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賞金よりも石を選んだ明治の異人 西道人

賞金よりも石を選んだ明治の偉人 西道仙

西道仙
西道仙(長崎歴史文化博物館蔵)

 「僭越ではございますが、ご指名でございますので、万歳三唱の音頭を取らせていただきます。ご唱和をお願いいたします。皆様の末永いお幸せとご健勝とご発展を祈念いたしまして、万歳!万歳!万歳!」
家族や仲間とともに万歳三唱をとなえ新しい門出を祝う。この万歳三唱を全国に普及させたといわれている人物が、西道仙(にしどうせん)です。今回の歴史発見コラムは、眼鏡橋の名づけ親で、長崎新聞界の草分け的存在、さらには長崎医師会の創設者と、明治維新後の長崎で多彩な活躍をした西道仙を紹介します。

生まれは天草、先祖の地長崎へ

長崎大神宮

 肥後天草、1836年、道仙は長崎の御用医師の家系に生まれました。17歳で豊後三賢の一人、帆足万里(ほあし ばんり)に学び、1863年、眼鏡橋近く長崎酒屋町(長崎大神宮のあたり)で医者を開業します。その傍ら私塾を開き、子どもたちに読み書きを教えて生計を支えていました。それから約10年後、桶屋町の光永寺に私学校「瓊林学館(けいりんがっかん)」を創設。漢学者の谷口中秋(たにぐち ちゅうしゅう)を館長に、イギリス人デントを英語教授に迎えます。漢学と英語の両方を学べる学校は評判となり、生徒は300人を数えたといいます。
また、同じころ、道仙は本木昌造(もとき しょうぞう)の「長崎新聞(※現在の長崎新聞の前身ではない)」創刊に参画。1875年には演説討論の笑談会を結成して、同業者の団結、道路の改良、公園の開設、汽船汽車の開通、国会の開設などを論じるようになります。
翌年、長崎新聞は、「西海新聞」と名をかえ、道仙は主筆となってペンを振るいました。民権思想を強めた道仙は『国会急進論』を新聞に7日間連載、このことが新聞条例にふれたとして、自宅に1ヶ月幽囚となります。禁固が解けた後、間違って一日超過していたことを聞かされた道仙は「禁固中は読書三昧に過ごせて大変ありがたかった。その上一日加えられたのだから、こちらが感謝しなければならない」と答え、謝罪にきた者を唖然とさせました。
1877年、道仙は九州初の日刊新聞「長崎自由新聞」を発刊し、社長に就任します。西郷隆盛贔屓の道仙、新聞の目玉は西南の役のニュースでした。西郷が自刃し、西南の役が終わると、「長崎自由新聞」はその役割を終えたかのように廃刊となります。1889年、当時長崎で唯一の日刊新聞だった保守系の「鎮西日報」に対抗して、「長崎新報」が創刊されます。これが現在の「長崎新聞」の前身で、道仙は株主として名をつらねています。

八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍

 また、道仙は政治家としても活躍しました。1878年、初めての公選で長崎区戸長に当選した道仙は、自治制の基礎づくりという目的を果たしたと一日出勤して辞任。「一日戸長」と呼ばれました。その後、町会議員、長崎区連合町会議長、長崎区衛生幹事長、長崎区会議長などを歴任します。
明治の中頃、長崎ではコレラなどの伝染病が大流行。1885年には市内で600名余がコレラで死亡しています。漢方医だった道仙は、伝染病予防には西洋医学が必要と考え、漢方医師団と西洋医師団をまとめることを発案。道仙は副会長となり長崎医会を創立します。
1889年、衛生上の問題と老朽化した設備、また外国人居留地からの新しい施設の要望もあり、中島川上流本河内を水源とする水道施設を設置することになりました。
しかし、これまで井戸水などを利用していた市民から、水道料金や税金などを懸念して反対運動が起こり、大きな社会問題となります。市会議員に当選した道仙は『長崎水道論』を著し、水道の必要性を説きます。ある夜、反対派数百人が道仙の自宅を取り囲むという事件が起きました。声高に主張する人々の言葉をしずかに聞いていた道仙は、突然「水道がなぜ必要か理解できない者はこれを読め!」と『長崎水道論』数百冊を庭にまき散らしたといいます。結局、水道騒動は、当時の知事や市長、松田源五郎、道仙らによって解決し、現在、彼らは長崎水道の功労者として顕彰されています。
ちなみに、1886年、コレラなど防疫対策のひとつとして下水溝に石を張る改修工事がおこなわれました。工事後、地下に浸透する水が減り、井戸の水がでにくくなったといいます。それまでいかに不衛生な環境だったかがわかります。麹屋町公園付近のシシトキ川最上流部や、公会堂裏の地獄川など三角溝の底に張られた石は結晶片石です。長崎では「温石(おんじゃく)」と呼ばれ、冬の寒いときに石をあたためて布団の中にいれていたといいます。

