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2010年05月26日
自然と歴史を堪能するシーカヤックエコツアー
対馬シーカヤックエコツアーとは 対馬では、カヤックで海に乗り出し、無人島でくつろぎ、浅茅湾の自然を満喫するシーカヤックツアーがおこなわれています。 対馬の中央に広がるリアス式海岸「浅茅湾」は、古来より日本と大陸を行き交う船人に安らぎを与えてきた穏やかな海です。現在では、この浅茅湾をシーカヤックで渡り、上陸して金田城跡へトレッキングするという大自然と歴史の両方を体感できるエコツーリングがおこなわれており、注目を集めています。 シーカヤック艇庫((有)対馬エコツアー) まずはシーカヤック艇庫にて、シーカヤックツアーのガイドやレスキューに関する説明を受けます。そして準備運動やパドリング練習を行い、浅茅湾へと漕ぎ出します。注意事項を確認して、いよいよスタート! 果てしなく広がる青空の下、深い緑に囲まれて、海抜0メートルの散歩です。 海にはいろいろな生物が活動しています。群れ泳いでいる魚たちやサンゴの群生などに出会いながら、海から見る対馬の風景を存分に楽しみましょう。 浅茅湾には点々と無人島が浮かんでいます。シーカヤックでしばらく進むと、人工的な建造物は見えなくなり、対馬の大自然に囲まれます。 『万葉集』には、風待ちのために停泊中の対馬で、遣新羅使が詠んだ歌があります。たとえば、 「百船の 泊つる対馬の浅茅山 時雨の天に 黄葉ひにけり」 多くの船が停泊している対馬の浅茅山が、時雨の雨のせいで紅葉した様子を詠んでいます。また、危険な航海を前にして、月を見上げながら故郷に残してきた妻への慕情を詠んだ、 「天ざかる 鄙にも月は 照れれども 妹そ遠くは 別れ来にける」 という歌もあります。当時、彼らたちもこの風景を目にしたのかと思うと、とても感慨深いものがあります。 途中、無人島・明礬島(みょうばんじま)に上陸し、地場産品を使用した昼食をとりながら一休みします。 鋸割岩 その後、浅茅湾の断崖絶壁・鋸割岩(のこわきいわ)が現れます。鋸割岩は浅茅湾の名所のひとつで、海面から50メートル近く突きだした石英斑岩(せきえいはんがん)の巨石です。近寄って鋸割岩を見上げると、その自然の迫力に圧倒されます。運がよければ、上空に舞うミサゴやハヤブサも見ることができます。 そして浅茅湾の南に高くそびえる城山・金田城跡が見えてきます。金田城を守る大吉戸(おおきど)神社のそばから上陸します。 徒歩で城壁“一ノ城戸”に辿り着きます。下半分は当時自然石を積んだもので、上半分は切石が積まれていますので、後世に修復したものといわれています。また三ノ城戸と同様に、大雨の際に崩壊しないよう水門が設けられています。 築かれてから1,300年以上もの時を刻んできた城壁を前にすると、想像を絶する石塁に歴史の壮大さを感じ、みんな感動するそうです。今日まで守られてきた豊かな自然と、太古の歴史が共存して息づいたこの空間は、ぜひとも次代に引き継ぎたいものです。 対馬シーカヤックツアーは2DAYコースもあり、旧日本軍施設跡や調査・再整備が進んでいる「二ノ城戸」、「防人住居跡」、「三ノ城戸」をトレッキングすることができます。このトレッキングでは、新緑を引き立てるウラジロや他の植物に自ら引っかけて成長していくカギカズラなど面白い植物に出会うこともできます。 シーカヤックツアーの醍醐味はなんといっても、自然との一体感とその自然の中に息づいている歴史を体感できることです。“対馬にしかないもの”がここにあります。参加者からは、自然の中で金田城などに見る壮大な歴史に触れ、自分を見つめ直すことができたという声もあるそうです。 無人島やその周辺にはエダサンゴやハクウンキスゲなど、対馬でしか見ることの出来ない植物が自生しています。貴重な体験ができるシーカヤックは、大人だけでなく、子どもにも大好評。季節ごとに自然を満喫するシーカヤックコースがおこなわれることもあります。山に咲き誇るゲンカイツツジを眺めながら浅茅湾を進むコースや、白い花を咲かせるヒトツバタゴを海から堪能するコースなど、まさに対馬ならではの自然を満喫できる内容です。 豊かな自然と歴史を味わいながら、海をゆく・・・。そんな思い出深い旅をしてみてはいかがでしょうか。 取材協力・写真提供 対馬観光物産協会 (有)対馬エコツアー
2010年03月31日
弥生時代へタイムスリップ
ただ見るだけの博物館ではなく、実際に触れながら楽しく歴史を学ぶことができる「壱岐市立一支国(いきこく)博物館」が2010年(平成22)3月14日にオープンしました。“体感する”博物館は、発見と感動が満載の“ワクワク”がいっぱいです! キッズこうこがく研究所 日本初の手法 オープン収蔵庫 観察路 リアルな映像・照明・音響のバーチャル航海 一部の土器には触れることができます 展示された土器の中には直接触ってみてよいものがあります。また、原寸大に復元された古代船に乗って櫓を漕ぐ体験も楽しそう!「キッズこうこがく研究所」では、顕微鏡観察、発掘体験、バラバラに分かれた土器を組み合わせるパズル遊びなどができます。 さらに、長崎県埋蔵文化財センターが一体的に併設されているのも特徴です。ガラス張りの壁を通して、県内で発掘された大量の土器や出土品を閲覧できる「オープン収蔵庫」も圧巻ですし、出土した遺物の整理やその組み立て作業を、「観察路」から見学することもできます。これは日本初の手法で、より歴史や考古学を身近なものとして感じられるようになっています。定期的にテーマを設定した展示をおこない、変化に富んだ空間にしていくそうですので、何度訪れても楽しめるコーナーのひとつです。 一支国博物館は、展示だけでなく、情報発信の場としての役割も担っています。3階には、舞台とスクリーンを完備した180席の「多目的ホール」があり、シンポジウムなどを開催できます。