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近代化に向けて

  • 長崎の幕末3 2011年03月31日
    長崎の幕末3
    幕末の長崎は西洋の近代技術の窓口としてその役割を果たし、海軍伝習所をはじめ長崎溶鉄所(長崎製鉄所)、近代医学、洋式採炭技術、英語伝習所、活版印刷など当時の長崎には、新しい技術や科学が入り、根付いていました。その長崎を目指し、日本各地からそれらの技術を吸収したい若者たちが、この“長崎”を目指して訪れ、学びました。 さて、明治維新を迎える“長崎”では、どんなことが起こっていたのでしょうか。 戊辰戦争 1867年(慶応3)、徳川慶喜の大政奉還にともない、王政復古の令が発せられ、薩摩藩と長州藩を主体として明治政府が樹立されました。 この新政府の圧力に対抗するため、佐幕派であった陸奥国(奥州)、出羽国(出羽州)、越後国(越州)の諸藩は、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結びました。 1868年(慶応4)、鳥羽・伏見において薩摩藩と長州藩を主体とした新政府軍と、会津藩と桑名藩を主力とした旧幕府軍が戦闘状態となり、鳥羽・伏見の戦いが開始しました。いわゆる戊辰戦争が始まりました。   長崎会議所 長崎奉行として赴任したばかりだった河津祐邦(かわづすけくに)は、鳥羽・伏見の戦いで、旧幕府軍が不利であることを知ると、長崎港守備当番であった福岡藩聞役をよび、後の事をまかせてイギリス船に乗って江戸へと帰ってしまいました。 福岡藩聞役は、薩摩藩聞役・松方正義(まつかたまさよし)や土佐藩士・佐々木高行(ささきたかゆき)らを呼び、事後について協議しました。当時長崎にいた各藩の藩士や長崎の地役人達が協議し、政府から責任者が派遣されるまでは諸事を行なうための協議体を作りました。とくに長崎は開国後、居留外国人が増加していたため、外国人に危害が加えられた場合には、在留軍隊が動き出す危険もあるため、長崎地役人子弟から組織された遊撃隊が編成されていました。各藩兵や遊撃隊が当面は長崎の治安維持に当たることになりました。遊撃隊は1868年(慶応4)に振遠隊(しんえんたい)と改組されました。 こうして政府から責任者が派遣されるまで諸事を行なう協議体を、長崎会議所と呼びました。 河津祐邦の長崎脱出によって、長崎奉行所はその役目を終え、江戸幕府の長崎支配は終了しましたが、このことで長崎の地で旧幕府軍と新政府軍との武力衝突を回避することができたともいわれています。 一方で、海援隊で坂本龍馬を支え行動していた沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)が警備中に誤って薩摩藩士を射殺してしまうという事件も起こりました。沢村惣之丞は薩摩藩との軋轢を恐れ、海援隊本部で自刃しました。なお沢村惣之丞の墓は、長崎の本蓮寺にあります。   九州鎮撫総督 西洋の近代技術の窓口としての役割を持っていた長崎を重視した明治政府は、長崎に九州鎮撫総督を置くことにしました。総督には、三条実美(さねとみ)らとともに尊王攘夷派公卿として長州藩にのがれた沢宣嘉(のぶよし)を任命しました。 沢宣嘉は、長崎取締に大村藩藩主大村純熈(すみひろ)、総督参謀には井上馨(いのうえかおる)、町田民部、佐々木高行などを判事に任命しました。 この政庁は当初長崎裁判所と呼ばれましたが、その後長崎府となり、沢宣嘉が初代知事となっています。沢宣嘉は外国事務総督も兼ねており、維新直後めまぐるしく揺れ動くなか、複雑な外国交渉にあたり、後に明治政府の外務卿に転じています   長崎という地 長崎は、鎖国時代から出島をとおして西洋の医学、科学、技術をいち早く取り入れてきました。 開国を目前にした幕末期には、オランダからの軍事技術の周到、造船技術、炭鉱など重工業の根幹となる産業技術を取り入れる施設が造られ、日本の近代化のさきがけとしての役割を果たしてきました。価値の高い近代化遺産が、長崎に多数現存するのはこうした歴史的背景があります。 長崎県を旅する時には、長崎の歴史、文化に触れ、長崎県内に残された歴史遺産たちに目を向けてみてください。幕末の長崎を含め、さまざまな時代の長崎の歴史を感じることができます。 参考資料 『長崎県の歴史』(瀬野精一郎・新川登亀男・佐伯弘次・五野井隆史・小宮木代良 著/株式会社 山川出版社)
  • 島原藩2 2011年03月31日
    島原藩2
      1853年(嘉永6)、ペリーの来航以降、長崎港にも異国船が頻繁に訪れました。そのたび島原藩は、警備のために兵を長崎へ送ったり、藩主自らの長崎巡見などを行いました。しかし藩費はかさむばかりでした。また島原では流行病が発生し、領内で6百人を超える死者が出たといわれています。 1862年(文久2)、藩主・忠愛(ただちか)が嗣子無くして急死したため、急遽密かに水戸・徳川斉昭(なりあき)の十六男として生まれた松平忠和(ただかず)が養子となり、最後の島原藩主となりました。 島原藩幕末の志士たち 激動する政局のなか、島原藩にも尊王攘夷の思想を持った志士がいました。丸山作楽(さくら)、半田清直、梅村真守(まもり)、石田貞幹(さだもと)、尾崎靖(やすし)、保母建(ほぼたけし)、伊藤益荒などが攘夷運動を展開していました。 島原藩主の交代により、梅村真守らは攘夷を建言しますが、松平忠和は江戸幕府最後の将軍となる慶喜の実弟であったため、幕末は特に佐幕思想が強くなり、多くの尊王攘夷派が処罰を受けました。 志士らは、平田篤胤(あつたね)の後継者・平田 銕胤(かねたね)について国学を学び、文武修行の名義で上京し、他藩の攘夷派と交流を深めました。 その後保母建と石田貞幹、尾崎靖は、尊王攘夷派の武装集団・大和天誅組(てんちゅうぐみ)に加わり、幕府軍と戦いましたが、保母建は紀州兵に囲まれ自首、尾崎靖は津藩兵に捕まるなどして最終的に獄死しました。また梅村真守と伊藤益荒は水戸藩の天狗党(てんぐとう)に参加しましたが、内紛なども起こり、本隊から離れ各地を転戦しましたが、二人とも戦死しました。 神習処跡 かねて禁門警備にあたっていた丸山作楽は、八月十八日の政変により長州藩など京都の尊王攘夷派が一掃され、公武合体派の勢力が強まったため、島原藩に戻りました。そして1863年(文久3)に上新丁(武家屋敷跡近く)に私塾・神習処(かんならいどころ)を開き、藩士に国学と神道を説き、尊王思想を鼓舞しました。しかしあまりにも丸山作楽の思想と行動は激しかったため、島原藩の忌避するところとなり、謹慎を命ぜられています。三条実美ら5卿が大宰府に移されたと聞いては、脱藩して島原藩に迎え入れようとしましたが、実現しませんでした。 龍馬の島原上陸 龍馬長崎上陸の地 この騒動のなか、1864年(元治元)には勝海舟とともに坂本龍馬らが島原湊に上陸しました。英仏米蘭4カ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するために、海舟は外国勢との調停役としての幕命を受けていました。このとき龍馬は30歳で、海舟の信頼を受け、神戸海軍操練所の塾頭を務めてた頃です。 島原湊上陸後、島原街道、長崎街道を通り長崎に到着しています。 龍馬が初めて長崎に上陸した島原湊の石段には、現在「龍馬長崎上陸の地」の看板がたっています。 戊辰戦争 藩主・忠和の実兄で最後の徳川将軍慶喜は、1867年(慶応3)に政権返上を明治天皇に上奏し、大政奉還がなされました。 翌年には会津・桑名藩を主力とした旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍とが鳥羽・伏見で激突しました。この戦いで旧幕府軍の不利が伝わると、長崎奉行河津祐邦(すけくに)は長崎を抜け出して京都へ向かったため、長崎の町は土佐藩や薩摩藩などの藩士が協議して守ることになりました。これを知った島原藩は藩士を集めて協議し、使者を長崎へ送り、各藩士と接触させ、長崎会議所にて力を合わせて王事に尽くすことを誓いました。その後九州鎮撫総督として沢宣嘉(のぶよし)が長崎に着任すると、島原藩は安芸藩とともに大波止の警備につきました。 藩主・忠和は朝廷に対して、慶喜は実兄であるが、王事よりほかに他意はない。兄弟の縁は問わないことを伝えています。 さらに沢総督から奥羽への出兵要請を受けて、出羽国船川に上陸し、秋田へ出陣しました。その後檜木山から湯の沢をへて転戦し、一時は敵に囲まれて苦戦しました。ここで磯野波蔵、小沢文十郎、木下鉄之助が戦死しました。角館(かくのだて)にひきあげた後、長崎の振遠隊(しんえんたい)と合流し、南部領へ進みました。盛岡藩の降伏後に東北の反乱も平定したため、解兵の令がおりました。 戊辰戦争により、島原藩は砲戦を主とした英国軍隊方式を取り入れるなど軍制を改めました。 丸山作楽のその後 明治維新後、政府に請われて外務大丞(だいじょう)に就任し、樺太の国境問題についてロシアと交渉しました。また後に征韓論に同調したため、一時投獄されていますが、出獄後に新聞『明治日報』を起こし、1882年(明治15)には東京日日新聞の福地源一郎(ふくちげんいちろう)とともに立憲帝政党(りっけんていせいとう)を結成、保守的政治家として活動しました。 猛島神社にある丸山作楽の歌碑 1886年(明治19)には宮内省図書助(ずしょのすけ)に就任し、伊藤博文の命をうけて渡欧しスタイン博士に学び明治憲法や皇室典範の制定に尽力しました。また1890年(明治23)には元老院議官・貴族院議員に就任するなど政界で活躍しました。 丸山作楽は、万葉の歌人でもありました。島原市の霊丘(れいきゅう)公園や猛島(たけしま)神社などには丸山作楽の遺徳をたたえる大きな石碑や歌碑が建立されています。 参考資料 『島原の歴史 藩政編』(発行/島原市) 『長崎県の教育史』(外山幹夫 著/思文閣出版) 歴史散策 南島原市有家町(ありえちょう)は、古くから「庄屋の町」として栄えた町です。酒蔵、みそ醤油蔵や素麺蔵、神社やお寺、キリシタン遺跡、レンガ塀などの産業遺産等が多く残っています。これらの遺産を後世に伝えると共に、地域経済の活性化を目的に「ありえ蔵めぐり」イベントが開催されています。 約8メートルもある巨大な一本の木を天井からつるし、てこの原理によって微妙な圧力をかけて搾り上げる“撥ね木搾り”という古くから伝わる技法によって酒を作り続けている壱之蔵吉田屋。 雲仙山系の清純な伏流水を仕込み水として、厳選した良質の酒造好適米を高精白に磨き上げ、昔ながらの手造りの良さを守り続けている弐之蔵浦川酒造。1918年(大正7)、初代が味噌・醤油の製造を始めたことに始まる参之蔵喜代屋、古民家好きにはたまらない風情の建物の四之蔵ヤマコメ醸造、雲仙山麓の上質な水と、厳選された小麦を使い昔ながらの製法で丹念に熟成を重ねしっかりとした「コシ」の強いそうめんを作り続ける五之蔵島原一揆村ふるせの5つの蔵があります。 年に数回開催されている「ありえ蔵めぐり」イベント期間中には、「蔵さるき」ガイドツアーも開催されています。まち歩きを通して、長い歴史で培われた「蔵の文化と生活」に触れてみませんか。
  • 対馬藩2 2011年03月31日
    対馬藩2
      前回紹介したように、幕末の対馬藩では、イギリスのアクチオン号とロシアのポサドニック号来航の事件が語られています。しかし幕末の対馬藩では、もちろんこの事件だけではありませんでした。 対馬藩は、最終的には佐幕派としての立場をとりますが、最後まで佐幕派か攘夷派かで揺れ動き、緊迫したなかで明治維新を迎えました。なぜ、対馬藩はそんな状況になったのでしょうか? 少し時間をさかのぼってご案内します。 御家騒動 宗義質の墓 1838年(天保9)、対馬藩主・宗義質(よしかた)は江戸で急死しました。翌年22歳の若さで義質の長子・義章(よしあや:夫人は長州藩主毛利大膳大夫の娘)が藩主となります。しかし、この義章は藩主となってからわずか4年で急死します。 世継ぎがいなかったため、養子に出ていた義章の弟を呼び戻し、義和(よしより)と改名し、襲封しました。 この新しい藩主・義和には侍妾(じしょう)が多く、子女も27人ほどいたといわれています。もちろん後継者争いが起こりました。そうなると当然家臣の間にも派閥争いが発生しました。 宗義章の墓 その契機をつくったのが、藩主の寵愛を受け、次第に頭角をあらわしてきた御側女中・碧(みどり)でした。 この碧に対し、藩主の寵を争ったのが、勝井タミでした。タミは勝井五八郎の妹で、士分の出身でした。タミは1846年(弘化3)に長子・彦七郎を生みました。幕府へ出生を届け出ましたが、翌年彦七郎は死んでしまいます。このまま子が居なければ、御家断絶の可能性があります。 彦七郎の墓 そういう間に碧が勝千代を産み、同年にタミは善之允(よしのじょう)を産みました。問題がどんどん複雑になってきました。最終的に生母の身分階級で決定することとなり、世子は善之允と決まりました。しかし、これからまた複雑になっていくのです・・・。 当時対馬藩政の中枢を占めていた江戸家老・佐須伊織、国家老・杉村大蔵、御側用人・森川長久郎などがいました。世子問題に納得いかなかった碧は、世子決定を覆す政治工作を始めていくのです。なんと藩内の政情の不安をもたらしたという理由で江戸家老・佐須伊織に謹慎を求め、1848年(嘉永元)、ついに佐須派を一掃させると、自分を支持する人々を取り込み小姓政治を推進させていいました。 もちろん、碧の策を排除しようという動くものも居ました。これらは義党と称して藩政の粛正を求めました。しかし碧は義党のメンバーを次々に蟄居させ対抗勢力を弾圧していきます。とうとう藩主・義和も碧派に屈し、勝千代を世子にしました。佐須伊織は、勝千代を世子にするため反対する人々を弾圧し、1856年(安政3)、勝千代が正式に世子と決定しました。