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近代化に向けて

  • 大村藩 2010年08月04日
    大村藩
    少し時代をさかのぼり、日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠の生涯からご紹介します。純忠は、横瀬浦、福田、長崎を開港し、ポルトガル船を入港させ南蛮貿易をおこない、天正遣欧少年使節をローマへ派遣しました。戦国領主として苦しい領国経営を迫られるなか、中世から近世に移る時代の狭間で西洋文明と出会った彼は、海外への見果てぬ夢を抱いていたのでしょうか。   キリシタン大名 大村純忠 1533年(天文2)、大村純忠は、島原半島を治める有馬晴純(はるずみ)の次男として生まれましたが、大村純前(すみさき)の養子となり、17歳で大村家を相続します。しかし、大村家にはひとりの男子がすでにいました。純忠が大村家に迎えられる前に、武雄の後藤純明(すみあきら)のもとへ養子に出され、後藤家を相続した後藤貴明(たかあきら)です。この養子縁組により、貴明は純忠に恨みを持つようになり、生涯にわたり純忠を攻撃しました。 横瀬浦史跡公園(西海市) 1561年(永禄4)、平戸で起こった宮の前事件などにより、ポルトガル船は平戸から撤退しました。平戸に代わる港を探していたイエズス会は、西彼杵半島(にしのそのぎはんとう)の北端にある大村領の横瀬浦(現 西海市西海町)を視察し、純忠と開港協定を結びました。1562年(永禄5)、横瀬浦は貿易港として開港することとなります。 ポルトガルとの貿易は莫大な利益をもたらしましたが、貿易とキリスト教布教は切り離せない関係にありました。純忠はポルトガル貿易における免税、キリスト教布教の自由、教会の建設などの特権を与えたといいます。翌年には、重臣たちとともに自ら洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となりました。そして横瀬浦には教会が建てられ、多くの商人たちで賑わったといいます。 しかし1563年(永禄6)、キリシタンとなった純忠を快く思わない仏教徒の家臣らが、後藤貴明らと結託し、謀反を起こします。横瀬浦の港は焼き討ちに遭い、開港からわずか1年あまりで壊滅してしまいます。 その後貿易港は大村領内の福田へと移りますが、今度は平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)によるポルトガル船襲撃などもあり、最終的に長崎が開港することとなりました。外海に直接面するために風や波が激しかった福田と比べ、長崎は貿易港に適した天然の良港でした。 天正遣欧少年使節顕彰之像 長崎空港から大村市内へ向かうと右手に見えます 長崎の開港後、港に突き出た長い岬には新しい町が誕生して賑わいます。しかしながら、隣接する西郷氏や深堀氏の度重なる攻撃をはじめ、龍造寺氏の圧力、有馬氏の口之津開港の動きなど、純忠を取り巻く情勢は町の繁栄と反比例するかのように厳しく、悪戦苦闘の日々でした。こうしたなかで勢力を保とうとする純忠は、長崎と茂木をイエズス会に寄進することを巡察使ヴァリニャーノに申し入れるという策を講じました。 天正夢広場 JR大村駅から徒歩2分のところにあります。 純忠は、1582年(天正9)には、九州のキリシタン大名である有馬晴信、大友宗麟(そうりん)とともに、ローマに使節団を派遣します。名代として遣わされたのは、正使に伊藤マンショと千々石ミゲル、副使に中浦ジュリアンと原マルチノ。4人のうち3人は大村氏ゆかりの少年で、皆わずか13歳前後での旅立ちでした。ヨーロッパに一大センセーションを巻き起こし、西洋の文化を携えた使節は、8年半の歳月を経て帰国し豊臣秀吉と謁見、その後の彼らはそれぞれ波瀾万丈の人生を歩みました。   晩年の純忠は領主の座を退き、坂口(現在の大村市)に隠居しています。病気を患いながらも、宣教師たちに囲まれて純粋なキリシタンとして過ごしたといわれ、1587年(天正15)、55歳で息を引きとりました。 そのわずか1ヶ月後、豊臣秀吉の伴天連(ばてれん)追放令が発布されました。 大村純忠史跡公園 大村純忠史跡公園にある庭園跡 キリスト教から日蓮宗へ 大村神社境内にある大村喜前公遺徳費と大村純熈公銅像 大村純忠の長男・喜前(よしあき)は、秀吉の九州征伐に出兵し、大村所領を安堵され、朝鮮出兵にも参加しています。幕藩体制のもと、喜前は大村藩の初代藩主となりました。キリスト教禁教がますます厳しくなることを見据えた喜前は、領民に先立ってキリスト教を棄て日蓮宗に改宗し、加藤清正(かとうきよまさ)の協力のもと、現在の大村市に本教寺を建立しました。 1657年(明暦3)、第4代藩主・純長(すみなが)の時代には、郡村3村より多数の隠れキリシタンが発覚し逮捕されるという「郡崩れ」とよばれる事件が起き、藩の存亡を揺るがす重大事件にまで発展しました。当時幕府の要職にあった旗本・伊丹勝長(いたみかつなが:純長の実父)の素早い対応などにより咎を受けずにすみましたが、この事件以後、大村藩ではキリシタンへの徹底した取り締まりと探索が行われました。 大村藩の藩政改革 豊臣秀吉によって直轄領(天領)となった長崎は、その後大村領に戻ってくることはなく、明治になるまで天領のままでした。長崎港でおこなわれる南蛮貿易で多くの利益を得ていた大村藩は、その収入がなくなってしまい、江戸時代初めには財政的に大変苦しい状況にありました。 喜前は、秀吉の朝鮮出兵の命に応じなかった家臣の所領を没収して大村家の直轄地とし、1598年(慶長3)には玖島城(くしまじょう)の築城に取りかかり、家臣を城下に住まわせ城下町を整備しました。 天下を統一した豊臣秀吉によって初めておこなわれた検地(一区切りごとの田畑の大きさや作物のとれ具合、耕作者を調べる調査)が、大村藩でおこなわれたのは1599年(慶長4)年、喜前によってでした。領地の範囲は、わずかな変化はあるものの、幕末まで国替えされることなく、長いこと大村氏の領地として続きました。 喜前は、江戸時代初期の1607年(慶長12)、有力一族の所領を没収・半減する「御一門払い」を断行し、この跡地を大村藩の直轄地に編入しました。これによって家臣の領地の整理もおこなわれ、藩の収入は大きく増加し、藩主の力は大きくなりました。また、江戸時代中期以降は、家臣に領地を与えるのを止め、米を支給する俸禄性に切り替えるなど、藩の収入増加を目指し、小さな大村藩が苦労して財政の立て直しに取り組んでいたことがわかります。 桜田屋敷跡 玖島城を築く際に埋め立て屋敷地として大村氏が居住したといわれています。ここに藩校集義館が創設されました。 1670年(寛文10)、4代藩主の純長が玖島城内桜馬場に藩校「集義館」を創立しました。九州内でも早期であり、わずか2万7千900石の小藩がこの時期に創立したのは稀なことでした。また純長自ら家老以下藩士に講義をしていたといいます。 集義館は1694年(元禄7)に静寿園と改称され、その後五教館(ごこうかん)へと発展し、幕末には多くの優れた人材を輩出しました。 次回の「歴史発見 長崎幕末編」大村藩の2回目では、この五教館の発展と幕末の大村藩の動向にスポットを当てて紹介していきます。 参考資料 旅する長崎学1 キリシタン文化I『 長崎で「ザビエル」を探す 』 旅する長崎学3 キリシタン文化II『 長崎発ローマ行き、天正の旅 』  歴史散策「玖島城跡・大村公園」 大村純忠の長男・喜前(よしあき)が築城した玖島城は、大村湾に突き出した半島に築城された平山城で天守閣はなかったといわれています。現在、この一帯は大村公園とよばれ、天然記念物のオオムラザクラや菖蒲など季節折々の花が咲き誇り、多くの人々が訪れる歴史ある憩いの場となっています。 斉藤歓之助の碑 幕末江戸の三剣客の一人といわれた斉藤歓之助の碑です。 板敷櫓台(いたじきやぐらだい) このあたりの地名・板敷から名づけられており、大村湾を望むことができます。 玖島崎樹叢(くしまざきじゅそう) 玖島城の本丸を囲むように茂っており、昔からそのままの状態で保護されている自然林です。 戊辰戦争役記念碑、浜田謹吾銅像などが建てられており、大村の歴史も十分知ることができます。 大村神社 本殿前には国の天然記念物に指定されているオオムラザクラ、境内には長崎県の天然記念物に指定されているクシマザクラがあり、春には多くの人が訪れます。 大村藩お船蔵(ふなぐら)跡 元禄年間にこの地に移されたといわれています。 周辺散策地図 大村公園・玖島城跡 板敷櫓台 大村藩お船蔵跡 大村神社
  • 平戸藩 2010年07月07日
    平戸藩
