たびながコラム

ホームホーム   > たびながコラム > 長崎みやげ話

長崎みやげ話

  • 平戸城 2011年02月09日
    平戸城
     平戸城は長崎県平戸市にあった城で、江戸時代には平戸藩松浦氏の居城でした。平戸島の北部に位置し、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にあります。平戸港を見下ろす好地にそびえるこの城は、西海屈指の名城であり、2006年(平成18)には日本100名城にも選定されています。  平戸は、中国など東洋との絆も深く、アジアの貿易拠点でした。1550年(天文19)にポルトガルの貿易船が初めて平戸に入港すると、中国との交易もあいまって、平戸は「西の都」と呼ばれる国際貿易港として知られます。1609年(慶長14)にはオランダ、次いでイギリスが商館を設置するなど、鎖国が行われるまでは対外貿易の中心地として栄えていました。これだけでも平戸は、歴史のロマンと格調高い文化の香りを感じますね!さあ、早速見に行ってみよう! 平戸城の歴史  平戸松浦氏は、豊臣秀吉権下の1587年(天正15)、63,200石の大名となり、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際は、約3,000の兵を率いて朝鮮半島を転戦しました。帰還後の1599年(慶長4)、初めてこの地に「日の岳城」を築城すべく着手しますが、完成を間近にした1613年(慶長18)の大火 によって焼失してしまいました。  1603年(慶長8)、徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任官されて江戸幕府が始まり、幕藩体制は確立されつつありました。そのような中、家康は、秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしをむけていました。松浦鎮信(しげのぶ)(法印(ほういん))はその疑いを払拭するために、日の岳城に火をつけて焼却し、所領を安堵されたともいわれています。  それから約100年後の1704年(宝永元)、幕府の許可のもと、平戸城(亀岡城)再築に着手しました。山鹿素行(やまがそこう)の軍学に沿った縄張りがなされた全国でも珍しい城です。14年の歳月を費やし、1718年(享保3)に完成しました。1871年(明治4)に廃城となりましたが、1962年(昭和37)に平戸市が復元しました。 平戸城の見どころ  天守内は、現在資料館となっており、松浦党などの貴重な資料の数々が展示されています。このほか、弥生時代の里田原遺跡(さとたばるいせき)や遣唐使時代の資料も展示されており、3世紀頃に西海鎮護のため志々伎(ししき)、宮の浦に駐留した十城別王(とおきわけのみこと:仲哀天皇の弟)の武将である七郎氏広のものといわれる鐶頭太刀(かんとうのたち:国指定重要文化財)も見応えがあります。  そして大航海時代の南蛮貿易を物語る資料や代表する工芸のひとつであった刀工の作品の数々、平戸のカクレキリシタンの遺物品なども展示されており、当時の平戸の歴史や文化がよくわかります。また明治天皇とその祖母にあたる中山愛子姫(松浦清[静山]の第11女)の資料をはじめとして幕末の平戸藩の歴史を知ることができます。 天守閣  天守閣にのぼると、眺望が素晴らしく、遠くは壱岐まで望むことができます。目下には平戸港が見え、南蛮貿易時代にポルトガル船やスペイン船、オランダ船が行き来していた海が広がり、大航海時代のロマンを感じさせます。国指定史跡「平戸和蘭商館跡」地には、「平戸オランダ商館」の建物が復元されている様子も天守閣から見ることができます。2011年(平成23)9月20日オープン予定です。とっても楽しみですね。 亀岡公園  平戸城及び各櫓、亀岡神社、マキ並木を有した公園は、史跡公園として、年間を通じ多くの利用者が訪れています。  園内には遊歩道が整備され、春には桜の名所としても知られており、観光客だけでなく市民にも親しまれています。浦敬一(うらけいいち)や菅沼貞風(すがぬまただかぜ / ていふう)、沖禎介(おきていすけ)、作江伊之助(さくえいのすけ)など明治時代に活躍した平戸出身の人々の記念碑や中山愛子像があり、歴史を感じながら散策することもできます。 平戸城 ■入場料金 大人500円 中人300円 小人200円 団体割引:30名様以上2割引 ■開館時間 8:30〜17:30 ■休館日 12月29・30・31日 ■お問合せ先 TEL:0950-22-2201 URL: http://ww21.tiki.ne.jp/~hirasink/hiradozyou/siromenu.htm
