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近代化に向けて

  • 賞金よりも石を選んだ明治の異人 西道人 2009年03月04日
    賞金よりも石を選んだ明治の異人 西道人
    賞金よりも石を選んだ明治の偉人 西道仙 西道仙(長崎歴史文化博物館蔵)  「僭越ではございますが、ご指名でございますので、万歳三唱の音頭を取らせていただきます。ご唱和をお願いいたします。皆様の末永いお幸せとご健勝とご発展を祈念いたしまして、万歳!万歳!万歳!」 家族や仲間とともに万歳三唱をとなえ新しい門出を祝う。この万歳三唱を全国に普及させたといわれている人物が、西道仙(にしどうせん)です。今回の歴史発見コラムは、眼鏡橋の名づけ親で、長崎新聞界の草分け的存在、さらには長崎医師会の創設者と、明治維新後の長崎で多彩な活躍をした西道仙を紹介します。 生まれは天草、先祖の地長崎へ  肥後天草、1836年、道仙は長崎の御用医師の家系に生まれました。17歳で豊後三賢の一人、帆足万里(ほあし ばんり)に学び、1863年、眼鏡橋近く長崎酒屋町(長崎大神宮のあたり)で医者を開業します。その傍ら私塾を開き、子どもたちに読み書きを教えて生計を支えていました。それから約10年後、桶屋町の光永寺に私学校「瓊林学館(けいりんがっかん)」を創設。漢学者の谷口中秋(たにぐち ちゅうしゅう)を館長に、イギリス人デントを英語教授に迎えます。漢学と英語の両方を学べる学校は評判となり、生徒は300人を数えたといいます。 また、同じころ、道仙は本木昌造(もとき しょうぞう)の「長崎新聞(※現在の長崎新聞の前身ではない)」創刊に参画。1875年には演説討論の笑談会を結成して、同業者の団結、道路の改良、公園の開設、汽船汽車の開通、国会の開設などを論じるようになります。 翌年、長崎新聞は、「西海新聞」と名をかえ、道仙は主筆となってペンを振るいました。民権思想を強めた道仙は『国会急進論』を新聞に7日間連載、このことが新聞条例にふれたとして、自宅に1ヶ月幽囚となります。禁固が解けた後、間違って一日超過していたことを聞かされた道仙は「禁固中は読書三昧に過ごせて大変ありがたかった。その上一日加えられたのだから、こちらが感謝しなければならない」と答え、謝罪にきた者を唖然とさせました。 1877年、道仙は九州初の日刊新聞「長崎自由新聞」を発刊し、社長に就任します。西郷隆盛贔屓の道仙、新聞の目玉は西南の役のニュースでした。西郷が自刃し、西南の役が終わると、「長崎自由新聞」はその役割を終えたかのように廃刊となります。1889年、当時長崎で唯一の日刊新聞だった保守系の「鎮西日報」に対抗して、「長崎新報」が創刊されます。これが現在の「長崎新聞」の前身で、道仙は株主として名をつらねています。 八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍  また、道仙は政治家としても活躍しました。1878年、初めての公選で長崎区戸長に当選した道仙は、自治制の基礎づくりという目的を果たしたと一日出勤して辞任。「一日戸長」と呼ばれました。その後、町会議員、長崎区連合町会議長、長崎区衛生幹事長、長崎区会議長などを歴任します。 明治の中頃、長崎ではコレラなどの伝染病が大流行。1885年には市内で600名余がコレラで死亡しています。漢方医だった道仙は、伝染病予防には西洋医学が必要と考え、漢方医師団と西洋医師団をまとめることを発案。道仙は副会長となり長崎医会を創立します。 1889年、衛生上の問題と老朽化した設備、また外国人居留地からの新しい施設の要望もあり、中島川上流本河内を水源とする水道施設を設置することになりました。 しかし、これまで井戸水などを利用していた市民から、水道料金や税金などを懸念して反対運動が起こり、大きな社会問題となります。市会議員に当選した道仙は『長崎水道論』を著し、水道の必要性を説きます。ある夜、反対派数百人が道仙の自宅を取り囲むという事件が起きました。声高に主張する人々の言葉をしずかに聞いていた道仙は、突然「水道がなぜ必要か理解できない者はこれを読め!」と『長崎水道論』数百冊を庭にまき散らしたといいます。結局、水道騒動は、当時の知事や市長、松田源五郎、道仙らによって解決し、現在、彼らは長崎水道の功労者として顕彰されています。 ちなみに、1886年、コレラなど防疫対策のひとつとして下水溝に石を張る改修工事がおこなわれました。工事後、地下に浸透する水が減り、井戸の水がでにくくなったといいます。それまでいかに不衛生な環境だったかがわかります。麹屋町公園付近のシシトキ川最上流部や、公会堂裏の地獄川など三角溝の底に張られた石は結晶片石です。長崎では「温石(おんじゃく)」と呼ばれ、冬の寒いときに石をあたためて布団の中にいれていたといいます。 道仙と石の関係  さて、「石」は道仙にも深い関わりがあります。初代長崎県知事澤宣嘉(さわ のぶよし)の懐刀として、活躍した道仙はその功労に賞金を与えられますが、辞退し、代わりに鳴滝の山中にある琴の形をした石を賜ります。その後、道仙は、賜琴石斎西道仙(しきんせきさいにしどうせん)と名乗るようになりました。 江戸時代の石橋がかかる中島川、なかでも眼鏡橋は最初にかけられた石橋で国指定重要文化財としても有名です。1881年以前まで、眼鏡橋は「めがね橋」、「酒屋町橋」などと呼ばれ、中島川にかかる他の橋にも一定した名前はありませんでした。当時、長崎区常置委員だった道仙が常置委員会の委嘱をうけて市内の多くの橋を命名。たとえば、「眼鏡橋」や「一覧橋」、「桃渓橋」などは道仙が名前を統一し、「高麗橋」や「袋橋」は町名などにちなみ命名しています。  晩年、道仙は多くの金石文をつくりました。そのひとつに玉園町の聖福寺向かい元料亭迎陽亭(こうようてい)の門柱があります。大きく“唐船維纜石(とうせんいらんせき) 西道仙書”の文字。維纜石は、かつて長崎に入港した唐船をけい留していた歴史的なものです。ほかにもシーボルト宅跡の碑など、道仙は歴史史跡の保全に尽力しています。また、「長崎文庫」を創設して、散逸する古文書を収集し発刊。のちに長崎文庫の蔵書は県立長崎図書館が創立する際に寄贈されました。 郷土史誌の刊行などにも貢献した道仙は、1913年、78歳で亡くなります。 さて、道仙が初めて万歳をとなえたのは1872年、長照寺での会合の場。その後、新聞を創刊するときにも社員に万歳の唱え方を教えて唱和させたといいます。長崎市の万才(まんざい)町は、明治天皇の長崎行幸を記念して、島原町が萬歳町に改称されたのがはじまりです。これも道仙の提案だったといわれています。 万歳と長崎の深い関係。この事実を付け加えた“長崎版”万歳三唱の音頭はいかがでしょうか? 「はなはだ僭越ではございますが、ご指名を頂戴しましたので、万歳三唱の音頭をとらせて頂きます。ここ長崎の地から万歳三唱は全国に普及しました。明治に長崎で活躍した西道仙先生がその創始者です。医者、教育者、新聞人、政治家、歴史家として長崎に貢献した先生を顕彰し、また、これからの皆様の末永いお幸せと、ご多幸とご繁栄をお祈りいたしまして、万歳三唱で締めさせていただきたいと存じます。ご唱和をお願いいたします、万歳!万歳!万歳!」 [文:高浪利子] 参考文献 『西道仙〜明治維新後の長崎を駆け抜けた快男子』長島俊一著(長崎文献社) 『長崎石物語』布袋厚著(長崎文献社) 『中島川遠眼鏡』宮田安著(長崎文献社)
  • 線路は続くよどこまでも・佐藤政養 2009年02月11日
    線路は続くよどこまでも・佐藤政養
