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近代化に向けて

  • 成功の源はポジティブシンキングゥ〜!文人画家、田能村竹田 2008年09月10日
    成功の源はポジティブシンキングゥ〜!文人画家、田能村竹田
    成功の源はポジティブシンキングゥ〜!文人画家、田能村竹田 田能村竹田(たのむら ちくでん) 1777年〜1835年 大分県出身 画家・詩文家  少しは涼しくなってきたニャン。ちょっと早かばってん、芸術の秋を迎えるにふさわしく今回は絵描きさんば紹介すっけんね。  長崎に遊学に来たとはお医者さんや科学者ばっかりじゃなか、画家や陶芸家もきなったとよ。今回紹介するとは画家・田能村竹田(たのむら ちくでん)。こん人の名前はテレビの鑑定番組なんかで聞いた人もおるとじゃなかやろか?  田能村竹田(たのむら ちくでん)は1777年に豊後国岡藩、つまり今の大分県竹田市(おおいたけん たけたし)で生まれなったと。竹田の実家は代々藩に使えるお医者さんやったとけど、皮肉なもんで竹田も兄弟も身体のえろう弱かったごた。竹田のお兄さんは「長男は身体の弱かけん、跡継ぎにせんでもよかですか?」というお父さんの願いが藩に受け入れられたという話やっけん、どんだけ弱かったかわかるよね。  身体の弱か家族ばかばうようにして仲良う暮らしよった田能村家やったとけど、1783年の年末に火事で家が全焼。翌年には病弱やったお兄さんもわこうして亡くなり、その49日の直後にお母さんまで亡くなってしもうたとって。おまけにそん頃から竹田は耳がよう聞こえんごとなったり、目もよう見えんごとなったりしたと。踏んだり蹴ったりってこのことばい。竹田の伝記ば読みながら“じげにゃん”はえらい同情してしもうた。  先に亡くなったお兄さんと同じように身体が弱かった竹田は、22才の時に藩主から「お前は身体の弱かばってん、学問のようできると聞いた。医者のあとば継ぐとは無理せんちゃよかけん、学問の道ばいかんね」って言うてもろうたと。これがきっかけになって竹田は、幕府の依頼で岡藩が始めた「豊後国志」の編纂に関わることになったと。その編纂の中心的な人物が江戸から来た医師・唐橋君山(からはし くんざん)やった。君山という方は本当に人格者やったらしく、若かった竹田に大きな影響ば与えなったとよ。後年、竹田が才能を発揮することになる画や詩文も、君山先生のコレクションば見せて貰ったとがきっかけやったって。でも君山は編纂事業に着手した3年目に逝去。後を頼まれた竹田が苦労の末に完成させたとがその5年後。つまり8年かかって、やっと完成したと。編纂するとに苦労はしなったけど、おかげで竹田は多くの知識人たちと知り合うことができたと。師匠の君山は社交的な人で、当時の第一級の知識人たちと懇意にしとったげな。君山の側におったからこそ、勉強できたことが山ほどあったとじゃなかやろか。  最終的には画の道に自分の人生ば切り開いた竹田は、50才過ぎてから長崎に遊学したとよ。ちょっと遅めの遊学やったばいね。そん頃の竹田は画の才能によって世間では認められた存在になっとったけん、作品ば欲しがる人はいっぱいおったとって。実は竹田が長崎ば訪れたのは、この遊学の時が3回目やった。ばってん、前の2回はほんの数日立ち寄っただけで、ゆっくりと時間をかけて長崎の町に触れたとは初めてのことやったらしかよ。 当時の長崎がいかに活気にあふれていたかがわかるよね。  ところで長崎遊学の時に竹田が一時身を寄せたとが、市内にあるお寺、「春徳寺」。当時の住職さんは鉄扇禅師(てつおう ぜんじ)やったげな。高名な竹田が来るとば心待ちにしよった禅師さんは・・・ 鉄)おお、おお、元気やったとね。あん時に別れて以来、おうとらんかったけど、無事やったとね! 初対面の竹田はえろうびっくりして目を白黒させたげな。 竹)鉄扇禅師様、私はお会いするのは初めてですよ。 言われた禅師さん、涼しい顔ばして 鉄)いやいや、オイ(私)とワイ(あなた)は前世では知り合いやったけんね。ず〜っと心配しとったとよ。 竹)え〜っ!禅師様と私は前世では知り合いだったとですか 鉄)そうさ、やっと会えたとやけんお祝い(オイワイ)せんば! って言うやりとりがあったかどうかはわからんばってんが、本当に親切に持てなしたらしか。禅師さんの親切なもてなしによって、長か旅の疲れもとれた竹田は、本来の長崎遊学の目的ば果たすため、精力的に動き出したと。一番の目的は中国の画の勉強。当時の長崎には中国から画家の先生たちも来なさったけん。「さぁ、中国の画ば山ほど見らんば!」って張り切った竹田。でも、中国から長崎に入ってきた画の質の高さに、ショックば受けてしもうた。もう書くのを止めたいって思うほどの衝撃だったらしか。それでも、「これではいかん」と猛勉強ば始めたと。幸い、長崎にいた画人の教えを受けることができたし、多くの文化人や知識人と交流を持つことができたと。その結果、遊学中に画についての考え方自体にも大きな影響を受けることになって、後年、大きな業績を残すまでになったとさ。  竹田の描く絵は南画といって、中国から来た画法さね。南画の基本的な考え方は「たくさんの本を読み、自然を身体で感じ取って山や川を描きなさい」。そのためには古くからの画法を会得することも大事ということ。でも、それは中国の作品をそのまま真似るということではなかけんね。そこで竹田は、中国の画法で日本の自然を描くことで南画の精神を表現したらしか。でも、この考え方に到達するまで、本当に悩み苦しんだみたい。本場中国からきた南画の、あまりのレベルの高さに一時は筆を折ったような状態になった竹田。それでも自分はまぎれも無く日本人である、ということを再確認したとが長崎遊学中のことだったと。  若か頃から本当に苦労続きばってんが、あんだけ大変な思いばしたとに、お友達に出した手紙にこがんことば書いとるとよ。  「目の悪かことも耳の悪かったことも、自分にとってはむしろ良かったと思うとっと。耳が悪ければ余計な事は耳に入らん。目が悪ければつまらないものを見なくてもよか。身体が弱かったことで藩からは、武術の訓練はせんちゃよか、学問を一生懸命やらんね、と言ってもらえた。本当に助かったとよ」。  すごかよね。体の不自由さも、プラス思考で、良い方に良い方に考えていったとやもん。亡くなったとは59才。今の寿命から言えば早か気もするけど、息子に手をとられ旅立ったとは、幸せなことだと思う。自分の人生を前向きに生きた竹田さんに学ぶことはいっぱいあるニャン。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『田能村竹田』宗像健一著(発行/新潮社) 『大分県先哲叢書 田能村竹田』佐々木均太郎著(発行/大分県教育委員会) 『週刊 アーティストジャパン』新集社編集(発行/同朋舎出版) 『長崎遊学者辞典』平松勘治著(発行/渓水社)
  • わが国も西洋式の砲術を! 2008年09月03日
    わが国も西洋式の砲術を!
