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平戸を訪れた人々と、平戸を旅立ち活躍した人々

  

  今回の歴史発見コラムでは、平戸を訪れた人々や平戸から旅立って活躍した人々にスポットをあててみました。

  1641年(寛永18)にオランダ商館が平戸から「出島」へと移転し、海外貿易の拠点が長崎へと移ります。平戸藩は主要な財政基盤を農業におくこととなりましたが、もともと山地と島からなり、平地に乏しい地勢でした。そこで、早岐(はいき)・相神(あいのうら)・佐々地方と新田の開発をおこないます。

平戸の町並み

  その後、平戸藩の財政を潤したのは捕鯨でした。1733年(享保18)、益冨又左衛門の生月御崎(いきつきみさき)の網組は船40艘・従業員587名の巨大組織をつくりあげ、毎年20〜50頭の鯨を捕獲するほどの勢いで、壱岐・対馬・五島・西彼杵(にしそのぎ)・長州へと各地に漁場を広げていきました。  また、豊臣秀吉の朝鮮出兵・文禄の役後、平戸島中野で陶磁器づくりが始まり、1637年(寛永14)以降は三川内(みかわち:現佐世保市)が平戸藩の陶磁器生産の中心となります。御用窯も置かれて隆盛し、今日に至ります。

しかしながら、新田開発による増収は限界に達し、捕鯨業も衰退の一途を辿り、平戸藩の財政は厳しい状況となっていました。

松浦 清〔静山〕と藩校・維新館

  平戸藩は、財政窮乏のため藩政改革が必要でした。そんな時に藩主となった松浦 清(きよし)〔静山せいざん〕は、経費節減や行政組織の簡素化・効率化、農村そのものの再建・強化、身分にとらわれない有能な人材の登用などをおこないました。
  清山は、1821年(文政4)11月17日(旧暦)の甲子の夜から筆をとったといわれる「甲子夜話(かっしやわ)」の著者としても知られています。
  甲子夜話には、古今の人物の逸話、故実、学問、芸能、民俗、信仰、自然現象、地理、その他狐狸妖怪等々の記述があり、江戸文学を代表する随筆集といえます。極彩色の挿図が数多く描かれているのも面白いです。また、大塩平八郎の乱やシーボルト事件に関する伝聞等の記述も含まれており、近世後期の社会情勢や文化を知るうえでも貴重な記録となっています。

また藩校となる維新館(いしんかん)を設立し、人材の育成に努めました。

平戸藩校の立役者・山鹿素行(やまがそこう)

  そもそもこの維新館の基礎は、山鹿素行の弟・平馬とその子孫が平戸に住み、藩臣となって、山鹿の軍学(兵学)を説いたことが始まりといわれています。
  1651年(慶安4)、松浦鎮信〔天祥〕が江戸の板倉重矩(いたくらしげのり)邸で、素行が「荘子(そうじ)」を講じるのを聞いて感動し、素行と意気投合しました。その後鎮信が素行の住居を世話するなどして親交が深まりました。「テーマで歩く歴史散策」の平戸城でも紹介しましたが、平戸城の縄張り(設計)は山鹿素行の軍学に沿ってなされました。
  山鹿素行は、幼い頃から儒学、軍学(兵学)を身につけ、20歳で幕府士中に頭角を現し、門下生は4,000人にも及んだといいます。素行が著した尊王思想の書「中朝事実」は、後に乃木将軍にも影響を与えたといわれています。

平戸藩で多くの儒者を育てた佐藤一齋(さとういっさい)

  佐藤一齋は1772年(安永元)生まれ。林述斎(はやしじゅっさい)に学び、天保の改革を推進した水野忠邦に見出され、幕府の儒官となります。朱子学を専門として教育しますが、その広い見識は陽明学にまで及びました。江戸の私塾では、長村靖斎(ながむらせいさい)、葉山佐内(はやまさない)、楠本端山(くすもとたんざん)、楠本碩水(くすもとせきすい)など平戸藩の儒者のほとんどは佐藤一齋の講義を受けました。1800年(寛政12)、29歳の時に平戸に招かれ、維新館で講義をおこなっています

明治維新の精神的指導者 吉田松陰(よしだしょういん)
吉田松陰宿泊紙屋跡(平戸市浦の町)
吉田松陰宿泊紙屋跡(平戸市浦の町)

  山鹿流兵学をさらに学ぶために平戸を訪れたのが、長州藩士の吉田松陰でした。まず葉山左内の門を叩いて儒学をより深め、その後山鹿高紹について兵学を学んだといいます。50日余り滞在して数多くの書物を書き写したといわれる「吉田松陰宿泊紙屋跡」には、今も多くの人々が訪れます。
  1857年(安政4)には叔父が主宰していた松下村塾を引継ぎ、開塾。久坂玄瑞(くさかげんすい)や伊藤博文、高杉晋作(たかすぎしんさく)、桂小五郎(かつらこごろう)などを育てています。1859年(安政6)、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画が頓挫したことから自首、斬刑となりました。

