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銅版画家 渡辺千尋さんインタビュー

  

 1597年2月5日は長崎港を望む西坂の丘で26聖人が十字架にかけられて処刑された日です。この世界を震撼させた事件と同年に、有家にあったセミナリヨ(神学校)の日本人学生が銅版「セビリアの聖母」を制作していたのです。
現在、銅版画家そして作家として活躍する渡辺千尋さんは、1995年に長崎県南島原市有家町からの依頼で「セビリアの聖母」の復刻をおこないました。この復元に端を発し、二十六聖人殉教の道を堺から長崎までの行程を実際に体験し、版画に秘められた謎を推理する『殉教(マルチル)の刻印』(小学館)を執筆されています。今回は、渡辺千尋さんにインタビューしてきました。

日本二十六聖人殉教者が歩いた道を追体験した理由

西坂公園にある日本二十六聖人記念碑

 左僕は西坂(長崎市)で育ちました。西坂公園は幼い頃の遊び場。昔は石塔が一本あるだけで、教会もまだない単なる公園でした。子どもの頃の僕は、西坂公園が26聖人の処刑された丘だということを知らなかったし、学校でも教えてはくれませんでした。

26聖人のひとりフィリッポ・デ・ヘスス

 その事実を知ったのは、大人になって旅したメキシコでの体験がきっかけでした。メキシコ・シティの郊外に16世紀に建てられたフランシスコ会の古い教会を訪れました。この教会では修復工事中に白壁から二十六聖人の殉教の様子が描かれた壁画が出現していたんです。高さ8メートル、長さは60メートル以上にわたって描かれた巨大な壁画でした。「どうしてメキシコに日本の二十六聖人が描かれているんですか?」とガイドに聞いたら、「フィリッポというメキシコ人が日本で処刑されたというニュースが国中に広がって壁画の制作がおこなわれたんです。」という答えが返ってきました。次第に僕の頭のなかで、遊び場だった西坂公園で26人が処刑され、そのひとりでメキシコ人のフィリッポのために建てられた教会が僕の実家の目の前にある聖フィリッポ教会、さらに二十六聖人に捧げられた教会が大浦天主堂だという関連が、一本の線に繋がってやっと理解できたんです。それまで全く長崎の歴史に興味がなかったので、それを知って僕はちょっとショックを受けたんです。そういうお勉強が嫌いで絵描きになったんだからね(笑)。

聖フィリッポ教会(長崎市西坂)

 それから、長崎県の有家町(現南島原市)の企画で、銅版画「セビリアの聖母」の復刻の依頼がきました。それは、有家のセミナリヨ(神学校)で日本人学生によって作られたというキリシタン銅版画です。制作に取りかかる前に、長崎カトリックセンターにオリジナルを見せてほしいと何度もお願いしました。しかし断られたんです。しようがなくて、二十六聖人殉教の道をたどりました。
同じ行程を歩くという理由にもうひとつ、フィリッポという人物像にも興味があったからなんです。彼は普通の青年なんですよ。メキシコ人で若くて日本にたまたま流れ着いて、訳の分からないうちに京都で捕まって長崎まで歩かされて殺されてしまった。彼の視線で歩いてみたら面白いかなと思って、後先考えずに行動してしまったんです。今まで、誰もそれをやったことがなかった26人の殉教者が歩いた道をその日程どおりに歩きました。

日本二十六聖人殉教の道を実際に歩いて

 1596年、豊臣秀吉の命令でキリシタン日本人18名と外国人6名が捕らえられました。京都で耳を削がれて馬に乗せられて市中を引きずられ見せしめにされ、命令が下されるまで大坂の堺に滞在。1月8日に処刑の行程が決まって9日から27日間に及ぶ殉教の道。僕は1月9日に堺から出発しました。歩きはじめて10日間は苦しくて苦しくしようがなかったですよ。なにせ40キロなんか歩いたことがないからね。違いが分かったのは、彼らにはキリスト教という神様がいたということ。僕は無宗教だから神様がいない。この差は大きい。彼ら26人は、捕まったのは"受難"だと受け止めていたのですから。彼らは自分たちの信念のために逝くのですから、肉体的な苦痛など無かったのではないでしょうか。僕にはその信念が理解できません。日本人のなかには12歳ほどの幼い少年が3人いました。なにも抵抗しないで、ありがたく死を受け入れる姿を見て、大人や外国人宣教師たちは、逆にその少年たちに励まされたと思います。1597年2月5日正午、殉教の当日、神々しい顔で処刑されていくシーンが記録にたくさん残されています。この26人ものキリスト教徒が大量に殺された大事件は、典型的な"殉教"劇へと昇華したのです。実際に殉教の光景を見た群衆はますますキリシタンとして結束が芽生えたのではないでしょうか。秀吉の意図とは逆の作用が起こってしまったのです。過去にこのような殉教の例はなく、このニュースが海を越えて駆け巡り、世界中を震撼させたのです。
僕は二十六聖人と同じ道を歩いたことで、歴史の本を読むだけではわからない、そのことをハッキリと感じることができたと思います。

