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転身し続けた異彩の人・福地桜痴(福地源一郎)

 

福地桜痴(『還魂紙料』より)
福地桜痴(『還魂紙料』より)

福沢諭吉(著述家)
福地源一郎(新聞記者)
伊藤博文(政治家)
鳩山和夫(法律家)
渋沢栄一(商法家)
中村正直(学術家)
佐藤進(医師)
北畠道竜(教法家)
守住貴魚(画家)
榎本武揚(軍師)
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 1885年(明治18)、『今日新聞』(現『東京新聞』、元『都新聞』の前身)が、その時代、各界を代表する人物の指名投票をおこないました。結果「日本十傑」として、上記の人々が選出されます。もっとも票を獲得したのが福沢諭吉。ついで福地源一郎(ふくちげんいちろう/福地桜痴・ふくちおうちとも呼ぶ)、諭吉と並んで「天下の双福」と称された人物です。
 幕末から明治、日本が大きく姿をかえた時代に異彩を放ち、新聞人、経済人、事業家、戯作者、小説家、政治家と多方面で活躍した福地桜痴は、長崎に生まれました。

新聞との出合い

福地桜痴生誕の地

 桜痴は1841年(天保12)、長崎の新石灰町(しんしっくいまち)[長崎市油屋町]で医師の父 苟庵(こうあん)、母 松子の間に初めての男子として誕生。幼名を八十吉といい、小さいころから優秀で神童と呼ばれていました。15歳のときにオランダ通詞・名村八右衛門(なむらはちえもん)のもとで蘭学を学びます。名村は出島オランダ商館長が、幕府へ世界情勢を報告する「風説書(ふうせつがき)」の口授翻訳をする際に、桜痴を筆記者にしていました。桜痴は、いつも出島にいるカピタンがどうして海外情報を知っているのか疑問に思い、名村にたずねると、「西洋には新聞という印刷物があって毎日刊行されている。それは国内外の時事を知らせるものでカピタンはそれを読んで重要な事柄を奉行所に伝えるのだ」と、古いオランダの新聞を手渡しました。桜痴が初めて手にした新聞はアムステルダムで発行されたものでした。
 1858年(安政5)、18歳の桜痴は長崎を出て江戸へ。父 苟庵の旧知で英学者の森山栄之助(もりやまえいのすけ)からイギリス学を学びます。当時、江戸で英書を読むことができたのは、森山と中浜万次郎(ジョン万次郎)の二人だけだったといわれています。その森山の世話で桜痴は幕府につかえることになりました。

ヨーロッパで思想と文化にふれる

 1861年(文久元)、桜痴にヨーロッパへ使節派遣のチャンスが訪れます。出航する船には、福沢諭吉の姿もありました。
 ロンドンで桜痴は新聞社を訪ね、記者が政府や議会に対して意見を述べているのを目の当たりにし、いずれ自分も新聞記者になって時事を痛快に論じたいと思うようになります。また、フランスでは歌劇や演劇の見物に出かけていますが、台詞や話の筋がまったくわからない桜痴ら使節の一行は居眠りに終始し、会場の嘲笑をかいます。あらかじめ話の筋を理解していれば退屈しないだろうと考えた桜痴は、英語とオランダ語のできる接待係に筋を聞き、それを使節にも伝え観劇。次第に演劇に興味を覚え、シェイクスピアなどの戯曲を学びはじめます。これが後の演劇人 福地桜痴としての下地をつくっていくことになるのです。