    線路は続くよどこまでも・佐藤政養 佐藤政養) 1821年〜1877年 山形県出身 鉄道家  今回紹介すっとは佐藤政養。江戸時代に長崎で学び、維新後の政府にとって一大プロジェクトだった、日本鉄道創設の責任者として大きな業績ば残した人ばい。  佐藤政養の出身地は今の山形県飽海郡遊佐町(あくみぐん ゆざまち)。出羽富士とも呼ばれる綺麗な山、鳥海山(ちょうかいざん)のすぐ近くの村で生まれたと。家は農家で、あんまり裕福ではなかったばってん、政養は農作業の合間に隣の村まで、漢学や書道、彫刻の勉強に通ったとって。1853年(嘉永6)に、仲良うしとった友達が江戸に行ったことに刺激ば受けて、「オイもいかんば!」って思うてから、江戸へと向かった。はじめは山形で学んどった漢学や彫刻ば勉強するつもりやったらしか。でも、こん年は浦賀にペリーが来たりして、江戸の町はいろいろと騒がしかったけん、政養はそれば見て、「国のためには蘭学の方がよか」と思い立ち、勝海舟(かつ かいしゅう)の門下生になったげな。  勝海舟という師と出会った政養は、そこで蘭学、西洋砲術、測量術などば勉強したと。やがて勝と共に長崎に来て、長崎海軍伝習生として勉強ば始めたとよ。長崎海軍伝習所での政養はオランダ士官から軍艦操縦術、フルベッキからは洋学など、たくさんのことば学んで、外国の新しい知識と技術ば身につけていったとって。こん時に勉強したすべてのことが、後に日本の鉄道創設に役立つことになるとさね。政養はね、勉強のできただけじゃなかとよ。人柄が良かうえに才能もあるもんやけん、師である勝海舟から信頼されて塾頭まで務めたとってよ。  長崎で新しか知識と技術ばしっかりと身につけて、勝と一緒に江戸に戻った政養は、幕府からも注目される存在になったと。そして国防の第一線で大活躍すっとばい。政養の凄かところは、命じられたことだけばするとじゃなくて、幕府に対してきちんと忠告もしたこと。当時、幕府は欧米と通商条約ば結んどって、神奈川の開港を約束しとったとけど、江戸湾の測量ばしたことのある政養は、「神奈川より横浜の方が開港には絶対的に有利」ということがわかっとった。だけん、そのことば師匠の勝海舟から幕府に伝えてもろうて、ついに横浜開港を実現させたとよ。今も開港当時のハイカラさが残る横浜は、開港前は小さな小さな寒村やった。だけん、幕府の人たちは大きか神奈川を開港した方が得策と思とったらしかけど、政養が綿密に調査して作った資料ば見た勝は、幕府ば説得して横浜開港にこぎつけたと。  やがて江戸幕府が倒れ、時代は明治へと移るとけど、ここでも政養が長崎で学んだことが役立つとさね。  維新後の新政府にとって、国内の交通網の整備は重要な課題。なかでも鉄道の建設は悲願というてもよかほどの大事業!その当時、政養の身分は幕臣やったと。でも、政養の持っとる知識と技術は、世界と対等に付き合いたい日本の新政府にとって、何としても欲しかった。こうして政養は、請われて新政府の仕事ばすることになって、東海道や関西方面の調査などたくさんの事業を、責任者となってこなしていった。鉄道技術自体は当時の先進国やったイギリスから導入したとけど、技師とのやりとりや、どこに線路ば敷くかなどの決定は政養の仕事やったとよ。  また、政養は人材育成にも力ば入れたと。当時は鉄道の知識や技術を持った日本人は少なかったけん、どうしても外国人技師に頼るところの大きかったとね。当然、高給で雇わんばいかんごとなるし、政養は国費の損失と考えとったらしか。それで、自分で塾ば開いて技術者の育成と指導に励んだとって。  たくさんの努力のかいあって、日本で初めての鉄道がみごと開業。1872年(明治5)、東京の新橋から神奈川県横浜市までの29キロば蒸気機関車が走った!  ところで、日本で初めて鉄道ば開業したとは東京やけど、初めて蒸気機関車が走ったとは長崎やったって知っとった?新橋から横浜に向けて汽車が走った7年前の1865年(慶応元年)、外国人商人のグラバーさんが長崎で蒸気機関車ば走らせたとばい。大浦海岸通りに600メートルほどのレールば敷いて、今の市民病院前から松が枝まで、客車2両ばつないで人ば乗せて走ったとよ。汽車の名前はアイアンデューク号、カッコよか名前やね。この汽車は上海博覧会に出品されたイギリス製で、そればグラバーさんが買いなったと。グラバーさんは造船や炭坑やらの商売ばしよらしたけん、長崎で鉄道業ば始めるつもりじゃなかったとやろかと思うたら、そうでもなかったとばいね。でも、当時の人々に刺激ば与えたのは確かたいね。  さて、日本の鉄道史に名を残す貢献ばした政養は、55才という若さで亡くなってしまうとけど、江戸時代には将軍・徳川家茂から、明治時代には明治天皇から褒美ば贈られとるとよ。二つの時代にまたがって、「鉄道」という新しい輸送のかたちを切り開いた偉人ばいね。政養が残した、東海道や中山道の地図、調査文書など、資料の数々は交通博物館や鉄道博物館に保存されとって、それば見ても政養の持っとった知識や技術のレベルの高さがようわかるらしか。  みんなも汽車に乗る時には、長崎での遊学を経て鉄道線路を繋ぎ延ばした「佐藤政養」のことば思い出してみてニャー。  鉄道といえば、今は「長崎駅」が長崎本線の終点ばってん、昭和の時代には出島岸壁まで線路が延びて、「長崎港駅」という駅があったとばい。上海行きの日華連絡船に乗る人には便利やったとって。戦後は貨物列車しか走らんごとなって、とうとう昭和62年に廃線となってしもうたとけど。「懐かしかねー」と、覚えとる人もおるかもたいねー。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子]
  • 長崎で活躍した貿易商・グラバー 2009年02月04日
    長崎で活躍した貿易商・グラバー
    〜幻のハリウッド映画化計画〜 明治日本の近代化に残した確かな足跡  2009年(平成21)の今年は、トーマス・ブレーク・グラバーが長崎に来航して150年の節目の年になります。  スコットランド出身のグラバーは、1859年(安政6)、安政の長崎開港の年に21歳の若さで来日し、同郷のK・R・マッケンジー経営の貿易支社に勤務しました。1861年(文久元)にはグラバー商会を設立。坂本龍馬らに銃や戦艦などを大量に売り、茶、絹、銀などの日本の特産品を輸出し、幕末の政治情勢にも深く関わりました。同時に、伊藤博文らの英国留学の橋渡しをするなど、日本の有望な若者たちに多大な援助をしたといわれています。 明治政府が勲二等旭日重光章を授与  グラバーは幕末から明治初期の長崎で造船、採炭、製茶など幅広い事業を展開。「ソロバン・ドック」や鉄道、採炭用機器など、当時の最新技術を日本につたえました。  1870年(明治3)のグラバー商会の倒産後は三菱の顧問となり、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(のちの「キリン麦酒株式会社」)の設立にも関わりました。経済人として日本の近代科学技術導入に大きく貢献し、明治日本の近代化に確かな足跡を残したことでも知られています。  1897年(明治30)、グラバーは東京へ転居し、三菱の顧問として余生を送りました。1908年(明治41)には明治政府が勲二等旭日重光章を贈り、その功績をたたえています。 実現直前までいった映画化計画があった!  実は、1997年頃、そのグラバーを主人公にした、俳優ショーン・コネリー主演のハリウッド映画化の動きがありました。この計画は結局中止となりましたが、当時のアバディーン(スコットランド北東部の都市)の地元紙にも大きく記事が掲載されています。その幻に終わった映画化計画の詳しい経緯を、長崎市・アバディーン市のロータリークラブ トーマスグラバー奨学生(2007年〜2008年 第11回生)である峰貴之さん(長崎大学経済学部学生)にお聞きしました。  アレクザンダー・マッカイ氏は、かつて石油会社の日本支社に勤務していた時に日本人女性と結婚し、新婚旅行で長崎市のグラバー邸を訪れ、同郷の貿易商グラバーの活躍を知ったそうです。しかし当時のアバディーンではグラバーの知名度は無名に近い状態でした。そこでマッカイ氏は、地元の人々にグラバーのことをもっと知ってもらいたいと思い、独自にグラバーの研究を始めました。  その後、転勤でアバディーンに移ったマッカイ氏は、勤務の合間や休暇を利用してグラバーの研究を続け、1993年に『スコテッシュ サムライ』を出版、日本でも翻訳されました。この出版がきっかけとなり、アバディーンでは無名に近かったグラバーの日本での活躍ぶりと長崎との深い結びつきが市民の知るところとなり、さらには長崎とアバディーン両市の民間交流が生まれ、ロータリークラブの“トーマスグラバー奨学生の交換留学制度”が始まったのです。  その数年後、マッカイ氏が中心となり『スコテッシュ サムライ』を原作としてグラバーを主人公にした映画化が計画されました。この計画の目標はグラバーの知名度を日本でのそれと同じレベルにすることでした。マッカイ氏は、映画用の脚本をアバディーン大学教授で詩人・脚本家・小説家のアラン・スペンス氏に依頼。