  • 里田原歴史民俗資料館 2011年02月09日
    里田原歴史民俗資料館
     弥生時代の低湿地遺跡である里田原遺跡から出土した遺物等の収蔵及び展示を目的として、1982年(昭和57年)11月に開館した里田原歴史民俗資料館です。  この里田原遺跡は、長崎県平戸市田平町にあり、もともと大陸に近いという地理的環境から日本文化の起源を探るうえでも重要な位置にあります。  さて、この資料館ではどんな資料を見ることができるのでしょうか?早速入館してみましょう! 里田原遺跡  1972年(昭和47)7月、国道沿いの工事現場から弥生土器と木製の道具が発見され、2006年(平成18)3月までに51次にわたる調査が行われています。その結果、弥生時代の遺跡であることがわかりました。  “日本の米作り”が行われ始めた頃の木製の道具が多く出土していることから、全国的にも注目を集めました。水門や樫の実の貯蔵穴(ちょぞうけつ)、しゃもじや藤籠といった生活用具など多数の木製品が見つかりました。水田下の湧き水の影響で、通常では残らない縄文時代終わり頃や弥生時代の木製品がそのままの形で数多く出土しました。この館内に展示されている木製品のほとんどが複製品ではなく、弥生時代に使用されていたものだというので、一見の価値があります。  鍬(くわ)や鋤(すき)などは農耕の存在を示すものですが、それを作った工具と思われる斧(おの)や手斧(ちょうな)の柄や鋤の未完成品なども見つかりました。このことによって、木器を作っていた人がいたこともわかります。さらに魚やクジラ、鹿の骨、樫の実、うり・ひょうたんなどの種、米と籾(もみ)も出土しており、弥生時代にどんなものを食べていたのかもわかります。さらに食物を盛るための皿や漆塗りの祭器のようなものも出土しており、階級社会の成立を伺わせるものまであります。この館内の展示物をみると、弥生時代の生活がより具体的にわかり、身近に感じられるから面白いですね。  里田原の水田の中には支石墓(しせきぼ)と呼ばれるお墓があります。縄文時代の終わり頃(約2700年前頃)、朝鮮半島から伝わったといわれるお墓の形で、土壙(どこう)や石棺(せっかん)、甕棺(かめかん)などの埋葬主体の上に大きな上石(うわいし)を載せたお墓です。その上石を支える石(支石)があることから「支石墓」と呼ばれています。甕棺からは朝鮮半島系の鏡なども見つかり、朝鮮半島との交流があったことを示しています。現在里田原には、2群3基の支石墓が残っています。里田原歴史民俗資料館に隣接しているやよい幼稚園の裏手に支石墓1号基があります。  また資料館駐車場のすぐ側には、里田原の天満宮前でみつかった2基と荻田中野ノ辻遺跡(おぎたなかののつじいせき)の石棺が復元されています。資料館に寄った際には、ぜひ見てくださいね。  里田原遺跡のほかには、田平町の日の岳(ひのたけ)遺跡から発掘された台形石器(だいけいせっき)や田平熊野神社の懸仏(かけほとけ)など面白い展示物もあります。  また平戸瀬戸に面した岬の岩礁近くに「つぐめのはな遺跡」という縄文時代の遺跡があります。この遺跡から見つかった有茎石銛なども展示されており、この頃すでに捕鯨を行っていたのではないかといわれています。当時の生活がこれだけ具体的に見えてくると、今後の調査がますます楽しみになってきますね。 里田原歴史民俗資料館 【開館時間】 午前9時〜午後5時 【入館料】 一般・・・200円 (団体・10人以上・・・160円) 小・中高校生・・・100円 (団体・10人以上・・・80円) 【休館日】 毎週水曜日及び12月29日〜1月3日 【お問い合わせ】 里田原歴史民俗資料館 〒859-4807 長崎県平戸市田平町里免236-2 TEL:0950-57-1474
  • 大瀬崎断崖・大瀬崎灯台 2011年01月26日
    大瀬崎断崖・大瀬崎灯台
     長崎出身の作家・吉田修一原作で同名映画の「悪人」の中で、妻夫木聡さん演じる祐一と深津絵里さん演じる光代が逃避行の果てに逃げ込んだ“地の果ての灯台”のロケ地が、この大瀬崎灯台です。  大瀬崎灯台は、1879年(明治12)に竣工した歴史ある施設で、『日本の灯台50選』の一つに選ばれています。老朽化したため、最初の灯台は解体され、1971年(昭和46)に現在の灯台に生まれ変わりました。旧灯台は東海科学館に展示されています。  またこの大瀬崎には、1898年(明治31)に無線電信機を備えた旧海軍の望楼(ぼうろう)が設置され、日露戦争時の1905年(明治38)にロシアのバルチック艦隊発見の報「敵艦隊見ユ」を受信したことでも知られています。  