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長崎みやげ話

  • 松原刃物 2013年03月04日
    松原刃物
    松原刃物の歴史  大村市の松原は、長崎と小倉を結んだ長崎街道が通っていた場所で、人・物・異国文化が往来していました。この地の名産品に松原刃物と呼ばれる鎌や包丁がありますが、500年もの歴史を持つことをご存知でしょうか?  鍛冶屋は刀剣を作る「薄物」と、鍬などの農具を作る「荒物」の2つに分かれます。薄物鍛冶は繊細な焼き入れの技術が必要で、松原の技術は刀鍛冶の流れをくんでいます。  松原刃物の歴史を追ってみると、1185年(文治元年)の壇ノ浦の合戦にまで遡ります。平氏一門の刀工・並衝行泰(なみのひらゆきやす)が源氏の追討から逃れるため、日向の国(宮崎県)に身を隠します。そして刀剣の需要が高まった戦国時代の1474年(文明6年)に、その子孫が松原に移住。八幡神社の境内で刀を鍛え、また農民の要望に応えて月型の鎌を作ったのが松原鎌の始まりとされています。これらの技術を、八幡神社の別当であった伊東家が受け継いで、多くの職人が技を習得して広まりました。  刀の需要が減少すると、それまで余業だった鍬・小刀・鎌・包丁などに重きを移し、本業は鎌の製造へ変わっていきました。現在では包丁が主流となっています。 松原刃物の特徴  県の伝統的工芸品に指定されている松原刃物の特長は、両刀の黒打ちや磨きをかけない地のままの色、切れ味の良さと粘り強さ。また包丁の種類にもよりますが、峰の部分を見ると、他の地域のものよりも薄めであることに気付きます。  これらを実現するのが厳選された良質な材料と高度な技術。硬い鋼を軟らかな鉄で挟み、炉の温度や外気温、火花の色などを確認しながら、焼いては打つを繰り返す昔ながらの手作業の鍛造技法が、刃こぼれしにくい粘り強さを生み出します。 世界に一つ、マイ包丁作り体験  昭和初期には20軒ほどあった鍛冶屋ですが、現在は3軒を残すのみ。松原鎌総本家・伊東鍛冶屋が操業を終える際に、技術を買われて伝統を受け継いだのが田中鎌工業です。  田中鎌工業では、より多くの人に松原刃物の存在を広く知ってもらいたいという思いから、民泊の受け入れや、包丁作り体験を行っています。数ある工程の中の一部分ではなく、6時間ほどかかる本格的なもの。約1,100℃に燃えさかる炉や、ガンガンと激しい音を立てるベルとハンマーなどを駆使し、田中さんのガイドを受けながらも自分自身の手で鉄から刃物へと仕上げていきます。高度な鍛冶技術を身に沁みて感じるとともに、刃物作りの難しさや自分の銘を刻む嬉しさを味わうことができるのが魅力です。  「松原包丁を、使い捨てと同じにされたくない。体験では『研ぎ』も一緒に教えられるので、ずっと使えることを理解して大切にしてほしい」と4代目の田中勝人さんは語ります。  出来上がった「マイ松原包丁」で料理を楽しみ、家族の団らんを演出してみてはいかがでしょうか。 田中鎌工場 有限会社 住所:〒856−0009 大村市松原本町371  電話:0957−55−8551    包丁作り体験料(土・日のみ):14,000円/1人(2名以上) (所要時間:約6時間) ※要予約です。   民泊:1泊朝食付5500円/1人(原則3名以上)    夕食希望はプラス1500円
  • 新たなご当地グルメ「大村あま辛黒カレー」 2013年03月04日
    新たなご当地グルメ「大村あま辛黒カレー」