一度世子となっていた善之允は、根緒岩次郎と名を変え家臣列に下りました。 転々とする世子問題 勝千代の墓 喜びもつかの間、1856年(安政6)に勝千代は死去。世子問題はさらに派閥政権の争いへと突入しました。再度世子に復帰するチャンスが勝井タミに巡ってきました。善之允とタミにつながる勝井五八郎の勝井派・義党と、杉村党とタイアップした碧派の戦いとなりました。碧派はミワという娘の子・徳之輔を推し、藩主に継嗣させるよう迫ったといいます。領内では次第に碧派への批判が高まりました。 この頃(1859年)、イギリス艦アクチオン号が浅茅湾(あそうわん)の入口にあたる尾崎浦に停泊し、乗組員たちは湾内を測量して上陸するという騒ぎが起きています。 1860年(万延元)には、勝井五八郎ら碧派に反対する勢力が武装し、万松院や太平寺に立て籠り藩政の粛正を訴えました。藩主・義和に対し、碧を排除し、善之允を世子とするよう嘆願しました。現状のままでは紛争が絶えないという不安もあり、義和は善之允を世子とすることに決め、碧派によって排斥されていたものも藩政に復帰させることにしました。 翌年、嫡子届けが行われ、善之允が後継者として確定しました。 世子問題で揺れていた対馬藩でしたが、ようやく世子問題が片付いた矢先に、ロシアのポサドニック号が対馬の尾崎浦に現れ、芋崎(いもざき)を占拠するという事件が起きました。 1859年(安政6)のイギリス艦アクチオン号の来訪の目的は、東南アジアの植民地化政策を強化し、ロシアの南下政策に対抗し、朝鮮海峡に防御線をはるということも目的のひとつでした。そのイギリスに対し、ロシアは船が破損したので修理したいという理由で芋崎に来訪しましたが、船修理所を設営し、治外法権地の設置をすることが目的だったといわれています。そして船員たちは上陸し、木材を切って営舎を構え、その後井戸を掘りました。 イギリスもロシアも、自国の利益のために対馬を占拠することの重要性を認めていたことは確かだったようです。 万松院 対馬府中藩宗氏の菩提寺です。百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる123段の自然石の大石段を登ると歴代の藩主と一族の墓が並んでいます。国の史跡。 対馬移封論と対長同盟 朝鮮との貿易が衰退していた対馬藩は、外国船の来訪から防備問題が重なり、藩の財政は貧窮化し、領民の不安も増すばかりでした。 イギリスやロシアの来島に対抗する術がないことから、対馬を幕府へ返上し、代わりにどこかの領地を拝領してはどうかという意見が出るようになりました。対馬移封論です。この中心人物が、江戸家老・佐須伊織でした。畿内河内国三十万石へ移り、対馬を幕府の直轄領とし、朝鮮通交にも幕府が対応するという案を当時の大老・井伊直弼に提案していたといわれています。桜田門外の変で井伊直弼が倒れたため、この話はなくなっていましたが、外国船の来訪を契機に再び対馬藩で対馬移封論が論議されることとなりました。攘夷派は当然反対をしましたが、1861年(文久元)、藩の方針として正式に対馬移封論が採択されました。 しかし攘夷論者たちは、移封論に反対し、善之允を藩主にして藩政を攘夷論に安定させようと、移封論者であった佐須伊織を殺害しました。そして攘夷論者たちは長州藩の援助で攘夷論を強化しようと動き出します。前藩主・義章(よしあや)の夫人は毛利斉熈(なりひろ)の娘でした。彼女を橋渡しとして、長州藩と会談が実現。対馬と長州はともに攘夷論をもって運命を共にするという盟約を交わしました。これが対長同盟です。 宗義和の墓 長州藩の協力を得て、藩主・義和の隠居、善之允の家督願いが出され、1862年(文久2)、善之允は藩主となり義達(よしあきら)と改名しました。これで対馬藩は、攘夷派へと傾いていくことになります。しかし尊王攘夷論の中心であった長州藩と同盟をしているため、幕府に対して対馬の地位は不安定になるものでした。 日新館の設立、攘夷派へ 藩内では、攘夷運動が展開されていきました。対馬藩は対長同盟により、兵食援助や手当金、兵粮米支給など思った以上に長州藩の支援を受けました。藩主・義達は、行財政を改正し、攘夷体制を強化しました。しかし対長同盟によって、長州藩とともに尊王攘夷の遂行を義務づけられています。 朝廷が攘夷決行を決定し、決行日が近づいてきました。勅使三条実美(さねとみ)らの身辺が危険となりつつあったため、長州藩は対馬藩へ50人の身辺護衛を求めてきました。しかしこの護衛問題をめぐって、佐幕派の勝井五八郎と当時対馬藩の攘夷論の中心人物であった大浦教之助が対立するようになりました。 復元された日新館門 しかし長州藩がアメリカ・フランス・オランダの軍艦によって下関を砲撃され、その後アメリカと交戦し敗退するという事件が起こりました。この事件で長州藩は御所警備の任務を解かれて京から追放されました。この状況を知った対馬藩の攘夷論者は、続々と脱藩し、長州藩に加わっていきました。また藩内では平田大江が列藩協和による攘夷を唱え、福岡藩を仲介にして薩摩藩と長州藩が提携するという提案が出されました。また大浦教之助は、文武の興隆と養成によって攘夷論を高めようと、1864年(元治元)に文武館を設置しました。その後文武館から日新館へと改称し、経学、史学、諸子学、文章学、習字、医学を、武術では剣・槍・弓・砲・柔術などを教え、200余人の有能な人材が集まりました。 勝井騒動(甲子事変)、佐幕派へ 長州藩が御所警備の任務を解かれたことで、対長同盟はかえって幕府から責任を追求されることになる可能性もあるため、自藩の国力を増加し、富国強兵による攘夷体制を強化する方針がとられました。また藩の財政改革も必要となり、生産方役所を設置して大坂で生産品を取りさばくよう財政強化を図りました。そして諸役人を縮小し、重職者などを対馬へ帰国させるようにしました。 大坂で帰国命令を受けた勝井五八郎と平田大江は、尊王攘夷派の大浦派の策ではないかと疑い、大浦教之助の長男で京都の留守居役であった作兵衛を自殺に追い込みました。 この事件が対馬藩に届き、大浦派や日新館メンバーは激怒しますが、ちょうど幕府から長州征伐の命令が出されたのを好機ととらえた勝井と平田は、対馬藩へと戻りました。他の勝井派と合流した一行は城内に入ると藩主を拉致し、そして大浦教之助は藩主を防州氷上に移し、勝井・平田を排斥しようと計画していることを進言し藩主を警固する体制をとりました。 勝井五八郎の城内占拠により、府中は騒然となりました。 藩主は藩士を集め、勝井五八郎の処分を決めようとしましたが、逆に勝井は大浦らが藩主を防州氷上に移そうとしていると強く主張しました。日新館のメンバーは憤慨しましたが、藩主移住の嫌疑を晴らすことができずに、逆に大浦教之助をはじめ多くの日新館メンバーが処分されることとなりました。200名を超える対馬藩の有能な人材が処刑され、日新館は廃止されました。 この事件を勝井騒動(甲子事変)とよんでいます。 揺れ動く対馬藩 攘夷論の中心であった大浦派や日新館メンバーを一掃すること成功した勝井五八郎は、宗家の政権確保と自分の保身しか考えていなかったため、動揺している対馬藩をどういう政策で進めていくかなどは特に考えてはいませんでした。 大浦派や日新館メンバーを一掃するために協力し、勝井騒動後に重職についていた平田大江には、考えがありました。福岡藩を仲介にして薩摩藩と長州藩が提携するという雄藩連合による王政復古論でした。そのため平田大江にとっては、佐幕派の勝井五八郎を排斥する必要があったのです。平田大江・主米(しゅめ)父子は、福岡藩と長州藩に応援を求め、当時日新館派で京都藩邸にいた旧勝井派の多田荘蔵(ただしょうぞう)らを中心に尽義隊(じんぎたい)を編成しました。そして福岡藩に使節を要請し、平戸藩・大村藩に援兵を依頼、当時博多に居た西郷吉之助(隆盛)にも対馬藩の実情を説明し応援を承諾させ、大宰府の三条実美卿らにも会って使者派遣の承諾を得ると長州藩からは回天隊が派遣されました。 その間、勝井にとっては、平田父子と多田荘蔵の行動は、幕府の嫌疑を招き対馬藩自体が取り壊されるという危険性を感じており、帰国命令を出しても戻ってこない平田大江を解職し、藩命をもって1,000人ほどの人を集め、平田大江の来島に備えました。 対馬藩には福岡藩使節がまず交渉を行い、その後三条実美の使節と回天隊によって交渉が行われ、対馬藩はようやく平田父子と多田荘蔵の罪を許します。しかし、藩内では依然勝井派の力が及んでいたため、三条実美の使節をはじめ各藩の攘夷論者たちは、藩主・義達に攘夷の復活と佐幕派の排斥、平田大江を支持するよう陳述したといいます。 藩主は、勝井の暴政や今後の藩の立場を考慮し、勝井五八郎の暴政を抑圧させることを決め、家臣に指示し、勝井派の中心人物たちを殺害させました。一方勝井五八郎も反対勢力を暗殺する動きに出ましたが阻止され、切腹を命じられました。勝井は抵抗しますが、平田大江や反勝井派に囲まれ斬殺されました。そして勝井派は罷免され、藩政から大きく退かされました。 勝井派が退くことで、再度攘夷派が台頭するかと思われましたが、平田大江が目指した勤王論は取り入れられず、対馬藩は佐幕派の立場を決めました。 各藩の攘夷論者たちは、再三平田父子の復職運動を試みましたが、対馬藩は三条実美や長州藩には苦しい藩の立場を理解してもらうよう使者を出し、幕府に対してはこれまでの経緯を説明し、仕方なく攘夷論をとった時期があったことを説明し、長州藩と行動をともにしない旨を伝えました。 一方、平田大江はなんとかして藩政を佐幕派から勤王論へと変えようと努力し、福岡藩や薩摩藩にも使節派遣を依頼し、藩主を説得しようとしますが、佐幕派や勝井派の残党の反対にあいます。1865年(慶応元)、平田大江は勝井派の残党から殺害され、翌日子の主米は自刃したといいます。多田荘蔵ら尽義隊も命を狙われましたが、長州藩の回天隊に助けられ、脱藩しました。 こうして平田父子や尽義隊は、志を果たせずに終わりました。 脱藩した勤王論者たち 平田大江が殺害された後、長州藩の回天隊に助けられた多田荘蔵らは、その後どうしていたでしょうか・・・・ 多田荘蔵らは、平田大江が主張していた薩摩藩と長州藩が提携する雄藩連合による王政復古を目指し、運動を展開していました。 長州藩が征討されるという危機に、薩摩藩へ行き、大久保利通と面会し薩長連合の必要性を説き、その後大久保と共に上京して西郷吉之助と面会、その後黒田了介と会談し、黒田了介を長州藩へ下向させることに成功したといわれています。 そして1866年(慶応2)には下関で木戸孝允と面談し、奇兵隊の一員となっています。その後奇兵隊隊長・高杉晋作の命を受けて筑前姫島に牢居されていた野村望東尼(ぼうとうに)救出に成功するなど活躍しています。 対馬藩の幕末は、世子問題に始まり、外国船の来航、移封論と様々な出来事に直面し、さらに攘夷論、佐幕論、勤王論と藩政をめぐって血なまぐさい派閥政争が展開されました。こういうことから、対馬藩は時局から大きく取り残されることになりました。 参考資料 『 旅する長崎学12 対馬 朝鮮外交への道 』(企画/長崎県制作/長崎文献社) 『厳原町誌』 『つしま百科』(平成20年3月 長崎県対馬地方局) 歴史散策 格式ある10万石の厳原の城下町を歩きながら、対馬の歴史を堪能しましょう! ●半井桃水館 半井桃水生家跡に建設された交流施設です。藩主・宗家の典医の家の長男として生まれ、小説家・記者として活躍し、日露戦争にも記者として従軍しました。樋口一葉の師であり、思慕の対象であったことが、樋口一葉の手記からわかりました。 ●日新館門 1864年(元治元)に設置された日新館門(復元)です。経学、史学、諸子学、文章学、習字、医学を、武術では剣・槍・弓・砲・柔術などを教え、200余人の有能な人材が集まりました。 ●対馬藩家老屋敷跡 国道382号線が目の前を通っていますが、ここはかつて馬場筋通りと称する大通りで、宗家の家臣達の屋敷が建ち並び、人の背丈よりも高い石垣塀が続いていました。 ●城下町・武家屋敷風情 対馬藩時代の城下町・武家屋敷跡は散策しながらもあちらこちらで見ることができ、対馬の歴史を堪能できます。歴史スポットを探し歩くよりも、の〜んびりと散策を楽しむのもおススメです。
  • 大村藩2 2011年03月09日
    大村藩2
