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長崎みやげ話

  • 対州馬とのふれあい体験 2011年03月31日
    対州馬とのふれあい体験
     対馬市美津島町にある「あそうベイパーク」は、対馬のほぼ中央に位置し、オートキャンプ場やパットゴルフ、フィールドアスレチックがあり、休日には多くの家族で賑わっています。  敷地内には、野鳥や魚類、昆虫など対馬の貴重な生物が生息している「自然観察の池」があります。ここには43種のトンボ類もおり、環境省種指定の絶滅危惧砧犹慊蠅離劵魅泪ぅ肇肇鵐椶肇轡アメンボが生息しているそうです。  実はあそうベイパークには、「対州馬」が飼育されており、「対州馬」とふれあえることも楽しみのひとつなんです。エサやり体験、ブラッシング、引き馬散歩などができるのです。  みなさんは「対州馬」をご存知ですか?  「対州馬」は、日本在来種の馬で対馬を中心に飼育されてきた馬なんです。他の日本在来馬と同様、ポニーに分類される小柄な馬で、以下のような特徴をもっています。 ・性格はいたっておだやか ・粗食にもよく耐える ・体質剛健 ・坂路の歩行にも適している  対州馬はその性質・体格から、狭い悪路での運搬や上り坂を苦にしないそうです。あそうベイパークの対州馬も確かに高い位置まで登って遊んでいました。  また現在の多くの馬が、斜めに向かい合った右前肢と左後肢・左前肢と右後肢が対になって前にすすむ「斜対歩」で歩くのに対して、対州馬は特に調教をする必要もなく右と右、左と左をきれいに揃えて歩く「側対歩」ができるのも特徴のひとつです。豊臣秀吉も対州馬を気に入り、対馬から取り寄せたという話もあるそうです。  そして対馬は、山地が全面積の90%近くを占めており傾斜地が多いため、男性は漁へ出るため、女性が牛馬の飼養をすることが多かったといいます。また対州馬は性格が温厚でおとなしいので、女性でも簡単に扱えて対馬の人々の生活に適応できたそうです。  あそうベイパークの対州馬も本当にやさしい目をしており、近づいて触っても警戒しません。日曜日になると、動物好きな親子に大人気です。 あそうベイパーク 〒817-1105 長崎県対馬市美津島町大山584-1  TEL:0920-54-4994 【営業時間】  年中無休 9:00〜18:00  (7月〜9月は9:00〜19:00) 関連URL: http://asoubaypark.com/
  • 口之津歴史民俗資料館・海の資料館 2011年03月31日
    口之津歴史民俗資料館・海の資料館
    口之津歴史民俗資料館・海の資料館  口之津町(くちのつちょう)は、島原半島の南端にあった町で、船員の町としても知られています。(2006年(平成18)3月31日、周辺7町と対等合併し、南島原市となりました)  口之津という地は、これまでの歴史のなかで、日本一の賑わいが3度あった特別な地でもあります。とても興味深い歴史に出会えそうですね。早速、館内へ入ってみましょう! 海の資料館〜港町として幾度も発展を遂げた町〜  口之津は現在に至るまで、天然の良港を中心として発展してきました。  約440年前、有馬氏が統治していた時代にはポルトガル船が入港し、アルメイダ、フロイス、トルレス、ヴァリニャーノなど多くの宣教師や商人が訪れ、教会や病院、学校(セミナリヨ)などが建てられました。  そして明治時代には、三井の三池石炭の海外積み出し港として賑わいました。この当時は、石炭の積込人夫として、与論島(よろんじま:鹿児島県最南端の島)などから口之津へ移住してくるほどでした。別館で展示している「からゆきさん」もこの時代になります。島原や天草の農民は貧しく、自分の娘を売らなければ生活していけないほどであったといわれています。遠く中国や東南アジア各地へ売られていった娘たちのことを「からゆきさん」とよんでいます。映画「まぼろしの邪馬台国」の中で吉永小百合さんが歌っていた「島原の子守唄」は、宮崎康平氏が作詞作曲した唄で、からゆきさんのことが歌われています。この資料館では、ビデオ上映もしています。  大牟田に三池築港が完成した後は、急激に衰微しますが、大正・昭和時代の口之津の就業人口の30%以上が外国航路の乗組員になっており、全国一を誇る「外航船の船員の町」として知られました。1954年(昭和29)には国立口之津海員学校が設立され、港には2000トン級の船舶が横づけできるよう岸壁も完成しました。  この資料館では、カナダ移民第1号の永野万蔵(ながの まんぞう)氏や世界で初めて魚群探知機を開発した世界のフルノ・古野電機の創業者・古野清孝氏の資料もあります。古野清孝氏は、1938年(昭和13)に口之津で創業し、漁船などの電気工事やラジオの修理などを手がけていました。  1878年(明治11)に長崎税関口之津支庁として開設しましたが、手狭になったため、1899年(明治32)に新築されました。口之津町唯一の明治洋風建物で、1980年(昭和55)に国より払い下げを受けています。この旧長崎税関跡では、昔の商家や生活用具、古文書、昔の教科書・新聞、税関に関連する資料が展示されています。  与論館では、口之津が三池石炭の海外積み出し港として賑わっていた1899年(明治32)、石炭積出労務に従事し口之津の繁栄の一端を支えてくれた与論島の方々が使っていた住宅を縮小再現しています。また与論との縁を物語るさまざまな資料も展示されています。    またこの資料館では、時間が合えば館長自らが館内をわかりやすく案内してくれます。口之津の歴史がよりわかりやすいと好評で、リピーターやクチコミで広まっているそうです。  島原半島を訪れたら、必ず立ち寄ってほしい資料館です。 口之津歴史民俗資料館・海の資料館 南島原市口之津町甲16番7 TEL:050-3381-5089 FAX:0957-86-4880 【開館時間】9:00〜17:00 【休館日】月曜日及び12月29日〜1月3日 【料金】  ●個人  一般:200円、高校生:150円、小中学生:100円  ●団体(20人以上)   一般:150円、高校生:100円、小中学生:70円 URL: http://www.city.minamishimabara.lg.jp/kiji/pub/detail.aspx?c_id=54&id=72&pg=1
