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カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力(前編)

〜『長崎海軍伝習所の日々』より〜(前編)

 リッダー・ハイセン・フォン・カッテンディーケは、江戸幕府が創設した長崎海軍伝習所の第2次オランダ教師団の司令官として、1857年(安政4)に軍艦ヤーパン号(のちの咸臨丸)で来日し、伝習生に実践航海術の指導訓練をした人物です。第1次伝習生だった勝海舟や榎本武揚は、この第2次伝習で助手的役割を務めています。そのカッテンディーケが著わした回顧録『長崎海軍伝習所の日々』には、外国人の視点から幕末の長崎の風景が詳細に描かれ、興味深い記述が多く見られます。その中から長崎の印象についていくつか紹介してみましょう。

こんな美しい国で一生を終わりたい

 カッテンディーケは、初めて長崎港に入港した印象について「絵を見るような光景が展開した」と記し、「伊王島あたりから、奥へ大きく盥(たらい)形をなし」と形容しながら、「周囲は急峻(きゅうしゅん)な山々に囲まれ、麓(ふもと)から頂上まで人家や寺院や砲台が並び、樹林や段々畑に囲まれていた」と表現しています。また、「実際長崎港に入港する際、眼前に展開する景色ほど美しいものは、またとこの世界にあるまいと断言しても、あながち過褒(かほう)ではあるまい」とも続けています。船上の長旅から開放された感慨もあると思いますが、長崎港の地形と美しい当時の景観が、脳裏に浮かび上がってくるような描写です。  現在の伊王島から望む長崎港も昔と変わらぬ美しい姿をしています。長崎港行のフェリーに乗船し女神大橋をくぐると、眼前にすり鉢状に広がる長崎の地形が展開されますが、刻々と変化する光景はまるで動く絵画を鑑賞しているような、そんな気分になってしまいます。  カッテンディーケが来日した当時、すでに出島在住のオランダ人は自由に市中を散策できる許可を得ていました。来日当初、彼らは諏訪(すわ)神社や桜馬場(さくらばば)あたりまで散策に出かけていましたが、だんだん遠出をするようになっていきます。時には出島の対岸の稲佐(いなさ)にも散策に出て、狩猟を楽しみました。「こんな美しい国で一生を終わりたいと何遍思ったことか」とカッテンディーケは長崎の風景を賛美しています。やがて馬で遠出できるようになると、浦上(うらかみ)、金比羅(こんぴら)山などの郊外に足を伸ばしていますが、「これらの地に住む人々こそ、地球上最大の幸福者であるとさえ思われた」と長崎周辺の魅力を最上級の賛辞で結んでいるのです。

オランダ人とアメリカ人の一大ピクニック

 アメリカの軍艦ミネソタ号が長崎港に停泊中のある日のこと。オランダ側の主催でアメリカ人士官慰労のためのピクニックが盛大に催されたとカッテンディーケは記しています。長崎を出発し長崎街道を通り、網場(あば)まで徒歩か駕籠(かご)で行くことになりましたが、その日は天気がよかったので、日見(ひみ)峠までの険しい道のりをほとんどのアメリカ人が徒歩を選んだということです。

 実際に峠の街道跡を歩いてみますと、道幅は狭く、山道を切り開いて造られただけあって曲がりくねった険しい坂道が続きました。しかし、山林に囲まれたのどかで静かな自然や峠道に時おり広がる眺望には心癒されました。途中にあった茶屋、神社、関番所なども異国人の目にはもの珍しく映ったのではないでしょうか。

 長崎街道は歴代のオランダ商館長の使節一行が江戸参府のために通った道で、出島オランダ商館医のシーボルトも随員として日記に記録した道です。ピクニック途中の峠道の下り坂では、一行はシーボルトと同じように美しい橘(たちばな)湾や島原半島の雲仙普賢(うんぜんふげん)岳の眺望を楽しみました。午後には小船で茂木(もぎ)に渡り、にわかづくりのテーブルを囲んで愉快なひとときを過ごしたと記されています。ちなみに茂木は天然の良港で、1580年(天正8)に領主大村純忠が長崎とともにイエズス会に寄進した土地でもありました。風雲急を告げる幕末の1日、長崎の郊外を楽しそうにのんびりと歩くオランダ人と約40人のアメリカ人一行の姿を想像するだけでも、何だか不思議な気持ちになってしまいますね。こんな心弾む出来事が起こるのも国際交流の町・長崎ならではのことではないでしょうか。

[文:小川内清孝]

参考文献
  • 『長崎海軍伝習所の日々』カッテンディーケ著/水田信利訳
    (東洋文庫 発行/平凡社)
  • 『長崎街道 肥前長崎路と浜道・多良海道』(発行/図書出版のぶ工房)
  • 『旅する長崎学7 近代ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)


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