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銀嶺の橋本京子さんにインタビュー(1)

〜遠藤周作先生が通った西洋料理の店「銀嶺」〜

 作家・故 遠藤周作氏は、キリスト教をテーマに、心の奥深くに潜む日本人の本質に鋭く迫った作品を数多く描きました。長崎を舞台にした小説『沈黙』『女の一生』などを手掛け、県内各地を訪れました。取材の合間に立ち寄り、時を過ごしたお気に入りのお店もいくつかあったようです。そのひとつが「レストラン銀嶺」。この店は、鍛治屋町に1930(昭和5年)に創業し、その隣でバー"ボン・ソワール"を1953年(昭和28)にオープンしました。狐狸庵先生にとっては、仲間の皆さんと一緒にお酒を飲んだり、昼食をとったり、取材の合間に珈琲を飲んで休憩したりと、馴染みのお店だったようです。先生ご自身が長崎旅行のエッセイやコラムでご紹介したお店です。

 今回は、当時の狐狸庵先生を知る「レストラン銀嶺」の橋本京子さんにインタビューしました。

狐狸庵先生と出会った日

 「遠藤先生とは、初代社長夫婦からお付き合いさせていただいておりました。

 私が遠藤先生と最初にお会いしたのは、たぶん昭和40年頃だったと思います。小説『沈黙』が劇団雲によって「黄金の国」として舞台化され、公演で長崎にいらした時だったと思います。俳優の山崎努さんたちとご一緒にいらっしゃいました。若い人はご存知ないでしょうけど、銀嶺は昔こういうお店で、民家を改築した趣のある洋風な造りで、隣では小さなバー"ボン・ソワール"を営んでいたのです。先生はどちらかというとバーの方にお仲間を連れてよくいらしてましたよ。遠藤先生は優しくて本当に素敵な方でした。そうそう、ご子息の龍之介さんも、うちのお店にいらっしゃったそうですよ。」

狐狸庵先生のオーダー

 「全国に会員をもつ"周作クラブ"というファンクラブがあります。その会合が銀嶺で行われました。その方々が"遠藤先生が召し上がっていたメニュー"として当時4,200円のフルコース(現在3,000円)を注文されていましたよ。遠藤先生が昼間に訪れた時の注文は、やっぱりほとんどランチだったと思います。バー"ボン・ソワール"にいらした時は、水割りとかカクテルだったかな。ゆっくりされていましたね。」

闘病生活

 「先生が亡くなられた後、先生の闘病生活について書かれた奥様の記事を読んでびっくりしました。私は先生が病気でいらしたことを知りませんでした。もちろん、元気な時だったからこそお店に顔を出してくださったのでしょうし。びっくりしました。闘病生活中でも、作品に注ぐ遠藤先生の努力はすごいと思います。奥様の描かれたエッセイに「自分にはさらけ出してもよかったのに。」と書いてある箇所があるんですが、きっと、奥様にも気を使って、楽しく、いやな顔などもお見せにならなかったのかなと思いながら拝読しておりました。

 奥様も素晴らしい方ですよ。あんな風に年を重ねられたらいいなと思うほど。常連のお客さんも全国からいらっしゃる遠藤周作のファンのみなさんも「理想とする女性」とおっしゃっていました。

 銀嶺が新しいビルになった時のことでした。活水女子大学の学園祭「螢雪会」での講演が終わって、遠藤先生がお見えになったことがあるんですよ。もちろんボン・ソワールは夜からの営業ですので「今は誰もおりません。」と店のスタッフが言いますと、遠藤先生は「鍵を開けて見せてくれ。」とおっしゃったそうで、3階にあるバーや庭を見られて「安心したって僕が言っていたと、必ずママに伝えて。」と言ってそのまま帰られたと、後日聞いたんです。「安心したよ」というその言葉が最後だったんですよ。一市民の私たちにお声をかけてくださる優しい方です。私は、最後にお会いできなかったのが非常に心残りなんです。」

