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「島の館」学芸員 中園成生さんインタビュー(1)

〜生月のかくれキリシタンとオラショ〜

「幸四郎の森」での中園成生さん

 生月は、長崎県の北西部にある小さな島です。16世紀中頃、フランシスコ・ザビエルによって平戸にまかれたキリスト教の種子は、生月で開花します。キリシタン文化の繁栄をみながら、迫害と弾圧、脱出と潜伏…と時代に翻弄された歴史を歩みました。生月では、約450年以上を経た今もなお、当時の信仰スタイルが、かくれキリシタン信仰の中に受け継がれています。
今回は、生月のかくれキリシタン信仰の調査をしながら、歴史の新たな物語を追究する「平戸市生月町博物館・島の館」の学芸員 中園成生さんにインタビューしました。

 生月の歴史については、ながさき歴史散歩 第17回「生月を旅する!(1)」をご覧ください。また、中園さんがガイドをしてくれた 長崎歴史散歩 第18回「生月を旅する!(2)」(12/19更新)もお楽しみに!

キリシタンの組織づくり

ガスパル西玄可のお墓

 「1599年に生月島を治めていたキリシタン領主、籠手田氏、一部氏が長崎に退去。それを境に、キリシタンの暮らしはガラッと変わり、1609年には黒瀬の辻で信仰の指導者・ガスパル西玄可が処刑。さらに、徳川幕府の禁教令が発布された1614年以降、表向きにキリシタンを名乗るということは死を意味することとなってしまいます。1622年には中江ノ島の殉教事件が起こり、またその頃から宣教師たちが来なくなったため、ミサができなくなり、信者たちは自分たちだけの力で信仰を続けていくことを余儀なくされます。

生月の聖地・中江ノ島

 ただ、かくれキリシタン信仰についてのこれまでの解釈では、「教会での行事ができなくなったので、それを自分たちでやるようになった。」という認識でしたが、最近の研究成果によると、この地域(生月)ではキリシタンへの一斉改宗が行われた頃から信者たちが信仰の組を作り、行事をおこなっていて、禁教時代に入って、そうした組の信仰行事がそのまま受け継がれていったのではないかと考えられます。中世ヨーロッパのカトリックでは、民衆の信仰組織づくりにも力を入れていましたが、日本でも、宣教師の絶対数が少なかったこともあって、信者たちだけで独自に信仰できるようなシステム作りを当初からおこなっていたようです。宣教師の記録によると、生月には信仰の組が1558年頃から存在しており、禁教時代に入るまでに、充分に根を下ろしていたと思われます。」

信仰の変遷とオラショ(祈り)

 「「禁教時代の初期、キリシタンたちは組でまつる像やメダルなど聖なる道具を、大切に土の中に埋めたりして、厳しい探索を逃れたようです。そして禁教が一段落すると、屋内の納戸に移してまつるようになりました。またそうした聖なる道具に対する行事も、キリシタン時代のスタイルを守って続けられていきました。しかし、宣教師がいなくなったことで、キリスト教の教義は、だんだんと分からなくなっていったようです。

 その結果、キリストやマリアへの思いや認識は薄らぎ、地元で処刑された殉教者に対する尊崇が次第に重みをましていき、ガスパル様や中江ノ島の殉教者の物語が、かくれキリシタンの「神話」となっていったのです。かくれキリシタン信仰の精神的根底には、そうした地元の殉教者への尊敬があるのです。身近な存在が必死に信仰を守り、無残な死に方をした。そうした出来事を語り伝えるなかで、殉教者の思いを受け継いでいかなくてはいけないという意識が強くなっていった。そうして受け継がれた祈りがオラショでした。

明治時代、カトリック教会に合流復帰しなかったかくれキリシタン

かくれキリシタンの仏壇(「島の館」より)

 「明治6年に、明治政府が江戸時代から続いた禁教令を撤廃した後、生月の信者にも、長崎にあったカトリックの教会から合流復帰の働きかけがありました。先に復帰を果たした黒島(佐世保市)の信者たちが生月を訪れて復帰を働きかけ、カトリックに合流することが検討されたようです。ところが合流を果たせない理由がありました。それが神棚や仏壇の存在、とりわけ後者を廃棄するか否かという問題で、それは仏様の壇というより、ご先祖様を祀る祭壇として意識されてきました。ご先祖様こそ、死の危険を感じながら、営々と信仰を受け継いできた人たちであり、そうしたご先祖様にお祀りをせず捨てるということは、考えられないばかりか、場合によっては不吉なことが起こるかもしれないという危惧を持ったようです。当時日本で布教していたパリ外国宣教会のフランス人宣教師にとって、仏壇は、文字通り仏陀の祭壇であって、先祖の祭壇としての意味を十分に理解できなかったようです。もし当時のカトリック信仰にそのような祖先祭祀のスタイルを上手く組み込むことが出来ていたら、かくれキリシタンは今日存在していなかったかも知れません。」