    大村藩の幕末 大村藩は、西九州の他藩と同様、近接する長崎の警備を要請されていたため、軍備増強、沿岸防備体制の強化を余儀なくされました。 大村藩藩主・純熈(すみひろ)は、外海地区へ砲台築造を行い、藩士を高島秋帆(しゅうはん)や幕府の長崎海軍伝習所へ派遣して洋式軍備の導入を図りました。 斉藤歓之助の碑(玖島城跡) また幕末の三剣士と称された斉藤弥九郎(やくろう)の三男・歓之助(かんのすけ)は、同じく三剣士のひとりである千葉周作(ちばしゅうさく)の二男「千葉の小天狗」とならび称され、「鬼歓(おにかん)」とよばれていました。この歓之助は、1851年(嘉永4)に大村藩へ仕官し、最初は大村藩江戸藩邸詰として剣術の指導にあたりました。当時の大村藩は、従来の組太刀中心の一刀流・新陰(しんかげ)流を採用していましたが、大村純熈には、激動する世情のなかでより実戦的な神道無念流を大村藩へ導入しようという考えがありました。 五教館御成門 歓之助は、城下の上小路(うわこうじ)登り口の左手に屋敷を構え、敷地内には微神(びしん)堂道場を設け、藩校五教館(ごこうかん)のなかにあった治振(じしん)軒でも藩士への剣術指導にあたりました。歓之助のはげしい指導により、渡辺昇(わたなべ のぼり・のぼる)や柴江運八郎(しばえうんはちろう)などの剣士を輩出しました。     大村純熈公(大村純熈公) 1863年(文久3)、大村純熈は長崎奉行に任命されました。当時、藩論は倒幕に傾きつつあったため、純熈は幕府の重職に就くことに躊躇し、何度となく辞退を申し出ましたが、幕府からあらぬ嫌疑をかけられないようにと配慮し、同年長崎奉行に就きました。 しかし藩主の長崎奉行就任により、大村藩では家老浅田弥次右衛門(あさだやじえもん)を中心とした佐幕派が倒幕派を弾圧するようになりました。 1864年(元治元)、大村純熈は病気を理由に長崎奉行を辞任します。そして大村藩の重職を佐幕派から尊皇攘夷論の改革派に代え、藩内佐幕派を一掃しました。佐幕か倒幕かと揺れ動く時代に、大村藩では他藩に先駆けて藩論を尊皇攘夷と決定し、藩主である大村純熈による藩主先導型の倒幕運動が展開されることとなりました。   勤王三十七士 ペリーが来航し安政の五カ国条約が締結されて以来、日本では佐幕派と倒幕派との対立が激化していました。そんななか大村藩では、尊皇攘夷論を掲げ三十七名から構成された勤王派ができました。 大村純熈が長崎奉行に就任した当時、大村藩では佐幕派が力を持ち、倒幕派を弾圧していましたが、そのことがかえって倒幕派の結束を強めることとなりました。1863年(文久3)、針尾九左衛門(はりおくざえもん)や長岡治三郎(じさぶろう)らを中心として三十七名による勤王派の盟約が生まれました。 この勤王三十七士には、長崎や江戸、大坂に遊学して新しい知識や技術を身につけ、政情の大きな転換期を肌で感じた人々がいました。 幕末の三剣士といわれた斉藤弥九郎道場で新道無念流を修め桂小五郎のあとに塾長をつとめた渡辺昇は、坂本龍馬とも親交が深かったことでも知られています。また大村藩きっての秀才とよばれた松林飯山(はんざん)などがいました。 1864年(元治元)に藩の重職が佐幕派から倒幕派へ一新すると、渡辺昇の兄・清が中心となり藩政改革が行われました。1865年(慶応元)には英国式教練法を導入しました。この教練には藩主自らも度々参加していたといわれています。 また藩士の二・三男を中心に小銃兵五大隊を組織し、そのなかでも志気が高い30名を選出し、渡辺昇を隊長とする新精組を作りました。   小路騒動 松林飯山遭難の碑 藩論が尊皇攘夷に固まったとはいえ、佐幕派の勢力がなくなったわけではありませんでした。慶応年間に入ると両派の対立はさらに激しくなりました。 1867年(慶応3)には明治維新を目前にして倒幕派の中心人物であった針尾九左衛門と松林飯山の2名が暗殺されるという事件が発生しました。 この知らせを聞いて五教館には200名の藩士が集まり、藩主からは犯人探索の命令が下りました。犯人探しは難航しましたが、首謀格の長井兵庫(ながいひょうご)ら6名を逮捕、さらに証言から逮捕者は26名に及びました。(実行犯等については諸説あります)。 長井兵庫の墓(本教寺にて) 長井兵庫は、一刀流宮村佐久馬の高弟でした。嘉永年間の藩命によって斉藤歓之助の神道無念流に切り替えるまで、大村藩では一刀流・新陰流を採用しており、この流儀替えによってそれまで治振軒剣術取立役であった長井兵庫は、渡辺昇にその立場を奪われたという遺恨もあったといわれています。渡辺昇や松林飯山らが藩政に登用され、藩政人事に不満をもった人々が結集したことや、大村家一門で永く家老を務める家柄の大村邦三郎(くにさぶろう)と大村泰次郎(たいじろう)までが荷担していたことも判明しました。逮捕者は全員処刑され、両派の抗争は終結しました。   戊辰戦争 藩論を早くから尊皇攘夷に統一し、渡辺昇が中心となって薩摩藩や長州藩と共に行動していた大村藩は、鳥羽伏見の戦い以降の戊申の役に即応し、一番隊、二番隊、三番隊を編成し、557名に及ぶ藩兵を各所に送っています。 鳥羽伏見の戦いでは、新精隊が中心となり東からの佐幕派の攻撃に備えて大津守備にあたっています。戦闘が江戸へ移ると、大村藩は東海道征討軍の先鋒隊をつとめ、一路東海道を進撃しました。また幕府方の勝海舟と倒幕方の西郷隆盛の会談により江戸城は無血にして倒幕派へ引き渡されましたが、この会談の際には渡辺清も立ち会い、隣部屋で会談の成り行きを見守っていたといいます。 鳥羽伏見の戦いから江戸無血開城、彰義隊(しょうぎたい)との上野戦争、会津戦争に勝利しましたが、その頃東北地方では、唯一尊皇倒幕の立場をとっていた秋田藩が周辺諸藩から攻撃を受け窮地に陥っていました。大村藩は、平戸藩や島原藩、振遠(しんえん)隊(長崎裁判所に所属した官軍の部隊)とともに計1,000名の援兵を編成し、秋田へ向かいました。 少年鼓手・浜田謹吾(玖島城跡) 当時大村藩は、前述の通り英国式の教練を採用していたことから一番隊から四番隊の各隊に鼓手を1名つけ、戦場での指揮を洋太鼓で行っていました。この戦闘では大村藩兵の被害は大きかったといわれています。二番隊の鼓手をつとめていた15歳の浜田謹吾は、この戦闘中に重傷を負い、伍長の背中に負われて退却している最中に、第2弾が頭部に命中し即死したといわれています。 戊辰戦争が終結すると、1869年(明治2)に明治新政府は、戊辰戦争から明治維新実現に功績のあった功労者に対して論功行賞を行い、封禄を与えました。 大村藩は薩摩藩、長州藩、土佐藩に次いで4番目で、朱印高2万7,000石という小藩でありながら、3万石の賞典禄を受けました。明治維新達成への貢献度が評価されました。 参考資料 旅する長崎学1 キリシタン文化I『 長崎で「ザビエル」を探す 』 旅する長崎学3 キリシタン文化II『 長崎発ローマ行き、天正の旅 』 --> 歴史散策 肥前大村藩2万7千石の城下町。大村氏は中世から江戸時代を経て明治維新にいたるまで絶えることなく大村地方を治めてきた大名です。大村喜前の時代に5つの武家屋敷街が形成されました。一部の石垣は今でも残り、当時の風格を漂わせています。 ●草場(くさば)小路武家屋敷街と五色塀(ごしきべい) 5つの小路のうち最も北に位置した通りです。地名から草場小路と名付けられました。この通りには五色塀と呼ばれる大村藩独特の塀が残されています。 ●旧円融寺庭園・三十七士の碑 1652年(承久元)に創建された円融寺の庭園です。江戸時代初期洋式の石組庭園で、東西50メートルに及ぶ斜面を利用し400個以上の石を組み合わせて造られました。今も当時の雄大な姿を残す名園です。 また幕末に活躍した三十七士の石碑や戊辰戦争の戦死者の墓碑も建てられています。 ●春日神社 大村純信が大村家を相続するとき、幕府の許可がなかなか下りず、大村藩は存続の危機に陥りました。このときに奈良の春日神社に祈願をし、相続の許可がおりたため、お礼として奈良の春日神社の分霊を祀って建てられました。ここからの風景は格段です。階段下の鳥居の手前まで長崎街道が続き、そこから街道は山手へ曲がっています。 ●上小路(うわこうじ)武家屋敷街 5つの小路の中で最も長い通りでした。家老浅田大学の屋敷や幕末三十七士の中心人物・松林飯山の屋敷など重臣が多く住んでいました。 ●旧楠本正隆屋敷跡 幕末から明治にかけて活躍した政治家楠本正隆の旧家です。三十七士の一人としても活躍しました。明治新政府では行政官として新潟県令・東京府知事などを歴任しました。屋敷・庭園とも良く保存されており、小村の武家屋敷の貴重な遺構として公開されています。  
  • 平戸藩2 2011年02月02日
    平戸藩2
    明治維新に向けた平戸藩 前回ご紹介しましたが、1775年(安永4)に平戸藩主となった清[静山]の第11女・愛子は、中山忠能と結婚し、慶子(よしこ)をもうけました。この慶子は、典侍として孝明天皇に仕え、明治天皇を生みましたので、愛子姫は明治天皇の外祖母にあたります。 また幕末には黒船が日本近海に出没し、国内では尊王攘夷の論争が起こり、佐幕・勤王の対立が激しくなっていきますが、時の平戸藩主・松浦詮(まつらあきら[心月])は、姻戚である中山忠能の指導を得て、平戸藩を勤王へと進めていきました。 1868年(明治元)には、鳥羽・伏見の戦に在京の平戸藩士が出陣するなど活躍しています。 また同年、平戸藩は奥羽出兵の勅命を受けました。二隊約400名が田助港を出帆し、出羽船川に上陸。角館(かくのだて)や苅和野(かりわの)の地などで会津庄内藩と戦っています。 平戸城では、幕末に関する詳しい展示がみられます   「西海の二程(にてい)」と呼ばれた楠本端山・碩水 1867年(慶応3)、松浦詮(あきら)[心月]が明治天皇に儒教の四書のひとつ「大学」をご進講することとなりました。このときの詮の講義は、堂々として見事な内容で、列席していた公卿や諸大名も驚くほどだったといいます。 この講義で、詮の侍講(じこう)であった楠本端山(くすもとたんざん)の名が全国に知られるようになりました。 幕末の平戸藩には、楠本端山と楠本碩水(せきすい)という平戸藩領針尾(はりお)島(現佐世保市)出身の兄弟がいました。三島中洲(みしま ちゅうしゅう)は、宋の儒者であった程朸協ていこΙと程頤(ていい)の兄弟になぞらえ、端山と碩水のことを「西海の二程(てい)」と讃えました。 今回は、この二人にスポットを当てて紹介していきます。 楠本端山は、平戸藩校・維新館に学び、葉山左内から才能を認められ、24歳の時に江戸留学を命じられました。佐藤一齋(さとういっさい)や大橋訥庵(とつあん)について儒学を深め、平戸藩に戻ると松浦詮に学問を講じながら、維新館の教員となりました。 端山は、当時の維新館の教育が単に解釈や暗記に偏ってきていることを指摘し、人間の徳性を養いものの道理を知るという朱子学本来の姿に近づけようと改革を唱えました。しかしこの改革は取り入れられなかったため、端山は教員を辞めて針尾へ帰郷します。 数年後、藩主である詮からの懇請もあり、端山は再び平戸に出仕し、詮の侍講を勤めました。端山の学識と人格に、藩主の信頼は厚かったといいます。 この当時、佐幕か尊王かで激しく国内が揺れ動いていましたが、端山は過激な行動を慎み、君主に仕える尊王の大義を藩主に説いたともいわれています。 明治維新後、端山は平戸藩権大参事という職につくと藩政に関わり、猶興(ゆうこう)書院をひらき、税を軽減して民生の安定をはかるなど学制の改革を行いました。 弟の碩水も維新館に学びます。九州各地を遊学した際には広瀬淡窓(たんそう)の門に入り、その後上京して佐藤一斎の門にも入り学びました。平戸に戻ると、維新館の教員となります。解釈や暗記に偏った保守的な藩校の改革をめざしましたが端山と同様に果たせず、城下に「櫻谿(おうけい)書院」という私塾を開き、自分の信じる教育を進め、子弟を教えました。この櫻谿書院では、当時侍講であった端山も招かれて、講義に出ていたといわれています。 明治維新後、碩水は貢士(こうし:各藩の意見を代表する役目)として上京し、その後新政府の役職がめまぐるしく変わり、新しく京都に設置された大学で漢学を教えました。しかしこの大学はわずか一年で廃止となりました。 若い頃、生涯仕官をさけて門人の教育に尽くした浅見絅斎(あさみけいさい)の影響を受けていた碩水は、その後藩に仕えることはなかったといいます。 楠本端山旧宅 平戸から針尾島に戻った端山と碩水は、1882年(明治15)に自らの学問、教育の理想をめざし、「鳳鳴(ほうめい)書院」を設立しました。 この鳳鳴書院では、知行合一を重んじ、国家につくす知徳豊かな人材を育てることを目的とし、きびしい規則や試験を課さずに、自由に学ばせる方針をとりました。   端山と碩水を慕って、九州各県のほか山口・島根・広島・香川・徳島・三重・新潟、さらに青森県など東北地方にまで及び、鳳鳴書院の門人は約400名にのぼったといいます。このほか維新館や櫻谿書院、猶行書院など私塾時代をあわせると、二人の門人は千数百名ほどといわれています。 この門人の中には、元老院議官や貴族院議員となった籠手田安定(こてだやすさだ)や熊本県出身で自由民権運動家の宮崎八郎など、明治期に国内外で活躍した先駆者が多くみられます。精神形成に実行を重んじる二人の教育が及ぼした影響も大いにあったと思われます。 二人の門人たちの活躍は、2010年(平成22)1月27日に公開された「歴史発見コラム」の“ 平戸を訪れた人々と平戸を旅立ち活躍した人々 ”をご覧ください。   参考資料 「史都平戸-年表と史談-」/松浦史料博物館 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 「江戸時代 人づくり風土記42 長崎」/企画・発行 社団法人農山漁村協会 歴史散策「楠本端山旧宅」 楠本端山旧宅の周辺には、有料道路・西海パールラインが整備され、大村湾やハウステンボス、針尾の無線塔などを遠望できます。近くをドライブするなら歴史スポットを訪れてみませんか? 楠本端山旧宅 旧宅は武家屋敷に儒教の祀堂を備えた珍しい造りです。近くに儒教様式の土墳墓7基があり、大変貴重なものとして県の史跡に指定されています。この建物は端山の父が1832年(天保3)に建築したもので,門は平戸の楠本屋敷より明治初年移築したものだそうです。 針尾の無線塔 国道202号から針尾農道へ入り、西海パールラインの下を走っていくと、巨大な3本のコンクリート製の電波塔を間近で見ることができます。元は日本海軍佐世保鎮守府下の無線送信所です。1918年(大正7)に着工し、1922年(大正11)に完成しました。1本の高さは130メートルを超えています。 浦頭(うらがしら)引揚記念平和公園 太平洋戦争の終結に伴い、海外に居住していた邦人や軍関係者約629万人が日本に引き揚げました。このうち主に中国大陸や南方諸島からの引揚船 1,216隻、一般邦人・軍人・軍属合わせて1,396,468人もの方々がこの浦頭に上陸しました。1986年(昭和61)、近くに浦頭引揚記念平和公園が整備され、当時の資料を展示した引揚記念資料館があります。 開館時間:9:00〜18:00(11月から3月は17時閉館) 入館料:無料 休 館:12月30日〜1月3日 浦頭引揚記念平和公園 内にある「かえり橋」 歌碑 引揚記念資料館 元検疫所消毒室の 軒先復元 (引揚記念資料館の裏) 引揚第一歩の地 平和公園から約500メートル ほど離れた波止場にある 記念碑です。