さまざま人との出会い
家臣の小佐々市右衛門と愛犬のお墓

 江戸城引き渡しがあった1868年(明治元)4月、桜痴は『江湖新聞(こうこしんぶん)』を発行。「政権はただ幕府から薩長(薩摩藩と長州藩)に移動したにすぎない。これで維新の目的は果たされたといえるのか」と述べ、新政府側の怒りを買います。新聞は発禁処分となり、桜痴は逮捕。幸い木戸孝允(きどたかよし)がとり成したため、無罪放免となりましたが、これは明治時代初めての言論弾圧といわれています。この年、桜痴は幕府を辞して翻訳や執筆などで生計をたてるようになり、翌年には日新舍という英語、フランス語を主とした洋学校を開校。当時、福沢諭吉の慶応義塾、中村敬宇の同人社とならんで東京の三大学塾と称されました。日新舍の学生には、のちに東洋のルソーと呼ばれ自由民権思想と運動に大きな影響を与えた中江兆民もいました。桜痴は中江を教頭にして日新舍を任せ、吉原通いに耽るようになり、そのうち中江も遊興し、日新舍はめちゃくちゃになっていきます。桜痴という号は、吉原でひいきにしていた妓女の櫻路(さくらじ)にちなんでつけたというほど。桜痴の吉原好きは有名で、さと夫人との結婚当夜も吉原に出かけ帰らなかったというエピソードもあります。
 また、吉原では、渋沢栄一(しぶさわえいいち)との出会いもありました。1870年(明治3)、渋沢の紹介で、伊藤博文と会った桜痴は意気投合。大蔵省御雇となり、伊藤にしたがって渡米、銀行や会社、国家会計、金融などの調査をしました。ちなみに、society=社会、bank=銀行の翻訳語をはじめて使用したのは桜痴といわれています。
 帰国後、大蔵省一等書記官となり、今度は岩倉具視にしたがってアメリカとヨーロッパへ渡ります。

記者としての面目躍如
福地桜痴(国立国会図書館蔵)
福地桜痴(国立国会図書館蔵)

 そのころ国内では、征韓論で政府が分裂、その後、渋沢栄一が大蔵省を去り、桜痴も政治家としての道をあきらめ大蔵省一等書記官を辞職、主筆として『東京日日新聞』にはいります。桜痴が34歳のときでした。
 当時、日本の新聞記者の社会的立場は低く、大蔵省の役人から新聞記者への転職に、周りは反対。桜痴は「おれが新聞記者になったからには、それだけのことはしてみせる」と啖呵をきったといいます。
 そのころ政府には官報がなく、桜痴は『東京日日新聞』を政府の機関紙にと願っていたようで、大蔵省時代の人脈で、伊藤博文や大隈重信に直接意見を聞き記事にし、その一方、自らの筆で社説を書き、それを新聞の目玉にしていました。社説を設けるという事は新聞がひとつの主張をもって世に訴えるという、新聞近代化の第一歩でもありました。『東京日日新聞』は好評で発行部数は上昇。1876年(明治9)、桜痴は『東京日日新聞』の社長に就任します。他方、演劇への興味が強くなり研究をはじめた時期でもありました。
 1877年(明治10)、西南の役がはじまり、桜痴は戦地で取材し新聞に掲載します。連日の現地報道に『東京日日新聞』の売り上げはさらに急上昇。桜痴は京都御所で明治天皇に戦況を言上することになります。2時間にもおよぶ報告を行い、金五十円と縮緬二反を下賜し、慰労の酒肴を頂戴しました。酒の飲めない桜痴でしたが、このときばかりは、酒を飲み、のちに「酒を口にしたのは、後にも先にもそのときだけだった」とよく語ったといいます。

桜痴、動く!働く!書く!
幕府衰亡論

 十郎が死去したのを機に歌舞伎座の作者をやめ、こんどは活動の場を政治にもとめます。日露戦争が開戦した1904年(明治37)、桜痴は64歳で衆議院議員に当選。しかし、まもなく病の床につき、1906年(明治39)1月4日、66歳で亡くなりました。
 明治時代、官と民の間をいったりきたりしながら、西洋の文化を巧みに取り込み、政治、経済、文化、メディアなど多方面で近代化に影響を与えたのが福地桜痴でした。
 さて、エジソンの発明から間もない蓄音機に、はじめて肉声を吹き込んだ日本人が『東京日日新聞』社長時代の桜痴です。第一声は「こんな時代になると、新聞は困るぞ」。
いま、桜痴が生きていたらネット情報社会にある新聞をどのように表現するのでしょうか?

[文:高浪利子]

参考文献
  • 『明治の異才 福地桜痴〜忘れられた大記者』小山文雄(中公新書)
  • 『ヴィネット00 櫻痴、メディア勃興の記録者』片塩二朗(朗文社)
  • 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(長崎文献社)


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