このほか、各種講座やミニ展覧会を実施できる「講座室」や、さまざまな研修やイベントに利用できる「多目的交流室」、古代食や古代技術体験といったイベントに活用できる「体験交流室」も整備されています。さらに、4万冊の考古学報告書や歴史書が検索・閲覧できる「図書閲覧室」もあります。 多目的ホール 多目的交流室 図書所蔵庫 4万冊の貴重な歴史書 図書閲覧室 体験交流室 すでに「講座室」や「体験交流室」では、講師がテーマに沿って歴史・文化の講義を行う「壱岐学講座」や、壱岐の伝統工芸・昔ながらのあそびを体験する「しまごと大学体験」がスタートしています。貴重な出土品や資料はどのように保存されているのだろう?→館内の裏側を探険できるバックヤードツアーや、精密分析機器を使ってどんなことを調べるのだろう?→遺物研究を体験するイベントなどが予定されています。 (※イベントへの参加は、事前の申し込みが必要です。詳しくは、 壱岐市立一支国博物館の公式サイト をご覧ください) “博物館”って聞いて堅苦しいイメージを持っている人は、ちょっと印象が変わるかもしれません。年齢や性別に関係なく、楽しみながら学ぶことができると思います。 “しまごと博物館”壱岐島 開館記念式典 テープカットの様子 「壱岐はただの島ではありませんでした」 これは、2010年(平成22)3月14日、壱岐市立一支国博物館の開館記念式典で、須藤正人館長が挨拶の冒頭でおっしゃった言葉です。 原の辻一支国王都復元公園 壱岐島は、古くから一島で一国とされた国でした。 約2100年前に壱岐島に存在した「一支国」は、大陸と日本との架け橋として大きな役割を果たしました。博物館が立つ丘のふもとには、当時の一支国王都の遺跡が広がっています。その一画に「原の辻一支国王都復元公園」が復元整備されており、弥生時代の風景を体感することができます。 壱岐は、『古事記』の国生み神話において、イザナギノミコトとイザナミノミコトが5番目に生んだ島として登場します。あちこちに動いてまわる“生き島”だったので、動かないように繋ぎ止めた8本の柱岩の名残が、現在は観光スポットになっている「猿岩」や「左京鼻」などといわれ、今も息づいています。 また、壱岐は長崎県全体の面積のうち、わずか3%程度の小さな島にもかかわらず、古墳の数は県全体の60%にあたる260基あまりが確認されています。“神々が棲む島”といわれる壱岐には、神社の数も大変多く、なんと約150社が存在します。島の神職たちが雅楽を奏で舞を奉納する「壱岐神楽」は、神聖な島のイメージを印象づけてくれます。 壱岐は、遣唐使や遣新羅使が大陸へ渡る際、中継地として立ち寄る位置にあり、当時の様々な歴史や言い伝えも残されています。中世には蒙古軍の侵攻を受け、倭寇の拠点が置かれ、江戸時代には朝鮮通信使のルートになるなど、ほかの地域にはみられない独特の歴史と文化を秘めた島です。 “食”においては、ケンサキイカやウニなどの豊富な海産物で知られていますが、肉牛の高品質ブランド「長崎和牛」の壱岐の牛、世界貿易機関(WTO)の産地指定を受けて国際的に認められた麦焼酎「壱岐焼酎」など、自然の恵みや歴史の営みに壱岐島の人々の伝統とこだわりが加わり、島の魅力をより一層引き立てています。壱岐に育った牛は、かつて宮中や公家の牛車を引く駿牛として京都で珍重された「筑紫牛(つくしぎゅう)」であったし、焼酎は中国から伝わった蒸留製法を取り入れて、島独自の製法を生み出したことに始まるという説があり、食文化の背景にも歴史が色濃くあらわれています。 猿岩 壱岐牛 笹塚古墳 住吉神社 うにめし 男岳神社 筒城七浜 はらほげ地蔵 弘安の役跡 湯ノ本夕景 岳ノ辻からの展望 イルカパーク このように、島全体が歴史を物語る壱岐は、まさに“しまごと博物館”。新しく開館した「一支国博物館」を拠点として、ぐるりと一周すれば、まるごと壱岐を体感できます。博物館で壱岐の全体像をチェックして情報収集した後に、島の山海の恵みを味わい、地域に根づいた歴史・文化に触れ、自然の風景に癒される・・・こんな “しまごと博物館”を満喫する旅に出てみませんか! 関連ページ 歴史発見ドライブルート 【壱岐編】神が宿り鬼も棲む島 歴史発見ドライブルート 【壱岐編】壱岐の風景と元寇ゆかりの地を訪ねる テーマで歩く歴史散策 【壱岐編】古墳時代を歩く テーマで歩く歴史散策 【壱岐編】太古の浪漫・一支国を感じて 動画で見る歴史スポット 【壱岐編】邪馬台国への道・一支国の王都〜原の辻遺跡〜 動画で見る歴史スポット 【壱岐編】「一支国博物館」を体感しよう! 自然・風土 【壱岐編】壱岐の島の神々に出会う 取材協力 壱岐市立一支国博物館 長崎県埋蔵文化財センター 参考資料 『 旅する長崎学11 海の道【壱岐】 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
2009年12月22日
五島八十八ヶ所霊場めぐり
五島八十八ヶ所霊場巡拝とは・・・ 「テーマで歩く歴史散策」(2009年12月9日更新)でご紹介したように、下五島は遣唐使ゆかりの地です。決死の覚悟で中国大陸をめざす遣唐使にとって日本最後の寄港地であり、また、唐の仏教文化や文物をたずさえての帰国の途において、最初に上陸する日本の地でもありました。弘法大師・空海も五島経由の航路で入唐・帰国したひとりで、唐で学んだ真言の教えを五島で最初に伝えたとされ、空海ゆかりの地や伝説などもいろいろと残っています。 こうした歴史的背景もあって、1886年(明治19)に制定された五島八十八カ所への巡拝が、今ひそかなブームとなりクチコミで広がりつつあります。 そこで、今回の歴史発見コラムでは「五島八十八ヶ所霊場巡拝」をご紹介! 八十八ヶ所のスタート、1番・2番・4番目に選定されている明星院(みょうじょういん)と、ゴールの87番・88番目となる大宝寺(だいほうじ)を訪ねてきました。 宝珠山吉祥寺 明星院(第1番、第2番、第4番) 五島における真言宗の総本山で古い歴史を持ち、五島家代々の祈願寺でもあったといいます。