たびながコラム

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女神と男神

〜長崎港の歴史物語〜

女神大橋

 2005年(平成17)12月11日に「ヴィーナスウイング 長崎女神大橋」が開通しました。長崎市の南部と西部を結ぶ長崎南環状線の重要なポイントとして誕生したこの橋は、休日にはドライブコースとして車が行き交い、無料の歩道を利用して対岸へと渡る散歩コースとして楽しまれているスポットとなりました。夜はライトアップされ、長崎港に彩りを添えます。

「女神」のバス停

 ところで、この女神大橋の"女神"が地名であることは周知の通りですが、対岸に"男神"があったことをご存知でしょうか? この女神大橋のたもとには女神と男神という岩が祀られ、その起源は古く、『日本書紀』にまでさかのぼる歴史物語があります。さらに17世紀、徳川幕府の鎖国時代にやってきたポルトガル船の出航を阻止した場所であり、その前代未聞の警備体制のうらには不思議な伝説も残っていました。さっそく女神大橋を渡って、歴史をひも解いてみましょう。

ポルトガル使節船事件<徳川時代>

「正保4年葡萄牙船入港ニ付長崎警備図(長崎歴史文化博物館収蔵)」

 17世紀、徳川幕府は、キリスト教の布教活動を防止するために、長崎の有力商人によって人工の隔離島「出島」を築造しました。ポルトガル人は、1636年(寛永13)に完成した出島に収容され、1639年(寛永16)には出島からも追放され、日本への来航が禁止されました。
それから8年後、長崎の港を舞台に大事件が起こります。1647年(正保4) 6月、ポルトガルの大きな軍船2隻がやってきたのです。この船には修好使節が乗船しており、「自国ポルトガルは、イスパニア(スペイン)から独立した。」ということを報告するためにはるばる日本へやってきたとされますが、実のところ本当の目的は通商の再開だったとか。再び貿易を行い、キリスト教を布教する許しを幕府からもらおうとしたようです。
長崎奉行は、幕府の指示を待つあいだ、ポルトガル使節が船から降りたり、勝手に出航したりしないよう、ただちに厳重な警備にあたりました。そのものすごく厳重な警備の様子が詳細に描かれた一枚の絵図「正保4年葡萄牙船入港ニ付長崎警備図(長崎歴史文化博物館蔵)」をご覧ください。左が出島のある長崎港で2隻のポルトガル船が見えます。それを阻止するように男神(下)から女神(上)の小島まで大網が張られ、船を浮かべ板を敷いた舟筏橋で港を封鎖して、ポルトガル船を港の外へ逃がさないようにしている状況が描かれています。この「長崎警備図」によると「舟橋長三丁四十三間」=長さ約400m。さらに大小数百隻の船を3列にズラリと整列させて、周囲の海岸にも配置。その全ての船は威嚇するようにポルトガル船の方を向いています。
約2ヶ月間、この非常事態の警備にあたったのは伊予松山城城主松平隠岐守・伊予今治城城主(現:愛媛県)、細川藩(現:熊本県)をはじめ、福岡藩、佐賀藩、大村藩、小倉藩、柳川藩など西日本各地の諸大名。『徳川実紀』によると軍勢は約48,300人、船は約898艘がこの警備に参加したと記されています。
結果的に徳川幕府は、"独立の報告につき処罰なし"とし、ポルトガル船は幕府の出航命令に従って長崎港を8月に去っていきました。ともかくも、ポルトガルの軍事的脅威に対する公儀権力の対面を守ることには成功しました。幕府がこれほどに大がかりな警備体制をしいた理由のひとつには、1640年(寛永17)にポルトガル使節を処刑したことへの報復を恐れたのではないかといわれています。この事件以降、近隣の各藩は藩士を長崎に常駐させて護衛にあたり、緊急時の幕府の指示に備えました。

 その後、ほかの外国船もやってきました。1673年にイギリス船リターン号が通商復活の要請のため、1685年にはポルトガル船サン=パウロ号が漂流民を送還するため、来崎しましたが、大きな衝突もなく帰っていきます。幕府は当初のような厳重な海防策をやわらげ、常時、福岡と佐賀の両藩の交代制、さらに大村や島原などの周辺の藩で補うというかたちで、恒常的・制度的な警備体制を維持しました。また、平戸藩によって、神崎(男神の付近)・女神・太田尾の3ヶ所、長崎港の外には白崎・高鉾島・長刀岩・蔭尾(現:香焼)の4ヶ所、あわせて7ヶ所に石火矢台場が築かれました。