  • 原城跡発掘出土品展示室 2011年03月31日
    原城跡発掘出土品展示室
    原城跡発掘出土品展示室  島原の乱で知られる原城跡にやってきました!  ここから出土した十字架やロザリオなど貴重な遺物は、すぐ近くにある原城文化センター内の展示室で見られるというのです!  私たちのように、原城跡を訪れ、当時のことをもっと知りたいという方、この展示室に来ませんか?  早速これから原城跡発掘出土品展示室へむかいます!  原城跡で発掘された十字架やロザリオなどの貴重な遺物は、この原城文化センター内の一室に展示されています。  遺物の中には、有馬氏の統治時代の城郭に使われていたであろうといわれる瓦や鬼瓦、使用されていた陶磁器などもあり、当時の生活の一部を見ることができます。  2004年度(平成16)の発掘調査で本丸最北部の登城用通路下から発見された、本丸大手門跡の地表や石垣のレプリカも設置されています。  島原の乱当時の地表付近には焼けた瓦や人骨もあり、その上に石垣などが埋められていたといいます。  原城は島原の乱より以前にすでに取り壊されていたといわれていましたが、これまでの説とは異なり、乱が終結した後に、徹底的に壊されたという状況がわかりました。 島原の乱・原城について  島原半島の南部に位置し、1496年(明応5)に日野江城(ひのえじょう)の支城として有馬貴純(ありまたかずみ)によって築かれたといわれます。  原城跡は、標高20mほどの高台が有明海に突き出た場所にあり、約9万年前の阿蘇火山の大噴火に伴う大火砕流が、有明海を渡ってこの地まで流れてきたことによって作られた台地といわれています。  三方を海に囲まれたこの高台は、まさに難攻不落の天然の要塞でした。この地形を利用して、有馬家はこの地に原城を築きました。  この丘陵に本丸、二の丸、三の丸、出丸、天草丸などで構成された、長崎県内でも最大の平山城が築かれました。  江戸時代初期に勃発した「島原の乱」の最後の舞台となった場所です。1638年1月(寛永14年12月)、天草の領民を含む3万7千人(2万7千人とも いわれる)が、一国一城制で廃城になっていた原城に立てこもりました。88日間に及ぶ籠城の末、ついにこの地で島原の乱は終焉を迎えました。    私たちとは逆に、原城跡発掘出土品展示室で遺物や資料を先に 見て、原城跡も行きたくなってしまうという方もいると思います。車で数分のところに原城跡がありますので、ぜひとも展示室と原城跡両方を訪れてみてください。  展示室や原城跡をガイドしてくれる地元の方々もいらっしゃいます。もっと詳しい話を聞くことができますので、お気軽にお問い合わせください。   ◇お問い合わせ先 南島原ひまわり観光協会 〒859-2504 長崎県南島原市口之津町丙4252番地 南島原市口之津庁舎 別館2階 電話:0957-76-1800 FAX:0957-76-1801 原城一揆まつり  2011年4月16日(土)、原城本丸および周辺において、開催されます。  「島原の乱」終焉の地である原城跡で4万人を超える犠牲者の追悼と原城跡を顕彰するイベントです。「島原の乱」殉難者を追悼するために、市民や一般参加者による提灯追悼行列が行われます。  お昼の部では「島原の乱」で原城跡に籠城した天草四郎をはじめとする一揆衆が、幕府軍との攻防の末に落城する様子を再現した地元中学生による演舞「落城の賦」も行われます。  まつりのメーンとして、「島原の乱」で犠牲となった4万人を超える殉難者をキャンドルの炎で追悼します。原城跡周辺にはキャンドルが並べられ、幽玄な炎で包まれた原城跡は来る人に感動を与えます。  会場には原城一揆まつりのシンボルで、地域住民の手作りによる高さ15メートルの城が、幻の『一夜城』として出現します。 原城跡発掘出土品展示室(原城文化センター内) 南島原市南有馬町乙1374   見学自由(入館無料) 【開館時間】午前9時から午後5時まで 【休館日】毎週月曜日、年末年始  【問い合せ先】  原城文化センター TEL:0957-85-3217  南島原ひまわり観光協会 TEL:0957-76-1800   URL: http://himawari-kankou.jp/
  • 雲仙岳災害記念館 2011年03月31日
    雲仙岳災害記念館
    雲仙岳災害記念館  火山というものがどんなものなのか・・・見る・体験する・遊ぶ・学ぶ・憩う。火山に関する知的エンターテイメントがギッシリ詰まった一大空間がこの雲仙岳災害記念館です。  1990年(平成2)11月に始まった雲仙・普賢岳の噴火活動から1996年(平成8)5月の噴火活動終息宣言まで、何が起き、何が残ったのか・・・。大自然の脅威とそれに立ち向かった人々の英知を余すところなく展示しています。 さあ、早速、雲仙岳災害記念館へ行ってみよう!  雲仙普賢岳噴火活動が始まってから、溶岩ドームは1991年(平成3)5月以来、13も出現しては成長し、幾度かの崩落によって火砕流が引き起こされ、同年6月3日の大火砕流によって尊い命が奪われました。地元住民7人、消防団員12人、警察官2人、火山研究者3人、報道関係者20人と合計44人が犠牲となりました。  噴火活動がおさまった今では、この溶岩ドームも雄大な景観の一部となり、雲仙岳の最高峰「平成新山」(1,486m)として堂々たる存在感を示しています。  その平成新山に対峙して、埋め立てられた場所に建てられたのがこの雲仙岳災害記念館です。 館内の見どころ  雲仙普賢岳のジオラマに火砕流と土石流のシミュレーションCGの映像を重ね合わせた「平成噴火シミュレーション」、直径14mのドーム型スクリーンで噴火を疑似体験する「平成大噴火シアター」、火砕流のスピードを走り去る光により体感する長さ40mの「火砕流の道」、寛政年間の噴火を昔話風にわかりやすく紹介する「島原大変シアター」など、どれも迫力満点で火山の恐ろしさを実感することができます。  