ハリウッドに映画化を持ちかけ、計画は撮影が始まる直前まで進んでいたそうです。グラバー役にはベテラン俳優のショーン・コネリーとユアン・マクレガー(青年時代)の起用がほぼ決まっていたといいます。しかし同時期に俳優トム・クルーズ主演の『ラスト サムライ』の映画化が進行中で、内容が重なる部分が大きいという理由から、残念ながらこの計画は中止となりました。こうしてグラバーが主人公のハリウッド映画化は断念され幻に終わったのです。  その時の脚本をアラン・スペンス氏が小説(史実を題材にしたフィクション)に書き替え出版したのが『The Pure Land』というわけです。この小説は年内にも日本語訳で単行本化の予定だといいます。 グラバー主人公のドラマ化の市民活動始まる 2007年(平成19)にトーマスグラバー奨学生に選ばれた峰さんは、約1ヵ月間アバディーンに留学しました。9月に帰国し長崎市長に活動報告をして、10月にオーストラリアに半年間留学し、2008年(平成20)3月に長崎へ戻ってきました。  峰さんは「アバディーンにある歴史博物館にはグラバー関係の展示コーナーがあります。アバディーンで開かれた“日本展”のパンフレットの最初のページにはグラバーの顔写真が大きく掲載されていました。しかし日本に比べるとまだまだグラバーの知名度は低いようです」と留学時の感想を話してくれました。  ところで、幻となったハリウッド映画化計画とは別に、長崎市内でも昨年からグラバーの功績を顕彰する目的で、市民塾の活動の一環として、グラバーを大河ドラマの主人公にという動きがあります。しかしドラマ化を推進するには元になる原作が必要だろうという話になり、グラバーと同じスコットランド人の視点で描かれたものがないかと、市民塾の有志が情報を集めたそうです。そこで峰さんの留学情報から『The Pure Land』の存在を知り、アラン・スペンス氏に手紙を送り許可を得て(日本語訳の単行本化とは別に)、有志5人が約3ヵ月かけて『The Pure Land』を翻訳しました。翻訳作業には峰さんも参加しました。  この『The Pure Land』の翻訳作業中に、2010年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』が決まり、グラバーも重要人物として登場するという、活動の弾みとなるニュースが飛び込んできました。  峰さんの話によると、市民塾では現在もグラバーを主人公にしたドラマ化の実現に向けて、プロジェクトを推進しています。今回翻訳したものを何らかのかたちで活用して、日本でのドラマ化や映画化実現のきっかけになればと、その活動の輪を広げているそうです。 [文:小川内清孝/取材協力・資料提供:峰貴之さん] 参考文献 『明治建国の洋商 トーマス・B・グラバー始末』(内藤初穂著 アテネ書房) 『旅する長崎学8 近代ものがたりII』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学9 近代ものがたりIII』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • 江戸時代のストイックヒーロー 2009年01月14日
    江戸時代のストイックヒーロー
    江戸時代のストイックヒーロー 了翁道覚(りょうおう どうかく) 1630年〜1707年 秋田県出身 僧侶・社会事業家  新しい年を迎えました。牛さんよりもモゥーッと目立つように、“じげにゃん”も頑張るけん、今年もどうぞよろしくニャン。  さて、今回紹介すっとは、了翁道覚(りょうおう どうかく)禅師。仏教の大切なお経の本を集めてお寺に寄付したり、捨て子・迷子の養育や大火事の被災者の救済を一生懸命におこなったりと、教育文化、社会福祉、公共事業などに尽くしたお坊さんばい。  了翁道覚は、今の秋田県湯沢市生まれ。小さい頃にお母さんば亡くし、お父さんもあまりの貧しさに育てきらんで、伯父さんの家に引き取られたとけど、その伯父さん夫婦も早う死んでしもうたとって。伯父さん夫婦が亡くなったとは流行り病が原因やったばってん、実の親と育ての親を次々に亡くした道覚は、「あの子は不幸を招く子どもだ」と言われ、引き取り手が無くなってしもうた。親のおらんだけでも大変かとにそがん噂までたてられて、本当に可哀想かよね。  こうして道覚は、望んだわけじゃなかけど、龍泉寺というお寺に預けられることになったと。こんとき道覚は12歳、ここから了翁道覚の仏教の道が始まるとばい。  ところで、みんなは「一切経」って知っとる? “じげにゃん”は初めて聞いたとけど、大蔵経とも言って、お経の百科全書みたいなものらしか。あらゆるお経ば集めたもんで、とても高価やったとって。ほら、あの『西遊記』に出て来る三蔵法師様は知っとるよね。あのお坊さんが旅に出たともこの一切経ば求めてやったげな。この「一切経」の存在が道覚の人生に大きく関わることになるとよ。  道覚は14才のときに平泉(岩手県)の中尊寺に行ったとね。そこには奥州藤原氏が奉納した一切経があったはずとやけど、どうしたもんかバラバラになってしまっとって、必死で探しても6巻しか見つけきらんやった。嫌々入った仏門けど、道覚はここで初めて、仏教における自分の使命みたいなもんば感じたとって。「大切な一切経、いわば仏教の大辞典がこんな状況になっとるとは、一般の人はもちろん、僧侶自身も仏教の意義ば理解しとらんけんたい!」と憤って、自分が生きとる間に一切経ば集めることば誓ったと。道覚は他の人ができない事をたくさん実現させたとけど、なかでも「一切経」の寄進は、偉業という言葉がぴったりのことじゃなかやろか。道覚は自分の宗派だけではなく、他の宗派のお寺さんにも同じように寄進したとよ。なかなかできんことばい。  さて、そろそろ、長崎との関わりの話ばせんばいかんね。  道覚と長崎を結びつけたとは、隠元禅師(いんげんぜんじ)。元和6年(1620年)、中国の僧・真円(しんえん)によって開かれた長崎市寺町の興福寺に、日本黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖となる隠元禅師が承応3年(1654年)にやってきたと。当時、隠元禅師は高僧の誉れ高く、日本中の注目ば集めたとって。  幕府の鎖国政策のもと、海外貿易の窓口になっとった長崎には、外国の様々な文化が入ってきて、そんなかに中国・明時代の黄檗文化もあったとね。隠元禅師が日本に伝えた黄檗文化は幅広く、仏教美術や建築はもちろん、インゲン豆、精進料理、お煎茶など数えきれんほどあっとよ。隠元禅師の噂はあっというまに日本中に広まって、仏教関係者だけでなく、各藩のお殿様からのお使いや学者などが、隠元禅師に会うために長崎に集まったと。今風に言えば「カリスマ坊さん」たいね。道覚も隠元禅師来日のことを友人から聞き、長崎に向かったとばい。  今と違って、電車や飛行機で移動できる時代じゃなかけん、道覚は岡山や広島のお寺で修行をしながら待ち、ついに来日直後の隠元禅師に会うことができたと。そんでそのまま、長崎で修行を積んで黄檗宗の僧になったとよ。やがて隠元禅師は長崎から京都に移りなさったとけど、道覚も同行して、隠元禅師が京都に萬福寺を建立したときには、それはそれは尽力したとって。  萬福寺の建立も無事に終わり、江戸へと移った道覚。「一切経」収集の悲願はあっても財力はなかし、後援者もおらんやった。ただただ仏に祈願するだけやったげな。あるとき、厳しい修行の後遺症に苦しんどった彼の夢枕に、黙子如定(もくすにょじょう)が現れたとって。長崎のジゲモンにはお馴染みの黙子如定は、中島川の「眼鏡橋」ばつくったことで知られとるお坊さんばい。それが夢で言うことには「後遺症ば治す薬の作り方を教えるけん」と。道覚が素直に処方に従って調合したら、あ〜ら不思議。本当に良く効く薬のできたとって!この薬に「錦袋円(きんたいえん)」と名前ばつけて、万能薬として売り出したとさね。そしたらこれが大当たり!そのお金で悲願だった一切経収集の夢ば実らせ、なおかつ天和2年(1882年)の江戸大火の被災民への義援金やら、捨て子や迷子の世話、亡くなった人の埋葬などに使ったとって。錦袋円は困っとる人たちには無料で配られ、江戸の人々は道覚のことを「如来様」と呼んで慕ったげな。  