  • 五島藩2 2011年01月05日
    五島藩2
    ■ 富江領の成立 前回の「五島藩・第1回」の中でも少し触れた富江領の成立について、もう少し詳しくご紹介しておきましょう。 五島藩では、1654年(承応3)に五島盛次(もりつぎ)が3代藩主として盛利の跡を継ぎますが、翌年(明暦元)江戸で急死してしまいます。盛次の嫡子・万吉はまだ11歳と幼かったため、幕府は後継者の収拾策として、叔父である盛清を後見役とし、五島家を存続させる方針をとりました。 盛清は、万吉の後見役として入部し、このとき五島領内において3,000石分知の許しがあったのではないかという説もあります。 万吉は1660年(万治3)に元服して盛勝を名乗ります。後見役を解かれた盛清は、旗本になる運動を展開し、1662年(寛文2)には富江分知が完了。盛清は、富江を城下として青方(あおかた)、魚目(うおのめ)、北魚目、宇久島の一部、神浦(こうのうら)、飯良(いいら)、椛島、福江島の黒島を領有することとなりました。 盛清以降、2代目の盛朗(もりよし)は成章館を創設し、6代の運竜(ゆきたつ)は11代将軍・徳川家斉(いえなり)の大番頭をつとめました。盛運の時代には、海産物の運上金も上がり、領民の生活はとても豊かだったといわれています。また、7代盛貫(もりつら)は徳川家の一門・津山家出身で、14代将軍・徳川家茂(いえもち)の侍役をつとめています。 有川と魚目の海境論争 鯨見山から見た風景 五島列島の地図を見るとよくわかりますが、有川(五島藩)と魚目(富江領)は、有川湾をへだてて南北に相対する漁村です。有川湾は、鯨を追い込むのに適しており、有川村名主・江口甚左衛門正明(じんざえもんまさあき)は、紀州古座浦の三郎太郎と鯨組を組織し、鯨漁をおこなっていました。 江口甚右衛門正利之像 しかし富江領が分立したことから、魚目村は富江領に属することになり、有川湾のほとんどが富江領のものとなりました。さらに富江領は大村藩の深沢義太夫に15年間の捕鯨権を与えてしまいます。有川湾の漁業権を失うということは、有川村にとって死活問題でした。論争は絶えず、江口甚左衛門正明の跡を継いだ甚右衛門正利は、ついに江戸公訴を決意します。甚右衛門正利は、江戸へ何度も上京しました。 幕府は、有川・魚目双方の話をきき、1689年(元禄2)、1690年(元禄3)と2度にわたり、魚目側の主張を退け、有川側に海の権利を公認しました。 その後1771年(明和8)から1817(年文化14)の約40年にわたった第2回海境論争では、有川側、魚目側の海岸はそれぞれの権利で、沖はどちらでも勝手にとってよいという内容に決まりました。しかし、海境争いを繰り返している間に、鯨漁はしだいに衰退の一途を辿ります。 鯨見山にある山見小屋 鯨供養碑   成章館 五島藩では、8代藩主・五島盛運(もりゆき)が江戸藩邸にて、永富独嘯庵(どくしょうあん)に儒学を学んだことをきっかけとして、1781年(天明元)、石田陣屋内に藩校・至善堂を創設しました。 富江領では、2代・盛朗(もりよし)が五島藩よりも早く、1688年(元禄元)に成章館(せいしょうかん)を設立しました。1803年(享和3)に6代・運竜は成章館を移転拡張し、1845年(弘化2)には7代・盛貫がさらに規模を拡張しながら自ら講義をおこなったといいます。 成章館では、主に、読み、書、算、武術を教えていました。家老や文学に長けたものが総裁となり、武士の中でも学力あるものは教師となっていたそうです。 また7代の盛貫は、異国船方在役を命じられていたこともあり、武術の鍛錬も厳しかったといわれ、砲術の研究家として当時は名を知られていたそうです。   潮合崎(しおやざき)騒動 龍馬ゆかりの地 1866年(慶応2)5月2日未明、江ノ浜潮合崎(しおやざき)でワイルウェフ号が遭難し、船将である高泉十兵衛ら12人が溺死するという事故が起こりました。 1865年(慶応元)、坂本龍馬が薩摩藩や長崎商人の援助を受け、神戸海軍操練所の塾生たちとともに、日本初の商社を長崎・亀山の地に設立しました。ワイルウェフ号は、亀山社中が海運業で商売をするため、龍馬たちが薩摩藩の支援によってやっと手に入れた洋式帆船でした。 1866年(慶応2)4月28 日、ワイルウェフ号は長崎を出港し、薩摩を目指しましたが、途中大暴風雨に遭って漂流し、5月2日暁、潮合崎で暗礁に乗り上げ転覆したのです。乗組員4人を除いて他は死亡しました。この事故はただちに福江藩庁、薩摩長崎屋敷に報告されました。   両藩の役人は現地入りして遺体の収容などにあたり、遭難者埋葬し供養しました。龍馬は、同志の霊を弔うため、資金を添えて建碑を依頼したといいます。この騒動で龍馬は、同郷の仲間でもあった池内蔵太(いけくらた)を失いました。墓碑は、ワイルウェフ号が遭難した潮合崎を望む広場から歩いて5、6分の江ノ浜集落の中にあります。 広場は公園になっており、「龍馬ゆかりの地」と記された石碑とともに、同型帆船の写真やかじとり棒と推定される原寸大の模型が設置されています。実物は、近くの民宿で展示されています。   富江騒動 幕末は、勤王と佐幕に分かれて争っていた時代でした。 そんななか、五島藩は、藩主・五島盛徳(もりのり)が1863年(文久3)に京都御所にて忠誠を誓い、勤王派として積極的に活動しました。1868年(明治元)には進んで版籍奉還を上願し、京都御所の守備にあたりました。また1870年(明治3)の東京遷都の際には一小隊を送って警固にあたっています。 富江領では、8代目領主に奥州植田藩主溝口直景の弟・銑之丞を養子として迎えます。銑之丞は名を盛明と改め、将軍家茂に謁見し、富江領主となりました。7代・盛貫は将軍家茂と血のつながりがあり、8代・盛明は奥州植田の出身であったので、富江領は当然外部からは佐幕派とみられていました。盛明は、1868年(慶応4)に京都へ赴き、本領安堵の御朱印を貰いましたが、その後朝廷での審議により、富江領3000石を五島藩に合藩するということが決定しました。 この合藩に反対したのは、富江領主や重臣たちだけでなく、領民たちも同じでした。宇久や魚目、椛島の領民たちは次々と富江に集まり、15歳以上の男子は竹槍を持って警備にあたるなど、合藩反対運動は予想以上に大きなものとなりました。五島藩関係者を襲撃したり、家などを焼き討ちしたりと暴徒化した領民もいたといわれています。 慌てた五島藩は、藩役人を富江領近くへ出張させ、30名ほどに武装させ、海上には監視船を出させました。さらに町人たちも武器として棒などを持ち、富江領からの攻撃に備えたといいます。五島藩、富江領、双方ともに戦う体制が整い、緊迫した状況となっていました。 しかし、双方とも攻めかける企図はなく、戦うことはありませんでした。富江領今利家老は、五島藩の要請もあって単身で福江城へと登城し、五島藩の重臣たちと事態収拾の話し合いをおこないます。富江に戻った今利家老は、領主・盛明へ報告し、翌日、盛明が重臣たちを陣屋に集めて下る訓諭をしたため、富江側の一揆は鎮静化しました。 この騒動の件は長崎役所にも届き、富江家老2名が出頭することとなりました。当時の長崎府には、長州藩からの出仕役・参謀であった井上聞多(馨)がおり、この騒動を引見しました。井上は富江領に同情的で、辛抱するよう諭したといいます。この富江騒動は、単に富江の一揆という問題ではなく、長崎府ひいては全国的な地方治安に関する大きな問題だと認識されました。 井上は、実情を把握するため、薬師寺久左衛門と高松清一とともに五島へ渡っています。井上は盛明と対談し、宣撫訓諭するところが見受けられ、今後謹慎を誓ったので安心して福江に引き上げました。井上に随行していた薬師寺と高松の2名は、善後策のため富江領地を視察し、領内宣撫に努めました。しかし、有川と長い期間をかけて海境論争を展開してきた魚目の領民をなかなか説得できず、手を焼いたといいます。 旧領回復をあきらめきれない富江領は、新政府に復領嘆願を行います。しかし、1869年(明治2)、検分に訪れた明治政府監察使・渡辺昇(のぼり)が、今利家老をはじめ藩士一同を集め、朝命遵守を訓諭したため、復領嘆願も功を奏しませんでした。 現在の富江小学校付近に富江陣屋が築かれたといいます 盛明は家臣を率いて上京し、復領嘆願に尽力しました。朝廷は実情やむなしと判断し、富江に代替地として北海道後志国磯谷郡に1000石の復領地を用意しました。しかしその後盛明は中太夫の称号を廃され、士族となり禄制も改められました。これでは富江領家臣200余名を養っていくことは出来ません。ここで五島盛清以来、領主8代続いた富江領は、解散することとなりました。 この一連の騒動を「富江騒動」とよんでいます。 五島のキリシタンと信徒発見〜信徒発見と五島のキリシタン 大浦天主堂 1863年(文久3)、パリ外国宣教会のフューレ神父は、長崎の大浦居留地で教会の建築に着手しました。翌年、プチジャン神父によって完成した大浦天主堂は、「日本二十六殉教者教会」と命名されました。当時の日本人は、この美しくめずらしい教会を「フランス寺」とよび、大勢の市民が建築中から見物に押し寄せたといいます。しかし、当時の幕府が信仰の自由を認めていたのは居留地の外国人だけで、日本人はまだキリシタン禁制の時代でした。 教会の正面には、プチジャン神父らの意向によって、漢字で「天主堂」の三文字が記されました。この文字には、潜伏中の日本人キリシタンを探し出したいという強い思いが込められていたそうです。大浦天主堂のことは、これまでひそかにキリスト教の教えを守り貫いてきた浦上村の潜伏キリシタンたちに伝わりました。意を決した男女十数名が命がけでフランス寺へ向かい、プチジャン神父に自分たちはキリシタンであることを打ち明けました。この出来事は「信徒発見」とよばれ、キリスト教史上の奇跡ともいわれています。 上五島の若松島・桐古(きりふる)に住んでいたガスパル与作は、フランス寺が教会であることを知り、父親の許しを得て、大浦天主堂で教理を学び、伝道師となりました。この話は下五島の久賀島にも伝わり、島のかくれキリシタンたちのまとめ役であった帳方(ちょうかた)の栄八と水方(みずかた)の善太も長崎へ赴き、カトリックの洗礼を受けました。1869年(明治2)には伊勢松、善五郎の二人も長崎へ行きましたが、長崎港福田で役人に捕らえられます。メダイを所持していたために嫌疑がかかり、五島住民であることを自白したので、五島藩に送り返されてしまいました。 頭ケ島教会 また上五島の頭ケ島には、上五島随一のキリシタン頭目・ドミンゴ松次郎がいました。父の代に黒崎村出津から鯛之浦に移住し、紺屋として成功しました。のちに頭ケ島に移って、自分の家を仮聖堂とし、青年たちに教理を教えていたといいます。この仮聖堂が「花の御堂」といわれる頭ケ島教会のはじまりといわれています。 久賀島(ひさかじま)での迫害から全島へ 1866年(慶応2)、久賀島。神仏を棄て、キリシタンとして生活したいと代官に申し出た信者23人が捕らえられ、福江の牢へ送られました。しかしこのとき、五島藩では富江騒動が起きたため、23人は久賀島に戻され、キリシタン200人とともに、わずか6坪の牢屋に押し込められました。入牢者の中には乳児もいました。 牢では立ったまま身動きができず、多くはせり上げられた状態で、地に足がついていなかったといわれています。朝夕にサツマイモ1切れずつを与えられるだけだったといいます。衛生状態も悪く、老人や子どもたちをはじめ、次々と命を落としていきました。約8ヶ月の入牢生活で死者は39人、牢から解放された後にも3人が息をひきとったそうです。 プチジャン神父はこの惨状をフランス公使ウートレーに訴えました。外交問題にまで発展したため、外務卿の伊達宗城(むねき)は五島盛徳に対し、領民の中にキリシタンがいてもその処置は長崎府に任せるよう警告したといわれています。 久賀島の牢跡は、「牢屋の窄(さこ)」として、現在も久賀島に記念碑と聖堂が建っています。 また、信徒発見後に信仰を公にした福江島・楠原でも迫害がおこなわれます。1868年(明治元)のクリスマスの晩に水ノ浦、まもなく楠原にも迫害が及びました。33名が楠原の仮牢屋に押し込められ、その後水ノ浦牢に移され、1871年(明治4)に釈放されるまで拷問を受けたといいます。 キリシタンの迫害は五島全島に及びました。 楠原教会 楠原の仮牢屋跡 捕らえられたキリシタンのほとんどは、そろばんのように凹凸のある板を正座した足の上に乗せられ、重さを増やしていく算木(さんぎ)責めという拷問などで棄教を迫られました。また「郷責め」といって、地元住民たちによる迫害が激しかった地域もありました。キリシタンたちを大きな柱に縛りつけ、割れ木や青竹で殴ったり、家財や食料などを奪うこともあったといいます。 1870年(明治3)、上五島の鷹巣(たかのす)では、4人の郷士が新刀の試し斬りと称して、キリシタンの家に押しかけ、妊婦を含む6人を殺害するという事件が発生しました。加害者の郷士4人は長い入牢生活の後、切腹を命ぜられました。この4人の切腹によって、五島でのキリシタン迫害は終息したといわれています。 頭ケ島教会内部 青砂ケ浦教会内部 キリスト教の五島列島への伝来は16世紀です。厳しい弾圧によっていったんキリスト教は途絶えましたが、新たに外海地方から信徒が海を渡り、五島で密かに信仰を守り続けました。 禁教が解かれた後、五島の地においても、信徒たちの手によって教会堂が建設されました。現在、長崎県内には全国のおよそ1割を占める130を超える教会堂がありますが、そのうちの40%が五島列島に集中しています。なかには明治から昭和初期にかけて建築された教会堂もあり、50数棟が現存しています。 五島の教会堂にスポットをあててみると、上五島にある頭ケ島教会や青砂ケ浦教会、下五島・久賀島にある旧五輪教会は、国の重要文化財に指定されています。