灯台のまわりに見える断崖は、五島列島を代表する観光スポットのひとつです。淡褐色の砂岩と黒色の泥岩が交互に重なった地層が、打ち寄せる波濤によって削り取られてできました。地殻変動による傾斜や、断ち切られた断層を随所に見せており、圧巻です。展望台の手前にある展望公園からの眺めは、実に壮大で見事です!周りの島々が本当に美しい。  また、主に本州で繁殖するハチクマは(タカ目タカ科でトビと同じくらいの大きさの鳥)、秋になると越冬のため中国大陸へ向かって渡ります。この大瀬崎(大瀬崎山山頂)では、ハチクマの群れが中国大陸へ向けて次々と飛び出す様子を間近で観察できる絶好のポイントとしても知られています。この大瀬崎から中国大陸まで約600kmを一気に渡るというからすごいですね。  ロケ地観光としてだけでなく、ぜひ周りの自然も堪能してほしいスポットです。  太平洋戦争中には、大瀬崎の目の前を船で通って南方の戦線に赴いていたといいます。灯台の側に整備された展望公園には、再び祖国の地を踏むことがかなわなかった多くの将兵たちの霊を慰めるため、北村西望作の「祷りの女神像」と鎮魂碑が建立されています。  故・北村西望氏は、長崎県南島原市南有馬町出身の彫刻家で、文化勲章を受けられ、長崎県の名誉県民でもあります。長崎平和祈念像の制作者として有名です。
  • 地獄炊き 2011年01月26日
    地獄炊き
     出張で新上五島町を訪れ、佐世保市へ高速船で渡る予定でしたが、予定よりもちょっと早く港に到着。お腹も空いたな−。何かないかなと辺りを見渡すと、うどん屋さんがありました。ツルツルッと短い時間でも食べられそうなので、迷わずレッツゴー!  向かったのは、新上五島町の北の玄関口である有川港から徒歩2、3分のところにある「うどんの里」というところ。 2004年(平成16)4月に開設された施設で、五島手延うどんについての歴史や製造過程がパネルで紹介されており、申し込むと五島手延うどんの製造体験もできるそうです。  私がめざした建物部分は、名物の五島うどんを味わえる食事処「遊麺三昧(ゆめざんまい)」というお店になっていました。ここは新上五島町を訪れる観光客の交流拠点の場としても利用されているそうです。  さっそく注文。選んだメニューは、伝統の味とされる「地獄炊き」。これまで五島手延うどんはいろいろ味わってきたつもりでしたが、実は、伝統ある「地獄炊き」は初めて。本場の味が楽しみです。  目の前に現れた「地獄炊き」は本当にシンプルでした。器にかつおぶしと薬味、それから卵を割っていれ、出汁と醤油(少々)を入れて混ぜ、つゆの準備は完了。さあ、いただきまーす!と思ったらお店の方が、 「出汁はアラの出汁ですよ。」と教えてくれました。 出汁はてっきりアゴ(トビウオ)だと思っていたら、アラ(クエ)なんですって!? 高級魚ですよね。  アゴとアラの出汁の違いは、味音痴の私には残念ながらあまりわかりませんでしたが、香りがあって深く味わいでした。出汁だけ飲んでみると魚の香りも感じましたよ。贅沢な気分でいただけました。  地元の方が、第50代横綱 佐田ノ山の出身部屋・境川部屋のちゃんこをヒントにして考えられたという「五島ちゃんこ」を教えてくれました。今回は時間がないけど、次回、新上五島町を訪れた時には絶対味わいたいっ!  今度はいつ来ようか、ワクワクを胸に、帰りの船へと向かいました。 五島手延うどん協同組合 〒857-4211 長崎県南松浦郡新上五島町有川郷428-31 TEL:0959-42-2655   関連URL: http://www.goto-udon.jp/
  • 鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム 2011年01月12日
    鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム
     みなさんは、鯨のことをどのくらい知っていますか?  今回は、上五島の北の玄関口・有川港の1階にある鯨賓館(げいひんかん)ミュージアムを紹介します。ここには鯨の生態や近代捕鯨までの歴史、鯨の食文化など、鯨に関する資料がたくさん! 資料やパネルの展示物や動画をとおして、鯨について詳しく知ることができます。  新上五島町・有川は、むかし鯨が多く回遊していたポイントで、銛(もり)突きによる“有川捕鯨(ありかわほげい)”が盛んにおこなわれていました。  さあ早速、日本でも珍しい鯨の博物館「鯨賓館ミュージアム」へ入ってみよう!  鯨やイルカの模型をはじめ、鯨に関する歴史資料など、とても充実した展示内容になっています。  鯨の進化の過程やイルカとの違いなど、これまであまり意識したことのなかった気づきもありました。  