道仙と石の関係
琴の形をした石
眼鏡橋

 さて、「石」は道仙にも深い関わりがあります。初代長崎県知事澤宣嘉(さわ のぶよし)の懐刀として、活躍した道仙はその功労に賞金を与えられますが、辞退し、代わりに鳴滝の山中にある琴の形をした石を賜ります。その後、道仙は、賜琴石斎西道仙(しきんせきさいにしどうせん)と名乗るようになりました。
江戸時代の石橋がかかる中島川、なかでも眼鏡橋は最初にかけられた石橋で国指定重要文化財としても有名です。1881年以前まで、眼鏡橋は「めがね橋」、「酒屋町橋」などと呼ばれ、中島川にかかる他の橋にも一定した名前はありませんでした。当時、長崎区常置委員だった道仙が常置委員会の委嘱をうけて市内の多くの橋を命名。たとえば、「眼鏡橋」や「一覧橋」、「桃渓橋」などは道仙が名前を統一し、「高麗橋」や「袋橋」は町名などにちなみ命名しています。

門柱

 晩年、道仙は多くの金石文をつくりました。そのひとつに玉園町の聖福寺向かい元料亭迎陽亭(こうようてい)の門柱があります。大きく“唐船維纜石(とうせんいらんせき) 西道仙書”の文字。維纜石は、かつて長崎に入港した唐船をけい留していた歴史的なものです。ほかにもシーボルト宅跡の碑など、道仙は歴史史跡の保全に尽力しています。また、「長崎文庫」を創設して、散逸する古文書を収集し発刊。のちに長崎文庫の蔵書は県立長崎図書館が創立する際に寄贈されました。
郷土史誌の刊行などにも貢献した道仙は、1913年、78歳で亡くなります。
さて、道仙が初めて万歳をとなえたのは1872年、長照寺での会合の場。その後、新聞を創刊するときにも社員に万歳の唱え方を教えて唱和させたといいます。長崎市の万才(まんざい)町は、明治天皇の長崎行幸を記念して、島原町が萬歳町に改称されたのがはじまりです。これも道仙の提案だったといわれています。
万歳と長崎の深い関係。この事実を付け加えた“長崎版”万歳三唱の音頭はいかがでしょうか?
「はなはだ僭越ではございますが、ご指名を頂戴しましたので、万歳三唱の音頭をとらせて頂きます。ここ長崎の地から万歳三唱は全国に普及しました。明治に長崎で活躍した西道仙先生がその創始者です。医者、教育者、新聞人、政治家、歴史家として長崎に貢献した先生を顕彰し、また、これからの皆様の末永いお幸せと、ご多幸とご繁栄をお祈りいたしまして、万歳三唱で締めさせていただきたいと存じます。ご唱和をお願いいたします、万歳!万歳!万歳!」

[文:高浪利子]

参考文献
  • 『西道仙〜明治維新後の長崎を駆け抜けた快男子』長島俊一著(長崎文献社)
  • 『長崎石物語』布袋厚著(長崎文献社)
  • 『中島川遠眼鏡』宮田安著(長崎文献社)


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