    南蛮貿易後の平戸 前回の「長崎の幕末1」でも平戸の歴史を紹介しましたが、中世末期には南蛮貿易の中心地として栄えました。しかしオランダ商館は出島に移り、貿易港も平戸から長崎へと変わりました。 このことにより、平戸藩の財政は大打撃を受け、寛永年間には深刻な財政難に陥りました。南蛮貿易断絶後の平戸藩では、まずは農業に基盤をおき、新田開発を行いました。また1725年(享保10)から始まった益冨組による捕鯨が一大事業として栄えました。商人のなかには鯨突に転向する人も多く、18世紀中期には捕鯨業がピークに達します。平戸から壱岐、対馬、五島、西彼杵(にしそのぎ)、長州(山口県)など各地に漁場をひろげました。益冨又左衛門から藩主へ納入された献金は15万2000両を超えるほどで、平戸藩の財政を支えました。そして19世紀には石炭業にも取り掛かりました。相浦や小佐々町で炭坑をひらき、長崎や博多、瀬戸内海の塩田へ石炭を送っていました。その後、草刈太一左衛門は、中里・相浦・佐々・小佐々一帯の石炭山を経営し、明治以降に栄える北松炭田のもとを築きます。 しかし、新田開発による増収が限界に達したことや捕鯨業の衰退も起因し、またも財政難に陥ることになりました。   松浦清 [静山] (まつらきよし・せいざん) 1775年(安永4)に平戸藩主となった清 [静山] は、平戸藩財政の再建を図り、節約の実行を藩士に徹底させました。そして農業が根本であるとして藩内の各地に新田や新畑を開拓し、土木治水や耕牛・農機具の貸与などに力を入れました。洪水や旱魃などで天災による飢饉のときには税を免除し、被災者を救うために米を与えるなど安定を図りました。 また農業とともに平戸藩の重要な基幹産業である漁業においては、清 [静山] みずから捕鯨の様子を検分して当事者を激励しています。そして魚市場を作り、魚介類の流通と価格を安定させ、漁港の護岸工事を行うなど漁業の保護発展に取り組みました。 中山愛子像 (平戸城亀岡公園) 清 [静山] は自らの生活も質素に努め、藩用の出納は非常に厳格で、無駄遣いせず、常に節約させました。さらに財政の安定を図るため、1790年(寛政2)『財用法鑑(ざいようほうかん)』を、そして1795年(寛政7)に藩の会計法を改革して条規を定めた『国用法典(こくようほうてん)』を編集しました。清 [静山] は、平戸藩の民生の安定・安行の発展に尽くしました。 清 [静山] の第11女・愛子は、中山忠能と結婚し、慶子(よしこ)をもうけました。この慶子は、典侍として孝明天皇に仕え、明治天皇を生みました。このことから、清 [静山] は、明治天皇の曽祖父にあたります。   名著『甲子夜話(かっしやわ)』 ある日、親交が深い林述斎(はやしじゅっさい)が清 [静山] を訪れました。話題が4代藩主・松浦鎮信 [天祥] (まつらしげのぶ:てんしょう)の著述『武功雑記(ぶこうざっき)』におよんだ際に、林述斎が清 [静山] に著述をすすめました。清 [静山] は刺激を受け、その夜から筆をとります。この夜が1821年(文政4)11月17日甲子(きのえね)の夜であったことから、「甲子夜話」と名づけられました。 「甲子夜話」は、どんな内容かご存知ですか? 「甲子夜話」は、歴史書や民俗書、説話文学の要素を持っており、当時の社会・風俗・宗教・自然現象・地理・博物誌、朝廷や幕府、そして一般庶民の生活ぶり、さらに笑話にいたるまでこと細かく描かれた随筆集です。中には挿絵も描かれており、全編で287巻という膨大な著述書です。 この原本は、松浦家より寄贈を受けた松浦史料博物館に保管され、展示されています。興味がある方は、ぜひ平戸市の松浦史料博物館へ見に来てください。 【松浦史料博物館】 [現在特別展覧会『平戸藩の明治維新』が開催されています!!] ■期 間 2010年5月1日(土)〜2010年12月28日(火) ■入場料 大人500円 高校生300円 小・中学生200円 ■主 催 平戸市・財団法人松浦史料博物館 ■開館時間 8:00〜17:30/8:00〜16:30(12月のみ) ■休館日 年末年始のみ(12月29日〜1月1日) ■お問い合わせ TEL: 0950-22-2281   平戸藩校「維新館(いしんかん)」 平戸藩学の基礎は、4代藩主・松浦鎮信[天祥](まつらしげのぶ:てんしょう)が山鹿素行(やまがそこう)と親交が深く、素行の弟平馬と孫の高道が平戸に使官して山鹿の学統を伝えたことに始まります。そして松浦清 [静山] は、文武の奨励と振興を目的として、藩校「維新館」を設立します。総裁・教頭のほかに数名の教授や助教授、漢文の読み方を教える句読師(くとうし)らを置き、清 [静山] 自身もしばしば教壇に立って講義を行いました。維新館の開校により、学問を志す人が増え、数年ではやくも校舎の建て替えが必要となったといいます。現在の平戸小学校近くに校舎を新築し、隣に武道場を設置しました。 この維新館では、正課として中国の四書(大学(だいがく)・中庸(ちゅうよう)・論語(ろんご)・孟子(もうし))と五経(易経(えききょう)・書経(しょきょう)・詩経(しきょう)・春秋(しゅんじゅう)・礼記(らいき))などがありました。 藩の子弟は、13歳で入学し、句読を三年間学んで秀士となり、のち三年で学員に補し、さらに三年で官に就くことができました。主人の乗った馬の周囲で警護を行う役目にあった馬廻(うままわり)以上の子弟は、13歳から35歳までの間に入学しなければ厳しい罰則があったといいます。 吉田松陰が平戸を訪れた際に滞在したといわれる紙屋跡 この維新館のことを知り、平戸を訪れた中の一人に吉田松陰がいます。この当時吉田松陰は、諸外国の事情を研究しており、日本の新たな防衛策の必要性を感じていました。山鹿流兵学をさらに深く学ぶために遊学の旅へ出て、目指した場所がこの平戸だったのです。儒学者で平戸藩家老でもあった葉山佐内にひかれ、紙屋に滞在しながら数多くの書物を読み、書き写したといいます。 この維新館では、多くの人材が育ちました。幕末に行動した人物や明治期に活躍した人物など少なくありません。 次回の「歴史発見 長崎幕末編」平戸藩の2回目では、この人々にもスポットを当てながら紹介していきます。 参考資料 --> 歴史散策「田助(たすけ)港周辺」 オランダなどとの貿易が断絶した後、松浦鎮信 [天祥] (まつらしげのぶ:てんしょう)が平戸港の副港として整備したのが、この田助港です。壱岐や小値賀から50戸ほどの住民を移住させて拡張し、商人たちが集まり港町として栄えました。 幕末当時は、回船問屋や船宿、遊女屋などが立ち並び、賑わいました。当時、長崎・長州間の船旅では、寄港地として利用されていたといいます。薩摩藩とゆかりのある回船問屋多々良孝平の角(すみ)屋や明石屋には、西郷隆盛や桂小五郎、高杉晋作など薩長のそうそうたる志士が集まり密談していたといわれています。主に明石屋が密談や隠れ家として利用され、隠れ部屋や脱出口が設置されていたといいます。 田助港 松浦鎮信[天祥](まつらしげのぶ:てんしょう)が平戸港の副港として整備したのが、この田助港です。 永山邸(明石屋) 永山邸はもともと回船問屋明石屋で、1903年(明治36)の火災で焼失しましたが、翌年には消失前とそっくりに再現したといいます。 浜尾神社・田助ハイヤ節発祥の地 起源はあきらかではありませんが、蘭学者の司馬江漢が1788年(天明8)に田助を訪れたとき、船宿の繁栄振りとともにハイヤ節を表すものと考えられる記述を日記に残しています。 維新志士会合の碑 薩摩藩の西郷、長州藩の高杉、桂、肥前藩の大隈などの英傑がこの地で会合して密かに謀議を行ったといいます。 現在は、多々良孝平氏の居宅から浜尾神社に移設されています。 田助港は、平戸城から北へ向かって車で約8分のところです。   周辺散策地図 永山邸 維新志士会合の碑 浜尾神社・田助ハイヤ節発祥の地
  • 幕末の長崎1 2010年06月30日
    幕末の長崎1
    “長崎って何藩ですか?”という質問が少なくありません。長崎は、どの藩に属していたのでしょうか?・・・実は、長崎はいずれの藩にも属していませんでした。不思議ですよね。 いったい、“長崎”ってどんな地域なのでしょう。 少し歴史をさかのぼって、 “長崎”を紹介しましょう。   南蛮貿易とキリスト教のはじまり 長崎県北部の平戸では、古い時代から倭寇や松浦党水軍の根拠地のひとつであり、長崎県北部の政治・文化の先進地でした。中世末期には、南蛮貿易の中心地として歴史に登場します。 1543年(天文12)、種子島にポルトガル船が漂着し、日本に鉄砲が伝わります。次いで1549年(天文18)にはイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、布教を開始しました。しかし、当時の薩摩領主であった島津貴久(しまづたかひさ)はキリスト教に関心を示さなかったため、ザビエルは翌年に鹿児島を去ります。しかし1541年にザビエルと一緒にインドへ渡航したという船長ミランダが平戸に来航していることを知り、ザビエルは平戸を訪れます。 ポルトガル船入港の地 (平戸市) ポルトガル船入港碑 (平戸市) フランシスコ・ザビエル記念碑 (平戸市)   平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)は、ポルトガル人船員たちが敬愛しているザビエルを歓迎し、貿易にも熱心だったこともあり、ザビエルに布教活動を認めました。これが、長崎における南蛮貿易とキリスト教布教のはじまりとされています。 しかし、1561年(永禄4)の宮の前事件などの紛争により、ポルトガル船の寄港地は平戸から西彼杵半島(にしのそのぎはんとう)の北端にある大村領の横瀬浦(現西海市西海町)へと移ります。翌年大村領主・大村純忠(おおむらすみただ)への反乱が起こり、武雄の後藤貴明(ごとうたかあきら)らの攻撃によって横瀬浦の港は焼き討ちに遭います。 