  維新館は、1871年(明治4)の廃藩置県の際に閉校となりますが、1880年(明治13)に松浦 詮(あきら)〔心月(しんげつ)〕は、学舎を再興して猶興書院(ゆうこうしょいん)と名づけ、漢字・数学・歴史を教育する場をつくりました。維新館時代を含め猶興書院では、明治時代に活躍する人材を多く輩出しています。
  猶興書院は、1886年(明治19)に市立中学となり、1889年(明治22)には猶興館と改称、1902年(明治35)に県立へと移行します。現在の長崎県立猶興館高等学校の前身です

明治の行動人を育てた楠本端山
國士浦敬一之碑(亀岡公園内)
國士浦敬一之碑

  楠本端山は1828年(文政11)、平戸藩針尾島に生まれます。維新館に学び、24歳の時に江戸留学を命じられ、佐藤一齋や大橋訥庵(とつあん)について、儒学を深めました。平戸藩に戻ると松浦 詮(あきら)〔心月(しんげつ)〕に学問を講じながら、維新館の教員となりました。その後1871年(明治4)の廃藩置県の際、平戸県権大参事となりました。

  1881年(明治14)、官をやめ針尾に帰りますが、学びたいという者が絶えず訪れるため、翌年には弟の碩水とともに鳳鳴書院(ほうめいしょいん)を開いて多くの人材を育てます。この書院では厳しい規則や試験を課さず、悠々と自由に学ばせるのが特長で、九州各県のほか山口・島根・広島・香川・三重・新潟、さらに青森など東北地方からも集まってきたといいます。

  楠本端山・碩水の門下生には、志佐要一郎(しさよういちろう)や浦敬一(うらけいいち)など、海外雄飛を志して行動した先駆者がいました。

「ブラジルの父」とよばれた山県勇三郎(やまがたゆうざぶろう)

  山県勇三郎は楠本端山・碩水について学び、浦敬一との親交も深かったといいます。
  初期の北海道開拓に従事して漁業・海運・牧畜・鉱山・商工業・学校などの諸事業を経営。日清戦争では軍需品の輸送を担当し、以来東京に店舗を設けて盛んに活動しました。
  1909年(明治42)には日本帝国領土拡大の大望に燃え、長崎県ブラジル移民第1号として同地に渡ります。マカエ市郊外に約5000ヘクタールの大農場を開拓し、塩田・漁業なども営みました。その後、一度帰国して原首相を説き、ブラジル移民を国策路線に乗せるなど功績を残しました。

フィリピンで没した菅沼貞風(すがぬまただかぜ)
菅沼貞風の碑(亀岡公園内)
菅沼貞風の碑(亀岡公園内)

  菅沼貞風は幼くして俊英の誉れ高く、貧しくして郡役所に勤めながら、夜は猶興書院に通って経史を学びました。1886年(明治19)、国が貿易沿革史の編纂を企画した際、大蔵省から史料を求められた長崎県は、郡役所へ求め、郡役所は貞風に依頼しました。貞風は遺跡を調べ歩いてまとめ、「平戸貿易史」を作成。当時、貞風はまだ19歳でしたが、松浦 詮は貞風の奇才を認め、学資を援助して東京帝国大学に学ばせたといいます。
  1888年(明治21)の卒業論文「大日本商業史」は、日本の対外交貿易史の詳説として高い評価を受けました。その後、日本の海外発展についてフィリピンへと向かう「南進論」を説きました。1889年(明治22)には自らスペイン領であったフィリピンに渡り、地理・風俗の調査に奔走するも、マニラで客死しました。著書「新日本図南の夢」(当時は過激な南進策として刊行されませんでした)には、貞風の抱負の一端を知ることができます。

ロシアで没した沖 禎介(おきていすけ)
沖禎介の胸像(亀岡公園内)
沖禎介の胸像(亀岡公園内)

  沖禎介は1874年(明治7)生まれ。東京専門学校(現在の早稲田大学)に入り、その後楠本碩水に学びました。1901年(明治34)に清国に渡り、北京の東文学社で教鞭をとり、自ら文明学校を創立して清国の子弟を養いました。

沖禎介の胸像土台のレリーフ(亀岡公園内)
沖禎介の胸像土台のレリーフ(亀岡公園内)

  1904年(明治37)、日露宣戦布告に際し、校務は門人に託し、清国にいる同志と共に、東清国鉄道を破壊してロシア軍の東方輸送を妨害するという特別任務につきます。ラマ僧を装い、北京を発って50有余日、満州で任務を遂行しようという時にロシア軍に捕らえられ、ハルピンにて銃殺されました。