806年(大同元)、空海が唐から帰朝する途中、この寺に参篭(さんろう)した際に見た、一条の喜ばしい光が差し込み、大変よい兆しと思い、「明星院」と進言したと言われています。 現在の本堂は、五島藩第8代藩主の五島盛運(もりゆき)が、1778年(安永7)に火災にあった本堂を再建したもので、檜の芯柱20本を使用しており、五島最古の木造建築物となっています。 注目は本堂の天井絵。狩野派に師事した藩の絵師・大坪永章の筆によるものです。鳥や花が描かれた総数121枚が美しく調和し、荘厳な雰囲気をかもし出しています。一枚一枚じっくり見ていくと、極楽鳥やオウムなど異国のものらしき図柄が描かれていることに気づきます。 また、長押(なげし)の壁にかかっている華鬘(けまん)は1675年(延宝3)、富江領始祖・五島盛清(もりきよ)の寄進によるものだそうです。 本堂に安置された本尊は「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」で、天竺(てんじく)仏と伝えられます。また、右脇立像は弘法大師作と伝わる「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)」、左脇立像は「阿弥陀如来像」です。木造阿弥陀如来立像は、阿弥陀如来信仰が盛んだった平安後期から鎌倉時代にかけて多く造られました。明星院の阿弥陀如来像はほどよい円みを帯び、目鼻や唇の彫りも丁寧に仕上げられており、いかにも平安後期の特徴であるおだやかな雰囲気をもっています。 また、明星院に安置される秘仏「銅造薬師如来立像」は、奈良時代の製作といわれます。左手先と光背を失っていますが、優しく慈悲あふれる表情を見せているそうです。九州には、大分柞原(ゆすはら)八幡にこの種の一体がありますが、全国的にみても極めて貴重な文化財です。 ▲天井画。見とれて首を痛めないように・・・。 ▲護摩堂(88番中2番にあたります) ▲盛運の八女にまつわる宝塔 ▲三尊石組(さんぞんいわぐみ)/三個の石を三角形に組み、薬師三尊にたとえている。真ん中の石を薬師如来、脇の二つの石を日光菩薩と月光菩薩に見立てている。 明星院周辺は見応えがあり、散策しているとつい時間を忘れてしまいます。なお、4番の明星院行者堂は、山手側にまわったところにあります。明星院に見られる貴重な品々は、中国大陸へと向かう“海の道”に位置する下五島の文化の厚みを物語っています。 拝観時間:9:00〜12:00、13:00〜17:00(毎月1日、28日はお休みです) 問合せ先:TEL:0959-72-2278 大宝寺(だいほうじ)(第87番、第88番) (左)第八十八番大宝寺 (右)第八十七番大宝寺護摩堂 むかし、西天竺(印夏)のマガダ国より不須仙人がやって来て、エンダゴンという金属で鋳造された聖観音像を奉持し、玉之浦・笹海(さざめ)の小高い丘に祀って「観音院」と称したことが伝わります。この聖観音像は、信濃の善光寺、東京浅草の観音とともに日本三大秘仏のひとつといわれています。 その後、701年(大宝元)、震旦(しんたん・中国)の道融和尚が三輪宗を広めるために来日し、最初に玉之浦・大宝の浜に上陸しました。白砂青松の浜を前にし、緑繁る弥勒山を背後とする地を選び、笹海の観音院を遷して三輪宗の寺院を建て、これを「大宝寺」としました。その後、第41代持統天皇(じとうてんのう)の勅願寺となりました。 806年(大同元)、唐より帰朝した空海が大宝の浜に上陸し、しばらく大宝寺に滞在した際に、三輪宗から真言宗に改宗させたことから、「西の高野山」ともよばれています。空海が真言密教を初めて日本で伝えた地といわれ、唐の文化の入口ともなった島に、太古の浪漫を感じずにはいられません。 また、大宝寺には、最澄が自ら掘ったといわれる十一面観音が収蔵されています。この十一面観音は、最澄が遣唐使船に乗って唐へ渡る前に航海安全を祈願した「白鳥神社」に、無事の帰朝のお礼として、810〜823年(弘仁年中)頃に奉納したものといわれています。 五島八十八ヶ所霊場巡拝の八十八番目とあって、見応えも十分です。 見学は自由です。ガイドを要望される場合は、事前に連絡が必要です。 問合せ先:TEL:0959-87-2471 「五島八十八ヶ所霊場巡拝」は、四国の八十八ヶ所巡りとくらべると、小さくこじんまりとした地蔵堂や観音堂が多いという印象を受けるかもしれません。しかしながら、誰でも受け入れてくれそうな、この素朴さに安らぎと癒しを求める巡拝者が増えつつあるようです。中国大陸へ向かう遣唐使にとって、日本の“最後の地”であり“最初の地”でもあった五島。決して華やかさや賑やかさはありませんが、彼らの想いや祈願を受けとめた豊かな自然を肌で感じる、贅沢な旅となることでしょう。 八十八ヶ所すべてを巡るには、朝から夕方までタクシーで移動しても、最低3日間は必要だそうです。もちろん短期集中型の巡拝者もおられますが、定期的に訪れて五島をゆっくり満喫しながら、少しずつ分けて巡拝する方も少なくないということです。毎年マイペースで巡拝の旅に出かけ、自分自身を癒す時間を持つというスタイル・・・。毎日がめまぐるしく忙しい現代、こんな旅もいかがでしょうか。 五島八十八ヶ所霊場巡拝をされる方へ 福江港ターミナルビル内にある「五島市観光協会」では、巡拝案内ガイドと『納経帳』などを販売しています。 島内の移動に関しては、観光タクシーなどを利用して巡拝することもできます。詳細は、五島市観光協会へお問い合わせください。 五島市観光協会 TEL:0959-72-2083 http://www.gotokanko.jp/ 参考資料 『福江市史(上巻)』『福江市史(下巻)』(平成7年3月31日発行) 『玉之浦町郷土誌』(平成7年3月31日発行) 『五島八十八ヶ所霊場巡拝案内』(五島市観光協会発行)
2009年09月30日
島原半島ジオパークを知ろう!