「平成大噴火シアター」を観て火砕流と土石流を体感し、シアターを出ると「焼き尽くされた風景」の前に出ます。火砕流で焼けこげた電柱や電話ボックス、報道陣のカメラなどが実物で展示されており、当時の火砕流のすさまじさがよくわかります。 復興・再生、火山との共生  雲仙岳災害記念館は、雲仙普賢岳の噴火活動の内容や火砕流や土石流の資料だけではありません。  1Fフロアを出て、溶岩の庭を眺めながら2Fフロアへあがると、「雲仙・大火砕流378秒の遺言」があります。ここでは1991年6月3日の大火砕流で犠牲になったカメラマンの被災カメラを展示し、そのカメラに残されていた実写映像(撮影時間378秒)を基に編集されたドキュメンタリーを観ることができます。ここでも火砕流がどんなものであったのか、当時の緊迫した雰囲気をリアルに感じることができ、当時の報道を思い出します。  そして写真や映像で災害に立ち向かう人々や復興への取り組みを紹介する「火山との共生(1F)」や噴火災害を体験した人々から、支援いただいた方や来館者の方々への感謝の気持ちと復興再生への思いを伝えた「明日へのメッセージ」では、復興・再生へと取り組んだ人々の思いを知ることもできます。「明日へのメッセージ」では、等身大の人形の手と握手をするとメッセージを聞くことができますので、ぜひ試してください。  2011年(平成23)3月11日、東日本大震災による甚大な被害が発生しました。ニュース映像をみると、雲仙・普賢岳の噴火による火砕流・土石流の被害のことも思い出し、とても悲しくなります。  雲仙岳災害記念館の出口手前には「希望のプロムナード」コーナーがあります。噴火災害後から復興・再生へ立ち向かった人々の思いが3つのテーマに分類されており、ひとつひとつ読むことができます。当時のことを思い出しながら読むと感動はひとしおです。復興・再生への希望、強い力を感じました。    島原半島を訪れたら、必ず立ち寄ってほしいスポットです。 雲仙岳災害記念館 長崎県島原市平成町1-1 TEL:0957-65-5555 FAX:0957-65-5550   【営業時間】  9:00〜18:00(入館は17:00まで) 【休業日】  年中無休  但し、メンテナンス休館日あり   URL: http://www.udmh.or.jp/
  • 陶芸の館 2011年03月23日
    陶芸の館
     波佐見焼は、1978年(昭和53)、日本の伝統的工芸品に指定されました。「伝統的工芸品」とは、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)」で定められているものです。 「的」とはどういうことでしょう? “工芸品の特長となっている原材料や技術・技法の主要な部分が今日まで継承されていて、さらに、その持ち味を維持しながらも、産業環境に適するように改良を加えたり、時代の需要に即した製品作りがされている工芸品”という意味が込められています。  同年、三川内焼も伝統的工芸品に指定されています。この伝統的工芸品・波佐見焼とはどのようなものでしょうか?  波佐見焼について詳しく資料を展示している「陶芸の館」にやってきました。早速館内へ入ってみましょう! 波佐見焼の歴史  1598年(慶長3)、豊臣秀吉の朝鮮出兵から帰国するの際に、大村藩主大村喜前(よしあき)が朝鮮より李祐慶(りゆうけい)らの陶工を連れ帰ってきました。陶工らは波佐見町村木の畑ノ原(はたのはら)、古皿屋(ふるさらや)、山似田(やまにた)の3ヶ所に登窯を築き、やきもの作りを始めました。これが波佐見焼の始まりです。白磁や染付、青磁などの磁器の生産も始まりました。  1630年代に入ると、肥前(現長崎県・佐賀県)では陶器生産から本格的な磁器生産へと移行します。波佐見では、白磁・染付も生産しましたが、草花などの文様を彫りだす青磁が多く製作されています。この頃には三股古窯(みつのまたこよう)や三股青磁(みつのまたせいじ)窯などが設置されました。1665年(寛文5)、藩主・大村純長(すみなが)は、三股に皿山役所を設け積極的に殖産政策を推し進めました。  1650年代には、中国での内乱によって中国産のやきものの海外輸出が中断し、中国にかわって日本のやきものが海外へ盛んに輸出されるようになりました。肥前一帯に注文が増えました。波佐見にも多くの窯が築かれ、生産技術も向上し、海外輸出用の大きな染付鉢や青磁皿を生産しました。 海外へ渡った波佐見焼「コンプラ瓶」  西洋や中国に開かれていた長崎から、東南アジアやヨーロッパへと輸出されたものの中には、波佐見で製作されたコンプラ瓶がありました。長崎の仲買がオランダ東インド会社を通じて輸出したものです。「仲買」をオランダ語で「コンプラドール」といいますが、そこから名付けられたといわれています。  醤油や酒を入れて輸出されていました。醤油瓶には「JAPANSCHZOYA (ヤバンセ・ソヤー:日本の醤油)、酒瓶には「JAPANSCHZAKY(ヤバンセ・サキー:日本の酒)と書かれており、独特な形はヨーロッパ人から愛され、1874年(明治7)まで生産されました。出島からも多くのコンプラ瓶が出土しています。  1690年代に入いると、海外向けから国内向けのやきものを多く生産するようになります。特に庶民が買える安価なやきもの作りが行われ、日本中に親しまれた「くらわんか茶碗」も大量に生産されました。  当時、やきものは積み出す港の名をとって「伊万里焼」、明治以降には出荷駅の名をとって「有田焼」として流通していたために、「波佐見焼」という名称が知られていませんでした。しかし染付磁器の生産量は日本一であったといわれ、18世紀以降の江戸時代の遺跡から出土する磁器の多くが波佐見焼であるといわれています。 「くらわんか」とは?  江戸時代には、大坂天満・京都間の淀川を往来する船に近づき、乗船客に「餅くらわんか」「酒くらわんか」などと声をかけ、飲食の商売をしている茶船がありました。掛け声から、くらわんか舟とも呼ばれていましたが、この小舟には火床が備えられ、餅や酒、煮炊きをした料理を器に盛って販売していました。