遠藤周作が描く長崎

 「遠藤周作と狐狸庵先生としての文筆ではまったく違う面白さがありますよね。当時、長崎新聞に『女の一生』を連載されていました。この作品には、長崎での取材に約10年を費やしたと聞いたことがあるんです。普通だと、たとえば博多を題材にした小説を、博多育ちの私が読んでも博多弁がおかしいという場面があったりするものなんですけれど。でも、遠藤先生の描かれた『女の一生』の方言は、まったくおかしいところがなかったですよ。本当にびっくりしました。だから長崎に来られた時に方言の指導した人がいらっしゃるのかなと思うほど。昨年亡くなられた作家 故・吉村昭先生なんかも長崎に百回以上いらして、私も長い付き合いですけど、そのことを聞かれていましたものね。そのくらい遠藤先生の小説は、見事な長崎の言葉でしたよ。すごいなぁと思ったんですよ。完璧でした。」

狐狸庵先生との会話やエピソード

 「そりゃもういろんなことをいっぱいお話ししましたけど、内容まではお話できませんよ(笑) 。料亭のおかみさんがお座敷の話しを他言しないのと私たちも同じです。ただ私が嬉しかった出来事があります。劇団樹座(きざ)を遠藤先生が主宰していらしたのをご存知ですか?キャッチフレーズが「やる人天国、観る人地獄」といわれるほどユニークで、例えば「風とともに去りぬ」でいったらレットバトラーが10人くらい登場するという変わった設定で、一言セリフを言ったら次の人が言うっていうシーンなど、面白い舞台をやっていらした劇団です。劇団樹座の旗揚げから幕を閉じるまでの20年間脚本を書かれていた山崎陽子さんが、実は、私の宝塚歌劇団の2年先輩だったんです。退団後ずっと会ってなかったんです。(当時)某食品会社の社長婦人・山崎陽子さんと、遠藤先生は劇団樹座のつながりで親しい間柄。で、たまたま宝塚の話をしていて、遠藤先生が「陽ちゃんのこと、じゃ、ママ知ってるんじゃない?」って言われて、「2年先輩だから知っています。」と言ったら、うち(の店)からパーっと直接電話をかけて陽子さんと私をお話させてくださったの。それから、陽子さんとは今でも親しくさせて頂いております。山崎陽子さん(宝塚時代は男役で旗雲朱美)は、一人芝居をされて、朗読ミュージカル『山崎陽子の世界検戮任亙神13年に文化庁芸術祭大賞を受賞するなど多方面で活躍されている方です。だから私は、山崎陽子さんとのご縁を復活させてもらったことが一番遠藤先生に感謝しています。宝塚劇団で一緒でも退団すれば上級生とは縁がなくてなかなか会えない。その縁を復活させて頂いたのが遠藤先生です。

遠藤先生と芥川比呂志さん(芥川龍之介氏のご長男) がサインをされた色紙はボン・ソワールの入口にずっと飾っておりました。」

 鍛治屋町の通りに明かりが灯る当時のレストラン"銀嶺"とバー"ボン・ソワール"。その店内では、日本を代表する作家や俳優たちなどが集い交流を深めた場所でした。橋本さんが「本当に優しい方、」と連呼していたのが印象的でした。小説では常に真剣勝負な半面、気配りを忘れずフランクな優しさを合わせ持つ遠藤周作先生の人柄が偲ばれます。

橋本 京子 kyoko Hashimoto
1936年生まれ。福岡県柳川市京町生まれの博多育ち。宝塚歌劇団(男役)を退団後、テレビ番組のキャストや、福岡RKBのラジオ番組で九州初のディスクジョッキーとして3年間活躍。銀嶺に嫁いで主にバー"ボン・ソワール"で働く。現在、「レストラン銀嶺」の代表社員。


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  • 遠藤周作
歴史事件
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      • レストラン「銀嶺」
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