道覚は一切経を集めただけでなく、上野に図書館をつくって一般の人も一切経ば見ることができるようにしたとよ。錦袋円で得たお金は、自分のためには一切使わんで、自分自身は本当に質素な暮らしぶりやったらしか。  道覚は、こげんふうに慈愛と奉仕の人やったけん、終生周囲の人たちに慕われたことは言うまでもなかね。  弟子のひとりが彼の最期ば書き残しとるとよ。亡くなる前の道覚のところに、出家したいという人が故郷・秋田湯沢市から来たとって。道覚の体調ば心配した周囲の人たちは止めたらしかとけど、「自分がする最後の出家の儀式」と言って微笑んで式に臨んだとって。そして自分で書いた法名ば渡して、「もう自分は長いことはなか」と死期が近づいたことを周りに告げて、2日後、静かに息ば引き取りなさったとって。錦袋円が爆発的に売れて、図書館までつくった道覚やったけど、自分の物はほとんど人々に分け与えとったけん、後に残ったとは竹製の法具と略式の袈裟だけやった…。  今回登場した黄檗宗のお坊さんの了翁道覚さんと隠元さんは、他にもみんなの身近なものにかかわっとっとばい。たとえば、カレーライスについてくる福神漬け。あれは道覚さんが考案したもんじゃなかろうかって言われとっとばい(諸説有り)。また、パソコンの文字でお馴染みの明朝体や400文字詰めの原稿用紙は、隠元さんが日本に広めたとって。何百年も昔の人たちやけど、なんだか親しみがわくニャー。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂) 『長崎遊学者辞典』平松勘治著(発行/渓水社) 『了翁禅師没後300年記念誌』了翁禅師没後300年記念誌編さん委員会編集(発行/了翁禅師没後300年記念誌事業実行委員会)
  • 転身し続けた異彩の人・福地桜痴(福地源一郎) 2009年01月07日
    転身し続けた異彩の人・福地桜痴(福地源一郎)
      福地桜痴(『還魂紙料』より) 福沢諭吉(著述家) 福地源一郎(新聞記者) 伊藤博文(政治家) 鳩山和夫(法律家) 渋沢栄一(商法家) 中村正直(学術家) 佐藤進(医師) 北畠道竜(教法家) 守住貴魚(画家) 榎本武揚(軍師) 1124票 1089票 927票 618票 596票 592票 565票 486票 459票 425票  1885年(明治18)、『今日新聞』(現『東京新聞』、元『都新聞』の前身)が、その時代、各界を代表する人物の指名投票をおこないました。結果「日本十傑」として、上記の人々が選出されます。もっとも票を獲得したのが福沢諭吉。ついで福地源一郎(ふくちげんいちろう/福地桜痴・ふくちおうちとも呼ぶ)、諭吉と並んで「天下の双福」と称された人物です。  幕末から明治、日本が大きく姿をかえた時代に異彩を放ち、新聞人、経済人、事業家、戯作者、小説家、政治家と多方面で活躍した福地桜痴は、長崎に生まれました。 新聞との出合い  桜痴は1841年(天保12)、長崎の新石灰町(しんしっくいまち)[長崎市油屋町]で医師の父 苟庵(こうあん)、母 松子の間に初めての男子として誕生。幼名を八十吉といい、小さいころから優秀で神童と呼ばれていました。15歳のときにオランダ通詞・名村八右衛門(なむらはちえもん)のもとで蘭学を学びます。名村は出島オランダ商館長が、幕府へ世界情勢を報告する「風説書(ふうせつがき)」の口授翻訳をする際に、桜痴を筆記者にしていました。桜痴は、いつも出島にいるカピタンがどうして海外情報を知っているのか疑問に思い、名村にたずねると、「西洋には新聞という印刷物があって毎日刊行されている。それは国内外の時事を知らせるものでカピタンはそれを読んで重要な事柄を奉行所に伝えるのだ」と、古いオランダの新聞を手渡しました。桜痴が初めて手にした新聞はアムステルダムで発行されたものでした。  1858年(安政5)、18歳の桜痴は長崎を出て江戸へ。父 苟庵の旧知で英学者の森山栄之助(もりやまえいのすけ)からイギリス学を学びます。当時、江戸で英書を読むことができたのは、森山と中浜万次郎(ジョン万次郎)の二人だけだったといわれています。その森山の世話で桜痴は幕府につかえることになりました。 ヨーロッパで思想と文化にふれる  1861年(文久元)、桜痴にヨーロッパへ使節派遣のチャンスが訪れます。出航する船には、福沢諭吉の姿もありました。  ロンドンで桜痴は新聞社を訪ね、記者が政府や議会に対して意見を述べているのを目の当たりにし、いずれ自分も新聞記者になって時事を痛快に論じたいと思うようになります。また、フランスでは歌劇や演劇の見物に出かけていますが、台詞や話の筋がまったくわからない桜痴ら使節の一行は居眠りに終始し、会場の嘲笑をかいます。あらかじめ話の筋を理解していれば退屈しないだろうと考えた桜痴は、英語とオランダ語のできる接待係に筋を聞き、それを使節にも伝え観劇。次第に演劇に興味を覚え、シェイクスピアなどの戯曲を学びはじめます。これが後の演劇人 福地桜痴としての下地をつくっていくことになるのです。 さまざま人との出会い  江戸城引き渡しがあった1868年(明治元)4月、桜痴は『江湖新聞(こうこしんぶん)』を発行。「政権はただ幕府から薩長(薩摩藩と長州藩)に移動したにすぎない。これで維新の目的は果たされたといえるのか」と述べ、新政府側の怒りを買います。新聞は発禁処分となり、桜痴は逮捕。幸い木戸孝允(きどたかよし)がとり成したため、無罪放免となりましたが、これは明治時代初めての言論弾圧といわれています。この年、桜痴は幕府を辞して翻訳や執筆などで生計をたてるようになり、翌年には日新舍という英語、フランス語を主とした洋学校を開校。当時、福沢諭吉の慶応義塾、中村敬宇の同人社とならんで東京の三大学塾と称されました。日新舍の学生には、のちに東洋のルソーと呼ばれ自由民権思想と運動に大きな影響を与えた中江兆民もいました。桜痴は中江を教頭にして日新舍を任せ、吉原通いに耽るようになり、そのうち中江も遊興し、日新舍はめちゃくちゃになっていきます。桜痴という号は、吉原でひいきにしていた妓女の櫻路(さくらじ)にちなんでつけたというほど。桜痴の吉原好きは有名で、さと夫人との結婚当夜も吉原に出かけ帰らなかったというエピソードもあります。  また、吉原では、渋沢栄一(しぶさわえいいち)との出会いもありました。1870年(明治3)、渋沢の紹介で、伊藤博文と会った桜痴は意気投合。大蔵省御雇となり、伊藤にしたがって渡米、銀行や会社、国家会計、金融などの調査をしました。ちなみに、society=社会、bank=銀行の翻訳語をはじめて使用したのは桜痴といわれています。  帰国後、大蔵省一等書記官となり、今度は岩倉具視にしたがってアメリカとヨーロッパへ渡ります。 記者としての面目躍如 福地桜痴(国立国会図書館蔵)  そのころ国内では、征韓論で政府が分裂、その後、渋沢栄一が大蔵省を去り、桜痴も政治家としての道をあきらめ大蔵省一等書記官を辞職、主筆として『東京日日新聞』にはいります。桜痴が34歳のときでした。  当時、日本の新聞記者の社会的立場は低く、大蔵省の役人から新聞記者への転職に、周りは反対。桜痴は「おれが新聞記者になったからには、それだけのことはしてみせる」と啖呵をきったといいます。  そのころ政府には官報がなく、桜痴は『東京日日新聞』を政府の機関紙にと願っていたようで、大蔵省時代の人脈で、伊藤博文や大隈重信に直接意見を聞き記事にし、その一方、自らの筆で社説を書き、それを新聞の目玉にしていました。社説を設けるという事は新聞がひとつの主張をもって世に訴えるという、新聞近代化の第一歩でもありました。『東京日日新聞』は好評で発行部数は上昇。1876年(明治9)、桜痴は『東京日日新聞』の社長に就任します。他方、演劇への興味が強くなり研究をはじめた時期でもありました。  1877年(明治10)、西南の役がはじまり、桜痴は戦地で取材し新聞に掲載します。連日の現地報道に『東京日日新聞』の売り上げはさらに急上昇。桜痴は京都御所で明治天皇に戦況を言上することになります。2時間にもおよぶ報告を行い、金五十円と縮緬二反を下賜し、慰労の酒肴を頂戴しました。酒の飲めない桜痴でしたが、このときばかりは、酒を飲み、のちに「酒を口にしたのは、後にも先にもそのときだけだった」とよく語ったといいます。 桜痴、動く!働く!書く!  十郎が死去したのを機に歌舞伎座の作者をやめ、こんどは活動の場を政治にもとめます。日露戦争が開戦した1904年(明治37)、桜痴は64歳で衆議院議員に当選。しかし、まもなく病の床につき、1906年(明治39)1月4日、66歳で亡くなりました。  明治時代、官と民の間をいったりきたりしながら、西洋の文化を巧みに取り込み、政治、経済、文化、メディアなど多方面で近代化に影響を与えたのが福地桜痴でした。  さて、エジソンの発明から間もない蓄音機に、はじめて肉声を吹き込んだ日本人が『東京日日新聞』社長時代の桜痴です。第一声は「こんな時代になると、新聞は困るぞ」。 いま、桜痴が生きていたらネット情報社会にある新聞をどのように表現するのでしょうか? [文:高浪利子] 参考文献 『明治の異才 福地桜痴〜忘れられた大記者』小山文雄(中公新書) 『ヴィネット00 櫻痴、メディア勃興の記録者』片塩二朗(朗文社) 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(長崎文献社)