歴史については、江戸時代の有川捕鯨や近代捕鯨、鯨の食文化などが紹介されています。有川に伝わった捕鯨法や使用されていた道具をとおして、当時の人々がどのように鯨にかかわり、大切に親しんでいたのかがよくわかります。近代捕鯨のコーナーでは、捕鯨法や鯨の解体・利用、捕鯨船内の様子などについての資料を見ることができます。  五島での捕鯨方法は、突取(つきとり)式捕鯨法から網取(あみとり)式捕鯨法、そしてノルウェー式捕鯨法へと移り変わっています。捕鯨砲を用いたノルウェー式捕鯨法からが「近代捕鯨」と位置づけられていますが、この手法を日本で初めて導入したのが有川だということはあまり知られていません。南氷洋捕鯨の記録動画を閲覧できますので、近代捕鯨の様子を具体的に知ることができます。  また、現在日本が行っている調査捕鯨の様子や内容なども紹介されていますので、自分なりに現在の捕鯨について考えてみるのもいいかもしれませんね。 面白い展示  鯨の重さは、いったい自分の体重の何倍ぐらいあるのかな?  自分の体重を基準として、鯨の重さが何人分になるのかを測定できる機械があります。ちなみに私の場合、シロナガスクジラはなんと私の1586人分でした。  やっぱり鯨は大きいっー!改めて実感させてくれる結果でした。 鯨に関する史跡  鯨賓館ミュージアムで鯨について学んだあとは、周辺にちょっと足をのばしてみましょう。ここから徒歩圏内には、鯨に関する史跡がたくさんあるんですよ。  有川湾を見渡せる鯨見山には「山見小屋」が置かれ、鯨が来たことを知らせたり、出漁の合図などを行っていました。山見小屋のすぐ傍には、鯨の供養碑があります。碑文には、1691年(元禄4)から1712年(正徳2)までの21年間に、1312頭の鯨を捕獲したことが刻まれています。このような鯨供養碑は、有川対岸の新魚目(しんうおのめ)、五島市の富江町(とみえちょう)にもあり、この西海の地で鯨がいかに多く捕れていたかがわかります。  鯨賓館ミュージアムのそばには水難防止を祈願して龍神様を奉っている海童神社があります。ナガスクジラの顎の骨でできた鳥居があり、捕鯨で栄えた有川地域を代表するもののひとつです。この神社には、「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事があります。  1617年(元和3)から1619年(元和5)の間、毎年6月17日に限って、近くの海で遊泳する者の溺死が相次いだといわれています。人々が気味悪く思っていると、時の乙名役(おつなやく)、高井良福右衛門の夢枕に海神様が立ち、 「わしは、この地にずっと昔から住んでいるものだが、誰も祀ってくれるものがいない。以後わしを祀るものがいれば、願いを叶える」 と言いました。さっそく福右衛門は、村の人々にはかり、当時小島だったこの地に海神様を祀って、即席の芝居を奉納したところ、溺死する者がいなくなったと伝わります。  これが今でも「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事として残り、例年7月の第4日曜日に行われているのです。花火を合図に海童神社に奉納され、その後三味線や太鼓を響かせながら町中に繰り出して、数カ所の踊り場で寸劇が演じられます。 息づく鯨文化  五島藩では、魚目が富江領に分立して有川の海は富江領とされたため、五島藩領であった有川村民の入漁猟が一切禁止されてしまったという歴史があります。  有川の甚右衛門正利は村民の窮状を救うため、藩の重役たちに必死で訴えを繰り返しましたが、富江は大村藩の深沢義太夫(ふかざわぎだゆう)に15年間の捕鯨権 を与えてしまいます。双方の争論は絶えず、ついに甚右衛門正利は江戸公訴を決意します。この事件は有川・魚目の海境争いとよばれています。  幕府評定所はその決死の訴えに、1689年(元禄2)、1690年(元禄3)と二度にわたり、有川村に海の権利を公認しました。  江戸へ行き直訴していた甚右衛門正利は、道中、鎌倉の弁天様に勝訴の祈願をしていました。有川の勝訴で決着したことから、1691年(元禄4)にこの分霊を浜の小島に祀り、有川鯨組の守り神として、年の初めに鯨漁の安全を祈ったそうです。それから300年余り、鯨組や有川の守り神として住民の厚い信仰を受けてきました。  毎年1月第三日曜日、鯨を捕まえる羽差(はざし)の姿をした若者たちが太鼓をたたき、鯨唄を歌いながら地区内を練り歩き、大漁、商売繁盛、家内安全を祈願する行事「弁財天(めーざいてん)」が行われます。約400年前の慶長年間に始まったといわれています。昔、弁財天でたたいていた太鼓には鯨の心臓の皮膜が張られていました。