これらの器の多くが波佐見で生産されたもので「くらわんか手」とも呼ばれました。植物をはじめ動物や自然、風景、幾何文様のものが多く、大坂・江戸を中心に全国津々浦々へ運ばれ、庶民の間で親しまれました。安価な磁器であったため、波佐見の磁器は庶民に広まり、日本の食文化の歴史にも関わっています。 明治以降の波佐見焼  明治に入り、皿山役所が廃止されると、藩の保護がなくなり、窯元やそこで働く人々は困難な道を歩むことになりました。しかし窯元同士協力しあい苦労を重ねながらも新しい技術を導入し、発展し続けました。  この頃には様々な改革がなされました。天草陶石が使用されるようになり、安定した品質の高いやきものが製作されるようになりました。陶石粉砕は、それまでの唐臼から水車へと変わりました。その後電力の利用による陶土製造がはじまり、蹴りロクロでの成形へと変化し、動力ロクロも登場するようになりました。下絵具においては、合成呉須(人工コバルト)が使われはじめ、また銅板転写も導入されました。1915年(大正4)には石灰窯が初めて導入され、燃料として石炭が使用されるようになります。この頃には石膏型による鋳込(いこみ)成形が登場し、袋物の量産が可能となります。ゴム版による絵付も始まりました。  昭和に入ると、機械ロクロが登場し、さらに大量生産が可能となりました。 現在の波佐見焼  江戸時代、それまで庶民の手が届かないと思われていた磁器碗を、「くらわんか茶碗」などで手頃な価格にし、庶民の人気を得て、日本の食文化の発展にも影響を与えました。  毎日の暮らしの中で、“使えて、手軽でしかも良質な器”を消費者のニーズに合わせて提案する姿勢は、現在でも変わりません。その時代の人々のさまざまな暮らしにあわせて変化し、使われ、愛される陶磁器を製作するため、常に新しい技術に取り組んでいます。 さらに波佐見焼を楽しむには  波佐見町では、自分だけの器を作る体験だけでなく、農業やお酒作り、そば作りなどの体験とを組み合わせた滞在プランが充実しています。このことによってより生活に身近である器に関わることができます。  年間を通じてイベントも多く、様々な内容が盛り合わされています。 代表的なイベント ●中尾山 桜陶祭(おうとうさい)  毎年4月第1土日には、普段は見ることの出来ない陶郷中尾山の窯元17社が一般に開放され、 焼きものの直売が行われます。また桜や波佐見ののどかな風景を眺めながら歩く窯元ウォークラリーも実施されます。 ●波佐見陶器まつり  毎年4月29日〜5月5日は、20万人もの観光客と焼きものファンで賑わい、値段交渉の声がお祭り気分を盛り上げます。陶芸の館では、波佐見焼の歴史をたどり陶芸体験もできます。  8月には、各地区で江戸時代から続いている浮立や皿山人形浄瑠璃公演、はさみ夏まつりなどが行われます。 ●鬼木棚田まつり  案山子コンテストをはじめ、波佐見町ならではのイベントが多数開催されます。 ●はさみ炎まつり  11月には、農産物や波佐見焼の販売が行われ、500円で器を購入いただくと、郷土料理を召し上がっていただくという満足いっぱいのイベントが開催されます。絵付け体験やロクロ鋳込み体験コーナーも行われます。 ●皿山「器替まつり」  12月には「環境にやさしい」をテーマにした「器替まつり」が開催されます。ご自宅にある不用の器を持っていくと各店にてお好きな器を各店1点を定価の5割引きで購入し、交換できるというものです。御持ちいただいた器は、エコスタイルとして生まれ変わるというから面白いイベントです。  5月下旬に酒米田植えを行い、10月下旬に稲を刈り、自分だけのお酒と酒器を作るという数ヶ月に渡って完成する贅沢な体験があります。波佐見町では、毎月何かしら参加できるイベントがたくさんあり、やきもの作りに気軽に参加することができるのです。  また陶芸の館「くらわん館」や中尾山伝習館をはじめ、波佐見町内の様々な会場で、随時ろくろや手びねりでイチから自分の手で作る本格陶芸や絵付け体験、やきものの窯を利用したピザ焼き、石窯料理、パン作り体験が体験できます。  さらに今後は、地元観光会社の協力を得て、博多駅を発着とした2泊3日の体験滞在ツアーや日帰りツアーをはじめ5種類のツアーが開催される予定です。四季を通して開催される予定ですので、波佐見観光協会の公式サイトをチェックしていてくださいね。 陶芸の館 観光交流センター 〒859-3711 長崎県東彼杵郡波佐見町井石郷2255-2 ・波佐見町観光協会  TEL:0956-85-2290 FAX:0956-85-2856 ・波佐見焼振興会  TEL:0956-85-2214 FAX:0956-85-2856 ・くらわん館  TEL:0956-26-7162 FAX:0956-26-7163   【開館時間】9:00〜17:00 【休館日】1月1日のみ ※資料展示コーナーは入館料無料です ※団体見学や絵付け・ロクロ体験ご希望の方は、一週間前までに電話・FAXでお申し込みください。 ※絵付け・ロクロ体験は有料です   URL: http://www.hasami-kankou.jp/
  • 東彼杵町歴史民俗資料館 2011年03月17日
    東彼杵町歴史民俗資料館