"島原半島ジオパーク"って知ってる? 2009年(平成21)8月22日、中国泰安市で開催された世界ジオパーク事務局会議において、「島原半島ジオパーク」「糸魚川(いといがわ)ジオパーク」「洞爺湖(とうやこ)有珠(うす)山ジオパーク」の3つが、日本国内で初めて世界ジオパークネットワークへの加盟が認められ、「世界ジオパーク」として認定されました。 さて、この『ジオパーク』って一体何なのでしょうか? 島原半島ジオパーク事務局を訪ねて、いろいろと聞いてきました。 ジオパークとは? ジオパークという言葉は、「ジオ」という言葉と「パーク」という、二つの言葉でつくられています。 「ジオ」は“地形や地質”を意味し、「パーク」は“公園”を意味します。よって、ジオパークを日本語にすれば、「大地のなりたちや地形・地質をテーマにした自然公園」と言えます。あたかも地域全体を一つの「自然の博物館」と捉え、そこに含まれる自然景観(地形)、地質、動植物といった自然環境、そしてそれらを利用している人々の暮らし、歴史、文化を「展示物」と見なした、テーマパークのようなものです。 水無川から見た平成新山 国崎半島自然公園の断層 原城跡 世界遺産とはどう違うのですか? 世界遺産は、すぐれた文化遺産や自然遺産を人類の宝物として保護することを目的としていますが、ジオパークは、貴重な地形や地層などを保護しながら、地域の科学・防災教育や地域振興に活用することを目的としています。 ジオパークとして認められる基準はあるのですか? ジオパークになるための大まかな条件は、以下の4つです。 1.学術的に貴重な地形・地質遺産や美しい自然環境が複数あること 2.それらが保護されていること 3.それらをうまく利用した人々の暮らしや歴史があること 4.それらの貴重さやすばらしさを、誰もが学習し、観光地として楽しむことができるしくみが整備されていること さらに、これらを長年継続していけるような組織も必要です。 ジオパークとして認定されるための地域整備を行うと、どのような効果があるのでしょうか。まず、地球科学的遺産の保護とそれらの貴重さの啓蒙活動により、地域の自然環境の保全と、その意義を後世に伝えるための仕組み作りが進みます。次に、地球科学的遺産を用いた教育普及活動をすすめる事により、子供達をはじめ、住民全体が、自らの郷土のすばらしさを再認識し、郷土に誇りと自信を持つ事ができます。さらに、これらの貴重さを一つのセールスポイントとしてし、地域のPRを勧めていくことにより、地域が国内外から注目され、観光客が増加し、地域経済の活性化に繋がる、と期待されます。 島原半島ジオパークとして、現在どのような活動をしていますか? はだしであそぼう雲仙 島原半島3市の市報などの紙面を活用して、ジオパークの意義や取り組みを広くお知らせしています。また、ウェブでは各種イベントの案内や、その様子を伝えています。 >> 島原半島ジオパーク 公式ホームページ いま人気があるイベントは、「ジオツアー」とよばれる地形・地層の見学をメインとした小旅行です。地形・地質の専門家やボランティアガイドの方々が、島原半島のみどころをわかりやすく解説します。ほかにも、地元の産物の収穫体験や、湯せんぺい、手延べそうめんなどの特産品の制作体験ができるコースも用意されています。 雲仙火山が長年かけて堆積させた地層によって濾過され、湧き出たきれいな地下z水が美味しいそうめんを作り、また火山灰と温暖湿潤な気候が肥沃な大地を産み、じゃがいもを育ててくれる。これらを見学・体験することで、島原半島ジオパークの魅力を、存分に堪能することができます。 >> イベント情報について 【島原半島ジオパーク公式サイトへ】 最近作成されたパンフレットに、オススメのコースとして、車で半島内を移動しながら「ジオサイト」を巡る「ジオさらくコース」が掲載されています。「ジオサイト」とは、島原半島内に点在している地形や地層を観察・体験できる場所のことですが、平成の噴火や島原大変、温泉・断層、島原半島の成り立ちをたどるなど、充実したコースが紹介されています。 今回の島原半島めぐりで立ち寄った温泉も、古くからの火山活動によるもの! まさにジオパークのひとつのかたちです。“ジオサイト”だと意識しながらお湯につかると、地球に抱かれたような気分がしてきて、また違った感じのリラックスができますよ。島原半島には、「島原温泉」「雲仙温泉」「小浜温泉」と3つの有名な温泉がありますが、その泉質と効用もそれぞれ異なります。島原半島を旅するなら、島原・雲仙・小浜と3泊して、すべての温泉と食べ物をゆったり味わいながら、豊かな自然や歴史を“ジオパーク”という切り口でじっくりと堪能してみてください。 島原温泉 雲仙温泉 小浜温泉 島原中心街にある「ゆとろぎの湯」は飲める温泉。駐車場にある足湯のそば。 慢性消化器病、糖尿病、痛風、肝臓病に効果があると言われています。 雲仙は泉質的に強い酸性をもっているので、殺菌効果があります。湿疹やしもやけ、切傷などの皮膚病全般に効果があります。また美肌効果もあり、慢性のリューマチ、糖尿病、神経痛、筋肉痛、関節痛、疲労回復、健康増進にも適していると言われています。 小浜温泉は、入浴後も熱の発散を防ぎ、皮膚に軽い刺激を与えるので、新陳代謝を促して皮膚の抵抗力を強めてくれます。リューマチ・神経痛に効果があると言われます。 参考資料 島原半島ジオパーク推進連絡協議会事務局 島原半島ジオパークパンフレット『ジオパークってなに?』
2009年07月22日
海上の交差点・対馬