また、世界遺産登録をめざす「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」※の資産候補となっています。 ※文化庁が国連教育科学文化機関ユネスコへ提出する世界文化遺産の国内候補暫定リストに、2007年(平成19)に掲載されています。 近年、癒しと安らぎを求めて“教会巡礼”に訪れる人も増えているようです。 建材や構造も教会によって異なるので、教会ひとつひとつに見応えがあり、かつその空間の中に安らぎを感じることができるのですが、想像を絶するキリスト教信徒への弾圧・迫害の歴史と、それでも受け継がれて現在も生きるその信仰心や祈る姿にも目を向けると、より一層感慨深いものがあります。 参考資料 旅する長崎学4 キリシタン文化IV『 「マリア像」が見た奇跡の長崎 』 旅する長崎学5 キリシタン文化V『 教会と学校が長崎の歴史を語る 』 旅する長崎学13 海の道III 五島列島『 海原のジャンクション 癒しの島々をめぐる 』 富江町郷土誌(平成16年2月発行) 「海鳴りの五島史」(郡家真一著 佐藤今朝夫発行) 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 歴史散策「富江陣屋跡」 1662年(寛文2)、五島盛清は、現在の富江小学校から富江中学校にかけて富江陣屋を築いたといわれています。 写真は、富江小学校運動場前です。 富江陣屋石蔵跡 富江領の石蔵跡。350年ほど経っても頑丈に残っているこの石蔵は、貴重な遺構の1つです。穀物を保存するために使われていました。 富江から見る鬼岳 富江町にある温泉センター近くから鬼岳がきれいに見えます。透明な海、澄んだ空・・・。島らしい自然を満喫できます。   ●富江の珊瑚 富江の特産品のひとつに「富江珊瑚」があります。1886年(明治19)、大分県の網漁師により、男女群島沖合で赤色の珊瑚が採取されたのが始まりといわれています。大正中期には、採取・加工はますます盛んになり、緻密な平面掘りに工夫を加えた「五島掘り」の技術が確立されました。 富江陣屋跡から福江港へ向かって徒歩10〜15分程度のところにある出口珊瑚では、彫刻法の技術を引き継いできた職人さんの仕事ぶりを見学できます。詳しくは こちら をごらんください。   周辺散策地図 富江小学校 富江中学校 鬼岳 出口珊瑚
  • 幕末の長崎2 2010年12月01日
    幕末の長崎2
    幕末の長崎は西洋の近代技術の窓口としてその役割を果たしたことは、前回お話しました。海軍伝習所をはじめ長崎溶鉄所(長崎製鉄所)、近代医学、洋式採炭技術、英語伝習所、活版印刷など当時の長崎には、新しい技術や科学が入り、根付いていました。その長崎を目指し、日本各地からそれらの技術を吸収したい若者たちが、この“長崎”を目指し、学びました。 さて、幕末の長崎にどんな人々が訪れ、どんな技術を学んでいたのでしょうか。 西洋医学〜シーボルト、ポンペに学んだものたち〜 長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)のシーボルト記念碑(一番右) 1823年(文政6)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは長崎に上陸しました。シーボルトは日本を訪れた西洋人医師の中でもよく知られた人物です。長崎では名医としてシーボルトの名が広まり、治療を受けたいという人々が増え、当時の商館長ブロンホフは奉行高橋越前守に願い出て、外科部屋でシーボルトが診療などを行えるようになったといいます。   また町年寄であった高島四郎兵衛の協力もあり、長崎町内での診療もできるようにな り、その後オランダ通詞吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)や楢林鎮山(ならばやしちんざん)が開いた私塾へも出張し、診療や医学指導をする許可を受けたといいます。 楢林鎮山宅跡 ますますシーボルトの名声は高まり、1824年(文政7)には長崎郊外に診療所も兼ねた鳴滝塾(なるたきじゅく)を設立しました。庭には日本各地でシーボルトが採取した薬草類が栽培されたといわれています。鳴滝塾では、高野長英(たかのちょうえい)や二宮敬作(にのみやけいさく)、伊東玄朴(いとうげんぼく)、戸塚静海(とつかせいかい)、海援隊の二代目隊長を勤めた長岡謙吉(ながおかけんきち)などが学びました。 しかし1828年(文政11)、オランダへ帰国する準備をしていたシーボルトの荷物の中から国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかるという事件(シーボルト事件)が起こりました。その地図を贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保(たかはしかげやす)ほか十数名が処分され、翌年シーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。 1853年(嘉永6)、ペリー提督が黒船艦隊を率いてやってくると、日本は攘夷論と開国論とで揺れ動きます。イギリス・フランスなどの列強国の侵略を防ぐため、江戸幕府はオランダの助力を得て、1855年(安政2)に長崎海軍伝習所を設立しました。1857年(安政4)には、幕府がオランダに注文していた「咸臨丸(かんりんまる)」が第二次教官団とともに入港しました。この第二次教官団の中に、医師ポンペ・ファン・メーデルフォールトがいました。 シーボルトが日本を離れてからも商館医が来日し、有志の者はこれらの商館医に就いて学び、医学教育の成果はあがっていましたが、この状況をみた幕府は、オランダ政府に優れた医師の派遣を要請し、長崎に医学伝習所を設立し、広く伝習することとなりました。 この医学伝習所では、物理学・科学をはじめ、包帯学、解剖学、組織学、生理学、病理学、治療学、調剤学、内科学、外科学、眼科学、法医学、産科学と幅広く講義していたといいます。伝習生でもあり、ポンペの良き相談相手でもあった幕医・松本良順は、諸藩の藩医にも伝習させようと呼びかけ、続々と伝習生が集まりました。越前福井藩の半井仲庵(なからいちゅうあん)や仙台藩の大槻俊斎(おおつきしゅんさい)、福岡藩の前田玄造(まえだげんぞう)、大村藩の長与専斎(ながよせんさい)、佐倉藩の佐藤尚中(さとうたかなか(しょうちゅう))、大坂の緒方洪庵の子・緒方惟準(これよし)などがポンペに就いて学んでいます。また上野彦馬もポンペに化学を学び、これをきっかけに写真術を発展させていきました。 しかし講義が始まった当初は、ポンペは日本語がまったくわからず、オランダ通詞が通訳するのに時間がかかったり、通詞たちが医学用語を理解できなかったこともあり、誤訳も少なくなかったといいます。そのためポンペも日本語を学び、通詞の誤訳もわかるようになり、また伝習生たちも独自にオランダ語を学び、講義の理解を深めていきました。 現在の長崎県庁がある場所は、長崎奉行西役所跡です。ここで講義が行われていました。 当時の長崎奉行西役所の様子です(県庁正門前のレリーフ図より) 1858年(安政5)に長崎で発生したコレラはたちまち九州・中国地方、そして江戸へと飛火しましたが、この時ポンペはその予防と治療に全力を尽くしています。また幕府に要請し、1861年(文久元)長崎に小島養生所を設立させ、本格的な医学教育と近代的な医療活動を開始したほか、梅毒検査と公娼制度廃止を唱えるなど医学教育とともに衛生行政上においても功績を残しています。 1858年(安政5)、日蘭修好通商条約が締結されると、翌年には再渡航禁止の処分を受けたシーボルトが再び長崎を訪れました。シーボルトは、お滝と娘・イネとも再会し、昔の門人たちと交流しながらも研究を続け、1861年(文久元)には幕府に招かれ外交顧問に就いて江戸でヨーロッパの学問などを講義したといわれています。 長崎英語伝習所〜フルベッキと済美館〜 1808年(文化5)のフェートン号事件や、安政の開国以降、諸外国人との間の通訳のため、通詞の活動する場はますます増えました。しかし、開国によってこれまでのオランダ通詞は、単にオランダ語の通訳だけでなく、英語やフランス語、ロシア語などの習得が必要となりました。 そこで1858年(安政5)に長崎奉行は、オランダ商館員デ・フォーゲル及び海軍伝習所の第二次教官団のウィヘルスに、そしてイギリス人フレッチャーが長崎に来たのを機に、この3名に英語の教育を依頼し、英語伝習所を設置しました。この3名の教師のほか、オランダ通詞の楢林栄左衛門(ならばやしえいざえもん)と西吉十郎(にしきちじゅうろう)の両人を学頭とし、通詞や地役人の子弟に英語を教えました。 英語伝習所は1862年(文久2)には現在の片淵町に移されましたが、翌年には長崎奉行所(現立山町)に移り、語学所と改称しました。さらに江戸町の元五ヶ所宿老会所に移り、洋学所と改められ、英語とオランダ語を教えていました。また外国人教授としてフルベッキを迎えました。 フルベッキは、オランダで生まれ育ち、アメリカに移住したのちにアメリカ改革派教会の宣教師となり、1859年(安政6)に長崎を訪れました。宣教師ではありましたが、英語教師として長崎に迎えられました。 洋学所はその後、1865年(慶応元)に新町(現興善町)に校舎を新築移転し、済美館(さいびかん)と改称されました。そして英語・オランダ語のほかにフランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語の諸語学と洋算、歴史、地理、物理、経済などの学問も教えました。教師は19名、生徒は100余名に達し、発展しました。しかし明治に入ると長崎府の管轄となり、広運館(こううんかん)と改称されます。 フルベッキは、1865年(慶応元)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造して作った佐賀藩校英学塾「致遠館(ちえんかん)」の校長に就任しています。教頭として、大隈重信(おおくましげのぶ)・副島種臣(そえじまたねおみ)が指導に当たったそうです。彼らは、フルベッキから英語を習っており、フルベッキの書簡からは、岩倉具視(いわくら ともみ)の子や横井小楠(よこいしょうなん)の甥なども、この致遠館に在籍していたことがわかりました。 のちにフルベッキは東京へ出て、政府顧問となり、日本の近代化につくしました。また、オランダで工学を学んでいたこともあり、本木昌造の活字印刷術にも貢献しているといわれています。   鉛印刷の祖・本木昌造 長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)の本木昌造翁像 本木昌造(しょうぞう)は、代々のオランダ通詞であった本木昌左衛門の養子となります。1853年(嘉永7)にロシア使節プチャーチンが来航したときや1854 年(安政元)にペリーが来航した際、日米和親条約締結の際にも通詞として活躍したといわれています。 1855年(安政2)に設立された長崎海軍伝習所では、通詞として関わりながらもいろいろな技術を学びます。1860年(万延元)には飽浦(あくのうら)製鉄所へも赴き御用掛、主任を経て頭取を勤め、技術者養成、海運、鉄橋架設などに貢献しました。 オランダ人インデマウルから活字印刷の技術を習得すると、1869年(明治2)に長崎製鉄所付属の活版伝習所を設立しました。またフルベッキの紹介で、小形活字鋳造が堪能なガンブルに活字鋳造の伝習をうけ、鉛活字の製法に成功しました。1870年(明治3)には、新しく新町活版所を設け、経営・指導にあたりました。また廃藩置県によって、職を失った武士への授産施設としての役割を果たしていたといいます。その後大阪・東京へと印刷業を発展させていきます。門人には、日本初の日刊新聞である横浜毎日新聞社を創刊した一人である陽其二(ようそのじ)や、築地活版・石川島造船所の創設者でもある平野富二(ひらのとみじ)などがいます。 活版伝習所跡 新町活版所跡 洋式砲術・高島秋帆(しゅうはん) 高島秋帆の家は江戸初期以来、長崎の町年寄をつとめており、父の四郎兵衛は、荻野流砲術に詳しかったといいます。またシーボルトの診療許可に協力した人物でもあります。四郎兵衛が亡くなると、秋帆は長崎会所調役頭取となり仕事のかたわら、砲術を研究し、長崎奉行の許可を得て、自費で大砲や銃を購入したり、出島のオランダ人からオランダ語や砲術を学び、オランダの兵書をとりよせて研究し、高島流砲術を完成させたといいます。 1840年(天保11)には、清国とイギリスとの間で起こったアヘン戦争やフェートン号事件を例に出し、ヨーロッパ式砲術の採用を求める「天保上書」を幕府に提出しました。翌年には門下生100余名と大砲をひきいて、江戸での洋式砲術演習を公開しています。 この演習により、秋帆は幕府から砲術の専門家として重用され、江川英龍(えがわひでたつ)や下曽根信敦(しもそねのぶあつ)、山本晴海(はるみ)、大木藤十郎(おおきとうじゅうろう)、山本物次郎(ものじろう)らに砲術を伝習しています。しかし、幕臣のひとり鳥居耀蔵(ようぞう)から謀反の罪をなすりつけられ、武州岡部に投獄され、高島家の財産まで没収されてしまいます。 1853年(嘉永6)以降、ペリーやプチャーチンが来航すると、赦免されて出獄。その後幕府の砲術訓練の指導に尽力しました。 秋帆から高島流砲術を学んだ江川英龍は、さらに改良した西洋砲術を全国の藩士に教育しました。佐久間象山(さくましょうざん)や大鳥圭介(おおとりけいすけ)・橋本左内(はしもと さない)・桂小五郎(かつらこごろう)なども江川英龍に砲術を学んだといわれています。 