    〜日本近代砲術の祖・高島秋帆〜 高島秋帆(長崎歴史文化博物館蔵)  JR新宿駅から山手線で巣鴨駅まで約13分、都営三田線に乗り換え19分で高島平駅に到着。ここは東京都板橋区高島平、団地が建ち並ぶベッドタウンです。いまから約160年前は砲術場で徳丸原とよばれていました。この場所で大規模な西洋式砲術演習を行い、天下にその名をとどろかせたのが高島秋帆(たかしま しゅうはん)です。現在の長崎市万才町で生まれ育った生粋の長崎人。高島平は高島秋帆にちなんで名づけられました。  長崎から東京まで約1,300キロ、遠く離れたこの地に名を残した高島秋帆とはいったいどのような人物だったのでしょう? 西洋砲術との出会い  高島家は代々町年寄を世襲する名家で秋帆はその11代目にあたります。今からちょうど200年前の1808年、フェートン号事件が起こり長崎港防衛強化の気運が高まっていくなか、出島の台場を任されたのが10代目町年寄の高島四郎兵衛(しろうべえ)、秋帆の父でした。1809年、四郎兵衛は幕府から派遣された坂本孫之進に荻野流砲術を学び師範となります。秋帆は父から皆伝を受け荻野流師範となり、1814年からは町年寄見習となって出島台場を受け持つようになります。  荻野流をはじめとした和流砲術は軽砲に限られていました。フェートン号のような武装艦に対してはまったく役にたたず、高島親子は威力のある西洋砲術に注目するようになります。出島台場の担当にあった秋帆は、実戦経験のあるオランダ人から直接話を聞くことができる環境にありました。1823年に来日した出島商館長スチュルレルなどは陸軍大佐でナポレオン戦争にも従軍した人物です。  町年寄には個人的に好みの品物を注文できる「脇荷貿易」という特権がありました。秋帆は父や実兄で町年寄の久松家へ養子に入っていた碩次郎らの協力を得て、それぞれの名義で砲術関係はもちろんのこと、馬術や自然科学、医学書にいたるまであらゆるジャンルの蘭書を蒐集していました。その数は当時、個人としては国内最大のものだったといわれています。また、秋帆は文献だけでなく、大砲、弾丸、銃など武器そのものも大量に輸入していました。貪欲に西洋砲術を学んだ秋帆は高島流砲術を確立していきます。 天保上書と徳丸原演習 わが国も西洋式砲術を! 徳丸原演習(長崎歴史文化博物館蔵  1840年アヘン戦争が勃発。その内容は翌年の風説書で幕府に報告されました。イギリスの軍艦、砲術に圧倒され敗北した清と日本を重ね合わせ危機感を募らせた秋帆は、「わが国の砲術は、西洋では数百年前に廃棄したものであり、今後予想される外国からの侵略を防ぐには、こちらも外国砲術を把握していなければならない」とする『天保上書』を書き上げ、長崎奉行の田口加賀守(たぐち かがのかみ)を通じて幕府に提出します。上書は老中水野忠邦(みずの ただくに)の目にとまり、1841年5月9日、徳丸原で演習がおこなわれることになりました。幕舎が張られ、老中水野や諸大名らがこの演習を見学。遠く囲いの外からは一般の群衆の見物も許され、この中には若き日の勝海舟も姿もありました。演習参加の総員は秋帆ら100人。モルチール砲、ホウィッスル砲とつぎつぎに西洋の大砲が発射されました。演習は一発の不発弾もなく成功に終わります。幕府は秋帆の所有する大砲を買い上げ、また演習の労を賞して銀500枚を与えました。その後、高島流砲術は全国にひろまっていきます。高島親子のはじめた取り組みが日本の兵制に改革をもたらすことになったのです。  しかし、一方で高島流に批判的な者もいました。妖怪と恐れられた鳥居耀蔵(とりい ようぞう)をはじめとする反蘭学派です。  鳥居は儒学で有名な林家の出身で蘭学を「夷狄の邪説」(いてきのじゃせつ)と嫌っていました。また遠山の金さんとして知られる北町奉行の遠山景元と南町奉行の鳥居はライバル関係にあったことでも知られています。 徳丸原からわずか一年あまりで秋帆逮捕  1842年、長崎奉行伊沢美作守(いざわ みまさかのかみ)は秋帆ら多くの関係者を逮捕します。罪状は「謀反の疑いあり」。これは鳥居が秋帆を陥れるために偽装した罪で、その黒幕は老中水野忠邦であったともいわれています。翌1843年、秋帆は江戸伝馬町へ護送され投獄されます。  1845年、水野が失脚し阿部正弘(あべ まさひろ)が老中の実権を握ると、秋帆事件の再調査がおこなわれました。鳥居は不正が発覚し、奉行を解任となり丸亀藩(現香川県)お預けとなります。秋帆は、謀反の罪からは解放されたものの、他のいくつかの軽罪に問われ中追放となり岡部藩(現埼玉県)に預けられることになりました。  じつは秋帆に言い渡された中追放は遠島から減刑されたものでした。入牢中に起こった三度の火災で逃亡せず、そのたびに牢屋敷へもどってきたことが減刑の理由でした。 嘉永上書の中身は開国すべし!  開国をせまる外国船がたびたびわが国の近海に出没するようになると、幕府は海岸防衛のための砲台建設を迫られます。ここにきて秋帆の砲術の知識を役立てようと考えた老中阿部は、江川太郎左衛門が引き取るという形で秋帆を釈放。長崎で逮捕されてからじつに10年10カ月もの年月が過ぎていました。  1853年、自由の身になった秋帆は人生の復活を喜び、喜平(きへい)と名を改めます。  アメリカのペリー来航を翌年にひかえ、幕府は諸藩に意見をもとめます。そのほとんどが開国反対の攘夷論。この状況下、秋帆は「平和開国通商を」と『嘉永上書』を幕府に提出しました。幕府が出した答えは開国。この判断に『嘉永上書』の効力があったのかどうかの歴史的資料はありません。しかし多くの歴史家はなんらかの影響を及ぼしたであろうと推測しています。  幕府は開国を決定後、本格的な西洋式の軍隊をつくることになります。秋帆は講武所砲術師範役、武具奉行格につき幕府のために働きます。  妻子を江戸に呼びよせた秋帆の暮らしは長屋住まいという質素なもので、かつて10万石の大名にも匹敵するといわれた町年寄の身分にもどることはありませんでした。  晩年、秋帆は孫の茂巽、妻の香、息子の浅五郎に相次いで先立たれ、1866年の正月69才で亡くなりました。 雨の日のせせらぎの音から名づけられた「雨声楼」 高島秋帆宅跡  秋帆の別宅跡が長崎市東小島町にあります。万才町にあった本宅が1838年に大火焼失後、秋帆の本拠となった場所です。徳丸原での砲術演習から逮捕されるまで急激に変化したときを秋帆はこの地で過ごしました。 雨声楼(長崎歴史文化博物館蔵)  別宅は庭園にたつ松の老木から齢松軒(れいしょうけん)とよばれていたといいます。客室の桜の間には一面に桜花を描き金粉が施され、二階の客間からは清水寺や愛宕山を望むことができました。雨の日には小島川のせせらぎがきこえたことから別名、雨声楼(うせいろう)ともよばれています。 砲痕石  1945年、雨声楼は原爆で大破し姿を消しましたが、跡地には大砲の標的として利用され着弾の跡がみられる砲痕石が残っています。 [文:高浪利子] 参考文献 石山滋夫『評伝高島秋帆』(葦書房) 板橋区立郷土資料館『高島秋帆 西洋砲術家の生涯と徳丸原』 長崎文献社『長崎游学3 長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う』
  • ベンチャー起業のパイオニアばい、高峰譲吉 2008年08月13日
    ベンチャー起業のパイオニアばい、高峰譲吉