    カレーが町おこしの主人公になったわけ  国民食の一つにも挙げられるほど、日本の食文化に定着してしまっている外来料理「カレー」。大村市ではカレーを起爆剤とした町おこし活動が拡がりを見せています。なぜカレーなの?と思う方もいるでしょうが、それにはしっかりとした理由があったんです。  大村といえば、日本で初めてキリシタン大名となった領主・大村純忠らが、1582年(天正10年)にローマへ4名の少年を中心とした「天正遣欧使節」を派遣したことで有名です。また長崎の大村〜小倉へと続く長崎街道を通り、砂糖をはじめ様々な物や文化がこの地を通って全国へ広がりました。 大村市の発展を思い描く地元の有志は、その使節団が帰国の途中に立ち寄ったインドで、カレーに使われるスパイスを持ち帰った事に着目して、新たな名物となるカレーを創作し、広く県内外にアピールすることにしました。 新たなご当地グルメ「大村あま辛黒カレー」とは  大村市の新名物「大村あま辛黒カレー」の特徴は、大村市の食材と歴史がたくさん盛り込まれ、大村の地(黒土)で育つ野菜やフルーツをふんだんに使っています。 口に運んだ時にはやわらかな甘さが広がるのですが、その後から辛さが追いかけて来ます。口の中で「フルーティーな甘さ」と「スパイシーな辛さ」が交互にやってくる、不思議な味わいのカレーです。 地元愛が生み出すバリエーション  この「大村あま辛黒カレー」は、ボランティア団体「大村あま辛カレーうまか隊!」によって、B-1グランプリなど多くのイベントで提供され、ぐんぐんと知名度を上げていきました。  また県内では、地域振興に賛同する大村市内の飲食店10店舗で食べられます。  「地元で育った野菜やフルーツを使用」「フルーティーな甘さとスパイシーな辛さが繰り返される味わい」「大村市北部特有の黒土をイメージさせる黒いカレールゥである」などの認定条件を踏まえた上で、各店ともオリジナリティー溢れる一品に仕上げています。  ひとつとして同じものがない「大村あま辛黒カレー」。オフィシャルサイトでは探検MAPも提供されていて、2013年1月にはハングル訳版も登場。食べ歩きして制覇するのも楽しいですよ。 関連URL http://umakatai.o-size.net/
  • 「あなたへ」2羽の雀が飛び立つ灯台 2012年12月27日
    「あなたへ」2羽の雀が飛び立つ灯台
     2012年(平成24年)8月25日に封切られた映画「あなたへ」は、高倉健さんが6年ぶりに出演(主役)し、夫婦の愛と人々のさまざまな人生を丁寧につづった感動の映画です。また、いぶし銀の演技が魅力的だった大滝秀治さんの遺作となった作品でもありました。  内容は亡くなった妻の遺骨を故郷の海へ散骨するため、富山から長崎までの1200キロを自家製のキャンピングカーで旅する一期一会のロードムービー。長崎でのロケは殆どが平戸ですが、作品の中で大きな役割を果たす「白い灯台」は、伊王島にあります。  この騒動のなか、1864年(元治元)には勝海舟とともに坂本龍馬らが島原湊に上陸しました。英仏米蘭4カ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するために、海舟は外国勢との調停役としての幕命を受けていました。このとき龍馬は30歳で、海舟の信頼を受け、神戸海軍操練所の塾頭を務めてた頃です。 島原湊上陸後、島原街道、長崎街道を通り長崎に到着しています。 龍馬が初めて長崎に上陸した島原湊の石段には、現在「龍馬長崎上陸の地」の看板がたっています。  歴史ある白い灯台を前に、じっくりと映画「あなたへ」の世界に浸りましょう・・・。散骨を済ませた後、倉島英二(高倉健さん)はこの場所で、妻が残した2枚の絵手紙を手放します。真っ青な海と空のあいだに2羽の雀が解き放たれた、あの場所です。  ここはぐるりと海を見渡せ、よく晴れた日は遠く五島列島を望めることもあるという絶景スポット。散骨を手伝った船頭・大浦吾郎(大滝秀治さん)のセリフを思い出します。〜「久しぶりに、綺麗な海ば見た」〜 長崎市伊王島灯台記念館 長崎市伊王島町1丁目3240番1 TEL 095-898-2011 【開館時間】 9:00〜17:00 【休館日】 月曜日       見学無料
  • 同窓会 2011年03月31日
    同窓会