現在では手に入らないため馬の皮が使用されていますが、当時の太鼓が鯨賓館ミュージアムに展示されています。現在の太鼓とは音の響きが違いますので、ぜひ訪れた際には確認してみてくださいね。  2011年の弁財天は、1月16日(日)早朝から開始されます。弁財天宮をスタートし、有川の町の中を練り歩きます。鯨賓館ミュージアムでは鯨の肉をふるまうこともあります。ぜひお出かけください。  弁財天(メーザイデン)のほかにも、有川では8月にスケッチ大会、10月には鯨丼祭りなど、鯨にまつわるイベントがいろいろ開催されます。有川港・鯨賓館ミュージアムを中心として、近隣の広場や徒歩圏内の史跡で行われるものが多いので、お出かけの際は、イベント情報もぜひチェックしてみてください。 鯨賓館ミュージアム 【開館時間】 午前9時〜午後5時 【入館料】 一般・・・200円 (団体・15人以上・・・150円) 小・中学生・・・100円 (団体・15人以上・・・50円) 【休館日】 毎週月曜日、年末年始(12月29日〜1月3日) 【お問い合わせ】 〒857-4211 長崎県南松浦郡新上五島町有川郷578-36 TEL:0959-42-0180   URL: http://k101ow01.town.shinkamigoto.nagasaki.jp/geihinkan/index.html
  • 7月24日通りのクリスマス 2010年12月22日
    7月24日通りのクリスマス
     長崎出身の作家・吉田修一さんの小説「7月24日通り」を原作とした映画「7月24日通りのクリスマス」が2006年(平成18)に公開されました。  この映画は、大沢たかおさんと中谷美紀さんのW主演で話題となり、ポルトガルのリスボンと長崎市を中心にロケが行われました。  中谷美紀さん演じる長崎市に住むOLが、幼い頃から読んでいる少女漫画の影響を受け、頭の中で長崎の街をポルトガルのリスボンの街に置きかえて毎日を過ごしています。が、街の風景を、近年の長崎を題材にした映画にはない見せ方で撮影しているのが特徴で、面白いところです。  16世紀には、平戸で南蛮貿易が始まり、宮の前事件をきっかけとして貿易港は、横瀬浦(現西海市)に移ります。そして横瀬浦の焼き討ち事件後、港は一度は平戸に戻りますが、その後福田へと移ります。しかし松浦氏のポルトガル船襲撃などもあり、当時の領主・大村純忠(すみただ)は、1570年(永禄13)に長崎を新たな貿易港として開港します。  長崎の開港とともに、新しい町が整備され、教会をはじめ学校や福祉施設、病院などが建てられ、キリシタンや商人も多く移住し、賑わう長崎はさながら「小ローマ」のような街になりました。    映画の中で、主人公が浜町を歩いていたかと思うと、リスボンの街の中に変わっていたり、リスボンで路面電車に乗っているシーンから、長崎を走っている路面電車のシーンに変わっていたりというように、背景が主人公の心象に合わせて面白いように変わります。このような撮影・見せ方をされると、「長崎の街」と「リスボンの街」はすごく似ていると感じずにはいられません。  長崎とリスボン・・・。港町で、坂道が多く、必ず海が見え、路面電車が当たり前のように道路を走っていて、周りの風景になじんでいる感じ。初めてこの映画で観たリスボンの街なのに、すでに知っているような感覚に出くわします。    長崎を開港して町をつくり始めた頃、教会など施設を建てる際にきっとポルトガル人宣教師の指導もあったでしょうし、南蛮貿易にやってきたポルトガルやスペインの船員たちもしばらくの間は長崎の町に滞在していたでしょう。異国の空気感が漂う町だったに違いありません。  南蛮文化研究の第一人者・故松田毅一氏は、天正少年遣欧使節の足跡を追ってマカオ、マラッカ、ゴア、ヨーロッパへと旅をし、ポルトガル人が開いた港には共通点があるといっていました。母国リスボンの港と同じように、狭い湾の奥の突き出た丘があるところに港をつくっているという点で似ているのかもしれません。長崎の港もそういうロケーションでした。  歴史的に見ても、2つの街の風景が似ているというのは、とても興味深いですね。    この映画の中には、オランダ坂や眼鏡橋、グラバー園などがさりげなく風景に映りこんでいます。南蛮貿易の歴史に思いを馳せながら、一時は共に栄えたポルトガルのリスボンとイメージを重ね、絵的に長崎を楽しむというのも面白いかもしれません。  ちなみに、このタイトルの「7月24日通り」は、リスボンに実在する通りです。しかし「長崎西通り」という電停はこの映画で設定されたものです。長崎市を訪問した際には、ぜひ「長崎西通り」電停が実際はどこなのかを探してみませんか?