大陸と日本の「文化の交差点」 縄文時代中期の土器(上)後期の土器(下):峰町歴史民俗資料館 はじめて海を渡ると対馬国に到着。断崖絶壁の島で、山は険しく、森も深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食べ、朝鮮半島や大陸と日本本土を行き来して交易をおこなっている・・・ このような対馬の様子が、日本が「倭」とよばれていた時代に書かれた中国の歴史書『三国志』の一節に登場します。弥生時代後期、中国の「魏」が治めていた帯方郡(朝鮮半島)から海を渡って、倭の女王が住む邪馬台国に至るまでの道筋にある国々の様子などが描かれている部分は『魏書東夷伝 倭人の条』、通称『魏志倭人伝』といわれます。当時の日本のことが2008文字で記されていますが、その中にまっさきに登場するのが対馬国なのです。この文献から、弥生時代に大陸と日本の間に行き来があったことがわかります。 それでは、もっと前の縄文時代には、大陸と対馬の交流はあったのでしょうか?今度は、遺跡から出土する土器を見てみましょう。 対馬の縄文時代の遺跡から、装飾文様が盛り上がった隆起文土器(りゅうきもんどき)や櫛(くし)の歯状の道具でつけた文様が特徴の櫛目文土器(くしめもんどき)、また、九州産黒曜石(こくようせき)の石鋸(いしのこ)や西北九州型といわれる結合式釣針が出土しています。そして、これらの遺物は朝鮮半島の遺跡からも見つかっているのです。このことから、九州本土と対馬と朝鮮半島のあいだに行き来があったことがわかります。共通性のある土器や漁労具の出土は、かつて海人たちが海を渡った活動の証でもあり、縄文時代から海峡を越えた交流がはじまっていたことを今に教えてくれます。 黒曜石:峰町歴史民俗資料館 縄文時代中期の遺跡「ヌカシ遺跡」(豊玉町)から、大陸系の石器である石包丁(いしぼうちょう)様石器や扁平片刃石斧(へんぺいかたばせきふ)が出土しました。縄文時代後期の「佐賀(さか)貝塚(峰町)」でも扁平片刃石斧が見つかっています。弥生時代に入ると、「志多留(したる)貝塚」(上県町)の地層から石庖丁が出土しています。 これらの道具は農耕のはじまりを示すもので、中国大陸の農耕文化が朝鮮半島を経由して縄文時代中・後期に対馬に伝わり、その後日本列島に伝播していったと考えられます。対馬は古代から大陸と日本の文化の交差点としての役割を持っていました。 森の中の世界に見る「生物分布の交差点」 龍良山(たてらやま)原始林 国の天然記念物に指定されている龍良山(たてらやま・たてらさん)と白嶽(しらたけ)には原始林が残ります。展望台から遠くその原生林をのぞむと、美しく統一された緑色に染まっています。古くから伐採されることも植樹されることもなく、人の手がはいらずに時が流れてきたため、山々の表情は今も限りなく太古の時代に近いものなのです。その神秘的な空気はまさに神々が住むところといった感じで、龍良山は対馬独特の天道信仰の聖地として、また白嶽は山岳信仰の聖地として崇められてきたことにもうなずけます。 このほか、白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い後の防衛対策として築かれた山城「金田城」跡や、豊臣秀吉が朝鮮出兵時に築いた「清水城」の石垣が残る有明山(ありあけやま)、国定公園・国指定天然記念物・鳥獣保護区等の指定を受けている御獄(みたけ)なども、対馬の歴史性や地理的な特徴をあらわしています。 ※入山の許可が必要な山もありますので、事前に厳原森林事務所(TEL:0920-52-0243)へご確認ください。 さて、これら対馬の山々に生息する動植物を観察してみると・・・。 対馬には、ヒトツバタゴやチョウセンヤマツツジなど大陸系の植物群が自生しています。またシマトウヒレンやツシマギボウシといった対馬にしか自生していない植物に出会うこともできます。 ツシマヤマネコ:環境省 対馬野生生物保護センター 生物ではアキマドボタルやツシマテン、ツシマヤマネコなどが日本では対馬にしか生息していません。アキマドボタルは、中国や朝鮮半島などにいる大陸系の珍しいホタルで、9月から10月にかけて草地や林の緑の中で単独で強い光りを放ちながら飛びます。絶滅の危機に瀕しているツシマヤマネコは、約10万年前に大陸から渡ってきたと考えられています。近年の遺伝子研究から、アジア大陸産のベンガルヤマネコにきわめて近い種類であることが判明しました。ツシマヤマネコが朝鮮海峡を泳いで渡ったとは考えにくく、陸地を渡ってきたとする方がより現実的です。 ヒトツバタゴ:対馬観光物産協会提供 このように日本と大陸の動植物が混生する対馬独自の生態系は、まさに「生物分布の交差点」。対馬の動植物において、大陸系の動植物とこれだけ多くの共通点がみられることから、やはり対馬は“陸橋の島”ともいえるようです。はるか昔むか〜し、対馬が大陸とつながっていたのかどうか・・・。みなさんはどう思いますか。 参考文献 『 旅する長崎学12 海の道供畋佛蓮 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 写真提供 対馬観光物産協会 取材協力 対馬市教育委員会文化財課 対馬観光物産協会 環境省 対馬野生生物保護センター
2009年06月24日
壱岐の島の神々に出会う