     宅間孝行さん演じる映画プロデューサー南と永作博美さん演じる妻の雪は高校時代からの初恋を実らせて、見事ゴールイン!しかし子どもには恵まれず、女優と不倫の真っ最中。南は、ある日妻の雪に離婚話を切り出し、あっさりと離婚成立。だがその昔、男性たちのあこがれのマドンナだった雪への南の裏切りを知った高校時代の仲間たちは、大激怒。そんな時、かつてのクラスメイトの石川えりから、雪の体に異変が起きたことを聞いた克之は、彼女のために高校の同窓会を計画するのでした。  南と雪たちが過ごした高校時代の舞台は、島原市。  恋敵のひとりであった入山が、なぜか「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「勇気を出して初めての告白」に出演してしまう場面では島原城や商店街で撮影され、南と雪が挙式を挙げる際には島原カトリック教会で撮影がおこなれています。  また同級生との思い出として記憶の中に残っている風景も現在の島原市のあちこちで撮影が行われました。  南と雪が結婚式を挙げた島原カトリック教会は、1612年(慶長17)から1658年(明暦4)の間に島原半島一帯で殉教した数万人にもおよぶキリスト教信者を記念し、祈りの家として建てられたものです。  猛島神社は、1618年(元和4)に松倉豊後守重政公が、森岳城(現島原城)を築くまで、森岳大権現として祀られたといわれています。  また夏祭りに撮影された八幡神社は、諸説ありますが、神功皇后が高来(たかぎ)郡の悪る者を征伐されたときの陣所跡に建立され、御神徳を崇め奉ったのが八幡神社の起りともいわれています。島原の乱後に島原藩主になった高力忠房は、神社佛閣の再建に務めたといいます。    “勘違いは人生最高の悲劇であり喜劇である”  実際、このコピーから始まるこの映画は、途中で勘が働く方は、結末を予測できるかもしれません。しかし涙あり、笑いありで観た後にすっきりする映画に仕上がっています。永作博美さんや宅間孝行さん、中村獅童さんら豪華キャストが島原弁で話しているのも新鮮で、見応えがあります。  このようなストーリーが、いかにも“島原市らしい”景観の中で展開するというのも、面白いかもしれませんね。
  • 対州馬とのふれあい体験 2011年03月31日
    対州馬とのふれあい体験
     対馬市美津島町にある「あそうベイパーク」は、対馬のほぼ中央に位置し、オートキャンプ場やパットゴルフ、フィールドアスレチックがあり、休日には多くの家族で賑わっています。  敷地内には、野鳥や魚類、昆虫など対馬の貴重な生物が生息している「自然観察の池」があります。ここには43種のトンボ類もおり、環境省種指定の絶滅危惧砧犹慊蠅離劵魅泪ぅ肇肇鵐椶肇轡アメンボが生息しているそうです。  実はあそうベイパークには、「対州馬」が飼育されており、「対州馬」とふれあえることも楽しみのひとつなんです。エサやり体験、ブラッシング、引き馬散歩などができるのです。  みなさんは「対州馬」をご存知ですか?  「対州馬」は、日本在来種の馬で対馬を中心に飼育されてきた馬なんです。他の日本在来馬と同様、ポニーに分類される小柄な馬で、以下のような特徴をもっています。 ・性格はいたっておだやか ・粗食にもよく耐える ・体質剛健 ・坂路の歩行にも適している  対州馬はその性質・体格から、狭い悪路での運搬や上り坂を苦にしないそうです。あそうベイパークの対州馬も確かに高い位置まで登って遊んでいました。  また現在の多くの馬が、斜めに向かい合った右前肢と左後肢・左前肢と右後肢が対になって前にすすむ「斜対歩」で歩くのに対して、対州馬は特に調教をする必要もなく右と右、左と左をきれいに揃えて歩く「側対歩」ができるのも特徴のひとつです。豊臣秀吉も対州馬を気に入り、対馬から取り寄せたという話もあるそうです。  そして対馬は、山地が全面積の90%近くを占めており傾斜地が多いため、男性は漁へ出るため、女性が牛馬の飼養をすることが多かったといいます。また対州馬は性格が温厚でおとなしいので、女性でも簡単に扱えて対馬の人々の生活に適応できたそうです。  あそうベイパークの対州馬も本当にやさしい目をしており、近づいて触っても警戒しません。日曜日になると、動物好きな親子に大人気です。 あそうベイパーク 〒817-1105 長崎県対馬市美津島町大山584-1  TEL:0920-54-4994 【営業時間】  年中無休 9:00〜18:00  (7月〜9月は9:00〜19:00) 関連URL: http://asoubaypark.com/