横瀬浦公園と横江浦港の眺め(西海市) 一時的にポルトガル船の寄港地は平戸に戻りますが、1570年(元亀元)に長崎へと寄港地を移します。当時の長崎は、大村純忠の家臣・長崎甚左衛門(ながさきじんざえもん)の領地で小さな漁村だったのですが、天然の良港でした。年々ポルトガル船の来航によって、港町として発展をとげていきました。岬の先端にまちづくりが始まり、みるみる人口も増えました。南蛮貿易によって莫大な利益をもたらすことから、周辺諸国の領主は誰でもがポルトガル船の入港を望んでいたため、大村純忠には様々な圧力がかかっていました。そこで大村純忠は、1580年(天正8)に長崎と茂木(現長崎市南東部)を、そして口之津で南蛮貿易を行っていた有馬領主・有馬晴信(ありまはるのぶ)も領地の浦上をイエズス会教会領として寄進したのです。   直轄領・長崎とキリスト教 ポルトガルとの貿易は、莫大な利益をもたらしましたが、貿易とキリスト教布教は切り離せない関係にありました。 その頃日本では、1582年(天正10)にキリスト教を保護していた織田信長が本能寺の変で倒れると、豊臣秀吉が全国統一を果たします。1587年(天正15)に大村純忠は没し、秀吉は九州を制圧すると、「伴天連(ばてれん)追放令」を発令し、イエズス会から長崎・茂木・浦上を没収し、直轄領(天領)としました。翌年には佐賀の鍋島直茂(なべしまなおしげ)を長崎の代官として任命しました。この地を統括する長崎代官には、大きな権限が与えられました。鍋島直茂に次いで任命された寺沢広高(てらさわひろたか)の時に長崎奉行の役職名が与えられました。徳川幕府も秀吉と同様に、長崎を直轄領としました。 なぜ幕府の直轄領にしたがるのでしょう?それには大きく2つの理由がありました。 ひとつは、長崎で行われる貿易の利益を独占するため、そしてもうひとつは、キリシタンを監視するためでした。 禁教令発令にもかかわらず、キリシタンの町として半ば黙認され、栄えていた長崎でしたが、1596年(慶長元)に起こったサン・フェリペ号事件では、長崎西坂の丘で26人を処刑させるという殉教事件にまで発展しました。それから長崎や大村、島原など各地でキリシタンの弾圧が始まりました。1637年(寛永14)には妊婦を拷問死させたことに憤慨した信者らが起こした島原の乱により、キリシタン取り締まりはますます強化されました。 1639年(寛永16)、幕府はイエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶し、出島に住まわせていたポルトガル人を追放しました。平戸から出島にオランダ商館を移し、長崎での貿易はオランダと中国に限られました。長崎港の警備は九州大名によって行われ、江戸幕府の『鎖国』が完成しました。 今も残るオランダ塀 荷の積み上げを行っていたオランダ埠頭     国際貿易都市へ 秀吉の政策を継承して長崎を天領とした江戸幕府は、1603(慶長8)年に小笠原一庵(おがさわらいちあん)を長崎奉行に任命しました。いったい長崎奉行はどんな仕事を行っていたのでしょうか。 長崎奉行は、長崎の統治、外交交渉、貿易事務、長崎の警備、密貿易やキリシタンの取り締まりを行っていました。 しかし内町の行政は、町年寄をトップとする自治組織に委任され、外町と長崎村、浦上村の行政は、有力な豪商による代官によって行われました。 もともと長崎は、各地から逃げてきたキリシタンや、富をもとめて集まった商人、ポルトガル人や中国人などが多く住んでいました。鎖国の時代下においても、オランダ・中国との貿易は長崎でのみ行われていましたので、国際貿易都市としてますます発展していきます。 長崎では、封建的な家柄などよりも個人の才能が重視され、指導者としての資質や商才にたけたものが町を治め、尊敬されました。 幕府の直轄地でありながら、長崎の町人たちは奉行のもとで自治組織を形成して行政の実施を行うなど、他の都市にはない独特な都市“長崎”を創り上げました。   海外文化の窓口・長崎 近世の長崎は、海外文化を受け入れる窓口として発展し、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダ・中国などの文化が伝わり、長崎ならではの美術工芸を生み出していきました。 長崎の港が最初に開かれたのはポルトガル船との貿易によってでした。次いで唐船に乗った中国人が長崎の町に住み、スペイン人が出島に住み、次いでオランダ人が定着しました。当時の日本では知ることができなかったヨーロッパや中国大陸のさまざまな文化が次々と持ち込まれたのです。長崎の人々は、それらの文化に接し、長崎奉行の援助を受けて異国の美術工芸を習い伝えるようになったのです。 この長崎の人々に伝えられた新しい異国の美術工芸は、やがて江戸に、そして大坂、京都へと伝わり、日本の近代化に大きな影響を与えていったのです。   異国の技術を受け入れ、引き継いでいった長崎の人 幕末までの長崎はどんなふうに発展していったのでしょうか、少し具体的に見ていきましょう。 1570年(元亀元)に長崎が開港して以来、来航していたポルトガル船には、キリスト教の布教を目的としたイエズス会の神父たちも多く乗っていました。当時、長崎の町人は熱心なキリシタンでしたので、町人の協力によって大きな教会が建てられました。セミナリヨ(小神学校)、コレジョ(大学)という学校施設や画学舎(ががくしゃ)という油絵の画法を教える施設も建てられたといいます。ここでは信者に配布するためにマリア様やキリスト、聖者などの絵像・銅版画が制作されました。また京都や大坂で教会が多く建てられた頃には、教会内部を装飾するヨーロッパ風の壁画や彫刻を制作するために、長崎の芸術家たちが多く招かれたといいますので、当時の長崎にはヨーロッパ風の芸術工芸を制作できる人たちがすでにいました。 強い陰影をつけて表現される油彩は、多くの日本人を驚かせました。「南蛮画」「蛮画」ともよばれました。 南蛮貿易時には、美しいラシャの布やタバコ、ポルトガルの葡萄酒・チンダ酒、ビイドロ(ガラス)などが輸入されました。 特にガラスは、ポルトガル人が長崎でその製法を教えました。そして長崎から大坂・江戸へと製法は伝えられました。このビイドロ細工のひとつに眼鏡細工がありました。 長崎の浜田弥兵衛(はまだやへえ)がポルトガル文化圏にて、その製法を習い伝えたといいます。また1603年(慶長8)には、長崎には時計細工師もいました。江戸時代になると長崎の時計師は幕府の御用時計師に任命されています。 出島 そして1641年(寛永18)よりオランダ船が長崎に入港するようになります。 オランダからは西洋の医学が伝えられました。オランダ商館にはオランダ語の医学書や医者も送られ、長崎の人たちはヨーロッパの新しい文化や学問を吸収していきました。 当時、出島に出入りできていたのは、オランダ通詞や役人、使用人、丸山遊女など限られていましたが、出島の使用人の中には御用絵師や御用細工人なども多くいましたので、これらの人々によって伝えられました。 また、杉田玄白(すぎたげんぱく)と前野良沢(まえのりょうたく)らによって翻訳された『解体新書』によって、医学と同時に蘭学も全国に広まっていきます。 オランダ船や唐船によってタイマイ亀(和名:タイマイ)の甲羅を材料とする鼈甲(べっこう)細工も長崎に伝わりました。中国人に鼈甲細工の技術を習い、細工人たちは女性の装飾品や置物などを製作しています。やがて長崎の鼈甲職人たちは、江戸時代後期には江戸や大坂へ進出していきました。 また唐船からは、美しい貝細工の漆工芸品や黄檗派(おうばくは)の絵画も伝えられています。1644年(寛永20)に中国より来航した画僧逸然性融(いつねんしょうゆう)は長崎の画人たちに大いに影響を与えました。渡辺秀石(わたなべしゅうせき)は逸然の画風から中国の新しい画法を学びとり、漢画の画風を確立しました。19世紀には南画が伝えられ、僧鉄翁(てつおう)や木下逸雲(きのしたいつうん)、三浦梧門(みうらごもん)と長崎南画の三画人が高い評価を受けています。 このようにして、長崎の人々は海外の文化を受け入れ、近代化の礎を築いていったのです。   ここから近代化の技術は広がった・・・長崎海軍伝習所 1853年(嘉永6)のペリー来航以来、イギリス・フランス・ロシアなどが琉球(沖縄県)や浦賀(神奈川県)、長崎に来航し、通商を求める事件がつぎつぎと起こります。 日本では、これまで通りに外国人を入れてはならないと主張する攘夷論と、時代に合わせて開国しようとする開国論とに国論が二つに分かれ、騒然とした幕末の真っただ中に突き進んでいきました。 イギリス・フランスなどの列強国の侵略を防ぐため、江戸幕府はオランダの助力を得て、1855年(安政2)に長崎海軍伝習所を設立しました。 オランダ国王から軍艦「スームビング号(のちに観光丸)」が献上され、長崎在勤の目付永井岩之丞(尚志)を取り締まりとし、勝麟太郎をはじめ、各藩から選りすぐりの青年約120名が、オランダ人教官のもと、長崎奉行所西役所(現長崎県庁)敷地内の海軍伝習所で必要な学科を学びました。 ここでは主に地理・物理・天文・測量・機関・航海術・造船術・砲術などの高度な技術を学んだといいます。まさに近代教育らしい内容ですね。 