    ベンチャー起業のパイオニアばい、高峰譲吉  毎日暑かね〜。冷たかもんばっかり食べて胃腸の具合の悪か人もおるとじゃなか?気をつけんばね。  今回の主人公は、消化剤「タカジアスターゼ」や「アドレナリン」の薬用を実現化した高峰譲吉さんばい。長崎での遊学体験ば活かして、国際的に大活躍した科学者の生涯ば紹介すっけん、読んでみんね。  高峰譲吉さんは、1854年に加賀藩の御典医の長男として富山県高岡市で生まれなったと。長崎遊学しなさったとは12歳の時やったって。今で言えば、まだ小学生たい。そいけど譲吉さんは、どうしても長崎に行きたかて言うて、大人に交じって自分から立候補したげな。  長崎に着いた加賀藩からの遊学生たちは、長崎に住む外人さんの家に一人ずつ預けられたらしか。今でいうホームスティたいね。譲吉さんをお世話してくれたとは、ポルトガル領事のロレーロさん。ロレーロさんは、まだ小さか譲吉ばよう可愛がってくれたとって。そのおかげで譲吉さんは、外国語だけじゃなか、外国人の暮らし方やマナーとかも自然に身につけることのできたごたるね。  ある時のこと、加賀藩から長崎に使者のきたとって。ロレーロさんはえろう喜んで、譲吉と一緒に遊学に来とる人たちや加賀藩からの使者ば家に招いて、みんなで食事会ばしたとって。ところが・・・。 使)譲吉!譲吉! 声をひそめて使者の一人が呼びなった。呼ばれた譲吉が側にいくと、 使)ロレーロ先生は日本語がペラペラだと聞いていたけれど、おっしゃっていることがまったくわからないぞ。 とのこと。見ればロレーロ先生の方も使者の人たちが何ばゆうても首ば傾げたまま、通じていない様子。そこで譲吉は、 譲)私が通訳いたします。 て言うてから、使者とロレーロ先生の間に座ったとって。 使者は紋付袴で難しい顔ばして、 使)ペラペラペラ、ナントカカントカ、ペラペラペラ。 もちろんロレーロ先生にはチンプンカンプンさ。そこで譲吉の出番。 譲)ペラペ〜ラ。ペラペラ〜ペラ、ペラペラペラ。 とロレーロ先生に伝えたっとて。そしたら今度はロレーロ先生が大きか身振り手振りば交えながら、 ロ)ペラペ〜ラ。ペラペラ〜ペラ、ペラペラペラ。 って言いなったげな。それば聞いた譲吉は、また、 譲)ペラペ〜ラ。ペラペラ〜ペラ、ペラペラペラ。  そがんことば何回か繰り返しておるうちに皆、心の打ち解けて楽しく食事会ば終わらすことのできたとって。  その様子ば見とった大人たちは皆、譲吉のことば口々に誉めたとって。 大人1)さすが高峰さんとこのご子息ばい。見事な通訳ぶりやったばい。 大人2)まだこんまかとに、本当に大した子ばい。 大人3)本当に神童ばい。ところで譲吉君、二人はどがん話ばしよったとね?  そう聞かれた譲吉は半分笑いながらこうゆうたと。 譲)おいが話よったとは両方とも日本語ばい。ロレーロ先生は日本語は達者やけど長崎弁しか知らんばい。加賀藩の使者は長崎弁はいっちょんわからんさ、金沢弁しか知らんけんね。だけん、おいはロレーロ先生の長崎弁ば金沢弁になおして使者に伝え、使者の金沢弁ば長崎弁になおして先生に伝えたとさ。最初の使者は「この度は、うちの藩の子弟ば預かって親切丁寧にいろいろと教えてくれよることに、おいたちの殿様に代わって礼ば言わんばと思うて、長崎まで来たと。本当に心から感謝しとっとよ」ていうたとばい。おいはそれを長崎弁になおして先生に伝えただけさ。そしたら先生が「何ば言いなっとですか。そがん堅苦しい挨拶はやめて、みんなでゴイゴイ飲まんですか!」って答えなさったけん、そいば金沢弁になおして使者さんに伝えただけばい。つまり日本語ば日本語に訳しよったってことさ。そがん神童、神童言われたら、聞いとるほうがシンドウなる・・・。  双葉出る前から芳ばし童かな。「栴檀は・・・」の例えを出す必要もない、見事な神童ぶりの譲吉やったげな。  譲吉は長崎に3年ほどおったとけど、ロレーロ先生の家だけじゃなくて、イギリスの実業家・オルトさんのとこにもホームスティしたらしか。オルトさんも譲吉のことば可愛がって、旅行する時も譲吉ばつれて出かけるほどやったとって。譲吉は外人さんの家で暮らしながら、英語ば専門的に教えよるフルベッキという人のところでも一生懸命勉強したげな。こうして3年間みっちり英語ば学んだと。  長崎に遊学したあとは京都に移ってそこでも英語ば勉強したとって。そして1869年(明治2年)、大阪に日本で初めての医学校ができて、譲吉はそこに入学。同時に大阪舎密学校にも入学したごたっね。舎密(せいみ)てあまり聞いたことのなか言葉やけど、オランダ語で化学のことばい。Chemie(セミー)という単語にそのまま日本の文字を充てとっとばい。おもしろかね〜。その大阪舎密学校は2年でなくなってしもうたとけど、今の東京大学工学部の前身になる学校が東京にできたけん、譲吉はそこでまた舎密学ば勉強できることになったげな。その学校の先生はほとんど外国人で、他の生徒さんは言葉のようわからんけん大変やったらしかけど、譲吉は長崎でうんと英語ば勉強しとったけん、何不自由なく理解できたらしかよ。  こがんして大学で一生懸命勉強した譲吉はイギリスに留学、帰国後は当時の農商務省に入省して肥料の研究ば始めたと。当時は作物の肥料は人糞やったとけど、あまり衛生的じゃなかけんが、譲吉は「何とかしたかー」ってずっと思いよったらしか。人工肥料は研究も開発も大変やったごたっけど、完成したら農家の人たちは本当に助かったとって。  肥料づくりの見学にアメリカへ渡った譲吉は、そこで未来の奥さん・キャロラインと巡り会うたとよ。国際結婚も今ならあんまり珍しかことじゃなかばってん、明治の初めごろやけんね。譲吉のお母さんがひどく反対して大変やったらしか。でも、それば乗り越えて、日本に呼び寄せたキャロラインと結婚。落ち着いて研究に熱ばいれよったとき、アメリカから譲吉に「アメリカに来んね?」って話のあったとって。  当時、日本で譲吉が研究しとった項目の中に日本酒づくりがあったとさ。日本酒は季節とか温度に左右されやすくて、ちょっとした気温の変化で、樽ごと腐ってしまうことがようあったらしか。そこで譲吉が研究しよったとが、こうじ菌さ。「高峰式こうじ改良法」というとば確立しなったと。この譲吉の発明で、日本酒づくりがずいぶん楽になったげなもんね。  日本酒はでんぷん(米)ば糖化するとき麹を使うし、ウイスキーはモルトというて、麦芽ば使うとって。当時は麦芽を作るとに時間も手間もかかったけん、「麦芽より扱いやすい麹ば使うてみたらどげんやろか」て思いなったアメリカのウイスキートラストからの話やっとさ。譲吉は「また新しか研究のできる!」って張り切って、家族ば連れて渡米したと。  そいけど、渡米した譲吉ば待っとったとは、楽しかことばかりじゃなかったと。研究そのものは大成功したとやけど、譲吉が研究に成功したら自分たちの仕事がなくなるって勘違いしたモルト製造の関係者が、いろいろと妨害ばしたとって。それはもう大変やったらしか。だけん、譲吉は研究は成功しながら、そいば事業に発展させることはできんかったげな。残念やったろうね。でも、それでめげんとが譲吉のすごかところばいね。  日本酒とウイスキーの糖化から思いついて、譲吉が次に研究したとは「ジアスターゼ」。日本酒では麹、ウイスキーではモルトで醸造するとやけど、その両方に共通するとがジアスターゼという「発酵素」げな。このジアスターゼは人間の身体の中にもあって、でんぷん質を消化するとって。そこで譲吉が研究したとは、でんぷん質の消化ば助ける薬。それまで研究しよった麹から、酒ではなくてジアスターゼば作ったとよ。ジアスターゼば発見したとはフランスの学者さんらしかけど、どがん研究しても効き目が弱いままやったとって。それを研究して消化薬としての実用化に漕ぎ着けたのが譲吉やったと。その酵素には「タカジアスターゼ」という名前が付けられて、アメリカの製薬メーカーから世界的に発売されることになったとって。そのとき譲吉はその製薬メーカーに条件ば出したと。「日本だけは日本の製薬会社に売らせたい」ってね。  その後研究したとがアドレナリンたい。アドレナリンは外科手術のときの止血に使われたり、強心剤、喘息を押さえる薬、産科や耳鼻咽喉科、皮膚科とか、ほとんどの科で使われとる薬。だけん、本当に大発見さね。このアドレナリンの発見でヨーロッパの医学界からも注目されるようになって、譲吉の研究活動は世界的なものになっていったとって。  タカジアスターゼとアドレナリンの薬用の実現でお金持ちになった譲吉は、だんだん日本の学者たちへの支援を考えるようになったとって。1913年(大正2年)、日本に帰国したとき、当時の日本の偉か人たちば説き伏せて、1917年(大正6年)に理化学研究所を設立。それだけではなく、アメリカでも譲吉は日本人のために努力したとよ。日本からアメリカに来た人たちのお世話ばしたりしてね。  