  • 静かなる熱血漢・二宮敬作 2008年12月10日
    静かなる熱血漢・二宮敬作
    静かなる熱血漢・二宮敬作 二宮敬作 1804年〜1862年 愛媛県出身 医者  今回紹介すっとは、シーボルトやその娘・おイネさんの物語に必ず登場する二宮敬作(にのみや けいさく)ばい。彼は農業のかたわらお酒ば売る、半農半商の家で生まれなったと。おとなしいけど賢い子どもで、早くから医者を目指しとったらしかよ。  長崎に来たとは文政2年(1819)、16才の時。武士の家系でもなく医師の家系でもない敬作が、蘭学を目的に長崎遊学できたとやけん、もう時代もずいぶん新しくなっとったとね。  長崎にやって来た敬作は、オランダ通詞の吉雄権之助(よしお ごんのすけ)、その弟・忠次郎(ちゅうじろう)から蘭学を学び、美馬順三(みま じゅんぞう)からは蘭方ば教えてもろうた。やがて文政6年にシーボルトが来日すると、美馬順三とともに門下に入り、一生懸命勉強したとって。遊学時代の敬作の暮らしといえば、貧しくていわゆる苦学生やったらしか。シーボルトから頼まれる調査や翻訳ばして、学費の支給を受けながら勉強に励んだとばい。  ところで、シーボルトって、みんな知っとるやろか?  出島にあるオランダ商館の医者として着任した人たい。ドイツ医学界の名門の家系に生まれたとけど、東洋の動植物や民族学にえらい興味のあったらしか。出島ではオランダ通詞やお医者さんたちに、医学や植物学の講義ばして評判やったけど、そいだけじゃなかとよ。当時、外国人は出島から出られんし、一般の日本人は出島への出入りはできんやったけん、シーボルトは長崎奉行から特別に許可ばもろうて、市中で診察や治療もしたとって。病気ば治してくれるシーボルトのうわさはあっというまに全国に広がって、日本中からたくさんの若か人が、教えば乞うために長崎に集まってきたとばい。やがてシーボルトは「鳴滝塾」を開き、そこで敬作も勉強したとさね。  さて、どちらかというと、歴史の中では控えめな印象のある敬作やけど、日本初の記録ば持っとるらしかよ。  なんばしたと思う?・・・・・富士山の計測ばい。シーボルトが江戸参府したとき、同行した敬作に富士山の高さば計るごと言いなったと。そいで敬作は日本で初めて、日本一の山・富士山の高さば洋式測量術で計ったとって。これがきっかけになって洋式の測量術が日本でも広まっっていったらしか。すごかね。  シーボルトに懸命に学んだ敬作は外科医としても成長し、シーボルトからもすごく信頼され可愛がられてたとって。こげんして鳴滝塾で良き師や先輩、同僚に恵まれ、長崎での学生生活を満喫していた敬作やけど、あるとき大事件に巻き込まれてしまうとばい。  文政11年(1828)、西日本一帯をふとか台風が襲ったと。その台風のせいで、シーボルトが乗るはずやった船が座礁して積み荷が流出。それを調べていた長崎奉行所が国外持ち出し禁止の物ばたくさん見つけたとって。そいでシーボルトだけでなく、弟子たちもたくさん捕まってしまったとよ。その中には敬作もいて、一時、牢屋に入れられた。この事件は「シーボルト事件」といって、たくさんの人を巻き込んだ大きな出来事やったとよ。  文政12年、この事件で国外追放の判決が下ったシーボルトは6年あまり暮らした長崎を離れることになったと。その後、敬作は釈放されて故郷の愛媛県宇和町に戻り、お嫁さんばもろうて開業したとけど、どんな境遇の患者さんでも懇切丁寧な診察ばしなったし、貧しくて診療費の払えん患者さんには無料で診察ばしなって、話題になったとって。  敬作の人柄のわかる出来事がほかにもあっとばい。天保10年(1839)、「蛮社の獄」っていうて、幕府による蘭学者たちに対する弾圧事件があったとさ。そん時に終身刑ば言い渡された高野長英(たかの ちょうえい)という蘭学者がおっとけど、牢獄ば脱走するとさね。敬作は、脱獄犯の長英ば自宅にかくまったとよ。長英は、敬作と同じく鳴滝塾の門下生。いわば学友たいね。終身刑の人ばかくまうってことは、それ相当の覚悟がいることやっけんね。敬作は友情ば大切にしとっとね。  敬作は安政2年(1855)には宇和島藩の藩医になるとばってん、再来日が決まったシーボルトば迎えるため、その翌年には再び長崎へ来て開業しなったと。そいけど、安政4年に脳溢血で倒れてしまい、幸い命は助かったとけど、右半身は動かんごとなって、左手だけで上手に手術ばしよったとって。若か頃、シーボルトについてひたすら医学の勉強ばした敬作は、外科医師としても大成しとった。  いよいよ安政6年、30年ぶりに再来日した恩師シーボルトに再会すっと。江戸へ行くシーボルトに同行するつもりやったばってん、脳溢血の二度目の発作を起こし、結局、同行を諦めた敬作はその3年後に長崎で亡くなってしまうと。  敬作のお墓は、長崎市寺町の晧台寺(こうたいじ)のシーボルトの妻・おタキさんや娘のおイネさんのお墓の近くにあるとよ。もし機会があったら、真面目に勉学に励み、師であるシーボルトの恩を忘れることのなかった二宮敬作のお墓にお参りしてほしいにゃー。  シーボルトから娘・イネの養育を頼まれた二宮敬作は、後年、イネが医学の道ば目指したとき、オランダ語や西洋医学ば教え、その道に進めるよう心ば砕きなったとって。まだ女医のおらん時代やったけん、もし敬作が「女が医者になるなんてとんでもないっ!」という考えの持ち主やったら、イネは医者にはなれんやったかもしれんたいね。敬作は“日本初の女医さん誕生”の一番の功労者かもしれないにゃー。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『幻の宰相 小松帯刀伝』瀬野冨吉著(発行/宮帯出版社) 『長崎遊学者事典』平松勘治著(発行/渓水社) 『鹿児島大百科事典』(発行/南日本新聞社) 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂)
  • 幕末のハイテクエンジニア・大野弁吉 2008年11月12日
    幕末のハイテクエンジニア・大野弁吉
    幕末のハイテクエンジニア・大野弁吉 大野弁吉(中村屋弁吉) 1801年〜1870年 京都府出身 発明家・彫刻家  みんなは“からくり人形”って見たことあるぅ?  歯車や機械ば使ったしかけで動く人形ば見とったら、もちろん日本の伝統や歴史も感じるばってん、すごか技術やねーと驚かずにはおられんばい。からくり人形の原型は平安時代からあったらしかけど、江戸時代頃からゼンマイやネジば使って、遊びごころ満載なうえにグンと精巧になったらしかっさね。今回は、持って生まれた器用さや長崎に遊学した知識なんかば活かして、後世に数々のからくり作品を残した人、大野弁吉ば紹介すっけんね。 ※からくり人形 内部にゼンマイや金属、木製の歯車などが組み合わされており、それによって様々な動作をしたり表情を変える人形のこと。 江戸時代に西洋時計の機械技術が入って以降、盛んに作られた。わずか5センチほどのものから、飛騨の高山祭の山車に見られる大掛かりなものまで、その種類は様々。  日本のダヴンチとも言われた大野弁吉は、京都の羽細工師の息子として生まれたと。長崎に最初に遊学したとは20才の頃で、数年間おったって。そのあいだに医学、理化学、天文学、数学を学んだと。また、当時の朝鮮半島の言葉ば勉強して、対馬から朝鮮半島へも渡ったらしかよ。