1857年(安政4)には、幕府がオランダに注文していた「咸臨丸(かんりんまる)」が第二次教官団とともに入港しました。咸臨丸は、勝麟太郎が1860年(万延元)に艦長として太平洋を横断し、遣米使節の役目を果たしたことでも知られています。この第二次教官団の中には、艦長カッティンディケ中尉(のちのオランダ海軍大臣)、医師ポンペ、ハルデスなどがいました。 近代化の技術がこの長崎海軍伝習所から広がっていくこととなるのです。 幕末であっても、長崎は西洋の近代技術の窓口としてその役割を果たします。この海軍伝習所から長崎溶鉄所(長崎製鉄所)、近代医学、洋式採炭技術、唐通事・オランダ通詞、英語伝習所、活版印刷・・・国内各地から、新しい科学や技術を吸収したい若者たちが、この“長崎”を目指していたのです。 次回は幕末の長崎で活躍した人々を取り上げながら長崎を紹介していきます。 参考資料 旅する長崎学1 キリシタン文化I『 長崎で「ザビエル」を探す 』 旅する長崎学3 キリシタン文化III『 26聖人殉教、島原の乱から鎖国へ 』 旅する長崎学8 近代化ものがたりII『 長崎は野外産業博物館 』 改定郷土史事典42 長崎県(石田 保著/昌平社発行)  歴史散策「長崎奉行所立山役所 長崎公園」 現在「龍馬伝館」が開催されている長崎歴史文化博物館は、かつて長崎奉行所立山役所があった場所です。発掘調査で発見された当時の遺構の一部を活かし、奉行所が復元され、博物館に併設されています。 奉行所の入口の石垣を見てみると、当時の石垣と復元された石垣では明らかに色が異なり、当時の様子が偲ばれます。1867年(慶応3)に起こった「イカルス号事件」の取り調べでは、坂本龍馬もこの石段を上がったことでしょう。当時の奉行所の姿を体感してみてください。 また博物館裏手にある長崎公園には長崎に貢献した人々や長崎にゆかりのある人物の記念碑が自然に溶け込むように存在し、長崎の歴史の厚みを感じさせる空間となっています。 一部をご紹介します。 スウェーデン人の医学者・学者であったテュンベリー記念碑、シーボルト記念碑 日本初のプロカメラマンとなった上野彦馬之像 日本初の鉛版印刷に成功した本木昌造翁像 今回の長崎港の歴史に登場した長崎甚左衛門之像 1878年(明治11)頃に建造された日本初の噴水公園といわれています。復元されて今日に至ります。 噴水のある日本庭園からは諏訪神社へ。10月に行われる長崎くんちは有名です。 この公園は自然豊かで、1932年(昭和7)に上海から長崎へ運ばれたというオーストラリア原産のトックリノキなどが植えられ、歩いて眺めているだけでも癒されます。スロープも整備され、ベビーカーで散策する親子も少なくありません。 博物館を堪能した後に、ぜひとも立ちよってほしいスポットです。   周辺散策地図  
  • 崎戸炭鉱の足跡をたどって 2010年04月28日
    崎戸炭鉱の足跡をたどって
      炭鉱の町・崎戸 崎戸橋 大島町から崎戸町へ入り、製塩工場前にさしかかると、赤い色の崎戸橋が目に映ります。 崎戸橋は1967年(昭和42)に完成しました。かつて、写真の崎戸橋の下から右側に福浦桟橋があり、多くの人に利用されていたそうです。商人たちや昭和小学校・崎戸中学校に通学する生徒のために渡し船が行き交い、上空には海水科学工場と巻座を結ぶ石炭運搬用のゴンドラが稼働していたといいます。   崎戸橋を渡ると、そこはかつて炭鉱で栄えた崎戸の町です。 現在の「崎戸歴史民俗資料館」から「33°元気らんど」にかけては、今に残る炭鉱時代の遺構を見ながら散策することができます。 崎戸歴史民俗資料館の入口には油倉庫跡があり、資料館の向かい側にある展望台周辺にはかつて変電所がありました。今は三菱崎戸炭鉱跡記念碑が建てられています。また、資料館駐車場からはすぐ近くに一坑坑口と煙突を見ることができます。 三菱崎戸炭鉱跡記念碑 崎戸歴史民俗資料館の入口にある油倉庫跡 一坑坑口 煙突   まず、崎戸歴史民俗資料館を訪れて、崎戸炭坑の歴史を知ったうえで町を散策すると、より感慨深いものがあります。 展望台から蛎浦島を見渡すと、立ち入りは禁止されているものの、煙突や赤煉瓦の建物など当時の建造物が点在している風景が目に入ります。炭鉱時代の面影を感じることができます。   崎戸歴史民俗資料館から、当時のメインストリートだった東峰商店街跡を目指して歩いていくと、途中に崎戸劇場跡や共楽館跡があります。そして階段を下りると、右手には700名ほどが住んでいたという独身寮・平和寮がありました。残念ながらこれらは老朽化のために取り壊されて、現在では見ることはできませんが、当時このあたりは映画や劇、買い物、ビリヤードなどを楽しむ人々で溢れかえっていたといいます。 メインストリートへ降りる階段 取り壊された平和寮 かつてのメインストリート・東峰商店街(平和寮跡に向かった写真)   「33°元気らんど」へ到着です。 ここは広大な芝生広場となっており、散策路が設置されたコースはウォーキングやジョギングに活用されています。メインストリートだった東峰商店街の通りも、今では芝生広場になってしまいましたが、かつては商店が建ち並び活気に満ちていました。市場には毎日新鮮な野菜が運ばれ、デパートの玉屋もあったので、生活に必要なものはすべて揃っていたといいます。 プール跡 (立ち入り禁止になっています) 東峰商店街の近くにあったプール跡がかろうじてそのまま残っています。広場のおもしろ乗り物が揃っている施設から奥の方に、当時は崎戸中学校と崎戸炭鉱病院が建っていたそうです。 昭和小学校跡 (立ち入り禁止になっています) 1943年(昭和18)には開坑以来最高の126万トンの出炭を記録し、翌年には従事者数も7,000人を超えました。その後、崎戸町の人口は増え続け、2万5,000人を上回り、人口密度日本一といわれた時期もありました。 昭和小学校周辺から 平和寮に向かって撮影された写真 (崎戸歴史民俗資料館パネルより) 当時の校舎が残る昭和小学校はマンモス校とよばれ、教室が足りなくて、午前と午後の二部授業をおこなっていたそうです。昭和小学校周辺から平和寮に向かって撮影された写真を見ると、社宅跡が所狭しと建ち並び、多くの人々が暮らしたいた様子をうかがえます。   当時の地図 遺構が取り壊されても残る炭鉱の記憶 美崎アパート跡 炭鉱時代の建物が割りと最近まで残っていた崎戸でしたが、近年、老朽化のためにそのほとんどが取り壊されてしまいました。わたしたちは、小説や映画の舞台となって登場する崎戸炭鉱やその風景をとおして、かつての歴史に思いを馳せることができます。 崎戸炭鉱を舞台として描かれた小説には、1975年(昭和50)の井上光晴 著「虚構のクレーン」や2008年(平成20)に直木賞を受賞した井上荒野 著「切羽へ」があります。 また、芳田秀明監督・脚本による映画「Sweet Sweet Ghost」(2000年製作)は崎戸でロケがおこなわれ、昭和小学校跡などが登場しています。 毎年秋に崎戸地区で開催されている「スケッチ大会」においては、崎戸炭鉱時代の遺構をテーマにして描く参加者も多く、歴史の記憶は絵画というかたちで後世にも残されていくものと思います。 1906年(明治40)に採掘が始まった崎戸。閉山となった1968年(昭和43)に炭鉱の歴史は閉じましたが、今でも当時崎戸で生活していた人たちが、懐かしみ訪れるそうです。 今回の取材でお会いした崎戸歴史民俗資料館館長の尾崎さんが、「閉山後、各地に転居した人々が、いま崎戸がどうなっているかを見に来られます。今日も北海道から5,6人の方が資料館に来られる予定なんですよ」と話してくださったのが印象に残りました。 閉山から40年以上経った今でも、まだ崎戸炭鉱は人々の記憶の中で生き続けているのです。 浅間神社近くの広場から炭鉱記念公園を見た写真 炭鉱時代の面影を残す煙突や建物の一部が見えます。  
  • なぜ、坂本龍馬は愛されているのか 2010年02月24日
    なぜ、坂本龍馬は愛されているのか
