たびながコラム

ホーム   >  たびながコラム  >   近代化に向けて

出島のテーブルと通詞たちのコーヒーブレイク

出島のテーブルと通詞たちのコーヒーブレイク

《おなかがすいていますので、パンを一切れ下さるようお願いします。
いとも尊敬せる ブロムホフ様   貴下の下僕 吉雄権之助》
(片桐一男『平成蘭学事始 江戸・長崎の日蘭交流史話』より)

「銅掛改請取の図・部分」(『旅する長崎学7』より)
「銅掛改請取の図・部分」
(『旅する長崎学7』より)

「銅掛改請取の図・部分」
(『旅する長崎学7』より)
このように立派なオランダ語の書き付けで、パンを出島のカピタン(商館長)に無心したのはオランダ通詞の吉雄権之助(よしおごんのすけ)です。そのほかコーヒーに入れる砂糖やワインをねだる通詞もいました。オランダ通詞は、出島でオランダ語の通訳、貿易、外交、交渉の実務にあたり、長崎奉行の組織に属する地役人のことをいいます。
それにしても江戸時代にパンやコーヒー、ワインでひと休み?
出島の食卓には、いったいどんな料理が並んでいたのでしょう?また、それを見て、食した日本人の反応はどのようなものだったのでしょうか?

食材は海をわたって運ばれてきた

「蘭館図 漢洋長崎居留図巻・部分」(長崎歴史文化博物館蔵)
「蘭館図 漢洋長崎居留図巻・部分」
(長崎歴史文化博物館蔵)

 江戸時代、唯一西洋人が住んだ場所が長崎の出島です。幕府が政情の安定をはかるため鎖国政策を強化し、長崎市中のポルトガル人を収容するため、1636年に作った人工島です。島原の乱後、ポルトガル人は国外退去となり、出島は空き家となります。幕府の命によって、平戸からオランダ商館が移ってきたのが1641年、その後1859年の開国まで約220年間、オランダ人たちは出島で暮らすことになります。その間、660隻ほどのオランダ船が入港したといわれています。船は貿易品のほか、出島の住人たちの食糧も積んでいました。
バター、チーズ、砂糖、胡椒などさまざまな香辛料、ジャム、ピクルス、ワインビネガー、塩漬けの肉、ハム、ジン、ブランデー、ぶどう酒などが一年分運ばれてきたといいます。また、出島内には菜園があり、セロリ、パセリ、玉ねぎ、じゃがいも、トマト、サラダ菜、ほうれん草などの西洋野菜が栽培されていました。牛や山羊からミルクを搾り、豚からはハムやベーコンが作られていたそうです。これらの食材から、江戸時代でもオランダ人の口にあった料理が作られていたことがわかります。

お世話になっている日本人のために豪華なフルコース

「宴会図 川原慶賀筆蘭館絵巻」(長崎歴史文化博物館蔵)
「宴会図 川原慶賀筆蘭館絵巻」
(長崎歴史文化博物館蔵)

 日本人を交えて、出島での食卓が賑わったのは太陽暦の1月1日、オランダ正月です。出入りの地役人や商人、使用人らが礼服に身をつつみ年頭のあいさつに訪れ、正午にはカピタン主催のパーティに奉行所役人、オランダ通詞、出島乙名らが招かれて西洋料理が振る舞われました。
『長崎名勝図絵』にはオランダ正月の献立が詳しく記されています。テーブルには、各々白いナプキンとナイフ、フォーク、スプーンがセットされていました。並んだ料理はつぎの通り。

大蓋物 味噌汁 鶏肉かまぼこ 玉子、椎茸
大鉢 潮煮 鯛魚(たい) あら 比目魚(ひらめ)
鉢 牛股(もも)油揚
鉢 牛脇腹(わきばら)油揚
鉢 豚油揚
鉢 焼豚
鉢 野猪股(ししのもも)油揚
蓋物 味噌汁 牛
蓋物 味噌汁 鼈(すっぽん)木耳(きくらげ) 青ねぎ
鉢 野鴨全焼(かものまるやき)
鉢 豚の肝を研りて帯腸に詰める
鉢 牛豚すり合わせ帯腸に詰める
鉢 ボートル煮 阿蘭陀菜
鉢 ボートル煮 にんじん
鉢 ボートル煮 蕪根(かぶら)
鉢 豚臘干(らかん)
鉢 鮭臘干(らかん)
菓子 紙焼カステイラ タルタ カネールクウク 丸焼カステイラ