“初代シャム公使”稲垣満次郎

  稲垣満次郎は上京して東京帝国大学に入ります。そして松浦 厚(あつし)〔鸞洲 らんしゅう〕のイギリス留学に随伴してケンブリッジ大学を卒業しました。イギリス在学中には、英文で「東方策」を著し、一躍欧米人のあいだにその名を知られるようになります。1891年(明治24)に帰国しましたが、官職には就かず、和文で「東方策」を著述して、当時の政界人に認められ、講演会をおこなうなど活動しました。
  1897年(明治30)、初代シャム(現タイ王国)公使に選ばれ、同国との諸条約を締結、またトルコとの条約も締結させました。1907年(明治40)には特命全権公使となり、イスパニアに駐在しましたが、47歳で病没しました。

貞風の南進論を引き継いだ石橋禹三郎(いしばしうさぶろう)

  石橋禹三郎は商家に生まれましたが、家業に就くことを好まず、17歳の時に平戸を離れ、福岡、そして東京へと出ました。苦労しながらも、将来のことを考えて英語を学んだといいます。あるアメリカ人の好意により単身渡米、皿洗いをしながら経済学を学びました。1891年(明治24)、南米チリで革命が勃発すると、義勇兵としてチリに赴き、その従軍記を書きました。一時平戸に帰りますが、フランスがシャムに領土の割譲を強要していると知って憤慨し、単身でシャム救援に旅立ちました。「勇敢な日本人と手を握り国運の発展をはかることが得策である」とシャムの政府要人に説いて賛同を得ると、土地を借り受け、「シャム殖民会社」や「日シャム銀行」を創設しました。しかし、シャム移民計画は実を結ばず、1898年(明治31)30歳で病死しました。

肉弾三勇士(にくだんさんゆうし)のひとり作江伊之助(さくえいのすけ)
作江伊之助の碑(亀岡公園内)
作江伊之助の碑(亀岡公園内)

  1931年(昭和6)の満州事変に続いて、1932年(昭和7)に第一次上海事変が勃発しました。日本軍は、廟行鎮(びょうこうちん)に築いた陣地を突破するのに苦戦していました。当時久留米工兵大隊の一等兵として参戦していた作江伊之助は、北川丞(きたがわすすむ)、江下武二(えした たけじ)と共に鉄条網の破壊班に加わります。爆薬筒に点火し、弾丸が飛び交うなかを3人で破壊筒を抱えて鉄条網に突入、自らも爆死しました。これにより日本軍は敵陣に突入することができました。当時この肉弾三勇士の名は知れ渡り、歌や映画も作られ、強く国民の志気を高めさせました(爆弾三勇士ともよばれています)。1965年(昭和40)、亀岡公園に作江慰霊碑が建立されました。

  平戸生まれの青年のなかには、海外雄飛を志したものや海外で命を惜しまず活動したものが少なくありませんでした。海の彼方へと目を向けた彼らは、大航海時代に国際貿易港として栄えた平戸の遺伝子を受け継いでいたのでしょうか。

  亀岡公園を散策していると、先人たちの記念碑や慰霊塔に出会います。平戸を訪れた際には、ぜひ立ち寄ってみてください。

亀岡公園

  平戸城の二の丸跡に整備された公園で、天守閣や櫓があり、多くの観光客が訪れます。樹齢400年以上といわれるマキが多数植えられたマキ並木もあり、運動場も整備されているので、市民の皆さんにも親しまれています。マキの大きいものは幹まわりが5.5メートルを越えているそうです。 春には桜の名所にもなっており、多くの人で賑わいます。

亀岡神社鳥居マキ並木
亀岡神社鳥居とマキ並木 (亀岡公園)

  1932年(昭和7)には漂泊の俳人とよばれる種田山頭火(たねだ さんとうか)は、平戸を訪れ、島の美しさと人の温かさに感激し、一時は落ち着き先にと考えたといわれています。山頭火は、行乞日記の中に以下のように書いています。

山頭火歌碑
山頭火歌碑(亀岡公園内)
山頭火歌碑 (亀岡公園内)

  1932年(昭和7)には漂泊の俳人とよばれる種田山頭火(たねだ さんとうか)は、平戸を訪れ、島の美しさと人の温かさに感激し、一時は落ち着き先にと考えたといわれています。山頭火は、行乞日記の中に以下のように書いています。


     日本は世界の公園である

     平戸は日本の公園である

参考資料
  • 「史都平戸-年表と史談-」/松浦史料博物館
  • 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版)
  • 平戸史話」(矢動丸 廣著)


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