気になる存在 勝本町湯の本温泉町並み 歩いているとノスタルジックで惹きつけられる 壱岐の島を周遊していると、神社や祠(ほこら)を多く目にします。決して存在感を主張しない素朴さが、かえって印象深く、なぜか心に残りました。 “島”というと、夏のリゾート地といったイメージがありますが、そればかりではない、何か特別なものを感じるのです。家のたたずまいや町並みは島独特の自然に溶け込んでいて、島に住む人々の暮らしがそのまま景観に融合されている印象を受けます。 夏、美しい海で遊ぶのももちろん壱岐の楽しみ方! でも今回は、何かしら気になってしかたがない、壱岐の特別な雰囲気にひたる旅に出かけてみたくなりました。 神話に登場する壱岐 『古事記』の中に壱岐が登場するのは、国生み神話です。 海をかき混ぜ・・・オノゴロ島ができました イザナギノミコト(伊邪那岐命)とイザナミノミコト(伊邪那美命)が、天の浮橋(うきはし)から矛(ほこ)をおろして海をかき混ぜ引き揚げると、矛の先から潮が垂れて重なり積もり、オノゴロ島が出来ました。ふたりはこの島に降り、結婚して子供を生み、これが国土となりました。 5番目に生まれたのが伊伎島でした。 まず淡路島が誕生、次に伊予二名島(いよふたなのしま)[四国]、隠岐島、筑紫島(つくしのしま)[九州]、そして5番目に生まれたのが伊伎島(いきのしま)[壱岐]です。その後は津島(つしま)[対馬]、佐渡島、本州と続きます。これら日本の大きな8つの島が、大八島国(おおやしまぐに)です。 国生み神話に登場する伊伎島は、天比登都柱(あめのひとつばしら)という別名を持ちます。「天上に達する一本の柱」という意味です。この柱は、神話学では世界の中心を表し、天地を繋ぐ交通路を意味するという説があるそうです。 壱岐島をつなぎとめた8本の柱はどこ? また、こんな話も伝わります。伊伎島はあっちこっちへ動いてまわる“生き島”だったので、流されてしまわないようにと、神様は、島をぐるりと囲むように8本の柱を立てて繋ぎ止めたそうです。8本の柱は折れてしまって、いまは岩として残り、折れ柱といわれています。壱岐の観光スポットとして有名な猿岩(さるいわ)と左京鼻(さきょうばな)が、その8本のうちの2つとされていることは、意外と知られていません。 また、『日本書紀』には、壱岐の月神が中央(京都)へ分霊されるいきさつが記されています。ドライブルートで訪ねた「月読神社」をご覧ください。 (左)左京鼻:8本の柱のひとつ(右)猿岩:8本の柱のひとつ 外交の道に神様あり 印通寺港:かつて雪連宅満が寄港したと考えられる 壱岐には、遣新羅使一行のひとり、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)が眠っています。 736年(天平8)の遣新羅使一行が詠んだ歌145首が、まるで旅行記のように『万葉集』におさめられていますが、そこに雪連宅満の名もあります。彼は、長旅の途中で病にかかり、壱岐の地で病死しました。彼の先祖は、壱岐出身の卜部(うらべ:国の吉凶を占う役職)であったといわれ、雪連宅満にとって壱岐はゆかりの地でした。彼の死を悼んだ同行者たちによって挽歌9首が詠まれています。 当時、日本から遣新羅使、遣隋使や遣唐使が派遣されていますが、この時代に海を渡ることは命がけの旅で、とても危険でつらいものでした。遣新羅使も、「わたつみの 恐(かしこ)き道を 安(やす)けくも なく悩み来て…(海の神がいる恐ろしい海の路を安らぐこともなく悩みながら来て…)」(万葉集巻第十五・三六九四)と歌に詠んでいます。 そのため航海の安全を願い、神々の力に頼りました。壱岐では航海の神・住吉神社、月と潮汐の神・月読神社、対馬では海神の和多津美神社(わたつみじんじゃ)などを祀り、外交上重要な使命を担って派遣される使節の無事を祈願しました。朝鮮半島・中国大陸へと渡る「海の道」上に位置する壱岐・対馬は、日本の中でも特別な島として重視されていました。7世紀後半、律令制のもとに国家となった日本において、2つの島は「壱岐国」「対馬国」としてそれぞれひとつの国の扱いを受けていたのです。 無数の神々が宿る島 原の辻で発見された卜骨 朝廷の祭祀を司る神祇官(じんぎかん)のもとで、吉凶を占う「亀卜(きぼく)」を担当した職を卜部(うらべ)といいます。927年(延長5)に完成した律令の施行細則『延喜式(えんぎしき)』によると、卜部は伊豆・壱岐・対馬の3国から登用されたとあります。 壱岐においては、弥生時代の原の辻遺跡・カラカミ遺跡からシカやイノシシの肩甲骨を利用した卜骨、古墳時代末期の串山ミルメ浦遺跡からは亀卜に利用した亀の甲羅が発見されており、古くから獣の骨や亀の甲羅をつかった占いがおこなわれていたことがわかります。 壱岐の島に神々が多いのは、『延喜式(えんぎしき)神名帳(じんめいちょう)』からもわかります。天皇の名でおこなう行事の時に供物を下賜(かし)する神々の数は全国で3132座、式内社(官社として登録された神社)は2861社が列記されています。9国2島(壱岐・対馬)がある西海道(九州エリア)には107座98社があり、そのうち壱岐に24座24社があります。 また、壱岐には式内社のほか稲荷神など島外から招請して祀っている神社や土地の人が発見した自然の精霊など、島のあちこちに大きな祠(ほこら)、小さな祠(ほこら)があり、それぞれに神様が宿っているようです。素朴ながらも人々の暮らしに密着した信仰の形にも出会うことができました。 島内の神主たちが集い、音を奏で、舞う・・・壱岐神楽(いきかぐら) 国指定重要無形民俗文化財に指定されています:壱岐市観光協会提供 起源についてのはっきりした記録はないそうですが、聖母宮(しょうもぐう)の吉野家文書によると、室町時代初期に神楽を舞った25人の名前が残されています。 