 新年を祝う豪華なフルコース。ボートルはバター、豚臘干はハム、鮭臘干はスモークサーモン、カーネルクウクはシナモンクッキーのことをいいます。味噌汁はスープのことを日本風に記したのでしょう。
西洋のご馳走を前にした日本人、出席した誰もがスープは飲むのですが、他の料理は少し口をつけただけ。にもかかわらず、お皿は空です。出された料理は、ひとつの皿にまとめたり紙に包んだりして、家族らへお土産に持ち帰っていたのです。オランダ人たちも、その辺りは心得ていて、その後、日本料理も用意されたといいます。丸山の遊女たちもよばれ、宴は明け方まで続きました。

江戸でもオランダ正月を祝う

 出島でのオランダ正月をまねて自宅で催した通詞が吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)です。西洋の調度品でととのえられた2階座敷はオランダ座敷とよばれ、全国から訪れる遊学者のあこがれの部屋でもありました。大槻玄沢(おおつきげんたく)も耕牛宅でオランダ正月を体験、江戸で開いた蘭学塾『芝蘭堂』で、蘭学者を招いてオランダ正月の宴を再現しました。これが江戸における西洋料理のさきがけといわれています。
洋画家・司馬江漢(しばこうかん)も耕牛宅を訪ね、山羊の肉などを食べたと記しています。また、そこで出会った小さな男の子のことも書きとめていました。「吉雄耕牛をおぢ様という4歳くらいの子どもがいて、オランダ語をよく覚えている。牛肉をクウベイスといい、馬をバールドという。さつまいもをやればレッケルレッケルといって食べている。レッケルとはおいしいという意味。」実は、この子がのちの吉雄権之助。冒頭で紹介した、カピタンにパンをねだったあのオランダ通詞です。通詞の名門である吉雄家に生まれ、シーボルトに学問ある通詞とよばれました。オランダ語、フランス語、中国語などをあやつり、西洋文化や医学に優れた人物で、オランダ語をよく理解できない日本の若い医者とシーボルトの間で通訳をし、教師となって導きました。
権之助が食べたパンは、日本人が焼いたものでした。パンを製造していた場所は樺島町。パンと葡萄酒はキリスト教布教に関係するものとして、幕府は日本人がパンを食べることを禁止していたため、納入先は出島に限られていました。それでも、年に二百両の売上があったというから驚きです。パン屋は世襲制で一軒だけが製造を認められていました。オランダ船が出港する秋は、船中での保存食のパンを焼くため、とくに忙しかったといいます。パン種は甘酒を利用してつくられていたようです。

よみがえる出島
カピタン部屋
カピタン部屋

 さて、現在の出島(国指定史跡「出島和蘭商館跡」)は、つぎつぎと建物が復元されています。西洋からの輸入品が最初に荷揚げされた象徴的な建物の水門や輸入品が収められていた蔵、オランダ船の船長や商館員の住居だった一番船船頭部屋など、19世紀初頭の出島の雰囲気を味わうことができます。

料理部屋
料理部屋

 また、平成18年に復元されたカピタン部屋は事務所や住居として使用されていた建物で、接待の場としても使われていました。その一室にはオランダ冬至とよんで祝ったクリスマスの豪華なテーブルが再現されています。オランダ正月にも登場した豚臘干(らかん)などの肉料理、ボートル煮、焼き菓子などを見ることができます。また、カピタン部屋のすぐ裏手に日本人を含む料理人が腕をふるった料理部屋も復元されています。出島の住人たちのため1日2回の食事を作っていた場所です。

「調理室 川原慶賀筆蘭館絵巻」(長崎歴史文化博物館蔵)
「調理室 川原慶賀筆蘭館絵巻」
(長崎歴史文化博物館蔵)

 島外にでることを禁止されていたオランダ人にとって食事の時間は何よりも楽しみだったことでしょう。また、空腹を覚えた通詞たちも異国の味でちょっとひと息。江戸時代、出島は、肉を焼く匂いや、スープの湯気が立ち上り、コーヒーの香りただよう島でもありました。

[文:高浪利子]

参考文献
  • 『長崎出島の食文化』(財団法人 親和銀行ふるさと振興基金)
  • 越中哲也『長崎の西洋料理 ー洋食のあけぼのー』(第一法規)
  • 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • 片桐一男『平成蘭学事始 江戸・長崎の日蘭交流史話』(智書房)
  • 杉本つとむ『江戸長崎紅毛遊学』(ひつじ書房)


アンケート

コメント