日本で最初のプロカメラマン・上野彦馬 長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)の上野彦馬之像 上野彦馬は、俊之丞(しゅんのじょう)の子として長崎で生まれました。彦馬は、写真技術の習得と普及に多大な功績をあげた人物です。日本で最初のプロカメラマンとしても広く知られています。彦馬が開業した上野撮影局には、龍馬や高杉晋作(たかすぎしんさく)、桂小五郎など幕末に活躍した多くの志士たちが訪れました。 彦馬は、オランダ人医師のポンペに舎密学(せいみがく・化学)を学び、それをきっかけに写真に興味をもつようになりました。堀江鍬次郎(ほりえくわじろう)とともに写真術を研究し、1858年(安政5)、二人の共同による手製写真機で撮影に成功しました。このときのモデルは幕府医官の松本良順で、白粉をあつくぬり、5分ほど直立不動の姿勢をとったといいます。 上野彦馬宅跡 当時、写真術に使う薬液も自分で作らなければならず、もともと化学者であった彦馬にして可能なことだったといえます。今に残る写真は、当時の人々や町の様子などを伝えてくれます。彦馬の墓は、風頭公園(かざがしらこうえん)の坂本龍馬像のすぐ側にあります。 日本茶輸出貿易の先駆者・大浦慶 大浦慶居宅跡 大浦慶は、油屋の老舗に生まれました。女性の起業家として注目すべき人物で、当時は誰もおこなっていなかった日本茶の輸出事業を興します。九州各地の茶の産地の生産拡大をはかり、1856年(安政3)、イギリス商人・オルトとの間で1万斤(6トン)の貿易に成功すると、以後日本茶を海外に輸出して莫大な利益を得ました。外国人商人からも、「信用できる日本人」という評判だったといわれています。また大浦慶は、海援隊など勤王志士のスポンサーであったともいわれています。 後に、元熊本藩士・遠山一也とオルト商会との間でおこなわれた煙草の取引の連帯保証人となりますが、詐欺に遭い没落します。 しかし、晩年に日本茶輸出貿易の先駆者として、明治政府から茶業振興功労褒賞を贈られました。   日本の近代化に貢献したトーマス・グラバー トーマス・ブレーク・グラバー 幕末の混乱期を舞台に活躍した人々の中で、忘れてはならない人物の一人にトーマス・ブレーク・グラバーがいます。スコットランド出身のグラバーは、22歳の時に上海から長崎にきて、グラバー商会を設立しました。大浦などの外国人居留地で、生糸や絹織物、木綿織物、蝋、金属製品・陶器・漆器などを取り扱っていましたが、2010年大河ドラマ「龍馬伝」でもおわかりのように、実際には大量の武器や蒸気船などを薩長などに売って巨大な利益を得ていたといわれています。坂本龍馬ら亀山社中が薩摩藩名義で購入した艦船や武器などの多くはグラバー商会から購入しています。また勤王志士らのスポンサーとして、長州藩の伊藤博文(いとうひろふみ)や井上聞多(いのうえもんた)、薩摩藩の五代友厚(ごだいともあつ)らをひそかにヨーロッパに留学させるなど支援していたといいます。 1865年(慶応元)には大浦海岸通りに汽車を走らせるなどして長崎の人々を驚かせ、1868年(明治元)には五代友厚と小松帯刀(たてわき)らと共同で小菅(こすげ)にソロバン・ドックを建設しました。これは日本最古の洋式ドックとして現存するものです。 明治以降は高島炭鉱の経営に当たり、炭鉱開発など日本の近代化に大きな役割を果たしました。 商人トーマス・グラバーの邸宅も現存し、観光地のひとつとなっています。また、グラバーと並んで有名なやり手商人のオルトの邸宅もグラバー園に残っています。オルトは、先に紹介した大浦慶と組んで製茶貿易で巨大な冨を得ました。岩崎弥太郎との関係も深かったといいます。 亀山社中(海援隊)、土佐商会 長崎亀山社中記念館 坂本龍馬をはじめ、亀山社中(海援隊)、そして土佐商会の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)も、幕末の長崎において忘れてはならない人々です。 1865年(慶応元)、幕府機関である神戸海軍操練所が解散すると、龍馬が中心となって薩摩藩の資金援助を受け、この地に社中を結成しました。これが日本初の商社といわれ、拠点とした地名“亀山”と、仲間・結社を意味する“社中”をあわせて、「亀山社中」と呼ばれました。 亀山社中には、神戸海軍操練所の出身者が多く、航海技術を生かして武器などを含む物資の運搬や貿易の仲介をおこないました。1866年(慶応2)には、対幕府軍との下関海戦に参加し、長州藩の勝利に貢献しました。当時、反幕府の立場にあった長州藩に対し、薩摩藩名義で武器や艦船の購入を斡旋するなど、薩長同盟へとつながる大きな役割を果たしたといわれています。この亀山社中には、土佐藩出身で龍馬をサポートしてきた沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)やシーボルトの医学を習い維新後は三河県知事にもなった長岡謙吉(ながおかけんきち)、後に条約改正・日清戦争講和・三国干渉などで手腕を発揮し「カミソリ大臣」と呼ばれた陸奥宗光(むつむねみつ)などがいました。また、亀山社中の活動を支援してきた商人・小曽根英四郎(こぞねえいしろう)も亀山社中が活動するうえで、とても重要な人物です。 現在の「長崎市亀山社中記念館」は、亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を所有されている方のご厚意により、長崎市が当時の姿により近いかたちで復元・整備を行い、2009年(平成21)8月1日に開館したものです。隠れ部屋などもあり、館内には龍馬にまつわる資料などが展示されています。 土佐商会跡 また土佐藩は、1866年(慶応2)に藩の経済活動を盛んにするため、長崎に土佐商会を設置しました。土佐商会は、藩の産物を売り、西洋の武器を購入していたといわれています。岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が主任として駐在し、龍馬の海援隊もここを拠点として活動した時期があったといいます。明治に入ると、弥太郎は海援隊と藩の海運事業を引き継いで、経営者として一本立ちし、のちの三菱財閥を築いています。   参考資料 旅する長崎学1 キリシタン文化I『 長崎で「ザビエル」を探す 』 旅する長崎学8 近代化ものがたり『 長崎は野外産業博物館 』 「郷土史事典」(石田 保著 昌平社出版) 「長崎県の教育史」(外山 幹夫著 思文閣出版) 歴史散策「人工島・出島」 1636年(寛永13)幕府は、南蛮貿易拠点を長崎に移す際に、ポルトガル人などの西洋人を住まわせるために扇形の人工島・出島を作りました。 ●出島 1641年(寛永18)には平戸のオランダ商館が出島へ移り、安政の開国までの218年間は、日本で唯一西洋に向けて開かれた窓口となり、西洋から新しい技術や文化が日本に伝えられました。幕末になって鎖国政策がとかれたあとは、居留地に編入され、一般の外国人も居住することができるようになりました。現在は、国指定史跡「出島和蘭商館跡」に指定されており、オランダ商館員の住まいや倉庫などが忠実に復元されています。 この歴史の上でも重要な出島の周辺をご紹介します。 出島橋 中島川の変流工事の際、1890年(明治23)に中島川河口に新川口橋として架けられました。老朽化のため1910年(明治43)に現在の場所に移設工事され出島橋と名付けられました。現在も併用している道路橋としては日本最古のものです。 長崎電話交換局之碑 1899年(明治32)、九州で最初に電話交換業務が開始されました。当初、昼間は女性、夜間は男性が従事していたといわれています。4年後には女性交換手だけとなりました 。 新地中華街 1698年(元禄11)の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成した。この地域が新地と呼ばれたといいます。 楢林鎮山宅跡 オランダ通詞として1669年(寛文9)小通詞に、1685年(貞享2)に大通詞に進みました。オランダ商館医ホフマン等について医学を修め、楢林流外科を創始しました。 南蛮船来航の波止場 ここは、1570年(元亀元)に長崎港が開港されたときの長い岬の先端部分で、波止場があった場所です。天正少年遣欧使節がローマに向けて出航したのも長崎の港からでした。大村純忠がこの岬に6つの町をつくったことでも知られています。   周辺散策地図 新地中華街 長崎電話交換局之碑 出島橋 楢林鎮山宅跡 南蛮船来航の波止場
  • 対馬藩 2010年11月04日
    対馬藩
    江戸時代、対馬藩は、対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(現在の佐賀県鳥栖市東部及び基山町)と浜崎(現在の佐賀県唐津市浜崎)を治めていました。藩主は宗氏で、初代藩主の義智(よしとし)以来、改易もなく宗氏が治めました。 室町時代の日朝関係はおおむね良好でした。朝鮮半島の三浦(さんぽ)に形成された日本人居留地に住む人々が起こした反乱(三浦の乱)によって、1510年、対馬と朝鮮の関係は一旦断絶状態に陥りましたが、翌年には宗氏が関係復活のための交渉に動き、日朝間のおおむね平和な外交関係を保っていました。ところが、豊臣秀吉による朝鮮出兵[1592年(文禄元)の文禄の役、1597年(慶長2)の慶長の役]により、朝鮮との国交が途絶えることになります。 それまで朝鮮貿易を独占してきた対馬にとって、国交を回復できるかどうかは死活問題でした。しかし、朝鮮出兵による影響は大きく、国交回復を求める対馬の交渉は難航します。こうした状況で江戸時代を迎え、対馬藩はスタートしたのです。対馬藩は、どうやって藩の危機を乗り越えていったのでしょうか。幕末にかけての対馬藩を一緒に見ていきましょう! 朝鮮との国交回復まで 江戸幕府が開かれた当時、徳川政権には外交の実務がなかったこともあり、家康は朝鮮との国交回復の任を宗義智(そう よしとし)に命じました。 内治・外交に藩主の信頼を得ていた柳川調信(やながわ しげのぶ)は義智とともに、朝鮮へ書を送ったり、朝鮮出兵時に日本へ連行した人々を送還するなどして、国交回復に努力します。 国交回復の条件として朝鮮側が示したのは二つ。一つめは、朝鮮出兵の際に先王の陵墓を荒らした犯人を捕らえて朝鮮へ連行すること。二つめは日本から先に国書を送ることでした。一つ目の件は対馬の罪人2人を送ることにしましたが、二つ目に関しては、先に国書を送ることは朝鮮への恭順を意味するため、幕府が条件を承諾することは到底不可能でした。そこで、義智と柳川調信・智永(としなが)父子、景轍玄蘇(けいてつげんそ)らは国書を偽造し、朝鮮へ送りました。さらに1607年(慶長12)、朝鮮の使者が江戸城で将軍・徳川秀忠に朝鮮国王の返書を渡す際、先に送った偽造国書への返書とばれないように、「奉復」を「奉書」と書き直す改ざんや朝鮮国王印の偽造などをおこないました。 外交僧玄蘇や弟子規泊玄方(きはくげんぽう)らが居住していた以酊庵(西山寺) 以後も対馬藩は偽造と改ざんというかたちで朝鮮と幕府の仲介役を演じ、1609年(慶長14)、ついに国交回復の約条を結ぶこと[己酉(きゆう)約条]に成功します。 こうして対馬は、やっとの思いで朝鮮との貿易を再開することができました。 柳川一件 1635年(寛永12)、対馬藩主・宗義成(そう よしなり)を追い落とそうとした有力家臣の柳川調興(やながわ しげおき:柳川智永の子)が、国書偽造と改ざんを繰り返した対馬藩の実態を幕府に訴えました。調興は、幼くして義智の後継者として襲封した義成と、所領地の問題や調興自身の専横などで、たびたび対立していました。 この訴訟内容には、幕府政策の日朝交易に関わる重要問題が含まれていたため、幕府は役人を対馬へ派遣させて詳しく調べさせ、最終的に将軍・徳川家光が自ら関係者を呼び裁決することとなりました。義成は、この国書偽造と改ざんの内容について関知しておらず、一応義成の勝利に落着しました。この事件は「柳川一件」とよばれています。 朝鮮通信使 朝鮮国通信使之碑 朝鮮は、鎖国体制下で幕府が正式に外交関係を結んだ唯一の外国でした。両国の修好を目的とし、朝鮮国王の国書を日本の徳川将軍に届ける使節のことを「朝鮮通信使」といい、幕府は国内に威信を示すため、国家的行事として一行を迎えました。宗氏の要請で、通信使が再開したのは、1607年(慶長12)のこと。その後、約200年の間に12回の使節を迎えています。「通信」とは、“信義を通わす”という意味です。 使節一行の総勢は300人から500人にものぼりました。使節の中には官僚のほか、朝鮮を代表する多くの学者や文化人も含まれていました。朝鮮通信使は、外交面だけでなく文化交流においても大きな役割を担っていたのです。当時、この行列を見物した日本人たちは、そのあまりの絢爛さに驚き、目をうばわれたといいます。 対馬アリラン祭りの行列の様子 1回の通信使の対応に、前後3年間はその準備や後処理に時間を費やしたといいますから、どれだけ重要で壮大なイベントであったかがわかります。 現在では毎年8月に対馬でおこなわれる「対馬アリラン祭り」において、色鮮やかな衣装を身にまとった朝鮮通信使の行列が再現されます。この祭りには韓国の人々も参加して交流し、島民と一緒になって祭りを盛りあげています。 長崎県立対馬歴史民俗資料館 長崎県立対馬歴史民俗資料館には、「朝鮮国信使絵巻」の資料が揃っており、当時の様子をうかがうことができます。入館料は無料ですので、ぜひ立ち寄ってみてください。 動画で見る歴史スポット【第12回】「 日朝のかけ橋 朝鮮通信使 」のアニメーションで詳しくみることができるよ! 宗義真(よしざね) 宗義成の亡き後、第3代藩主として義真が封を継ぎます。義真の治世では、朝鮮との貿易も順調で、財政も豊かでした。