たびながコラム

ホーム   >  たびながコラム  >   キリシタン

「島の館」中園成生さんインタビュー(3)

〜海域を支配する領主の哲学〜

中園成生さん

 生月は、長崎県の北西部にある小さな島です。16世紀中頃、フランシスコ・ザビエルによって平戸にまかれたキリスト教の種子は、生月で開花します。キリシタン文化の繁栄をみながら、迫害と弾圧、脱出と潜伏…と時代に翻弄された歴史を歩みました。生月では、約450年以上を経た今もなお、かくれキリシタンの信仰が伝承されています。今回は、生月のかくれキリシタンの調査をしながら、歴史の新たな物語を追究する「平戸市生月町博物館・島の館」の学芸員 中園成生さんにインタビューしました。
生月の歴史については、ながさき歴史散歩 第17回「生月を旅する!(1)」(12/5更新)、中園さんがガイドをしてくれた ながさき歴史散歩 第18回「生月を旅する!(2)」(12/19更新)もお楽しみに!

籠手田・一部の領民が、新天地を求めて長崎へ亡命

禁教令の高札(平戸市生月町博物館 島の館蔵)「定 きりしたん邪宗門の儀は堅く 御制禁たりもし不審なる もの有之は其筋の役所へ 申出べく御ほうび申 たるべく事 慶応四辰年 太政官 三月」

 「江戸時代の1614年(慶長19)、禁教令が発布されると、キリシタンへの逆風が決定的になってきました。しかし平戸においてはそれより早く、1599年(慶長4)からキリシタンの禁教が具体化していきました。その直接的契機は、対立しながらもポルトガルとの貿易関係を断続的に続けた平戸藩主・松浦隆信(道可)が亡くなり、キリシタン嫌いだった息子の鎮信(法印)の時代を迎えたことにあります。
禁教令からさかのぼること30年以上前の、1558年(永禄1)と1565年(永禄8)に、籠手田氏と一部氏が、生月などの領民を全てキリスト教へ入信する"一斉改宗"を果たしており、信仰は根強く定着していました。しかし松浦鎮信は、父の葬儀へ参列するように全ての家臣に命令します。キリシタンである籠手田・一部両氏にとって、仏式の葬儀へ参列することは、棄教(キリシタンの信仰を棄てること)を意味します。しかし葬儀に参列しないという選択肢を選べば、松浦氏に対して反旗をひるがえしたことになり、戦争を引き起こしかねません。しかし彼らは第三の途を選びます。それは、自らの領地を棄て、キリシタンの領民たちとともにこの島を去るという選択でした。ある晩、彼らは船に乗って長崎に着き、イエズス会の保護を受けました。」

平戸の領主のターニングポイント

平戸城

 「しかしこの籠手田・一部氏の退去については、信仰以外の視点からの検討も必要です。近世の武家社会は集権的な支配体制を志向していて、中世のように、自分が治める領地のなかに、独立した強い家臣が何人もいるという状態は、歓迎されるものではありません。自分の命令が領地全体に行き届く体制づくりが必要だったのです。集権的な領国体制を構築する願望を持った松浦鎮信(法印)にとって、独立した権力を持つ籠手田・一部のような領主は、邪魔な存在だったのです。実際、鎮信の時代やその前後に、取り潰された領主も他に何人かいて、キリシタンというのはどうも口実だったようにすら思えます。また、さらに別の見方をすれば、平戸松浦氏が、貿易から利益を得るという"港市の王"としての在り方から、領地を支配しそこからの収益を権力の基盤とする領土型の戦国大名に変容していったことも、関係があるかも知れません。"港市の王"的な性格は、江戸時代の始めのオランダ貿易の頃まで継続してはいるのですが、一方で、平戸を避けて大村領の福田浦に入港したポルトガル船を攻撃した福田浦海戦の頃(1565年)から、松浦氏の領土志向型への変容が進んでいき、鎮信の代にほぼ領土が確定したという側面も、見落とせないのではと思います。」

籠手田氏のダブルスタンダードな思考

「生月大橋と舘浦港(生月町)」(長崎県観光連盟)