そがんして人のために一所懸命しよった譲吉が亡くなったとは1922年(大正11年)のこと。68歳やった。若か時に肝臓ば悪くして、そこに心臓病も併発したのが原因やったと。譲吉が亡くなったとき、アメリカの大新聞は、「日本は偉大な国民を、アメリカは大事な友人を、世界は優れた科学者を失った」って記事ば掲載して、譲吉の死を惜しんだとって。 譲吉のすごかところは科学の発見に終わらんで、それを事業に活かしたところと思わん?譲吉が後世に残る大事業ば成し得たのは、もちろん粘り強い性格の持ち主で勉強家であったということもあるけど、長崎で外国人と親しく付き合い、語学ばきちんと学んだことが大きく影響しとっとじゃなかかって、じげにゃんは思うとばい。長崎に遊学した体験ばうまく活かしてくれたとが高峰譲吉さんと思う。うれしか話たいね。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『高峰譲吉とその妻』飯沼信子著(発行/新人物往来社) 『堂々たる夢』真鍋繁樹著(発行/講談社) 『児童伝記シリーズ48 高峰譲吉』久保喬著(発行/偕成社) 『高峰譲吉の生涯』飯沼和正・菅野富夫著(発行/朝日新聞社) 『長崎遊学者辞典』平松勘治著(発行/渓水社)
  • 名プロデューサーの平賀源内さん、ちょっと早過ぎたばい。 2008年07月09日
    名プロデューサーの平賀源内さん、ちょっと早過ぎたばい。
    名プロデューサーの平賀源内さん、ちょっと早過ぎたばい。  7月に入って、「暑かぁ〜、なんも食べとうなかぁ」て思う頃にやってくっとが「土用の丑の日」。串ば通されて、備長炭の上でジワ〜っと焼かれた鰻。火の通ったところにタレば何重にも塗られて、ふくっ〜とした身の表面には独特の照りのある。思い浮かべるだけで、よだれのずっごたんね。  確かにさ、食が細る夏こそ食べとうなる鰻。栄養価も高かかとやろうけど、値段もちょっとばっかし高うなって。もっとも年に何回もなかけんね、「土用の丑の日」は。なんとはなしに財布のヒモも緩るうなっとやもんねー。  そいけど、なんで夏の暑か盛りに鰻の蒲焼きんごと、コッテリしたもんば食ぶっとやろか? なんでこがん習慣のできたかというと、ここで平賀源内さんが登場すっとさね。  ある日のこと、源内さんの家ば鰻屋の旦那が訪ねてきたとって。 源) 誰かと思うたら鰻屋じゃなかね。入らんね!  そがんいわれて、そっと中に入ったげな。 源) どがんしたと? えらい元気のなかね。  突然サメザメと泣き出す鰻屋・・・、鰻屋がサメザメもおかしかとけど、そう泣いたらしかよ。そんでね、源内にこう言うたとって。 鰻) もう駄目んごたっ!。私の店もおしまいんごとある。 源) いったい、どがんしたと? 鰻) 毎年毎年、夏になると客足のグンと減ってしもうて。そいでも何とか必死で今日まで持ち堪えたとさ。でも、でも、もう駄目ばい。今日なんて、夕方近くになっても誰も来ならん。暖簾を覗く人もおんならん。近所の野良犬でさえ素通りすっとよ。犬にまで見捨てられてしもうた。もう駄目ばい。 と、またここで大泣き。こまか子どもや色っぽか女の人ならまだしも、大の男に目の前で泣きつかれてもやぜかだけたい。困った源内さんは、ここで妙案ば思いついたとって。 源) 何事も宣伝が肝心に決まっとっ。よ〜し、良か事ば考えた!  と言うやいなや、筆ば取り出して、サラサラと紙に何か書き付けた。 源) どがん?  見ればそこには「土用の丑の日には鰻を」とあったげな。 鰻) これってどがん意味ね? 源) まぁよかけん!これば店の前に張り出して、蒲焼きば焼く匂いを盛大にまき散らさんですか。  どうにもこうにも困っとった鰻屋さんは、源内さんの言うごとすっしかなかたいね。そしたら、さぁ大変!! 夏の暑か盛り、土用の丑に店は押すな押すなの大繁盛。しばらくして鰻屋と会った源内さんが「おう、その後どがんね?」と尋ねたら、鰻屋のいうことには、 鰻) おかげ様で大繁盛ばい。そいばってん、あんまり忙しかけん、鰻より私の方が身の細うなるごたっ…。  うらめしや、源内さんのおもいつき。鰻の身になればたまったもんじゃなかけど、窮地の鰻屋さんを救った源内さんのアイデアはたいしたもんやねー。  さて、この名プロデューサー・平賀源内さんは、1728年、今の香川県で高松藩士の子として生まれたとって。実家は農業ばしながら藩の御蔵番をしよったとやけど身分の低くうして、源内さんは随分と苦労しなったらしかよ。しかし、そこは日本のダヴィンチ・平賀源内さん。14歳にして本草学を学び、藩の薬園の手伝いばしよった。そがん源内さんの賢か噂ば聞いた高松藩主・松平頼恭(まつだいら よりたか)様は、源内さんを長崎遊学させなった。そんとき24歳(1752年)やったげな。長崎では西洋文化に触れ、医学、動植物、鉱物、物理、科学、地理など山んごと勉強したとってよ。こんときの遊学はわずか1年ほどやったけど、1770年にもまた長崎ば訪れたらしか。源内さんにとって当時の長崎は、知識欲を刺激するよか町やったばいねー。  さて、もともと頭の良かった源内さんやけど、長崎で最先端の勉強ばしよるときに、突然、藩から呼び戻されて故郷・高松に戻ったとって。しばらくはおとなしゅうしとったけど、何を思ったか妹に婿ばとって家ば譲り、一人でとっとと江戸へ出なったげな。  江戸に出た源内さんは本草学の大家の下へ入門して、数年もたたんうちに師匠ば追い越すほどの本草学者となったとって。やっぱすごかねー。  そうそう。エレキテルの復原、オランダ焼きの製陶や西洋画の制作、戯作、鉱山の採掘など、あらゆるジャンルに才能ば発揮した源内さんばってん、一からコツコツと勉強すっとは苦手だったらしかばい。長崎に遊学したときも外国語は苦手で、たいていは通詞(通訳)さんばアテにしとったらしかよ。なんかホッとするエピソードやね。そいとね、ちょっとおもしろか話ばひとつ。外国語が苦手て言うても、遊学時代に多少は横文字ば勉強しなった源内さん。いろんな物に西洋風の名前ばつけて呼んどったとか。鰻の蒲焼きは「サイテヤーク」て。ん〜? なんやろね? 水道のことば「ヒネルトジャー」て言うたり、饅頭ば「オストアンデル」って言うたようなもんかね。シャレはあんまり上手じゃなかったごたるね。  ところで、残念なんやけど、源内さんの晩年はあまり良かことのなかったらしか。良か事も悪か事も、人には同じだけ来るとか言うけど、源内さんには人生の終了間際に一度に悪かことの来たとかもしれんね。誰かと共同でやっとった鉄山が閉山になったりとか、いろいろと良くなかことが続いたある日、源内さんは殺傷事件ば起こしてしもうたとって。そんで牢に入れられて、しばらくしてから破傷風にかかって、そのまま獄死しなったとげな。ただ、源内さんの晩年にはいろんな話のあって、誰かの手引きで牢から出て、江戸の片隅で天寿ばまっとうしなさったという説もあっとさね。結末のようわからん、不思議なとこも源内さんらしかよね。  いずれにしても源内さんがこの21世紀におったら、きっとすごか名プロデューサーになっとったと思うとさねー。生まれてくっとが少し早かったばいね。 今回の「平賀源内」さんのお話はどがんやった? 今から200年前の長崎には、こがん勉強好きの人がたくさん出入りしとったよ。 これからもおもしろか人ば見つけて紹介していくけん、楽しみに待っとってニャン。 [原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子] 参考文献 『旅する長崎学7 近代化ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『平賀源内を歩く ー江戸の科学を訪ねてー』奥村正二著(発行/岩波書店) 『歴史の群像11 先駆』尾崎秀樹著(発行/集英社) 『長崎遊学者事典』平松勘治(発行/渓水社) 『おなら考』佐藤清彦著(発行/青弓社) 『江戸時代人名控1000』山本博文監修(発行/小学館)
  • 拝啓、彦馬先生。ピンホールカメラ撮影に挑戦します! 2008年07月02日
    拝啓、彦馬先生。ピンホールカメラ撮影に挑戦します!