その後、江戸時代の寛文書記の書物に、聖母宮で唯一神道の形式で大神楽をおこなったという記述があり、広く庶民に理解できるよう、歌や手振りなどを改めたとされます。これが今日に伝わる壱岐神楽の始まりといわれています。 神楽師による舞とは異なり、島内の神職たちによって伝承され、民俗芸能というよりも神聖性が強調されているのが特徴。幣(へい)や鉾(ほこ)、弓などの供物を持って舞いますが、寝ころんだり飛び跳ねたりとアクロバットのようなユニークな動きも見どころです。 晩秋の夜には住吉神社に設けられた特設会場で、 夜神楽が披露されます(期間限定):壱岐市観光協会提供 壱岐神楽には、自然の恵みに神を見いだし、崇めてきた精神が息づいています。曲目は全部で35曲で、「太鼓始(たいこはじめ)」「荒塩(あらじお)」「神遊(かみあそび)」など6曲を約1時間で演じる「幣神楽(へいかぐら)」、神と人をつなぐ木として神聖視されている榊をたたえる舞いが演じられる真榊(まさかき)を含む「小神楽(しょうかぐら)」、壱岐神楽のメインとされ最も多く演じられる代表的な「大神楽(だいかぐら)」、最も厳粛で神事としての色が濃い「大大神楽(だいだいかぐら)」の4種類に分けられます。 大大神楽 住吉神社:ライトアップされ幻想的に変わる 年間を通じて壱岐各地の神社で奉納されていますが、一番最後の12月20日には住吉神社で「大大神楽」が演じられます。また、毎年8月の第1土曜日、石田町筒城ふれあい野外ステージで「壱岐大大神楽」が公演されますし、晩秋の夜には住吉神社に設けられた特設会場で、夜神楽が披露されます(期間限定)。神聖でありながらも、一般の人も気軽に招き入れてくれます。 問合せ先:壱岐市観光協会 電話:0920-47-3700 参考文献 『 旅する長崎学11 海の道機攬躊堯 』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 写真提供 壱岐市観光協会
2008年08月06日
長崎は、路面電車と走る町
インタビュー 長崎電気軌道株式会社 川本 大さん 長崎の町のシンボル「チンチン電車」。公共交通機関として多くの市民や観光客に利用されています。長崎の町を走りはじめて、もうすぐ100年。「走る近代化遺産」の歴史と、近年、環境にやさしい乗りものとして注目される路面電車について、長崎電気軌道株式会社の川本大さんにお話を伺いました。 大正4年の開通から原爆、長崎大水害の苦難を乗りこえて Q、長崎の町を初めて路面電車が走った、その記念すべき日はどのような様子だったのでしょうか? A、長崎電気軌道株式会社は大正3年8月2日に創立しました。翌4年11月16日、大正天皇即位御大典の日に病院下(現在の長崎大学歯学部正門付近)〜築町間で開通。その日は1号車を先頭に8号車まで小豆色の電車が次々と発車したと社史に記録されています。ちなみに開業日の乗客数は約15,000人だったと東洋日之出新聞は報じています。 Q、現在、長崎の路面電車の運賃は、何区間乗っても100円ということで知られていますが、開業当時の運賃はいくらだったのでしょう? A、一区間一銭で、別に通行税が一銭。始発から終点まで9区間乗車すると10銭でした。豆腐一丁が一銭の時代です。 Q、開業からすでに90年以上たっていますが、初めて路面電車が走ったころの名残をとどめている場所はありますか? A、戦後の都市計画の変更や道路の拡幅などで軌道敷が当時の場所にのこっているのは、出島〜築町の直線区間だけです。 Q、現在のような路線になったのは、いつごろでしょうか? A、思案橋から正覚寺下まで延長路線をした昭和43年6月です。大正年間に市内の主要区間の運行をほぼ完成させ、昭和に入って下の川〜大橋間、馬町(諏訪神社前)〜蛍茶屋間、大橋〜住吉間、住吉〜赤迫間を延伸しています。 Q、昭和20年8月9日の原爆や昭和57年7月23日の長崎大水害は、路面電車にどのような被害をもたらしたのでしょうか? A、原爆の被害は甚大なものでした。従業員110余名が亡くなり、全線不通。使用可能な車両をほぼすべて失いました。電柱の倒壊折損は120本、電線、軌道の焼失は数ヵ所に及びました。電車の運行再開が"長崎市の復興の足がかり"になると復旧に力を注ぎ、わずか3ヵ月半後の11月25日に、蛍茶屋〜西浜町〜長崎駅前間の運転を再開、その後半年間でほぼ復旧することができました。これは従業員が全力をふりしぼったことと、被災後すぐに三菱電機から発電機を購入し、焼け残った変電所に設置することができたということも大きな要因です。長崎が造船の町であったからという背景もありました。 また、原爆につづく大きな災害が昭和57年7月23日の長崎大水害です。夕方、送電をたたれた電車が全線にわたって運休、30 両を越す電車が各所で立ち往生となりました。現在のように携帯電話もない時代、運転士らは状況がわからないまま乗客の保護と避難にあたりました。車両はおよそ15t、急流に流されないよう車体をロープで電柱や電停にくくりつけた者、乗客を抱きかかえ濁流を横切って避難させた者、運転士の多くは翌朝まで現場に留まり、車両を守り続けました。損害は大きく、68両中45両が使用できず、4ヵ所ある変電所のうち3ヵ所が冠水、車庫や営業所、停留場などが被害をうけました。 しかし、全社員、昼夜をとわず作業にあたり、水害3日後には1系統(築町〜赤迫間)と3号系統全線で運行を再開。車両メーカーや各路面電車事業者にご協力、ご支援をいただいたおかげでした。この災害でお客様、社員に一人の死傷者がなかったことが幸いでした。 路面電車の特徴と長崎の路面電車について Q、そもそも路面電車とはどんな電車のことですか?