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中浦ジュリアンの世界グルメ紀行

中浦ジュリアンの世界グルメ紀行

天正遣欧使節の旅路

 キリシタン大名 大村純忠、大友宗麟、有馬晴信の名代としてローマへ派遣されることとなった4人の少年たちが、1582年2月、長崎の港を旅立ちました。わずか13歳前後の4少年の名は、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ。若く希望に満ち溢れた彼らが訪れた外国の港町は、貿易で発展した最先端の街ばかり。インド、南アフリカ、ポルトガル、ローマ、スペインで、美味しい料理でもてなしを受けたことが書かれています。当時のヨーロッパは、ルネッサンスのファッション、建築、食の文化が華開いた時代。ジュリアンたちは世界きっての少年グルメだったにちがいありません!

サン・パウロ協会

 約420年前の冬、天正遣欧少年使節は、長崎港(現在の長崎県庁下に「南蛮船来航の波止場跡」の碑がある)から、赤い十字架の帆がはためくポルトガルの貿易船に乗り込み、ローマへと出発しました。有馬のセミナリヨの第一期生として学んだ彼らは、その目に焼きついた絵画の中の西欧の風景に、きっと様々な夢と想像を膨らませて海を渡ったのでしょうね。最初に降り立ったマカオは、貿易港だけあって、ポルトガル料理にインド、アフリカがミックスされたマカオ料理。中国野菜とカニなどの海の幸に、香辛料のピリッと効いた料理が特徴。そうそう、揚げパンは福建料理のひとつだけど、長崎の中華料理が福建料理をルーツにもつのは同じ貿易港たる由縁かな。現在、世界遺産となっているマカオ歴史地区、今は壁だけが残るサン・パウロ教会を、4人も訪れたことでしょう。(イラストをクリックしてみよう!)

インド洋で大漁

 お次はマレーシアにある古都マラッカ。名物チキンライスは少年たちも食べたでしょうか。ゴアに向かう航海中のインド洋上で、タイ、マグロ、カツオを釣って遊んでいた少年たち。時には、その釣り糸で鳥も捕まえていたそうです。

リスボンに到着

 モザンビークから喜望峰をグルリと回った大西洋にあるセント・ヘレナ島は、かの有名なナポレオンが幽閉された島。この島では初めて食べる果物を体験したとか。やっとのことでリスボンへと到着。リスボンのアルデアガレの司教ドン・テオトニに招かれたディナーでは、とれたてのエビをつまみにワインを堪能。

トスカーナ

 一行はポルトガルからスペインを横断し、さあ、いよいよイタリアへ。ピサの斜塔は、彼らが訪れた頃もすでに傾いていたらしい。ここで行われたトスカーナ大公妃主催の舞踏会でのエピソード。社交ダンスを踊ることになってしまったジュリアンが、緊張のあまり、声をかけたのは老婦人!!まわりはなごやかな笑いに包まれたとか。

ジュリアン

 ジュリアンを除く3人は、群衆のなかを、和服で正装し、灰色に金のリボンと白い羽が付いたイタリア風の帽子というファッションで堂々と行進し、ヴァチカン宮殿の「帝王の間」でローマ教皇グレゴリウス13世と感動の謁見。用意してきた手紙を読み、狩野派が描いた織田信長の安土城の屏風を渡し、旅一番の大仕事をこなしました。その時のファッションをイラストにしてみました。

 ヴェネツィア、ミラノ各地でも熱狂的な歓迎を受けた少年たちは、再びポルトガルへ。コインブラでの司教の招きによる晩餐会は、かなりゴージャスなディナーだったらしいです。魚釣りや野原でのウサギ狩りに雷鳥狩り、もちろん食材としてテーブルに並んだのでしょう。長崎名物「カステラ」の原型と言われるパン・デ・ローも食べたかもしれないし!当時ヨーロッパでは、彼らの登場で日本ブームが湧き起こったというから、はるばる東洋からやってきた日本人の珍しさに、その待遇はVIPの域だったにちがいありませんね。長崎を出発してから8年5ヶ月の歳月が流れ、1590年に4人は日本へと帰港しました。

参考資料
  • ローマを見た 天正少年使節』結城了悟著 日本二十六聖人記念館刊 1982年発行


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人物
  • 有馬晴信
  • 大村純忠
  • 中浦ジュリアン
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      • 中浦ジュリアン記念公園
      その他
      • セミナリヨ

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