多くの土木事業をおこない内政を整え、「中興の英主」とまでいわれています。1672年(寛文12)におこなった、大船越(おおふなこし)瀬戸の堀切(ほりきり)によって、浅茅湾(あそうわん)の東西に水路をひらくことに成功しました。この事業で対馬は2つに分断されますが、船で積み荷をおろしていた人々にとっては、東西に船での出入りが可能となり便利になったといいます。 お船江 また全島の検地をおこない、土地の等級により租率を定め、禄制の改革にも取り組んでいます。 1663年(寛文3)、久田(くた)村に御用船の停泊所として人工で築かれたお船江(ふなえ)は、4基の突堤と5つの船渠がありました。今も当時の原状をよく残しているお船江跡は貴重な遺構であり、県の史跡に指定されています。 1689年(元禄2)、対馬藩は藩財政の生命線である朝鮮外交の体制を維持する目的で、記録文書の整理や保管をおこなう「朝鮮方」を設置し、制度の見直しや理論化をおこなうために、藩外から雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)を採用します。これも義真の時代でした。 「誠信之交隣」碑 芳洲は対馬藩の外交方針として「誠信之交隣」を提唱する『交隣提醒(こうりんていせい)』をまとめ、朝鮮通詞の養成にも力を入れました。 “交隣”とは、隣国と対等に交わることで、本来朝鮮で使われた外交用語です。芳洲は「互いに欺かず、争わず、真実を以て交わる」と方針を説き、朝鮮外交と友好親善に努めました。 対馬の幕末「ポサドニック号」 1853年(嘉永6)、ペリー提督が黒船艦隊を率いてやってきたことにより、江戸幕府の鎖国政策は危機を迎えました。朝鮮や中国、ロシアと近い場所に位置する対馬にとっても、外国船の来航は重大な問題でした。 当時インドを植民地としていたイギリスは、その勢いで極東へと進み、ロシアの南下を恐れてロシアを封じ込めようとしていました。 1859年(安政6)、イギリス艦アクチオン号が浅茅湾(あそうわん)の入口にあたる尾崎浦に停泊し、乗組員たちは湾内を勝手に測量して上陸し、対馬の村を歩き回ったため、大騒ぎとなりました。20日あまり滞在した後、同艦は釜山へ向け出航しましたが、朝鮮の倭館にも立ち寄ったのでここでもひと騒動あったといいます。 こうしたイギリスの行動に触発され、ロシアも動き出しました。1861年(文久元)、ロシアのポサドニック号が対馬の尾崎浦に現れ、芋崎(いもざき)を占拠しました。箱館から対馬まで来る途中で船を損じたため修理をさせてほしいという理由だったのですが、これが長引き、最終的には半年ものあいだ滞在しました。その間、対馬藩番兵による殺傷事件をはじめ、ロシアと日本のあいだで種々のトラブルが発生したので、藩も幕府も手を焼きました。 このロシアの芋崎占拠に対してイギリスは激しく抗議し、日本の要請なしでもイギリスの東インド艦隊を呼び寄せてロシア艦を排除すると通告したため、ポサドニック号は退去しました。ポサドニック号による芋崎占拠事件は「ポサドニック号事件」とよばれ、藩・幕府ともに単独では外国との問題を解決できないほど弱体化していることを明かにしてしまうこととなりました。 ここから、対馬も幕末に向かって動き出すことになります。 続きは、次回の「対馬藩2」で。お楽しみに! 参考資料 旅する長崎学12 海の道III『 朝鮮外交への道 』 歴史散策「金石城跡周辺」 厳原(いづはら)は、宗氏が1486年(文明18)に佐賀(さか:峰町)から移館して以降、約380年間続いた城下町です。対馬藩時代の藩主にまつわる地や朝鮮通信使ゆかりの地など、格式ある10万石の城下町を歩きながら、日朝関係の継続に尽力した歴史を想像してみましょう! ●金石城跡 1528年(享禄元)に起こった宗盛治の兵乱で、宗氏の「池の館」は炎上焼失しました。その後、清水山のふもとの島分寺(国分寺)があったと伝えられる金石(かねいし)に、宗将盛(まさもり)は館を移して「金石の館」と称しました。そして1699年(寛文9)に宗義真(よしざね)が城郭を改修し、櫓を築いて、「府城(ふじょう)」または「金石城(かねいしじょう)」とよばれました。 ● 旧金石城庭園 2008年(平成20)の発掘調査により遺構の全容が明らかになりました。 玉砂利敷きによる洲浜は奈良時代から平安時代にかけて流行した様式で、近世庭園としては希少な意匠と構造をもっています。対馬独特の風土を活かした作庭精神と骨格がきわめて良好なことから、2007年(平成19)に国の名勝指定を受けました。 見学料:一般300円 小・中学生100円 休園日:火曜日・木曜日 ●万松院(ばんしょういん) 「対馬藩主宗家墓所」として国の史跡に指定されています。宗家墓所は、金沢の前田家、荻の毛利家の墓地とともに日本三大墓地といわれています。 1615年(元和元)、対馬藩2代藩主の義成(よしなり)が、朝鮮出兵・関ヶ原の戦い・朝鮮国交回復と苦難を重ねた初代藩主・義智(よしとし)の供養のため、金石屋形の西の峰に松音寺を創建しました。 拝観料:大人300円 高校生200円 小・中学生100円 ●以酊庵(いていあん) 宗義調(よししげ)に招かれた博多聖福寺の景轍玄蘇(けいてつげんそ)が、対馬にひらいた禅寺を以酊庵とよびました。 以酊庵は何度か場所を変わりましたが、1732年(享保17)に西山寺に移りました。朝鮮通信使の宿泊所にも使用されました。 周辺散策地図 金石城跡 旧金石城庭園 万松院 以酊庵 長崎県立対馬歴史民俗資料館
  • 島原藩 2010年10月06日
    島原藩
    関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康軍)に参加し、本領を安堵された有馬晴信(ありまはるのぶ)が、島原藩の初代藩主となりました。有馬晴信は熱心なキリシタン大名で、天正遣欧使節をローマに派遣するなど、島原藩にキリシタン全盛期をもたらせました。 しかし、2つの事件をきっかけに、幕府のキリシタンへの不信感が募ることとなります。ついには「島原の乱」が発生し、乱後の処理によって島原藩は大きく変わっていきます。 幕末にかけて、島原藩はどのような変化を遂げていったのでしょうか・・・。 ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件と岡本大八事件 1609年(慶長14)、有馬晴信の朱印船がマカオに寄港した際、晴信の家臣を含む日本人はポルトガル船の船員と口論になり、暴動を起こしてしまいます。当時マカオでポルトガル貿易の指揮をとっていた長官は、暴動解決にあたりますが、結果的に多数の日本人が殺害され、積荷を略奪されるという事件に発展しました。 家臣を殺害された有馬晴信は、翌年、長崎沖まで来たノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を、長崎奉行・長谷川左兵衛藤広らとともに30隻の船で包囲しました。幕府の報復処置の命令もあったことから捕獲しようとしましたが、ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号は火薬庫に火を放ち爆沈してしまいました。 この事件で、徳川家康の側近・本多正純の近臣であった岡本大八(おかもとだいはち)は有馬晴信の目付役として同行しており、晴信に対し有馬氏の旧領地であった肥前の一部を与えると偽の辞令書を無断で与えました。そして大八は、晴信から本多正純への口利きの謝礼として、多額の金品や資金を受け取りました。しかしなかなか旧領地の恩賞の通達がないため、晴信は直接本多正純に面会し催促したところ、収賄事件として発覚したのです。大八は火刑に処されることになりましたが、牢内で「晴信が長谷川左兵衛藤広の暗殺を企てている」と訴えました。嫌疑をかけられた晴信は身の潔白を証明することができず、斬首となってしまいます。 この事件で処刑された晴信と大八は二人ともキリシタンであったため、幕府はキリシタンへの不信感が高まりました。 有馬直純の天封、島原の乱 有馬晴信の子・有馬直純(なおずみ)が晴信の跡を継ぎます。直純は、キリシタンであった小西行長の姪と結婚していましたが、家康の曾孫である国姫と再婚しています。後見人の長崎奉行・長谷川とキリシタン嫌いだった国姫が結託して、キリシタンへの迫害は強化されましたが効をなさず、1614年(慶長19)、直純は宮崎県の日向に領地を移されました。その後1616年(元和2)に松倉重政(まつくらしげまさ)が入るまで、島原は幕府の直轄地とされました。 松倉氏は、一国一城令により日野江城(ひのえじょう)と原城を廃し、1618年(元和4)から島原城(森岳城)と城下町を新たに築きます。領民に重税と労役を課し、7年もの歳月をかけて立派な城を完成させました。領民にはキリシタンが多く、当初はキリスト教布教を黙認していた松倉氏でしたが、徳川家光から叱責され、一転して厳しい迫害を始めます。 雲仙地獄もキリシタンの拷問に利用されました。信仰を棄てさせるためにすぐには殺さず、煮えたぎる熱湯を使ってじわじわと長い苦痛を与えたといわれています。 松倉重政の死後、後を継いだ松倉勝家(まつだいらかついえ)はさらに重税を課し、連年の凶作にもかかわらず、領民から強引に年貢を取り立てました。口之津の庄屋の妊婦を拷問死させたことなどから、あまりのことに憤慨した領民らが島原半島南部の村々の代官を次々と襲いました。これが島原の乱のきっかけといわれています。 (「 島原の乱 」を詳しくみる ) 松倉勝家は、島原の乱の責任を問われ、領地を没収され斬首となりました。幕府は、島原の乱を機にキリスト教布教の禁止、密告制によるキリシタン摘発など、さらに取り締まりを強化し、イエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶、九州大名による長崎港の警備を強化することで、鎖国を完成させていくことになります。 原城跡(櫓台石垣跡上からの見晴らし) 日野江城跡 島原の復興 幕府は、遠江国浜松城主の譜代大名(関ヶ原の合戦以前からの徳川家家臣で、幕府の要職に就いた大名)・高力忠房(こうりきただふさ)を島原藩主としました。高力氏は島原の乱後の処理を中心に、長崎警固の責務を受け持つこととなりました。また九州は外様大名(譜代大名に対し、関ヶ原の合戦以降に徳川氏に帰属した大名)が多かったため、各藩の監視役を兼ねていたともいわれています。高力氏は近隣諸藩から農民を移住させ、特に荒廃が著しい島原半島南部の農村復興につとめました。しかし、1655年(明暦元)に忠房が京都で客死すると、子の高長(たかなが)が藩主となります。しかし、藩財政のために農民への課役を強いたため、高力氏は領地や知行を没収される結果となりました。 その後幕府は、1669年(寛文9)に丹波福地山城主である松平忠房(まつだいらただふさ)を島原藩主に任命しました。この時から豊前国宇佐郡と豊前国東郡から約2万石が加増され、島原藩の財政が強化されました。 松平忠房(まつだいらただふさ) 松平忠房は、検地を実施し、村役人を整備して農村の掌握をおこないました。また好学で、文武振興にもつとめたそうです。和漢・軍学・武術・和歌・俳諧と幅広く学んでおり、儒学者であった林羅山の子・林鵞峰(はやしがほう)や譜代大名・榊原忠次(さきばらただつぐ)などと交遊が深かったといわれています。 さらに忠房は、多くの蔵書・写本を収集しており、今日残っているだけでも3,000部、1万冊に及んでいます。これらの蔵書は、今日「松平文庫」とよばれており、神道や仏教、儒教、歴史、地理、政治、経済、教育、風俗、医学、自然科学、産業、芸能、武道、和歌、漢詩など多種多彩に揃っています。 1793年(寛政5)に松平忠馮(ただより)が藩校「稽古館」を開設すると、学生たちもこの松平文庫を閲覧し勉強できたそうです。 島原大変 1749年(寛延2)、当時の藩主・松平忠刻(まつだいらただとき)は、参勤交代のために江戸に赴く途上で急死しました。子である忠祗(ただまさ)が12歳の若さで家督を継ぎますが、下野宇都宮藩の戸田忠盈(とだただみつ)と交代するかたちで宇都宮に移ります。忠祗の弟の忠恕(ただひろ)が家督を継承すると、1775年(安永4)に再度戸田氏と交代し、島原藩に戻ってきました。 島原城や観光復興記念館には島原大変の資料があります。 1792年(寛政4)、雲仙普賢岳が噴火し、その後眉山が崩壊し大量の土砂が島原の街を通って有明海へ向かって流れ落ちました。この災害は「島原大変」とよばれ、この時の死者は約5,000人といわれています。さらに有明海に流れ落ちた土砂の衝撃によって発生した高波が、島原の対岸の肥後国天草に襲いました。これを「肥後迷惑」とよんでいます。また肥後の海岸で反射した返し波が再び島原を襲いました。津波による死者は約1万人といわれています。 当時の藩主・忠恕は被災地の巡視をおこないましたが、心労が重なり逝去、後を継いだ忠馮(ただより)は領民の救済のため、江戸幕府から1万2,000両を借用しました。 櫨の果皮を粉にして蒸し、蝋船で圧縮し蝋液を絞り出していました。 この返済に役立ったのが、櫨(はぜ)の実でした。島原藩では以前から櫨の木を植林し製蝋(せいろう)を奨励していました。製蝋は島原藩の重要な産業のひとつだったのです。1804年〜1830年(文化・文政期頃)には櫨の値段が下落しましたが、1843年(天保14)には3,000両ほどの利益を得たといいます。また島原藩の蝋は、厳格な検査をおこなっていたので商人の信用もあり、他藩製の蝋よりも高額で販売されていたそうです。 島原藩校「稽古館」、「済衆館」 稽古館跡 松平忠房以降、松平氏は学問に積極的に取り組んでおり、忠恕は藩校創設の意図をもっていたといわれています。しかし島原大変により実現はできませんでした。忠恕の後を継いだ忠馮が、父・忠恕の遺志を引き継ぎ、1793年(寛政5)に藩校「稽古館(けいこかん)」の創立に踏み切りました。