長崎を出たあとは紀伊国(今の和歌山県)で馬術や柔術を勉強し、その後、中村屋八右衛門の娘・うたと結婚。婿養子になって、うたの実家がある加賀国大野村(今の石川県金沢市大野町)に移り、終生暮らしたとって。  金沢市にはその昔、銭屋五兵衛という豪商がおったとね。銭屋五兵衛という名前は、代々の当主が襲名する名前で、弁吉と関わるとは最後の当主・7代目たい。7代目銭屋五兵衛は、代々の当主の中でも特にやり手やったとって。そいで弁吉の才能ば見抜いとって、何かと頼りにするようになったげな。その一方で全く商売っけの無か弁吉を何かと助けたげな。そんな中で弁吉は、からくり人形や絵画、彫刻などを次々と制作したとよ。才能豊かなうえに研究熱心で、一つアイデアが浮かぶと完成するまで、2日でも3日でも仕事場にこもって、出来上がるまでご飯もろくに食べんやったって。だけん奥さんのうたは、その度に心配ばかりしなったって。でもそんだけの熱心さのおかげで、弁吉はネジば巻いてお客さんの所にお茶ば運ぶ「茶運び人形」、ぜんまいじかけでネズミが穴から出入りする「ねずみからくり」、ゼンマイと歯車と車輪の組み合わせでピョンピョン飛び跳ねる「飛び蛙」など、次々とおもしろかもんば作り出したとやろね。 その後、弁吉は42才の時に再び長崎に遊学して、今度は写真ば勉強したとって。二回目の長崎遊学から戻った弁吉は、自分なりの研究ば重ねたごたっね。それは湿版写真で、何枚か肖像写真が残っとるらしかけど、日本に銀板写真(ダゲレオタイプ)が来る前のことやけん、やっぱりすごか人やったとね。  こがんふうに大野村で制作やら研究やら続けとった弁吉の評判は、やがて加賀藩に認められたとよ。加賀藩には当時、科学者ば集めたサロンのようなものがあって、弁吉もそこに行っとったらしか。加賀藩では弁吉の才能ばたこう(高く)評価して、藩の士分として召し抱えるという話も出たとけど、弁吉は断ってしもうたげな。なんせ名誉とか出世とかには全く興味のわかんかったごたるけんね。だけん、生涯お金持ちになることはなかったばってん、長崎での2度の遊学をとことん活かして、人を楽しませ、役に立つものば作り続け、そして研究し続けた人生は、本人にとっては満足やったろうと思うとばい。弁吉はからくり人形ばっかしじゃなか、彫刻家でもあったし、発明家ともよばれとった。エレキテルやピストル、工事用の測量機とかも作っとったらしか。そいと若か人たちに、自分の持っとる知識や技術ば伝承しとったけん、明治時代には弁吉から教えを受けた人がたくさん活躍しとるとって。  藩からの誘いも断って大野村に住み、清貧の中で生涯ば終えた弁吉。本名の中村屋弁吉と呼ばれるより、終生暮らした大野の名前で呼ばれたことからして、弁吉がいかに地元の人々から慕われとったかがようわかるよね。こいまではあんまり目立たんかった弁吉やけど、最近はからくり人形師として、また科学者として再評価されとるとよ。よかったにゃー。  “からくり”と言えば「からくり儀右衛門」とよばれた田中久重(1799年〜1881年)も有名かよね。大企業・東芝の創業者としてもよう知られとる人ばい。大野弁吉と田中久重、同じ時代を生きた“からくり”つながりのエンジニア。それぞれ人生は違うけど、日本の技術の進歩に貢献した人たちばいね。ありがとにゃーん。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『大野弁吉』かつおきんや著(発行/アリス館牧新社) 『芸術新潮 ニッポン「モノづくり」奮闘記』山川みどり編(発行/新潮社) 『長崎遊学者辞典』平松勘治著(発行/渓水社)
  • 出島のテーブルと通詞たちのコーヒーブレイク 2008年11月05日
    出島のテーブルと通詞たちのコーヒーブレイク
    出島のテーブルと通詞たちのコーヒーブレイク 《おなかがすいていますので、パンを一切れ下さるようお願いします。 いとも尊敬せる ブロムホフ様   貴下の下僕 吉雄権之助》 (片桐一男『平成蘭学事始 江戸・長崎の日蘭交流史話』より) 「銅掛改請取の図・部分」 (『旅する長崎学7』より) 「銅掛改請取の図・部分」 (『旅する長崎学7』より) このように立派なオランダ語の書き付けで、パンを出島のカピタン(商館長)に無心したのはオランダ通詞の吉雄権之助(よしおごんのすけ)です。そのほかコーヒーに入れる砂糖やワインをねだる通詞もいました。オランダ通詞は、出島でオランダ語の通訳、貿易、外交、交渉の実務にあたり、長崎奉行の組織に属する地役人のことをいいます。 それにしても江戸時代にパンやコーヒー、ワインでひと休み? 出島の食卓には、いったいどんな料理が並んでいたのでしょう?また、それを見て、食した日本人の反応はどのようなものだったのでしょうか? 食材は海をわたって運ばれてきた 「蘭館図 漢洋長崎居留図巻・部分」 (長崎歴史文化博物館蔵)  江戸時代、唯一西洋人が住んだ場所が長崎の出島です。幕府が政情の安定をはかるため鎖国政策を強化し、長崎市中のポルトガル人を収容するため、1636年に作った人工島です。島原の乱後、ポルトガル人は国外退去となり、出島は空き家となります。幕府の命によって、平戸からオランダ商館が移ってきたのが1641年、その後1859年の開国まで約220年間、オランダ人たちは出島で暮らすことになります。その間、660隻ほどのオランダ船が入港したといわれています。船は貿易品のほか、出島の住人たちの食糧も積んでいました。 バター、チーズ、砂糖、胡椒などさまざまな香辛料、ジャム、ピクルス、ワインビネガー、塩漬けの肉、ハム、ジン、ブランデー、ぶどう酒などが一年分運ばれてきたといいます。また、出島内には菜園があり、セロリ、パセリ、玉ねぎ、じゃがいも、トマト、サラダ菜、ほうれん草などの西洋野菜が栽培されていました。牛や山羊からミルクを搾り、豚からはハムやベーコンが作られていたそうです。これらの食材から、江戸時代でもオランダ人の口にあった料理が作られていたことがわかります。 お世話になっている日本人のために豪華なフルコース 「宴会図 川原慶賀筆蘭館絵巻」 (長崎歴史文化博物館蔵)  日本人を交えて、出島での食卓が賑わったのは太陽暦の1月1日、オランダ正月です。出入りの地役人や商人、使用人らが礼服に身をつつみ年頭のあいさつに訪れ、正午にはカピタン主催のパーティに奉行所役人、オランダ通詞、出島乙名らが招かれて西洋料理が振る舞われました。 『長崎名勝図絵』にはオランダ正月の献立が詳しく記されています。テーブルには、各々白いナプキンとナイフ、フォーク、スプーンがセットされていました。並んだ料理はつぎの通り。 大蓋物 味噌汁 鶏肉かまぼこ 玉子、椎茸 大鉢 潮煮 鯛魚(たい) あら 比目魚(ひらめ) 鉢 牛股(もも)油揚 鉢 牛脇腹(わきばら)油揚 鉢 豚油揚 鉢 焼豚 鉢 野猪股(ししのもも)油揚 蓋物 味噌汁 牛 蓋物 味噌汁 鼈(すっぽん)木耳(きくらげ) 青ねぎ 鉢 野鴨全焼(かものまるやき) 鉢 豚の肝を研りて帯腸に詰める 鉢 牛豚すり合わせ帯腸に詰める 鉢 ボートル煮 阿蘭陀菜 鉢 ボートル煮 にんじん 鉢 ボートル煮 蕪根(かぶら) 鉢 豚臘干(らかん) 鉢 鮭臘干(らかん) 菓子 紙焼カステイラ タルタ カネールクウク 丸焼カステイラ  新年を祝う豪華なフルコース。ボートルはバター、豚臘干はハム、鮭臘干はスモークサーモン、カーネルクウクはシナモンクッキーのことをいいます。味噌汁はスープのことを日本風に記したのでしょう。 西洋のご馳走を前にした日本人、出席した誰もがスープは飲むのですが、他の料理は少し口をつけただけ。にもかかわらず、お皿は空です。出された料理は、ひとつの皿にまとめたり紙に包んだりして、家族らへお土産に持ち帰っていたのです。オランダ人たちも、その辺りは心得ていて、その後、日本料理も用意されたといいます。丸山の遊女たちもよばれ、宴は明け方まで続きました。 江戸でもオランダ正月を祝う  出島でのオランダ正月をまねて自宅で催した通詞が吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)です。西洋の調度品でととのえられた2階座敷はオランダ座敷とよばれ、全国から訪れる遊学者のあこがれの部屋でもありました。大槻玄沢(おおつきげんたく)も耕牛宅でオランダ正月を体験、江戸で開いた蘭学塾『芝蘭堂』で、蘭学者を招いてオランダ正月の宴を再現しました。