  • 対馬の蜂蜜と蜂洞 2011年03月31日
    対馬の蜂蜜と蜂洞
     対馬を車で走っていると、山の斜面のあちこちに円筒状の大きいポストのような木箱が置いてあるのが目に留まります。  今までこんなものを見たことがないので、つい近寄ってみてみました。  「これって何ですか?」  地元の方に聞いてみると、蜂蜜を集める“蜂洞(はちどう)”というもので、丸太を切って作っているそうです。  なんと対馬には、ニホンミツバチが生息しているのです。  通常は、短時間でより多くの蜂蜜をとる場合は西洋のミツバチを利用して蜂密を作っているのですが、対馬には西洋ミツバチが入り込んでおらず、古くからずっと純粋なニホンミツバチの蜂蜜がとれるそうなんです。  こんな貴重な地域は、現在日本国内では対馬と四国の一部だけなんだそうです。 「土産屋さんで買うことができますか?」  この時期(11月末)は残念ながらないという。毎年10月に瓶詰めされて店頭に並ぶようになりますが、西洋ミツバチのようにたくさんの蜜を集めることができませんので、多くをつくれないのが現状なんだそうです。またニホンミツバチは放浪しながら時間をかけて蜜を集める習性があるため、様々な種類の花の蜜が混ざり合い、風味豊かな蜂蜜がとれるそうです。そうまで言われると、ぜひとも味わってみたい。  なんと10月から11月半ばくらいで売り切れてしまうんだとか。残念・・・。    この蜂洞を自宅の庭にいくつも設置して、自家用の蜂蜜を作っている方もいらっしゃいます。ミネラルをはじめ、栄養たっぷりのこの蜂蜜は、滋養強壮として昔か ら地元の人々も愛用しています。この蜂密づくりは、対馬では昔からずっと継承されてきており、自然と人々とが共に暮らしている姿がとても印象に残りました 。
  • 口之津歴史民俗資料館・海の資料館 2011年03月31日
    口之津歴史民俗資料館・海の資料館
    口之津歴史民俗資料館・海の資料館  口之津町(くちのつちょう)は、島原半島の南端にあった町で、船員の町としても知られています。(2006年(平成18)3月31日、周辺7町と対等合併し、南島原市となりました)  口之津という地は、これまでの歴史のなかで、日本一の賑わいが3度あった特別な地でもあります。とても興味深い歴史に出会えそうですね。早速、館内へ入ってみましょう! 海の資料館〜港町として幾度も発展を遂げた町〜  口之津は現在に至るまで、天然の良港を中心として発展してきました。  約440年前、有馬氏が統治していた時代にはポルトガル船が入港し、アルメイダ、フロイス、トルレス、ヴァリニャーノなど多くの宣教師や商人が訪れ、教会や病院、学校(セミナリヨ)などが建てられました。  そして明治時代には、三井の三池石炭の海外積み出し港として賑わいました。この当時は、石炭の積込人夫として、与論島(よろんじま:鹿児島県最南端の島)などから口之津へ移住してくるほどでした。別館で展示している「からゆきさん」もこの時代になります。島原や天草の農民は貧しく、自分の娘を売らなければ生活していけないほどであったといわれています。遠く中国や東南アジア各地へ売られていった娘たちのことを「からゆきさん」とよんでいます。映画「まぼろしの邪馬台国」の中で吉永小百合さんが歌っていた「島原の子守唄」は、宮崎康平氏が作詞作曲した唄で、からゆきさんのことが歌われています。この資料館では、ビデオ上映もしています。  大牟田に三池築港が完成した後は、急激に衰微しますが、大正・昭和時代の口之津の就業人口の30%以上が外国航路の乗組員になっており、全国一を誇る「外航船の船員の町」として知られました。1954年(昭和29)には国立口之津海員学校が設立され、港には2000トン級の船舶が横づけできるよう岸壁も完成しました。  