現在の島原市先魁(さきがけ)町の地にあたります。 1834年(天保5)、忠侯(ただこれ・ただよし)のときには拡充され、学生増加を奨励し、さらに医学校「済衆館(さいしゅうかん)」を創設しました。済衆館の医学はもともと稽古館の学科の中に含まれていたものですが、医学校兼病院済衆館として独立開校したものです。藩医・医学生に限らず、領内の開業医も随時入校し、研修を受けることができたといいます。 済衆館では、藩医・市川泰朴(いちかわたいぼく)が、1844年(弘化元)に同じ藩医・賀来佐之(かくすけゆき)の協力のもとに死体解剖をおこなっています。その際、絵師に描かせた人体解剖図が貴重な資料として島原城に保存・展示されています。 旧島原藩薬園跡 賀来佐之は、豊前国宇佐郡出身でシーボルトの鳴滝塾に学び、1843年(天保14)に島原藩医に招かれました。薬園開設の命を受け、済衆館の庭園に薬草類を栽培しました。しかし、栽培するには土の条件が悪く、土地も狭かったため、1846年(弘化3)に雲仙岳のふもとに薬草類を移しました。これが現在残っている旧島原藩薬園跡です。 旧島原藩薬園跡 小藩の薬草園とはいえ、全国的にも稀にみる遺構をとどめた史跡であることから、1929年(昭和4)に日本三大薬園跡として国の史跡指定を受けています。あとの2園は奈良県の森野旧薬園と鹿児島県の佐多旧薬園です。 現在の旧島原藩薬園跡では、薬草を身近なものとして親しんでもらえるよう、薬用植物を栽培し、薬園を再現しています。気軽に立ち寄って薬草の効果を学んだり、旬の薬草を使った薬草料理を作って味わう体験もできます。詳しくは島原市教育委員会へお問い合せください。(TEL:0957-68-5473) 参考資料 旅する長崎学3 キリシタン文化III『 26聖人殉教、島原の乱から鎖国へ 』 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 歴史散策「島原城下町」 ■武家屋敷・武家屋敷水路 島原城の築城とともに形成されました。中央を流れる清水は熊野神社を水源とし、飲料水として使われ、水奉行によって厳重に管理されていました。現在、保存されている武家屋敷は、山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒で一般に無料開放されています。 島原城 松倉重政藩主時代に7年の歳月をかけて築かれました。明治に入り、城壁だけを残して解体されてしまいましたが、1960年(昭和35)以降復元されました。 鯉が泳ぐまち アーケードすぐそばの水路には鯉が放流されており、住民の皆さんの管理の下「鯉の泳ぐまち」を形成し、道行く人々の目を楽しませてくれます。 白土湖 1792年(寛政4)の島原大変時、噴火の時に陥没してできたといわれています。清水がこんこんと湧き出て、水の都のシンボルともなっています。 周辺散策地図 武家屋敷通り 島原城 鯉が泳ぐまち 白土湖
  • 五島藩 2010年09月08日
    五島藩
    五島藩(福江藩)は、1603年(慶長8)に五島玄雅(ごとう はるまさ)が徳川家康に謁し、1万5千石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まります。1869年(明治2)の版籍奉還まで、長崎県の五島列島(小値賀島を除く)を五島氏が治めました。 五島藩を知るには、五島氏の歴史を知る必要があります。ちょっとさかのぼって鎌倉時代の五島列島から見ていきましょう! 宇久氏 五島列島の上に位置する「宇久島」。この島には、鎌倉時代、宇久氏がいました。当時宇久島の南にある「小値賀島」では松浦氏と藤原氏が争っていましたが、宇久氏が徐々に南下し、中通島へ勢力を広げていきました。1383年(永徳3)頃、宇久覚(さとる)は、宇久島から福江島の鬼宿(現在の岐宿:きしく)に移り、福江島の在地勢力との間で契諾状を交わし、平和的に領土を拡大していきます。1388年(嘉慶2)には宇久勝(すぐる)が岐宿から深江(現在の福江)に移り辰ノ口城を築き、1413年(応永20)には小値賀島を除く五島列島を統一したといいます。 玉之浦納(たまのうらおさむ)の乱、宇久氏から五島氏へ 1507年(永正4)、宇久囲(かこむ)が、妹婿の玉之浦納の反逆によって命を落とし、辰ノ口城は焼失しました。妻子はなんとか平戸に逃れ、その後1521年(大永元)に囲の子・三郎(のちの宇久盛定)が玉之浦納を討ち、再興を果たします。 1526年(大永6)、領主となった盛定は、あらたに深江(福江)川河口の丘に江川城を築き、近くには中国人倭冦の頭・王直(おうちょく)に「唐人町」を開かせたといいます。福江川付近には、唐人町の名残りとして「明人堂」や「六角井戸」が史跡として今も残っています。 1592年(文禄元)には、宇久純玄(すみはる)が、姓を「宇久」から「五島」に改めました。豊臣秀吉の朝鮮出兵や天下分け目の関ヶ原の戦いなどを得て、五島玄雅(はるまさ)が五島藩初代藩主となり、世の中の動きに翻弄されつつもその歴史を刻んでいきます。 明人堂 六角井戸 五島におけるキリスト教 宇久盛定の後継・純定(すみさだ)は病に伏し、1562年(永禄5)、イエズス会に要請して派遣されてきた日本人医師ディエゴの治療を受けました。その後、純定はシャム(タイ)から五島経由で平戸に入るポルトガル船に宣教師派遣を頼み、1566年(永禄9)にポルトガル人修道士アルメイダと日本人修道士ロレンソを迎え入れたといわれています。医師でもあったアルメイダは純定の高熱の治療をおこなって信頼を得ると、五島での宣教を許されました。こうして五島におけるキリスト教の歩みが始まります。 その後信徒の数は増え、純定の次男・純尭(すみたか)は洗礼を受け、1576年(天正4)に領主となると熱心に信仰しました。福江や奥浦(おくうら)、六方(むかた)に教会が建ち、信徒は2000人を越え最盛期を迎えます。 しかし、純尭がわずか3年で没すると、後継の純玄(すみはる:純定の孫)は、キリスト教を排斥しました。純玄が朝鮮出兵で死亡すると、純定の三男でキリシタンの五島玄雅(はるまさ)が跡を継ぎ、いったんはキリスト教も再興しますが、関ヶ原の戦い後、加藤清正らの勧めによって棄教しました。その後も宣教師たちは来島していましたが、1614年(慶長18)に発令された徳川幕府の禁教令を受け、後継の五島盛利は宣教師を追放し、弾圧を強化しました。 福江直り 五島藩の2代藩主・五島盛利(もりとし)は、初代藩主・玄雅(はるまさ)の養子として跡を継ぎます。1619年(元和5)に玄雅の息子・角右衛門の養子であった大浜主水(おおはまもんど)が、後継者としての権利を主張するとともに盛利の失政を幕府に直訴しました【大浜主水事件】。この事件を機に、五島藩は藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築いていきます。兵農分離を徹底し、全島から家臣たちを集めて福江城下へ移住することを強制しました。島の各地で勢力をたくわえる者がでないようとおこなわれた城下定住の政策は、「福江直り(ふくえなおり)」とよばれ、1634年(寛永11)に完了します。また、領内の検地を実施し、家臣たちの知行高を決定して、藩財政の立て直しもおこないました。 「三年奉公」制度 五島盛利の時代までは、朝鮮半島に歳約船2艘を送るなど、海外貿易で利益を得ており、財政は比較的豊かであったといいます。しかし1614年(慶長19)、五島藩の自由貿易港である江川口と唐船之浦(とうせんのうら)の二港が閉鎖されると藩財政はひっ迫してきました。 さらに4代藩主・五島盛勝(もりかつ)の時代には叔父・盛清(もりきよ)が3,000石を持って富江に分知し、五島藩から分かれたことも経済的に大打撃を受けました。捕鯨で一時は潤ったものの、捕鯨の衰退や異国船に対する沿岸防備役として課せられた軍役負担、異国船漂着時の取り調べや長崎への曳航費用の負担、1681年(天和元)から寛保、宝暦と続いた飢饉などによって、財政はどんどん苦しくなりました。 財政の立て直しを図るため、質素倹約に努め、知行の一部を返上させたり役人の数を減らしたりもしましたが、それでも足りず、1761年(宝暦11)、7代藩主・盛道(もりみち)のとき、五島史上悪政のひとつといわれる「三年奉公(ぼうこう)」が実施されました。 富江陣屋跡 五島盛清は、富江小学校の運動場あたりに富江陣屋を築いたといいます。 三年奉公は、百姓、町人の娘が2度離別されると、武家屋敷で3年間の無報酬奉公をさせるというもの。しかし2年後には、百姓、町人、職人、漁師の長女を除く娘たちはすべて、15、6歳になると家中奉公をさせられるようになり、半奴隷的な労働を課せられたといいます。そのうえ無調法があれば、結婚することに対してまで制裁がなされていたといいます。驚くことにこの制度は、明治初期まで約100年間続きました。 五島観光歴史資料館 五島におけるキリシタン関連の資料が揃っています。 1774年(安永4)、五島藩では人別改めがおこなわれました。その結果、百姓が激減していることがわかり、1792年(寛政9)、8代藩主・五島盛運(もりゆき)は大村藩に農民移住を要請しました。第一陣は福江島の六方(むかた)に108人が上陸、最終的には3,000人ほどが海を渡って、宇久島を除く五島列島各地に分散して移住したといいます。この移住者のほとんどが西彼半島(せいひはんとう)西側の外海(そとめ)の人々で、信仰保持の苦難に悩んでいたキリシタンでした。移住者たちは荒地を開墾しながら小さな集落をつくり、帳方・水方などの組織のもと、ひそかにキリスト教の教えを守り続け、その信仰を貫いていきました。 五島藩校・育英館 五島藩の教育は、8代藩主・五島盛運(もりゆき)の時に始まりました。盛運は江戸藩邸に居た当時、儒者・永富独嘯庵(どくしょうあん)に付いて儒学を学びました。盛運は、石田陣屋(のちの石田城)内の一角に藩校・至善堂を創設し、1780年(安永9)には独嘯庵の子・数馬を教授として福江に招きました。1783年(天明3)、全藩士に文武両道を奨励し、盛運自らも出席していたといいます。 1821年(文政4)、9代藩主・五島盛繁(もりしげ)のとき、城下東町に新たに校舎と演武場が建てられ、藩校は発展していきます。名称も至善堂から育英館と改められました。 1849年(嘉永2)には10代藩主・五島盛成(もりあきら)が新たに石田城を築いたため、城内北部に藩校を移しました。 育英館では漢字の修学が重視されました。和学、兵学、そして幕末期には算術も加えられました。生徒の主体は藩士の子弟で、7〜8歳になると入学させられました。足軽などの子弟は各自の意思により入学ができました。農工商の子弟は、ほとんど入学することはありませんでしたが、特に希望する者は入学が許可され、優秀であればその身一代のあいだ藩士として挙用し、米なども若干支給されたといいます。 次回の「歴史発見!長崎幕末編」五島藩の2回目では、富江領と幕末に起こった「富江騒動」、「信徒発見後のキリシタン」を中心に紹介していきます。 参考資料 旅する長崎学13 海の道III『 五島列島 万葉と祈りの道 』 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版) 「海鳴りの五島史」(郡家真一著 佐藤今朝夫発行) 歴史散策「石田城(福江城)跡周辺」 五島列島には、多くの異国船の接近や漂着がありました。長崎港での貿易を許されていたオランダと中国の船はもちろんのこと、イギリスやロシア、さらには朝鮮の船など多くの外国船の記録が残されています。五島藩は幕府から異国船方を命じられていましたが、1614年(慶長19)に江川城が焼失した後、本丸・天守閣などがない石田陣屋を築いただけでした。異国警備にあたる五島藩としては心もとなく、再三にわたり幕府に築城の許可を願いでていましたがなかなか許されませんでした。 寛政年間から幕末にかけて、ロシア、アメリカ、イギリスなどの列強国が来航し、鎖国政策をとっていた日本に開国を迫るようになります。さらに1808年(文化5)には、イギリス軍艦が長崎港に侵入し、オランダ人を拉致し、当時の長崎奉行が責任を取って切腹するというフェートン号事件が起きました。こうした情勢により、幕府は1849年(嘉永2)、五島藩に築城許可を与えました。石田城は、日本で最後に築城された城となりました。 石田城(福江城)跡 15年の歳月をかけて、三方を海に囲まれた海城・石田城は完成しました。しかしながら、日本はその後すぐに明治維新を迎え、石田城はわずか築城9年にして解体されてしまいます。現在は、本丸跡に県立五島高等学校、二の丸跡には五島家の祖を祀る城山神社をはじめ、文化会館、五島観光歴史資料館、市立図書館が建ち並んでいます。 五島氏庭園・心字が池 石田城完成間近に五島盛成が隠殿と庭園を造りました。庭園を造ったのは京都の僧・全正(ぜんしょう)といわれています。 本丸跡 石田城の本丸跡には、現在五島高校があります。 城山神社 五島家の氏神を祀っている神社です。 武家屋敷通り 石田城から歩いて10分ほどのところに武家屋敷通りがあります。2代藩主・五島盛利が中央集権体制をめざして各地に散在していた豪族や藩士を福江に住まわせた政策、「福江直り」の時につくられました。通りには市の文化財に指定されている松園邸と播磨邸跡があります。城下町の風情が漂い、観光スポットして多くの人々が訪れます。 常灯鼻 福江港から見えるところに常灯鼻があります。五島盛成が石田城を築城するにあたり、城の北東から吹き寄せる大波を防ぎ、築城工事を容易にするために築かせたといわれています。防波堤としての役割のほか、灯台としての役目も持っていました。   周辺散策地図 石田城跡 五島氏庭園・心字が池 本丸跡 城山神社 武家屋敷通り 常灯鼻