「セビリアの聖母」の復刻

「セビリアの聖母」復刻版 制作/渡辺千尋

 有家町(現南島原市)から銅版画の復刻の依頼がきていました。でも当初は、復刻には興味がなかったんです。ただ、26聖人が処刑された同じ年に、「セビリアの聖母」の版画が制作されたということに胸騒ぎがしたんです。同じ年になぜ聖母が作られたのかという疑問と、その裏側に関連するドラマを一瞬パッと感じたわけです。それでお引き受けしたんです。しかし、僕たち創作側の人間にとって復刻という作業は、人の作品を真似するわけですからイヤなものなのです。僕じゃなくても他の人が復刻してもいいのですから。
仕事に取りかかる前に、原画を見なくては復刻できません。オリジナルを所有している長崎カトリックセンターに何度お願いしても、いくら待っても全然見せてくれなかった。原因はよくわからなかったのですが「60年間誰にも見せてない。」ということでした。しかし、その後、二十六聖人殉教の道をたどった行動と、取材したテレビ局の記者、日本二十六聖人記念館元館長の結城神父たちの働きかけによって、あっけなく封印が解かれ、オリジナルを見ることができたのです。

 聖画とはイコンのことです。「セビリアの聖母」が描かれた16世紀には、芸術という意識はなく、自己表現という言葉も認識もない時代です。彼らはキリスト教徒の信者たちに配るためのイコン制作者でしかありません。そして二十六聖人が処刑された時代に作られて、有家版の幼子キリストの手に持つハトの絵が消されてしまっているというスゴさがあります。ハトは、ヨーロッパでは平和の象徴です。あくまで推測ですが、その当時の日本人にはそんな概念はなかったのではないでしょうか。マリアの右手に持つ花。西洋ではバラが描かれていますが、日本では見たことがなかったでしょうから、「バラとは椿みたいな花ですよ。」と教えられたかもしれない。ハトは日本にもいたでしょうから描けないことはないのですが、イコン制作者はわざと絵の中から消してしまっています。では、聖画のなかの重要なシンボルを消すとは、いったいどのような心理状態だったのでしょうか。

復刻作業のなかで出会ったキリシタン文化

 キリシタン文化とは西洋の文化です。印刷画、銅版画、油絵などが、日本の、しかも長崎で芽生えようとしていたのに、キリシタン弾圧でそれが全て根こそぎ無くなってしまったのです。それから日本の文化というのは300年ぐらい遅れてしまいます。時の権力者たちが、印刷はスゴイものだと理解していたならば、銅版画や本などの新しい文化を生み出すことができたはずです。宗教とは関係なく技術だけでも吸収すればよかったのに、全部根こそぎ無くしてしまった。技術が途絶えてしまったのです。それがものすごく惜しいと感じますね。それから時代を経て江戸末期にならないと銅版画も復活しません。16世紀の長崎の芸術レベルは高かった。しかし芸術がキリシタンと結びついていたから切り離せなかったのでしょうね。その当時、セミナリヨやコレジヨでは、日本の古典と同時に西洋の文学も教えていたのですから、西洋と日本の比較文化ができていたのです。それが現在まで続いていれば、おそらく文化の意識や理解度も違っていたのではないでしょうか。

 渡辺千尋さんは、『旅する長崎学3 キリシタン文化3』の"たびなが羅針盤(15頁に掲載)"に、「二十六聖人が歩いた道をたどって〜二十六聖人と同じ日程を歩いた体験記〜」を寄稿されています。あわせてお楽しみください!

DATA

渡辺 千尋 Chihiro Watanabe

1944年生まれ。長崎市出身。1964年桑沢デザイン研究所卒業。1978年、日本版画協会奨励賞受賞。銅版画家として活躍し、画集『叛吐』『掌画集』、チェコ国立版画美術館に『象の風景』シリーズが収蔵されている。1995年長崎県有家町の銅版画「セビリアの聖母」を復刻。主な著書に『ざくろの空-頓珍漢人形伝』(河出書房新社・1995年)で第一回蓮如賞を受賞。『殉教(マルチル)の刻印』(小学館・2001年)で第8回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。現在、銅版画家、作家として活躍中。



協力
  • 「セビリアの聖母」…南島原市教育委員会有家町事務所


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