  • カステラ 2010年12月22日
    カステラ
     長崎のお土産といえば、まず「カステラ」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。  卵を泡立てて小麦粉、砂糖(水飴)を混ぜ合わせた生地をオーブンで焼いたものです。水飴を使うと、焼き上がった時のしっとり感が出るといわれています。近年では、抹茶やチョコレート、黒糖、チーズなどを加えて味付けされたカステラも製造・販売されており、バラエティな味を楽しめるようになりました。  もともとのルーツは、パン・デ・ローとよばれるポルトガルのお菓子で、まるい形をしたスポンジケーキです。南蛮貿易をとおして日本に伝わりました。実は、原型とされるお菓子は、カステラとは製法が異なっています。カステラは日本に伝わってから、日本で独自に発展してきた洋菓子なのです。  ちなみに「カステラ」の語源は、スペインのカスティーリャ王国に由来するといわれています。 カステラの歴史  カステラは、どういう経緯で現在に至っているのでしょうか?  もとを辿っていくと、1543年(天文12)にポルトガル人が種子島に漂着したことに始まると考えてみると面白いかもしれません。  種子島に漂着したポルトガル人を案内したのは、中国の貿易商・王直だといわれています。王直は、当時東シナ海に勢力をふるっており、五島の福江島に活動拠点を持っていました。1549年(天文18)に五島から平戸に移り、松浦隆信から邸を与えられ、平戸にポルトガル船を手引きし、日本における南蛮貿易の橋渡しをしたといいます。  東シナ海の海上交通・交易の要所となった平戸には、1550年(天文19)以降、ポルトガルやスペインとの貿易により、南蛮文化が伝わりました。その際に、パン・デ・ローとよばれるポルトガルのお菓子も宣教師から伝わったといわれています。  平戸には、カステラを卵黄にひたして高温の蜜であげ、グラニュー糖をまぶした「カスドース」というお菓子があります。卵の風味と上品な甘さを堪能できます。「ドース」はポルトガル語で「甘い」という意味。つまり、「castela doce」で“甘いカステラ”となります。カスドースは、平戸市のお土産屋さんで購入できます。  南蛮貿易は、その後平戸から横瀬浦(現西海市)、長崎へと移りました。そして1624年(寛永元)頃に福砂屋(ふくさや)でカステラが作られ始めたといわれています。その後、日本人向けに改良を重ね、現在に至っているそうです。こんな風に歴史的背景やルーツを見ていくと、ひと味違う感じがするから不思議ですね。  カステラは、“かすていら”“カステーラ”“カスティーラ”“カステイラ”などとも表記され、長崎県内のお土産屋さんには必ず並んでいる定番のお菓子です。  また近年では、大河ドラマ『龍馬伝』ブームの中、亀山社中が製造販売を計画したというカステラのレシピに基づいて忠実に再現されたカステラも登場しました。幕末のカステラと現在のカステラを食べ比べてみるのも楽しいですね。 長崎県内のお土産屋さんでは必ずといっていいほど購入できます。
  • よみがえる「出島和蘭商館跡」・出島 2010年12月08日
    よみがえる「出島和蘭商館跡」・出島
     鎖国時代、西洋に開かれた唯一の窓口として日本の近代化に大きな役割を果たした人工島「出島」。いま目の前にあるのは、復元された当時の水門です。現在は西側のメインゲートとなっていますが、当時はオランダ船の荷役作業の時にのみ開かれた門だそうです。2つの通り口があり、南側(右側)は輸入用、北側(左側)は輸出用と分けられていたそうです。    ここで当時の貿易に関する品々が運ばれていたと思うと、ドキドキしてきますね。早速出島の中に入ってみましょう! 出島の歴史  1636年(寛永13)、江戸幕府は、長崎に居住していたポルトガル人を収容して貿易を厳重に監視することやキリスト教の布教を禁止するために、長崎の有力な町人に命じて約1万5千平方メートルの人工の島「出島」を築きました。  1639年(寛永16)に幕府は、ポルトガルとの国交を断絶し、出島のポルトガル人を出島から国外へ追放しました。出島は一時的に無人の島となりますが、1641年(寛永18)に平戸のオランダ商館が出島に移転、これ以降1859年(安政6)までの218年もの間、出島は西洋に開かれた日本唯一の貿易の拠点として大きな役割を果たしました。    鎖国時代、日本がさまざまな海外文化や技術を採り入れた窓口でしたが、オランダ人にとっても同じでした。出島を通して、日本の文物や情報が西洋に伝えられました。出島は、西洋との国際交流の場としての役割も担っていた特別な場所だったのです。 復元ゾーン  出島西側には、復元施設10棟が建造されており、そのエリアを「復元ゾーン」とよんでいます。これら復元施設では、“日蘭貿易”と“出島での生活”をメインテーマとして、日蘭貿易の歴史や代表的な輸出入品を紹介する展示コーナーが充実しています。また商館員の暮らしぶりも再現されており、当時の出島をより詳しく知ることができます。  オランダ商館長の事務所や住居として使用されていたカピタン部屋は、出島の中で最も大きな建物でした。  1階は出島の歴史や生活に関する資料が展示されています。出島が誕生するまでの歴史からオランダ商館が廃止されるまでの日蘭貿易に関する資料が展示されていますので、まずはここから見ていきましょう。  