この資料館では、カナダ移民第1号の永野万蔵(ながの まんぞう)氏や世界で初めて魚群探知機を開発した世界のフルノ・古野電機の創業者・古野清孝氏の資料もあります。古野清孝氏は、1938年(昭和13)に口之津で創業し、漁船などの電気工事やラジオの修理などを手がけていました。  1878年(明治11)に長崎税関口之津支庁として開設しましたが、手狭になったため、1899年(明治32)に新築されました。口之津町唯一の明治洋風建物で、1980年(昭和55)に国より払い下げを受けています。この旧長崎税関跡では、昔の商家や生活用具、古文書、昔の教科書・新聞、税関に関連する資料が展示されています。  与論館では、口之津が三池石炭の海外積み出し港として賑わっていた1899年(明治32)、石炭積出労務に従事し口之津の繁栄の一端を支えてくれた与論島の方々が使っていた住宅を縮小再現しています。また与論との縁を物語るさまざまな資料も展示されています。    またこの資料館では、時間が合えば館長自らが館内をわかりやすく案内してくれます。口之津の歴史がよりわかりやすいと好評で、リピーターやクチコミで広まっているそうです。  島原半島を訪れたら、必ず立ち寄ってほしい資料館です。 口之津歴史民俗資料館・海の資料館 南島原市口之津町甲16番7 TEL:050-3381-5089 FAX:0957-86-4880 【開館時間】9:00〜17:00 【休館日】月曜日及び12月29日〜1月3日 【料金】  ●個人  一般:200円、高校生:150円、小中学生:100円  ●団体(20人以上)   一般:150円、高校生:100円、小中学生:70円 URL: http://www.city.minamishimabara.lg.jp/kiji/pub/detail.aspx?c_id=54&id=72&pg=1
  • 原城跡発掘出土品展示室 2011年03月31日
    原城跡発掘出土品展示室
    原城跡発掘出土品展示室  島原の乱で知られる原城跡にやってきました!  ここから出土した十字架やロザリオなど貴重な遺物は、すぐ近くにある原城文化センター内の展示室で見られるというのです!  私たちのように、原城跡を訪れ、当時のことをもっと知りたいという方、この展示室に来ませんか?  早速これから原城跡発掘出土品展示室へむかいます!  原城跡で発掘された十字架やロザリオなどの貴重な遺物は、この原城文化センター内の一室に展示されています。  遺物の中には、有馬氏の統治時代の城郭に使われていたであろうといわれる瓦や鬼瓦、使用されていた陶磁器などもあり、当時の生活の一部を見ることができます。  2004年度(平成16)の発掘調査で本丸最北部の登城用通路下から発見された、本丸大手門跡の地表や石垣のレプリカも設置されています。  島原の乱当時の地表付近には焼けた瓦や人骨もあり、その上に石垣などが埋められていたといいます。  原城は島原の乱より以前にすでに取り壊されていたといわれていましたが、これまでの説とは異なり、乱が終結した後に、徹底的に壊されたという状況がわかりました。 島原の乱・原城について  島原半島の南部に位置し、1496年(明応5)に日野江城(ひのえじょう)の支城として有馬貴純(ありまたかずみ)によって築かれたといわれます。  原城跡は、標高20mほどの高台が有明海に突き出た場所にあり、約9万年前の阿蘇火山の大噴火に伴う大火砕流が、有明海を渡ってこの地まで流れてきたことによって作られた台地といわれています。  三方を海に囲まれたこの高台は、まさに難攻不落の天然の要塞でした。この地形を利用して、有馬家はこの地に原城を築きました。  この丘陵に本丸、二の丸、三の丸、出丸、天草丸などで構成された、長崎県内でも最大の平山城が築かれました。  江戸時代初期に勃発した「島原の乱」の最後の舞台となった場所です。1638年1月(寛永14年12月)、天草の領民を含む3万7千人(2万7千人とも いわれる)が、一国一城制で廃城になっていた原城に立てこもりました。88日間に及ぶ籠城の末、ついにこの地で島原の乱は終焉を迎えました。    