     東彼杵町歴史民俗資料館は、長崎自動車道/東そのぎICで降りてすぐのところで、国道205号を佐世保市へ向かって走ると、1分もしないうちに左側に長崎県内でも代表的な前方後円墳・ひさご塚古墳が目に入ります。この古墳を見守るように資料館が建っています。東彼杵町は、長崎に入って来た西洋や中国の文化が大坂・江戸へ向けて伝えられていく道「長崎街道」の宿場町として、そして「平戸街道」の起点となる場所としてたくさんの人と文化が集まる地域でした。どんな歴史があるのか楽しみですね、早速その歴史を見に行ってみよう! 1階企画展スペース  館内1階は東彼杵町民参加型の企画展示スペースです。現在は「ひなまつり」が開催され、町民の方々がお持ちのひな人形がずらりと並んでいます。このひなまつりは、4月3日まで開催されています。定期的に面白い企画展が催されますので、楽しみのひとつですね。1階の企画展は無料です。お気軽にお入りください。 2階歴史館  2階には歴史館と文化館の2つの展示スペースが設置されています。  歴史館は、旧石器時代から大村湾岸地域の中心として栄えた弥生・古墳時代、そして深沢儀大夫の捕鯨や大規模な新田開発が行われた江戸時代までの歴史、そして長崎県を代表するお茶のひとつ「そのぎ茶」の資料が展示されています。  国道からも見えるひさご塚古墳から出土した遺物も見ることができます。ひさご塚古墳の「ひさご」という名称は、前方後円墳が「ひょうたん(ひさご)」の形に似ていることから名付けられたそうです。今から約1500年前にこの地域を治めていた豪族で、神功皇后の三韓征伐の際には、武内宿禰(たけのうちすくね)の配下として従軍した武将の墓であるといわれています。  1914年(大正3)に茶園を開き、茶樹の栽培と製茶法の改良に取り組んだ野田卯太郎(うたろう)や赤木原を開拓して茶園を造った中島栄(さかえ)などそのぎ茶の発展を支えてきた人々もパネルで紹介されています。1859年(安政5)の開国により、茶は貿易品となりました。長崎の大浦慶は、千綿(ちわた)宿の土肥家と取引をしていたといわれています。4月中頃から5月いっぱいにかけてそのぎ茶の品評会やイベントが多数開催されますので、チェックしていてくださいね。  また大村氏領であったため、キリシタン文化も切り離すことはできません。町内にもキリシタン墓碑があります。1596年(慶長元)に起こったサン・フェリペ号事件の翌年に長崎西坂の丘で処刑された26人は、彼杵浦から船に乗って時津(とぎつ)へ向かい、そして西坂へと歩き出しました。26人が船に乗ったといわれる彼杵浦には、日本26聖人船出の碑が建立されています。近くにありますので、散策がてら寄ってみてください。 2階文化館  東彼杵町は、江戸時代には長崎街道や平戸街道の宿場町として大いに賑わいました。文化館に入ると、当時庶民の旅行許可と身分証明を兼ねた通行手形などをはじめ、彼杵宿本陣に関する資料が展示されています。  今から約200年前に千綿宿で始まったといわれる千綿人形浄瑠璃も紹介されています。明治・大正の頃は大変盛んで、地元水神宮の祇園祭で上演され、各地を巡業していました。現在は地元中学校のクラブ活動にも取り入れられており、長崎県の無形民俗文化財にも指定されています。 明治の民家  資料館のそばには、明治時代の民家が建っています。明治時代に町内中岳郷に建てられた富農家の母屋部分を移築したもので、内部の構造は日本の古い農家の様式を留めています。建物の中には当時使われていた生活用具や農具などが数多く展示されています。この民家でも企画展示が行われることがありますので、気がけてのぞいてみてくださいね。    長崎街道の宿場町であり、また平戸街道の起点でもありましたので、たくさんの商人や武士たちで賑わいました。江戸時代初めから明治にかけての数百年間は、捕鯨と鯨肉取引の中心地としても栄え、ここに陸揚げされた鯨が九州各地へと送られていました。  現在は長崎自動車道が通り、国道205号で平戸へと続き交通の面でも昔と同じで便利な地です。そして2002年(平成14)には、隣に道の駅「彼杵(そのぎ)の荘(しょう)」がオープンし、家族や友達同士のグループなど多くの人出で賑わっています。新しい歴史と文化の交流スポットとしても期待できますね。 東彼杵町歴史民俗資料館 ◎入館料 【個人】  大人200円、小中学生100円 【団体10名以上】  大人100円、小中学生50円     ◎開館時間 9:00〜17:00(入館16:30まで) ◎休館日 毎週火曜日、年末年始(12月28日〜1月5日)   〒859-3807 長崎県東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷430番地5 TEL:0957-46-1632 URL: http://www.sonogi.jp/rekiminkan.html
  • 平戸市生月町博物館 島の館 2011年02月09日
    平戸市生月町博物館 島の館
     江戸時代には益冨(ますとみ)組を中心とした沿岸捕鯨が活発に行われ、平戸藩の財政を支えるほどの規模を誇りました。また安土桃山時代には、フランシスコ・ザビエル以降平戸に来たイエズス会宣教師がこの生月島でもカトリックの布教を行い、平戸藩の重臣だった籠手田安昌(こてだやすまさ)・安経(やすつね)父子をはじめ多くの島民が洗礼を受けましたが、その後の禁教令により殉教したり、長い間迫害に耐えてかくれキリシタンとして密かに信仰を受け継いできました。生月島とはどんな島なのか!?さあ、早く館内へ入ってみよう! 勇魚とりの物語  早速第1展示室「勇魚(いさな)とりの物語」に入ってみると、大きなミンククジラとツチクジラの骨格標本が出迎えています。「勇魚」とは、「鯨」の古い呼び方です。  益冨(ますとみ)捕鯨は、1820年頃(文政年間)には、5つの鯨組を経営するほどに拡大し、西海のみならず日本一の規模を誇る鯨組へと発展しました。室内には江戸時代の捕鯨の様子を忠実に再現した大型ジオラマや、生月島の鯨取りの様子を紹介した捕鯨図説「勇魚取絵詞(いさなとりえことば)」などが展示されています。「勇魚取絵詞」は、1832年(天保3)に益冨家が刊行したもので、漁場や施設の紹介から、網をかけて銛を突き刺す捕鯨の様子、解体や加工の過程など20の場面を絵と解説文で描いたもので、貴重な資料です。  またミンククジラの骨格や内臓の標本など貴重な資料や当時の鯨の利用法について、捕鯨の歴史とともにわかりやすく紹介してあります。  そして生月島出身で日本一の巨漢力士として知られる生月鯨太左衛門(いきつきけいたざえもん:身長227センチ)について紹介するコーナーもあります。実寸サイズの生月鯨太左衛門と一緒に記念写真を撮る方も少なくありません。 島の暮らし  島の人々の生活には欠かせない漁業や農業に関する道具や資料、祭礼の展示が行われています。漁業は、島の基幹産業であるまき網や定置網がジオラマなどで紹介されています。