    ■ 国民的人気を誇る坂本龍馬 風頭公園の坂本龍馬像 大河ドラマ「龍馬伝」の放送が始まり、長崎の龍馬ゆかりの地にも、さらに多くの観光客が訪れるようになりました。 龍馬の人気は、いろいろなアンケート結果からも見てとれます。たとえば、2009年(平成21)12月、“仕事や家庭の悩みを相談したい歴史上の人物”の第1位に選ばれたのが、坂本龍馬です(企業の広報活動を支援するNPO「後方駆け込み寺」が全国20歳以上の男女を対象に実施したもの)。このほかにも、“会ってみたい人”や“理想の上司”、“恋愛相談をしたい人”などの歴史上の人物として、坂本龍馬はいずれも上位に入るほどの人気を誇っています。 龍馬については、「個性的で豪快な人物」「破天荒な人物」という印象が強く、「薩長同盟」や「大政奉還」に尽力し、困難な状況においても信念を持って解決策を見出してくれる人物という評価も少なくありません。 坂本龍馬は、なぜこんなに人気があるのでしょうか?   ■ 長崎さるく英雄(ヒーロー)編 風頭公園でのガイドの様子 かつて西洋に開かれた唯一の窓口として、科学や医学など先進技術が伝わった長崎では、まちあるき観光のスタイルとして「 長崎さるく 」が展開されています。これは、長崎の街なかをテーマに沿ってぶらぶら歩きながら、長崎の魅力を体感してもらうもの。地元ボランティア「長崎さるくガイド」の方々が、より深く歴史・文化を理解できるようにわかりやすくガイドしてくれるコースもあります。 幕末の長崎をテーマとした「長崎さるく英雄(ヒーロー)編」が好評で、県内外から多くの皆さんが参加しており、なかでも龍馬ゆかりの地である「長崎市亀山社中記念館」や「亀山社中資料展示場」、「風頭公園」の一帯は大人気だそうです。 長崎市亀山社中記念館内で解説をされている長崎さるくガイドの方にお話をきくことができました。   ■ 龍馬の人気のヒミツ 龍馬ファンの方々は、いったい坂本龍馬のどんなところに惹かれ、あこがれているのでしょうか?・・・ 「やはり、龍馬の性格ですね。小さいことにこだわらず、型破りな考え方と行動力にあこがれる人が多いと思います。」 風頭公園の坂本龍馬像の左足 身分にとらわれず、武士でありながら、商人の魂も持っていた。そのうえ名誉や地位を望まず、大政奉還後も新しい政府へ入ることすらしませんでした。そんなところに魅力を感じ、龍馬を慕って長崎を訪れる龍馬ファンは多いといいます。 風頭公園の坂本龍馬像は、左足が銅像の土台からはみ出していますが、これは自由で型破りな龍馬の性格を表現しているそうで、記念撮影の人気スポットになっています。     「しかし、龍馬の魅力はそれだけではありません。倒幕運動を開始してわずか7年ほどの短い期間に、通常では築くことができない相当な人物たちとの人間関係を築きあげたことも魅力のひとつです。」 龍馬は、勝海舟の話に感銘を受けて師と仰ぎ、そして幕臣の大久保一翁(おおくぼいちおう)、福井藩主で幕末の四賢侯といわれる松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、さらに春嶽の政治顧問・横井小楠(よこいしょうなん)など、一藩士では出会えない大人物と接します。また、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)や高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀(たてわき)、仇敵であった土佐藩・後藤象二郎や三菱の創始者となる岩崎弥太郎など、近代化に向かう日本を動かしていく多くの人物たちとの人脈をわずか7年間で築き上げているのです。 1865年(慶応元)、幕府機関である神戸海軍操練所が解散したあと、龍馬は薩摩藩などの資金援助を受け、長崎で日本初の商社といわれる「 亀山社中 」を結成しました。この社中は、のちに土佐藩の「海援隊」となり、龍馬が隊長をつとめます。 龍馬は、長崎でも同様に多彩な人間関係を築いています。熱心に龍馬を支援した豪商・小曽根(こぞね)家や女性起業家の茶商・大浦慶(おおうらけい)、武器や艦船を扱った商人・トーマス・グラバーなど、亀山社中、海援隊が活動するために必要な人脈をしっかり持っています。 これらの人脈については、龍馬に一流の人物を見抜く力があったからこそ、築くことができたといわれています。 確かに龍馬に関するいろいろな資料や本を読むと、彼が出会った人々の考えを真剣に聞き、受け止め、意見を交わし、「運命的な出会い」にしていってしまうような不思議な力を持っていたことが伺えます。龍馬は、これらの人々との出会いをとおして、大きく成長を遂げていきました。 幕末の人でありながら、現代にも通用する考え方と行動力を持っていたことも、龍馬の大きな魅力ではないでしょうか。意見がぶつかっても、前向きに捉え、日本を変える力へと導くことができたリーダーシップのある龍馬。小さな視野におさまらず、広く世界へと羽ばたく夢を抱いていた龍馬。好奇心旺盛で新しいものを取り入れるミーハーな龍馬。争いを避け、日本を列強国から守り強くするために奔走したカッコイイ龍馬。筆まめで、茶目っ気のあるカワイイ龍馬。さて、みなさんの龍馬像はどんな感じですか? 現在、長崎歴史文化博物館において、「長崎奉行所・龍馬伝館」が開催されています。龍馬を支えた人々の紹介もパネルで展示されています。龍馬がどんな人々と出会い、どういう成長を遂げていったのか、人間・龍馬の魅力にもぜひ注目してみてください。   長崎歴史文化博物館 「長崎奉行所・龍馬伝館」は平成22年1月9日(土)〜平成23年1月10日(月)開催。ドラマの進行にあわせて、5月と9月に一部の展示内容が変わります。詳しくは こちら をご覧ください。   「風頭公園」から見る長崎港の展望は観光客にも大人気です。徒歩で5分程度下ったところにある「長崎市亀山社中記念館」は年中無休。「亀山社中資料展示場」は平成22年12月28日まで無休です。詳しくは こちら をご覧ください。 取材協力 ・ 長崎市亀山社中記念館 参考資料 ・『長崎旅本 慶応幕末「旅する長崎学講座」公式テキスト』(長崎県 文化振興課) ・「文藝春秋くりま『坂本龍馬がゆく』1月号」  
  • インタビュー・高島・軍艦島の証言 2009年08月26日
    インタビュー・高島・軍艦島の証言
    ■ インタビュー・高島・軍艦島の証言 (2009.08.26.更新)   2009年(平成21)4月22日、35年ぶりに端島(軍艦島)への一般の上陸が解禁となり、軍艦島クルーズが大変な人気を集めています。また、端島炭坑や北渓井坑跡(高島)は、“世界遺産暫定一覧表”記載の「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補となっていることもあり、その歴史や価値についてもますます関心が高まっているようです。 当時の島の生活はどういうものだったのか・・・。今回は、三菱の坑務課安全灯係に勤務し、高島炭坑に長年携わってきた山崎 徳(やまさき めぐみ)さんに当時の様子を伺うことができました。   当時、日本国内においての高島・端島は、どんな特徴を持った炭坑の島だったのでしょうか? 操業中の北渓井坑(明治初期) まず、高島炭坑は、日本最初の機械化された炭坑です。ここで言う機械化とは、蒸気動力、風車換気、給水ポンプ、排水などのことです。全国のどの炭坑も、手掘りや人力による石炭の搬出をおこなっていた頃、ここ高島炭坑では、高い技術をもって採掘されていたのです。 この技術導入の背景には、有名な外国人商人トーマス・グラバーの活躍があります。 グラバーは、優秀な技術者を招き、高島炭坑を機械化することに成功しました。中でも、北渓井坑は、掘削わずか40mで石炭を採掘できたことから、グラバーが連れてきた技術者が、地質学、鉱物学などの知識も高く、相当に優秀であったことを物語っていると考えられます。 やがて、高島炭坑が三菱の経営になると、その技術が端島へも導入され、高島・端島炭坑は、日本の工業化、近代化へ貢献することとなるわけです。     高島炭坑に関する写真パネルと職員クラブ模型(高島石炭資料館内) 高島・端島炭坑は非常に良質の石炭である強粘結炭を出炭しておりました。強粘結炭は、熱量が高く不純物の少ない良質のコークスとなることから、製鉄に利用されました。通常の石炭が3,000~4,000kcal の熱量でストーブ、機関車などに使用されたのに対し、高島の石炭は、7,000~8,000kcalと非常に高エネルギーを持ちます。 大村の発電所が、高島の石炭を使ったところ、発電の炉が溶けたとのエピソードも聞いております。     当時、炭坑で働く人々やその家族の生活ぶり、文化はどうだったのでしょうか? 採炭現場模型 (高島石炭資料館内) 鉱員の給与は、当時の日本の労働者の1.5倍から2倍はあったと思います。 また、無料の社宅に住み、光熱水費も長崎までの乗船料も無料でした。配給米も国産白米と非常に恵まれた生活でした。(一般はガイ米など) そういう状況ですので、鉱員は各地(主に西日本)から集まりました。募集にたくさんの人が応募するため、会社は技術力の高い労働者を採用し、職員も東京大学などの卒業者の方などが集まり、技術や技能の集まる場所となりました。 鉱員たちは、スポーツを好んでいました。野球、柔剣道、バレーボールなどは、全国炭坑の大会で優勝するほどで、端島は地域的な制約から室内競技が多かったように記憶しておりますが、これも高島と交互に優勝するなど非常に盛んでした。 また、映画が大好きで、荒天で海が荒れ、船が端島へ接岸できないときでも、ロープでフィルムを渡すなどして、映画を楽しんでおりました。 文化面においても、演劇コンクールに参加するなど活発におこなっていました。大正琴や舞踊などは、現在も高島町の婦人会の方々が楽しんでおられます。 食費、日用品費以外は、お金を使う必要もありませんでしたが、鉱員たちは、お酒を飲むことがしばしばありました。時折、酒の島などと揶揄(やゆ)されたこともありますが、それは炭坑を知らない方々の意見で悲しく思います。 当時、炭坑は24時間3交代制でフル稼働し常に危険と隣り合わせでした。坑道内は、多くの鉱員、職員で作業を進めており、万一のことがあれば大惨事になる可能性がありました。鉱員たちは、結束を深め協力体制を整える必要があったのです。各地から集まった鉱員たちは、お酒を飲み、会話することでお互いの理解を深めていきました。 そのような中、鉱員の奥様方は非常に教育熱心になっていきました。危険の伴う鉱員よりも更によい生活を我が子にさせたかったのだと思います。当時は珍しかった高校、大学への進学もさせていきました。