オラショ(祈り)

 「実はキリシタン時代の祈り(オラショ)と、かくれキリシタンが現在唱えているオラショは、文句がほとんど変わりません。これはよく奇跡と言われますが、ある意味当然のことで、自分たちで教義を充分解釈できなかったから、変えようがなかった。むしろ忠実に形を継承していくことに、意味があったのです。一方カトリックの方は、明治の初めに日本人信者用に制作された祈りは、長崎で使われるようになったものと、横浜で使われるようになったものの2種類がありました。長崎の神父さんたちが考えたのは、以前かくれキリシタンで教会に復帰した人たちが使っていたオラショを尊重し、ラテン語やポルトガル語まじりの祈りを採用します。一方、昔からの信者がいなかった横浜では、中国のテキストをそのまま用い、漢語で書かれた候文調のお祈りをつくっていて、どちらに一本化するかで対立も起きていますが、最終的には長崎の祈りが使われています。しかしその後、教義をより的確に、かつ分かりやすく表現できるように、たびたび文句が変えられて今日に至っています。カトリックにはきちんとした教義研究の組織があるので、このような変化も可能だったのです。」

かくれキリシタンの規模

生月の風景

 「生月では、カトリックに合流した人たちは山田教会を建てましたが、先ほど話したように先祖供養の問題があって、合流復活した信者は一部に限られ、ほとんどの人たちはかくれキリシタン信仰を続けました。明治時代の生月の人口が6,000人程度だったなかで8〜9割がかくれキリシタンだったといわれています。現在の全人口は約7,000人ですが、仮に、お授けを受けて、ツモトと呼ばれるグループに属し、オラショを唱えることができる人と定義すると、信者の数はほんの一握りになります。しかしツモトや独立する組などに属している家の構成員を、全て関係者とみなすと、信者の数は500人弱程度と推定されます。しかしなかには、かくれキリシタンに関係するご神体を祀っていても、自分たちはかくれキリシタンと関係ないと考えている組や家もあったりします。」

生月のオラショ(祈り)

 「生月のオラショは、全部のお祈りを続けて唱えるというスタイルです。一般的なかくれキリシタンの行事は、オラショを暗唱した後、酒と魚をいただくという流れです。カトリックのように祈りの時にロザリオを持つことはありません。生月のかくれキリシタン信仰では、コンタツと呼ばれるロザリオは、御神体として小さな祠を作って祀っていて、まれに葬儀などのときだけ取り出して用いることもあったと聞いたことがあります。
オラショのなかで唄われるもの=唄オラショは、もともと何の曲に由来するか全部分かっています。また唱え方として、全部の祈りを唱える一通りと、その一部を唱える六巻という形があって、生月島内の各集落で唱えられるオラショの内容は、言い回しなど若干違うところもありますが、ほぼ同じです。ただし元触という地区では、一通りという形が他の地区の六巻とほぼ同じ構成なので、短い祈りになっています。元触には、地区内に平戸藩が派遣した侍が住んでいたことも影響しているのかも知れませんが、行事の時にも、カドグチ(屋敷地の入口)に見張りを立てていたそうです。」

 中園さんには、そのほかにもいろんなお話を聞かせてくれました。サン・ジュワンさまの正体にせまるお話を第33回(12/12更新)、戦国時代を生き抜く領主の生き様から思想を考えるお話を第34回( 12/19)と3回に分けてご紹介します。お楽しみに!

DATA
中園 成生 Shigeo Nakazono

 1963年生まれ。福岡市出身。1985年に熊本大学民俗学研究室卒業。1993年に平戸市生月町博物館 島の館で学芸員として就任。主な著書に『民具』共著・ろうきんブックレット・1997年、『かくれキリシタンの聖画』共著・小学館・1999年、『生月島のかくれキリシタン』平戸市生月町博物館 島の館・2000年、『くじら取りの系譜』長崎新聞社・2001年。



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