農業に関しては、昔の稲作にまつわる道具や信仰に関する資料が紹介されています。また神社や寺院が出した各種お札なども展示されています。 かくれキリシタン  約260年ものあいだ、厳しい弾圧に耐え抜き受け継がれた信仰の歴史を紹介しています。教会を模した展示室になっており、聖母子像、メダイなどかくれキリシタンの祭具の数々が展示されています。  生月島のかくれキリシタンは、16〜17世紀の祈りの言葉であるオラショを唱えるなど、古いキリシタンの形態を残す一方で、潜伏時代に土着の信仰・宗教と習合した独自の形態を持っており、研究者にも注目されているそうです。奥に設置された部屋にはかくれキリシタンの生活空間が再現され、オラショを唱える音声も聞くことができます。 シーファンタジックアリーナ  生月島の近海にいる海の生き物たち約250種類、400匹の剥製(はくせい)が展示された空間になっています。海中を散歩をしている気分になってきます。魚の姿をあらゆる角度からじっくりと観察することができます。子どもと訪れて、一緒に魚の名前を覚えていくのも楽しそうですね。 オリジナル商品も充実したミュージアムショップ  図書資料や映像コーナーのそばには、ミュージアムショップがあります。ミュージアムショップには、この博物館に来ないと手に入らない逸品も少なくありません。  お守りとして古くから重宝されてきた鯨のヒゲや、鯨の情報が印刷された消しゴム、生月ボランティアガイド協会オリジナル商品である生月絵はがき、地元産品を利用して作られた加工品など貴重な商品が並んでいます。生月町の主婦有志でつくられた料理研究サークルが作った「鯨ジャーキー」「鯨味噌」が注目を集めており、人気を博しています。くじらカレーやくじらシチューなども大好評なのだそうですが、生月島に来たなら、ぜひとも味わいたい一品ですね。 平戸市生月町博物館 島の館 ◎入館料 【個人】  大人500円、高校生300円、小中学生200円 【団体】 15名以上450円、高校生270円、小中学生180円   50名以上400円、高校生240円、小中学生160円 100名以上300円、高校生180円、小中学生120円  【身障者(個人・団体)】   大人250円、高校生150円、小中学生100円  【年間パスポート】 大人1,000円、高校生600円、小中学生400円  ◎開館時間 9:00〜17:00(最終受付16:30)  ◎休館日 正月(1月1日、2日)特別休館有  ※ご予約により博物館内、生月島内をご案内いたします。 ※島内案内のみ有料 ※館内はバリアフリー対応です   〒859-5706 長崎県平戸市生月町南免4289番地1 TEL:0950-53-3000 URL: http://www.ikitsuki.com/yakata/
  • 平戸城 2011年02月09日
    平戸城
     平戸城は長崎県平戸市にあった城で、江戸時代には平戸藩松浦氏の居城でした。平戸島の北部に位置し、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にあります。平戸港を見下ろす好地にそびえるこの城は、西海屈指の名城であり、2006年(平成18)には日本100名城にも選定されています。  平戸は、中国など東洋との絆も深く、アジアの貿易拠点でした。1550年(天文19)にポルトガルの貿易船が初めて平戸に入港すると、中国との交易もあいまって、平戸は「西の都」と呼ばれる国際貿易港として知られます。1609年(慶長14)にはオランダ、次いでイギリスが商館を設置するなど、鎖国が行われるまでは対外貿易の中心地として栄えていました。これだけでも平戸は、歴史のロマンと格調高い文化の香りを感じますね!さあ、早速見に行ってみよう! 平戸城の歴史  平戸松浦氏は、豊臣秀吉権下の1587年(天正15)、63,200石の大名となり、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際は、約3,000の兵を率いて朝鮮半島を転戦しました。帰還後の1599年(慶長4)、初めてこの地に「日の岳城」を築城すべく着手しますが、完成を間近にした1613年(慶長18)の大火 によって焼失してしまいました。  1603年(慶長8)、徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任官されて江戸幕府が始まり、幕藩体制は確立されつつありました。そのような中、家康は、秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしをむけていました。松浦鎮信(しげのぶ)(法印(ほういん))はその疑いを払拭するために、日の岳城に火をつけて焼却し、所領を安堵されたともいわれています。  それから約100年後の1704年(宝永元)、幕府の許可のもと、平戸城(亀岡城)再築に着手しました。山鹿素行(やまがそこう)の軍学に沿った縄張りがなされた全国でも珍しい城です。14年の歳月を費やし、1718年(享保3)に完成しました。1871年(明治4)に廃城となりましたが、1962年(昭和37)に平戸市が復元しました。 平戸城の見どころ  天守内は、現在資料館となっており、松浦党などの貴重な資料の数々が展示されています。このほか、弥生時代の里田原遺跡(さとたばるいせき)や遣唐使時代の資料も展示されており、3世紀頃に西海鎮護のため志々伎(ししき)、宮の浦に駐留した十城別王(とおきわけのみこと:仲哀天皇の弟)の武将である七郎氏広のものといわれる鐶頭太刀(かんとうのたち:国指定重要文化財)も見応えがあります。  そして大航海時代の南蛮貿易を物語る資料や代表する工芸のひとつであった刀工の作品の数々、平戸のカクレキリシタンの遺物品なども展示されており、当時の平戸の歴史や文化がよくわかります。また明治天皇とその祖母にあたる中山愛子姫(松浦清[静山]の第11女)の資料をはじめとして幕末の平戸藩の歴史を知ることができます。 天守閣  天守閣にのぼると、眺望が素晴らしく、遠くは壱岐まで望むことができます。