そのような動きは、高島高校の創立に繋がることになったのです。 子どもたちは、どんな遊びをしていたのでしょうか? 子どもたちの楽しみといえば、海でした。子どもたちは「こちらがサザエ、こっちはアワビ、あっちは伊勢海老。」などと生息場所の情報を逸早くキャッチし、海に潜っては、サザエを採るなどして遊んでいました。 端島では、屋上が大事な遊び場でした。屋上菜園がおこなわれた時でも、子どもたちの遊び場はきちんと確保されていました。端島の子どもたちも海は楽しみでした。 しかし、し尿処理の充分でなかった頃は、海へ下水を排水したため、海での遊泳が禁止となりました。 その後は、子どもたちは大人たちを見習い、スポーツを好むようになりました。 忘れられない出来事や思い出はありますか? 1982(昭和57)年 火事で焼けた蛎瀬事業所 個人的な意見で言えば、やはり炭坑事故が記憶にあります。 事故により坑内で亡くなると、棺に呼びかけながら外へ出していました。 「今、坑道のどこを通っているよ、もうすぐ上がるよ。」などと呼びかけました。 みんな、大切な仲間の魂を、暗い坑内から出してあげたかったのだと思います。   その他、炭坑事務所が火災にあったこともあります。1982(昭和57)年に火災にあった時などは、既に閉山していた夕張から、様々な道具を調達しました。   閉山することが決まったときはどんなお気持ちでしたか? 閉山以前、炭坑が下り坂になってきた頃から、社内誌でも「力を合わせて乗り切ろう」などと毎年スローガンを掲げて、何とかやっておりました。 そういった意味では、閉山することへの現実感は少なかったと思います。 むしろ、閉山を決定的にしたのは、炭坑事故です。 高島からみた中ノ島(手前左)と端島(奥右) 端島は、1963(昭和38)年に自然発火により事故が発生しました。消化のため散水しましたが、一度水浸しになると戻せないのです。その後、1974(昭和49)年に安全に採掘しうる炭量が枯渇し、閉山いたしました。 高島でも、1985(昭和60)年に爆発事故が起こりました。1960(昭和35)年頃からのエネルギー革命により転換期を迎えた後のことですので、技術の低下もあったかと思います。今となれば、その時、正しくガス検知などをおこなっていたのかも分かりません。ただ、「もう、閉山するかもしれない。」という不安感がありました。 翌年、その不安は現実となり、閉山することとなりました。   会社は、鉱員たちに再就職先を斡旋し、退職金に加え閉山交付金を出しました。また、通称“黒い手帳”と呼ばれる就労証明書を発行しました。“黒い手帳”とは3年間の失業手当が受け取れるものでした。 再就職した人たちの多くは、島を離れることになり、再就職できなかった人たちは、退職金と失業手当で暮らし、その後、年金生活となりました。   現在、世界遺産暫定一覧表に記載されている「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補として、高島の北渓井坑跡や端島炭坑がリストアップされています。 2009年(平成21)4月22日から始まった“軍艦島上陸クルーズ”には、乗船予約が 殺到しているそうです。参加者の年代は幅広く、高校生や大学生など若い世代も少なくありません。いま、「軍艦島」に高い関心をお持ちの方々に、メッセージをお願いします。 炭坑夫の像「曙」 端島の炭坑の成り立ちからすると、端島は高島とのつながりが非常に大きいところです。更に言えば、端島は高島あっての端島であり、高島を知ることによって、もっと端島を理解できます。 現在、長崎市が北渓井坑の発掘調査をおこなっておりますが、北渓井坑が全国の炭坑に与えた影響が、本来の遺産であると思っています。 高島、端島を大きな観点で眺めることによって、貴重な歴史、遺産価値を理解できるでしょうし、また、そこに暮らした人々の思いを張り巡らすことによって、日本の近代化を支えた高島、端島の炭坑を評価できるものと考えています。   山崎 徳(やまさき めぐみ)氏のプロフィール 大正14年5月4日生まれ。 長崎市高島町在住。郷土史家。 高島炭鉱時代には、三菱の坑務課安全灯係に勤務、高島炭鉱に長年携わる。     山崎 徳さんは、炭坑をはじめとして、地名や方言、民俗、文化、高島の歴史に関する資料をまとめておられます。これらの資料は現在、高島石炭資料館内に所蔵されています。 高島石炭資料館の情報は、歴史発見ドライブルートの「 近代洋式炭坑が始まった地、高島 」(平成21年8月5日更新)で紹介しています。ぜひご覧ください。 協力 ・山崎 徳 氏 ・ 長崎市高島行政センター ・ 高島石炭資料館  
  • ドラマティック・ファミリー 2009年05月13日
    ドラマティック・ファミリー
    ドラマティック・ファミリー 有島 武(ありしま たけし) 1842年〜1916年 鹿児島県出身 官僚・実業家  今回紹介する有島武は、明治時代、大蔵省書記官、日本鉄道専務など、様々なジャンルで活躍した人ばい。なんと、この人は、日本文学界に大きな足跡ば残した有島武郎(ありしま たけお)、里見(さとみ とん)、そして画家の有島生馬(ありしま いくま)のお父さんで、さらに昭和前半の映画界で活躍した俳優・森雅之(もり まさゆき)のお祖父さんにあたる。有島家ってすごかね。こがんたくさんの有名人が出とっとも珍しかっちゃなか?  有島武は薩摩藩士・有島宇兵衛の長男として、現在の鹿児島県の薩摩川内市に生まれた。父親は島津家の分家の重臣やったとけど、お家騒動に巻き込まれて、琉球(沖縄)の小さか島に流されてしもうた。そいで武は、14、5歳頃までお祖父ちゃんの手で育てられたとって。ひとりっ子で兄弟もおらんやったけん、寂しい子ども時代ば過ごしたらしかよ。  長崎に来たとは1860年(万延1)、19歳の時。残念ながら長崎遊学時代の資料はあんまし残っとらんとけど、一説によると、同じ頃に長崎で遊学しよった小松帯刀(こまつ たてわき)に同行して来たんじゃなかかという説もあるとよ。いずれにしても小さい時から努力家やった武は、長崎で習うた砲学の勉強ば江戸へ移っても続けとった。  武は、子どもんときの寂しか生い立ちに加えて、何回も人に騙されたとって。裏切りば何回も受けたせいか、人をあんまり信用できんようになったらしか。でも、三度目の結婚で初めて生涯の伴侶となる幸(南部藩士の娘)と結ばれたと。幸もまたいろいろと苦労した人やったけん、苦労人同士が結ばれて、二人の人生は良かごとなっていったとやろか。結婚ば機に、武は仕事に邁進していったとよ。維新後の新政府では大蔵省に勤務。結婚直後には関税局書記官に昇進しなって、アメリカやイギリス、ドイツに出張したりもした。幸は武を助け、良か妻として暮らしたげな。  さて、武と幸には女の子2人と男の子5人が生まれ、合計7人の子福者になった。そのうち、長男が作家・有島武郎、次男が画家・生馬、四男が作家・里見というわけ!それぞれが日本の文学史や画壇に、大きな足跡ば残しなった人たちやけん、すごか家族やね。  武は武家の出やったし、当時の時代背景もあってか、長男の武郎に対してそれはそれは厳しいスパルタ教育ばしたとって。有島家の長男として恥ずかしくなかごと育てんばという親心やったと思うばってん、西洋風の食事のマナーから礼儀作法、武術、馬術、外国語教育などなど。他の兄弟たちはけっこう伸び伸びと育ったらしかけど、武郎だけは違うとった。武郎は相当辛か毎日ば送っとったらしかよ。作家で成功するくらいの感受性ば持っとった武郎のことやっけんが、もちろん父親である武への尊敬の念もある反面、自分と他の兄弟に課せられていることの違いや厳しさへの反発っていうか、大きな葛藤もあったとじゃなかろうか。武郎が抱いたこの葛藤に、武が気づいとったかどうかはようわからん。でも、優秀やった武郎が大正天皇のご学友として、同席するようとのお達しがあった時には、えらい喜んだらしかよ。  武は1893年(明治26年)に官僚から退いて、実業家としてスタートした。そして日本郵船監査役、日本鉄道専務、十五銀行取締役などを歴任し、その後は東京の市会議員にもなったげな。苦労続きやった子ども時代を経て、文化・文明の聖地であった長崎に遊学。その知識を元にして勉強を続け、いわゆる立志伝の人となった有島武と、後世に名を残した子どもたち。まるでドラマのごたっ家族ばい。武は1916年(大正5)、75歳で亡くなった。皮肉なことばってん、「長男 有島武郎の文学者としての活躍は、この父の死を契機として始まった」という評論が多かごたるね。  官吏から実業家という極めて現実的な世界で成功した武から、子孫に流れた血脈は、不思議なほど芸樹的要素が強かよね。武の中にも実はそんなDNAがあったとかにゃー?。それとも奥さんの血筋かにゃー? いずれにしても、一家に有名人がいっぱいおってびっくりしたにゃ〜。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『有島武郎 虚構と実像』内田満著(発行/有精堂) 『悲劇の知識人 有島武郎』安川定男著(発行/新典社) 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂) 『作家の生成』山田俊治著(発行/小沢書店) 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂) 『鹿児島大百科事典』(発行/南日本新聞社)
