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わが国も西洋式の砲術を!

〜日本近代砲術の祖・高島秋帆〜

高島秋帆
高島秋帆(長崎歴史文化博物館蔵)

 JR新宿駅から山手線で巣鴨駅まで約13分、都営三田線に乗り換え19分で高島平駅に到着。ここは東京都板橋区高島平、団地が建ち並ぶベッドタウンです。いまから約160年前は砲術場で徳丸原とよばれていました。この場所で大規模な西洋式砲術演習を行い、天下にその名をとどろかせたのが高島秋帆(たかしま しゅうはん)です。現在の長崎市万才町で生まれ育った生粋の長崎人。高島平は高島秋帆にちなんで名づけられました。
 長崎から東京まで約1,300キロ、遠く離れたこの地に名を残した高島秋帆とはいったいどのような人物だったのでしょう?

西洋砲術との出会い

 高島家は代々町年寄を世襲する名家で秋帆はその11代目にあたります。今からちょうど200年前の1808年、フェートン号事件が起こり長崎港防衛強化の気運が高まっていくなか、出島の台場を任されたのが10代目町年寄の高島四郎兵衛(しろうべえ)、秋帆の父でした。1809年、四郎兵衛は幕府から派遣された坂本孫之進に荻野流砲術を学び師範となります。秋帆は父から皆伝を受け荻野流師範となり、1814年からは町年寄見習となって出島台場を受け持つようになります。
 荻野流をはじめとした和流砲術は軽砲に限られていました。フェートン号のような武装艦に対してはまったく役にたたず、高島親子は威力のある西洋砲術に注目するようになります。出島台場の担当にあった秋帆は、実戦経験のあるオランダ人から直接話を聞くことができる環境にありました。1823年に来日した出島商館長スチュルレルなどは陸軍大佐でナポレオン戦争にも従軍した人物です。
 町年寄には個人的に好みの品物を注文できる「脇荷貿易」という特権がありました。秋帆は父や実兄で町年寄の久松家へ養子に入っていた碩次郎らの協力を得て、それぞれの名義で砲術関係はもちろんのこと、馬術や自然科学、医学書にいたるまであらゆるジャンルの蘭書を蒐集していました。その数は当時、個人としては国内最大のものだったといわれています。また、秋帆は文献だけでなく、大砲、弾丸、銃など武器そのものも大量に輸入していました。貪欲に西洋砲術を学んだ秋帆は高島流砲術を確立していきます。

天保上書と徳丸原演習 わが国も西洋式砲術を!

徳丸原演習
徳丸原演習(長崎歴史文化博物館蔵

 1840年アヘン戦争が勃発。その内容は翌年の風説書で幕府に報告されました。イギリスの軍艦、砲術に圧倒され敗北した清と日本を重ね合わせ危機感を募らせた秋帆は、「わが国の砲術は、西洋では数百年前に廃棄したものであり、今後予想される外国からの侵略を防ぐには、こちらも外国砲術を把握していなければならない」とする『天保上書』を書き上げ、長崎奉行の田口加賀守(たぐち かがのかみ)を通じて幕府に提出します。上書は老中水野忠邦(みずの ただくに)の目にとまり、1841年5月9日、徳丸原で演習がおこなわれることになりました。幕舎が張られ、老中水野や諸大名らがこの演習を見学。遠く囲いの外からは一般の群衆の見物も許され、この中には若き日の勝海舟も姿もありました。演習参加の総員は秋帆ら100人。モルチール砲、ホウィッスル砲とつぎつぎに西洋の大砲が発射されました。演習は一発の不発弾もなく成功に終わります。幕府は秋帆の所有する大砲を買い上げ、また演習の労を賞して銀500枚を与えました。その後、高島流砲術は全国にひろまっていきます。高島親子のはじめた取り組みが日本の兵制に改革をもたらすことになったのです。
 しかし、一方で高島流に批判的な者もいました。妖怪と恐れられた鳥居耀蔵(とりい ようぞう)をはじめとする反蘭学派です。
 鳥居は儒学で有名な林家の出身で蘭学を「夷狄の邪説」(いてきのじゃせつ)と嫌っていました。また遠山の金さんとして知られる北町奉行の遠山景元と南町奉行の鳥居はライバル関係にあったことでも知られています。