 「生月の領主である籠手田氏と一部氏の、領地を捨て"新天地"を求めるという発想についても、少し考えてみましょう。両氏は1587年(天正15)、豊臣秀吉によって伴天連追放令が出されたとき、生月に避難してきた宣教師たちを自領内に受け入れ、平戸松浦氏などの攻撃から守るため、家来を武装して待機させました。その時、籠手田安一は宣教師にこういったそうです。「自分たちはあなたたちキリシタンの信仰を守るために命を懸けて戦うであろう。それがもし、難しいということであれば、自分たちはためらいなく自分の領地を捨てて宣教師たちと一緒にマカオに立ち去るつもりだ」。彼らの宗教的熱意を窺い知ることができる発言ですが、ここで私が注目したいのは、軋轢(あつれき)があったなら海の向こう(外国)へ行ってもいい、という発想です。その背景には、この辺りの人たちの、こっちで駄目なら海の向こうに行きゃ何とかなるのではないかという意識があるように思えるのですが、それこそは、領土で区画された国民国家という幻想が出てくる近代以前の、海に囲まれたマージナル(境界的)な地域に住む人たちの意識として捉えることができるのではないでしょうか。言い換えると、京都を"中心"と認識するような感覚観念というのは、当時この地方の人たちにはそれ程強くなく、先進地域というのは実は自分たちが住む地域の海の向こうに広がっていて、そっちに対する志向も強かったという、ダブルスタンダードな志向を持っていたように思えます。京都の人からみれば、長崎は西の果てと思っているところがあるのかも知れませんが、当時の長崎の人たちのベクトルは、東の京都ではなく、海を越えた世界に、より大きく向いていたのかも知れません。」

海上貿易の要所としての文化

オルテリウスの地図「Tartaria」(1578年刊行・部分) 日本二十六聖人記念館蔵

 「京の文化には求心性というものがありました。海の向こうなどから、いろんな文化を取り入れつつも、最終的に自分自身のスタイルといったカタチで様式化して周辺に発信していきます。京都の文化が持つ様式美は、外の情報を取り入れた上で一度シャットアウトし、独自のスタイルに昇華することで成立します。そういった流れのなかで北西九州地域は、そうした京都の文化が最終的にたどり着く場所でもあり、そういった意味での辺境ではあるのですが、同時に、海の向こうの文化がいち早く流入するという部分では、先進地でもあるのです。流入があまりに日常的だったので、独自の形にあまり拘らないような姿勢の方が、やりやすかったのではないかと思うところもあります。それは長崎だけではなく、南の琉球、北の蝦夷などの境界世界もそうです。しかし日本全体の文化の流れを歴史的に捉えたとき、北西九州地域は特に、日本文化にさまざまな文化要素を流入させる窓口の役割を常に果たしてきました。ただそうした働きについて、単純に文化面だけで推し量ることはできません。政治や経済、特に経済が果たした意味はとても大きかったと思います。例えば16世紀中頃から後半にかけて海域世界が活性化した背景には、石見銀山の開発と増産が重要な役割を果たしており、それに対応して中国人の私貿易が活発化し、さらに彼らのルートに乗ってポルトガル人がやって来て、キリスト教という文化が伝来しているのです。ある意味宗教とは、もっとも重さや嵩が小さい(というか存在しない)、それでいて最も付加価値が高い貿易品だといえるかも知れません。」

 文化交流で海外と日本を比較できた平戸・生月・大村などの領主たちは、日本がつくる時代の流れよりも世界の波に乗りたかったのではないでしょうか。16世紀のオルテリウスが制作した地図には、長崎のキリシタンの島々と石見銀山が詳細に描かれています。貿易の中継点となった長崎は、生月の領主 籠手田氏も海外に思いを馳せ、移住してきた生月の人たちによって、熱気あふれる賑いをみせた街だったのではないでしょうか。

DATA
永中園 成生 Shigeo Nakazono

 長崎県出身、東京在住。国際基督教大学卒業。フランスのストラスブール国立音楽院古学科をディプロマを取得して修了。ルネサンス、バロック時代のリュートのソリスト、アンサンブルのメンバーとして活動中。CD「ふらんすの恋歌」、映画「耳をすませば」、NHK「迷宮美術館」「ルーブル美術館」など録音多数。「コンサートプロデュース・ルミエールプロジェ」を主宰。



うんちくバンク

人物
  • 平戸の領主
  • 松浦鎮信
  • 松浦鎮信
  • 松浦隆信
歴史事件
    資料
      場所
      • 生月大橋
      • 平戸市生月町博物館 島の館
      • 平戸城
      その他
      • イエズス会
      • 伴天連

      アンケート

      コメント