  • 幕末を駆け抜けた男・小松帯刀 2009年04月08日
    幕末を駆け抜けた男・小松帯刀
    幕末を駆け抜けた男・小松帯刀 小松帯刀(こまつ たてわき) 1835年〜1870年 鹿児島県出身 薩摩藩士・官僚  今回紹介すっとは小松帯刀。ちょっと前までは名前の読み方も知らん人が多かったとじゃなかやろか?2008年放映のNHK大河ドラマ「篤姫」ですっかり有名になった帯刀ばってん、これまでは西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬ら、幕末の大スターの陰に隠れてちょっとジミな感じで、あんまりスポットば当てられんやった。大政奉還、王政復古に大活躍した人ばい。  小松帯刀は、薩摩藩の喜入領主・肝付主殿兼善(きもつき とのも かねよし)の三男として誕生。小さか頃から学問好きで、10歳から儒学ば勉強したって。夜中に目が覚めると、そんまま朝まで起きとって読書ばしたりするほど勉強が好いとったっていうけんね。本当に賢か子やったらしか。そいだけじゃなかとよ。薩摩藩には昔から伝わっとる示現流という剣術があるとけど、小さか時からそれば習って、一生懸命鍛錬したとって。文武両道たいね。こがんふうに努力家やったとけど、体は弱くてすぐ風邪ひいたりしよったけんが、心配しなったお母さんは、毎年温泉に保養にやったりしたとって。だけん帯刀も温泉が好きで、あちこちの温泉に行っとったらしかよ。温泉でただぬっかお湯に浸かってるだけじゃなかとばい。温泉に入る時はみんな裸になって、どこの誰かわからんもん同士が一緒に入るわけたいね。みんな、ゆったり気持ちようなって、思わずいろんな話ばすっとって。坊ちゃん育ちの帯刀にとっては、よか勉強の場所やったらしか。「湯船の中では、ためになる話や世間話が聞けて教えらるっことの多か。生きた学問ができるばい」って言よったって。  真面目で勉強家やった帯刀の人格形成に、大きな影響ば与えたとが薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)。今でも名君として知られとったいね。島津斉彬は人材育成にも心ば砕いとったけん、見込んだ若者たちば集めては、世界情勢や日本が置かれている現状ば話して聞かせ、わっかもんの目を、世界へと向けるようにしなさった。そん中に、後に帯刀が養子に入る小松家の嫡男・小松相馬清猷(こまつ そうま きよもと)もおったと。  その小松相馬清猷が、赴任先の琉球(現・沖縄県)で急死。清猷の将来に大きな期待をよせて琉球へやった斉彬は、大変なショックば受けた。斉彬は単に家臣というばっかりじゃなくて、“将来の日本を背負ってたつ男”と見込んどったけんね。そいけん、ショックば受けただけじゃなく、大事な長男ば亡くした小松家に対しても申し訳なか気持ちの強うあったとって。そいで抜擢されたとが帯刀。清猷には妹がおって、そこへ婿にいってくれないか、と斉彬はもちかけた。最初は驚いた帯刀けど、決心して小松家の千賀さんと結婚。小松家ば継いだとさ。小松家は肝付家よりは数段大きか家やったけん、三男の帯刀にとっても悪か話ではなかったとね。そいに、お千賀さんにとっても・・・。帯刀の写真は今でも残っとるけど、イケメンばい。お千賀さんは一目で、帯刀ば好きになったらしかよ。結婚してますます役目に邁進した帯刀。持ち前の知力と人望の高さで、どんどん出世していった。  武は武家の出やったし、当時の時代背景もあってか、長男の武郎に対してそれはそれは厳しいスパルタ教育ばしたとって。有島家の長男として恥ずかしくなかごと育てんばという親心やったと思うばってん、西洋風の食事のマナーから礼儀作法、武術、馬術、外国語教育などなど。他の兄弟たちはけっこう伸び伸びと育ったらしかけど、武郎だけは違うとった。武郎は相当辛か毎日ば送っとったらしかよ。作家で成功するくらいの感受性ば持っとった武郎のことやっけんが、もちろん父親である武への尊敬の念もある反面、自分と他の兄弟に課せられていることの違いや厳しさへの反発っていうか、大きな葛藤もあったとじゃなかろうか。武郎が抱いたこの葛藤に、武が気づいとったかどうかはようわからん。でも、優秀やった武郎が大正天皇のご学友として、同席するようとのお達しがあった時には、えらい喜んだらしかよ。  病気療養中に、大政奉還の功労者として明治天皇から招待ば受けたとけど、こん時には病気が重うなっとったけん、とても行ける状態ではなかった。帯刀の病気ば心配した天皇からお見舞いが届いたとって。帯刀は嬉しかったやろね。やがて治療のかいも無く、帯刀は亡くなった。まだ36歳の若さやった。若い帯刀の死は可哀想な気もすっけど、悲願やった大政奉還の実現ば見届けることのできたけんが、安心したとじゃなかかな。長くない一生やったけど、日本の歴史の中で、大きな働きをしたことは事実。今の時代に続く歴史の立役者やったとばい。  小松帯刀は坂本龍馬と深い親交があった。豪放磊落なイメージのある龍馬、繊細で人格者だった帯刀。イメージはずいぶん違う感じのするけど、お互いに共感するもんがあったとやろうね。龍馬の亀山社中結成後も、帯刀は何かと援助しとったらしかよ。日本の大きな変革の時代を共に駆け抜け、同じ三十代でこの世ば去った二人。でも後の時代につないだもんは大きかったにゃー。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『幻の宰相 小松帯刀伝』瀬野冨吉著(発行/宮帯出版社) 『長崎遊学者事典』平松勘治著(発行/渓水社) 『鹿児島大百科事典』(発行/南日本新聞社) 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂)
  • 川原慶賀 2009年04月01日
    川原慶賀
    〜西洋人が見た日本を描く〜  《日本の魚類のすべてを、既知と未知との、あるいは珍奇なると一般的なるとを問わず、すべて写生することを提案する。日本人画家、登与助の確かな手腕と、日本の鮮やかな絵具は、自然や実物の美しさに負けないであろう。》(『シーボルトと日本動物誌』より)  シーボルトが日本を離れる前、助手のビュルガーへ宛てた書面です。登与助とは、出島出入りの絵師・川原慶賀(かわはら けいが)のこと。シーボルトがここまで信頼した画家は、なにを描いたのでしょうか? 一介の町絵師、画壇に名無し  出島にいたオランダ人は出島絵師以外が描いた絵を持ち帰ることが許されていませんでした。カメラのない時代、日本の風景や風俗文化、動植物、出島の生活などは絵師によって記録されていました。その出島絵師のひとりが川原慶賀です。  慶賀(通称登与助、号慶賀、字種美)は、1786年(天明6)に長崎で生まれました。父の香山は町絵師で、蘭船、唐船が浮かぶ港を描いた作品「長崎港図」を残しています。慶賀は香山から絵の手ほどきをうけ、その後、長崎で活躍していた画家の石崎融思(いしざき ゆうし)から絵画を学んだといわれています。  江戸時代、長崎の画家を記した『崎陽画家略伝』、『長崎画人伝』、『続長崎画人伝』などに、慶賀の名はありません。厳しい身分制度の時代、慶賀が一介の町絵師だったからだといわれています。正統な画家の家系の出ではなかった慶賀でしたが、才能に恵まれ町絵師として身を立て、その後「出島出入絵師」となります。  1820年(文政3)から1829年(文政12)、秘書、会計係、倉庫の管理者として出島で働いたフィッセルや1817年(文化14)に商館長に就任したブロンホフらの求めに応じて絵を描いた慶賀ですが、シーボルトのパートナーとして膨大な作品を残したことで知られています。 シーボルトの眼となり日本を写す  シーボルトはある使命をもって日本へやってきました。当時、オランダ政府は衰退しつつある日本とオランダ貿易を建て直すために、日本を総合的に研究調査し、それに対応する策をたてる必要がありました。日本をあらゆる面で科学調査できる能力があり、医師であるため出島商館へ派遣しやすい条件がそろったシーボルトはまさに適任だったのです。  1823年(文政6)、長崎へ到着したシーボルトは長崎奉行の許可を得て、長崎郊外にある鳴滝の土地と建物を購入します。それは研究をさらに深めるために優秀な門弟を雇い入れ、住まわせ、また患者の治療や医学教育の場として使用するためでした。西洋の最新知識を日本人に伝え、シーボルトの日本調査研究の拠点となったのが鳴滝塾です。塾では病人を診察し、診断の仕方や治療の方法などを門弟らに教えました。また、シーボルトは門弟らにオランダ語でレポートを提出させています。内容は「日本古代史考・神話学」、「日本の時の唱え方について」「江戸名所案内記」など具体的なものでした。  慶賀もまた、シーボルトの注文に応じ、踏絵、端午の節句、精霊流し、ハタ(凧)揚げなど長崎の「年中行事」、また出生から墓参りまでの「人の一生」、「職人尽くし」、「動植物」など、日本や長崎の姿を詳細に描きました。  シーボルトは、これらの資料で日本をヨーロッパに紹介し、日本研究の第一人者となりました。  さて、大量の作品を残した慶賀ですが、本人の肖像画はなく、没年や墓所なども不明で、その生涯は謎に包まれています。