記述で「横瀬浦は日本で最も知られたキリシタンの町になった」と報告されています。その記述は本当だと思います。平戸で貿易ができなくなり、開港していたのは横瀬浦だけですからポルトガル商人だけでなく、遠くは京都からも日本の商人たちが集まっていました。横瀬浦の教会は九州でも数少ない教会のひとつ。ミサを行えるのは神父さんのみで、修道士ではできません。ですから、毎週日曜日になると、各地からキリスト教徒たちが船に乗って横瀬浦の教会に集まっていたことがわかります。その賑わいは凄かったと思います。」 わずか1年で壊滅した横瀬浦が物語るもの  キリスト教布教期でも最も幸福な1年ともいえますし、西洋人やその文化を目の当たりにした日本人の衝撃や、南蛮貿易での繁栄があるいっぽう、一瞬にして燃えて無くなり今は何も残っていない空虚感とが並存しています。当時の日本の歴史の象徴的なものを見せているのが横瀬浦だと思います。1563年、純忠の家臣で反キリシタン勢力からの焼き討ちにあった後のポルトガル人たち。実は再度(1564年に)横瀬浦に来てるんですよ。ルイス・フロイスの『日本史』に、「いまだ住民が絶えたままで入港することができないので、平戸へと航路をとった。」とあります。焼き討ちも無くそのまま貿易を続けていれば、横瀬浦が長崎だったかもしれませんね。」。 発見! 長崎の地名に良く似た言葉  「長崎の地名に横瀬浦がルーツと考えられるものがあります。上町、思案橋、丸山以外にもあるんですよ。長崎の「大波止」。実は、横瀬浦に「小波止」と呼ばれた所があります。当時の大村純忠の館のそばにあった小さな船着場のことです。純忠はその小波止から船に乗って教会へ通っていたとも考えられます。波止場が長崎では大きかったので大波止と呼ばれるようになったのでしょうね。」 西海市での取り組み  「横瀬浦に伝わった歌があります。1563年4月17日付の修道士フェルナンデスの書簡に記されている、復活祭で歌っていたアレルヤやラウダーテという歌です。昨年、西海北小学校6年生児童が歌い、CD化しました。地元の人々の協力を得て、横瀬浦で演奏会を催したときは、イルミネーションを飾り、当時の復活祭の様子を偲びました。また今年は、西海南小学校6年生のみなさんと古楽器アルパを使い、16世紀の西洋音楽を披露する演奏会を催しました。中浦ジュリアンたち天正遣欧少年使節が秀吉に謁見した際、彼らが古楽器ラウデ(リュート)、アルパ(ハープ)、ラヴェキーニャ(小型のレヴェック)、クラーヴォ(鍵盤楽器)を演奏し歌ったことにちなんだ企画です。西海市(西海町中浦)出身といわれる中浦ジュリアンや郷土の歴史を学ぶとともに、キリシタンの時代をイメージし、歴史を身近に感じられるような体験ができればと考えて実施しました。日本で最も早い時代に西洋音楽に触れた地域のひとつが、ここ西海でしたから。」 諏訪 勝郎 Katsurou Suwa 1966年愛知県出身。大阪芸術大学卒業、ポルトガル国立ポルト大学文学部及びポルトガル国立ミーニョ大学文学人文科学院留学。著書に『ポルトガル・ノート』(彩流社)がある。当時、西海市教育委員会学芸員。