    〜上野彦馬の偉業に思いを馳せる〜  時は明治、大正、昭和と流れて平成の世の中になりました。今や写真技術は飛躍的な進歩を遂げ、街にはレンズ付フィルム(通称使い捨てカメラ)からフィルム不要の高画質デジタルカメラ、カメラ付き携帯電話まで溢れ、誰でも手軽にプロ顔まけの写真撮影が楽しめる時代です。  そこで、今回は上野彦馬や先達たちに敬意を表し、少しでも当時の苦労を味わおうと、カメラの原型ともいえるピンホールカメラの撮影の挑戦してみることにしました。 ピンホールカメラって何?  ピンホールカメラとは、レンズの代わりにピンホール(針穴)を開けた板を取り付ける単純な構造の原始的なカメラで、淡く優しい写真が撮れるのが特徴です。暗箱と針の穴ほどのピンホールとフィルム(または印画紙などの感光材料)だけの簡単な装置で撮影します。今回の撮影に使用したのは、市販されている厚紙製のピンホールカメラ組み立てキット(千円前後で入手できます)。組み立てには丁寧に丸一日かけて取り組みました。とくにピンホールに指紋や傷をつけてはいけないので、慎重に設置しました。  撮影時の注意点は、露光(撮影)のためにシャッターを上下する際にカメラ本体がぶれないようにすることで、何かに固定して撮らなくてはなりません。これは現代のカメラに比べてもずいぶんと不便です。カメラ撮影でこんなに緊張したのは、子どもの頃初めて親のカメラを使った時と、仕事として初めて撮影に臨んだ時以来のことでした。しかし、このわくわくドキドキ感がピンホールカメラの魅力のひとつともいえます。 いよいよ撮影開始!  まず撮影に選んだ場所は、長崎市の出島和蘭商館跡に建つ長崎内外倶楽部の建物。撮影日の6月17日は梅雨入り後のどんよりとした曇り空。カメラを鉄製の台上に固定して3枚撮影してみました。次に徒歩で眼鏡橋へ移動。中島川に架かる魚市橋中央の石の欄干にカメラを固定して5枚撮影しました。正直、フィルムの現像が仕上がるまでは、こんな簡単な原理でカラー写真が映るものかと半信半疑でしたが、全部で8枚撮影したうち長崎内外倶楽部の建物が2枚、眼鏡橋も2枚なんとか撮影できており、成功確率は50%という結果でした。不馴れなピンホールカメラのためピントはゆるめですが、全体が柔らかく絵画的な雰囲気に撮れていました。残り4枚の失敗の原因は、やはりピントが合っていなかったか、固定が甘くて全体がぶれているかでした。  撮影2日目は曇り時々晴れの天候でした。最初に1日目と同じく中島川に向かい、川沿いに建つ上野彦馬生誕地碑の上野彦馬と坂本龍馬の像を撮影してみました。続いて長崎歴史文化博物館に隣接する長崎県立長崎図書館の入口近くに建つ上野彦馬の胸像を撮影しました。ただ、2カ所とも近くに固定できる台がなく、三脚の上にカメラを乗せた状態で撮ったのですが、やはりぶれてしまって撮影した9枚全部のピントがかなり甘くなってしまいました。この日は、ピンホールカメラで撮影したのと同じ場所をデジタルカメラでも撮ってきましたので、実際にその違いを比べていただければと思います。  以上、わずか2日間のピンホールカメラ撮影は失敗の連続でしたが、彦馬先生の苦労がほんの少しだけでも理解できたような気がします。それにしても、後世に残る彦馬撮影の写真は、ピントがきちんと合い、しかも鮮明で構図もよく考えられていますよね。今回の体験をとおして、本当にこれは尊敬に値すると思いました。みなさんも長崎を訪れる際には、上野彦馬の偉業に思いを馳せて、風景や名所旧跡をピンホールカメラで切り取ってみてはいかがでしょうか。私ももう少し腕を磨いて、長崎県内の魅力的な風景写真にどんどん挑戦してみたいと思います。 日本写真界の開祖・上野彦馬の足跡  1838年(天保9)に長崎で生まれた上野彦馬は、1862年(文久2)、長崎で「上野撮影局」という写真館を開業し、横浜の下岡蓮杖と並び日本写真界の開祖のひとりといわれています。彦馬と写真の出会いは、長崎の医学伝習所でオランダ海軍軍医ポンペから舎密学(せいみがく=化学)を学ぶうちに写真術に興味を抱いたことがきっかけでした。以後、彦馬は写真術の研究や写真機の製作に没頭しますが、幕末の日本国内には感光材に使用する薬品などがなく、薬品の精製には人一倍苦労したといわれています。また、当時写真を撮られると「魂を抜かれる」という迷信も根強くあり、世間の無理解と誹謗中傷にさらされることも少なくありませんでした。  彦馬が主に取り組んだ撮影技術は、一枚しかプリントできない銀板写真ではなく、複数枚プリントが可能な湿板写真でした。銀板写真は銀メッキをした銅板などを感光材料として使用するダゲレオタイプとよばれる写真技法。湿板写真とはガラス板にコロジオンという液を塗り、湿った状態で撮影・現像をする方法です。湿板写真では、ダゲレオタイプカメラの数分程度と比較して露光時間が秒単位と短くなり、当時としては画期的な撮影方法でした。ただ、その場で現像しなければならず、スタジオ以外の撮影には不便な点もあったようです。  幾多の苦難を乗り越えて中島川畔に写真館を開いた彦馬は、坂本龍馬、後藤象二郎、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、ニコライ二世、トマース・B・グラバーといった明治維新前後に活躍した歴史上の人物を次々に写真におさめています。1874年(明治7)には長崎の大平山(現在の星取山)で行われたアメリカ隊の金星観測に助手として参加し、1877年(明治10)には西南戦争の戦跡の撮影を行うなど、カメラマンとしての実績を積んでいきました。  彦馬が撮影した数々の写真は、幕末・明治の日本を今に伝え、当時の自然、風景、風俗、歴史上の人物を知るうえで貴重な資料となっています。また、写真術に用いた薬品精製の知識は、のちに『舎密局必携(せいみきょくひっけい)』(全編三巻)という化学の本として結実し、明治中頃まで化学の教科書として使用されました。彦馬は1890年(明治23)にはウラジオストック、上海、香港に海外支店を開設し、その活動を広げていったのです。 [文:小川内清孝] 参考文献 『旅する長崎学7 近代ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学9 近代ものがたり3』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『評伝上野彦馬 ー日本最初のプロカメラマンー』(八幡政男著 武蔵野書房) 『写真の開祖 上野彦馬ー写真に見る幕末・明治ー』(産業能率短期大学出版部) 『よみがえる幕末・明治 時代の風物詩』(JCIIフォトサロン)
  • カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力(後編) 2008年06月11日
    カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力(後編)
    〜『長崎海軍伝習所の日々』より〜(後編)  リッダー・ハイセン・フォン・カッテンディーケは、江戸幕府が創設した長崎海軍伝習所の第2次オランダ教師団の司令官として、1857年(安政4)に軍艦ヤーパン号(のちの咸臨丸)で来日し、伝習生に実践航海術の指導訓練をした人物です。第1次伝習生だった勝海舟や榎本武揚は、この第2次伝習で助手的役割を務めています。そのカッテンディーケが著わした回顧録『長崎海軍伝習所の日々』には、外国人の視点から幕末の長崎の風景が詳細に描かれ、興味深い記述が多く見られます。 オランダ人エル某の墓碑に供えられた花  リッダー・ハイセン・フォン・カッテンディーケが著わした回顧録『長崎海軍伝習所の日々』には、長崎の自然や風景のほかに、特徴的な風俗や行事についても紹介されています。  ある日、カッテンディーケは稲佐悟真寺にある国際墓地に出かけ、数年前に出島で亡くなったオランダ人エル某の墓碑に供えられている新鮮な花を発見しました。関係者に尋ねると、故人は遊女を身受けし家政婦として同居していたとのこと。しかし、幸福な時間は長く続かず、彼は重病にかかり、彼女の献身的な看護も実らず亡くなってしまったそうで、その彼女が年2回の彼岸の日に墓参りをして、花を供えているというのです。  稲佐悟真寺は1598年(慶長3)創建の長崎最古の寺院で、16世紀末に来航した中国人が檀家となり中国人墓地を開設しました。