資料が少ないなか、長崎奉行所の「犯科帳」には慶賀の名前を2カ所にみることができます。  ひとつは、シーボルトの積み荷から国外持ち出し禁止の徳川家家紋の入った服や日本地図が見つかり、シーボルトが国外追放となったいわゆる“シーボルト事件”。慶賀も連座し一ヶ月ほど入牢、「叱り」という処分をうけます。もうひとつが、十数年後、オランダ商館からの要望で描いた長崎港のなかに、国外不出とされていた藩(細川家と鍋島家)の家紋を警備船の幕に描き、「江戸並びに長崎払い」の刑となった事件です。 1842年(天保13)に「江戸並びに長崎払い」となった慶賀ですが、1844年(天保15)ごろには長崎へ戻り、町絵師として仕事を再開していたようです。1853年(嘉永6)に来航したロシア艦隊の長官プチャーチンの肖像画や開国後、出島の日常風景を描いた唐蘭館図などが残されています。また、1860年(安政7)の「永島キク刀自絵蔵」は落款に“七十五歳 種美写”とあって、慶賀が75歳まで生きていたことを証明しています。 いたずら好き? 慶賀の素顔 さて、シーボルトが持ちかえった資料のほとんどは現在オランダのライデン国立民族博物館に所蔵されています。慶賀が描いた「日本人の一生」もそのひとつです。「出産」から「墓参り」まで記録されているなかに、慶賀のいたずらが隠れていました。「葬列の迎え(1)」には、寺の門前にたつ6人の僧侶のわきに“不許輩酒肉入山門”と石碑の文字。また「墓参り」ではあろうことか墓石に“酔酒玄吐行”、“淫好助兵衛腎張”と刻まれ、慶賀の素顔を垣間みることができます。ライデン国立民族博物館に所蔵されている慶賀作品のいくつかは、長崎歴史文化博物館のウェブサイトにある『川原慶賀作品データベース』で見ることができます。  また、1853年に来航したロシア艦隊の長官プチャーチンの肖像画では、落款をロシア人名風に登与助を“Tojoskij(トヨスキー)”と書くなど茶目っ気たっぷりです。  現在、国内に残る慶賀の絵は50点ほどで、ライデン国立民族博物館には1000点近くが収められています。そのなかには、フィッセルやブロンホフのために描いたものや、シーボルトが帰国前、助手ビュルガーにあたえた指示どおり、ベニサシやコブダイなどの魚の絵も色鮮やかに所蔵されています。  慶賀の絵は、当時あまり知られていなかった日本の姿をヨーロッパに伝えるという大きな役割を果たしました。その一方、出島や唐人屋敷に暮らす異国人の生活や西洋の文物も描き記録しています。慶賀は、西洋と日本、両方に異なる国の文化を伝えることのできためずらしい画家だったといえるでしょう。 [文:高浪利子] 参考文献 『シーボルトと町絵師慶賀 日本画家が出会った西欧』兼重護(長崎新聞) 図録『鎖国の窓を開く:出島の絵師 川原慶賀展』(西武美術館) 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(長崎文献社) 長崎歴史文化博物館HP 川原慶賀の見た江戸時代の日本1( http://www.nmhc.jp/keiga01/ )
  • 長崎・激動の時代の目撃者 2009年03月11日
    長崎・激動の時代の目撃者
    長崎・激動の時代の目撃者 長井長義(ながい ながよし) 1845年〜1929年 徳島県出身 薬学者  「長崎で見るもの聴くもの、新しくないものなど一つもなく、別世界にきたよう」。長崎に遊学した長井長義は、こがん手紙ば書いとっとばい。近代薬学の世界に大きな業績ば残した人ばってん、知っとる人は案外少なかかもねー。薬の開発や、大量生産を可能にしたとって。長義の開発した薬は、今でも風邪や花粉症の薬に使われとっとよ。  長井長義は阿波藩の御殿医(ごてんい)の家に生まれた。お父さんはお殿様に仕えるお医者さんやったとよ。でも、長義のお母さんは若こうして亡くなってしまったけん、「おいは医者とに、妻ば助けられんやった…」って、自分ば責めたとやろか。お父さんは、長義にも医者になってほしかと思うて、たくさんの事ば教えなったって。塾に通わせて漢学や蘭学を学ばせ、道を歩く時にもボーっと歩くことはせんで、薬草を見つけては幼い長義に、効能ば教えなったとって。長義も優秀やったばいね、そのかいあってか、15歳の時には、お父さんの代診ばできることなっとったって。!すごかねー!  こがんして一生懸命勉強しよった長義は、22歳の時に阿波藩のお殿様から、長崎遊学ば命じられたと。このことが後の長義を、世界的な薬学者にするとけど、当然まだ誰も、長義自身も知らんこと。当時は最先端の新しかことば勉強しようとするなら、長崎にいかんば始まらけん。たぶん、お殿様もお父さんも、長義は立派な医者になるもんと思うて長崎に出したとやろね。最初は精得館(元長崎養生所)で、オランダ人医師のボードウィンやマンスフェルトから西洋医学ば習うた。そいけど、いろいろ勉強するうちに、医学より化学に興味ばもったごたるね。そして化学者にしてカメラマンの上野彦馬の弟子になったと。そこから長義は、舎密学(せいみがく)つまり化学のおもしろさに目覚めてしもうたとさ。彦馬のもとで更に一生懸命勉強して、写真撮影にも同行したりしたとって。  そんの頃の彦馬邸には、坂本龍馬や大久保利通、伊藤博文などが出入りしよった。後の日本ば大きく変えることになる彼らの持つエネルギーは、計り知れないものがあったとやろうね。長義も影響ば受けたと思う。長義が長崎に来たとは1866年(慶応2)、22歳の時やった。そいで遊学を終えて長崎を去るのは1868年(明治元)。慶応から明治に変わる、ちょうどその激動の時を、長義は長崎で過ごしたわけたいね。 坂本龍馬や大久保利通たちが、“政治”の世界で時代を変革へと導いたというならば、長義は漢方から近代薬学へと日本に薬学の変革を起したというてもよかよね。そんな長義の、長崎遊学で受けた刺激の強さがよう伝わってくるとが、後に知人に宛てた手紙ばい。  曰く、「初めて出会う異国の人々の印象、初めて見る石炭の煙、そしてその燃える臭い、彦馬に同行して黒船と呼ばれた軍艦の中に入り目にした、異国の人々の食事風景。日曜日のミサに集う人々、初めて口にした西洋料理・・・」。  「長崎で見るもの聴くもの、新しくないものなど一つもなく、別世界にきたよう。私の思想も新しくなりはじめた」。「衝撃」という言葉ば使うてもオーバーじゃなかごと、長崎の様子には相当の刺激を受けたことが、ようわかるやろ。  長崎ば出た後、長義は1870年(明治3)に、後の東京大学医学部に入学する。化学の勉強ばしたかったとけど、当時の日本には、まだ化学を教える機関がなかったけんね。  江戸時代から明治時代へと大きく変わった日本やけど、政府はたくさんの問題ば抱えとった。新しくなった日本が諸外国と対等に向き合うためには、まだまだ足りんもんがいっぱいあったと。その一つが医療やったげな。  「医療環境の整備を早うせんば!」と思うた明治政府は、1871年(明治4)に初めての国費留学生をアメリカとヨーロッパへ送り出した。その中に長義もおったとさ。この時の留学で長義はドイツのベルリン大学へいったと。  でもね、医学生として留学したとけど、ホフマン先生から化学や薬学を学ぶうち、「やっぱりこっちがおもしろか」って思うたみたいやね。医者であるお父さんの跡を継ぐつもりやったし、医学生という立場でドイツに留学したわけやけん、散々悩んだとけど、結局は許しば貰うて化学(薬学)へと、研究の方向転換ばすることになったと。  その後、ベルリン大学で助手として頑張っとった長義。なんと約13年間、ドイツで勉強ば続けたとさ。日本人学生は長義ひとりやったらしかし、長義自身も真面目に勉強して教授たち達の教えに応えたとやろね。だけん、ベルリン大学では本当に大事にされたらしか。  1884年(明治17)、日本政府からの願いでやっと帰国。東京大学で薬化学、化学を教えたり、内務省衛生局東京試験所長も兼務して、薬の成分分析などもしなったとって。そして、日本で初めての半官半民の製薬会社の技師長として、技術の指導にあたったと。翌年明治18年には漢方薬「麻黄」からエフェドリンば発見! その3年後、日本で初めての理学博士になったとよ。その後は日本薬学会ば創って初代会頭になり、その後もずっと薬の研究に没頭したと。  そのまた一方で、長義は、女性に対しての化学教育の必要性を唱えて、日本女子大学の創立にも尽力したとよ。創立後は化学の講義ばするって言うて、自らが教壇に立ったとよ。長義の奥さんは留学先で巡り会ったドイツ人女性のテレーゼさん。長義はテレーゼと協力し、日本女性への化学教育を定着させようと、がんばったとね。女性への新しい教育に熱心だった長義の胸には、長崎遊学時代に感じた「新しい時代の息吹」が消えずに残っとったって思う。  長義の教えを受けた多くの後輩たちが、後の日本の薬学会で活躍したとって。自分が学んだことを後世へと繋ぐことにも一生懸命だった長義は、日本の薬学の道ば切り開いたというてもよか人たいね。やっぱりすごかよね。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『旅する長崎学7 近代化ものがたり1』(発行/長崎文献社) 『長井長義傳典』金尾清三著(発行/社団法人 日本薬学会) 『長崎遊学者事典」平松勘治著(発行/渓水社) 『コンサイス日本人名事典』(発行/三省堂編集所)