私たちとは逆に、原城跡発掘出土品展示室で遺物や資料を先に 見て、原城跡も行きたくなってしまうという方もいると思います。車で数分のところに原城跡がありますので、ぜひとも展示室と原城跡両方を訪れてみてください。  展示室や原城跡をガイドしてくれる地元の方々もいらっしゃいます。もっと詳しい話を聞くことができますので、お気軽にお問い合わせください。   ◇お問い合わせ先 南島原ひまわり観光協会 〒859-2504 長崎県南島原市口之津町丙4252番地 南島原市口之津庁舎 別館2階 電話:0957-76-1800 FAX:0957-76-1801 原城一揆まつり  2011年4月16日(土)、原城本丸および周辺において、開催されます。  「島原の乱」終焉の地である原城跡で4万人を超える犠牲者の追悼と原城跡を顕彰するイベントです。「島原の乱」殉難者を追悼するために、市民や一般参加者による提灯追悼行列が行われます。  お昼の部では「島原の乱」で原城跡に籠城した天草四郎をはじめとする一揆衆が、幕府軍との攻防の末に落城する様子を再現した地元中学生による演舞「落城の賦」も行われます。  まつりのメーンとして、「島原の乱」で犠牲となった4万人を超える殉難者をキャンドルの炎で追悼します。原城跡周辺にはキャンドルが並べられ、幽玄な炎で包まれた原城跡は来る人に感動を与えます。  会場には原城一揆まつりのシンボルで、地域住民の手作りによる高さ15メートルの城が、幻の『一夜城』として出現します。 原城跡発掘出土品展示室(原城文化センター内) 南島原市南有馬町乙1374   見学自由(入館無料) 【開館時間】午前9時から午後5時まで 【休館日】毎週月曜日、年末年始  【問い合せ先】  原城文化センター TEL:0957-85-3217  南島原ひまわり観光協会 TEL:0957-76-1800   URL: http://himawari-kankou.jp/
  • 雲仙岳災害記念館 2011年03月31日
    雲仙岳災害記念館
    雲仙岳災害記念館  火山というものがどんなものなのか・・・見る・体験する・遊ぶ・学ぶ・憩う。火山に関する知的エンターテイメントがギッシリ詰まった一大空間がこの雲仙岳災害記念館です。  1990年(平成2)11月に始まった雲仙・普賢岳の噴火活動から1996年(平成8)5月の噴火活動終息宣言まで、何が起き、何が残ったのか・・・。大自然の脅威とそれに立ち向かった人々の英知を余すところなく展示しています。 さあ、早速、雲仙岳災害記念館へ行ってみよう!  雲仙普賢岳噴火活動が始まってから、溶岩ドームは1991年(平成3)5月以来、13も出現しては成長し、幾度かの崩落によって火砕流が引き起こされ、同年6月3日の大火砕流によって尊い命が奪われました。地元住民7人、消防団員12人、警察官2人、火山研究者3人、報道関係者20人と合計44人が犠牲となりました。  噴火活動がおさまった今では、この溶岩ドームも雄大な景観の一部となり、雲仙岳の最高峰「平成新山」(1,486m)として堂々たる存在感を示しています。  その平成新山に対峙して、埋め立てられた場所に建てられたのがこの雲仙岳災害記念館です。 館内の見どころ  雲仙普賢岳のジオラマに火砕流と土石流のシミュレーションCGの映像を重ね合わせた「平成噴火シミュレーション」、直径14mのドーム型スクリーンで噴火を疑似体験する「平成大噴火シアター」、火砕流のスピードを走り去る光により体感する長さ40mの「火砕流の道」、寛政年間の噴火を昔話風にわかりやすく紹介する「島原大変シアター」など、どれも迫力満点で火山の恐ろしさを実感することができます。  「平成大噴火シアター」を観て火砕流と土石流を体感し、シアターを出ると「焼き尽くされた風景」の前に出ます。火砕流で焼けこげた電柱や電話ボックス、報道陣のカメラなどが実物で展示されており、当時の火砕流のすさまじさがよくわかります。 復興・再生、火山との共生  雲仙岳災害記念館は、雲仙普賢岳の噴火活動の内容や火砕流や土石流の資料だけではありません。  