その後江戸幕府の鎖国政策により、悟真寺の墓地の一画に出島に住むオランダ人のための墓地が割り当てられました。さらに1858年(安政5)、ロシア戦艦の乗組員埋葬のためにロシア人墓地が建設され、開国により欧米人のための国際墓地が開設されました。国際墓地の管理は現在、稲佐悟真寺が行っています。  話を元に戻しましょう。エル某が亡くなったあとの彼女は、再び遊廓に戻りましたが、のちに僧侶の妻となります。今や仏教関係者となった彼女が、欠かさず異教徒の国際墓地に墓参りをするという事実も、長崎の特異な海外交流史のなせる宗教的寛容さかもしれません。カッテンディーケ自身も、部下の水兵を病で亡くし国際墓地に埋葬した際に、近所の寺(稲佐悟真寺と思われる)の僧侶からの「仏式の経を唱え線香をあげたい」という申し出を快く受けています。  ところで、カッテンディーケのいうエル某とは誰でしょうか? 頭文字が「L」のオランダ人男性のことですが、興味をそそられるまま個人的に少し調べてみれば、ヒントは『時の流れを超えて-長崎国際墓地に眠る人々-』(レイン・アーンズ+ブライアン・バークガフニ著)という長崎国際墓地の調査研究書にありました。同書掲載の国際墓地に埋葬された人物一覧から該当する人物をさがしていきますと、私個人の考えですが埋葬の時期、氏名、年齢から推測して、1852年(嘉永5)10月に亡くなり稲佐悟真寺のオランダ人墓地に埋葬された、F・C・ルーカスではないかと思われました。彼はロッテルダム出身で出島の「オランダ東インド会社」に勤務していましたが、24歳という若さで亡くなっています。  今から156年前のオランダ人男性と日本人遊女の儚(はかな)いロマンスとはどのようなものだったのでしょう。墓碑に供えられた美しい新鮮な花を見つけた日、カッテンディーケはいったいどのような想いに包まれたのか、想像をたくましくしてしまいます。  さて、カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力の数々、いかがでしたか? みなさんも当時の面影が残る長崎の景観や魅力をぜひ確かめにいらしてくださいね。心よりお待ちしています。 [文:小川内清孝] 参考文献 『長崎海軍伝習所の日々』カッテンディーケ著/ 水田信利訳(東洋文庫 発行/平凡社) 『時の流れを超えて-長崎国際墓地に眠る人々-』 レイン・アーンズ+ブライアン・バークガフニ著(発行/長崎文献社) 『長崎街道 肥前長崎路と浜道・多良海道』(発行/図書出版のぶ工房) 『旅する長崎学7 近代ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学9 近代ものがたり3』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力(前編) 2008年06月04日
    カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力(前編)
    〜『長崎海軍伝習所の日々』より〜(前編)  リッダー・ハイセン・フォン・カッテンディーケは、江戸幕府が創設した長崎海軍伝習所の第2次オランダ教師団の司令官として、1857年(安政4)に軍艦ヤーパン号(のちの咸臨丸)で来日し、伝習生に実践航海術の指導訓練をした人物です。第1次伝習生だった勝海舟や榎本武揚は、この第2次伝習で助手的役割を務めています。そのカッテンディーケが著わした回顧録『長崎海軍伝習所の日々』には、外国人の視点から幕末の長崎の風景が詳細に描かれ、興味深い記述が多く見られます。その中から長崎の印象についていくつか紹介してみましょう。 こんな美しい国で一生を終わりたい  カッテンディーケは、初めて長崎港に入港した印象について「絵を見るような光景が展開した」と記し、「伊王島あたりから、奥へ大きく盥(たらい)形をなし」と形容しながら、「周囲は急峻(きゅうしゅん)な山々に囲まれ、麓(ふもと)から頂上まで人家や寺院や砲台が並び、樹林や段々畑に囲まれていた」と表現しています。また、「実際長崎港に入港する際、眼前に展開する景色ほど美しいものは、またとこの世界にあるまいと断言しても、あながち過褒(かほう)ではあるまい」とも続けています。船上の長旅から開放された感慨もあると思いますが、長崎港の地形と美しい当時の景観が、脳裏に浮かび上がってくるような描写です。  現在の伊王島から望む長崎港も昔と変わらぬ美しい姿をしています。長崎港行のフェリーに乗船し女神大橋をくぐると、眼前にすり鉢状に広がる長崎の地形が展開されますが、刻々と変化する光景はまるで動く絵画を鑑賞しているような、そんな気分になってしまいます。  カッテンディーケが来日した当時、すでに出島在住のオランダ人は自由に市中を散策できる許可を得ていました。来日当初、彼らは諏訪(すわ)神社や桜馬場(さくらばば)あたりまで散策に出かけていましたが、だんだん遠出をするようになっていきます。時には出島の対岸の稲佐(いなさ)にも散策に出て、狩猟を楽しみました。「こんな美しい国で一生を終わりたいと何遍思ったことか」とカッテンディーケは長崎の風景を賛美しています。やがて馬で遠出できるようになると、浦上(うらかみ)、金比羅(こんぴら)山などの郊外に足を伸ばしていますが、「これらの地に住む人々こそ、地球上最大の幸福者であるとさえ思われた」と長崎周辺の魅力を最上級の賛辞で結んでいるのです。 オランダ人とアメリカ人の一大ピクニック  アメリカの軍艦ミネソタ号が長崎港に停泊中のある日のこと。オランダ側の主催でアメリカ人士官慰労のためのピクニックが盛大に催されたとカッテンディーケは記しています。長崎を出発し長崎街道を通り、網場(あば)まで徒歩か駕籠(かご)で行くことになりましたが、その日は天気がよかったので、日見(ひみ)峠までの険しい道のりをほとんどのアメリカ人が徒歩を選んだということです。  実際に峠の街道跡を歩いてみますと、道幅は狭く、山道を切り開いて造られただけあって曲がりくねった険しい坂道が続きました。しかし、山林に囲まれたのどかで静かな自然や峠道に時おり広がる眺望には心癒されました。途中にあった茶屋、神社、関番所なども異国人の目にはもの珍しく映ったのではないでしょうか。  長崎街道は歴代のオランダ商館長の使節一行が江戸参府のために通った道で、出島オランダ商館医のシーボルトも随員として日記に記録した道です。ピクニック途中の峠道の下り坂では、一行はシーボルトと同じように美しい橘(たちばな)湾や島原半島の雲仙普賢(うんぜんふげん)岳の眺望を楽しみました。午後には小船で茂木(もぎ)に渡り、にわかづくりのテーブルを囲んで愉快なひとときを過ごしたと記されています。ちなみに茂木は天然の良港で、1580年(天正8)に領主大村純忠が長崎とともにイエズス会に寄進した土地でもありました。風雲急を告げる幕末の1日、長崎の郊外を楽しそうにのんびりと歩くオランダ人と約40人のアメリカ人一行の姿を想像するだけでも、何だか不思議な気持ちになってしまいますね。こんな心弾む出来事が起こるのも国際交流の町・長崎ならではのことではないでしょうか。 [文:小川内清孝] 参考文献 『長崎海軍伝習所の日々』カッテンディーケ著/水田信利訳 (東洋文庫 発行/平凡社) 『長崎街道 肥前長崎路と浜道・多良海道』(発行/図書出版のぶ工房) 『旅する長崎学7 近代ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • オランダ正月 2008年05月21日
    オランダ正月