また、「チンチン電車」と親しまれていますが、そう呼ばれるようになった由来を教えてください。 A、おおまかに言えば道路上を走る電車のことを路面電車といいます。ただし、大学病院前〜岩屋橋間の道路を走らない区間(専用軌道)があったり、他都市では逆に道路上を走る鉄道があったりと種々の例外があります。また、チンチン電車は、運転士と車掌が乗ったツーマン電車のころ、車掌が頭上にあるひもを引いて"チンチン"とベルを鳴らし出発の合図を運転士に伝えたことからそう名づけられたという説ともうひとつはチンチンと響く警鈴の音からそう呼ばれるようになったという説があります。 Q、路面電車は電気をどのように受け取って走っているのですか? A、路面電車の架線には直流600Vの電気が流れています。電車の上についているパンタグラフ(アルファベットのZのような形)で電気を受け取って、モーターに繋げているのです。架線からはプラスの電気を受け、レールにはマイナスの電気を流しています。車輪とレールは鉄でできているので電気を流すことができます。 Q、路面電車のスピードは、最速どれくらいまで出るのでしょうか? A、最高で時速40km。法令で決まっています。長崎は電停の区間が短いので特に繁華街では最高時速より遅いスピードで走っています。 Q、昨今は物価上昇の時代ですが、何区間乗っても100円という運賃設定はなぜ可能なのでしょう? A、長崎の路面電車は中心市街地と観光名所の近くを通り、また坂の多い地形でマイカー保有台数が少なく、通学、通勤、観光客の方々が多くご利用くださっています。昭和59年から約24年間、値上げなしでやっていけるのはひとえにお客様のお陰です。 Q、近年は、深緑にベージュの定番電車のほかに、カラフルな広告電車をよく見かけますが? A、いまでは当たりまえのようになった広告電車ですが、全国に先がけてはじめたのが長崎です。昭和39年9月に初のカラー広告電車が長崎の町を走りました。広告収入の他に、早ければ2ヶ月程度でおこなう車体の塗り替え費用が節減されるなど増収に貢献しています。 Q、長崎の路面電車は他都市を走っていた電車が多く、電車博物館ともいわれていますね? A、旧東京都交通局や旧箱根登山鉄道、旧熊本市交通局、旧仙台市交通局、旧西日本鉄道と他都市からの電車が活躍しています。とくに旧西日本鉄道の電車は明治44年製造で現役最古級の木造電車となっています。 これらの電車は一回片道7,700円(過半数が小児の場合は半額)で一両を貸し切りすることができます。例えば、結婚式の二次会会場への移動や電車好きなお子さまの誕生日など記念の日に、様々にご利用いただければと思います。 なお多客期、天候状況、車両検査などでご希望に添えない場合がありますのでご利用の際は、なるべくお早めにお申し込みいただければ幸いです。(運転課 095-845-4113) Q、長崎ランタンフェスティバルなどのイベントに登場する電車は、どういった種類の電車ですか? A、花電車です。電車開通90周年記念、ランタンフェスティバルなどで利用されました。形式は87形で"ハナ"と命名されています。ちなみに旧仙台市交通局からの電車は1051号。"仙台(千番台)から昭和50年代にやってきた"ということで名づけられた電車もあります。 Q、現在の車両数を教えてください。 A、80両です。うち2両が花電車です。 Q、数年前より、3つに分かれている新しい電車を目にします。近未来的な形ですね。 A、超低床路面電車3000形です。純国産の超低床路面電車としては初めて台車部分を含む100%の低床化を実現しました。これによって電停と乗降口の段差は従来の30〜40cmから約7cmとなり車椅子利用やご高齢の方やベビーカーでの利用が楽になりました。平成16年に導入を開始し、現在は計3両を運行しております。3000形は、グッドデザイン賞やローレル賞なども受賞しています。また、名称をリトルダンサータイプUといい、"小さい段差"という意味も込められています。前出の87形や1051号などの数字や名称に注目してみるのも面白いですね。 Q、何区間乗っても100円運賃、全国にさきがけてはじめた広告電車など、お話をうかがってきましたが、他によそにはない長崎独自のものはありますか? A、日本でただひとつ、路面電車のトンネルが長崎にあります。浜口町の長崎西洋館一階部分です。桜町〜公会堂前間にも似た構造のものがありますが、 トンネルは西洋館のみです。 Q、大勢が利用する路面電車には、忘れものも多いのではないでしょうか? A、季節によって変わりますが、夏は帽子、寒くなると手袋。手袋は片方のみのお忘れものが多いですね。また、変わったものでは、学生カバンや入れ歯などがありました。一年通して多いのは、やはり傘です。車内のお忘れものは警察に届けますが、保管期間が終了した傘などは、急な雨にお困りのお客様に正覚寺下、浦上車庫前、蛍茶屋の各電停で無料提供しております。 Q、近年、路面電車は環境にやさしいと注目されていますね。 A、車社会は都市に交通渋滞や排気ガスなど様々な問題をもたらしました。路面電車は定時運行ができ、二酸化炭素排出などの環境負荷が小さい公共交通機関として見直されています。今後とも人と地球にやさしい路面電車を目指し車両・設備の近代化やバリアフリーを進め、輸送サービスの向上に努めていきます。 [インタビュー・文:高浪利子 / 取材協力・写真提供:長崎電気軌道株式会社]
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