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カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力(後編)

〜『長崎海軍伝習所の日々』より〜(後編)

カッテンディーケ肖像画(長崎大学附属図書館経済学部分館蔵)

 リッダー・ハイセン・フォン・カッテンディーケは、江戸幕府が創設した長崎海軍伝習所の第2次オランダ教師団の司令官として、1857年(安政4)に軍艦ヤーパン号(のちの咸臨丸)で来日し、伝習生に実践航海術の指導訓練をした人物です。第1次伝習生だった勝海舟や榎本武揚は、この第2次伝習で助手的役割を務めています。そのカッテンディーケが著わした回顧録『長崎海軍伝習所の日々』には、外国人の視点から幕末の長崎の風景が詳細に描かれ、興味深い記述が多く見られます。

オランダ人エル某の墓碑に供えられた花

 リッダー・ハイセン・フォン・カッテンディーケが著わした回顧録『長崎海軍伝習所の日々』には、長崎の自然や風景のほかに、特徴的な風俗や行事についても紹介されています。

稲佐悟真寺のオランダ人墓地

 ある日、カッテンディーケは稲佐悟真寺にある国際墓地に出かけ、数年前に出島で亡くなったオランダ人エル某の墓碑に供えられている新鮮な花を発見しました。関係者に尋ねると、故人は遊女を身受けし家政婦として同居していたとのこと。しかし、幸福な時間は長く続かず、彼は重病にかかり、彼女の献身的な看護も実らず亡くなってしまったそうで、その彼女が年2回の彼岸の日に墓参りをして、花を供えているというのです。

 稲佐悟真寺は1598年(慶長3)創建の長崎最古の寺院で、16世紀末に来航した中国人が檀家となり中国人墓地を開設しました。その後江戸幕府の鎖国政策により、悟真寺の墓地の一画に出島に住むオランダ人のための墓地が割り当てられました。さらに1858年(安政5)、ロシア戦艦の乗組員埋葬のためにロシア人墓地が建設され、開国により欧米人のための国際墓地が開設されました。国際墓地の管理は現在、稲佐悟真寺が行っています。

稲佐悟真寺ロシア人墓地

 話を元に戻しましょう。エル某が亡くなったあとの彼女は、再び遊廓に戻りましたが、のちに僧侶の妻となります。今や仏教関係者となった彼女が、欠かさず異教徒の国際墓地に墓参りをするという事実も、長崎の特異な海外交流史のなせる宗教的寛容さかもしれません。カッテンディーケ自身も、部下の水兵を病で亡くし国際墓地に埋葬した際に、近所の寺(稲佐悟真寺と思われる)の僧侶からの「仏式の経を唱え線香をあげたい」という申し出を快く受けています。

 ところで、カッテンディーケのいうエル某とは誰でしょうか? 頭文字が「L」のオランダ人男性のことですが、興味をそそられるまま個人的に少し調べてみれば、ヒントは『時の流れを超えて-長崎国際墓地に眠る人々-』(レイン・アーンズ+ブライアン・バークガフニ著)という長崎国際墓地の調査研究書にありました。同書掲載の国際墓地に埋葬された人物一覧から該当する人物をさがしていきますと、私個人の考えですが埋葬の時期、氏名、年齢から推測して、1852年(嘉永5)10月に亡くなり稲佐悟真寺のオランダ人墓地に埋葬された、F・C・ルーカスではないかと思われました。彼はロッテルダム出身で出島の「オランダ東インド会社」に勤務していましたが、24歳という若さで亡くなっています。

稲佐悟真寺オランダ人墓地入口。入場には稲佐悟真寺の許可が必要です

 今から156年前のオランダ人男性と日本人遊女の儚(はかな)いロマンスとはどのようなものだったのでしょう。墓碑に供えられた美しい新鮮な花を見つけた日、カッテンディーケはいったいどのような想いに包まれたのか、想像をたくましくしてしまいます。

 さて、カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力の数々、いかがでしたか? みなさんも当時の面影が残る長崎の景観や魅力をぜひ確かめにいらしてくださいね。心よりお待ちしています。

[文:小川内清孝]

参考文献
  • 『長崎海軍伝習所の日々』カッテンディーケ著/
    水田信利訳(東洋文庫 発行/平凡社)
  • 『時の流れを超えて-長崎国際墓地に眠る人々-』
    レイン・アーンズ+ブライアン・バークガフニ著(発行/長崎文献社)
  • 『長崎街道 肥前長崎路と浜道・多良海道』(発行/図書出版のぶ工房)
  • 『旅する長崎学7 近代ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • 『旅する長崎学9 近代ものがたり3』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)


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