    〜吉雄耕牛から江戸へと広まった太陽暦で祝う新年会〜  オランダ正月とは、17・18世紀の鎖国時代に、長崎の出島で暮らすオランダ商館員たちが太陽暦の1月1日に新年を祝って開いたパーティーのことをいいます。この催しには、長崎奉行所の役人、オランダ通詞とよばれる日本人通訳、出島の管理をおこなう出島乙名(おとな)など、日ごろ出島に従事する人たちが招待されました。大広間に案内された日本人たちは、オランダ人たちと同じテーブルを囲んで席に着き、オランダ流のもてなしを受けました。ギヤマングラスに注がれたワイン、豚や牛の料理、パンやカステラなど珍しいオランダ料理を味わい、西洋の文化を体験したのです。異国の文化に関心をもっていた長崎の人たちは、その様子を版画や絵画に描き残しています。  今回は、オランダ正月をご紹介します。 「オランダ正月」と呼ばれた理由  出島の役人や通詞たち日本人がオランダ商館主催のパーティーに招待されるのは旧暦11月11日(冬至から11日目)。当時の日本は、月の満ち欠けの周期をもとにつくられた太陰太陽歴を使って生活をしていました。これは、種まきや収穫期の目安となる生活に欠かせないものとして古くから使われてきた暦です。しかし、長崎の出島に滞在するオランダ人たちが使っていたのは「太陽歴(グレゴリオ暦)」でしたから、その1月1日に新年を祝うパーティーを開催していました。このような暦の違いから、日本の人たちが旧暦で祝う正月に対して、オランダ人が太陽暦で祝うパーティーを「オランダ正月」と呼ぶようになったのでしょう。その後、日本が太陽暦を導入したのは1872年(明治5)、明治政府になってからのことでした。 「オランダ正月」流行の発信源のひとつは 蘭学者 吉雄耕牛にあり  オランダ正月という西洋スタイルのもてなしを世に広めた人物のひとりに、長崎奉行所の大通詞(通訳)で吉雄流紅毛外科医の祖 吉雄耕牛がいました。  吉雄耕牛は、あの有名な『解体新書』〔杉田玄白や前野良沢らが西洋医学の解剖書『タアヘルアナトミア』を翻訳したもの〕の序文を書いています。耕牛は、「是非に序文を書いてほしい。」と頼まれるほどの蘭学者でしたが、残念なことに一般には意外と知られていない人物かもしれません。彼は、オランダ通詞として出島で働き、直接オランダ人から学問を教わり、自分の屋敷に吉雄流紅毛外科の私塾を開設するなど、西洋医学に精通する蘭学の大家として活躍しました。  "蘭学"とは、オランダ人を通じて日本に入ってきた西洋の学術や文化を研究する学問のこと。当時、幕府の禁教政策で、西洋の学問を学ぶことはご法度でした。しかしながら、鎖国時代に唯一西洋との交易を許された長崎「出島」では、海外からもたらされた最新の知識が、オランダ人との接触を許されていたオランダ通詞たちへと伝授されていきました。「蘭学のため、長崎へ向かいし候…。」全国から多くの人々が長崎をめざしたのです。遊学者たちは、長崎の通詞たちが開く私塾に通いながら、医学・天文学・本草学・地理学・科学などを学び、故郷の藩の発展のために尽くしました。その私塾のひとつが「吉雄塾」で、発明家の平賀源内や洋画家の司馬江漢たちの姿もありました。  吉雄耕牛は、自分の屋敷の2階に西洋のインテリアで飾られた「オランダ屋敷」と呼ばれる西洋風の客間をつくりました。ここは、誰もが一度は訪れたいと羨む人気のスポット! オランダ料理が振る舞われ、西洋の風習や文化を伝える発信源として、蘭学者が集い学問を語るサロンとなっていたようです。 江戸の蘭学者たちが集った「オランダ正月」  1785年(天明5)に長崎遊学した大槻玄沢は、天文学に精通する蘭学者 本木良永の屋敷に下宿しながら、吉雄耕牛の私塾で西洋医学の勉強に勤しみました。耕牛宅の西洋の客間「オランダ屋敷」にはとても感動したといわれています。玄沢は、出島を見物したり、異国の文化に触れたりして、遊学の思い出を胸に帰郷したのでした。  玄沢は、長崎遊学で体験した感動を伝えたいと考え、仙台藩医を勤めた後に江戸で開いた蘭学塾「芝蘭堂(しらんどう)」で、1794年(寛政6)太陽暦1月1日、新年を祝う新元会"オランダ正月"を催しました。この会には江戸じゅうの蘭学者が集まり、西洋医学の祖ヒポクラテスの肖像を床間に飾り、ギヤマングラスで乾杯し、オランダ料理のフルコースを楽しんだそうです。こうして、オランダ正月は蘭学者のあいだで恒例の行事となりました。  鎖国政策のなかで、日本の学者たちが研究した蘭学は、近代化へと向かう日本の発展に大きく貢献しました。 参考文献 「旅する長崎学7 近代化ものがたり機 巻頭特集-第1章 「長崎蘭学」が日本の学問をリードした 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2007年 「新編 おらんだ正月」 著/森銑三 編/小出昌洋 発行/岩波書店 2003年 長崎古版画「長崎名所かわら版」 版元/長崎南蛮屋 「長崎開港物語〜みろくや食文化」 著/越中哲也 みろくやHP
  • 銀嶺の橋本京子さんにインタビュー(2) 2007年11月14日
    銀嶺の橋本京子さんにインタビュー(2)
    〜銀嶺を愛した人びと〜  「レストラン銀嶺」は、1930(昭和5年)に鍛治屋町に創業し、その隣で1953年(昭和28)にバー"ボン・ソワール"をオープンしました。この店には、日本を代表する作家や俳優、芸術家たちが訪れました。ある時は恋人とお忍びで、またある時は、仲間を連れて料理やお酒を楽しみながら長崎の旅を楽しまれたようです。また、長崎の財界人からも親しまれ、長崎の夜にムードを添えていました。今回は、当時の古き良き時代を知る「レストラン銀嶺」の橋本京子さんにインタビューしました。 流儀を知る、粋な長崎の紳士たち  「私は、宝塚歌劇団を退団後、博多へ移りRKBなどでディスクジョッキーとして仕事をし、長崎に嫁いでから、バー"ボン・ソワール"にでておりました。バー勤めの経験がなかったので「バーはちょっと。」と思ったんですけど、でもボン・ソワールのおかげで、いろんな方々に出会わせていただいて、ほんとにいい時代を過ごさせてもらったと感謝しています。なにより私が一番感謝していますのは、お客さまです。「お客は一流、お店は二流、ママは三流」といつもいわれていました (笑)。それにはこんなエピソードがあるんですよ。  「あそこに宮様がいらっしゃるからといって覗いたり、絶対しないでくださいね。」と私の方からお願いしていないのに、気付かないふりをしてくださったり、お客様のレベルがそれだけ高かったんでしょうね。だから芸能人もお忍びで来られる方々がいらしてくださったのでしょう。みなさん、ゆっくり過ごされていかれました。  私ね、本当に感謝してることがあるんです。某老舗のカステラ屋さんがお仲間を連れてお店にみえるでしょう。そしたら満席のところに入っていらした東京からのお客さんに「さあ、どうぞ。」と席を譲ってくださったのです。お客さんも「いや、今座られたばかりでしょうからいいですよ。」と。「いや、私たちは明日でもまた来ますから座ってください。」と席を譲ってくださったのです。帰る前に「ママがお金とれんから、みんな、一口だけでも飲みましょう。ママ、うちに請求書を送ってくださいね。」って言われてね。涙が出るくらい嬉しくて、これが日常だったの。当時のボン・ソワールのお客さまは皆「当たり前。」と言われるけど、お客様は最高に素敵な人たちでした。品格が違います。そして格式がないとバーはだめ。その当時のいわゆる長崎を代表する企業の方々によくしていただきました。そういう時代も長崎にあったんですよ。最高でした。楽しかったです。なんて素敵な殿方たちだろうと思っていました。どなたも、みなさん大物揃いですよ。本当にいいお客様ばっかりでしたね。」 銀嶺を訪れた有名人  「みなさん銀嶺で食事して、隣のバー"ボン・ソワール"でお酒を飲みにいらっしゃいました。お店には、いろんな方々が見えました。私の義母である先代のママが「岸恵子さんとイブ・シャンピさんが長崎にいらっしゃることがあったら、絶対うちの店にお見えになるわよ。」と言っていました。日仏合作映画『忘れえぬ慕情』の撮影で長崎にいらしたんです。あの時、毎晩のようにお二人でいらしてました。人目があるというので、小さなレコード室をご案内したそうです。今のようにBGMがなかった時代ですから、その当時は女の子がレコードに針を落としていたレコード室があったんです。撮影が終わって帰られたあとは、その部屋を「イブ・シャンピの間」とみんなが呼んだりして、みんながそこに座りたがって、とうとうレコード室を客席にしたのですよ。  他には、芸術家の岡本太郎さんとか小説家の松本清張さんもいらっしゃいました。「書くものない?」と言ってサインをしてくださいました。長崎をテーマにたくさんの絵画を描いた野口弥太郎さんは、私をモデルに絵を描いてくださいました。  そうそう、美輪明宏さんは、主人と学校が一緒で長い付き合いでした。それでもう私はビックリ。私は美輪さんのファンで、宝塚歌劇団の東京公演が終わったら、お化粧を落とす間もなくサングラスをして、劇場から「銀巴里」まで走っていって一番前で観ていたんですもの。"こうして名曲は生まれた"〜ヨイトマケの唄〜というNHKの番組は、銀嶺のお店から放送されました。  私はいい時代にあのバーをさせてもらったと思っています。遠藤周作先生をはじめ俳優で演出家の芥川比呂志さん(芥川龍之介のご長男)、作家の故・吉村昭さんなど、いろんな作家の方たちとも、30〜40年のお付き合いをさせていただきました。本当にいい時代でした。」  古き良き昭和の時代に佇む、当時のレストラン"銀嶺"とバー"ボン・ソワール"は、作家や俳優・画家そして長崎を代表する企業家の人たちなど、戦後復興を担った世代が集うサロン的な役割をもつ社交場だったのではないでしょうか。華々しい文壇や芸能界に立つ人びとと、長崎の財界人、銀嶺の橋本さんたちとの暖かい交流が、ある一面で、長崎の印象を良いものにしてくれていたのかもしれません。 橋本 京子 kyoko Hashimoto 1936年生まれ。福岡県柳川市京町生まれの博多育ち。宝塚歌劇団(男役)を退団後、テレビ番組のキャストや福岡RKBのラジオ番組で九州初のディスクジョッキーとして3年間活躍。銀嶺に嫁いで主にバー"ボン・ソワール"で働く。現在、「レストラン銀嶺」の代表社員。