2階は商館長の生活の様子が再現されています。奥には大広間があり、クリスマスを祝ったとされる「阿蘭陀冬至」の祝宴風景が再現されており、訪れた人々を魅了しています。また日本の役人や大名などが出島を訪れた際には、接待の場としてもカピタン部屋が使用されていたそうです。    ほかにオランダ商館の商館長次席(ヘトル)の住居や商館員たちの食事を作っていた料理部屋、オランダ船(一番船)船長や商館員の居宅であった一番船船頭部屋、主な輸入品のひとつだった砂糖を収めていた一番蔵、染料のための蘇木(そぼく)が収められていた二番蔵、三番蔵などが復元されています。また帳簿などの筆記を行うオランダ人の書記の長が住んでいたといわれる「拝礼筆者蘭人(はいれいひっしゃらんじん)部屋」では、出島から広がっていった蘭学が紹介されています。    これらの復元施設と資料をみていくと、長崎奉行をはじめ町年寄、出島乙名、オランダ通詞などの地役人(じやくにん)などこんなに多くの人々が出島に関わっていたということ、出島あるいは長崎が日本の歴史のなかで特別な場所であったことを再確認することができます。また、当時のオランダ商館の生活ぶりや出島に関わる日本人の仕事、日本人とオランダ人の風習の違いなど面白い歴史も知ることができ、ますます出島が面白く感じられます。 交流ゾーン  安政の開国後に建てられた石造倉庫である「旧石倉(考古館)」や、1903年(明治36)に長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として建てられた「旧長崎内外クラブ」から東側を「交流ゾーン」とよんでいます。  旧長崎内外クラブの1階では、当時商館員らが遊んでいたビリヤードやカルタ、羽ペンで文字を書く事が体験できる体験展示室があります。修学旅行生にも人気で、グループで当時のビリヤードで遊ぶ姿がよく見られます。  また2階の展示コーナーでは、現在『出島シュガーロード展』が開催されており、砂糖食文化や貿易の歴史、砂糖の種類や解説などが展示されています。かつてこの出島で荷揚げされていた砂糖がどんな歴史を持ち、そして長崎からどんな道順で砂糖が国内に伝わっていったのかがよくわかります。この出島シュガーロード展は、2011年3月末日まで行われていますので、ぜひお越しくださいね。    東側ゲートの料金所も設置されている旧出島神学校は、1878年(明治11)に建てられたキリスト教(プロテスタント)の神学校で、現存する国内最古のものです。1階は企画展示室となっており、現在『龍馬と海と出島』展が開催されています。(2011年1月10日まで行われています) まだある出島の見どころ  復元施設によって、出島の歴史や当時の貿易の内容など深く知ることができますが、見どころはそれだけではありません。  一番蔵や二番蔵などの復元に関する技術にもご注目ください。建物の復元工事は、原則として伝統的な木造建築の技法によって行われました。木や竹・土などを使い、大工や左官の技術で本物の土蔵を復元できたのです。さらに調査・設計の段階からシンポジウムなどでその過程を報告し、工事現場も市民が見ることができるよう工夫され、現場をオープンにし、土壁に塗り込む蚊帳を市民が提供するなど復元作業に協力することで、市民参加も実現しました。復元までの過程や伝統的な技法の解説も必見です!    また出島では、発掘調査も行われています。この調査によって、本来の扇形の範囲や輪郭となる護岸の石垣と外側から垂直に打ち込まれた木杭なども発見されています。これらから、出島を補強する工法も紹介されています。そして海外へ輸出するために作られた国産陶磁器もたくさん出土しており、これらから輸出向け陶磁器の様式の変遷がわかり、当時西洋が求めていた陶磁器の様式も知ることができます。    このように整備が進む国史跡「出島和蘭商館跡」は、ただ当時の出島を復元しただけでなく、日本の伝統技術の解説や発掘調査の内容も詳しく知ることができますので、歴史好きな人なら2時間は楽しんでいくことができる施設です。 出島の復元整備事業  出島は、明治以降、周辺の埋め立て工事が進み、1904年(明治37)に完成した第2期港湾工事によって、海に浮かぶ扇形の出島の原形はなくなり、市街地の中に埋もれてしまいました。  しかし、出島の歴史的価値を未来に残そうと、出島復元整備事業が展開されています。1996年(平成8)に、具体的な短中期計画と将来的な長期計画からなる復元整備計画が策定され、本格的な復元整備事業がスタートしました。2000年(平成12)から2006年(平成18)春までに10棟が復元・公開されていますが、短中期復元整備計画では、最終的に19世紀初頭の建造物25棟の復元や扇形をした出島の輪郭をあらわす周辺の石垣などの修復、史跡内にある明治期等の建物の整備活用に取り組むそうです。長期復元整備計画では、四方に水面を確保し、19世紀初頭の扇形の完全復元を目指します。国道の線形変更をはじめ市街地改造など大規模な作業となります。    相当な期間がかかることが想定されますが、実現するのが非常に楽しみですね。今後の出島の復元状況にもぜひ、ご注目ください。 出島 【開場時間】  8:00〜18:00(年中無休)  ・最終入場は閉場の20分前までです  ・期間によって時間延長があります。 【入場料】 ・大人:500円(15人以上で400円) ・高校生:200円(15人以上で120円) ・小・中学生:100円(15人以上で60円) ※障害者手帳(身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳)所持者及び介護者1名と健康手帳所持者(60歳以上)は半額で入場できます。 【お問い合わせ】 出島総合案内所 〒850-0862 長崎市出島町6番1号 TEL・FAX:095-821-7200   URL: http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/dejima2/