これが江戸における西洋料理のさきがけといわれています。 洋画家・司馬江漢(しばこうかん)も耕牛宅を訪ね、山羊の肉などを食べたと記しています。また、そこで出会った小さな男の子のことも書きとめていました。「吉雄耕牛をおぢ様という4歳くらいの子どもがいて、オランダ語をよく覚えている。牛肉をクウベイスといい、馬をバールドという。さつまいもをやればレッケルレッケルといって食べている。レッケルとはおいしいという意味。」実は、この子がのちの吉雄権之助。冒頭で紹介した、カピタンにパンをねだったあのオランダ通詞です。通詞の名門である吉雄家に生まれ、シーボルトに学問ある通詞とよばれました。オランダ語、フランス語、中国語などをあやつり、西洋文化や医学に優れた人物で、オランダ語をよく理解できない日本の若い医者とシーボルトの間で通訳をし、教師となって導きました。 権之助が食べたパンは、日本人が焼いたものでした。パンを製造していた場所は樺島町。パンと葡萄酒はキリスト教布教に関係するものとして、幕府は日本人がパンを食べることを禁止していたため、納入先は出島に限られていました。それでも、年に二百両の売上があったというから驚きです。パン屋は世襲制で一軒だけが製造を認められていました。オランダ船が出港する秋は、船中での保存食のパンを焼くため、とくに忙しかったといいます。パン種は甘酒を利用してつくられていたようです。 よみがえる出島 カピタン部屋  さて、現在の出島(国指定史跡「出島和蘭商館跡」)は、つぎつぎと建物が復元されています。西洋からの輸入品が最初に荷揚げされた象徴的な建物の水門や輸入品が収められていた蔵、オランダ船の船長や商館員の住居だった一番船船頭部屋など、19世紀初頭の出島の雰囲気を味わうことができます。 料理部屋  また、平成18年に復元されたカピタン部屋は事務所や住居として使用されていた建物で、接待の場としても使われていました。その一室にはオランダ冬至とよんで祝ったクリスマスの豪華なテーブルが再現されています。オランダ正月にも登場した豚臘干(らかん)などの肉料理、ボートル煮、焼き菓子などを見ることができます。また、カピタン部屋のすぐ裏手に日本人を含む料理人が腕をふるった料理部屋も復元されています。出島の住人たちのため1日2回の食事を作っていた場所です。 「調理室 川原慶賀筆蘭館絵巻」 (長崎歴史文化博物館蔵)  島外にでることを禁止されていたオランダ人にとって食事の時間は何よりも楽しみだったことでしょう。また、空腹を覚えた通詞たちも異国の味でちょっとひと息。江戸時代、出島は、肉を焼く匂いや、スープの湯気が立ち上り、コーヒーの香りただよう島でもありました。 [文:高浪利子] 参考文献 『長崎出島の食文化』(財団法人 親和銀行ふるさと振興基金) 越中哲也『長崎の西洋料理 ー洋食のあけぼのー』(第一法規) 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 片桐一男『平成蘭学事始 江戸・長崎の日蘭交流史話』(智書房) 杉本つとむ『江戸長崎紅毛遊学』(ひつじ書房)
  • 臨機応変なチャレンジャー・福沢諭吉 2008年10月08日
    臨機応変なチャレンジャー・福沢諭吉
    臨機応変なチャレンジャー・福沢諭吉 福沢諭吉(ふくざわ ゆきち) 1834年〜1901年 大阪府出身 思想家・教育家  10月を迎えて、秋本番だニャン。芸術の秋、読書の秋、スポーツの秋・・・、みんなは何ばすっとかな?じげにゃんは食欲の秋だミャー♪。  さて今回紹介すっとは、福沢諭吉さん。一万円札の諭吉さん、知らない人はいないかもニャ。慶応義塾大学の創始者で、「天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」て言うたことでも有名ばい。  福沢諭吉はお父さんが豊前中津奥平藩(大分県)の大阪の蔵屋敷に勤めていた関係で、大坂で生まれたと。蔵屋敷というのは、藩でとれた米を米商人に売るための倉庫兼取引所みたいな所ばい。そこに勤めとった諭吉のお父さんは学問好きで、書物ば読むとが一番の楽しみやったらしか。実は「諭吉」の名は、中国清時代の「上諭条例」という法律書にちなんだ名前げな。ずっと探しよったこの本が手に入った直後に、諭吉が生まれたとって。お父さんは、息子の誕生と「上諭条例」ば入手できたことがよっぽど嬉しかったとやろね。  諭吉が3歳のとき、このお父さんが亡くなってしまい、お母さんは諭吉ら子ども5人を連れて、故郷の中津に戻ったと。でも、諭吉は両親の故郷・中津にはなかなか馴染めんかった。当時の日本はまだまだ身分差がはっきりしとったし、特に武家社会は厳しかけんが、子どもの諭吉でさえも、おもしろくない思いをすることが多かったらしか。だけん諭吉は物心つく頃から「なんとかして中津を出たい」とず〜っと考えとったごたるね。やがて日本が少しずつ開国へと向かっていって、外国との交流ば重視する動きの出てきた頃、中津藩では長崎に遊学したか人ば募集したとって。諭吉は「チャ〜ンス!」と思ったとやろね、すぐ応募したとさ。そして蘭学と砲学の勉強をしに長崎に来ることになったと。  長崎には中津藩の家老の息子・奥平壱岐(おくだいら いき)が先に来ていて、桶屋町の光永寺に寄宿しとったけんが、諭吉も光永寺の世話になることになったと。しばらくして、奥平が砲術家・高島秋帆(たかしま しゅうはん)の門人の山本物次郎に諭吉ば紹介して、そのあとは山本の家に世話になったげな。  山本家での諭吉はね、よう働いたとってよ。まず、眼の悪か山本先生の読み書きの手伝い。そいから山本家の1人息子に勉強を教えたり、下男が忙しい時には手伝ったり、奥さんが飼ってる犬の狆(ちん)や猫の世話をしたり・・・などなど。後年、自分でも「調法な男だ」と言うとるごと、本当によう働いたとばい。あまりの働きぶりに山本物次郎から「養子にならないか」とまで言われたとって。  当時、砲術家の山本物次郎の所には、写本を貸してほしいとか、大砲をつくるから図を見せてほしいとか、また出島のオランダ屋敷を見学する世話をしてほしいとか、いろんな人たちが来よったとって。山本先生は眼が悪かけん、そういう頼まれ事は実際は諭吉が全部かわってやっとったとね。そうするうちに、中津藩の家老の息子である奥平壱岐と下級武士の子である諭吉の、長崎での立場が逆転したような状況になったらしかっさ。おもしろくないのは奥平壱岐。「中津におんなる諭吉のお母さんが病気」とウソをついて、諭吉ば長崎から出してしまうとさね。ただ、諭吉は奥平壱岐の幼稚な悪巧みはちゃんとお見通しやったごたるね。でも、「家老の息子に楯突いてもねぇ」という心境だったようで、山本家や世話になった長崎の人たちにお礼を言うて素直に長崎から出たとさね。  そいけど、どうにも中津に戻る気にはなれんかったようで、最終的には、諭吉の兄・三之助の尽力で大坂の緒方洪庵の適塾に入ることになったげな。塾に入ってからも、兄・三之助の死去や自分自身もコレラにかかったりと、大変なことも多かったとけど、優れた蘭学者であり塾長であった緒方のもと、諭吉はともかく蘭学を一生懸命勉強したとさ。そのかいあって諭吉の学力はメキメキとあがったと。そんな諭吉にある時、なんと中津藩の江戸屋敷から「蘭学の教師として藩で教えるように」と言ってきたげな。その時の江戸家老は、諭吉ば長崎から追い出した、あの奥平壱岐。諭吉の心にはほんの少しわだかまりがあったみたいやけど、日本が諸外国と対等に向き合えるかどうかの時やけん水に流して、中津藩の江戸屋敷で教えるようになったとさ。江戸では安政の大獄の頃で、本当に日本が大きく変わる時やったけんね。中津藩から藩の中屋敷ば提供された諭吉は、そこで蘭学塾ば開くとね。これが今の慶応義塾大学のスタートばい。  小さいながらも塾の責任者となり、江戸の蘭学者仲間もできて充実した生活が始まった諭吉はある日、横浜へ遊びに行ったとって。そこで諭吉が驚いたとは、眼に入った横文字のほとんどが英語やったこと。それまではオランダこそが日本にとっての西洋やったとけど、18世紀に起こった産業革命でイギリスが大国になっていたとさ。世界、特にヨーロッパの文明の分布図が、鎖国の間に大きく変わってしまったとね。諭吉は、あれだけ一生懸命学んだオランダ語やったとけど、「今は英語ば早急に会得せんば」と思い知らされたと。でも、こん出来事は諭吉にとって大きな転機になったとね。