  • 銀嶺の橋本京子さんにインタビュー(1) 2007年10月24日
    銀嶺の橋本京子さんにインタビュー(1)
    〜遠藤周作先生が通った西洋料理の店「銀嶺」〜  作家・故 遠藤周作氏は、キリスト教をテーマに、心の奥深くに潜む日本人の本質に鋭く迫った作品を数多く描きました。長崎を舞台にした小説『沈黙』『女の一生』などを手掛け、県内各地を訪れました。取材の合間に立ち寄り、時を過ごしたお気に入りのお店もいくつかあったようです。そのひとつが「レストラン銀嶺」。この店は、鍛治屋町に1930(昭和5年)に創業し、その隣でバー"ボン・ソワール"を1953年(昭和28)にオープンしました。狐狸庵先生にとっては、仲間の皆さんと一緒にお酒を飲んだり、昼食をとったり、取材の合間に珈琲を飲んで休憩したりと、馴染みのお店だったようです。先生ご自身が長崎旅行のエッセイやコラムでご紹介したお店です。  今回は、当時の狐狸庵先生を知る「レストラン銀嶺」の橋本京子さんにインタビューしました。 狐狸庵先生と出会った日  「遠藤先生とは、初代社長夫婦からお付き合いさせていただいておりました。  私が遠藤先生と最初にお会いしたのは、たぶん昭和40年頃だったと思います。小説『沈黙』が劇団雲によって「黄金の国」として舞台化され、公演で長崎にいらした時だったと思います。俳優の山崎努さんたちとご一緒にいらっしゃいました。若い人はご存知ないでしょうけど、銀嶺は昔こういうお店で、民家を改築した趣のある洋風な造りで、隣では小さなバー"ボン・ソワール"を営んでいたのです。先生はどちらかというとバーの方にお仲間を連れてよくいらしてましたよ。遠藤先生は優しくて本当に素敵な方でした。そうそう、ご子息の龍之介さんも、うちのお店にいらっしゃったそうですよ。」 狐狸庵先生のオーダー  「全国に会員をもつ"周作クラブ"というファンクラブがあります。その会合が銀嶺で行われました。その方々が"遠藤先生が召し上がっていたメニュー"として当時4,200円のフルコース(現在3,000円)を注文されていましたよ。遠藤先生が昼間に訪れた時の注文は、やっぱりほとんどランチだったと思います。バー"ボン・ソワール"にいらした時は、水割りとかカクテルだったかな。ゆっくりされていましたね。」 闘病生活  「先生が亡くなられた後、先生の闘病生活について書かれた奥様の記事を読んでびっくりしました。私は先生が病気でいらしたことを知りませんでした。もちろん、元気な時だったからこそお店に顔を出してくださったのでしょうし。びっくりしました。闘病生活中でも、作品に注ぐ遠藤先生の努力はすごいと思います。奥様の描かれたエッセイに「自分にはさらけ出してもよかったのに。」と書いてある箇所があるんですが、きっと、奥様にも気を使って、楽しく、いやな顔などもお見せにならなかったのかなと思いながら拝読しておりました。  奥様も素晴らしい方ですよ。あんな風に年を重ねられたらいいなと思うほど。常連のお客さんも全国からいらっしゃる遠藤周作のファンのみなさんも「理想とする女性」とおっしゃっていました。  銀嶺が新しいビルになった時のことでした。活水女子大学の学園祭「螢雪会」での講演が終わって、遠藤先生がお見えになったことがあるんですよ。もちろんボン・ソワールは夜からの営業ですので「今は誰もおりません。」と店のスタッフが言いますと、遠藤先生は「鍵を開けて見せてくれ。」とおっしゃったそうで、3階にあるバーや庭を見られて「安心したって僕が言っていたと、必ずママに伝えて。」と言ってそのまま帰られたと、後日聞いたんです。「安心したよ」というその言葉が最後だったんですよ。一市民の私たちにお声をかけてくださる優しい方です。私は、最後にお会いできなかったのが非常に心残りなんです。」 遠藤周作が描く長崎  「遠藤周作と狐狸庵先生としての文筆ではまったく違う面白さがありますよね。当時、長崎新聞に『女の一生』を連載されていました。この作品には、長崎での取材に約10年を費やしたと聞いたことがあるんです。普通だと、たとえば博多を題材にした小説を、博多育ちの私が読んでも博多弁がおかしいという場面があったりするものなんですけれど。でも、遠藤先生の描かれた『女の一生』の方言は、まったくおかしいところがなかったですよ。本当にびっくりしました。だから長崎に来られた時に方言の指導した人がいらっしゃるのかなと思うほど。昨年亡くなられた作家 故・吉村昭先生なんかも長崎に百回以上いらして、私も長い付き合いですけど、そのことを聞かれていましたものね。そのくらい遠藤先生の小説は、見事な長崎の言葉でしたよ。すごいなぁと思ったんですよ。完璧でした。」 狐狸庵先生との会話やエピソード  「そりゃもういろんなことをいっぱいお話ししましたけど、内容まではお話できませんよ(笑) 。料亭のおかみさんがお座敷の話しを他言しないのと私たちも同じです。ただ私が嬉しかった出来事があります。劇団樹座(きざ)を遠藤先生が主宰していらしたのをご存知ですか?キャッチフレーズが「やる人天国、観る人地獄」といわれるほどユニークで、例えば「風とともに去りぬ」でいったらレットバトラーが10人くらい登場するという変わった設定で、一言セリフを言ったら次の人が言うっていうシーンなど、面白い舞台をやっていらした劇団です。劇団樹座の旗揚げから幕を閉じるまでの20年間脚本を書かれていた山崎陽子さんが、実は、私の宝塚歌劇団の2年先輩だったんです。退団後ずっと会ってなかったんです。(当時)某食品会社の社長婦人・山崎陽子さんと、遠藤先生は劇団樹座のつながりで親しい間柄。で、たまたま宝塚の話をしていて、遠藤先生が「陽ちゃんのこと、じゃ、ママ知ってるんじゃない?」って言われて、「2年先輩だから知っています。」と言ったら、うち(の店)からパーっと直接電話をかけて陽子さんと私をお話させてくださったの。それから、陽子さんとは今でも親しくさせて頂いております。山崎陽子さん(宝塚時代は男役で旗雲朱美)は、一人芝居をされて、朗読ミュージカル『山崎陽子の世界検戮任亙神13年に文化庁芸術祭大賞を受賞するなど多方面で活躍されている方です。だから私は、山崎陽子さんとのご縁を復活させてもらったことが一番遠藤先生に感謝しています。宝塚劇団で一緒でも退団すれば上級生とは縁がなくてなかなか会えない。その縁を復活させて頂いたのが遠藤先生です。 遠藤先生と芥川比呂志さん(芥川龍之介氏のご長男) がサインをされた色紙はボン・ソワールの入口にずっと飾っておりました。」  鍛治屋町の通りに明かりが灯る当時のレストラン"銀嶺"とバー"ボン・ソワール"。その店内では、日本を代表する作家や俳優たちなどが集い交流を深めた場所でした。橋本さんが「本当に優しい方、」と連呼していたのが印象的でした。小説では常に真剣勝負な半面、気配りを忘れずフランクな優しさを合わせ持つ遠藤周作先生の人柄が偲ばれます。 橋本 京子 kyoko Hashimoto 1936年生まれ。福岡県柳川市京町生まれの博多育ち。宝塚歌劇団(男役)を退団後、テレビ番組のキャストや、福岡RKBのラジオ番組で九州初のディスクジョッキーとして3年間活躍。銀嶺に嫁いで主にバー"ボン・ソワール"で働く。現在、「レストラン銀嶺」の代表社員。