  • 遣唐使気分で対馬へ船旅 2010年11月24日
    遣唐使気分で対馬へ船旅
     対馬へは、福岡や長崎の空港から直接飛行機を利用して行く方法が一番早く到着する手段なのですが、今回は船旅で対馬へと渡ってみました。  0時15分(出発時間は変更があります)に博多埠頭を出発し、対馬(厳原)へ行くフェリーがあります。  深夜のうちに博多を出て、壱岐(芦辺または郷ノ浦)で停泊し、朝5時頃には厳原に到着するというコースです。これは、7世紀の遣隋使、遣唐使が朝鮮、中国を目指して渡っていた北路コースにも似ていますね。  日本から朝鮮半島へと飛び石のように位置する壱岐と対馬は、古代より日本の使節が朝鮮半島や中国大陸に向かうための寄港地として重要な役割を果たしていました。今、その遣唐使たちと同じ航路を進んでいると思うと、太古のロマンを感じずにはいられません。  船内2等では、特に座席などはなく、ゴロンと横になれる広いスペースがあります。毛布は一枚50円で借りられます。他の搭乗者は何度も利用しているのか、先に場所を確保し、それから毛布を借りにいくという手慣れた動きです。  博多埠頭を発つと、しばらくして船内の明かりは暗くなります。ほとんどの乗客は眠りにつきはじめました。気づくとフェリーのエンジン音とフェリーに激しくぶつかる波の音だけが聞こえ、遣唐使たちが進んだ海にいることを改めて感じることができます。そのままフェリーは夜の航路を進み、壱岐の芦辺で一度乗客を降ろし、厳原へ向けて再び出発します。  厳原に到着したのは午前4時45分でした。 フェリーに車を乗せた人や地元で近くの人々はこの時間にフェリーをおりますが、私みたいな旅人は、レンタカーが迎えに来る午前7時まではこの船内に寝たまま待つことができます。(さらに寝坊してしまうと船員の方々が起こしにきてくれますが時間がぎりぎりで余裕がなくなるので注意しましょう)  朝日を浴びながら、厳原港やフェリーを眺め、対馬にいることを実感していると、レンタカーのお迎えが港に到着。レンタカー手続きを終えたら、早速対馬を満喫のドライブへ!  帰りも同様にフェリーを利用しました。15時25分に厳原を出発するフェリーに乗り、18時前に壱岐の郷ノ浦に停泊し、20時過ぎに博多に到着するというコースです。厳原に向かう航路では深夜でしたが、帰りはまだ明るいため、対馬海峡の荒波を間近で見たり、壱岐島の島影もフェリーから確認できます。  日本に帰ろうとしていた遣唐使たちも、壱岐の島が見えてくると安心したことでしょう。郷ノ浦港、そして博多が窓の中で小さく見えてくると船で旅をしているという実感がこみ上げてきます。険しい山々が目立つ対馬の島と比べ、今度は平べったく起伏が少ない壱岐の島、島々の様子を見ながら進む船旅もなかなかいいものです。  飛行機であっという間に目的地に着くことも大事ですが、ゆっくりと旅を思い出しながら進む船旅というのもいいものですよ。 詳細情報 掲載した船旅では、九州郵船のフェリー(博多〜壱岐〜対馬)を利用しました ●博多埠頭 博多港 TEL:092-281-6636 ●壱岐(芦辺港) TEL:0920-45-3011 ●壱岐(郷ノ浦港) TEL:0920-47-0003 ●厳原港 TEL:0920-52-0793   関連URL: http://www.kyu-you.co.jp/
  • 和多津美神社 2010年11月24日
    和多津美神社
     対馬市にある和多都美(わたづみ)神社は、本殿正面に海、裏手には森という神秘的な神社です。本殿正面の5つの鳥居のうち2つは、海中にそびえ、潮の干満によってその様相を変えます。  遠い昔の神話の時代を感じさせる神秘的な神社で、訪れる人々を今でも魅了しています。  和多都美神社の「和多都美」とは海神(わたつみ)のことで、この和多都美神社は、ヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊)とトヨタマヒメノミコト(豊玉姫命)を祀る海宮 で、海神神社の一の宮として古くから竜宮伝説が残されています。対馬を旅するなら、一度は訪れてほしい場所です。  この神社は、映画「男はつらいよ」第27作“浪花の恋の寅次郎”に登場しています。和多都美神社で昼寝している寅さんが、助けた亀に連れられて竜宮城へ行き、家に戻ってくると孫の世代になっていて慌ててしまうという恒例の夢から醒めるオープニングシーンがありますが、今とそう変わらない和多都美神社の景観をみることができます。当時寅さんが昼寝をしていたベンチは、残念ながら残っておりませんでした。 和多津美神社 ふれあい交流の棟、オートキャンプ場、チビッコ向けの遊具がある「神話の里自然公園」のすぐそばです。