横浜から戻るとすぐ英語の勉強ば始めて、猛勉強の日々ば送るごとなったと。塾で教えるともオランダ語から英語へと切りかえたとよ。  このかいあって、諭吉はアメリカへ渡る事になったとさ。こんとき、諭吉は多くのことば考えさせられたらしか。アメリカの機械文明などより、アメリカ社会の仕組みに一番驚いたごたっね。たとえば、諭吉が、アメリカの初代大統領のジョージ・ワシントンの子孫について訪ねたら、わりと冷淡な調子で「よう、わからん」という返事。ワシントンて言えば、諭吉の頭の中では源頼朝や徳川家康という感覚やったろうけんね。武家社会の門閥制度に対して若か頃から憤りを感じていた諭吉も、この辺は日本人やね、本当に驚いたとって。そいで、これこそ文明社会て思うたとって。諭吉はその後、日本人の思想に影響を与える人間になっていくわけやけど、この時の体験が諭吉ば指導者として導いたということかもしれんね。  日本に戻って再び猛勉強をして、さらに実力ばつけた諭吉に来たとが、幕府の通訳としてイギリスやパリなどのヨーロッパへ行く話やった。こん時の話は諭吉自身も言うとるけど、おかしかことが結構あったらしかよ。 日本人) ペラペラペラ 【訳:あ〜、君、君。タバコを買ってきてくれたまえ。】 ボーイ) ペラペラペ〜ラ 【訳:はい。承知致しました。】 やがて、お使いを頼まれたボーイが戻ってきます。 ボーイ) ペラペラペ〜ラ 【訳:お客様。大変お待たせいたしました。】 といって差し出したものは「砂糖」?!。つまり、「シガー」と「シュガー」を聞き間違えたというわけ。「タバコを買うてきて。」と頼んだ人は思わずぽつり。 日本人) タバコば頼んで砂糖と間違われるようじゃ、オイの英語もまだまだ甘かなぁ・・・。  異国の文化・文明をその眼で直に確かめた諭吉はその後、大きな転換期を迎えた日本で、教育者として活躍したことは、みんな知っとるとよね。諭吉は28歳の時、中津藩士の娘、錦(きん)と結婚。9人の子どもにも恵まれて平和で幸せな晩年やったって。1901年、諭吉は亡くなるとやけど、その後100年もせず、1985年に一万円札に登場して、おなじみの顔になったとばい。
  • 「坂本龍馬」と「近藤勇」のSP盤レコードを聴く 2008年10月01日
    「坂本龍馬」と「近藤勇」のSP盤レコードを聴く
    「坂本龍馬」と「近藤勇」のSP盤レコードを聴く  幕末の志士で明治維新の礎(いしずえ)を築いたといわれる坂本龍馬。今でも国民的人気を誇る龍馬は、長崎を何度か訪れたことがあります。土佐、江戸、京と並んで長崎も龍馬が足跡を残した重要な地だったのです。そこで、長崎県内で何か龍馬に関する"モノ"がないかと探していましたら、南島原市有家町山川の酒蔵「吉田屋」さんに、龍馬を題材にした珍しいSP盤レコードが残っていると聞いて、さっそく取材をさせていただくことにしました。  南島原市は長崎県南部、島原半島の南東部に位置し、雄大な山々と美しい海をもった地域で、日本のキリシタン史的にも重要なエリアです。1580年(天正8)にキリシタン大名・有馬晴信のもと、ヨーロッパの中等教育機関「セミナリヨ」が設置されたところ〔北有馬町〕や、1637年(寛永14)の「島原の乱」の舞台となった原城跡(国指定史跡)〔南有馬町〕などがあり、その光と影の歴史を今に伝えています。 どこか懐かしい町並みと撥ね木搾りの老舗酒蔵・吉田屋  今回訪れた有家町には古い家屋や町並みが今もなお残っていました。酒造会社や醤油店、素麺(そうめん)店などの製造業が多いのが有家町の特徴です。現在これらの店鋪を活用した「蔵めぐり」や「酒蔵コンサート」などのまちおこし事業が盛んに行われているそうです。  吉田屋は1917年(大正6)創業の老舗で、撥ね木搾り(はねぎしぼり)という技術をもちいた伝統の酒造りを行っている酒蔵です。吉田屋によると撥ね木搾りという技法は「テコの原理を応用した圧搾による酒搾りの方法で、巨大な一本の木(約8メートル)を天井からつるし、その重みとテコの原理によって微妙な圧力をかけて丁寧に搾り上げる」というもの。その製法は「まず酒袋にもろみ(発酵したお酒のもと)をつめて、槽(ふね)と呼ばれる大きな枠の中に敷き並べる。その上から蓋(ふた)をし、巨木(撥ね木)を使って圧力を掛けて搾り出す」ということでした。 筑前琵琶 坂本龍馬」と「近藤勇」のSPレコード盤の内容とは?  吉田屋の店鋪は木造で、昔ながらの懐かしい雰囲気が漂っていました。希望者には酒蔵見学も実施してくれるそうです。その吉田屋の喫茶室(座敷)に古い蓄音機とSP盤レコードが保存されていました。龍馬にまつわるレコードは、ニッポノホンの「筑前琵琶 坂本龍馬(五絃)高野旭嵐(たかのきょくらん)」とニットーレコードの「近藤勇 石橋恒男 オーケストラ伴奏」の2枚です。さっそく吉田屋所有の蓄音機でレコードを回してもらい聴かせていただくことにしました。  まずは「筑前琵琶 坂本龍馬」。その内容は、坂本龍馬の宿(近江屋)に土佐陸援隊隊長・中岡慎太郎が訪ねたところを、新撰組局長・近藤勇らが急襲し、暗殺するという龍馬最後の場面でした。龍馬暗殺の実行犯には新撰組や京都見廻組など諸説ありますが、このレコードでは、新撰組が龍馬暗殺の真犯人として描かれていました。  筑前琵琶は明治時代に博多生れの橘旭翁(たちばなきょくおう)が創始し、絃を四絃から五絃に改良し、歌を分かりやすい七五調にして全国的なブームを起こし、日本の代表的な音曲として戦前まで親しまれていたそうです。筑前琵琶奏者の高野旭嵐は、筑前琵琶をレコードに録音し、全国に普及させた人物と言われています。  もう1枚は「近藤勇」という音楽入り講談風のレコード。その内容は、左文字という刀屋が近藤勇に頼まれて「虎徹(こてつ)」という名刀を探していました。しかし2ヵ月経っても見つけることができません。左文字は気がとがめつつも虎徹ではなく無名の刀を近藤に差し出してしまいます。ほぼ同じ時刻、新撰組は清水二年坂で坂本龍馬と同士らを襲っていました。近藤は「虎徹の切れ味を試そう」と二年坂に向かって駆け出します。近藤が二年坂に到着した時には、残念ながら龍馬は逃れた後でしたが、残っていた土佐藩士を相手に近藤ひとりで切り合いをします。次々に相手を倒す近藤は「虎徹はよく切れるのう」と刀が気に入った様子。心配のあまり現場に駆けつけた左文字。近藤さんは「刀で切らず腕で切る」ので、虎徹でも無名の刀であっても関係がないのだと安堵するのでした。そして近藤は「勇はこの無名の刀気が気に入ったぞ」と最後に一言つぶやく、という物語でした。 2枚のレコードを聴き比べ。興味深い点を発見!?  1932年(昭和7)頃から戦前にかけて発売されたこれらのレコード。内容は史実と異なり講談調のフィクションなのですが、この時代の一般人が抱いていた坂本龍馬や近藤勇の人物像が垣間見えてくるようです。2枚のレコードを聴き比べていくうちにいくつか興味深い点も発見しました。  例えば2枚のレコードとも近藤勇の読みが <こんどういさみ> ではなく <こんどういさむ> となっているところ。坂本龍馬は <さかもとりゅうま> <さかもとりょうま> の2つの読みにそれぞれ分かれていました。時代とともに名前の読み方が変わっていくということでしょうか。もっとも最近では <こんどういさみ> と <さかもとりょうま> に統一して読まれているようです。  もうひとつの興味深い点は、「近藤勇」のレコードの中では坂本龍馬と近藤勇が敵対関係にありながらも、その度量や剣術の技量を互いに認め合い、一目置く存在という内容になっていることです。当時は維新回天のドラマというよりも、カリスマ性のあるライバル剣豪のチャンバラドラマに比重を置いて描かれていたようですね。  さて、2010年のNHK大河ドラマが『龍馬伝』に決まり、すでに長崎でも盛り上がりが見られます。幕末の長崎を舞台にどういう歴史上の人物たちが登場し、どういった活躍を見せてくれるのか、今から楽しみです。 [文:小川内清孝 / 取材協力:吉田屋] 参考資料 ニッポノホン「筑前琵琶 坂本龍馬(五絃)高野旭嵐」 ニットーレコード「近藤勇 石橋恒男 オーケストラ伴奏」 参考文献 『旅する長崎学7 近代ものがたりI』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『現代視点 戦国・幕末の群像 坂本龍馬』(旺文社)