 こうしてオランダ船と唐船以外の船が訪れることはなくなり、1647年のポルトガル使節船事件から安政の5か国条約締結(1858年)によって日本が開国へと向かうまで、200年以上もの月日を待つことになります。

男神と女神の誕生は『日本書紀』!?<弥生時代>

 男神と女神には、神功皇后にまつわるエピソードを起源とする歴史物語があります。神功皇后は仲哀天皇(第14代天皇)の妻。約2世紀の初期、神功皇后が三韓征伐へと向かう途中で長崎に立ち寄ったことが『日本書紀』に記されています。この時ちょうど神功皇后は皇子さま(応神天皇)を身ごもっていました。夢で見た神様のお告げにより、浦上村からもってきた2個の霊石を「鎮懐石」として上帯に挟み出陣したといわれています。長崎を出航する時に船から眺めた美しい景色・・・。その地形に陰陽の2つの神がいるようだと感動して、陰神と陽神とよばせ、対岸2ヶ所に神様を祀ったのだそうです。これがはじまりといわれ、三韓から持ち帰った倭奴国王印も鎮懐石とともに祀ったそうです。後に男神・女神とよばれるようになりました。
長崎の東部には神功皇后にまつわる地名があります。皇后が鉾を立てた「高鉾島」、榊に鈴を付けて祈った地「神ノ島」、ほか「皇后島」も関係があるという言い伝えが残っています。

女神と男神を結ぶ"白狐"の伝説<神崎神社>
神崎神社のおきつねさま

 対岸にあって向かい合う男神と女神。神が宿る2つの岩には、先に紹介した「ポルトガル使節船事件」にまつわる伝説があります。長崎港に突然姿を現した2隻のポルトガル船に対して、九州各藩が警備にあたった時のお話です。
男神と女神の間に船を並べ板を渡すという作業は、波が高くうねり、強風にあおられ、困難を極めました。さらにポルトガル船を長崎港のなかに閉じ込めての作業ですから、いつポルトガル船から攻撃を受けてもおかしくない危険な状態だったのではないでしょうか。村人たちは男神に向かって一心に祈りを捧げました。途端に神崎鼻にある男神から、突然2匹の白い狐が現れ、素早い動きで船橋を駆け抜けて、対岸にある女神へと消えてしまいました。すると、悪天候による荒波や強風がたちまち鎮まり、難攻していた作業がみるみる完成していったそうです。
この不思議な出来事は神の思し召しとして社殿が建立され、その後、古祠を合祠して神崎神社となりました。海を渡って参拝するこの神社には、航海の神様として、唐船やオランダ船からの寄付も多かったといわれます。また、男神神社はいつしか商売繁盛の神様とされ、金貸稲荷社(かねかしいなり)をお参りする商人が多く訪れたそうです。その近くに設置された警備のための台場は明治維新の前に廃止となり、周辺の海岸には石油備蓄槽が設置され行き来するには不便な場所でした。現在、女神大橋の開通にともなって整備され、山頂にある神崎神社へは木鉢方面から歩いてお参りすることができるようになりました。

船を見守る神崎神社

 さすが、長崎!! 新しい観光スポット「女神大橋」に秘められた長〜い歴史物語に驚きました。歴史をひも解きながら現地を訪れる楽しみを体感できた一日でした。それにしても、長崎港に侵入してきたポルトガル船警備のために九州各藩が必死でつくった舟筏橋の真上に、いま、女神大橋が架かっているなんて、歴史の流れって本当に不思議なものですね。

参考文献
  • 『旅する長崎学3 キリシタン文化3』 企画/長崎県 製作/長崎文献社 2006年
  • 『長崎県の歴史』 著/五野井隆史ほか 発行/山川出版社 1998年
  • 『崎陽群談』 長崎県立長崎図書館/写 1966年
  • 『長崎事典 歴史編』 発行/長崎文献社 1982年
  • 『長崎市史』 企画/長崎市役所 発行/清文堂出版 1967年
  • 『日本書紀』巻8
長さ

一間=1.81818182メートル  一町=109.090909=60間として計算しました。

写真&資料
  • 「正保4年ポルトガル船入港ニ付長崎警備図(部分)」長崎歴史文化博物館収蔵


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人物
  • 神功皇后
歴史事件
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      • 神崎神社
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