目下には平戸港が見え、南蛮貿易時代にポルトガル船やスペイン船、オランダ船が行き来していた海が広がり、大航海時代のロマンを感じさせます。国指定史跡「平戸和蘭商館跡」地には、「平戸オランダ商館」の建物が復元されている様子も天守閣から見ることができます。2011年(平成23)9月20日オープン予定です。とっても楽しみですね。 亀岡公園  平戸城及び各櫓、亀岡神社、マキ並木を有した公園は、史跡公園として、年間を通じ多くの利用者が訪れています。  園内には遊歩道が整備され、春には桜の名所としても知られており、観光客だけでなく市民にも親しまれています。浦敬一(うらけいいち)や菅沼貞風(すがぬまただかぜ / ていふう)、沖禎介(おきていすけ)、作江伊之助(さくえいのすけ)など明治時代に活躍した平戸出身の人々の記念碑や中山愛子像があり、歴史を感じながら散策することもできます。 平戸城 ■入場料金 大人500円 中人300円 小人200円 団体割引:30名様以上2割引 ■開館時間 8:30〜17:30 ■休館日 12月29・30・31日 ■お問合せ先 TEL:0950-22-2201 URL: http://ww21.tiki.ne.jp/~hirasink/hiradozyou/siromenu.htm
  • 里田原歴史民俗資料館 2011年02月09日
    里田原歴史民俗資料館
     弥生時代の低湿地遺跡である里田原遺跡から出土した遺物等の収蔵及び展示を目的として、1982年(昭和57年)11月に開館した里田原歴史民俗資料館です。  この里田原遺跡は、長崎県平戸市田平町にあり、もともと大陸に近いという地理的環境から日本文化の起源を探るうえでも重要な位置にあります。  さて、この資料館ではどんな資料を見ることができるのでしょうか?早速入館してみましょう! 里田原遺跡  1972年(昭和47)7月、国道沿いの工事現場から弥生土器と木製の道具が発見され、2006年(平成18)3月までに51次にわたる調査が行われています。その結果、弥生時代の遺跡であることがわかりました。  “日本の米作り”が行われ始めた頃の木製の道具が多く出土していることから、全国的にも注目を集めました。水門や樫の実の貯蔵穴(ちょぞうけつ)、しゃもじや藤籠といった生活用具など多数の木製品が見つかりました。水田下の湧き水の影響で、通常では残らない縄文時代終わり頃や弥生時代の木製品がそのままの形で数多く出土しました。この館内に展示されている木製品のほとんどが複製品ではなく、弥生時代に使用されていたものだというので、一見の価値があります。  鍬(くわ)や鋤(すき)などは農耕の存在を示すものですが、それを作った工具と思われる斧(おの)や手斧(ちょうな)の柄や鋤の未完成品なども見つかりました。このことによって、木器を作っていた人がいたこともわかります。さらに魚やクジラ、鹿の骨、樫の実、うり・ひょうたんなどの種、米と籾(もみ)も出土しており、弥生時代にどんなものを食べていたのかもわかります。さらに食物を盛るための皿や漆塗りの祭器のようなものも出土しており、階級社会の成立を伺わせるものまであります。この館内の展示物をみると、弥生時代の生活がより具体的にわかり、身近に感じられるから面白いですね。  里田原の水田の中には支石墓(しせきぼ)と呼ばれるお墓があります。縄文時代の終わり頃(約2700年前頃)、朝鮮半島から伝わったといわれるお墓の形で、土壙(どこう)や石棺(せっかん)、甕棺(かめかん)などの埋葬主体の上に大きな上石(うわいし)を載せたお墓です。その上石を支える石(支石)があることから「支石墓」と呼ばれています。甕棺からは朝鮮半島系の鏡なども見つかり、朝鮮半島との交流があったことを示しています。現在里田原には、2群3基の支石墓が残っています。里田原歴史民俗資料館に隣接しているやよい幼稚園の裏手に支石墓1号基があります。  また資料館駐車場のすぐ側には、里田原の天満宮前でみつかった2基と荻田中野ノ辻遺跡(おぎたなかののつじいせき)の石棺が復元されています。資料館に寄った際には、ぜひ見てくださいね。  里田原遺跡のほかには、田平町の日の岳(ひのたけ)遺跡から発掘された台形石器(だいけいせっき)や田平熊野神社の懸仏(かけほとけ)など面白い展示物もあります。  また平戸瀬戸に面した岬の岩礁近くに「つぐめのはな遺跡」という縄文時代の遺跡があります。この遺跡から見つかった有茎石銛なども展示されており、この頃すでに捕鯨を行っていたのではないかといわれています。当時の生活がこれだけ具体的に見えてくると、今後の調査がますます楽しみになってきますね。 里田原歴史民俗資料館 【開館時間】 午前9時〜午後5時 【入館料】 一般・・・200円 (団体・10人以上・・・160円) 小・中高校生・・・100円 (団体・10人以上・・・80円) 【休館日】 毎週水曜日及び12月29日〜1月3日 【お問い合わせ】 里田原歴史民俗資料館 〒859-4807 長崎県平戸市田平町里免236-2 TEL:0950-57-1474
  • 鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム 2011年01月12日
    鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム
     みなさんは、鯨のことをどのくらい知っていますか?  今回は、上五島の北の玄関口・有川港の1階にある鯨賓館(げいひんかん)ミュージアムを紹介します。ここには鯨の生態や近代捕鯨までの歴史、鯨の食文化など、鯨に関する資料がたくさん! 資料やパネルの展示物や動画をとおして、鯨について詳しく知ることができます。  新上五島町・有川は、むかし鯨が多く回遊していたポイントで、銛(もり)突きによる“有川捕鯨(ありかわほげい)”が盛んにおこなわれていました。  さあ早速、日本でも珍しい鯨の博物館「鯨賓館ミュージアム」へ入ってみよう!  鯨やイルカの模型をはじめ、鯨に関する歴史資料など、とても充実した展示内容になっています。  鯨の進化の過程やイルカとの違いなど、これまであまり意識したことのなかった気づきもありました。  歴史については、江戸時代の有川捕鯨や近代捕鯨、鯨の食文化などが紹介されています。有川に伝わった捕鯨法や使用されていた道具をとおして、当時の人々がどのように鯨にかかわり、大切に親しんでいたのかがよくわかります。近代捕鯨のコーナーでは、捕鯨法や鯨の解体・利用、捕鯨船内の様子などについての資料を見ることができます。  五島での捕鯨方法は、突取(つきとり)式捕鯨法から網取(あみとり)式捕鯨法、そしてノルウェー式捕鯨法へと移り変わっています。捕鯨砲を用いたノルウェー式捕鯨法からが「近代捕鯨」と位置づけられていますが、この手法を日本で初めて導入したのが有川だということはあまり知られていません。南氷洋捕鯨の記録動画を閲覧できますので、近代捕鯨の様子を具体的に知ることができます。  また、現在日本が行っている調査捕鯨の様子や内容なども紹介されていますので、自分なりに現在の捕鯨について考えてみるのもいいかもしれませんね。 面白い展示  鯨の重さは、いったい自分の体重の何倍ぐらいあるのかな?  自分の体重を基準として、鯨の重さが何人分になるのかを測定できる機械があります。ちなみに私の場合、シロナガスクジラはなんと私の1586人分でした。  やっぱり鯨は大きいっー!改めて実感させてくれる結果でした。 鯨に関する史跡  鯨賓館ミュージアムで鯨について学んだあとは、周辺にちょっと足をのばしてみましょう。ここから徒歩圏内には、鯨に関する史跡がたくさんあるんですよ。  有川湾を見渡せる鯨見山には「山見小屋」が置かれ、鯨が来たことを知らせたり、出漁の合図などを行っていました。山見小屋のすぐ傍には、鯨の供養碑があります。碑文には、1691年(元禄4)から1712年(正徳2)までの21年間に、1312頭の鯨を捕獲したことが刻まれています。このような鯨供養碑は、有川対岸の新魚目(しんうおのめ)、五島市の富江町(とみえちょう)にもあり、この西海の地で鯨がいかに多く捕れていたかがわかります。  鯨賓館ミュージアムのそばには水難防止を祈願して龍神様を奉っている海童神社があります。ナガスクジラの顎の骨でできた鳥居があり、捕鯨で栄えた有川地域を代表するもののひとつです。この神社には、「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事があります。  1617年(元和3)から1619年(元和5)の間、毎年6月17日に限って、近くの海で遊泳する者の溺死が相次いだといわれています。人々が気味悪く思っていると、時の乙名役(おつなやく)、高井良福右衛門の夢枕に海神様が立ち、 「わしは、この地にずっと昔から住んでいるものだが、誰も祀ってくれるものがいない。以後わしを祀るものがいれば、願いを叶える」 と言いました。さっそく福右衛門は、村の人々にはかり、当時小島だったこの地に海神様を祀って、即席の芝居を奉納したところ、溺死する者がいなくなったと伝わります。  これが今でも「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事として残り、例年7月の第4日曜日に行われているのです。花火を合図に海童神社に奉納され、その後三味線や太鼓を響かせながら町中に繰り出して、数カ所の踊り場で寸劇が演じられます。 息づく鯨文化  五島藩では、魚目が富江領に分立して有川の海は富江領とされたため、五島藩領であった有川村民の入漁猟が一切禁止されてしまったという歴史があります。  有川の甚右衛門正利は村民の窮状を救うため、藩の重役たちに必死で訴えを繰り返しましたが、富江は大村藩の深沢義太夫(ふかざわぎだゆう)に15年間の捕鯨権 を与えてしまいます。双方の争論は絶えず、ついに甚右衛門正利は江戸公訴を決意します。この事件は有川・魚目の海境争いとよばれています。  幕府評定所はその決死の訴えに、1689年(元禄2)、1690年(元禄3)と二度にわたり、有川村に海の権利を公認しました。  江戸へ行き直訴していた甚右衛門正利は、道中、鎌倉の弁天様に勝訴の祈願をしていました。有川の勝訴で決着したことから、1691年(元禄4)にこの分霊を浜の小島に祀り、有川鯨組の守り神として、年の初めに鯨漁の安全を祈ったそうです。それから300年余り、鯨組や有川の守り神として住民の厚い信仰を受けてきました。  毎年1月第三日曜日、鯨を捕まえる羽差(はざし)の姿をした若者たちが太鼓をたたき、鯨唄を歌いながら地区内を練り歩き、大漁、商売繁盛、家内安全を祈願する行事「弁財天(めーざいてん)」が行われます。約400年前の慶長年間に始まったといわれています。昔、弁財天でたたいていた太鼓には鯨の心臓の皮膜が張られていました。現在では手に入らないため馬の皮が使用されていますが、当時の太鼓が鯨賓館ミュージアムに展示されています。現在の太鼓とは音の響きが違いますので、ぜひ訪れた際には確認してみてくださいね。  2011年の弁財天は、1月16日(日)早朝から開始されます。弁財天宮をスタートし、有川の町の中を練り歩きます。鯨賓館ミュージアムでは鯨の肉をふるまうこともあります。ぜひお出かけください。  弁財天(メーザイデン)のほかにも、有川では8月にスケッチ大会、10月には鯨丼祭りなど、鯨にまつわるイベントがいろいろ開催されます。有川港・鯨賓館ミュージアムを中心として、近隣の広場や徒歩圏内の史跡で行われるものが多いので、お出かけの際は、イベント情報もぜひチェックしてみてください。 鯨賓館ミュージアム 【開館時間】 午前9時〜午後5時 【入館料】 一般・・・200円 (団体・15人以上・・・150円) 小・中学生・・・100円 (団体・15人以上・・・50円) 【休館日】 毎週月曜日、年末年始(12月29日〜1月3日) 【お問い合わせ】 〒857-4211 長崎県南松浦郡新上五島町有川郷578-36 TEL:0959-42-0180   URL: http://k101ow01.town.shinkamigoto.nagasaki.jp/geihinkan/index.html