徳丸原からわずか一年あまりで秋帆逮捕

 1842年、長崎奉行伊沢美作守(いざわ みまさかのかみ)は秋帆ら多くの関係者を逮捕します。罪状は「謀反の疑いあり」。これは鳥居が秋帆を陥れるために偽装した罪で、その黒幕は老中水野忠邦であったともいわれています。翌1843年、秋帆は江戸伝馬町へ護送され投獄されます。
 1845年、水野が失脚し阿部正弘(あべ まさひろ)が老中の実権を握ると、秋帆事件の再調査がおこなわれました。鳥居は不正が発覚し、奉行を解任となり丸亀藩(現香川県)お預けとなります。秋帆は、謀反の罪からは解放されたものの、他のいくつかの軽罪に問われ中追放となり岡部藩(現埼玉県)に預けられることになりました。
 じつは秋帆に言い渡された中追放は遠島から減刑されたものでした。入牢中に起こった三度の火災で逃亡せず、そのたびに牢屋敷へもどってきたことが減刑の理由でした。

嘉永上書の中身は開国すべし!

 開国をせまる外国船がたびたびわが国の近海に出没するようになると、幕府は海岸防衛のための砲台建設を迫られます。ここにきて秋帆の砲術の知識を役立てようと考えた老中阿部は、江川太郎左衛門が引き取るという形で秋帆を釈放。長崎で逮捕されてからじつに10年10カ月もの年月が過ぎていました。
 1853年、自由の身になった秋帆は人生の復活を喜び、喜平(きへい)と名を改めます。
 アメリカのペリー来航を翌年にひかえ、幕府は諸藩に意見をもとめます。そのほとんどが開国反対の攘夷論。この状況下、秋帆は「平和開国通商を」と『嘉永上書』を幕府に提出しました。幕府が出した答えは開国。この判断に『嘉永上書』の効力があったのかどうかの歴史的資料はありません。しかし多くの歴史家はなんらかの影響を及ぼしたであろうと推測しています。
 幕府は開国を決定後、本格的な西洋式の軍隊をつくることになります。秋帆は講武所砲術師範役、武具奉行格につき幕府のために働きます。
 妻子を江戸に呼びよせた秋帆の暮らしは長屋住まいという質素なもので、かつて10万石の大名にも匹敵するといわれた町年寄の身分にもどることはありませんでした。
 晩年、秋帆は孫の茂巽、妻の香、息子の浅五郎に相次いで先立たれ、1866年の正月69才で亡くなりました。

雨の日のせせらぎの音から名づけられた「雨声楼」
高島秋帆宅跡
高島秋帆宅跡

 秋帆の別宅跡が長崎市東小島町にあります。万才町にあった本宅が1838年に大火焼失後、秋帆の本拠となった場所です。徳丸原での砲術演習から逮捕されるまで急激に変化したときを秋帆はこの地で過ごしました。

雨声楼(うせいろう)
雨声楼(長崎歴史文化博物館蔵)

 別宅は庭園にたつ松の老木から齢松軒(れいしょうけん)とよばれていたといいます。客室の桜の間には一面に桜花を描き金粉が施され、二階の客間からは清水寺や愛宕山を望むことができました。雨の日には小島川のせせらぎがきこえたことから別名、雨声楼(うせいろう)ともよばれています。

砲痕石
砲痕石

 1945年、雨声楼は原爆で大破し姿を消しましたが、跡地には大砲の標的として利用され着弾の跡がみられる砲痕石が残っています。

[文:高浪利子]

参考文献
  • 石山滋夫『評伝高島秋帆』(葦書房)
  • 板橋区立郷土資料館『高島秋帆 西洋砲術家の生涯と徳丸原』
  • 長崎文献社『長崎游学3 長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う』


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