1Fフロアを出て、溶岩の庭を眺めながら2Fフロアへあがると、「雲仙・大火砕流378秒の遺言」があります。ここでは1991年6月3日の大火砕流で犠牲になったカメラマンの被災カメラを展示し、そのカメラに残されていた実写映像(撮影時間378秒)を基に編集されたドキュメンタリーを観ることができます。ここでも火砕流がどんなものであったのか、当時の緊迫した雰囲気をリアルに感じることができ、当時の報道を思い出します。  そして写真や映像で災害に立ち向かう人々や復興への取り組みを紹介する「火山との共生(1F)」や噴火災害を体験した人々から、支援いただいた方や来館者の方々への感謝の気持ちと復興再生への思いを伝えた「明日へのメッセージ」では、復興・再生へと取り組んだ人々の思いを知ることもできます。「明日へのメッセージ」では、等身大の人形の手と握手をするとメッセージを聞くことができますので、ぜひ試してください。  2011年(平成23)3月11日、東日本大震災による甚大な被害が発生しました。ニュース映像をみると、雲仙・普賢岳の噴火による火砕流・土石流の被害のことも思い出し、とても悲しくなります。  雲仙岳災害記念館の出口手前には「希望のプロムナード」コーナーがあります。噴火災害後から復興・再生へ立ち向かった人々の思いが3つのテーマに分類されており、ひとつひとつ読むことができます。当時のことを思い出しながら読むと感動はひとしおです。復興・再生への希望、強い力を感じました。    島原半島を訪れたら、必ず立ち寄ってほしいスポットです。 雲仙岳災害記念館 長崎県島原市平成町1-1 TEL:0957-65-5555 FAX:0957-65-5550   【営業時間】  9:00〜18:00(入館は17:00まで) 【休業日】  年中無休  但し、メンテナンス休館日あり   URL: http://www.udmh.or.jp/
  • そのぎ茶と茶々焼 2011年03月30日
    そのぎ茶と茶々焼
     東彼杵町(ひがしそのぎちょう)は、長崎県一の緑茶の産地です。  眼下に大村湾を一望する台地には、約400ヘクタールの茶畑が広がり、毎年県内の60%を占める750トンのお茶が生産され、「そのぎ茶」として販売されています。  道の駅そのぎの荘では、このそのぎ茶を、手軽に味わうことができるのです。  1個80円という価格で、そのぎ茶が練り込まれたあつあつの茶々焼は、今や人気商品として知られ、多くの人が購入しています。  また店内ではそのぎ茶も販売されており、一緒に購入して味わうとよりそのぎ茶の魅力を知ることができます。  15世紀に、釜炒りによる製茶法が西九州に伝えられると、各地で盛んに茶が生産されるようになりました。その後、元禄年間には、大村藩主の奨励によって、茶園の集団化で現在の基礎がつくられました。  また「そのぎ茶」は、約300年前来日したドイツ人医師ケンペル、約220年前に来日したスウェーデンの植物学者シュンベリー、さらに180年前に来日したドイツ人医師シーボルトのいわゆる出島三学者が、江戸参府のおりに、彼杵に宿泊し、見事な茶の栽培技術に驚嘆し広くヨーロッパにも紹介されたといわれます。  幕末の志士を援助したことでも知られている女性豪商大浦慶は、出島在留のオランダ人テキストルに茶の見本を託しました。3年後英国商オルトから巨額の注文を受け、九州一円から6トンのお茶を集めて輸出したと記録されています。この際にも、そのぎ茶が多く使われました。  この後お茶の輸出量は開港と共に増え、生糸と並ぶ日本の重要な輸出品目となっていきました。 道の駅 そのぎの荘 長崎県東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷747-2 TEL:0957-49-3311 【営業時間】 店舗・売店 7:00〜19:00 軽食 10:00〜17:00 体験施設、博物館・美術館 9:00〜17:00   関連URL: http://www.sonogi.jp/michinoeki.html